詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

栗原知子『ねこじゃらしたち』(2)

2012-12-23 12:41:58 | 詩集
栗原知子『ねこじゃらしたち』(2)(思潮社、2012年12月12日発行)

 栗原知子『ねこじゃらしたち』の魅力を語るのは、私にはとてもむずかしい。だれでもが思うことを、だれでもがつかっていることばで書いている。あ、こんなことばのつかい方は知らなかったなあ、これは新しいなあ、と驚くところがない。
 たとえば「祝日」。

留守宅かもしれないし
いたずらかもしれない
管理人室が開かれて原因が判るまで
非常ベルは止まない
窓を割るのか
鍵屋を呼ぶのか
所在無さげなハシゴ車を
子供たちが囲んでいて
警報の中で考えた
燃えては困るものと
燃えてしまったら うれしいもの
「火!」だけを告げるジリジリの上で
どこまでも透きとおる空

足止めを食らった家族連れの中で
摘まれたタンポポを手に受ける
輝く綿毛をつまむ
土から集められた力が
ぷつりと肩口にとどくとき
警告音をも押し消していく
今日の気配

 私の住むマンションでもあったが、突然警報器が鳴る。その家の人がいればいいが、いないときは火が出ているかどうかも確認がむずかしい。消防車がやってくる。警備会社のひともやってくる。日曜、祝日は会社も休みなので、管理人が不在だ。
 この情景に「個性」はない。(いま書いたが、私にもこういう経験がある。)その「個性」のないことを、そのまま書いているのがおもしろい。
 いや、「非個性」ではないというひとがいるかもしれない。特に、

警報の中で考えた
燃えては困るものと
燃えてしまったら うれしいもの

 この3行は「個性」かもしれない。そうかもしれないけれど、ほら、思うでしょ? あれは燃えては困る。でも、あれは「それだけ燃えて消えてしまったらうれしいな」と思うことってあるでしょ? 火事なのだから、燃えてほしいものだけ燃えるというようなことはないのだけれど、そういう無理を夢見るのが人間である。--ということは脇に置いておいて、このだれでもが思うこと(思うかもしれないこと)が、軽口のような感じで書かれている。それが「個性」であるにしても、「個性」の部分よりも「共通項」の部分の方が多い。「個性」はいわば自己主張しない。小さな飾りである。
 そして、そういう「小さな個性」を無視するかのように、

どこまでも透きとおる空

 祝日の、休日の空だねえ。「こんなに晴れているのに、遊びに行きたいのに、困ったわねえ」。「私はどこへ遊びに行くわけじゃないから、いい気味だわ」なんていう意地悪は隠して、「ほんとうにそうね、早くはっきりしてほしいわ」なんて会話が繰り広げられる。子供は「わーいハシゴ車だ」と無関係にはしゃいでいる。
 そういう情景が、そのまま、そのとおりのことばで書かれている。
 これは、簡単そうでなかなかできない。どうしたって「わざと」なにか「個性的」なことを書きたくなる。書かないと、詩ではないのではないか、という思いにとらわれる。こんなことならだれでもが書いている(に違いない)と勝手に思い込んで、なにか新しいものをつけくわえようとする。
 でも、その「わざと」を遠ざけて、ただ「正直」にもどる。あったままを、あったままに書く。そこで動くことばの、あまりにも自然な感じ--この「あまりにも自然な」、つまり「あまりにも人間的な」感じが、そのまま私の「肉体」の奥まで、とても楽に入ってくる。
 この「楽な感じ」のことば、「正直」そのままのことば--これを「個性」にしてしまっているところが、この詩の強さなのだけれど。
 うーん、「非個性」が「個性」というのは矛盾だしなあ……。
 説明できないなあ、でもなんとか説明してみたいなあ。そういう気持ちになるのである。

 で、どうなるわけでもないが、私は、だらだらと感想を書くのである。書きつづけるのである。
 「幸福」という詩は「震災の年、夏に」という小さなサブタイトルがついている。この詩の美しさを、私のことばで言いなおしてみるのも、またたいへんにむずかしい。感想を書くのが非常にむずかしい。

「今日、保育園行かない」
とりかが言う
十分もしたら気が変わるかもしれないし
私は働いていないから
行かなくってもべつにいい

累々たる布団の海に うつぶせで寝ている
右手にりか 左手にいぶき三歳の子のお腹は羽二重もちみたいだし
赤ちゃんの太腿は白玉のようにとうとい
私は余命のことを考えたり
また 放射性物質のことを考えたりしようとする
でも うっとりして何もわからなくなってしまう

 子供が幼稚園へ行かないと言ったのはどうしてだろう。震災の不安が残っていて(甦ってきた)栗原のそばを離れなくないのかもしれない。その気持ちがわかるので、

行かなくってもべつにいい

 と栗原は思う。
 この行の「べつに」がとてもいい。
 私の「現代詩講座」では、いつもこういうことばを取り上げる。

<質問>この「べつに」を自分のことばで言いなおすと、どうなる?

 だれもすぐには答えられない。「べつに」の意味はわかっているのに、それを自分のことでいいなおそうとしても「べつに、って、べつに、だよね」。わかりすぎているので、ことばにならない。
 幼稚園へ行かないと言い張ることばも「いいよ」と受け入れるように、「べつに」ということばを私たちは受け入れてしまう。受け入れることに何の困難も感じない。
 「べつに」ってことば、そのまま受け入れたって「べつに」かまわないよ。
 そうなんだよなあ。
 この「べつに」には「個性」がない。だれもが知っている、そしてそれも説明が必要がないくらい肉体にしみついている「べつに」なので、ほんとうにそれがわかろうがわかるまいが、どうでもいい。
 でも、

<質問>もし、この行に「べつに」がなかったら、どうなる?
<受講生>えっ、なにもかわらない。
<質問>「行かなくってもべつにいい」も「行かなくってもいい」も意味は同じ?
<受講生>意味は同じ。何も変わらない
<質問>じゃあ、なぜ、栗原は「べつに」ということばを書いたのだろう。

 ほら、むずかしくなってきた。つまり、このとき「思想」にぶつかっているのだ。「思想」は簡単なことばで語られるけれど、理解しようとするととてもむずかしものだ。(難解なことばで語られる「思想」は「頭」で処理することがらなので、実は簡単、と私は思っている。--これは余談。)
 「べつに」にはほんとうは深い深い、ことばにならないなにかがひそんでいるのだ。「肉体」にしみついているなにかが固まっているのだ。
 「べつに」とは「なにかと違っている」ということである。「べつに」には「私」ではないなにかが含まれている。そこには「私とはべつのもの/こと」があるのだけれど、それを私は拒否しない。「私とはべつのもの/こと」があっても「私」は、それを気にしない。拒絶しない。受け入れる。
 この世には「べつのもの/こと」があって、それと「私」はいつも共存しているのである。「共存」のひとつのあり方が「べつに」なのである。

 「私(私の肉体)とはべつなもの/こと」といえば、自分の子供である。りかといぶき。ふたりの子供。その「肉体」は「羽二重もち」のようでもあり、「白玉」のようでもある。「私(栗原)」の「肉体」とはまったく「べつのもの/こと」である
 それが、とてもうれしい。「べつなもの/こと」なのに「べつなもの/こと」ではなく、しっかりと「私の肉体」につながっている。「ひとつ」になっている。「べつ」はほんとうは「べつ」ではなくて、「同じ」でもあるのだ。
 何言っている? 「べつ」が「同じ」なんて、矛盾じゃないか。
 そうなんだねえ。矛盾なんだねえ。だから、私は、それを「思想(肉体)」と呼ぶのだけれど。
 「べつ」なのに「同じ」だからこそ、

行かなくってもべつにいい

 は、「行かなくても同じようにいい」ということでもある。「同じ」つかうと「行っても/行かなくても、同じ」という具合に「意味」が混同してしまうのだけれど、この「同じ」は「私(栗原)の肉体にとっては同じ」ということなのだ。(これって、説明不足だね。私は、いいたいことを正確にことばにできない。--栗原の詩には知らないことばはないし、知らない「思想」もないのに、それを語る/言いなおすのはとてもむずかしい。)
 で、こういうことを考えていると、

でも うっとりして何もわからなくなってしまう

 うーん、でも、この「何もわからなくなる」は、ほんとうはなにもかもが「わかる」でもあるんだなあ。りかといぶきが「羽二重もち」であり「白玉」であることははっきり「わかる」。そして幼稚園へ行こうが行くまいが「べつにいい」ということも「わかる」。その「わかる」は、どこか「肉体」の「覚えていること」としっかり結びついていて、それだけは「間違いなく正しい」ということが「わかる」から、ほかのことは「わからい」のままでも「別に」かまわないのである。
 こういうことを栗原は「べつの」ことばで言いなおしている。

街も空も にわかに意味をなくし
名前も失うかに見えたとき
ただ一つ 胸に落ちた輝きを見つめながら 私は
たどたどしく人間のことばでつぶやく
唇を震わせながら
幸福 と
 
 「肉体」の「覚えているもの/こと」は「一つ」である。私の肉体(思想)とは「べつのもの/こと」があり、それは「べつ」であることによって、ほんとうは「一つ」なのである。「私の肉体(思想)」と同じ「一つ」が「べつのもの/こと」のなかで動いていて、その「べつのもの/こと」といっしょに「私の肉体(思想)」が共存するとき、それは「幸福」ということなのだ。
 りかが幼稚園へ行かなくても「べつに」いい。行かないからといって、りかの「肉体」のなかに動いているものと「私の肉体」のなかに動いているものが「同じ一つ」を失うわけではない。またりかといぶきが「羽二重もち」「白玉」であっても、「べつに」いい。「羽二重もち」「白玉」は「私の肉体」とは違うけれど、その内部で動いているものは「同じ一つ」。
 「同じ一つ」を「べつ」をとおして知る。それは「同じ一つ」を「私の肉体」が「覚えている」ということを発見することでもある。
 これを人間のことば(!)で言いなおすと、「幸福」である。「流通言語」で言いなおすと「幸福」である。

 東北大震災後、ことばは、ここまで回復することができた、と私は思った。「生きていて幸福」と「正直」に言えるようになった--この「正直」の力はいいものである。この「正直」を栗原は、ほんとうにだれもが書くようなことばでつかみとっている。




ねこじゃらしたち
栗原 知子
思潮社
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