谷川俊太郎「絶望」(「朝日新聞」、2012年12月03日夕刊)
谷川俊太郎は不思議な詩人だ。「絶望」は一読すると「教訓くさい」(説教くさい)。だから、いやだなあ……といいたいのだが。
「意味」がまっすぐに動いてくる。書いてあることはその通りだと思う。でも、谷川俊太郎のように人生に成功したひとに、こんなまっすぐなことばを言われても、ねえ。そんなことが言えるのは「希望をちゃんと実現できたからだよ、というような「やっかみ」がいいたくなる、
というのは違って。
たしかに「意味」しか書かれていないし、その「意味」も谷川独自のものというよりも、どこかでだれかがいっているようなことなのだが、
というのは、やはりどこか違っていて……。
教訓めいている、説教めいている--それなのに、なぜ、私の胸にすとんと落ちてきたのだろう。納得できたのだろう。「いやだなあ」という気持ちにならずに、もう一度読み返してみようと思ったのはなぜなのだろう。
この1連目の4行目が、なんとも不思議である。私は、ここで、谷川にこころをつかみとられた。この行も、もちろんだれかがいいそうなことではなある。でも「いのち」ということばが美しい。「絶望」「終点」「現実」「錯綜」「欲望」という漢字熟語が窮屈なのに対して、何か、「やわらかい」感じがする。「知っている」もとてもやわらかい。
そしてなによりも。
末尾の「から」が、とてもいいのだ。
「知っている」でことばが終わると、そんなことを谷川に決めつけられたくないという反発が生まれるかもしれない。
この「から」は「理由」をあらわしているのけれど、それは何というのだろう、客観的な理由ではない。「客観的理由」というよりも、「主観」への呼びかけである。
うまく言えないなあ。
言い換えると……。この「から」は、英語で言えば「didn't you? 」である。スペイン語なら「verdad? 」になるのかな。いわゆる「付加疑問文」。「知っているでしょ?」(知っていたでしょ?)「そうでしょ?」
つまり、これは谷川が自分の考えを言うと同時に、いま私が言ったことは、「君がこころの奥で感じていることだよね」と「君」からことばを引き出しているのである。
だから。
それにつづく2、3連目のことばは、谷川が書いているけれど、谷川は「これは私のことばではないよ。君が知っていること、君の方が私よりも詳しく知っていること、実感していることだよね」と言っているのだ。
君のいのち(肉体)の奥に動いているこころに耳をすませてごらんよ。聞こえてくるよ、「君はいま出発点に立っている」とこころが自分に言い聞かせているのが。
「……から」というのはだれでもがつかう。だからそこに「思想(肉体)」があるとはなかなか気がつかない。だからこそ、それを「思想(肉体)」として動かすとき、そこにはだれもかかなかった「やさしさ」が生まれる。「私は君のそばにいるよ。君の側にいると、君のこころの声が聞こえてくるよ」。
この詩はだれにむけて書かれたものかわからない。「君」はだれかわからない。だから、私は「君とは私だ」と「誤読」したい。そういう気持ちになる。私はいま絶望しているわけではないが、絶望したときは、この詩を思い出したい。「君のいのちは知っているから」と「……から」と言ってくれる谷川とおなじ時間を生きているということを思い出したい。谷川を思い出したい。
谷川俊太郎は不思議な詩人だ。「絶望」は一読すると「教訓くさい」(説教くさい)。だから、いやだなあ……といいたいのだが。
絶望していると君は言う
だが君は生きている
絶望が終点ではないと
君のいのちは知っているから
絶望とは
裸の生の現実に傷つくこと
世界が錯綜(さくそう)する欲望の網の目に
囚(とら)われていると納得すること
絶望からしか
本当の現実は見えない
本当の希望は生まれない
君はいま出発点に立っている
「意味」がまっすぐに動いてくる。書いてあることはその通りだと思う。でも、谷川俊太郎のように人生に成功したひとに、こんなまっすぐなことばを言われても、ねえ。そんなことが言えるのは「希望をちゃんと実現できたからだよ、というような「やっかみ」がいいたくなる、
というのは違って。
たしかに「意味」しか書かれていないし、その「意味」も谷川独自のものというよりも、どこかでだれかがいっているようなことなのだが、
というのは、やはりどこか違っていて……。
教訓めいている、説教めいている--それなのに、なぜ、私の胸にすとんと落ちてきたのだろう。納得できたのだろう。「いやだなあ」という気持ちにならずに、もう一度読み返してみようと思ったのはなぜなのだろう。
君のいのちは知っているから
この1連目の4行目が、なんとも不思議である。私は、ここで、谷川にこころをつかみとられた。この行も、もちろんだれかがいいそうなことではなある。でも「いのち」ということばが美しい。「絶望」「終点」「現実」「錯綜」「欲望」という漢字熟語が窮屈なのに対して、何か、「やわらかい」感じがする。「知っている」もとてもやわらかい。
そしてなによりも。
から
末尾の「から」が、とてもいいのだ。
「知っている」でことばが終わると、そんなことを谷川に決めつけられたくないという反発が生まれるかもしれない。
この「から」は「理由」をあらわしているのけれど、それは何というのだろう、客観的な理由ではない。「客観的理由」というよりも、「主観」への呼びかけである。
うまく言えないなあ。
言い換えると……。この「から」は、英語で言えば「didn't you? 」である。スペイン語なら「verdad? 」になるのかな。いわゆる「付加疑問文」。「知っているでしょ?」(知っていたでしょ?)「そうでしょ?」
つまり、これは谷川が自分の考えを言うと同時に、いま私が言ったことは、「君がこころの奥で感じていることだよね」と「君」からことばを引き出しているのである。
だから。
それにつづく2、3連目のことばは、谷川が書いているけれど、谷川は「これは私のことばではないよ。君が知っていること、君の方が私よりも詳しく知っていること、実感していることだよね」と言っているのだ。
君のいのち(肉体)の奥に動いているこころに耳をすませてごらんよ。聞こえてくるよ、「君はいま出発点に立っている」とこころが自分に言い聞かせているのが。
「……から」というのはだれでもがつかう。だからそこに「思想(肉体)」があるとはなかなか気がつかない。だからこそ、それを「思想(肉体)」として動かすとき、そこにはだれもかかなかった「やさしさ」が生まれる。「私は君のそばにいるよ。君の側にいると、君のこころの声が聞こえてくるよ」。
この詩はだれにむけて書かれたものかわからない。「君」はだれかわからない。だから、私は「君とは私だ」と「誤読」したい。そういう気持ちになる。私はいま絶望しているわけではないが、絶望したときは、この詩を思い出したい。「君のいのちは知っているから」と「……から」と言ってくれる谷川とおなじ時間を生きているということを思い出したい。谷川を思い出したい。
ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ) | |
谷川 俊太郎 | |
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