秋亜綺羅『透明海岸から鳥の島まで』(思潮社、2012年08月31日発行)
秋亜綺羅『透明海岸から鳥の島まで』を読みながら、デカルト『方法叙説』を思い出した。「我思う、ゆえに我あり」というアレである。デカルトの「ゆえに」はたしか「donc」ということばだったと思う。これは、なんというか、私には「変なことば」である。よくわからないことばなのである。突然、ことばが飛躍した感じがする。
で、よくわからない、と言いながら、わかる部分というか、「説得」させられるものもあって、(特に『方法叙説』のその部分、4章だったかな?を読むと、そうなのか、と思わないわけでもないのだが……)、とても手こずる。はっきり「わからない」と言ってしまえない。「わからない」と言ってしまうと、あとが簡単というが、私のなかでは「矛盾」がなくなるのだけれど。まあ、これは、長い話になるので少しずつ。(この「日記」には、その少しずつをずいぶん書いてきたつもりだけれど。)
何が問題か、何が困るかというと。
「我思う、ゆえに我あり」と言ってしまったとき、その「我」から「肉体」がすっぽり欠落してしまう。「我思う、ゆえに我の思いがある」なら、あ、デカルトはようするに「思い」というものの存在だけで「我」というものを規定しているのだと納得できるのだが、どうもそういう具合に考えているのではないようなのだ。--あ、これは素人考えですから、ほんとうは違うのかもしれないけれどね。
「我思う、ゆえに我あり」には、何かことばが省略されているものがあって、その省略を飛び越していくときの「ゆえに」に私は一種の「うさんくささ」というか、心底納得できないものを感じている。
で、この感覚を、秋亜綺羅の詩に(ことばに)結びつけることは、まあ、強引なんだろうなあ。けれど、なんとなく、うっすらと、そういう感じがするのである。なんというか、秋亜綺羅のことばには省略されたものがある。そして、その省略を丁寧に問い詰めていくと、かなりめんどうくさいことになる、という感じがある。
秋亜綺羅の詩そのものではないのだが。
表紙の絵。裏表紙の絵。そこには共通点がある。
表紙の絵にはワイングラスが描かれている。そのワインの量をあらわす線と、背景の水平線のラインが一致している。ワイングラスの中に海がそのまま入っている。裏表紙の場合はワイングラスの変わりに金魚鉢がある。そして、その水の位置と向こうの水平線の位置が重なる。金魚鉢の中に海が入っている。--これは逆にみれば、海の中にワイングラスがあり、また海の中に金魚鉢があるということになる。まあ、それは「現実」ではなく、精神の錯覚なのであるが。あるいは視覚を中心にして世界を見つめたときの錯覚なのだが。
「ワイングラスに水平線がある、ゆえにワイングラスは海である」
「金魚鉢の中に水平線がある、ゆえに金魚鉢と海はどういつのものである」
ほら、このときの「ゆえに」とそれがつくりだす世界というのは、デカルトに重なるでしょ?
「津波」という詩。
この数連の、どこに「ゆえに」をおぎなえばいいのかよくわからないが、ことば全体の動きの奥に「ゆえに」がずーっと動いている。
「金魚は遠くなる意識のなかで知るのだった」という1行が象徴的だ。「遠くなる意識」ということばが、たぶん「ゆえに」と深く深く結びついている。すべては「現実」なのだが、その「現実」は「意識」として把握されなおし、動いている。
引用の最終連を、そう書き直してみると、秋亜綺羅の世界がよくわかる。「意識」ということばを省略しても、秋亜綺羅の描いている世界はつたわる。つたわるけれど、秋亜綺羅はそういう具合には書かない。「意識のなかで」「知る」「……ということ」を、と書く。この「意識」(思うということ)の強い特権的な動きが秋亜綺羅のことばを支えている。
「ゆえに」というのは意識の特権がつくりだす「接続詞」である。「意識」がなければ結びつかないものが、意識によって「強引に」結びつけられている。その強引さ、しかし、なんとなく「わかったような感じ」の強引さが秋亜綺羅のことばの特徴である。この「わかったような感じ」の奥には、意識と強い関係がある「論理的」ということばの動きがあるのだと思う。
この「ほんものの花」と「造花」、「ほんものの造花」と「にせものの花」のあいだには、「ゆえに」が隠されている。とても微妙に隠されているので、それをひっぱりだすのはとても面倒くさい。
ほんものの花がある、その花がほんものであるというということは、それがにせものの造花(造花ではない)ということである。ほんものの花は、ゆえににせものの造花である。
ほんものの造花がある、その造花がほんもののであるということは、それはほんもののはなのにせものであるということである。ゆえにほんもののの造花はにせものの花だ。
で、このとき。
「ほんものの花はにせものの造花だし」の「し」が、またまた、めんどうだね。
「そして」という意味になるだろうけれど、この「し」によって前の行を裏側から見て、裏側から見ても同じ論理が成り立つ、「ゆえに」ここに書いてあること、このことばの運動は「正しい」と秋亜綺羅はいう。
で、(またしても「で」なのだが)
このことばの運動の「正しさ」、つまり「意味が成り立つ」というのは、「意識のなか」のできごとだよね。
それが私には「我思う、ゆえに我あり」なんだなあ。
でも、こういう運動を秋亜綺羅は「詩」と定義している。
で、さらにつけくわえると。
ということである。
で、私がさらに「つけくわえたもの」というのはデカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ったことを、秋亜綺羅は「私は思わない、ゆえに私は存在せず、かわりに詩が存在する」という「逆説(?)」のような形で書くのが大好きということ。
で、「逆説」というのは、これもまた「精神(意識)の中」のできごとだね。それを「意識の中」と言った瞬間、また「我思う、ゆえに我あり」に引き戻される。どこまでいっても秋亜綺羅はデカルトである。詩は秋亜綺羅にとって「私の方法(方法叙説)」ということになるんだね。
秋亜綺羅『透明海岸から鳥の島まで』を読みながら、デカルト『方法叙説』を思い出した。「我思う、ゆえに我あり」というアレである。デカルトの「ゆえに」はたしか「donc」ということばだったと思う。これは、なんというか、私には「変なことば」である。よくわからないことばなのである。突然、ことばが飛躍した感じがする。
で、よくわからない、と言いながら、わかる部分というか、「説得」させられるものもあって、(特に『方法叙説』のその部分、4章だったかな?を読むと、そうなのか、と思わないわけでもないのだが……)、とても手こずる。はっきり「わからない」と言ってしまえない。「わからない」と言ってしまうと、あとが簡単というが、私のなかでは「矛盾」がなくなるのだけれど。まあ、これは、長い話になるので少しずつ。(この「日記」には、その少しずつをずいぶん書いてきたつもりだけれど。)
何が問題か、何が困るかというと。
「我思う、ゆえに我あり」と言ってしまったとき、その「我」から「肉体」がすっぽり欠落してしまう。「我思う、ゆえに我の思いがある」なら、あ、デカルトはようするに「思い」というものの存在だけで「我」というものを規定しているのだと納得できるのだが、どうもそういう具合に考えているのではないようなのだ。--あ、これは素人考えですから、ほんとうは違うのかもしれないけれどね。
「我思う、ゆえに我あり」には、何かことばが省略されているものがあって、その省略を飛び越していくときの「ゆえに」に私は一種の「うさんくささ」というか、心底納得できないものを感じている。
で、この感覚を、秋亜綺羅の詩に(ことばに)結びつけることは、まあ、強引なんだろうなあ。けれど、なんとなく、うっすらと、そういう感じがするのである。なんというか、秋亜綺羅のことばには省略されたものがある。そして、その省略を丁寧に問い詰めていくと、かなりめんどうくさいことになる、という感じがある。
秋亜綺羅の詩そのものではないのだが。
表紙の絵。裏表紙の絵。そこには共通点がある。
表紙の絵にはワイングラスが描かれている。そのワインの量をあらわす線と、背景の水平線のラインが一致している。ワイングラスの中に海がそのまま入っている。裏表紙の場合はワイングラスの変わりに金魚鉢がある。そして、その水の位置と向こうの水平線の位置が重なる。金魚鉢の中に海が入っている。--これは逆にみれば、海の中にワイングラスがあり、また海の中に金魚鉢があるということになる。まあ、それは「現実」ではなく、精神の錯覚なのであるが。あるいは視覚を中心にして世界を見つめたときの錯覚なのだが。
「ワイングラスに水平線がある、ゆえにワイングラスは海である」
「金魚鉢の中に水平線がある、ゆえに金魚鉢と海はどういつのものである」
ほら、このときの「ゆえに」とそれがつくりだす世界というのは、デカルトに重なるでしょ?
「津波」という詩。
三月十一日、午後三時十一分
そのとき、わたしの家の金魚鉢には
海が近づいていた
金魚鉢には水平線が飛び込んできた
そこには、水溶性の海岸があった
そのとき
赤い金魚をいっしょに買った
恋人は
金魚とも
わたしとも
いっしょにいなかった
そのとき
水平線は赤いデニムをひき裂き
一匹の金魚を犯した
部屋の私論壁には
海の影が動いていた
そのとき、一匹の赤い
わたしの金魚は
海水魚になることを拒んだ
金魚は遠くなる意識のなかで知るのだった
血の色は海の色だったことを
この数連の、どこに「ゆえに」をおぎなえばいいのかよくわからないが、ことば全体の動きの奥に「ゆえに」がずーっと動いている。
「金魚は遠くなる意識のなかで知るのだった」という1行が象徴的だ。「遠くなる意識」ということばが、たぶん「ゆえに」と深く深く結びついている。すべては「現実」なのだが、その「現実」は「意識」として把握されなおし、動いている。
金魚は知るのだった
血の色は海の色だった
引用の最終連を、そう書き直してみると、秋亜綺羅の世界がよくわかる。「意識」ということばを省略しても、秋亜綺羅の描いている世界はつたわる。つたわるけれど、秋亜綺羅はそういう具合には書かない。「意識のなかで」「知る」「……ということ」を、と書く。この「意識」(思うということ)の強い特権的な動きが秋亜綺羅のことばを支えている。
「ゆえに」というのは意識の特権がつくりだす「接続詞」である。「意識」がなければ結びつかないものが、意識によって「強引に」結びつけられている。その強引さ、しかし、なんとなく「わかったような感じ」の強引さが秋亜綺羅のことばの特徴である。この「わかったような感じ」の奥には、意識と強い関係がある「論理的」ということばの動きがあるのだと思う。
ほんものの花はにせものの造花だし
ほんものの造花はにせものの花だ
(「馬鹿につける薬」)
この「ほんものの花」と「造花」、「ほんものの造花」と「にせものの花」のあいだには、「ゆえに」が隠されている。とても微妙に隠されているので、それをひっぱりだすのはとても面倒くさい。
ほんものの花がある、その花がほんものであるというということは、それがにせものの造花(造花ではない)ということである。ほんものの花は、ゆえににせものの造花である。
ほんものの造花がある、その造花がほんもののであるということは、それはほんもののはなのにせものであるということである。ゆえにほんもののの造花はにせものの花だ。
で、このとき。
「ほんものの花はにせものの造花だし」の「し」が、またまた、めんどうだね。
「そして」という意味になるだろうけれど、この「し」によって前の行を裏側から見て、裏側から見ても同じ論理が成り立つ、「ゆえに」ここに書いてあること、このことばの運動は「正しい」と秋亜綺羅はいう。
で、(またしても「で」なのだが)
このことばの運動の「正しさ」、つまり「意味が成り立つ」というのは、「意識のなか」のできごとだよね。
それが私には「我思う、ゆえに我あり」なんだなあ。
でも、こういう運動を秋亜綺羅は「詩」と定義している。
で、さらにつけくわえると。
意味のない暗号なんて、もう暗号の意味はない
考古学では、こういったものは、詩と呼ぶしかない
(「山本山さんはむかしママゴトをした」)
それは意味のない暗号である、ゆえにその暗号に意味はない
ゆえに、
こういうものは、ことばの意味論(哲学)においては、詩と呼ぶしかない
ということである。
で、私がさらに「つけくわえたもの」というのはデカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ったことを、秋亜綺羅は「私は思わない、ゆえに私は存在せず、かわりに詩が存在する」という「逆説(?)」のような形で書くのが大好きということ。
で、「逆説」というのは、これもまた「精神(意識)の中」のできごとだね。それを「意識の中」と言った瞬間、また「我思う、ゆえに我あり」に引き戻される。どこまでいっても秋亜綺羅はデカルトである。詩は秋亜綺羅にとって「私の方法(方法叙説)」ということになるんだね。
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秋 亜綺羅,恋藤 葵,谷内 修三,野木 京子,高取 英,藤川 みちる | |
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