詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

サム・メンデス監督「007 スカイフォール」(★★★★)

2012-12-08 09:20:10 | 映画
監督 サム・メンデス 出演 ダニエル・クレイグ、ハビエル・バルデム

 映画がはじまってすぐダニエル・クレイグが一生懸命走る。足で走るだけではなく、車で走り、バイクで走るというのもあるのだけれど、乗り物に乗るにしても「肉体」が動いている。何よりも「肉体」のアクションが印象に残る。それが象徴的なのが列車の上の格闘シーン。列車は動いている。その乗り物は脇役で主役はあくまで人間の「肉体」。
 この「肉体」の感じが、なかなかクラシックでいいなあ。やっていることは全部「映画」、つまり「嘘」なんだけれど、その「嘘」が「肉体」によって「ほんもの」になる。「肉体」に迫ってくる。
 で、ダニエル・クレイグが、これだけ窮屈な服はないだろうというくらい「肉体」にぴっちりはりついた服を着ている。これじゃあ余裕がなくてアクションをできないよ、というようなことは言わせずに、まあ、よく動く。ショーン・コネリーじゃ、いくら若くてもだめだね。彼にはダニエル・クレイグのアクション以前に、ファッションがむり。あんなぴちぴち服を着たら、ダンディーではなくなる。ショーン・コネリーの時代は、服を脱いだら(裸になったら)、想像もしなかった肉体が出てきた(セクシーだった)という時代なのだが、現代は「胸毛」くらいではセクシーではないのだ。脂肪がなくて、鍛え上げた筋肉というのがセクシーなのだ。それは服を着ているとき、その動きからもう始まっているのだ。服を脱ぐ必要のないセクシーさ。
 そして、この「肉体=セクシー」の強調が、昔なつかしい女(裸)と銃と車という「男の夢」を代弁する。いまどきこんな映画は……というようなことは、しかし、思わないんだなあ。いやあ、いいなあ、この感じ。なつかしいなあ。クラシックだなあ。映画はやっぱりこうでなくっちゃ。--まあ、これはマッチョ思想なんだけれど。いいんじゃない? 映画のなかくらい。映画の感想くらい。
 あ、なぜ、こんな「肉体」のことを延々と書くかというと。それは「敵役」のハビエル・バルデムと比較するためなんですねえ。ハビエル・バルデムは、どんな気持ちの悪い男にもなれるという強烈な「顔」を持っている。目も鼻も口も大きい。すべてが顔からはみ出す。つまり、目は目だけでセクシーに相手をのみこんでしまうというような顔をしている。そのハビエル・バルデムは脱がない。そのかわりに、入れ歯を外してみせて、「ほんとうは薬物のせいでこんなに醜い顔になっている」と、いわば「顔」を裸にしてみせるという具合。
 この対比、おもしろいでしょ?
 肉体のセクシーも顔のセクシーも時代とともに変わってきたんだねえ。変わってきたんだけれど、どんなにかわっても、やっぱり「肉体」にこそ人間は(観客は)反応する。そういうことを踏まえて映画がつくられているんだなあと思う。それで、それがとってもとってもとってもおもしろいのである。
 「肉体」の強調というか、「肉体」への回帰は、クライマックスにもよくあらわれている。舞台はスコットランドの荒地。家が一軒。協会がひとつ。ほかは何もない。雑草が生えているだけの荒地。そこで最後の戦いがおこなわれるのだけれど、何もないから、どうしても「肉体」だけが際立つ。
 そしてね。そのとき、その荒地、自分が育った土地(家を含む)というのはやっぱり「肉体」なのだということがわかる。そのとき銃よりもナイフの方が「肉体」だということもわかる。「裸」で戦うとき、ひとは「自分の場」で戦えば勝てる。なぜかといえば、人間の「裸」をその土地の「裸」は守ってくれる。同じ「空気」を生きているので、「裸」が一体になれるのだ。
 よそものはそういう具合にはいかない。知らない「場」では「裸」では戦えない。そこにあるものをつかって「武器」をつくりだすということもできない。外から「武器」を持っていくしかない。自分をまもる「服」を常に着ていないといけない。ハビエル・バルデムは「裸」になれないどころか、「部下」という鎧がないと戦えない。ダニエル・クレイグは古くからそこにいる知り合いと二人だけで、「場」を利用しながら戦う。そこにあるもの、たとえば「空きビン」をさらに「裸」にしてガラスの破片にし、そこから「武器」をつくりだすということをする。「完成品」を「素材」にかえし、つまり「裸」にして、それが「裸」のままの力でどこまで戦えるかを考え、鍛えなおす。
 これを見ながら私は、ベトナム戦争と、その直後につくられたフランスの「追想」という映画を思い出したのだけれど。ベトナムがアメリカに勝てたのは、戦いの場がベトナムだったから。そこが「裸」で暮らして「場」であったから。素手で、そこにあるものを加工しながらでも戦える--それが裸で戦うこと。「追想」の主人公も自分の住み慣れた「家」を舞台に少ない武器でドイツ兵と戦い勝ち抜く。
 もしほんとうに戦いぬかなけれはならないことあるなら、ひとは、自分の「裸」を受け入れてくれる「場」へ帰って戦うべきなのだ。その「場」のすべてを「裸」にして、そこから世界を組み立てなおしながら戦う。そうするときひとは「侵入者」に絶対に負けることはない。
 この映画では、Mが最後に死んでしまうのだが、彼女はボンドの「味方」であっても、やはりその「場」の人間ではない。ひとりの「侵入者」であることを考えると、その死は「必然」なのである。ひとが生きる(裸でも生き抜くことができる)のは、自分の「場」以上に適したところはない。
 --映画のテーマはそういうことではないのだが、そういうことを考えてしまうくらい、この映画はおもしろかった。どこまでもどこまでも「誤読」できる映画である。強引に「誤読」を繰り返せば、「007」は肉体と女と銃のアクションというの「007」の出発点に戻ること--「裸」になることで、新しく甦ることができたのだとも言える。
              (2012年12月07日、天神東宝・ソラリアスクリーン7)




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