詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

絹川早苗「「めく」いろいろ」

2012-12-24 11:06:59 | 詩(雑誌・同人誌)
絹川早苗「「めく」いろいろ」(「ひょうたん」48、2012年11月01日発行)

 絹川早苗「「めく」いろいろ」は、ことばのなかを歩き回っている。そして探している。何かを。

秋めいてきました と書きながら
「めく」 に 目がとまる
目は 芽に通じるのだろうか

長い深化のトンネルをくぐり
この世にはじめて芽を出した 人めいたものの意識が
水中から突き出してくる潜望鏡のように
カタツムリの目のように
あたりの気配をうかがい 仄めく

風は そよめき 布は はためき
戸が きしめいて 五感をゆらめかせる
人々の ひしめき どよめき さざめき
ざわめきから 遠くはなれていても
耳だけはそばだってく

世に出ても めきめきと 才を表すこともなく
ひらめきに打たれ 煌き 目くるめくほどの運命の
めぐりあわせで 時めくこともなく

 「めく」を含むことばをさまよいながら、そこに通い合うものを探している。「目は 芽に通じるのだろうか」ということばが3行目にあるのだが、「めく」をさぐりながら「目」と「芽」も同時に探している。
 「そよめく」のなかにあるのは「目」か「芽」か。「はためく」のなかにあるのは「目」か「芽」か。「目」と「芽」をとおってから「めく」ということばのなかで何かがかよいあうのか。
 この「問題(?)」の「答え」はあるようで、ない。そこに「答え」があったとしても、それは「便宜的」なものである。その場その場で「答え」らしきものを言うことができるが、それは「断定」してしまっては「嘘」になる。「嘘」になるというと言い過ぎかもしれないが、そのときの「答え」にこだわっていては、ほんとうの「答え」にならない。
 なんだか矛盾した、あいまいなことを書いてしまうが……。
 「めく」を含むことばを重ねながら、そこに何かが「通じる」を感じる。その「通じる」なにか、それを「なにか」という「もの」ではなく、「通じる/こと」として「肉体」のなかに取り込む。「覚える」。「通じる」という「動詞」を含むことがら、「運動」として「肉体」そのものに取り込んで、それを「肉体」にする。自転車に乗ることを「覚える」ように、泳ぐことを「覚える」ように、「めく」を含むことばのなかに「通じること」を「覚える」。
 うまく言えないのだが、その「運動(動詞)」を「覚える」ということは、「名詞」にはなりえないのである。「断定」にはなりえないのである。その時その時の「運動(動き)」とともにあるしかない「こと」なのであり、それはことばにならないまま、ただ「肉体」で「覚える」だけである。そして、その「覚えていること」を、「いま/ここ」で引き出す。何かとの「出合い」のなかで、それが改めて「動く」瞬間に、その「動き」そのものにまかせるしかない。
 こういうことを「一期一会」というのだと思うが。
 まあ、これは私の「感覚の意見」であって、これ以上は説明できないし、いま書いたことも説明にはなっていないのだが。

 「めく」ということば、それを重ねてみると、ことばのなかに「通じる」ことがある。もし、そこに「もの」があるとしたら、それは「ことばの肉体」という「もの」だろう。「ことばの肉体」ということばは「名詞」だけれど、その実体は「ことばの動き」の「動くということ」そのものであり、「動く」を取り除いた「肉体」はないのだから、それはやはり「もの(存在)」ではなく、運動なのである。動詞としてつかみとるしかないものなのである。その動詞を「肉体」でなぞる、なぞりながら「肉体」そのものを運動にするしかないのである。

 で。
 で、というかたちで飛躍していいのかどうかわからないのだが、このあと絹川の詩は少し驚く展開をみせる。「めく」ということばそのものをあいかわらず追いかけるのだが、そこに絹川にしかたどることのできない「肉体」が出てくる。
 「絹川にしかたどることのできない」と私はいま書いたのだが、それはより「正直」に書くなら、私にはとても思いつかない「肉体」が出てくるのである。

雄々しい雄ではなく
女々しい雌として 生まれながら
めそめそと 泣くこともせず
めらめらと 心の炎を燃やすこともなく
なまめいたことの少なかった この身

子に恵まれず 親めいたことからは遠く
いつまでも子どもめいたままで ひとり取り残され
古めかしくなっていく わが身であれば

ときには めかしこみ 心ときめかせ
街でも うろめき歩いてみようか
幻めくこの世を 生き抜くためにも…

 「めく」のなかにある「め」は「目」であり「芽」である、というのは私の「肉体」には納得ができることである。ところが、その「め」のなかに「女(め)」があると絹川は感じている。それがおのずと出てくる。絹川の「肉体」が、「芽」という比喩、自分意外のなにかと「通じる」ことを拒むようにして、その「通じるということ(運動)」のなかにあふれてくる。
 そこで書かれていることは、幸せとかよろこびからは少し遠い。幸せ、よろこびから離れたところにある「いのち」だが、それは「芽」のように噴き出してきて、「目」のように遠くにある幸せとよろこびを見つめる。
 あ、この感じがあって、

「めく」 に 目がとまる
目は 芽に通じるのだろうか

 という最初のことばが動いていたのだな、と納得できる。
 「めく」ということばを動かしながら、絹川は、書くことで自分の「肉体」を発見する。「肉体」がおのずと動いてくる、その「おのずと」を引き出したのだとわかる。

 絹川早苗という人に私は直接会ったことはないが、その名前、その作品は40年前から知っている。「詩学」に投稿していた時代、投稿欄にいっしょに作品が掲載された。そのときは、なんだかおばさんぽいという印象しかなかったのだが、あ、そうか、このひとはずーっと自分の肉体があらわれるのをうながすようにことばを動かしていたのか、といまになって思うのである。そのころの私は、ただことばを変な具合に(つまり、個性的に、とかってに思い込んでいたのだが)動かすことしか関心がなかったので、絹川のことばがぴんとこなくておばさんぽいと感じたのだろう。
 そうだったのか……。そう思いながら、絹川の「おのずと」を、なんだか懐かしく、親しいもののように思い出すのだった。




紙の上の放浪者(ヴァガボンド) (21世紀詩人叢書 (6))
絹川 早苗
土曜美術社
コメント
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