田中清光「ジャコメッティの手」(「午前」2、2012年12月05日発行)
田中清光「ジャコメッティの手」はたいへん魅力的なことばで始まる。
この1行だけで、この詩が傑作であることがわかる。「有」ではなく「無」が広がる。そもそも「無」に「広がり」はあるのか、という疑問を一瞬のうちに拒絶してしまう力がある。「どこからでも」という強い肯定が「無」を確固としたものにしている。それだけでジャコメッティの削りこんだ彫刻が見えてくる。
この詩は、次のようにつづいていく。
傑作---と思ったこころが急にしぼんでいく。「紅の花」。これは抽象的だが、まだ勝手に花を「肉体」に引き寄せることができる。「鉄の塊り」も「肉体」に引き寄せることができる。「円相」も、日本人だから(?)、なんとなく「肉体」に引き寄せることができる。よくわからんが、禅宗の寺に掲げてある一筆で書いた月(円)を「覚えている」からである。それは月か、円か、菩薩か--なんとでも断定できるが、その断定にこだわるとき円は円ではなくなるというようなことは、「わからない」のだけれど、「肉体」が「覚えている」ので、その方向へことばが動いていくのだなという「動き」を感じることができる。「無」ということばが、「円相」を呼吸していることに対して「肉体」が納得する。
ところが。
「狂いかけた精神」「肉体」という「対」が出てくると、あれっ、これは「日本人の肉体」とは違うぞ、と感じるのである。ジャコメッティだから「日本人の肉体」ではないのだろうけれど……。
で、「現実での金貨と政治まで」にきてしまうと、私には、ここに書かれていることが私の「肉体」とは無縁のことがらに見えてしまう。もちろん田中が書いているジャコメッティなのだから私の「肉体」と無縁であることはあたりまえなのだが、「肉体」というのは「無縁」であっても(あるいは完全に断絶していても)、どこかでつながっているものである。道で倒れて腹をかかえるようにうめいている人間を見ると「あ、腹が痛いのだ」と自分の肉体の痛みでもないのにそれがわかる、という具合に、どこかでつながっているものである。そういう「つながり」が、私の場合、ここでとぎれてしまう。
「金貨」のせいである。私の「肉体」はそれを知らない。私の「頭」はそれを知っている。ヨーロッパの小説に出てくるものとして知っている。「肉体」は知らないけれど「頭」は知っている、ということはだれにでもある。そのひとつが、私の場合「金貨」である。そして、そのことばに出合った瞬間、あ、田中は「頭」でことばを動かしていたのか、と思ってしまうのである。
言い換えると、つまずく。
つまずいてしまうと「紅」に「くれない」とルビをふって読ませることばのつかい方もなんだかとても「肉体」から遠い。「くれない」にほんとうに「肉体」が見てしまったのなら「くれない」というルビはつかわない。目の前にある「紅」を「あか」ではなく「くれない」であると言い換える、「あか」と読んでもらっては困る、というのは「頭」の働きである。「肉体」は自分で引き受けたものを別のことばで言い換えようとはしない。他人がどう読もうが関係ない--そして、この他人がどう読もうが関係ないというのは、どんなふうに読んでも「肉体」はつながっているという、ことばにならない何か共通のものを感じる力と関係している。
そういうものを田中は信じてはいないのだ。
もちろんいま私が書いたことは、まったく逆の立場からとらえなおすこともできる。「肉体」があいまいに「覚えていること」を「肉体」にまかせてしまうのではなく「頭」で整理し、「共通言語」にして動かす、ということを田中はしているのだ、という点からとらえなおすことはできる。たぶん、そうする方が田中の「神髄」に近づくことになるのだと思うけれど、私は、ちょっとためらうのである。
それはそれでいいんだろうけれど、それは私のやり方ではないなあ。私自身の「肉体」を裏切らないことには、そのことばにはついていけないなあ。「頭」を時間を遡って鍛えなおさないことにはついていけないなあ、と感じるのである。こういうことはすべて「感覚の意見」であって、論理的には説明できないのだけれど。
と、書きながら、評価しているか、けなしているのか、あいまいなところで私がうろうろしているのは……。(いったい私が田中のこの詩を「傑作」と言おうとしているのか、「駄作」と言おうとしているのか、わからないでしょ? 実は、私にもわからないのだけれど。)
2連目の1行目、
この行が、また、ずしんと「肉体」に直接ぶつかってくる。この1行がというより、正確に私の感想を書くと、
1連目と2連目の「空白」(断絶)が、「肉体」にぶつかってくる。額縁の一筆書きの丸が、円か月か菩薩かという具合に「飛躍」のなかでつかみとられるときの「飛躍」がずしんと「肉体」の奥にぶつかってくるのである。
これは書き出しの
を言い直したものなのだが、それが単なる「言い直し」を超えたものとして響いてくる。1行目が「無」という具合に括弧付きだったものが、括弧なしの無というかわることさえ、ほーっと嘆息がもれてしまう。「ときとところと」と田中は「並列」の形で書いているが、これは「とき」という存在(もの)と「ところ」という存在(もの)の並列というよりも、「ときである(ということ)」「ところである(ということ)」なのだろうなあと私は納得する。--誤読する。
「もの」という名詞ではなく「ある」を含んだ「こと」(「ある」という動詞に還元するときによりわかかりやすくなる「こと」)だからこそ、「ひろがる」という動詞と共鳴して、それが「飛躍」を呼び覚ますのだろうなあ、と思う。
この1行あきという「視覚」にもはっきりわかる「飛躍(断絶)とは逆のことばの動きもある。3連目に出てくる。
この3連目のちょうど中間にある、「空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる」は前後の行との関係が「飛躍」ではなく、くっつきすぎた「接続」のように見える。「手の造るマッスに限定されてしまわない空虚」と読むことができるし、「空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる(その)充実も」と読むことができる。さらには「空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる」を独立した行、つまり、「手の造るマッスに限定されてしまわない」と「充実も終わりのない無に赴くほかないが」を分断しながら、分断することで接続する行にも見える。(分断しないことには、接続ということもありえないから、まず分断し、それから接続するのである。)
こういう「わからなさ」とそのわからなさを超えて一瞬「わかる」何かの交錯というのはおもしろい。「肉体」をほんとうに刺戟する。「頭」では、どうすることもできないのである。どう「断定」しても、それは一瞬の「錯覚」だから、そのまま受け入れるしかない。「おもしろい」と思うか「つまらない」と思うかは、そのとき次第だなあ。
あ、また、いいかげんなことを書いてしまった。
最後、4連目。「生むまで」という中途半端な行で終わって、1行あきの「飛躍」のあと、ことばは次のように動く。
「写実」「物の世界」「想像」「影」「存在論」--ということばの移動は、まあ、これも「頭」の運動だなあ、と思うのだけれど(精神の世界-光-存在論という対比がそこに動いているように感じられるのだけれど)、それはそれとして、最後の
さて、これは「くう」、それとも「そら」?
「無」からはじまった詩なので「くう」なのだろうなあ。
と考えながら、そう「考えている」ことに対して、私はちょっとむっとしている。自分に腹を立てている。「考える」というのは「頭」の仕事だからね。
田中の「肉体」に触れながら、どうしても「頭」にじゃまされる。何か「頭」で考えないといけない部分がこの詩にはあって、それが窮屈なのである。田中が「頭」で整理したものでるから、この詩は「清潔」に、また構造的にもゆるぎのないものになっているということ「わかる」のだけれど、それが私には同時に窮屈に感じられる。
田中は「頭」でことばを整理していなというかもしれないけれど……。
そう思って、もう一度詩を読み直してみた。なぜ、私が「頭」を感じたのか、それをあらわすことばはないかな、と思って読み返してみた。
ああ、これだな。「はず」。「理由」をしめしている。そして、この「はず」はこの詩では1回しか書かれていないが、ほんとうは各所に書かれないまま隠れている。
そうして、もし「はず」が田中のキーワード(思想、肉体にしみついたことば)であるとするならば、その「無」というテーマも「はず」という「理由」(根拠)を求めてしまう「頭」によってとらえられたものであり、そのときの「頭」には何かしら「西洋」の「頭」が影を落としているように感じられる。
「日本の肉体」と「西洋の頭」が出合っているというより、ぶつかっている--そのために、この詩をあるときは「傑作」と思い、あるときは「いやだなあ」と感じながら読んでしまうのだと気がついた。
「はず」に頼らずにことばが動いたら、田中の詩はもっと強靱なものになると思った。
田中清光「ジャコメッティの手」はたいへん魅力的なことばで始まる。
どこからでも「無」はひろがるはず
この1行だけで、この詩が傑作であることがわかる。「有」ではなく「無」が広がる。そもそも「無」に「広がり」はあるのか、という疑問を一瞬のうちに拒絶してしまう力がある。「どこからでも」という強い肯定が「無」を確固としたものにしている。それだけでジャコメッティの削りこんだ彫刻が見えてくる。
この詩は、次のようにつづいていく。
どこからでも「無」はひろがるはず
紅(くれない)の花であろうと 鉄の塊りであろうと 円相であろうと
狂いかけた精神 また肉体であろうと
日々の現象 現実での金貨から政治まで
あなたには多層のバラバラの構造物が
無に行き着くときとところとが見えている
イマージュとして現われるだけの存在なら
終りのなん大地 星の血液 宇宙までの
像という像の形をかりた
はかないマチエールでしかない
傑作---と思ったこころが急にしぼんでいく。「紅の花」。これは抽象的だが、まだ勝手に花を「肉体」に引き寄せることができる。「鉄の塊り」も「肉体」に引き寄せることができる。「円相」も、日本人だから(?)、なんとなく「肉体」に引き寄せることができる。よくわからんが、禅宗の寺に掲げてある一筆で書いた月(円)を「覚えている」からである。それは月か、円か、菩薩か--なんとでも断定できるが、その断定にこだわるとき円は円ではなくなるというようなことは、「わからない」のだけれど、「肉体」が「覚えている」ので、その方向へことばが動いていくのだなという「動き」を感じることができる。「無」ということばが、「円相」を呼吸していることに対して「肉体」が納得する。
ところが。
「狂いかけた精神」「肉体」という「対」が出てくると、あれっ、これは「日本人の肉体」とは違うぞ、と感じるのである。ジャコメッティだから「日本人の肉体」ではないのだろうけれど……。
で、「現実での金貨と政治まで」にきてしまうと、私には、ここに書かれていることが私の「肉体」とは無縁のことがらに見えてしまう。もちろん田中が書いているジャコメッティなのだから私の「肉体」と無縁であることはあたりまえなのだが、「肉体」というのは「無縁」であっても(あるいは完全に断絶していても)、どこかでつながっているものである。道で倒れて腹をかかえるようにうめいている人間を見ると「あ、腹が痛いのだ」と自分の肉体の痛みでもないのにそれがわかる、という具合に、どこかでつながっているものである。そういう「つながり」が、私の場合、ここでとぎれてしまう。
「金貨」のせいである。私の「肉体」はそれを知らない。私の「頭」はそれを知っている。ヨーロッパの小説に出てくるものとして知っている。「肉体」は知らないけれど「頭」は知っている、ということはだれにでもある。そのひとつが、私の場合「金貨」である。そして、そのことばに出合った瞬間、あ、田中は「頭」でことばを動かしていたのか、と思ってしまうのである。
言い換えると、つまずく。
つまずいてしまうと「紅」に「くれない」とルビをふって読ませることばのつかい方もなんだかとても「肉体」から遠い。「くれない」にほんとうに「肉体」が見てしまったのなら「くれない」というルビはつかわない。目の前にある「紅」を「あか」ではなく「くれない」であると言い換える、「あか」と読んでもらっては困る、というのは「頭」の働きである。「肉体」は自分で引き受けたものを別のことばで言い換えようとはしない。他人がどう読もうが関係ない--そして、この他人がどう読もうが関係ないというのは、どんなふうに読んでも「肉体」はつながっているという、ことばにならない何か共通のものを感じる力と関係している。
そういうものを田中は信じてはいないのだ。
もちろんいま私が書いたことは、まったく逆の立場からとらえなおすこともできる。「肉体」があいまいに「覚えていること」を「肉体」にまかせてしまうのではなく「頭」で整理し、「共通言語」にして動かす、ということを田中はしているのだ、という点からとらえなおすことはできる。たぶん、そうする方が田中の「神髄」に近づくことになるのだと思うけれど、私は、ちょっとためらうのである。
それはそれでいいんだろうけれど、それは私のやり方ではないなあ。私自身の「肉体」を裏切らないことには、そのことばにはついていけないなあ。「頭」を時間を遡って鍛えなおさないことにはついていけないなあ、と感じるのである。こういうことはすべて「感覚の意見」であって、論理的には説明できないのだけれど。
と、書きながら、評価しているか、けなしているのか、あいまいなところで私がうろうろしているのは……。(いったい私が田中のこの詩を「傑作」と言おうとしているのか、「駄作」と言おうとしているのか、わからないでしょ? 実は、私にもわからないのだけれど。)
2連目の1行目、
無に行き着くときとところとが見えている
この行が、また、ずしんと「肉体」に直接ぶつかってくる。この1行がというより、正確に私の感想を書くと、
あなたには多層のバラバラの構造物が
無に行き着くときとところとが見えている
1連目と2連目の「空白」(断絶)が、「肉体」にぶつかってくる。額縁の一筆書きの丸が、円か月か菩薩かという具合に「飛躍」のなかでつかみとられるときの「飛躍」がずしんと「肉体」の奥にぶつかってくるのである。
これは書き出しの
どこからでも「無」はひろがるはず
を言い直したものなのだが、それが単なる「言い直し」を超えたものとして響いてくる。1行目が「無」という具合に括弧付きだったものが、括弧なしの無というかわることさえ、ほーっと嘆息がもれてしまう。「ときとところと」と田中は「並列」の形で書いているが、これは「とき」という存在(もの)と「ところ」という存在(もの)の並列というよりも、「ときである(ということ)」「ところである(ということ)」なのだろうなあと私は納得する。--誤読する。
「もの」という名詞ではなく「ある」を含んだ「こと」(「ある」という動詞に還元するときによりわかかりやすくなる「こと」)だからこそ、「ひろがる」という動詞と共鳴して、それが「飛躍」を呼び覚ますのだろうなあ、と思う。
この1行あきという「視覚」にもはっきりわかる「飛躍(断絶)とは逆のことばの動きもある。3連目に出てくる。
事物からぬけ出すデッサン 裸の女のもつ空虚は
手の造るマッスに限定されてしまわない
空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる
充実も終わりのない無に赴くほかないが
あなたの手が 物質とての確固とした存在を生むまで
この3連目のちょうど中間にある、「空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる」は前後の行との関係が「飛躍」ではなく、くっつきすぎた「接続」のように見える。「手の造るマッスに限定されてしまわない空虚」と読むことができるし、「空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる(その)充実も」と読むことができる。さらには「空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる」を独立した行、つまり、「手の造るマッスに限定されてしまわない」と「充実も終わりのない無に赴くほかないが」を分断しながら、分断することで接続する行にも見える。(分断しないことには、接続ということもありえないから、まず分断し、それから接続するのである。)
こういう「わからなさ」とそのわからなさを超えて一瞬「わかる」何かの交錯というのはおもしろい。「肉体」をほんとうに刺戟する。「頭」では、どうすることもできないのである。どう「断定」しても、それは一瞬の「錯覚」だから、そのまま受け入れるしかない。「おもしろい」と思うか「つまらない」と思うかは、そのとき次第だなあ。
あ、また、いいかげんなことを書いてしまった。
最後、4連目。「生むまで」という中途半端な行で終わって、1行あきの「飛躍」のあと、ことばは次のように動く。
写実してみても夢の宝庫にはならぬ
物の世界は たえず想像から落ちつづける
影にはじまる存在論よ
ひとの全身がますます細い骨に変じてくる
風と鳥類が走りだす世界で
存在するものはもはやみなこの世ならぬ棒のすがたとなって空をささえる
「写実」「物の世界」「想像」「影」「存在論」--ということばの移動は、まあ、これも「頭」の運動だなあ、と思うのだけれど(精神の世界-光-存在論という対比がそこに動いているように感じられるのだけれど)、それはそれとして、最後の
空をささえる
さて、これは「くう」、それとも「そら」?
「無」からはじまった詩なので「くう」なのだろうなあ。
と考えながら、そう「考えている」ことに対して、私はちょっとむっとしている。自分に腹を立てている。「考える」というのは「頭」の仕事だからね。
田中の「肉体」に触れながら、どうしても「頭」にじゃまされる。何か「頭」で考えないといけない部分がこの詩にはあって、それが窮屈なのである。田中が「頭」で整理したものでるから、この詩は「清潔」に、また構造的にもゆるぎのないものになっているということ「わかる」のだけれど、それが私には同時に窮屈に感じられる。
田中は「頭」でことばを整理していなというかもしれないけれど……。
そう思って、もう一度詩を読み直してみた。なぜ、私が「頭」を感じたのか、それをあらわすことばはないかな、と思って読み返してみた。
どこからでも「無」はひろがるはず
ああ、これだな。「はず」。「理由」をしめしている。そして、この「はず」はこの詩では1回しか書かれていないが、ほんとうは各所に書かれないまま隠れている。
無に行き着くときとところとが見えている「はず」
はかないマチエールでしかない「はず」
空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる「はず」
存在するものはもはやみなこの世ならぬ棒のすがたとなって空をささえる「はず」
そうして、もし「はず」が田中のキーワード(思想、肉体にしみついたことば)であるとするならば、その「無」というテーマも「はず」という「理由」(根拠)を求めてしまう「頭」によってとらえられたものであり、そのときの「頭」には何かしら「西洋」の「頭」が影を落としているように感じられる。
「日本の肉体」と「西洋の頭」が出合っているというより、ぶつかっている--そのために、この詩をあるときは「傑作」と思い、あるときは「いやだなあ」と感じながら読んでしまうのだと気がついた。
「はず」に頼らずにことばが動いたら、田中の詩はもっと強靱なものになると思った。
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