監督 ジェームズ・アイヴォリー 出演 アンソニー・ホプキンス、ローラ・リニー、シャルロット・ゲンズブール、真田広之
最初のシーンでこの映画のすべてが語られる。風景が水に映っている。揺らいでいる。ほんとうの風景は揺らいではいないが水がゆらぐので映像は揺らぐのだ。野原の道を走る車のフロントガラス越しの風景も似ている。フロントガラスに運転している人間の影が映っている。水に映った風景はともかく、車のフロントガラスにぼんやり映っている映像越しに前方の風景が映し出されるというようなことは映画ではめったにない。で、それを見た瞬間に、そうか、今回はこういうことをジェームズ・アイヴォリーは狙っているのだなとわかる。
ある存在(実像)がある。そして、他方にそれを映す存在がある。ほんとうの存在は何かに映ることで揺らいでしまう。実際とは違ってしまう。--それがほんとうだとしても、私たちは現実にはそういうことを気にしない。「実在/実像」がどうであろうと自分(私)に映った「影」が私とにっての「他者の実像」である。私にはそう見える、と言ってしまえばそれでおしまい。多少の(?)ずれというか誤解というか、間違いというか、そういうものを相手の言う通りに修正していたら生きていくのが面倒くさい。
ところが、そういう具合にいかないときがある。これは説明しようとすると面倒なことなのだが、この映画はとてもうまい方法を「狂言回し」につかう。ある作家の「伝記」を書く--それを書こうとする男を狂言回しにつかう。「伝記」はその作家の「実像」に近くないと意味がない。勝手に自分の印象だけで作家の人生を描いてしまうわけには行かない。「ずれ」は複数の人間の証言によって修正しなければならない。
そういう状況があることはある、と「定義」しておいて。
ここからが、さらに手が込んでいる。主人公(?)の男は、書くべき作家の「実像」に近づく前に、その「実像」をまわりにいる遺族(兄、妻、愛人)と向き合わなければならない。そして彼らもまた、「実像」と「水に映った映像」のように、それぞれのなかで揺れている。
これは、私が書いているように「ことば」にすると何だかわかったような感じになる「哲学的問題」なのだが、それをアイヴォリーは映像でやろうとしている。
むりだね。むりです。はっきり言って、最初の水に映った映像の揺らぎ、車のフロントガラス越しの半透明な人影がまざりこんだ映像がなければ、私が書いているようなことを思いつくひとはいないと思う。「実像」があり、「虚像」があり、「虚像」が「実像」を支配して、だれもが動けないまま、倦怠のなかで生きている。これが自分の生き方であるとはとうてい思うことができない。したいことがあるのに、そのしたいことも言えない。自分のものではない人生が自分を支配して動いていく。これを特別変わった事件もなくたんたんと描きながら映像にしたって、何のことかさっぱりわからない。
「わかる」というのは、何かを自分のことばにすることだからね。
で、その「ことば」の問題にしぼっていうと、これは「映画」向きの題材ではない。「小説」向きの題材なのである。映画ではしばしばこの手を「文芸もの」と呼ぶけれど、この呼び方は「うさんくさい」と五十歩百歩である。「小説」の力がなければ「映画」として成り立たない。
ウルグアイの自然も--私はウルグアイに行ったことがないから言えるのだが、とてもウルグアイとは思えない。つまり、えっ、これがウルグアイと驚くようなシーンがない。どこかわからないただの田舎に見えてしまう。つまり「違和感」がない。まあ、これが「漂泊感」というものなのかもしれないけれど。
そして「漂泊感」というのは、一種の「世界共通言語」だから、まあ、「違和感」とは無縁のものなんだけれど。
でもねえ。それはアイヴォリー監督が単にウルグアイの自然をつかみとれないということなのかもしれない。「イギリス」の視線がまざりこんできて、純粋のウルグアイをとらえきれない、単に舞台としているということから起きるのかもしれない。「漂泊感」に衝突して、それを叩き壊す何か--その強い力が「映像」そのものとしてないと、なんともしまりがない。気の抜けたアルコールみたいだ。
映画の日本語のタイトルはあじけないが、まあ、「漂泊」をやめて、それぞれが人生の「最終目的地」にたどりつくというのが映画の内容なのだから、それはそれでいいのかもしれないが、ほら、ここでも気の抜けたアルコールを飲んでいる気分になるでしょ?
やっていることは全部わかりました。
でも、映画って「わかる」ために見るんじゃないからね。えっ、何これ。わからなんじゃないか。でも、おもしろい。あっ、とんでもない悪人。でも、目の前にいたら好きになってしまいそう--それが映画じゃないかな?
(2012年12月18日、KBCシネマ2)
最初のシーンでこの映画のすべてが語られる。風景が水に映っている。揺らいでいる。ほんとうの風景は揺らいではいないが水がゆらぐので映像は揺らぐのだ。野原の道を走る車のフロントガラス越しの風景も似ている。フロントガラスに運転している人間の影が映っている。水に映った風景はともかく、車のフロントガラスにぼんやり映っている映像越しに前方の風景が映し出されるというようなことは映画ではめったにない。で、それを見た瞬間に、そうか、今回はこういうことをジェームズ・アイヴォリーは狙っているのだなとわかる。
ある存在(実像)がある。そして、他方にそれを映す存在がある。ほんとうの存在は何かに映ることで揺らいでしまう。実際とは違ってしまう。--それがほんとうだとしても、私たちは現実にはそういうことを気にしない。「実在/実像」がどうであろうと自分(私)に映った「影」が私とにっての「他者の実像」である。私にはそう見える、と言ってしまえばそれでおしまい。多少の(?)ずれというか誤解というか、間違いというか、そういうものを相手の言う通りに修正していたら生きていくのが面倒くさい。
ところが、そういう具合にいかないときがある。これは説明しようとすると面倒なことなのだが、この映画はとてもうまい方法を「狂言回し」につかう。ある作家の「伝記」を書く--それを書こうとする男を狂言回しにつかう。「伝記」はその作家の「実像」に近くないと意味がない。勝手に自分の印象だけで作家の人生を描いてしまうわけには行かない。「ずれ」は複数の人間の証言によって修正しなければならない。
そういう状況があることはある、と「定義」しておいて。
ここからが、さらに手が込んでいる。主人公(?)の男は、書くべき作家の「実像」に近づく前に、その「実像」をまわりにいる遺族(兄、妻、愛人)と向き合わなければならない。そして彼らもまた、「実像」と「水に映った映像」のように、それぞれのなかで揺れている。
これは、私が書いているように「ことば」にすると何だかわかったような感じになる「哲学的問題」なのだが、それをアイヴォリーは映像でやろうとしている。
むりだね。むりです。はっきり言って、最初の水に映った映像の揺らぎ、車のフロントガラス越しの半透明な人影がまざりこんだ映像がなければ、私が書いているようなことを思いつくひとはいないと思う。「実像」があり、「虚像」があり、「虚像」が「実像」を支配して、だれもが動けないまま、倦怠のなかで生きている。これが自分の生き方であるとはとうてい思うことができない。したいことがあるのに、そのしたいことも言えない。自分のものではない人生が自分を支配して動いていく。これを特別変わった事件もなくたんたんと描きながら映像にしたって、何のことかさっぱりわからない。
「わかる」というのは、何かを自分のことばにすることだからね。
で、その「ことば」の問題にしぼっていうと、これは「映画」向きの題材ではない。「小説」向きの題材なのである。映画ではしばしばこの手を「文芸もの」と呼ぶけれど、この呼び方は「うさんくさい」と五十歩百歩である。「小説」の力がなければ「映画」として成り立たない。
ウルグアイの自然も--私はウルグアイに行ったことがないから言えるのだが、とてもウルグアイとは思えない。つまり、えっ、これがウルグアイと驚くようなシーンがない。どこかわからないただの田舎に見えてしまう。つまり「違和感」がない。まあ、これが「漂泊感」というものなのかもしれないけれど。
そして「漂泊感」というのは、一種の「世界共通言語」だから、まあ、「違和感」とは無縁のものなんだけれど。
でもねえ。それはアイヴォリー監督が単にウルグアイの自然をつかみとれないということなのかもしれない。「イギリス」の視線がまざりこんできて、純粋のウルグアイをとらえきれない、単に舞台としているということから起きるのかもしれない。「漂泊感」に衝突して、それを叩き壊す何か--その強い力が「映像」そのものとしてないと、なんともしまりがない。気の抜けたアルコールみたいだ。
映画の日本語のタイトルはあじけないが、まあ、「漂泊」をやめて、それぞれが人生の「最終目的地」にたどりつくというのが映画の内容なのだから、それはそれでいいのかもしれないが、ほら、ここでも気の抜けたアルコールを飲んでいる気分になるでしょ?
やっていることは全部わかりました。
でも、映画って「わかる」ために見るんじゃないからね。えっ、何これ。わからなんじゃないか。でも、おもしろい。あっ、とんでもない悪人。でも、目の前にいたら好きになってしまいそう--それが映画じゃないかな?
(2012年12月18日、KBCシネマ2)
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