詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長嶋南子「こわいところ」

2012-12-27 10:43:09 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「こわいところ」(「すてむ」54、2012年12月10日発行)

 長嶋南子「こわいところ」を読みながら、うーん、これはどういうことだろうか、わからないなあ、とつまずいてしまった。

よその家でご飯を食べている
わたしの息子だという男が話しかけてくる
めんどうを見るよと言っている
本当の子どものような気がしていとおしい
しっかり者の女の子と慕ってくる弟がいて
ものわかりのいいお父さんがいる
母親顔してお前はしあわせだねというと
息子だという男が笑いながら
ほろほろと崩れて溶けていく

二階から階段をおりてくる足音が聞こえる
息子が包丁をもってわたしをころしにくるのだ
ぎゅっと身が引き締まる
早く目を覚まさなくては
ゆうべは
足音をしのばせて
わたしが階段をあがっていく
ビニールひもを持っている
息子が寝ているあいだに
首を絞めて楽にしてやらなくては
ぎゅっと身を引き締める

こわいところを
出たり入ったりしている
手になにか持っている感触が
とんでもないことが起きないうちに
早く目覚めなければ
手に持っているものを捨てなければ
わたしがほろほろ崩れて
溶けていく

 「ほろほろ崩れて溶けていく」。これは1連目と3連目で、少し形を変えて繰り返される。その「ほろほろ崩れて」と「溶けていく」が私の「肉体」にすっと入って来ない。逆に、まるで夢がわけのわからない痕跡を残して消えていく、という感じで遠く去っていく。いま、たしかに夢を見た。その夢はだれかに語らなくてはならないほどおもしろいものなのに、ことばにしはじめると、少しずつ見た夢とは違ってくる。ああ、こんな夢ではなかったのに、もっと「ほんとうの」夢だったのに、と思う感じに似ている。
 そして、その感じは、その前に書かれていることがしっかり「肉体」に入ってくるのと対照的である。
 長嶋は最近(?)、息子が登場する詩をよく書いている。ほんとうかどうかはわからないが、ちょっと困った存在である。自立していない。おとなになってしまった息子の面倒をみるなんて、面倒くさい。まあ、そういう感じの詩が多いのだが、今回の詩は、二人で互いに殺し合うことを考えている(互いに殺されあうことを感じている)という「こわい」詩である。その「殺し合い」が空想ではなく、「手になにか持っている感触」として、「頭」から出てしまって、もう「肉体(手)」に具体的になっているところが、いやあ、こわい。こわいのだけれど、変なことに「肉体(手)」の感触にまでなってしまうと、逆に、手さえおさえれば暴走しない、暴走は起きないという安心感(?)のようなものがある。「殺意」は「頭」のなかにだけあるときの方が暴走してしまう。「手」に限定されれば、ほら、手の仕事ってかぎりがあるでしょ? 手の力にはかぎりがあるから、なかなか「殺人」というのは実現できない。そういう変な安心感がある。
 そんな安心感を思うことも、こわいといえばこわいけれど。
 あ、脱線した。この「殺意」とその妄想、そして「手」の感触--これは、私の「肉体」にすーっと入ってくる。それが「わかる」ということは、私の「肉体」がそういうことを「覚えている」ということでもある。「覚えている」から「共鳴」するのである。
 これは何も人殺しの「感触」ということではない。たとえば魚を切る(肉を切る)、あるいは木を切る、草を切るということにもつながる「記憶」である。手に動く力の配分、そして手に返ってくる抵抗。あるいは何か荷物をひもでしばる。そのときの効率的な力のかけ方、同時に手に跳ね返ってくる縛られるものと紐とのいがみあい--そういうものの「バランス」を「肉体」は「覚えている」。もし人を殺すというようなことがあれば、そのとき「覚えている」肉体の動かし方にそって私は肉体を動かすのである。そして、うまくいかないなあ、最初だからね、などと思うことも、ふっと「わかる」。
 これはたしかに「こわい」ことだなあ。
 けれど、その「こわい」って何?
 これがちょっとおもしろい。殺されるのは「こわい」。これはあたりまえだ。死にたくないからね。けれど殺すのも「こわい」。これは、なぜ? 殺さなければ殺される。だとしたら殺すが「こわい」理由は?
 「わからない」けれど、「わかる」。
 殺すとき(私は人を殺したことがないので、これから先に書くことは想像だけれど--もちろんいままで書いてきたことも想像なのだけれど)、私たちは「殺される人」の苦しみを、自分の「肉体」の苦しみとして感じてしまう。苦しんでいる人間を見ると、「肉体」がその「苦しさ」に反応して、自分の苦しみではないはずなのに、苦しいということが「わかってしまう」。
 「わからなくていいもの」を「わかってしまう」。--ここに何かがある。

 こまで考えたとき、私はふと思うのだ。「わからなくてもいいもの」を「わかってしまう」のが人間なら、「わからなければならないもの」を「わからない」のも人間である。逆のことが起きるのが人間の世界である。
 たとえば息子の苦しみ、あるいは母の(長嶋の)苦しみは、互いに「わからなければならないもの」である。でも、それが「わかりあえない」。「わからない」。しかし、また、この「わからない」は実は「わかっている」でもある。
 ええい、どっちなんだ。「わかる」のか「わからない」のか、「わからなければならちない」のか「わからなくてもいい」のか。--いや、怒ってしまいたくなるほど、これはめんどうなことだね。整理できない。そして整理できないのに、整理したい。つまり、矛盾だね。この矛盾のなかで、うろうろするのが人間である。
 「わかる」「わからない」というのは、その瞬間の便宜上「断定」であって、その「断定」にこだわっていては生きていけない。「わかる」と言ったあとすぐに「わからない」。「わからない」と書いたあとにすぐに「わかる」と言いなおしていいのだ。それは、同じことなのだ。
 なぜ同じかというと。
 わかってもわからなくても、そこに「肉体」があるからだ。「肉体」が「わかる」「わからない」をのみこんで、つなぎとめるからである。

 ということまでなら、それでいいのだと思う。(何がいいか、というと、めんどうでむずかしいから省略する。)と、いう具合に、私は「飛躍」するのだが……。
 「ほろほろほ崩れて溶けていく」というのは「意識」? それとも「肉体」?
 「意識」なら、それでもいいのだけれど、これが「肉体」だと、あ、困ったなあ。どうしようかなあ、と悩んでしまうのである。「意識」では抱え込めないほどの問題に膨れ上がってきているのかなあ。
 どんなことを書いていても、そこに長嶋の「肉体の強い力」を感じて、私は笑うことができたのだが、今回の詩にはそれができない。
 「息子だという男」と「わたし」が「ほろほろと崩れて溶けていく」という「動き」のなかで「ひとつ」になっているのも、よくわからない。「殺す」という「動き」のなかで「ひとつ」になるときは不思議なことに「安心感」があるのに、「ほろほろと崩れて溶けていく」という「動き」では、奇妙に不安になる。
 崩れて、溶けて--融合して、そこから新しい「肉体」が生まれてくるのかな? そうであるならうれしいけれど。

 この詩には、ほんとうに「こわいことろ」がある。



猫笑う
長嶋 南子
思潮社
コメント
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