栗原知子『ねこじゃらしたち』(2)(思潮社、2012年12月12日発行)
栗原知子『ねこじゃらしたち』の魅力を語るのは、私にはとてもむずかしい。だれでもが思うことを、だれでもがつかっていることばで書いている。あ、こんなことばのつかい方は知らなかったなあ、これは新しいなあ、と驚くところがない。
たとえば「祝日」。
私の住むマンションでもあったが、突然警報器が鳴る。その家の人がいればいいが、いないときは火が出ているかどうかも確認がむずかしい。消防車がやってくる。警備会社のひともやってくる。日曜、祝日は会社も休みなので、管理人が不在だ。
この情景に「個性」はない。(いま書いたが、私にもこういう経験がある。)その「個性」のないことを、そのまま書いているのがおもしろい。
いや、「非個性」ではないというひとがいるかもしれない。特に、
この3行は「個性」かもしれない。そうかもしれないけれど、ほら、思うでしょ? あれは燃えては困る。でも、あれは「それだけ燃えて消えてしまったらうれしいな」と思うことってあるでしょ? 火事なのだから、燃えてほしいものだけ燃えるというようなことはないのだけれど、そういう無理を夢見るのが人間である。--ということは脇に置いておいて、このだれでもが思うこと(思うかもしれないこと)が、軽口のような感じで書かれている。それが「個性」であるにしても、「個性」の部分よりも「共通項」の部分の方が多い。「個性」はいわば自己主張しない。小さな飾りである。
そして、そういう「小さな個性」を無視するかのように、
祝日の、休日の空だねえ。「こんなに晴れているのに、遊びに行きたいのに、困ったわねえ」。「私はどこへ遊びに行くわけじゃないから、いい気味だわ」なんていう意地悪は隠して、「ほんとうにそうね、早くはっきりしてほしいわ」なんて会話が繰り広げられる。子供は「わーいハシゴ車だ」と無関係にはしゃいでいる。
そういう情景が、そのまま、そのとおりのことばで書かれている。
これは、簡単そうでなかなかできない。どうしたって「わざと」なにか「個性的」なことを書きたくなる。書かないと、詩ではないのではないか、という思いにとらわれる。こんなことならだれでもが書いている(に違いない)と勝手に思い込んで、なにか新しいものをつけくわえようとする。
でも、その「わざと」を遠ざけて、ただ「正直」にもどる。あったままを、あったままに書く。そこで動くことばの、あまりにも自然な感じ--この「あまりにも自然な」、つまり「あまりにも人間的な」感じが、そのまま私の「肉体」の奥まで、とても楽に入ってくる。
この「楽な感じ」のことば、「正直」そのままのことば--これを「個性」にしてしまっているところが、この詩の強さなのだけれど。
うーん、「非個性」が「個性」というのは矛盾だしなあ……。
説明できないなあ、でもなんとか説明してみたいなあ。そういう気持ちになるのである。
で、どうなるわけでもないが、私は、だらだらと感想を書くのである。書きつづけるのである。
「幸福」という詩は「震災の年、夏に」という小さなサブタイトルがついている。この詩の美しさを、私のことばで言いなおしてみるのも、またたいへんにむずかしい。感想を書くのが非常にむずかしい。
子供が幼稚園へ行かないと言ったのはどうしてだろう。震災の不安が残っていて(甦ってきた)栗原のそばを離れなくないのかもしれない。その気持ちがわかるので、
と栗原は思う。
この行の「べつに」がとてもいい。
私の「現代詩講座」では、いつもこういうことばを取り上げる。
だれもすぐには答えられない。「べつに」の意味はわかっているのに、それを自分のことでいいなおそうとしても「べつに、って、べつに、だよね」。わかりすぎているので、ことばにならない。
幼稚園へ行かないと言い張ることばも「いいよ」と受け入れるように、「べつに」ということばを私たちは受け入れてしまう。受け入れることに何の困難も感じない。
「べつに」ってことば、そのまま受け入れたって「べつに」かまわないよ。
そうなんだよなあ。
この「べつに」には「個性」がない。だれもが知っている、そしてそれも説明が必要がないくらい肉体にしみついている「べつに」なので、ほんとうにそれがわかろうがわかるまいが、どうでもいい。
でも、
ほら、むずかしくなってきた。つまり、このとき「思想」にぶつかっているのだ。「思想」は簡単なことばで語られるけれど、理解しようとするととてもむずかしものだ。(難解なことばで語られる「思想」は「頭」で処理することがらなので、実は簡単、と私は思っている。--これは余談。)
「べつに」にはほんとうは深い深い、ことばにならないなにかがひそんでいるのだ。「肉体」にしみついているなにかが固まっているのだ。
「べつに」とは「なにかと違っている」ということである。「べつに」には「私」ではないなにかが含まれている。そこには「私とはべつのもの/こと」があるのだけれど、それを私は拒否しない。「私とはべつのもの/こと」があっても「私」は、それを気にしない。拒絶しない。受け入れる。
この世には「べつのもの/こと」があって、それと「私」はいつも共存しているのである。「共存」のひとつのあり方が「べつに」なのである。
「私(私の肉体)とはべつなもの/こと」といえば、自分の子供である。りかといぶき。ふたりの子供。その「肉体」は「羽二重もち」のようでもあり、「白玉」のようでもある。「私(栗原)」の「肉体」とはまったく「べつのもの/こと」である
それが、とてもうれしい。「べつなもの/こと」なのに「べつなもの/こと」ではなく、しっかりと「私の肉体」につながっている。「ひとつ」になっている。「べつ」はほんとうは「べつ」ではなくて、「同じ」でもあるのだ。
何言っている? 「べつ」が「同じ」なんて、矛盾じゃないか。
そうなんだねえ。矛盾なんだねえ。だから、私は、それを「思想(肉体)」と呼ぶのだけれど。
「べつ」なのに「同じ」だからこそ、
は、「行かなくても同じようにいい」ということでもある。「同じ」つかうと「行っても/行かなくても、同じ」という具合に「意味」が混同してしまうのだけれど、この「同じ」は「私(栗原)の肉体にとっては同じ」ということなのだ。(これって、説明不足だね。私は、いいたいことを正確にことばにできない。--栗原の詩には知らないことばはないし、知らない「思想」もないのに、それを語る/言いなおすのはとてもむずかしい。)
で、こういうことを考えていると、
うーん、でも、この「何もわからなくなる」は、ほんとうはなにもかもが「わかる」でもあるんだなあ。りかといぶきが「羽二重もち」であり「白玉」であることははっきり「わかる」。そして幼稚園へ行こうが行くまいが「べつにいい」ということも「わかる」。その「わかる」は、どこか「肉体」の「覚えていること」としっかり結びついていて、それだけは「間違いなく正しい」ということが「わかる」から、ほかのことは「わからい」のままでも「別に」かまわないのである。
こういうことを栗原は「べつの」ことばで言いなおしている。
「肉体」の「覚えているもの/こと」は「一つ」である。私の肉体(思想)とは「べつのもの/こと」があり、それは「べつ」であることによって、ほんとうは「一つ」なのである。「私の肉体(思想)」と同じ「一つ」が「べつのもの/こと」のなかで動いていて、その「べつのもの/こと」といっしょに「私の肉体(思想)」が共存するとき、それは「幸福」ということなのだ。
りかが幼稚園へ行かなくても「べつに」いい。行かないからといって、りかの「肉体」のなかに動いているものと「私の肉体」のなかに動いているものが「同じ一つ」を失うわけではない。またりかといぶきが「羽二重もち」「白玉」であっても、「べつに」いい。「羽二重もち」「白玉」は「私の肉体」とは違うけれど、その内部で動いているものは「同じ一つ」。
「同じ一つ」を「べつ」をとおして知る。それは「同じ一つ」を「私の肉体」が「覚えている」ということを発見することでもある。
これを人間のことば(!)で言いなおすと、「幸福」である。「流通言語」で言いなおすと「幸福」である。
東北大震災後、ことばは、ここまで回復することができた、と私は思った。「生きていて幸福」と「正直」に言えるようになった--この「正直」の力はいいものである。この「正直」を栗原は、ほんとうにだれもが書くようなことばでつかみとっている。
栗原知子『ねこじゃらしたち』の魅力を語るのは、私にはとてもむずかしい。だれでもが思うことを、だれでもがつかっていることばで書いている。あ、こんなことばのつかい方は知らなかったなあ、これは新しいなあ、と驚くところがない。
たとえば「祝日」。
留守宅かもしれないし
いたずらかもしれない
管理人室が開かれて原因が判るまで
非常ベルは止まない
窓を割るのか
鍵屋を呼ぶのか
所在無さげなハシゴ車を
子供たちが囲んでいて
警報の中で考えた
燃えては困るものと
燃えてしまったら うれしいもの
「火!」だけを告げるジリジリの上で
どこまでも透きとおる空
足止めを食らった家族連れの中で
摘まれたタンポポを手に受ける
輝く綿毛をつまむ
土から集められた力が
ぷつりと肩口にとどくとき
警告音をも押し消していく
今日の気配
私の住むマンションでもあったが、突然警報器が鳴る。その家の人がいればいいが、いないときは火が出ているかどうかも確認がむずかしい。消防車がやってくる。警備会社のひともやってくる。日曜、祝日は会社も休みなので、管理人が不在だ。
この情景に「個性」はない。(いま書いたが、私にもこういう経験がある。)その「個性」のないことを、そのまま書いているのがおもしろい。
いや、「非個性」ではないというひとがいるかもしれない。特に、
警報の中で考えた
燃えては困るものと
燃えてしまったら うれしいもの
この3行は「個性」かもしれない。そうかもしれないけれど、ほら、思うでしょ? あれは燃えては困る。でも、あれは「それだけ燃えて消えてしまったらうれしいな」と思うことってあるでしょ? 火事なのだから、燃えてほしいものだけ燃えるというようなことはないのだけれど、そういう無理を夢見るのが人間である。--ということは脇に置いておいて、このだれでもが思うこと(思うかもしれないこと)が、軽口のような感じで書かれている。それが「個性」であるにしても、「個性」の部分よりも「共通項」の部分の方が多い。「個性」はいわば自己主張しない。小さな飾りである。
そして、そういう「小さな個性」を無視するかのように、
どこまでも透きとおる空
祝日の、休日の空だねえ。「こんなに晴れているのに、遊びに行きたいのに、困ったわねえ」。「私はどこへ遊びに行くわけじゃないから、いい気味だわ」なんていう意地悪は隠して、「ほんとうにそうね、早くはっきりしてほしいわ」なんて会話が繰り広げられる。子供は「わーいハシゴ車だ」と無関係にはしゃいでいる。
そういう情景が、そのまま、そのとおりのことばで書かれている。
これは、簡単そうでなかなかできない。どうしたって「わざと」なにか「個性的」なことを書きたくなる。書かないと、詩ではないのではないか、という思いにとらわれる。こんなことならだれでもが書いている(に違いない)と勝手に思い込んで、なにか新しいものをつけくわえようとする。
でも、その「わざと」を遠ざけて、ただ「正直」にもどる。あったままを、あったままに書く。そこで動くことばの、あまりにも自然な感じ--この「あまりにも自然な」、つまり「あまりにも人間的な」感じが、そのまま私の「肉体」の奥まで、とても楽に入ってくる。
この「楽な感じ」のことば、「正直」そのままのことば--これを「個性」にしてしまっているところが、この詩の強さなのだけれど。
うーん、「非個性」が「個性」というのは矛盾だしなあ……。
説明できないなあ、でもなんとか説明してみたいなあ。そういう気持ちになるのである。
で、どうなるわけでもないが、私は、だらだらと感想を書くのである。書きつづけるのである。
「幸福」という詩は「震災の年、夏に」という小さなサブタイトルがついている。この詩の美しさを、私のことばで言いなおしてみるのも、またたいへんにむずかしい。感想を書くのが非常にむずかしい。
「今日、保育園行かない」
とりかが言う
十分もしたら気が変わるかもしれないし
私は働いていないから
行かなくってもべつにいい
累々たる布団の海に うつぶせで寝ている
右手にりか 左手にいぶき三歳の子のお腹は羽二重もちみたいだし
赤ちゃんの太腿は白玉のようにとうとい
私は余命のことを考えたり
また 放射性物質のことを考えたりしようとする
でも うっとりして何もわからなくなってしまう
子供が幼稚園へ行かないと言ったのはどうしてだろう。震災の不安が残っていて(甦ってきた)栗原のそばを離れなくないのかもしれない。その気持ちがわかるので、
行かなくってもべつにいい
と栗原は思う。
この行の「べつに」がとてもいい。
私の「現代詩講座」では、いつもこういうことばを取り上げる。
<質問>この「べつに」を自分のことばで言いなおすと、どうなる?
だれもすぐには答えられない。「べつに」の意味はわかっているのに、それを自分のことでいいなおそうとしても「べつに、って、べつに、だよね」。わかりすぎているので、ことばにならない。
幼稚園へ行かないと言い張ることばも「いいよ」と受け入れるように、「べつに」ということばを私たちは受け入れてしまう。受け入れることに何の困難も感じない。
「べつに」ってことば、そのまま受け入れたって「べつに」かまわないよ。
そうなんだよなあ。
この「べつに」には「個性」がない。だれもが知っている、そしてそれも説明が必要がないくらい肉体にしみついている「べつに」なので、ほんとうにそれがわかろうがわかるまいが、どうでもいい。
でも、
<質問>もし、この行に「べつに」がなかったら、どうなる?
<受講生>えっ、なにもかわらない。
<質問>「行かなくってもべつにいい」も「行かなくってもいい」も意味は同じ?
<受講生>意味は同じ。何も変わらない
<質問>じゃあ、なぜ、栗原は「べつに」ということばを書いたのだろう。
ほら、むずかしくなってきた。つまり、このとき「思想」にぶつかっているのだ。「思想」は簡単なことばで語られるけれど、理解しようとするととてもむずかしものだ。(難解なことばで語られる「思想」は「頭」で処理することがらなので、実は簡単、と私は思っている。--これは余談。)
「べつに」にはほんとうは深い深い、ことばにならないなにかがひそんでいるのだ。「肉体」にしみついているなにかが固まっているのだ。
「べつに」とは「なにかと違っている」ということである。「べつに」には「私」ではないなにかが含まれている。そこには「私とはべつのもの/こと」があるのだけれど、それを私は拒否しない。「私とはべつのもの/こと」があっても「私」は、それを気にしない。拒絶しない。受け入れる。
この世には「べつのもの/こと」があって、それと「私」はいつも共存しているのである。「共存」のひとつのあり方が「べつに」なのである。
「私(私の肉体)とはべつなもの/こと」といえば、自分の子供である。りかといぶき。ふたりの子供。その「肉体」は「羽二重もち」のようでもあり、「白玉」のようでもある。「私(栗原)」の「肉体」とはまったく「べつのもの/こと」である
それが、とてもうれしい。「べつなもの/こと」なのに「べつなもの/こと」ではなく、しっかりと「私の肉体」につながっている。「ひとつ」になっている。「べつ」はほんとうは「べつ」ではなくて、「同じ」でもあるのだ。
何言っている? 「べつ」が「同じ」なんて、矛盾じゃないか。
そうなんだねえ。矛盾なんだねえ。だから、私は、それを「思想(肉体)」と呼ぶのだけれど。
「べつ」なのに「同じ」だからこそ、
行かなくってもべつにいい
は、「行かなくても同じようにいい」ということでもある。「同じ」つかうと「行っても/行かなくても、同じ」という具合に「意味」が混同してしまうのだけれど、この「同じ」は「私(栗原)の肉体にとっては同じ」ということなのだ。(これって、説明不足だね。私は、いいたいことを正確にことばにできない。--栗原の詩には知らないことばはないし、知らない「思想」もないのに、それを語る/言いなおすのはとてもむずかしい。)
で、こういうことを考えていると、
でも うっとりして何もわからなくなってしまう
うーん、でも、この「何もわからなくなる」は、ほんとうはなにもかもが「わかる」でもあるんだなあ。りかといぶきが「羽二重もち」であり「白玉」であることははっきり「わかる」。そして幼稚園へ行こうが行くまいが「べつにいい」ということも「わかる」。その「わかる」は、どこか「肉体」の「覚えていること」としっかり結びついていて、それだけは「間違いなく正しい」ということが「わかる」から、ほかのことは「わからい」のままでも「別に」かまわないのである。
こういうことを栗原は「べつの」ことばで言いなおしている。
街も空も にわかに意味をなくし
名前も失うかに見えたとき
ただ一つ 胸に落ちた輝きを見つめながら 私は
たどたどしく人間のことばでつぶやく
唇を震わせながら
幸福 と
「肉体」の「覚えているもの/こと」は「一つ」である。私の肉体(思想)とは「べつのもの/こと」があり、それは「べつ」であることによって、ほんとうは「一つ」なのである。「私の肉体(思想)」と同じ「一つ」が「べつのもの/こと」のなかで動いていて、その「べつのもの/こと」といっしょに「私の肉体(思想)」が共存するとき、それは「幸福」ということなのだ。
りかが幼稚園へ行かなくても「べつに」いい。行かないからといって、りかの「肉体」のなかに動いているものと「私の肉体」のなかに動いているものが「同じ一つ」を失うわけではない。またりかといぶきが「羽二重もち」「白玉」であっても、「べつに」いい。「羽二重もち」「白玉」は「私の肉体」とは違うけれど、その内部で動いているものは「同じ一つ」。
「同じ一つ」を「べつ」をとおして知る。それは「同じ一つ」を「私の肉体」が「覚えている」ということを発見することでもある。
これを人間のことば(!)で言いなおすと、「幸福」である。「流通言語」で言いなおすと「幸福」である。
東北大震災後、ことばは、ここまで回復することができた、と私は思った。「生きていて幸福」と「正直」に言えるようになった--この「正直」の力はいいものである。この「正直」を栗原は、ほんとうにだれもが書くようなことばでつかみとっている。
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