秋亜綺羅「愛なんて」ほか(「ココア共和国」11、2012年12月01日発行)
詩とは何か。西脇順三郎は「わざと」書かれたことばであると言ったが、この「わざと」はなかなか定義がむずかしい。どこからが「わざと」で、どこまでが「わざと」か。そういう区別がめんどうくさい。
「わざと」書かれたものは、ちょっと「変」である。「変」になるために「わざと」があるわけである、というふうにして秋亜綺羅「愛なんて」を読んでみると。
この詩の「わざと」は、どのあたりにあるのだろう。「愛をつくる機械」「愛を感じる機械」--ここにある。機械は「愛」とは無縁のもの、感情とは無縁のものである。つまり、秋亜綺羅が「発明した」「つくった」と書いているものは、常識的には「ありえない」。そういう「ありえない」ことを書いているのは「わざと」である。というのは、ことばは「ありえないこと」を書くためにあるのではないのだから。少なくとも「流通言語」は「ありえないこと」を書いて伝えるためにあるのではない。
で、そう考えたとき、ちょっと疑問に思う。ことばはなぜ「ありえないこと」を語ることができるのだろうか。--ここがとてもおもしろいところなのだけれど、秋亜綺羅はとても巧妙というか、ずるいというか、そこに不思議な「わざと」を組み込ませることで、私がちょっと疑問に思ったことをさっと別の方向に動かしてしまう。
「ありえない」ことをわざと書く。
そして、そのあと。
「ありえない」機械だから、「さっぱり売れなかった」と、きわめて「論理的」にことばを動かす。「愛をつくる機械」がもし売れたとするなら、それについて書くのはとても面倒である。どんな愛をつくったのか、だれとだれの間に愛をつくったのか--そういうことを書かなければことばが動いていかない。「わざと」を一生懸命につづけなければいけない。
これはむずかしいね。めんどうくさいね。
ところが「売れなかった」と書いてしまえば簡単。なにも起きない。
ここが、とても大事。
「わざと」ことばを動かす。けれど、なにも起きない。なにも起きないけれど、ことばだけは動かすことができる。ことばは「現実」とは無関係に、つまり無意味に動くことができる。
で、
なにをやってるのかな?
秋亜綺羅は書かない。書かなくても「わかる」。「やっている」ということばで、私たちはかってに想像する。「愛」と「やっている」、それだけで「わかる」ことがある。「頭」が「わかる」というよりも「肉体」が「わかる」。
で、このとき起きていることがとても重要だと私は思う。
ことばは「無意味」に動いているのだけれど、ことばが動くとき、それがどんなに「無意味」であっても、何かしら私たちを刺戟してしまう。「肉体」の奥に動いているものを刺戟してしまう。「肉体」は刺戟を受けてしまう。そして「わかる」。「わかってしまう」。
この「わかる」「わかってしまう」は、そこに起きていることを全部説明しようとするととてもめんどうくさい。
私は、その「めんどうくさい」ことをほんとうはやりたいのだけれど、どうしていいのかわからないから、こんなふうに「めんどうくさい」とだけ書いてごまかしているのだが--少しだけめんどうくさがらずに書いてみると。
「わかる」「わかってしまう」ことのなかには、何かしら「ことばにならないこと」があるのだ。「ことばにする必要がないこと」があるのだ。そういうものを私たちの「肉体」は抱え込んでいる。
秋亜綺羅は、そういうものがあるんだよ、ということをさっと書いて駆け抜けていく。そのスピードのなかで、あ、いま何か「感じた」と「わかる」。それでいいのだと考えているのだと思う。そう、たしかにそれでいいのだと思う。それから先のことは、もう秋亜綺羅の問題ではなく、読者の問題なのだから。
「わかる」の「入り口」までは案内する。しかし、「わかる」の奥へは自分で歩いていくしかない。
秋亜綺羅は、いちおう、秋亜綺羅自身で歩いてみせる(ことばを動かしてみせる)けれど、そのすべてに読者はついていく必要はない。というより、そこから自分の「肉体」へ引き返す必要がある。
ことばは動く--そのときに、ことばにならない「肉体」のなかにある何かも動く。その「呼応」のようなものにくりかえしくりかえし触れることで、自分のなかにある「肉体のことば」を「ことばの肉体」に育てていく。それが、育ったときに、それは詩になる、ということなのかもしれない。
私は意地悪な人間だから、で、秋亜綺羅は「花」の方? それとも「虫」の方? と瞬間的に聞いてしまうが、それはどっちでもいい--ではなくて、両方なのだ。
「ことば」と「肉体」の問題を考えるとき、では、どっちが出発点と問うのはばかげていて、それは「両方」で「ひとつ」なのだ--という具合に、私は、ここで論理を飛躍させてしまうけれど、それと同じように、あらゆることは「複数」でありながら「ひとつ」、「ひとつ」でありながら「複数」という「矛盾」のなかに動いている。
「矛盾」しているから、それを「わかる」ために「わざと」が必要なのだ--と、私のことばは暴走してしまうが、これは「感覚の意見」の「メモ」です。
「あした」」という詩は、「わざと」仕掛けがある。タイトルはあしたということばの下にだけカギかっこの「受け」がある。タイトルから引用すると、次のようになる。
タイトルの、あした」は最終行の「また、とつながっている。「また、あした」という形でぐるぐるまわる。そういう構造になっている。
で、このぐるぐるまわる、ことばが何度も同じところをぐるぐるまわる--これが「愛」だね。どこへも行かない。とどまりつづける。毎日「じゃあ、ね」と分かれながら毎日会う。毎日はそれぞれ違う日だけれど、そのなかに同じものがある。ひとりの人間の「肉体」が毎日成長していきながらも相変わらず「ひとり」であるのと同じようなものだ。
「ことば」にも「あいさつ」にも、人間の「肉体」と同じような「肉体」があり、それがつづいている。それは見えにくいものだけれどね。
そういうことを、秋亜綺羅は「脳死」だとか「移植」だとか、さらには「単身赴任」というような「情緒(愛)」とは無関係なことばのなかで書いている。「無意味」のなかでことばを動かし、「無意味」の奥にある「ひとつ」の何かに刺戟を与えている。「ひとつ」の何かを揺り動かしている。--揺り籠ではなく、逆のことをしている。目覚めさせようとしている。そうやって目覚めたことばを、目覚めた瞬間の形のまま、書いている。
詩とは何か。西脇順三郎は「わざと」書かれたことばであると言ったが、この「わざと」はなかなか定義がむずかしい。どこからが「わざと」で、どこまでが「わざと」か。そういう区別がめんどうくさい。
「わざと」書かれたものは、ちょっと「変」である。「変」になるために「わざと」があるわけである、というふうにして秋亜綺羅「愛なんて」を読んでみると。
愛をつくる機械を発明した
さっぱり売れなかった
愛を感じる機械をつくった
いまそこのすみっこで
ふたり(2台)で勝手にやっている
この詩の「わざと」は、どのあたりにあるのだろう。「愛をつくる機械」「愛を感じる機械」--ここにある。機械は「愛」とは無縁のもの、感情とは無縁のものである。つまり、秋亜綺羅が「発明した」「つくった」と書いているものは、常識的には「ありえない」。そういう「ありえない」ことを書いているのは「わざと」である。というのは、ことばは「ありえないこと」を書くためにあるのではないのだから。少なくとも「流通言語」は「ありえないこと」を書いて伝えるためにあるのではない。
で、そう考えたとき、ちょっと疑問に思う。ことばはなぜ「ありえないこと」を語ることができるのだろうか。--ここがとてもおもしろいところなのだけれど、秋亜綺羅はとても巧妙というか、ずるいというか、そこに不思議な「わざと」を組み込ませることで、私がちょっと疑問に思ったことをさっと別の方向に動かしてしまう。
「ありえない」ことをわざと書く。
そして、そのあと。
「ありえない」機械だから、「さっぱり売れなかった」と、きわめて「論理的」にことばを動かす。「愛をつくる機械」がもし売れたとするなら、それについて書くのはとても面倒である。どんな愛をつくったのか、だれとだれの間に愛をつくったのか--そういうことを書かなければことばが動いていかない。「わざと」を一生懸命につづけなければいけない。
これはむずかしいね。めんどうくさいね。
ところが「売れなかった」と書いてしまえば簡単。なにも起きない。
ここが、とても大事。
「わざと」ことばを動かす。けれど、なにも起きない。なにも起きないけれど、ことばだけは動かすことができる。ことばは「現実」とは無関係に、つまり無意味に動くことができる。
で、
いまそこのすみっこで
ふたり(2台)で勝手にやっている
なにをやってるのかな?
秋亜綺羅は書かない。書かなくても「わかる」。「やっている」ということばで、私たちはかってに想像する。「愛」と「やっている」、それだけで「わかる」ことがある。「頭」が「わかる」というよりも「肉体」が「わかる」。
で、このとき起きていることがとても重要だと私は思う。
ことばは「無意味」に動いているのだけれど、ことばが動くとき、それがどんなに「無意味」であっても、何かしら私たちを刺戟してしまう。「肉体」の奥に動いているものを刺戟してしまう。「肉体」は刺戟を受けてしまう。そして「わかる」。「わかってしまう」。
この「わかる」「わかってしまう」は、そこに起きていることを全部説明しようとするととてもめんどうくさい。
私は、その「めんどうくさい」ことをほんとうはやりたいのだけれど、どうしていいのかわからないから、こんなふうに「めんどうくさい」とだけ書いてごまかしているのだが--少しだけめんどうくさがらずに書いてみると。
「わかる」「わかってしまう」ことのなかには、何かしら「ことばにならないこと」があるのだ。「ことばにする必要がないこと」があるのだ。そういうものを私たちの「肉体」は抱え込んでいる。
秋亜綺羅は、そういうものがあるんだよ、ということをさっと書いて駆け抜けていく。そのスピードのなかで、あ、いま何か「感じた」と「わかる」。それでいいのだと考えているのだと思う。そう、たしかにそれでいいのだと思う。それから先のことは、もう秋亜綺羅の問題ではなく、読者の問題なのだから。
「わかる」の「入り口」までは案内する。しかし、「わかる」の奥へは自分で歩いていくしかない。
秋亜綺羅は、いちおう、秋亜綺羅自身で歩いてみせる(ことばを動かしてみせる)けれど、そのすべてに読者はついていく必要はない。というより、そこから自分の「肉体」へ引き返す必要がある。
ことばは動く--そのときに、ことばにならない「肉体」のなかにある何かも動く。その「呼応」のようなものにくりかえしくりかえし触れることで、自分のなかにある「肉体のことば」を「ことばの肉体」に育てていく。それが、育ったときに、それは詩になる、ということなのかもしれない。
世界のどこかに咲いていた
だれにも見られないままで
枯れてしまった
花がある
神様さえ見届けていないけれど
花が枯れてしまったので
死ぬしかなかった虫がいる
愛なんて
いちいち語らなくても
ちゃんとあるじゃないか
永遠の命がないから
愛なんだね
ひとりぼっちの宇宙だから
愛なんだね
もう戻ることなどないから
愛なのかもしれないね
私は意地悪な人間だから、で、秋亜綺羅は「花」の方? それとも「虫」の方? と瞬間的に聞いてしまうが、それはどっちでもいい--ではなくて、両方なのだ。
「ことば」と「肉体」の問題を考えるとき、では、どっちが出発点と問うのはばかげていて、それは「両方」で「ひとつ」なのだ--という具合に、私は、ここで論理を飛躍させてしまうけれど、それと同じように、あらゆることは「複数」でありながら「ひとつ」、「ひとつ」でありながら「複数」という「矛盾」のなかに動いている。
「矛盾」しているから、それを「わかる」ために「わざと」が必要なのだ--と、私のことばは暴走してしまうが、これは「感覚の意見」の「メモ」です。
「あした」」という詩は、「わざと」仕掛けがある。タイトルはあしたということばの下にだけカギかっこの「受け」がある。タイトルから引用すると、次のようになる。
あした」
恋人は脳死のあとに風邪をひいた
脳死移植を希望していた恋人は
ばらばらになって
それぞれの納品先へと急いで出発した
新鮮であったかくて
若い香りがするうちに
いく人にも分裂して単身赴任した恋人と
「じゃあ、ね」は交わせなかった
風邪くらいはなおしてあげたかった
わたしたちのあいだでは
「じゃあ、ね」は
世界で
たったひとつしかない
アイ・ラブ・ユーのあいさつだった
恋人の「じゃあ、ね」へ
「じゃあ、ね」
「また、
タイトルの、あした」は最終行の「また、とつながっている。「また、あした」という形でぐるぐるまわる。そういう構造になっている。
で、このぐるぐるまわる、ことばが何度も同じところをぐるぐるまわる--これが「愛」だね。どこへも行かない。とどまりつづける。毎日「じゃあ、ね」と分かれながら毎日会う。毎日はそれぞれ違う日だけれど、そのなかに同じものがある。ひとりの人間の「肉体」が毎日成長していきながらも相変わらず「ひとり」であるのと同じようなものだ。
「ことば」にも「あいさつ」にも、人間の「肉体」と同じような「肉体」があり、それがつづいている。それは見えにくいものだけれどね。
そういうことを、秋亜綺羅は「脳死」だとか「移植」だとか、さらには「単身赴任」というような「情緒(愛)」とは無関係なことばのなかで書いている。「無意味」のなかでことばを動かし、「無意味」の奥にある「ひとつ」の何かに刺戟を与えている。「ひとつ」の何かを揺り動かしている。--揺り籠ではなく、逆のことをしている。目覚めさせようとしている。そうやって目覚めたことばを、目覚めた瞬間の形のまま、書いている。
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