詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『難解な自転車』(3)

2012-09-28 10:52:22 | 詩集
野村喜和夫『難解な自転車』(3)(書肆山田、2012年08月30日発行)

 詩は変なものである。あるいは、わけのわからないものである。と、書いて、その「変」とか「わけのわからない」というときの私自身を振り返ればどういうことになるのか。私はそれを想像していなかった、ということに落ち着く気がする。想像していなかったことが書かれているとき、いろいろな反応が起きる。びっくりして笑いだしたりする。で、そのびっくりと笑いだしたことをさらにじっくりと見つめてみると、想像はしていなかったのに、そこに何かしらわかることも含まれていることに気がつく。「変」「わからない」は「わかる」と隣り合わせである。ただし、その隣り合わせが「流通言語」とは違うのだ。
 「カタストロフ変幻」という作品。

子音を脱ぎ、
母音を脱ぎ、

くり返し、
廃墟はあらわれる、
記憶の森から、年代記の谷から、
くり返し、サブリミナルの閃光のように、

潟、巣、戸、露、府、
片、洲、吐、路、腑、

 いろいろ「変」だけれど、そういうこと(どういうこと?)を抜きにして、私はこの詩のリズムが好きだ。1連目の「対句」スタイルが気持ちがいい。2連目の、だんだん長くなっていく行の、長くなり方が、とても読みやすい。リズムがいいのだ。まあ、これは、たまたま野村がここに書いているリズムと私のことばのリズムがあうというだけのことかもしれない。
 この詩に、意味はあるのかなあ。
 無理に探し出せば(ほんとうは、思いつくまま書いているので、ぜんぜん無理はしていないのだが)、「カタストロフ」というのは、何か組み合わさったものから何かが脱落した瞬間に起きるのかな、そういう具合に野村がとらえているのかな、ということが1連目から感じられる。
 ことばは子音+母音の形で発音される。声になる。そこから「子音」や「母音」が脱落すると、ことばにならない。しかし、それを無理に想像すると(ほんとうは無理しているわけではなく、これも思いつくままに書いているのだけれど)、そこには「破壊」がある。破壊がありながら、こわれる前の何かが残る。あえて言えば(ほんとうはあえてではなく、これも思いつくままなのだけれど)「骨組み」みたいなものが。
 そうすると、それは「廃墟」のように思える。2連目の「廃墟」。たとえば、ことばをパルテノン神殿のようなものだと想像してみる。子音、母音がその建物のどの部分にあたるのかわからないけれど、いまはエンタシスの柱と屋根が少しだけ残っている。建物全体をつなぎとめていたものがなくなっている。その廃墟の感じと、「子音を脱ぎ、/母音を脱ぎ、」ということばの感じが似ているなあ、通い合うなあ、と思う。
 「わからない」といいながら、私は、何かを「誤読」して、わかってしまっている。
 「廃墟」「記憶」「年代記」--これは、連想ゲームだね。自然につながっていく。それが「くり返し」閃く。カタストロフの瞬間は、そういうものだ、と野村は考えているのかな?
 で、これはきのうのつづきだが、こういうふうに「考え」はじめると、実は詩はおもしろくない。「意味」がどうしても生まれてしまう。そして「意味」を書きはじめると、それがどんなに「誤読」だとしても、「意味」に引きずられてしまう。「意味」をつかみとることが「読む」ということだと考えてしまいがちになる。
 こういう瞬間、野村は、本能的に「意味」を破壊する。

潟、巣、戸、露、府、
片、洲、吐、路、腑、

 これ、何? 「カタストロフ」である。潟(カタ)、巣(ス)、戸(ト)、露(ロ)、府(フ)、
 なんだかばかばかしいねえ。そして、どうして「カタカナ」がこんな漢字になるのか、わけがわからない。変だ。
 さらに「潟(カタ)」「片(カタ)」だけ2音節なのも変だねえ。
 変なのだけれど、そうか「廃墟」には完全にばらばらな部分とひとところ形を想像させるものがあるところがあるから、そういうことをここではあらわしているのかな、とふと考えたりする。(←考えてはいけないんだけれどね。)
 で、考えてはいけない、というようなことにこだわってもしかたがないので、考えたことは考えたこと、でも、それは考えたのではなく瞬間的に感じたこと、なんて自分に言い聞かせながら先へ進むと、

子音ヲ脱ギ、
亜、阿、巣、於、尾、府、

 これって、とっても「変」。「潟、巣、戸、露、府、」は5文字、「亜、阿、巣、於、尾、府、」は6文字。「カタストロフ」は6文字だったから、子音を脱いだ方の表記の方が「カタストロフ」に近いのか。
 「カタストロフ」を「カタカナ英語」ではなく、「catastrophe 」と英語そのものとして聞き取っているのかな? アクセントは「タ」にあり最初の「カ」は弱音だから、それを聞いたときの肉体の記憶が「潟」「片」という文字に反映してしまったのかな? いや、英語だと「カタストロフィ」だなあ。フランス語の「catastrophe 」かもしれないなあ。フランス語だと、最後は「フィ」じゃなくて「フ」だから(たぶん)。フランス語のアクセントはアクセントはどこにあったっけ。聞く機会がないので、判断のしようがないが、前の方かなあ。英語と同じかな? たぶん野村は「タ」を強くするか、高くするか、そういうことを肉体的にしているのだと思う。(勝手な想像。)
 でね。それはそれでいいんだけれど、次に「巣」と「府」。これは、日本語でいうと子音を脱ぐと(取り外すと)、「ウ」になる。けれど、野村は「巣」「府」という形で子音があるように書いている。「変」でしょう?
 でも、変じゃない、と私のなかで私の肉体が異議を叫ぶ。「巣」「府」の「母音」はとても弱い。それは子音だけででてきている。だから「子音+母音」という形の「カ・タ」とは違って子音だけを脱ぐことはできない。だから「巣」「府」という形で表現するしかない。
 そうか。
 そうなのか?
 「カタストロフ」を日本語として発音するのか、英語として発音するのか、フランス語として発音するのか(フランス語はほとんど発音したことがないので、テキトーに書いてしまうが)、もし英語、フランス語の「子音+母音」という形でことばを聞き取るのだとしたら、変なところがない? カタ「スト」ロフ(ィ)の「スト」には母音はないんじゃない? 日本語だと6音節だけれど、英語だと4音節、フランス語だと3音節にならない?
 ことばの、音のとらえ方が、ごちゃごちゃになっている。
 野村とは10年以上前に一度だけ話す機会があったけれど、時間が短かったので、発音にどんな特徴があるか(癖があるか)わからなかった。英語、フランス語で話したわけではないので、英語、フランス語が野村のなかでどんな音になっているのか、それはもちろんわからない。わからないのだけれど、この音の感覚は、実に変。
 ネイティブのひとが日本語の表記を覚えたとして、野村が書いているような音の分解の仕方をするとは思えない。

 あ、私の書いていることがだんだんずれて行っている?
 そうですねえ。そのとおりですねえ。
 でも、このだんだんずれていく、ということがきょうの「日記」のテーマなのかもしれない。(私は最初から何が書きたいという「結論」があって書くのではなく、書いていて、そのうちに見つかったものを押し進めるだけなのです。)
 なぜ、書いていることがだんだんずれていくかというと、読んでいるうちにだんだん私自身がほんとうにわかってること(肉体がつかみとっていること)が野村のことばときちんと向き合うようになるからだ。野村の肉体と向き合うようになるからだ。
 あ、そこ、違う。そこは感じない。えっ、こんなところが感じるの? 信じられない--というセックスの感じだね。

 詩はさらに進んで、

母音ヲ脱ギ、
…、…、巣、…、…、府、

 「K」だけをあらわす文字がない。「T」だけをあらわす文字がない。「R」だけをあらわす文字がない。けれど「ス」だけなら「巣」、「フ」だけなら「府」。
 ほら、私が子音のところで書いてきたことが、ここで「証明」されているでしょ?
 でも、「スト」の問題は、残ったままだね。
 変だなあ、変なの、と私の考えは考えることをやめてしまう。

 まあ、いいんだけれどね。(何がいいか、わからないけれど。)
 で。
 この詩は、さっき引用した「子音」「母音」を脱ぐという連をはさみながら、別の連を持っている。
 その部分だけを引用してみる。

くり返し、
廃墟はあらわれる、
なぜ、という問いをも超え、
くり返し、私たちを貫き、私たちを置き去りにして、
そう、未来のどこかで、
また私たちを待っているのだ、
とてつもなく大きな斑猫の影のように、

ならば私たちも、
軽くなろう、貧しくなろう、
水母みたいに、ただの明るい発光体となろう、
そうしてある日、
つぎの廃墟があらわれ、
しかしその廃墟は、私たちを貫き、
私たちを置き去りにしたことに気づかない、

なぜなら、
光が光を、
通過しただけだ、

 「カタストロフ」を野村は「光が光を/通過」することだと「定義」しているようだね。そのとき、その強烈な光によって、まわりにある存在(それを目撃した野村)は、一瞬、自分のなかから子音、あるいは母音が奪い去られた感じになる。強奪された感じになる。そのときの肉体の印象(自分の印象)が「廃墟」の姿に似て感じられる、ということなのかなあ。
 よくわからないけれど、私の肉体が覚えていることは、そういうことを感じる。
 野村がここに書いている「カタストロフ」ということばの子音と母音の関係は、とっても変だけれど、それが変であるだけに、野村の「肉体」のなかにある「廃墟」が奇妙に日本語に訛っている、という感じがして、それが最後の「光が光を/通過」するという絶対的な美しさを逆にささえているようにも感じる。肉体に「訛り」がないと、肉体まで光になってしまいそうだ。



難解な自転車
野村喜和夫
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