詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中本道代『中本道代詩集』(3)

2012-09-24 10:01:05 | 詩集
中本道代『中本道代詩集』(3)(現代詩文庫197 )(思潮社、2012年08月31日発行)

 詩人は変化する。これは詩人でなくても人間は、ということになるのだろうけれど。つまり画家は変化する、音楽家は変化する、でも通用するものであり、そのことは問題にしなくてもいいのかもしれない。でも、私は問題にしたい。
 私はピカソが大好きだが、ピカソは作風をめまぐるしく変えた。けれど、これは私には「変化」には感じられない。描きたい(つくりたい)という欲望と、できあがってしまったものではないものへ動いていくエネルギーが変わらないからである。
 詩人の「変化」、ときどき私にはわからないものがある。どうしてこんなふうになるのかなあ、と考えたとき、つっかかってしまうものがある。
 中本もそのひとりである。私は中本の「三月」のような作品が好きである。どこかに「いのち」というものがあり、その「いのち」が中本を通って、いま、ここにあらわれているという感じがする。ことばはまだやわらかくて、現代詩の「詩的言語」として流通しているものからは遠い。遠いけれど、その分、まだ汚れていない「いのち」とつながる豊かさがある。
 それがだんだん「流通言語」化していく。
 「祝祭」(『四月の第一日曜日』)の書き出し。

這う虫も飛ぶ虫も
ひとときの祝祭のなかにある

 たとえばこの「祝祭」。これは、どういう意味だろう。ギリシャ神話(?)でいう「バッコス」に通じるものだね。「アポロン」ではなく、「バッコス」。ロゴス的ゲシュタルトではなく、パトス的カオス。そういうものを書こうとしている、そういうものを中本は「読んだ」のだとわかる。そして、そこからことばをひっぱってきたということはわかる。「現代」の「流通言語」を勉強し、自分のなかに取り入れている。
 それはそれでいいのだろうけれど、やっぱり、私はいやなんだなあ。こういうのは。「いのち」に背いている、という感じがする。
 中本にもそういう気持ちがあるのかもしれない。2連目で「祝祭」を言いなおしている。

長すぎる昼に
身をふるわせて徐々に皮を脱いでゆく青虫
それは激しいよろこびのようにも
苦痛の極まる動作のようにも見える

 「激しいよろこび」と「苦痛の極まる動作」が「同じ」ものとしてあらわれている。ね、パトス的カオスでしょ? 「祝祭」なんて「流通言語」をつかわずに、こからはじめればよかったのにね。

昼のいちばん深いところで
たえきれなくなり
ふいに自分を手放してしまう人がいる

 この3連目の3行は、そのまま「青虫」だね。そうか、脱皮(で、よかったかな? 変態というべきなのかな?)は、いのちの極みで自分を手放すことか、エクスタシーしか、と納得できる。「祝祭」ということばに頼らなくても。
 ことばは学ばなければ新しくならないけれど、学んだあとそれをどう捨てるか、捨ててしまって何が残るか、ということが大事なのだと思う。学ぶというのは、きっと何かを積み重ねることではなくて、新しい何かで自分の「深み」をさらにえぐること、穴をあけること、「いのち」の源流に近づくこと。学んだことで「穴」をふさいだら何にもならない。
 嫌いなものをあれこれ言っても仕方がないので、好きな詩をあげておく。
 「鯉」(『花と死王』)。

都市の汚れた小さな川に
鯉が太り
夕暮れを映してひとすじに
曲がってさらに都市の中心へと
流れていく

小さな川も空を映せば
底なしになり
鯉はおびただしく
川を泳いでいるのか空を泳いでいるのか
わからない眼を見開いている

汚れた川と
汚れた家々

空が
幾十億度めかの夕暮れを
初めてのように染め上げると

深く巨きな虚無の闇が
どうしても また
宇宙の胎(はら)から拡がってくる

 鯉は「川を泳いでいるのか空を泳いでいるのか/わからない眼を見開いている」というようなことは絶対にありえない。鯉は空を泳いでいるとは思うはずがない。そう思うのは、鯉を見ている「私(中本)」であり、そう書くとき「私」は「私」ではなく、「鯉」なのだ。この詩には「私=主語」が省略されているが、その省略がとても効果的である。
 主語が入れ代わる(混同する)のは「私」と「鯉」だけではない。「川」と「空」も入れ代わるというか、区別がつかなくなる。そこには「もの(存在)」の区別はなく、「場」だけがあり、その「場」のなかで、「いのち」がその瞬間瞬間に「かたち」になってあらわれる。
 こういう運動は宇宙が始まってからのものなのである。「幾十億度」と繰り返されてきたことなのである。ただし、それは「幾十億度め」のことであっても、いつでも「一度め」のこと、つまり「初めて」のことである。
 いいなあ、この3行。
 私たちは「初めて(一度め)」をどうやって体験するだろうか。初めての恋。初めてのキス。初めてのセックス。繰り返しがきかない「一度め」。でも、何度でも「一度め」を目指して繰り返してしまう。求めているのは、何度繰り返しても「はじめて」なのだ。
 最終連の「虚無の闇」はつまらないことばだけれど、その次の

どうしても また

 これが、また、いいなあ。

<質問>「どうしても また」を自分のことばで言いなおしてみてください。
    説明してみてください。

 できないでしょ? 自分のことばで言いなおせない、ということは、心底わかった、とは言えないことになる。けれど、そんなことを言うと「なぜ? 私はわかっている。ただことばにならないだけなのに……」と不満がこみあげるでしょ? ことばにできなくても「わかる」ということはある。ことばにできないのは、私の質問が「一度め」だから。「初めて」だから。同じような「質問」を中本の詩を読みながら繰り返していくと、「どうしても また」の「どうしても」がだんだん「肉体」のなかにたまってくる。「どうしても」ほかのことばにならない。けれど「どうしても」を「どうしても」わかりたい。
 ことばが、ことばになろうとして動きはじめる。





春分―中本道代詩集
中本道代
思潮社
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