詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

樫田祐一郎「告ぐ」

2012-09-25 10:36:32 | 詩(雑誌・同人誌)
樫田祐一郎「告ぐ」(「DIONYSOS」35、2012年08月30日発行)

 樫田祐一郎の文体はていねいである。ことばを叩ききって、その断面の力で訴えるということをしない。むしろ断面を隠す、と言った方がいい。そして、その隠すを「説明する」あるいは「補足する」という動詞に言いなおすとき、樫田の「ていねい」の意味が見えてくる。
 「告ぐ」の書き出し。

受動態は優しさをいつわるから気をつけなさい。

 「受動態は優しさをいつわる」と言い切った場合、そこに思想の断面があらわれる。「いつわる」だけでは、その指し示しているものがはっきりとはわからない。はっきりとはわからないけれど、それはことばを激しく動揺させる。まるで、暗闇のなかでふいに鏡を突きつけられて、「ほら、これがおまえの顔だ」と言われたような感じだ。たしかにそうだとわかる。けれどこのわかるは「頭」で整理できるわかるではない。ほかのことばに言い換えることができるものではない。ことばにならないが、たしたにそれを「肉体」が覚えている--その覚えているを刺激する「わかる」なのである。
 だから(?)、ふつう、詩は「受動態は優しさをいつわる」で終わる。けれど、樫田はそのあとに「から気をつけなさい」とつけくわえる。
 「いつわり(いつわる)」に気をつけなければならないのは現実世界の常識である。「おれおれ詐欺が横行している」と言えば、それは「だから気をつけなさい」を含んでいる。ほんとうは言う必要がない。気をつけなさいまで言わないとわからないような人は、きっと「気をつけなさい」と言ったところでだまされる。これが現実というものである。
 そうしてみると、「気をつけなさい」は誰に対することばになるのだろうか。
 相手ではない。自分自身に向けて言っているのだ。樫田のことばは自分自身に向かっている。そこに「ていねいさ」がある。他人に向けて言うことばはていねいである必要はない。他人なのだから、そのことばをどんなふうに理解するかはその人の勝手であり、そういう勝手な人間には途中でことばを叩ききって、あとは知らないと言う方が簡単でいい。あとは自分で考えなさい。あんたの責任だよ、という具合である。
 でも自分に対しては、そういう具合にはいかないねえ。ことばは常に反復し、肉体にしみこませないといけない。「受動態は優しさをいつわる」のなら、どうすべきか。気をつけないといけない。こういうとき、「受動態は優しさをいつわる。気をつけなさい」という言い方がある。「から」を省略する言い方である。現実は、それでいい。その方がいいか。短く言えるからね。その方が強く響くからね。でも、樫田は「受動態は優しさをいつわるから気をつけなさい」と言う。ここに、さらにもう一つの樫田のていねいさが見える。「論理的」である。
 この「論理的」というのは、しかし、変なものである。「から」があろうがなかろうが、そこには「論理」というものはある。「受動態は優しさをいつわる。気をつけなさい」という文章が、一文ではなく、ふたつの文章から成り立っている。そこに「論理」はない。あるのは「飛躍」だ、という人があれば、それはその人の「肉体」がどうかしている。「論理」というものは、わざわざ「論理的ことば(理由を説明する述語)」を通り抜けないと論理にならないと思う人がいるなら、それはもう「頭」でことばをつかみとることしかできない人である。
 だんだん書いていることがめんどうくさくなってきたのではしょってしまうが、ようするに、樫田はほんとうは必要もないのに、特に自分に言い聞かせるなら絶対に必要がないのに「から」という理由づけの述語を経由しながら、ことばを動かす。自分を説得させるのに「論理的」であろうとする。ここに、なんともいえないていねいさがある。
 このていねいさを、樫田は、あらゆることばのと関係に求める。ことばの関係とは、現実の「もの」と「もの」、「こと」と「こと」の関係である。

この声はわたしにだけ届く「のだから」

この目が視るすべてのものはいつか描いたきり忘れてしまった吹きさらしの自画像 「なのだから」

形の死後に残るのは声ではなく切り落としたわたしの指に似てどこまでも形である 「だから」 わたしは諦めなさい

 「……だから」を補わないと、樫田はことばを動かすことができない。それに気がつくと、この詩はまた違ったものも見えている。

受動態は優しさをいつわるから気をつけなさい 繃帯を巻いたままのわたしの手が自画像を描く 湿った暗室のなかで 殖えてゆく横顔に二人称で呼び掛けることへの欲望を 下腹部に宛てがうナイフの背で滅ぼしながら絶えず わたしたちの交信を対話と錯誤する危うさを知りなさい 口に含んだつめたい鉱水がおりてゆく昏い喉から骨をつたって この声はわたしにだけ届くのだから そして この目が視るすべてのものはいつか描いたきり忘れてしまった吹きさらしの自画像 なのだから あるいはそれらは表面をことごとく引き剥がし わたしがきみと呼べるものを捜しあばくとしても あらわになった黒土のうえ最後に見出すものは霜におかされ青褪めた稲穂でしかない 窓の隙から燈をふるわせ わたしの背骨をなぞるわずかな風がつくる盲斑の痕のような背後のひと その輪郭のほころびから 呼ぶ声 この部屋へと降りそそぐ遠い声を 疑いなさい

 ここには「から」がいくつも絡まっているが、この絡まりあいに、さらに「から(だから)」を追加することができる。

受動態は優しさをいつわるから気をつけなさい 繃帯を巻いたままのわたしの手が自画像を描く「から」 湿った暗室のなかで 殖えてゆく横顔に二人称で呼び掛けることへの欲望を 下腹部に宛てがうナイフの背で滅ぼしながら絶えず わたしたちの交信を対話と錯誤する危うさを知りなさい 口に含んだつめたい鉱水がおりてゆく昏い喉から骨をつたって この声はわたしにだけ届くのだから そして この目が視るすべてのものはいつか描いたきり忘れてしまった吹きさらしの自画像 なのだから あるいはそれらは表面をことごとく引き剥がし わたしがきみと呼べるものを捜しあばくとしても あらわになった黒土のうえ最後に見出すものは霜におかされ青褪めた稲穂でしかない 「だから」 窓の隙から燈をふるわせ わたしの背骨をなぞるわずかな風がつくる盲斑の痕のような背後のひと その輪郭のほころびから 呼ぶ声 この部屋へと降りそそぐ遠い声を 疑いなさい

 そして、こうやって「から(だから)」を補ってみると、樫田のことばの運動は「理由の述語」というよりも、世界を合わせ鏡のように向き合わせる装置のように見えてくる。「自画像を描く」ことと「暗室のなかで」「横顔」が「殖えていく」こととは無関係であるはずなのだが、樫田はそこに「理由」にならない理由をおしつける形でことばを動かす。そしてそれが理由にならないがゆえに、つまり樫田の肉体の中だけで納得できる理由であるから、ここでは「から(だから)」が省略されている。
 「稲穂でしかない」と「窓の隙」のあいだの「だから」も同じである。そこにあるのは「理由」ではない。
 では、それは何なのか。樫田が詩人であるがゆえに見てしまう断絶したイメージなのである。断絶した「いのち」なのである。そして、このとき「から(だから)」は実は省略されているのではなく、「湿った暗室のなかで……」という文章、あるいは「窓の隙から……」という文章そのものが「から(だから)」なのである。

繃帯を巻いたままのわたしの手が自画像を描く「から」 湿った暗室のなかで 殖えてゆく横顔に二人称で呼び掛けることへの欲望を 下腹部に宛てがうナイフの背で滅ぼしながら絶えず わたしたちの交信を対話と錯誤する危うさを知りなさい

 これは、

繃帯を巻いたままのわたしの手が自画像を描く「から」 わたしたちの交信を対話と錯誤する危うさを知りなさい

 と言うことなのだ。自画像を描くとき、わたしはわたしを見る。この目の形、鼻の形は違うんじゃないか。(自画像が、絵ではなく、自分の「行動」であるときはまた別の形になるが、そこまで書いていると複雑になりすぎるので--ほんとうは「行動」のことを書いているのだけれど、絵として「省略形」で書いておく。)そういうやりとり(交信)を自分自身との「対話」と錯誤する。それは、危ういことである。
 「自画像を描くこと」は「自己対話(自省?)」と「錯誤すること」「危ういこと」である。
 「こと」が重なり合う。
 樫田は世界を、たぶん、こんな具合に「こと」の重なり合い、重なりながらひとつの運動を形成しているものと見ていることになる。「こと」のなかには、何かしらの「理由づけの述語」がある、と感じ、それをまさぐっている、と言えばいいのかもしれない。
 これはこれ以上書くとまた面倒くさいことになるので、あとは省略。

 あ、最後の方に、

わたしの手に繃帯を巻いたのは誰か どんな傷が 布の向こうで膿みはじめているのか

という魅力的なことばがあったこ。つけくわえておく。


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谷内 修三
思潮社
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