粒来哲蔵「あるいは樽のようなものであるかも知れぬ」(「二人」300 、2012年12月05日発行)
「あるいは樽のようなものであるかも知れぬ」ということばは3連目に出てくる。「あるいは樽のようなものであるかも知れぬ、棒のようなものであるかも知れぬ。」と続いている。
ここで私は激しく躓いたのである。何が書いてあるかわからなかったのである。
詩は4連で構成されている。それはいわば「起承転結」の構造しており、3連目は「転」であるから、1、2連目から大きく断絶して別な世界が描かれる--ということはわかっても、なお、それについて行けないのである。
激しく頭をぶん殴られ、いま、いったい何が起きたのかわからない。そういう衝撃を受けた。
最初から読み直してみる。
これは「写真」、そこに写っている「もの」を描いているのではなく、「写真」のなかの「こと」を描いているのだろう。「分教場」の女の先生。その女の顔(笑っている口と唇)が、つまり「笑う」という「動詞」の世界を描いているのだろう。粒来の記憶の中で、女は「笑顔」であるよりも、「笑う」という動詞なのだ。「笑う」という「動詞」といっしょにある「こと」なのだ。そこで起きた「こと」の中心であり、「こと」を動かしているのが女の「笑い」なのだ。
女が笑うと、女から「笑い」がまわりに広がり、それが隅々にまでゆきわたる。その「ゆきわたること」、それを思い出している。「こと」だけが明確に存在し、「もの(笑い・女)」はいない。
これは不思議なことだろうか。
そうでもないかもしれない。
「不思議ではない」と書いたが、何が不思議ではないかというと。「動詞」を中心とした「こと」というのは「過去」ではない。「過去」ではないというと変だけれど「もの」ではないから、その「動き」はそれをどこかに放り捨ててきたとしても、「肉体」のなかに動いている。「動いた」という影響が残っていて、それは「明日」もかならずつづいている。
こいういうことは「抽象的」すぎて、どうことばを書きつないでいけばいいのかわからないのだが「明日は来る前かきみの手でもみくちゃにされ」というのは、「過去の動詞」が「肉体」によっておこなわれたものである以上、その肉体を引き継いでいるものには「過去」は「こと」として、常に「動詞」的に影響してくる、ということだ。
何のことかわからないね。
「何のことかわからない」のは、私がわからないまま、「感覚の意見」にしたがって、何かを探しているからなのであって--ようするに、こういうことは、ふつうは誰も書かないのかもしれないけれど、私は、こういう感想を書きたいので、こうなってしまうのだが。
1連目の「写真」を「見る」ということからはじまったことばが、「見る」ではなく、何か「過去のあること(動詞)」にふれて、世界が「動詞」であるとつかみとったとき、「世界」は「時間」になる。「こと」のなかから「時間(動詞)」が動きだし、それが「過去」ではなく「明日」にまで影響する。「明日」はまっさらな純粋透明な「こと」ではなく、すでに「きみの」、言い換えると「私の」手でもみくちゃにされ、垢にまみれている。
まあ、なんだかよくわからないのだが、そういう「肉体」がどこかに動いていて。
で、突然「笑いながら敵の眉間の白い巻毛に触れてやれ。そここそが彼の急所だ。舐めてやれ。舌で転がして飴玉まがいにしゃぶってやれ。」というような「肉体」の動きが要求される。
ここには「意味」はない。
「意味」らしく(?)、謎めいてことばは動いているが、こういう「謎」は「なぜ」をくりかえしても解明はできない--と私の「感覚の意見」は主張している。
ここに書かれていることは、何かしら「無意味」なことである。「肉体」で「無意味なこと」を「する」。そこにこそ何かがあるのだ。誰も何もできない。--そういうとき「何もできない」は「意味のあることはできない」、つまり、そうすることによって「事態を打開する(世界を新しくする)」ということができないということである。そういうことができなくても人間にはできる「こと」がある。
たとえば敵の眉間を舐めること、とか。
敵を眉間を舐める? なに、それ。
噛んではならぬ。噛めば死ぬ? なに、それ。
なんでもない。「無意味」。(つまり、詩である--とは、ここでは言わないことにする。性急すぎるからね。いってはいけない、と私のなかのだれかが、私を押しとどめている。)
この「無意味」のなかに、なにがあるか。「舐める」という「動詞」がある。「噛んではならない」という「動詞」の否定がある。否定する「動詞」がある。そしてそこに動詞があるということ、そこに動きがあるということは、そこに「人間がいる」ということでもある。
わけのわからない、無意味の中で、人間は、それでも「いる」。
こういうことが書かれたあとで、
という1行が唐突にやってくる。
「樽」と「棒」は、無意味な人間の「いる」と対峙していることになる。「樽」や「棒」は象徴でも「意味」でもない。まさに「無意味」である。
で。
私は、この「無意味」の強烈さにびっくりし、躓いたのである。こういう「無意味」に私はあったことがない。
でも、粒来は、そういう「無意味」と直面したのだ。そういう「無意味」を「生きた」のである。
そのことが3連目で書かれている。(途中を省略する)。
「死」さえも「死」という「意味」になることができない。それを「肉体」で「覚える」ことができない。「死」を「肉体で覚える」というのは「矛盾」だが、あ、こういう具合に死というものは肉体にやってくるのだということを納得する「時間」もない状況がある。
それが「戦争」。
そこには「意味」はない。
人間の「意味」は、そこでは全て奪い去れる。
「人間は樽のようなものである」「棒のようなものである」と書けば、それは「人間は戦場では意味を失う」という「意味」になるか。
なるかもしれない。
しかし、そういう「意味」にして、いいのか。そういうことは「意味」になっていいのか。
粒来は、そうなってしまいそうな「いま」に対して異議を叫んでいる。「意味」にしないかたちで、「意味」が生まれるまえの、「肉体が覚えている」何かを動かすことで、ことばのなかに「肉体」そのものを出現させようとしている。
私は3連目を正確な形で引用しなかった。4連目も引用はしない。4連目については、引用だけではなく、あらゆることばを発しないつもりである。どんな「説明」も書かない。少しでも書いてしまえば、そこに私の書いた「ことばの意味」が加わってしまう。
粒来の「肉声」を、私が薄めてしまう。
それでは粒来に対して申し訳ない。
粒来が書こうとしているのは、「意味」を突き破って動いている「肉体」が「ある」ということだ。その「肉体」のなかには「過去」があり、「過去」を生きた「肉体」の内部へ、私たちは「肉体」そのものとして入っていかなければならない。
ことばを捨てて。
矛盾している。
粒来のことばを読み、そしてことばを捨てて粒来の肉体へ入っていかなければならないというのは、「詩を読む」ということとは矛盾している。
詩を読むということは、そのことばを自分のものにするということなのだが、粒来はことばを書きながらことばを捨てている。「あるいは樽のようなものかも知れぬ」ということば自体、粒来のものではなく石原吉郎のことばを借りたものである。そのことばを借りながら、粒来はじぶんのことばを捨てて、「肉体」の「ある」だけを現前させる。
ここまで私はことばを書いてきたが、これはまた書いてはいけないことでもあった。書いてしまうと、何か、そこにたどりついたような気がしてしまうが、それは錯覚ですらない。
感想を書けない詩は、感想を書いてはいけないのである。けれど、いつでもそうだが、書いてはいけないし、書けない感想だからこそ激しく書きたい気持ちに襲われる。そうして、してはいけないことをしてしまう。
私の悪い癖だ。
粒来哲蔵「あるいは樽のようなものであるかも知れぬ」を読み終えた瞬間、あ、この感想を一日で書くことができるだろうか、という一種の恐怖である。感想を書きたい、でも、どう書いていいかわからない。しかし、わからないからこそ、私は書きはじめるのだ。
「あるいは樽のようなものであるかも知れぬ」ということばは3連目に出てくる。「あるいは樽のようなものであるかも知れぬ、棒のようなものであるかも知れぬ。」と続いている。
ここで私は激しく躓いたのである。何が書いてあるかわからなかったのである。
詩は4連で構成されている。それはいわば「起承転結」の構造しており、3連目は「転」であるから、1、2連目から大きく断絶して別な世界が描かれる--ということはわかっても、なお、それについて行けないのである。
激しく頭をぶん殴られ、いま、いったい何が起きたのかわからない。そういう衝撃を受けた。
最初から読み直してみる。
背景ともども白くぼやけた写真の中で、笑っている女がいる。もち
ろん女の笑いそのものもぼやけていて、指を口もとに当てているよう
には見えるが、指をとると肝腎の口がない、唇がない。在るのは笑い
だけであって、みているとその含み笑いがいつのまにか弾けるような
哄笑になり、ぼやけた背景の隅々にまで細かい縮緬状の小皺を作って
いる。
笑いが消えると、写真のどこにも女はいない。後には女のいた証拠
に、さびれた女の古里がせり出して来て、崩れかけた分教場の机の上
に女の口と唇がのっている。
これは「写真」、そこに写っている「もの」を描いているのではなく、「写真」のなかの「こと」を描いているのだろう。「分教場」の女の先生。その女の顔(笑っている口と唇)が、つまり「笑う」という「動詞」の世界を描いているのだろう。粒来の記憶の中で、女は「笑顔」であるよりも、「笑う」という動詞なのだ。「笑う」という「動詞」といっしょにある「こと」なのだ。そこで起きた「こと」の中心であり、「こと」を動かしているのが女の「笑い」なのだ。
女が笑うと、女から「笑い」がまわりに広がり、それが隅々にまでゆきわたる。その「ゆきわたること」、それを思い出している。「こと」だけが明確に存在し、「もの(笑い・女)」はいない。
これは不思議なことだろうか。
そうでもないかもしれない。
いつもこうなんだ--と唇を噛むことはない。いつもそうなら、ま
た来る明日もそうなのだ。手つかずの明日は来ない。明日は来る前か
きみの手でもみくちゃにされ、垢にまみれてきみの夢の中で半ばは死
にかけている。むろんきみはその再生を試みる、ときみのその手に己
が手を添えて、きみの吐息に呼応して荒々しい息を吐くもう一人がい
るだろう。彼こそが明日の敵だ。彼がやさしく微笑みかけてきたら、
笑ってやれ。笑いながら敵の眉間の白い巻毛に触れてやれ。そここそ
が彼の急所だ。舐めてやれ。舌で転がして飴玉まがいにしゃぶってや
れ。敵が陶酔して眠りこけても、そこを噛んではならぬ。噛めば必ず
彼は死に、きみは永久に笑えなくなる。
「不思議ではない」と書いたが、何が不思議ではないかというと。「動詞」を中心とした「こと」というのは「過去」ではない。「過去」ではないというと変だけれど「もの」ではないから、その「動き」はそれをどこかに放り捨ててきたとしても、「肉体」のなかに動いている。「動いた」という影響が残っていて、それは「明日」もかならずつづいている。
こいういうことは「抽象的」すぎて、どうことばを書きつないでいけばいいのかわからないのだが「明日は来る前かきみの手でもみくちゃにされ」というのは、「過去の動詞」が「肉体」によっておこなわれたものである以上、その肉体を引き継いでいるものには「過去」は「こと」として、常に「動詞」的に影響してくる、ということだ。
何のことかわからないね。
「何のことかわからない」のは、私がわからないまま、「感覚の意見」にしたがって、何かを探しているからなのであって--ようするに、こういうことは、ふつうは誰も書かないのかもしれないけれど、私は、こういう感想を書きたいので、こうなってしまうのだが。
1連目の「写真」を「見る」ということからはじまったことばが、「見る」ではなく、何か「過去のあること(動詞)」にふれて、世界が「動詞」であるとつかみとったとき、「世界」は「時間」になる。「こと」のなかから「時間(動詞)」が動きだし、それが「過去」ではなく「明日」にまで影響する。「明日」はまっさらな純粋透明な「こと」ではなく、すでに「きみの」、言い換えると「私の」手でもみくちゃにされ、垢にまみれている。
まあ、なんだかよくわからないのだが、そういう「肉体」がどこかに動いていて。
で、突然「笑いながら敵の眉間の白い巻毛に触れてやれ。そここそが彼の急所だ。舐めてやれ。舌で転がして飴玉まがいにしゃぶってやれ。」というような「肉体」の動きが要求される。
ここには「意味」はない。
「意味」らしく(?)、謎めいてことばは動いているが、こういう「謎」は「なぜ」をくりかえしても解明はできない--と私の「感覚の意見」は主張している。
ここに書かれていることは、何かしら「無意味」なことである。「肉体」で「無意味なこと」を「する」。そこにこそ何かがあるのだ。誰も何もできない。--そういうとき「何もできない」は「意味のあることはできない」、つまり、そうすることによって「事態を打開する(世界を新しくする)」ということができないということである。そういうことができなくても人間にはできる「こと」がある。
たとえば敵の眉間を舐めること、とか。
敵を眉間を舐める? なに、それ。
噛んではならぬ。噛めば死ぬ? なに、それ。
なんでもない。「無意味」。(つまり、詩である--とは、ここでは言わないことにする。性急すぎるからね。いってはいけない、と私のなかのだれかが、私を押しとどめている。)
この「無意味」のなかに、なにがあるか。「舐める」という「動詞」がある。「噛んではならない」という「動詞」の否定がある。否定する「動詞」がある。そしてそこに動詞があるということ、そこに動きがあるということは、そこに「人間がいる」ということでもある。
わけのわからない、無意味の中で、人間は、それでも「いる」。
こういうことが書かれたあとで、
あるいは樽のようなものであるかも知れぬ、棒のようなものであるかも知れぬ。
という1行が唐突にやってくる。
「樽」と「棒」は、無意味な人間の「いる」と対峙していることになる。「樽」や「棒」は象徴でも「意味」でもない。まさに「無意味」である。
で。
私は、この「無意味」の強烈さにびっくりし、躓いたのである。こういう「無意味」に私はあったことがない。
でも、粒来は、そういう「無意味」と直面したのだ。そういう「無意味」を「生きた」のである。
そのことが3連目で書かれている。(途中を省略する)。
あの時まなじりを決して銃把を握ったが、眼前にいた敵は後ろにも
いて、いつもにたにた笑っていたのだ。がに股の大隊長が、前へ前へ
と叫びながら軍刀を振り上げた時、機銃一挺分の弾丸の全てを受けて
でもしたように腹をおさえたが、覚えている覚えている。胴は千切れ
ても血は一滴も出なかった。丈高の草も吾らも一薙ぎに薙ぎ倒され
て、鳥も人も泣き声一つあげなかった。死者になるのが早すぎて声を
出すのを忘れていたのだ。
「死」さえも「死」という「意味」になることができない。それを「肉体」で「覚える」ことができない。「死」を「肉体で覚える」というのは「矛盾」だが、あ、こういう具合に死というものは肉体にやってくるのだということを納得する「時間」もない状況がある。
それが「戦争」。
そこには「意味」はない。
人間の「意味」は、そこでは全て奪い去れる。
「人間は樽のようなものである」「棒のようなものである」と書けば、それは「人間は戦場では意味を失う」という「意味」になるか。
なるかもしれない。
しかし、そういう「意味」にして、いいのか。そういうことは「意味」になっていいのか。
粒来は、そうなってしまいそうな「いま」に対して異議を叫んでいる。「意味」にしないかたちで、「意味」が生まれるまえの、「肉体が覚えている」何かを動かすことで、ことばのなかに「肉体」そのものを出現させようとしている。
私は3連目を正確な形で引用しなかった。4連目も引用はしない。4連目については、引用だけではなく、あらゆることばを発しないつもりである。どんな「説明」も書かない。少しでも書いてしまえば、そこに私の書いた「ことばの意味」が加わってしまう。
粒来の「肉声」を、私が薄めてしまう。
それでは粒来に対して申し訳ない。
粒来が書こうとしているのは、「意味」を突き破って動いている「肉体」が「ある」ということだ。その「肉体」のなかには「過去」があり、「過去」を生きた「肉体」の内部へ、私たちは「肉体」そのものとして入っていかなければならない。
ことばを捨てて。
矛盾している。
粒来のことばを読み、そしてことばを捨てて粒来の肉体へ入っていかなければならないというのは、「詩を読む」ということとは矛盾している。
詩を読むということは、そのことばを自分のものにするということなのだが、粒来はことばを書きながらことばを捨てている。「あるいは樽のようなものかも知れぬ」ということば自体、粒来のものではなく石原吉郎のことばを借りたものである。そのことばを借りながら、粒来はじぶんのことばを捨てて、「肉体」の「ある」だけを現前させる。
ここまで私はことばを書いてきたが、これはまた書いてはいけないことでもあった。書いてしまうと、何か、そこにたどりついたような気がしてしまうが、それは錯覚ですらない。
感想を書けない詩は、感想を書いてはいけないのである。けれど、いつでもそうだが、書いてはいけないし、書けない感想だからこそ激しく書きたい気持ちに襲われる。そうして、してはいけないことをしてしまう。
私の悪い癖だ。
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