高橋睦郎「風景」(「現代詩手帖」2012年12月号)
高橋睦郎「風景」(初出「読売新聞」2012年01月21日朝刊)にも、きのう読んだ長田弘の作品と同じように「うつくしい」ということばがたくさん出てくる。そして、高橋もひらがなで「うつくしい」をあらわしている。
うーん、この詩のどこがいいのだろう。どうして「年鑑」に収録されているのだろう。ほんとうにこれが2012年の「収穫」なのか。高橋の代表作なのか。
だいたい、ここに書かれている「風景」が見える?
長田の詩の場合でも、そこに書かれている「風景」が見えるかといわれるとはっきりしないが、少なくとも「木」を思い描くことができた。では、高橋の詩の場合は?
「光」が登場する。「水」も登場する。そして「影」が登場する。でも、何の影?
しかも「ものみな細やかな影を呼吸していた」というのだけれど、その「ものみな」って何? 「影を呼吸する」って、どういうこと?
わからないねえ。
わからないのに「こんなにおだやかな こんなにうつくしい」と言われてもねえ。その「うつくしさ」はぜんぜんわからない。「おだやかさ」もどう思い描いていいのかわからない。
さらに「そこには ひとりの人影もなかった/もちろん 私自身の影もなかった」とつづくのだけれど、「私自身の影もなかった」とは「私がいなかった」ということだから、では、これは、だれが見た風景?
変だねえ。
「高橋睦郎」という「名前」がなかったら、私はこういうことばを読み捨ててしまっていただろうと思う。「高橋睦郎」という名前があるから、ふーん、これが高橋の今年の代表作か、どこがいいのかな? どこに詩を見つけることができるかな。私は「定見」などもたない俗物だから、そこでちょっと立ち止まるのである。
で、まあ、そんな気持ちで読みなおしてみた。
で、読みなおして気がついたことは、ふたつある。
ひとつは
この「改めて」がこの詩のキーワードであるということ。キーワードというのは、そのことばがないと「世界」が存在しないことば。いわば「核心」。ただし、それは「個性的」ではない。だれもがつかうことばである。たぶん書いている高橋は「無意識」につかっていると思う。言い換えると、ことばが「肉体」になってしまっている、思想になってしまっていることばである。
そこにはほんとうは木があったかもしれない。川があったかもしれない。丘があって、小鳥や小さな動物たちもいたかもしれない。それを見て「おだやかでうつくしい」と高橋は思ったかもしれない。ねして、詩人だから、そのおだやかでうつくしい風景をことばにしようとして、
改めて、
世界を見つめる。
このとき「見つめる(見渡す)」のは、高橋の場合「目」ではない。「ことば」である。目で見たものを、ことばにする。ことばで「改めて」見る。
そうすると、まず最初に「人間」がその風景のなかにいないということに気がついた。光、水、影は存在するが「人間」がいない。人影がない。人がいなくても、そこには世界があり、また「ことば」がある。
「ことば」だけがある。「ことば」だけで世界を成立させることができる。「ことば」だけで世界をそこにあらわすことができる。「無」から「有」への転換を「ことば」だけですることができる。
「改めて」は、「ことば」による「無」から「有」への転換である。
そう書くと何かかっこいいことを発見したような気持ちになってしまうが……。これは、しかし、とても変である。まず「世界(風景)」があった。それを「改めて」ことばとしてそこに存在させるわけだから、その運動は有(世界がある)からことばがある(有)への転換である。
「無」なんて、関係がない。
ふつうはたしかに風景があってそれをことばにするときは、単に世界をことばで反復することだから、「無」は関係がないし、無から有への転換など、でたらめの妄想になる。それはそうなのだが、
このことばが、その、ふつうの描写の場合は入っていないことに注意しなければならないのだと思う。ふつうは「改めて」ことばを動かす、「改めて」世界を描写するというようなことなど考えないで、「ことば」を動かしている。
ところが、そのだれもしないことを高橋は「改めて」ということばを契機にやりはじめるのである。
では、それは「意識的」なのか。
そうではないと思う。
「意識的」にことばで世界をあらわすときには、「もの」がはっきり見えるように書き表す。たとえば木の枝はどんなふうにねじ曲がっていた、そしてそれはどんな印象を与えたか--そういう具合に「具体性」をこころがける。それがふつうである。
まあ、高橋もそういうことをしようとしたのかもしれないが、この「改めて」はだれにとってもあまりにも「無意識」にはじまる。あまりにも「常識的」にはじまる。
それは「常識(無意識)」なのだが、それを「改めて」とふと「無意識」にもらしてしまったために、高橋の「ことば」は風景ではなく、ことばそのものへと引き込まれてしまったのである。
どうすることもできない、何か変なことが、瞬間的に起きてしまったのである。
そういうことを、私は「改めて」という「ことば」をとおして感じた。
そして、その「変なこと」は、どんなふうに「ことば」に影響したかというと……。これが私が気づいた二つ目のことなのだが。
「ふりそそいでいた」「あふれやまなかった」「呼吸していた」「……した」と「過去形」で動いていたことばが、
突然、そこだけ「現在形」になる。「動き」そのものになる。
「改めて」世界を見渡すと、すべては「過去形」として存在し、「感じている」ということだけが「現在形」としてある。
「ことば」は「過去」をつくりだしながら、「現在」を動く。
「感じている」という「現在」は、そして、ことばを動かしてしまうと次々に「過去形」になる。「うなづいていた」「涙をながしていた」。
私たちは「いま/ここ」という現在にしか存在しえないが--というのは変な言い方だが、「いま/ここ」という現在にいて、「ことば」を動かすと(ことばによって「改めて」世界を見渡すと)、そこには「現在」が「過去」としてあらわれてきてしまう。どうしようもない「亀裂」のようなものがあらわれてしまう。
この亀裂から、では、私たちはどこへ動いていくべきなのか。
私には高橋は「ことば」の方へ動いてくように見える。
「私」は存在しない。ただ「ことば」だけがある。「ことば」の風景がある。「私」が不在になり、ことばだけが存在するときの方が「風景」は完璧なのだ。「ことば」自身で動いて行けるからだ。「私」がいれば、どうしたってことばは「私」の意識や無意識にひっぱり回される。
「ことばの風景」は「人間を超えた 生命を超えた世界」なのかもしれない。
うーん。でも、きょう書いたことは「保留」だな。
きょう書いたことは、私がほんとうに感じたことではない。どうしてこの作品が「年鑑」に収録されているのだろう。どこに高橋の詩の魅力があるのだろう。それを考えてみようと思い、「頭」が動かしたことばである。
「頭」で動かしたことばにはどこかに「無理・嘘」がある。きょう書いたことは私の肉体になるかどうかわからない。
高橋睦郎「風景」(初出「読売新聞」2012年01月21日朝刊)にも、きのう読んだ長田弘の作品と同じように「うつくしい」ということばがたくさん出てくる。そして、高橋もひらがなで「うつくしい」をあらわしている。
光が降りそそいでいた
水があふれやまなかった
ものみな細やかな影を呼吸していた
こんなにおだやかな こんなにうつくしい
風景が かつて何処(どこ)かにあったろうか
幸福感に満たされて 改めて見渡した時
そこには ひとりの人影もなかった
もちろん 私自身の影もなかった
そこにいない私が そこの風景を
ひとしひと感じ取っている
だから こんなにもうつくしく
だから こんなにもやすらかなのだ
そこにいない私が 深くうなづいていた
うなづきながら 涙をながしていた
人間を超えた 生命を超えた世界への
ゆるぎない信頼と祝福の涙だった
私は何処にも存在しなかった
私の不在ゆえに 世界は完璧だった
うーん、この詩のどこがいいのだろう。どうして「年鑑」に収録されているのだろう。ほんとうにこれが2012年の「収穫」なのか。高橋の代表作なのか。
だいたい、ここに書かれている「風景」が見える?
長田の詩の場合でも、そこに書かれている「風景」が見えるかといわれるとはっきりしないが、少なくとも「木」を思い描くことができた。では、高橋の詩の場合は?
「光」が登場する。「水」も登場する。そして「影」が登場する。でも、何の影?
しかも「ものみな細やかな影を呼吸していた」というのだけれど、その「ものみな」って何? 「影を呼吸する」って、どういうこと?
わからないねえ。
わからないのに「こんなにおだやかな こんなにうつくしい」と言われてもねえ。その「うつくしさ」はぜんぜんわからない。「おだやかさ」もどう思い描いていいのかわからない。
さらに「そこには ひとりの人影もなかった/もちろん 私自身の影もなかった」とつづくのだけれど、「私自身の影もなかった」とは「私がいなかった」ということだから、では、これは、だれが見た風景?
変だねえ。
「高橋睦郎」という「名前」がなかったら、私はこういうことばを読み捨ててしまっていただろうと思う。「高橋睦郎」という名前があるから、ふーん、これが高橋の今年の代表作か、どこがいいのかな? どこに詩を見つけることができるかな。私は「定見」などもたない俗物だから、そこでちょっと立ち止まるのである。
で、まあ、そんな気持ちで読みなおしてみた。
で、読みなおして気がついたことは、ふたつある。
ひとつは
幸福感に満たされて 改めて見渡した時
この「改めて」がこの詩のキーワードであるということ。キーワードというのは、そのことばがないと「世界」が存在しないことば。いわば「核心」。ただし、それは「個性的」ではない。だれもがつかうことばである。たぶん書いている高橋は「無意識」につかっていると思う。言い換えると、ことばが「肉体」になってしまっている、思想になってしまっていることばである。
そこにはほんとうは木があったかもしれない。川があったかもしれない。丘があって、小鳥や小さな動物たちもいたかもしれない。それを見て「おだやかでうつくしい」と高橋は思ったかもしれない。ねして、詩人だから、そのおだやかでうつくしい風景をことばにしようとして、
改めて、
世界を見つめる。
このとき「見つめる(見渡す)」のは、高橋の場合「目」ではない。「ことば」である。目で見たものを、ことばにする。ことばで「改めて」見る。
そうすると、まず最初に「人間」がその風景のなかにいないということに気がついた。光、水、影は存在するが「人間」がいない。人影がない。人がいなくても、そこには世界があり、また「ことば」がある。
「ことば」だけがある。「ことば」だけで世界を成立させることができる。「ことば」だけで世界をそこにあらわすことができる。「無」から「有」への転換を「ことば」だけですることができる。
「改めて」は、「ことば」による「無」から「有」への転換である。
そう書くと何かかっこいいことを発見したような気持ちになってしまうが……。これは、しかし、とても変である。まず「世界(風景)」があった。それを「改めて」ことばとしてそこに存在させるわけだから、その運動は有(世界がある)からことばがある(有)への転換である。
「無」なんて、関係がない。
ふつうはたしかに風景があってそれをことばにするときは、単に世界をことばで反復することだから、「無」は関係がないし、無から有への転換など、でたらめの妄想になる。それはそうなのだが、
改めて
このことばが、その、ふつうの描写の場合は入っていないことに注意しなければならないのだと思う。ふつうは「改めて」ことばを動かす、「改めて」世界を描写するというようなことなど考えないで、「ことば」を動かしている。
ところが、そのだれもしないことを高橋は「改めて」ということばを契機にやりはじめるのである。
では、それは「意識的」なのか。
そうではないと思う。
「意識的」にことばで世界をあらわすときには、「もの」がはっきり見えるように書き表す。たとえば木の枝はどんなふうにねじ曲がっていた、そしてそれはどんな印象を与えたか--そういう具合に「具体性」をこころがける。それがふつうである。
まあ、高橋もそういうことをしようとしたのかもしれないが、この「改めて」はだれにとってもあまりにも「無意識」にはじまる。あまりにも「常識的」にはじまる。
それは「常識(無意識)」なのだが、それを「改めて」とふと「無意識」にもらしてしまったために、高橋の「ことば」は風景ではなく、ことばそのものへと引き込まれてしまったのである。
どうすることもできない、何か変なことが、瞬間的に起きてしまったのである。
そういうことを、私は「改めて」という「ことば」をとおして感じた。
そして、その「変なこと」は、どんなふうに「ことば」に影響したかというと……。これが私が気づいた二つ目のことなのだが。
「ふりそそいでいた」「あふれやまなかった」「呼吸していた」「……した」と「過去形」で動いていたことばが、
ひしひしと感じている
突然、そこだけ「現在形」になる。「動き」そのものになる。
「改めて」世界を見渡すと、すべては「過去形」として存在し、「感じている」ということだけが「現在形」としてある。
「ことば」は「過去」をつくりだしながら、「現在」を動く。
「感じている」という「現在」は、そして、ことばを動かしてしまうと次々に「過去形」になる。「うなづいていた」「涙をながしていた」。
私たちは「いま/ここ」という現在にしか存在しえないが--というのは変な言い方だが、「いま/ここ」という現在にいて、「ことば」を動かすと(ことばによって「改めて」世界を見渡すと)、そこには「現在」が「過去」としてあらわれてきてしまう。どうしようもない「亀裂」のようなものがあらわれてしまう。
この亀裂から、では、私たちはどこへ動いていくべきなのか。
私には高橋は「ことば」の方へ動いてくように見える。
「私」は存在しない。ただ「ことば」だけがある。「ことば」の風景がある。「私」が不在になり、ことばだけが存在するときの方が「風景」は完璧なのだ。「ことば」自身で動いて行けるからだ。「私」がいれば、どうしたってことばは「私」の意識や無意識にひっぱり回される。
「ことばの風景」は「人間を超えた 生命を超えた世界」なのかもしれない。
うーん。でも、きょう書いたことは「保留」だな。
きょう書いたことは、私がほんとうに感じたことではない。どうしてこの作品が「年鑑」に収録されているのだろう。どこに高橋の詩の魅力があるのだろう。それを考えてみようと思い、「頭」が動かしたことばである。
「頭」で動かしたことばにはどこかに「無理・嘘」がある。きょう書いたことは私の肉体になるかどうかわからない。
詩心二千年――スサノヲから3・11へ | |
高橋 睦郎 | |
岩波書店 |