詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

内田けんじ監督「鍵泥棒のメソッド」(★★★+★)

2012-09-16 10:10:24 | 映画
監督 内田けんじ 出演 堺雅人、香川照之、広末涼子

 私は広末涼子という役者が嫌いだ。変に透明ぶっている感じがする。この映画では、しかし、その透明「ぶっている」ところがとてもうまく生きていた。内田けんじはほんとうはどう思っているのかわからないが、こんな馬鹿な女はやってられない、とつきはなして描いている。広末涼子がその女を、この女は馬鹿なのではなくかわいいんだと信じ込んで演じているというか、信じ込もうとしている。あ、「ぶっている」というのは信じ込むということなんだねえ。そして末広涼子は信じ込もうとしているを通り越して、信じてしまっている、というようなところがある。まあ、いいけれど。内田けんじが「信じなさい」と言って演技させているのかもしれない。
 この対極にあるのが香川照之の演技だねえ。香川の演技のおもしろいところは、映画のなかで堺雅人に演技をつける部分に「自分が感じるかどうかはどうでもいいんだ。相手にどう見えるが問題だ」というおもしろいせりふがあるが、まさに、それ。本人がいくら感じようが、見ている人がそう感じなければ意味がない。歌舞伎の伝統がこんなところにふいに出てくるんだね、なんて思ってしまったなあ。
 堺雅人はちょうど中間。地を見せるふりをしながら、どう見えるかも考えているというようなところがある。堺雅人自身の「過去」を「いま」へ噴出させながら、物語のなかへ入っていく。
 ちょっと香川照之と広末涼子の演技を言いなおすと、香川照之は香川自身の「過去」を「いま」へとは噴出させない。「過去」を全部その場でつくりだしてしまう。ストーリーが求めるままに、人物の「過去」をつくりだしてしまう。その気になって「過去」を捏造し、それが見えるように演じる。香川を見ると、あ、こういうひとを見たことがあるとふいに思うことがあるでしょ? 捏造された「過去」が他人の「過去」と重なっているというか、他人の「いま」として噴出してくるのを見た記憶と重なる部分がある。ノートに丁寧に文字を書く、そのときのこだわりのような部分なんかに、それをちらりと覗かせる。文字の「はらい」の部分をていねいに書くところなんかね。その瞬間、不透明な香川照之が、ふっと透明になり、他人になってしまう。
 広末涼子は「私には過去がある、かわいいと言われつづけ、そしてそれをいまここにそのままもってきている。だから、これでいいでしょ?」という感じ。物語のなかへ入っていくというより、つねに「過去」へ引き返す演技である。簡単に言うと「学芸会」だね。「いま(ストーリー)」へは力なく入っていく。だから、今回のように、「まきこまれ型」の役だと、なかなかおもしろい味が出る。「わたし、間違えていないでしょ?(学芸会の主役の演技に関する主張)」。はい、間違えていません。でもねえ、人間の暮らしというか、人間が生きていくことって間違えることでしょ、と私なんかはいいたくなって広末涼子に腹が立つんだけれどね。(←この映画以外のことですよ。)
 で、堺雅人にもどると。堺雅人の役は「まきこまれ型」なのに「まきこみ型」の方にいってしまったために、あっちへいったり、こっちへきたり。そこに「過去」(堺雅人の人格と思われているもの、気弱そうな目、ついついやさしくなってしまう目)を噴出させながら、物語をつくっていくという動きが加わる。でも、これってばれるよね。そして、実際、映画でもそういうストーリーになる。
 また香川照之に話を戻すと。香川照之は、ほんとうは「まきこみ型」。だからまきこまれてしまっても、そこから自分を「まきこみ型」へもっていく。自分を自分でしっかり支配し、次に何をすべきかという方向を打ち立てる。香川自身の「過去」を封印し、求められている「過去」を捏造する。ノートに「自分」はどういう人間か書き込みながら把握しなおそうとする過程が描かれるが、笑ってしまう。実際に香川照之が演技をする前に、そういうことをやっているんじゃないかと思ってしまう。くそまじめを隠して、つまりいったん吸収したものを捨て去って、どう見えるかへと視点を動かすことができる。そして、そのどう見えるかという視点から自分を動かして見せる。
 この映画は、どうやらキャスティングがきまった時点で成功している。3人の人格がうまく交差している。脚本はあとからできたのじゃないのか、と思うくらいである。



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