細野豊『女乗り自転車と黒い診察鞄』(土曜美術出版販売、2012年10月29日発行)
細野豊は少し変わった文体を持っている。エロチックなことを書いた詩に、その「変わっている」ものがいちばんよくあらわれている。
「花・もうひとつの顔」という作品。
「花心」と呼ばれているものはわざわざ言う必要はないけれど、私はわざわざ書いてしまうのだが「女性性器」である。で、この詩の特徴は、なんというのだろうか、いま私がわざわざ書いたようなことを、わざわざ書かなくていいような感じで書いている。
うーん。
ちょっとめんどうくさい言い方をしてしまったが、「比喩」がすでに「流通言語」なのである。女性性器を花にたとえるのは珍しいことではない。ありきたりのことである。だから、それだけでは詩にならない。
では、どうするか。
一方が「比喩」なら、もう一方は「比喩」ではないものを動かす。ことばの「質」を変えるのである。舌--その即物的なもの、「比喩」ではないもの。それを動かすことで、ことばに「違和感」を生み出す。つまり「流通していないことば」の動かし方実現する。もっとも、細野は「蝶の舌」という「花-蝶」の「流通比喩(流通している比喩をそう呼んでおく)」を巧みに利用して「花」の「比喩」と調和(?)させてはいるのだが。そして利用するふりをして、「流通比喩」を内側からひとりの肉体へと引き寄せるのだが。
いいなあ。こういう肉体の出し方は。
で、それはいいのだけれど、そしてそれも細野の特徴ではあるのだろうけれど、もっと特徴的なことがあると私には感じられる。自分の肉体を通ることばを忠実に動かしてみせるというのは、エロチックな文学では当然しなければならないことだから、それだけで「かわっている」とは言えない。いまはだれでもがそうしている、というと言い過ぎになるかもしれないけれど、「女性詩」以後、そういうことはだれでもが書く。(とはいっても、これはほんとうは「女性詩」以前からも文学には確立された手法であり、そいういう意味では「女性詩」は「マッチョ主義から見た女性誌」と呼ばないと嘘になると思うのだが、これは「脱線」になるのでやめておく。)
「変」というか、「変わっている」というのは。
この「愛」のつかい方。いまは(言い換えると「女性詩」以後)、こういう感じで「愛」ということばはつかわない。精神的なことばで「肉体」を語らない。本能の正直を抽象的なことばでは語らない。この「愛」は「比喩」なのだが、「肉体」を「比喩」ではな語らなくなっている。
この「愛」という、「肉体」ではないことばが、細野のことばを、とても変なところへ動かしていく。私から見ると「変」ということであって、ほかの人からみると「変」ではないかもしれないが。で、その「変」というのは3連目にくっきりとあらわれる。
「愛」の次は「女神」、そして「崇高なもの」。もう、ここには「肉体」は存在しない。「精神」というか「精神的と考えられているもの(こと)」だけがある。
そして、一度、そういう「精神」を通り抜けることで、細野のことばは大きく動く。
「大きく動く」を別のことばで言いなおせば「揺れる」のである。「揺れる」といってもブランコのように往復する揺れである。振り子のように往復する揺れである。
で、この「揺れ」こそが「変」なのである。
「揺れ」というのは、たとえば「大地震」を想定すると生々しく感じられると思うのだが、どうなるかわからないものである。「根本」が変わってしまうことである。「根本」そのものを変えて、「いま/ここ」になかった世界を生み出すための「揺れ」。「破壊」と「再生」のための「揺れ」。--これが、「いま/ここ(あらゆるところ)」で起きていることなのだが、細野の「揺れ」は違うのである。
ブランコ、振り子という比喩を私はつかったのだが、細野の「揺れ」は「根本」が揺れずに、それにつながっている何かが(細野)が揺れるのである。
言いなおすと、細野の基本である「精神」は揺れずに、そこにぶら下がっている「肉体」が揺れるのである。さらに言いなおすと、細野の「根本」には「愛」とか「崇高」とかいった「哲学的な(学問的な)ことば」があり、それが細野の「肉体のことば」をつないでいる。そして、「肉体」を揺らして見せる。
だから、ことばが、そして詩が「清潔」である。この「清潔」というのは、ちょっと説明がむずかしいが、「流通言語」になってしまっている、「流通言語」につながる「清潔」である。市場にでまわる野菜が洗い清められている、肉はきれいにカットされパックに入っているというのに似ている。どんなに「肉体」が書かれていても、その「肉体」が直接読者の「肉体」に触れてくるわけではない。
最初にもどって言いなおすと、どんなに女性性器のことが書かれていて、さらにそれを嘗める男の舌が書かれていても、それは「花と蝶」の「比喩」のなかに閉じ込められていて、剥き出しの性器が描かれるわけではない。生々しい「肉体」が描かれるわけではない。
では、これは細野の欠点か。
ということを考えると、実は、とてもむずかしくなる。ややこしくなる。
いまはこういう文体が「主流」ではない。けれど、こういう文体があることにも「理由」のようなものがある。必要だと思う。
説明するのはとてもむずかしいが、細野の「文体」には安心感がある。どんなに揺れても「精神」が確立されているという安心感がある。これをまた別のことばで言いなおすと、細野のことばの奥には「教養」がある。「肉体」ではなく、「教養」。つまり、学問としての「精神」がある。それも「西洋精神(西洋教養)」のような「二元論」がある。
「精神」と「肉体」は、出合い、ぶつかることがあっても、こわれてしまう、境目をなくして融合してしまうということがない。
「花に顔を」という作品。
「肉体」を見るというより、これまで書かれてきた「ことば(教養としてのセックス)」が誠実に復習されている感じがする。この「誠実な復習」が「清潔」なのである。そしてそれが細野の「正直」なのである。
ほんとうは細野の肉体も「逸脱」する機会があったかもしれない。けれど、細野は「肉体」を逸脱させなかった。「精神」をしっかりと見据え、それをよりどころとして生きてきた--そういう印象が、なんといえばいいのか、せつせつとつたわってくる。そういうことを伝えてくる「文体」である。
細野豊は少し変わった文体を持っている。エロチックなことを書いた詩に、その「変わっている」ものがいちばんよくあらわれている。
「花・もうひとつの顔」という作品。
もしも僕が蝶の舌をもっていたなら
もっと深く深く入って
あなたの愛を吸いつくしただろうに
僕の舌は短くて平たいから
花びらの形をていねいに嘗め
もどかしく花心のあたりを這いまわるだけだ
「花心」と呼ばれているものはわざわざ言う必要はないけれど、私はわざわざ書いてしまうのだが「女性性器」である。で、この詩の特徴は、なんというのだろうか、いま私がわざわざ書いたようなことを、わざわざ書かなくていいような感じで書いている。
うーん。
ちょっとめんどうくさい言い方をしてしまったが、「比喩」がすでに「流通言語」なのである。女性性器を花にたとえるのは珍しいことではない。ありきたりのことである。だから、それだけでは詩にならない。
では、どうするか。
一方が「比喩」なら、もう一方は「比喩」ではないものを動かす。ことばの「質」を変えるのである。舌--その即物的なもの、「比喩」ではないもの。それを動かすことで、ことばに「違和感」を生み出す。つまり「流通していないことば」の動かし方実現する。もっとも、細野は「蝶の舌」という「花-蝶」の「流通比喩(流通している比喩をそう呼んでおく)」を巧みに利用して「花」の「比喩」と調和(?)させてはいるのだが。そして利用するふりをして、「流通比喩」を内側からひとりの肉体へと引き寄せるのだが。
僕の舌は短くて平たいから
花びらの形をていねいに嘗め
いいなあ。こういう肉体の出し方は。
で、それはいいのだけれど、そしてそれも細野の特徴ではあるのだろうけれど、もっと特徴的なことがあると私には感じられる。自分の肉体を通ることばを忠実に動かしてみせるというのは、エロチックな文学では当然しなければならないことだから、それだけで「かわっている」とは言えない。いまはだれでもがそうしている、というと言い過ぎになるかもしれないけれど、「女性詩」以後、そういうことはだれでもが書く。(とはいっても、これはほんとうは「女性詩」以前からも文学には確立された手法であり、そいういう意味では「女性詩」は「マッチョ主義から見た女性誌」と呼ばないと嘘になると思うのだが、これは「脱線」になるのでやめておく。)
「変」というか、「変わっている」というのは。
あなたの愛を吸いつくしただろうに
この「愛」のつかい方。いまは(言い換えると「女性詩」以後)、こういう感じで「愛」ということばはつかわない。精神的なことばで「肉体」を語らない。本能の正直を抽象的なことばでは語らない。この「愛」は「比喩」なのだが、「肉体」を「比喩」ではな語らなくなっている。
この「愛」という、「肉体」ではないことばが、細野のことばを、とても変なところへ動かしていく。私から見ると「変」ということであって、ほかの人からみると「変」ではないかもしれないが。で、その「変」というのは3連目にくっきりとあらわれる。
もう少しというところで
遠ざかってしまう詩の女神よ それでも
ぼくの閉じた目の中に崇高なものが見えてくる
「愛」の次は「女神」、そして「崇高なもの」。もう、ここには「肉体」は存在しない。「精神」というか「精神的と考えられているもの(こと)」だけがある。
そして、一度、そういう「精神」を通り抜けることで、細野のことばは大きく動く。
それは絶え間なく変身する雲のようだ
山並となり 夢となり 大洋を渡る蝶の群れ
愛し合うふたつの裸体となり
少年のように引き締まった肢体の狭間にある花に
鼻と口を限りなく近づけてぼくは
ふるさとのように懐かしい湿った匂いをゆっくりと吸い込む
「大きく動く」を別のことばで言いなおせば「揺れる」のである。「揺れる」といってもブランコのように往復する揺れである。振り子のように往復する揺れである。
で、この「揺れ」こそが「変」なのである。
「揺れ」というのは、たとえば「大地震」を想定すると生々しく感じられると思うのだが、どうなるかわからないものである。「根本」が変わってしまうことである。「根本」そのものを変えて、「いま/ここ」になかった世界を生み出すための「揺れ」。「破壊」と「再生」のための「揺れ」。--これが、「いま/ここ(あらゆるところ)」で起きていることなのだが、細野の「揺れ」は違うのである。
ブランコ、振り子という比喩を私はつかったのだが、細野の「揺れ」は「根本」が揺れずに、それにつながっている何かが(細野)が揺れるのである。
言いなおすと、細野の基本である「精神」は揺れずに、そこにぶら下がっている「肉体」が揺れるのである。さらに言いなおすと、細野の「根本」には「愛」とか「崇高」とかいった「哲学的な(学問的な)ことば」があり、それが細野の「肉体のことば」をつないでいる。そして、「肉体」を揺らして見せる。
だから、ことばが、そして詩が「清潔」である。この「清潔」というのは、ちょっと説明がむずかしいが、「流通言語」になってしまっている、「流通言語」につながる「清潔」である。市場にでまわる野菜が洗い清められている、肉はきれいにカットされパックに入っているというのに似ている。どんなに「肉体」が書かれていても、その「肉体」が直接読者の「肉体」に触れてくるわけではない。
最初にもどって言いなおすと、どんなに女性性器のことが書かれていて、さらにそれを嘗める男の舌が書かれていても、それは「花と蝶」の「比喩」のなかに閉じ込められていて、剥き出しの性器が描かれるわけではない。生々しい「肉体」が描かれるわけではない。
では、これは細野の欠点か。
ということを考えると、実は、とてもむずかしくなる。ややこしくなる。
いまはこういう文体が「主流」ではない。けれど、こういう文体があることにも「理由」のようなものがある。必要だと思う。
説明するのはとてもむずかしいが、細野の「文体」には安心感がある。どんなに揺れても「精神」が確立されているという安心感がある。これをまた別のことばで言いなおすと、細野のことばの奥には「教養」がある。「肉体」ではなく、「教養」。つまり、学問としての「精神」がある。それも「西洋精神(西洋教養)」のような「二元論」がある。
「精神」と「肉体」は、出合い、ぶつかることがあっても、こわれてしまう、境目をなくして融合してしまうということがない。
「花に顔を」という作品。
初老の男が
花に顔を埋めている
ひそかに花びらを掻き分け
花蕊に舌を這わせ
いのちの精気を吸い取る
(饐えたチーズのかすかな匂い)
花は若い女神に咲いている
硬かった蕾が 言葉と
唇と舌にうながされて綻び
いま蜜に溢れて香る
愛されるとき
花は収斂し 雄蕊が震え
腰から背骨を
旋律が駆け抜ける
(懐かしい夜の腋臭)
男はひととき顔を離し
ふくよかな花びらの重なりに見とれる
「肉体」を見るというより、これまで書かれてきた「ことば(教養としてのセックス)」が誠実に復習されている感じがする。この「誠実な復習」が「清潔」なのである。そしてそれが細野の「正直」なのである。
ほんとうは細野の肉体も「逸脱」する機会があったかもしれない。けれど、細野は「肉体」を逸脱させなかった。「精神」をしっかりと見据え、それをよりどころとして生きてきた--そういう印象が、なんといえばいいのか、せつせつとつたわってくる。そういうことを伝えてくる「文体」である。
![]() | 詩集 女乗りの自転車と黒い診察鞄 |
細野 豊 | |
土曜美術社出版販売 |