金井裕美子「残暑」ほか(「詩的現代(第二次)」3、2012年12月発行)
見えるものと見えないものの「境目」はどこにあるか。金井裕美子「残暑」を読みながら、ふとそんなことを考えた。
見えるものと見えないものの「境目」は、何がそれをつないでいるかを考えるといいのかもしれない。見えるものと見えないものをつないでいるのは何か。--うーん、やっぱり同じことか。わからないままか。ことばにならないか。
抽象的に始めすぎたのかもしれない。
この詩の感想を書いてみようと思ったのは、3連目の、料理を盛った器の下から食べるにしたがい青い花と蝶があらわれるのを見て美しいと思うところにひかれたからだ。青い花と蝶は最初は見えなかった。それが料理を食べてしまうと見えてくる。そして、それがただ見えるだけではなく「儚く、美し」く見える。この「見える」と「見えない」のあいだに何があるのか。「見える」ものが「美しく」見えるというのは、どういうことなのか。そのことについて書いてみたかった。
この3連目の「見える」「見えない」というのは、ちょっとややこしい。そこには料理が食べることによって消える、その結果、料理が隠していた花と蝶が見えるという変化があるのだけれど、器(花と蝶)にしてみれば、「私はぜんぜん変わっていない」ということになる。料理を盛られても、料理が食べられても器はもとのままの器。変わったのは、それを見ている「私(金井)」の肉体のなかに起きた変化、視界の変化であるということになる。
と、ここまで書いてきて、私のことばはようやく動きはじめる。ひとの中で、肉体の中で何かが変わる。「私」が見つめている「対象」が変わるのではない。
しかし。
では、それはほんとうに「私の変化」? 器の図柄が見えてきて、それに気がつき、美しいと思うことが「私の変化」? 「変化」なのかもしれないけれど、何が変わった? いうことがむずかしい。
なぜ、むずかしいんだろう。
器に花と蝶の図柄が描かれていることが「変わらない」と同じように、その図柄を美しいと思うくらいでは「変わらない私」というものがあるからだ。「変わった」はずなのに、何か変化が起きたから、それをことばにしているのに、うーん、どこが変わったとはっきり言えない……。
そんなことを思っていると、1連目の、次のことばが「自己主張」しているのに気づく。
「相変わらず」。前の日、女を捨てたいと「本気で」思ったのに、「相変わらず」なのである。「本気」さえもねじ伏せてしまう何かがある。「肉体」がある。そして、それは「変わらない」。この「変わらないもの」、ずーっとつづいているものが「変わる」をあいまいにする。
どんなに「意識」が「変わって」も、「肉体」はひとつのまま。そして、それが「かわらない」ということ、「ひとつ」であるということを絶対条件として、何かが「変わる」。「見える」「見えない」ということが起きる。
ここからどんなふうにことばを動かしていけば金井の世界にまっすぐに入って行けるのか私にはまだわからないが、金井はそういう「肉体」をしっかりつかんだままことばを動かしていることが伝わってくる。それが、私にはとても気持ちがいい。
こういうことは「笑い話」のようなものだが、それが「笑い話」であるのは、「昼になったらおなかがすいた」という「肉体」を私たちが「あたりまえ」として受け入れるからだろう。何かがそのとき「共有」されるからだろう。「肉体」そのもの、「肉体」が「覚えているもの(こと)」が共有されるからだろう。
ひとは「覚えていること」にしたがって肉体を動かす。これも「笑い話」になってしまうが、Mさんが食べにおいでと言ってくれたことを「覚えている」から金井は食べにいくのだが、もちろん、こういうときの「食べる」は「もの」を食べるということだけではない。話を聞いてもらうということが含まれる。それは、わざわざことばで説明したり約束したりすることではないけれど、そういうものであるということを「肉体」は覚えている。何かやりきれないことがあったら、いっしょに「食べる」ということをして、人間の「肉体」のつながりを確かめる--これは肉体(遺伝子)が「覚えていること」なのかもしれないが。
まあ、そういうことを金井はしている。そういうことを「肉体」は無意識にするのだが、金井は3連目で、ていねいに書いている。
この「具体的な描写」はとても美しい。それが美しいのは、いま/ここで書かれていることが「はじめて」のことではないからだ。金井にとってはもしかしたらはじめてかもしれないけれど、人間の「肉体」にとってははじめてではない。そういうことをしたことを「肉体」は「覚えている」。その「覚えていること」が肉体によって反復される。
そうすると。
「見えてくる」。人間が、「肉体」がどんなふうにして「相変わらず」肉体でありながら生きているかということが「見えてくる」。それは、いままで「見えなかった」何かである。--「見る」とは「覚えていること」を「思い出すこと」、そしてそれを「反復すること」かもしれない。そして、その「見る」「覚えている」「思い出す」「反復する」をつなぎとめ、「ひとつ」にしているのが「肉体」なのだ。「相変わらず女」である「肉体」なのだ。
「相変わらず」の発見があってこそ、「花と蝶」のデザインを美しいと気持ちが「変化」としてあらわれてくる。飛翔する。
詩はここで終わってもいいのだけれど--詩とは、あるいはことばの運動というのは、それを書くことによって「私が変わってしまう」ということのためにあるのだから、ここで終わってもかまわないし、多くの「抒情詩」はここで終わるのだけれど、金井はそのあとに4連目を書いている。
これまた「笑い話」のように、何もかも食べてしまったら「おなかがいっぱいになった」、もう何も考えられない--というような具合で終わるのだが、これがまた、うれしいなあ。つづいていくのは、言い換えると「見えるもの」「見えないもの」などというめんどうくさいことがこれからあるにしても、それと向き合っていくのは「肉体」なのだという、「生きる基本」に立ち返っている。それが、なんとも「正直」で美しいと私は思うのである。
「芒」もとても美しい。
「見えない」ものを「見ている」。それは「見えない」けれど「見える」。視力が見るのではない。「肉体」が「覚えていること」が「見る」のである。
この「肉体」は人間の「肉体」だけにつながるのではない。芒にも川にも月にもつながる。それはもちろん「人間」ではないから、人間とは無関係に「他者」を生きている。その「生きる」ということに「肉体」がつながる。共鳴する。それが美しい。
腹が減ったら食べるしかない。食べたら満腹。それだけでいい。何も考えまい。--そういう「強い肉体」だけが、自然の「非情な肉体(人間がどう思っていようが関係なくそこにある存在)」と向き合い、「肉体を生きる」というときの何かを共有できる(共鳴できる、感応できる)ということかもしれない。「強い肉体」だけが「見えるもの」と「見えないもの」を結びつけ、そこに「美しさ」を生み出すことができるのかもしれない。
見えるものと見えないものの「境目」はどこにあるか。金井裕美子「残暑」を読みながら、ふとそんなことを考えた。
夕べ、男といさかいをして
乳房を枯らして
女を捨てたいと本気で思ったのに
次の朝、相変わらず女で目覚め
昼になったらおなかがすいた
おなかが空いたら何時(いつ)でも食べにおいで
あるものしかないけれど
そう言ってくれたMさんの家(うち)へ行った
素麺はさびしく喉元を過ぎていき
忘れがたい言葉は
薬味のミョウガといっしょにすすった
いんげんの胡麻よごしを
ぽつりぽつりと独白のように箸でつまみ
しずかな汁で煮含められ
ひとつの器に仲よく盛りつけられた三品
茄子、ししとう、がんもどき
もたれ合いながら保たれた家族のかたちを
次々に食べていったら
器の底には青い花が咲いていて
その花の上には飛び交う二頭の蝶々がいた
どこか儚く、美しかった
食後、Mさんは梨を剥いてくれた
耳裏をかすめて
何かがたったっと駆けていく気配がした
振り向かないまま、梨を食べた
女のまま、梨を食べた
もうこれ以上何も入る隙がないほど
おなかいっぱいになった
見えるものと見えないものの「境目」は、何がそれをつないでいるかを考えるといいのかもしれない。見えるものと見えないものをつないでいるのは何か。--うーん、やっぱり同じことか。わからないままか。ことばにならないか。
抽象的に始めすぎたのかもしれない。
この詩の感想を書いてみようと思ったのは、3連目の、料理を盛った器の下から食べるにしたがい青い花と蝶があらわれるのを見て美しいと思うところにひかれたからだ。青い花と蝶は最初は見えなかった。それが料理を食べてしまうと見えてくる。そして、それがただ見えるだけではなく「儚く、美し」く見える。この「見える」と「見えない」のあいだに何があるのか。「見える」ものが「美しく」見えるというのは、どういうことなのか。そのことについて書いてみたかった。
この3連目の「見える」「見えない」というのは、ちょっとややこしい。そこには料理が食べることによって消える、その結果、料理が隠していた花と蝶が見えるという変化があるのだけれど、器(花と蝶)にしてみれば、「私はぜんぜん変わっていない」ということになる。料理を盛られても、料理が食べられても器はもとのままの器。変わったのは、それを見ている「私(金井)」の肉体のなかに起きた変化、視界の変化であるということになる。
と、ここまで書いてきて、私のことばはようやく動きはじめる。ひとの中で、肉体の中で何かが変わる。「私」が見つめている「対象」が変わるのではない。
しかし。
では、それはほんとうに「私の変化」? 器の図柄が見えてきて、それに気がつき、美しいと思うことが「私の変化」? 「変化」なのかもしれないけれど、何が変わった? いうことがむずかしい。
なぜ、むずかしいんだろう。
器に花と蝶の図柄が描かれていることが「変わらない」と同じように、その図柄を美しいと思うくらいでは「変わらない私」というものがあるからだ。「変わった」はずなのに、何か変化が起きたから、それをことばにしているのに、うーん、どこが変わったとはっきり言えない……。
そんなことを思っていると、1連目の、次のことばが「自己主張」しているのに気づく。
次の朝、相変わらず女で目覚め
「相変わらず」。前の日、女を捨てたいと「本気で」思ったのに、「相変わらず」なのである。「本気」さえもねじ伏せてしまう何かがある。「肉体」がある。そして、それは「変わらない」。この「変わらないもの」、ずーっとつづいているものが「変わる」をあいまいにする。
どんなに「意識」が「変わって」も、「肉体」はひとつのまま。そして、それが「かわらない」ということ、「ひとつ」であるということを絶対条件として、何かが「変わる」。「見える」「見えない」ということが起きる。
ここからどんなふうにことばを動かしていけば金井の世界にまっすぐに入って行けるのか私にはまだわからないが、金井はそういう「肉体」をしっかりつかんだままことばを動かしていることが伝わってくる。それが、私にはとても気持ちがいい。
夕べ、男といさかいをして
乳房を枯らして
女を捨てたいと本気で思ったのに
次の朝、相変わらず女で目覚め
昼になったらおなかがすいた
こういうことは「笑い話」のようなものだが、それが「笑い話」であるのは、「昼になったらおなかがすいた」という「肉体」を私たちが「あたりまえ」として受け入れるからだろう。何かがそのとき「共有」されるからだろう。「肉体」そのもの、「肉体」が「覚えているもの(こと)」が共有されるからだろう。
ひとは「覚えていること」にしたがって肉体を動かす。これも「笑い話」になってしまうが、Mさんが食べにおいでと言ってくれたことを「覚えている」から金井は食べにいくのだが、もちろん、こういうときの「食べる」は「もの」を食べるということだけではない。話を聞いてもらうということが含まれる。それは、わざわざことばで説明したり約束したりすることではないけれど、そういうものであるということを「肉体」は覚えている。何かやりきれないことがあったら、いっしょに「食べる」ということをして、人間の「肉体」のつながりを確かめる--これは肉体(遺伝子)が「覚えていること」なのかもしれないが。
まあ、そういうことを金井はしている。そういうことを「肉体」は無意識にするのだが、金井は3連目で、ていねいに書いている。
いんげんの胡麻よごしを
ぽつりぽつりと独白のように箸でつまみ
この「具体的な描写」はとても美しい。それが美しいのは、いま/ここで書かれていることが「はじめて」のことではないからだ。金井にとってはもしかしたらはじめてかもしれないけれど、人間の「肉体」にとってははじめてではない。そういうことをしたことを「肉体」は「覚えている」。その「覚えていること」が肉体によって反復される。
そうすると。
「見えてくる」。人間が、「肉体」がどんなふうにして「相変わらず」肉体でありながら生きているかということが「見えてくる」。それは、いままで「見えなかった」何かである。--「見る」とは「覚えていること」を「思い出すこと」、そしてそれを「反復すること」かもしれない。そして、その「見る」「覚えている」「思い出す」「反復する」をつなぎとめ、「ひとつ」にしているのが「肉体」なのだ。「相変わらず女」である「肉体」なのだ。
「相変わらず」の発見があってこそ、「花と蝶」のデザインを美しいと気持ちが「変化」としてあらわれてくる。飛翔する。
詩はここで終わってもいいのだけれど--詩とは、あるいはことばの運動というのは、それを書くことによって「私が変わってしまう」ということのためにあるのだから、ここで終わってもかまわないし、多くの「抒情詩」はここで終わるのだけれど、金井はそのあとに4連目を書いている。
これまた「笑い話」のように、何もかも食べてしまったら「おなかがいっぱいになった」、もう何も考えられない--というような具合で終わるのだが、これがまた、うれしいなあ。つづいていくのは、言い換えると「見えるもの」「見えないもの」などというめんどうくさいことがこれからあるにしても、それと向き合っていくのは「肉体」なのだという、「生きる基本」に立ち返っている。それが、なんとも「正直」で美しいと私は思うのである。
「芒」もとても美しい。
おりた河原のむこう岸は
ぼうぼうの芒の原
風もないのに
そこだけ芒が乱れている
ここからは顔も姿も見えないけれど
三日月形の刃に光をあつめて
だれかが刈っているのだ
芒は
ひとしきり天に向かって身を打ちふって
つぎつぎに乱れて倒れてゆく
川はよそみもしないで流れてゆく
抜き絵のような白い月は眠っている
「見えない」ものを「見ている」。それは「見えない」けれど「見える」。視力が見るのではない。「肉体」が「覚えていること」が「見る」のである。
この「肉体」は人間の「肉体」だけにつながるのではない。芒にも川にも月にもつながる。それはもちろん「人間」ではないから、人間とは無関係に「他者」を生きている。その「生きる」ということに「肉体」がつながる。共鳴する。それが美しい。
腹が減ったら食べるしかない。食べたら満腹。それだけでいい。何も考えまい。--そういう「強い肉体」だけが、自然の「非情な肉体(人間がどう思っていようが関係なくそこにある存在)」と向き合い、「肉体を生きる」というときの何かを共有できる(共鳴できる、感応できる)ということかもしれない。「強い肉体」だけが「見えるもの」と「見えないもの」を結びつけ、そこに「美しさ」を生み出すことができるのかもしれない。
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谷内 修三 | |
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