寺田美由紀『暮れない病』(砂子屋書房、2012年12月20日発行)
寺田美由紀『暮れない病』には目新しいことばはない。だれもが知っていることばで書かれている。ことばのすべてが「流通言語」だといっていい。そして、書かれていることも驚くようなことではない。だれもが体験するようなことである。
しかし、
これは「体験」の書き出しだが、こんなふうに書かれてみると、なんとなくうれしくなる。だれもが体験するようなことなのだけれど(特に「貴重な体験をありがとうございます」という紋切り型のあいさつにはだれもが出合うような感じがするのだが)、そうか、こういうことって、わざわざ詩に書かれたことがなかったなあと思う。「流通詩」とは違うのだ。
そこに寺田のことばのおもしろいところがある。そしてそれがおもしろいのは寺田のことばが「肉体(思想)」を潜り抜けているからである。
なんでもないように見えるけれど、たとえば
この「生きている限り」は独特である。「生きているのだからだれでも体験する」でもなければ、「生きていればだれでも体験する」でもない。「生きている限り」。「意味」はわかるが、そういうことばは私の肉体からは出てこない。聞けばわかるが、私の口には乗らない。「生きている限り」ということばをつかうなら、「生きている限りは努力する」というように「未来形」としてつかう。
あ、何か違う--と私は感じる。ここに私とは違う「肉体」があるということを、とても強く感じる。そして、それは私の「肉体」の感じと違うからこそ、それを直感的に信じてしまう。信じることができる。ここに寺田の「正直」がある、ほんとうの「知っている」何かがあり、それを寺田の「肉体」は「覚えている」。そのために「生きている限り」ということばが出てきたのだ。
詩集を読み進むと、看護師のことや病院のことが出てくる。それで、あ、寺田は看護師をしているのか、ということがわかってくる。知らず知らずに私の肉体に、そのことがなじんでくる。そして、私は単純に「生きていれば」という具合にことばをつかうが、寺田は「生きる」を「死ぬ」と向き合わせながら「肉体」で引き受けているということが「生きている限り」ということばのなかに反映されているのだとわかってくる。
こういう「肉体(寺田のことばで言いなおすと体験になると思うが)」は、私の「肉体」にとても不思議な形で響いてくる。私にはそんなに多くの死と向き合ってきた体験はないのだがそれでも少しは向き合ってきた。そのことをふいに思い出すのである。死を私は「覚えている」。その「覚えている」ことが寺田のことばのなかで「出合う」。寺田のことばをとおして寺田の「肉体」と私の「肉体」が向き合い、ことばを超えて、「肉体」の奥でつながる、いのちの源でつながる感じがする。--他人のことばが信じられる、納得できる、「肉体」にすーっと入ってくるというのは、こういうことだと思う。そしてこういう「ことばの交流=肉体の交流」というのは「流通言語」の「交流」とはかなり違う。違うと、私は感じている。「頭」で考えて「交流」するのではなく、「肉体」がかってに「交流」する。路傍でだれかが腹を抱えてうめいていると、それが私の痛みではないのに「あ、腹が痛いのだ」とわかるのに似ている。「腹が痛いのだ」は実は違っていて「心臓が痛い」かもしれないけれど、ともかく「肉体が痛い」ということが自分の肉体ではないにもかかわらず「わかる」。これは「肉体」が「覚えている」ことが、私の「肉体」のなかで動くということである。
めんどうくさいことを長々と書いてしまったが、そういう「肉体」の「覚えている」ことばが寺田の詩のことばである。「流通言語」に見えるかもしれないが、そうではないのである。
ひとはまず「肉体」で出合う。それからことばで出合う。それからもう一度「肉体」と出合い、互いの「肉体」が「生きている」ということをよろこび合う。こういうことを「体験」として寺田は書いている。あまりに「知っている」ことばばかりなのでさーっと読んでしまいそうだが、そこには「肉体」の深みがある。「深み」につまずかずに読んでしまえるのは、その深みを寺田が何度も何度も渡っていて、そのことを寺田が「覚えて」いて、無意識に(自然に)「肉体」が動いているからである。何度も何度も危険なところをわたっているひとの肉体の動きは、はじめてそこをわたるひとに比べるととてもスムーズである。経験豊かなひとがスムーズにわたっていくからといって、たとえば私が同じようにわたれるわけではない。
「再会」という作品。
「覚えている」のは「肉体」である。だから「たじろぐ」のも「肉体」である。こういう「たじろぎ」をそっくりそのまま私は体験しているわけではないが、私の「肉体」のなかにもそういう「たじろぎ」がある。それを「覚えている」。
「覚えている」ことは、すぐに「肉体」に反応する。自転車に乗ることを「覚える」と長い間乗っていなくても乗れるのと同じである。「肉体」が「覚え」たことは「間違えない」。その「間違えない」という部分が人間の「正直」、人間の「思想」と呼ぶべき部分である。
詩は、次のようにつづく。
すべては「おもわず」である。なにも考えない。何も「頭」や「こころ」を経由しないのだ。直接「肉体」がそのまま動くのだ。ここにある「正直」、その「思想」のまっすぐさに、私ははっとはする。
あ、寺田がここにいる、と感じる。「肉体」を感じる。私は寺田に会ったことがないが、寺田の肉体そのものに触れたような感じがし、どきどきする。
こういう体験を、私は詩の体験と思っている。
寺田美由紀『暮れない病』には目新しいことばはない。だれもが知っていることばで書かれている。ことばのすべてが「流通言語」だといっていい。そして、書かれていることも驚くようなことではない。だれもが体験するようなことである。
しかし、
体験を募集しますという広告が出た
ことさら人に言うほどのことでもないが
生きている限りは体験する
そんな体験を書いて出したら
貴重な体験をありがとうございますと返事がきた
そういう体験をした
これは「体験」の書き出しだが、こんなふうに書かれてみると、なんとなくうれしくなる。だれもが体験するようなことなのだけれど(特に「貴重な体験をありがとうございます」という紋切り型のあいさつにはだれもが出合うような感じがするのだが)、そうか、こういうことって、わざわざ詩に書かれたことがなかったなあと思う。「流通詩」とは違うのだ。
そこに寺田のことばのおもしろいところがある。そしてそれがおもしろいのは寺田のことばが「肉体(思想)」を潜り抜けているからである。
なんでもないように見えるけれど、たとえば
生きている限り体験する
この「生きている限り」は独特である。「生きているのだからだれでも体験する」でもなければ、「生きていればだれでも体験する」でもない。「生きている限り」。「意味」はわかるが、そういうことばは私の肉体からは出てこない。聞けばわかるが、私の口には乗らない。「生きている限り」ということばをつかうなら、「生きている限りは努力する」というように「未来形」としてつかう。
あ、何か違う--と私は感じる。ここに私とは違う「肉体」があるということを、とても強く感じる。そして、それは私の「肉体」の感じと違うからこそ、それを直感的に信じてしまう。信じることができる。ここに寺田の「正直」がある、ほんとうの「知っている」何かがあり、それを寺田の「肉体」は「覚えている」。そのために「生きている限り」ということばが出てきたのだ。
詩集を読み進むと、看護師のことや病院のことが出てくる。それで、あ、寺田は看護師をしているのか、ということがわかってくる。知らず知らずに私の肉体に、そのことがなじんでくる。そして、私は単純に「生きていれば」という具合にことばをつかうが、寺田は「生きる」を「死ぬ」と向き合わせながら「肉体」で引き受けているということが「生きている限り」ということばのなかに反映されているのだとわかってくる。
こういう「肉体(寺田のことばで言いなおすと体験になると思うが)」は、私の「肉体」にとても不思議な形で響いてくる。私にはそんなに多くの死と向き合ってきた体験はないのだがそれでも少しは向き合ってきた。そのことをふいに思い出すのである。死を私は「覚えている」。その「覚えている」ことが寺田のことばのなかで「出合う」。寺田のことばをとおして寺田の「肉体」と私の「肉体」が向き合い、ことばを超えて、「肉体」の奥でつながる、いのちの源でつながる感じがする。--他人のことばが信じられる、納得できる、「肉体」にすーっと入ってくるというのは、こういうことだと思う。そしてこういう「ことばの交流=肉体の交流」というのは「流通言語」の「交流」とはかなり違う。違うと、私は感じている。「頭」で考えて「交流」するのではなく、「肉体」がかってに「交流」する。路傍でだれかが腹を抱えてうめいていると、それが私の痛みではないのに「あ、腹が痛いのだ」とわかるのに似ている。「腹が痛いのだ」は実は違っていて「心臓が痛い」かもしれないけれど、ともかく「肉体が痛い」ということが自分の肉体ではないにもかかわらず「わかる」。これは「肉体」が「覚えている」ことが、私の「肉体」のなかで動くということである。
めんどうくさいことを長々と書いてしまったが、そういう「肉体」の「覚えている」ことばが寺田の詩のことばである。「流通言語」に見えるかもしれないが、そうではないのである。
ひとはまず「肉体」で出合う。それからことばで出合う。それからもう一度「肉体」と出合い、互いの「肉体」が「生きている」ということをよろこび合う。こういうことを「体験」として寺田は書いている。あまりに「知っている」ことばばかりなのでさーっと読んでしまいそうだが、そこには「肉体」の深みがある。「深み」につまずかずに読んでしまえるのは、その深みを寺田が何度も何度も渡っていて、そのことを寺田が「覚えて」いて、無意識に(自然に)「肉体」が動いているからである。何度も何度も危険なところをわたっているひとの肉体の動きは、はじめてそこをわたるひとに比べるととてもスムーズである。経験豊かなひとがスムーズにわたっていくからといって、たとえば私が同じようにわたれるわけではない。
「再会」という作品。
以前勤務していた
寝たきりの子供たちの病棟に
七年ぶりのローテーションで戻ってみると
一段と小さくなって
やせ細った子供たち(すでに成人している)と
その頭上でビュービューと
幅を利かせている幾台もの人工呼吸器に遭遇し
ぼくあれから
ずいぶん成長したんだよとそれなりに
わきまえることのできるようになった子や
ますます頑固に分からんちんになってしまった子や
不完全なタイムスリップをしたような光景に
たじろいで
「覚えている」のは「肉体」である。だから「たじろぐ」のも「肉体」である。こういう「たじろぎ」をそっくりそのまま私は体験しているわけではないが、私の「肉体」のなかにもそういう「たじろぎ」がある。それを「覚えている」。
「覚えている」ことは、すぐに「肉体」に反応する。自転車に乗ることを「覚える」と長い間乗っていなくても乗れるのと同じである。「肉体」が「覚え」たことは「間違えない」。その「間違えない」という部分が人間の「正直」、人間の「思想」と呼ぶべき部分である。
詩は、次のようにつづく。
おわわず わたし
どんなになってる? と
むしょうに聞きたくなった
せめて少しは人として
成長していなければ
一年を十年で生きて もはや
力尽きようとしているこの子たちに
申し訳ない気がして
すべては「おもわず」である。なにも考えない。何も「頭」や「こころ」を経由しないのだ。直接「肉体」がそのまま動くのだ。ここにある「正直」、その「思想」のまっすぐさに、私ははっとはする。
あ、寺田がここにいる、と感じる。「肉体」を感じる。私は寺田に会ったことがないが、寺田の肉体そのものに触れたような感じがし、どきどきする。
こういう体験を、私は詩の体験と思っている。
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