伊藤悠子「空の味」(「左庭」23、2012年09月07日発行)
伊藤悠子「空の味」の魅力を語るのはむずかしい。いちばんいいとろろだけを取り出して「ここが好き」と言っても、「どうして?」という反応が返ってくるだけかもしれない。全行引用する(しかない)。
3連目に「静かな」が繰り返される。6回繰り返される。そこが、私は好きだ。繰り返されるたびに、少しずつ変わっていく。変わっていくのだけれど、かわらない。そういう矛盾した繰り返しである。「深まる」という言い方がある。「静かな」が繰り返しているうちに「深まっていく」。そうなのかもしれない。しかし、そうではないのだと思う。最初に思った「静かな」を、他の「静かな」はけっして超えることができない。最初に思い浮かんだ「静かな」を何度も思い出し「静かな」を繰り返している。ほかに言いようがない。ほんとうはほかに言うべきことばがあるかもしれないけれど、つねに最初に思い浮かんだ「静かな」に引き戻されてしまう。そして「静かな」を繰り返してしまう。つねに同じものを見ているのである。感じているのである。
この繰り返しがそなふうに思えるのは、まあ、深読みといわれそうだが、それなりの理由がある。繰り返しが「自然」に思える、それしかないと思えるのには、実は理由がある。
「あの」「あの」が「その」「その」に変わる。「あの」は遠いところを指す。近くにあるときは「この」になる。「その」は遠くもないし、近くもない。けれど「あの」「あの」に比べると「その」は近づいた感じがする。
「その」は「関心」があるのだ。関心があるから「あの」が「その」に変わったのだ。
この変化はとても微妙である。「あの」のままでも「意味」というか、実体に変わりはない。同じサクラ、同じサクランボを指している。でも、関心が違う。では、どう違うのか--それは、ことばにならない。
それと同じ違いというか、おなじものが「静かな」のなかにある。
いや、それ以上のものがある。「あの」が「その」に変わり、さらに「この」に変わっている。伊藤の「肉体」のなかで。そして、ここに「この」が書かれていないのは、それが伊藤にとってあまりにも密着しすぎていて、つまり「肉体」になってしまっていてことばにならないからだ。
「あの」おばさんは「あの」おばさんではなく、「その」おばさんでもない。「この」おばさんなのだ。
で、私の現代詩講座なら、ここで受講生に次のような意地悪な質問をする。
まあ、私はすでに「答え」というか、私の考えを書いてしまっているのだが、「この」おばさんは、伊藤の「肉体」のなかにいる。そのために「この」という形でさえ指し示すことができない。伊藤と一体になっている。
あの世に行ってしまっていないはずの「あの」おばさん、「その」おばさんは、伊藤の「肉体」のなかに帰って来て、呼びかける。「あら、ユウコチャン、遊んでいく?」。それは伊藤の「肉体」のなかから聞こえてくる声である。その声は「静かな」声である。つまり、伊藤以外には聞こえない声である。「ええ」という伊藤の返事も「静かな」声である。「この」おばさんにしか聞こえない。
だれにも聞こえない「静かな」やりとりというものが、この世にはあるのだ。「この世の」肉体にはあるのだ。
そうした「あの」「その」「この」の変化に似たものが、サクランボの「空の味」に通じるかもしれない。パヴェーゼの「あの」なにか、「その」なのか、が「この」なにかにかわるとき、パヴェーゼの肉体のなかで「この」なにかが「空の味」になるのかもしれない。伊藤は、伊藤の「あの」「その」「この」をふと見つけ出し、パヴェーゼとそんなふうに重なり、また「おばさん」とも、サクランボとも重なる。「空の味」とも重なる。その重なりのなかに「静かな」が静かに「ある」。
伊藤悠子「空の味」の魅力を語るのはむずかしい。いちばんいいとろろだけを取り出して「ここが好き」と言っても、「どうして?」という反応が返ってくるだけかもしれない。全行引用する(しかない)。
サクランボが好きなパヴェーゼは
はしりのサクランボは空の味がすると言っていたそうだ
なんど食べてもそんな気はしないが
幼い日のあの夕べ見たサクラの木に生る実なら
そういう味がするかもしれない
石段の一番上の段に腰かけて
切り通しをはさんだ向こうの丘の一本のサクラの木をみつめていた
あの暗い夕べ
近所の大人たちは子供たちがいつまでも外にいることに関心がなかった
関心は猫いらずを飲んで自ら亡くなったひとにあったから
そのサクラは花が散って葉影が濃くなる頃赤い実をつけた
その実を食べたことはなかった
近所の静かなおばさんだった
静かなおばさんのうちに行き
静かなおばさんと静かな坊やと気が強いが静かな子供だった私は
静かなひとときをよく過ごした
おばさんは死んでしまった
石段の一番上の段に腰かけて
向こうのサクラの暗がりにみつめていた
あれが私にとっての初めての死
あら、ユウコチャン、遊んでいく?
ええ
夕闇に紛れていく赤い実は空の味がする
なすすべもなく
3連目に「静かな」が繰り返される。6回繰り返される。そこが、私は好きだ。繰り返されるたびに、少しずつ変わっていく。変わっていくのだけれど、かわらない。そういう矛盾した繰り返しである。「深まる」という言い方がある。「静かな」が繰り返しているうちに「深まっていく」。そうなのかもしれない。しかし、そうではないのだと思う。最初に思った「静かな」を、他の「静かな」はけっして超えることができない。最初に思い浮かんだ「静かな」を何度も思い出し「静かな」を繰り返している。ほかに言いようがない。ほんとうはほかに言うべきことばがあるかもしれないけれど、つねに最初に思い浮かんだ「静かな」に引き戻されてしまう。そして「静かな」を繰り返してしまう。つねに同じものを見ているのである。感じているのである。
この繰り返しがそなふうに思えるのは、まあ、深読みといわれそうだが、それなりの理由がある。繰り返しが「自然」に思える、それしかないと思えるのには、実は理由がある。
幼い日のあの夕べ
あの暗い夕べ
そのサクラは
その実を
「あの」「あの」が「その」「その」に変わる。「あの」は遠いところを指す。近くにあるときは「この」になる。「その」は遠くもないし、近くもない。けれど「あの」「あの」に比べると「その」は近づいた感じがする。
「その」は「関心」があるのだ。関心があるから「あの」が「その」に変わったのだ。
この変化はとても微妙である。「あの」のままでも「意味」というか、実体に変わりはない。同じサクラ、同じサクランボを指している。でも、関心が違う。では、どう違うのか--それは、ことばにならない。
それと同じ違いというか、おなじものが「静かな」のなかにある。
いや、それ以上のものがある。「あの」が「その」に変わり、さらに「この」に変わっている。伊藤の「肉体」のなかで。そして、ここに「この」が書かれていないのは、それが伊藤にとってあまりにも密着しすぎていて、つまり「肉体」になってしまっていてことばにならないからだ。
「あの」おばさんは「あの」おばさんではなく、「その」おばさんでもない。「この」おばさんなのだ。
で、私の現代詩講座なら、ここで受講生に次のような意地悪な質問をする。
質問 「あの」おばさんは、猫いらずを飲んで自殺した。この世ではなく、あの世にいるね。「その」おばさんのことを伊藤は思い出している。では「この」おばさんともう言うことができるなら、「この」おばさんは、では、どこにいるんだろう。
まあ、私はすでに「答え」というか、私の考えを書いてしまっているのだが、「この」おばさんは、伊藤の「肉体」のなかにいる。そのために「この」という形でさえ指し示すことができない。伊藤と一体になっている。
あの世に行ってしまっていないはずの「あの」おばさん、「その」おばさんは、伊藤の「肉体」のなかに帰って来て、呼びかける。「あら、ユウコチャン、遊んでいく?」。それは伊藤の「肉体」のなかから聞こえてくる声である。その声は「静かな」声である。つまり、伊藤以外には聞こえない声である。「ええ」という伊藤の返事も「静かな」声である。「この」おばさんにしか聞こえない。
だれにも聞こえない「静かな」やりとりというものが、この世にはあるのだ。「この世の」肉体にはあるのだ。
そうした「あの」「その」「この」の変化に似たものが、サクランボの「空の味」に通じるかもしれない。パヴェーゼの「あの」なにか、「その」なのか、が「この」なにかにかわるとき、パヴェーゼの肉体のなかで「この」なにかが「空の味」になるのかもしれない。伊藤は、伊藤の「あの」「その」「この」をふと見つけ出し、パヴェーゼとそんなふうに重なり、また「おばさん」とも、サクランボとも重なる。「空の味」とも重なる。その重なりのなかに「静かな」が静かに「ある」。
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