監督 アスガー・ファルハディ 出演 ヘディエ・テヘラニ、タラネー・アリデュスティ、ハミド・ファロクネシャード
映画の最初の方にとても幻想的なシーンがある。主役の少女がバスに乗る。バスの窓を開け、手を半分出して風にあてる。その手が窓ガラスに映り、蝶のように見える。窓には街の風景が映っている。少女の様子はわからない。ただ手だけが風を楽しむ蝶のように動く。やがてつかれて窓の枠をつかむ。このときも手は窓に映って対称形のままである。やがてバスはトンネルに入っていく。このときもやはり鏡に映った手のように映像は対称形である。
この映像がおもしろいのはただそれが対称形であり、蝶のように見えるからだけではない。ずーっと見ていると、窓から飛び出した手、つまり現実の手と窓に映った手のどちらが現実かわからなくなる。窓の内部にほんものの手があり、それが外部に映っている、という具合に見えてくる。外部の何に映るのか、というとそれはわからないのだが、つまりことばにすることはできないのだが、あえて言えば、少女ではなく観客、つまり私に映っているという感じなのだ。
あ、きっとこれでは何のことかわからないね。
言いなおそう。窓のなかには姿は見えないけれど少女がいる。その少女は街を眺めながら手を風に遊ばせている。これから働く街。そこにはどんな仕事があるのだろう。どんな人がいるのだろう。わからない「不安」が少女をとらえている。それは期待でもあるだろうけれど。その少女が実際に感じていることは「見えない」。けれど、それが見えるような気がする。想像してしまう。「想像された少女」というのは、ほんものの少女ではなく、私のなかに映し出された少女である。ちょうどガラス窓に映っている手のように。
窓からさしだされた手、風にふれる手がほんものの手なのに、そしてその手にも表情があるのに、私は窓に映った手の方に激しくこころをひかれるのだ。その窓に映った手こそ少女なのだ、ほんものの少女なのだと思ってしまう。そしてこのとき「ほんもの」というのはより少女に「近い」、少女の「内面」でにふれているという意味である。街と手を映す光のせいで座席にいる少女は見えないにもかかわらず、私は少女を見ている気持ちになる。
これはほんとうに不思議だ。なぜといって、その手は少女のものではないかもしれないからだ。私がかってに少女の手と思っているだけで、ほんとうはまったく別な客の手かもしれない。そうではない、という保証はどこにもない。窓からチャド(というのだっけ?)が一部はみ出し風に揺れるが、それだけでは少女とは断定できない。
どうして冒頭の一分くらいの映像にこんなにこだわるかというと。
この映像、この幻想的な美しさのなかに、この映画の全てが凝縮しているからである。少女は「家政婦」として派遣された家で、夫の浮気を疑う女に会う。夫が浮気をしているというのは女の妄想なのか。それとも夫はほんとうに浮気をしているか。「真実」はあるのだが、それは隠されている。少女は、ちょうど窓からつきだされた手を見ているような具合である。その手の向こう側、バスの内側には「ほんとうのこと」があるのだが、それは見えない。見えないのに、つきだされた手そのものが見えて、それを「ほんとう」と思ってしまう。
そして、ここからがさらに幻想の国イランだなあ、と思わせることになるのだが、人はそれぞれ「ほんとう」をかかえているのに、自分のかかえこんでいるほんとうよりも、少女が映し出している「現実」をほんとうと思ってしまう。それを「ほんとう」にしようとして動き回る。少女の「ほんとう」にすがって動きはじめる。
鏡像、虚像、いわば虚構にあわせて自分の生活をととのえはじめる。少女は夫婦が朝の四時にドバイ行きの飛行機に乗ることを知っているが、それを知った経緯について嘘をつく。その嘘にすがって、男と女が一瞬「和解」する--そのスリリングな緊張。それに少女自身もおびえるような感じになる。
これはおもしろいなあ。
あ、補足。
鏡というか、鏡像というか--それが哲学的に利用されているのだが、少女が家政婦として働く家を最初に訪問するとき、窓ガラスが破れている家を見る。破れたガラス窓を見る。これはとても象徴的だ。その窓は鏡ではないが、鏡の役割をしている。それを破ったのは浮気を疑われている男なのである。夜、外は暗く内部に光があるとき、ガラスは鏡のように部屋の内部にいる人を映し出す。男は、そこに映し出された自分の姿を破ったのである。映らないようにしたのである。
これは一種の「ネタバレ」というものなのかもしれないが、最初の10分、映画を集中してみれば、この映画で起きることは全て暗示されていることがわかる。そういうていねいさが、いたるところに張り巡らされ、すべてをしっかりと安定させている。
それにしてもイランの女性はきれいだねえ。目が美しい。そして唇が美しい。夫の浮気を疑う女の妹を演じたレイラ・ハタミ(あっている?)は「別離」で主役を演じた女優だけれど、この人の目と唇はほんとうにいいなあ。会いたいなあ。
(2012年09月22日、t-joy 博多、スクリーン2)
映画の最初の方にとても幻想的なシーンがある。主役の少女がバスに乗る。バスの窓を開け、手を半分出して風にあてる。その手が窓ガラスに映り、蝶のように見える。窓には街の風景が映っている。少女の様子はわからない。ただ手だけが風を楽しむ蝶のように動く。やがてつかれて窓の枠をつかむ。このときも手は窓に映って対称形のままである。やがてバスはトンネルに入っていく。このときもやはり鏡に映った手のように映像は対称形である。
この映像がおもしろいのはただそれが対称形であり、蝶のように見えるからだけではない。ずーっと見ていると、窓から飛び出した手、つまり現実の手と窓に映った手のどちらが現実かわからなくなる。窓の内部にほんものの手があり、それが外部に映っている、という具合に見えてくる。外部の何に映るのか、というとそれはわからないのだが、つまりことばにすることはできないのだが、あえて言えば、少女ではなく観客、つまり私に映っているという感じなのだ。
あ、きっとこれでは何のことかわからないね。
言いなおそう。窓のなかには姿は見えないけれど少女がいる。その少女は街を眺めながら手を風に遊ばせている。これから働く街。そこにはどんな仕事があるのだろう。どんな人がいるのだろう。わからない「不安」が少女をとらえている。それは期待でもあるだろうけれど。その少女が実際に感じていることは「見えない」。けれど、それが見えるような気がする。想像してしまう。「想像された少女」というのは、ほんものの少女ではなく、私のなかに映し出された少女である。ちょうどガラス窓に映っている手のように。
窓からさしだされた手、風にふれる手がほんものの手なのに、そしてその手にも表情があるのに、私は窓に映った手の方に激しくこころをひかれるのだ。その窓に映った手こそ少女なのだ、ほんものの少女なのだと思ってしまう。そしてこのとき「ほんもの」というのはより少女に「近い」、少女の「内面」でにふれているという意味である。街と手を映す光のせいで座席にいる少女は見えないにもかかわらず、私は少女を見ている気持ちになる。
これはほんとうに不思議だ。なぜといって、その手は少女のものではないかもしれないからだ。私がかってに少女の手と思っているだけで、ほんとうはまったく別な客の手かもしれない。そうではない、という保証はどこにもない。窓からチャド(というのだっけ?)が一部はみ出し風に揺れるが、それだけでは少女とは断定できない。
どうして冒頭の一分くらいの映像にこんなにこだわるかというと。
この映像、この幻想的な美しさのなかに、この映画の全てが凝縮しているからである。少女は「家政婦」として派遣された家で、夫の浮気を疑う女に会う。夫が浮気をしているというのは女の妄想なのか。それとも夫はほんとうに浮気をしているか。「真実」はあるのだが、それは隠されている。少女は、ちょうど窓からつきだされた手を見ているような具合である。その手の向こう側、バスの内側には「ほんとうのこと」があるのだが、それは見えない。見えないのに、つきだされた手そのものが見えて、それを「ほんとう」と思ってしまう。
そして、ここからがさらに幻想の国イランだなあ、と思わせることになるのだが、人はそれぞれ「ほんとう」をかかえているのに、自分のかかえこんでいるほんとうよりも、少女が映し出している「現実」をほんとうと思ってしまう。それを「ほんとう」にしようとして動き回る。少女の「ほんとう」にすがって動きはじめる。
鏡像、虚像、いわば虚構にあわせて自分の生活をととのえはじめる。少女は夫婦が朝の四時にドバイ行きの飛行機に乗ることを知っているが、それを知った経緯について嘘をつく。その嘘にすがって、男と女が一瞬「和解」する--そのスリリングな緊張。それに少女自身もおびえるような感じになる。
これはおもしろいなあ。
あ、補足。
鏡というか、鏡像というか--それが哲学的に利用されているのだが、少女が家政婦として働く家を最初に訪問するとき、窓ガラスが破れている家を見る。破れたガラス窓を見る。これはとても象徴的だ。その窓は鏡ではないが、鏡の役割をしている。それを破ったのは浮気を疑われている男なのである。夜、外は暗く内部に光があるとき、ガラスは鏡のように部屋の内部にいる人を映し出す。男は、そこに映し出された自分の姿を破ったのである。映らないようにしたのである。
これは一種の「ネタバレ」というものなのかもしれないが、最初の10分、映画を集中してみれば、この映画で起きることは全て暗示されていることがわかる。そういうていねいさが、いたるところに張り巡らされ、すべてをしっかりと安定させている。
それにしてもイランの女性はきれいだねえ。目が美しい。そして唇が美しい。夫の浮気を疑う女の妹を演じたレイラ・ハタミ(あっている?)は「別離」で主役を演じた女優だけれど、この人の目と唇はほんとうにいいなあ。会いたいなあ。
(2012年09月22日、t-joy 博多、スクリーン2)
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