詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中武「藤部花離の詩集 後日譚」

2012-12-02 10:24:28 | 詩(雑誌・同人誌)
田中武「藤部花離の詩集 後日譚」(「その空の原で」3、2012年10月20日発行)

 田中武「藤部花離の詩集 後日譚」は「譚」ということばがあらわしているようにストーリーがある。その1連目。

詩集『幸福喇叭』の発行元となっている「折半堂」は、小さな和菓子の店であった。
ついでがあったからというのは自身への言い訳である。県北の町の冴えない夏祭り(ポスターには越の夏の掉尾を飾る、と書かれていた)をわざわざ見物に出かけたのは。
由緒はあるらしいが、見映えのしない古びた山車がひょろひょろと過ぎたあとはもう人影もまばらな通りに、それでも祭のあかしの花綵と幟旗の立つ商店街にその店はあった。

 ここにこの作品の全てがある。
 詩集-発行元、というつながりは「出版社」というのが自然である。「折半堂」の「堂」の文字は出版を想像させる。「三省堂」とか「ふらんす堂」という出版社がある。しかし、この詩では、その「堂」は「和菓子の店」へとなつがる。「出版社」につながるふりをして「和菓子店」。
 そこに「ずれ」がある。「飛躍」がある。
 つづいて書かれているのは「ついでがあったからというのは自身への言い訳である。」という、これまた、「ずれ」である。「飛躍」である。詩集の出版元を尋ねる、というのは「本来の目的」ではない。「ついで」である。しかし、それは「自身への言い訳」であるから、ほんとうは「出版元」を尋ねるのが目的である。だから、これは「ずれ」でも「飛躍」でもない。ことばを探していえば「迂回」ということになるかもしれない。近づくにしても、遠回りしていく。そして「言い訳」ということばに注目するなら、その「迂回」が「自分自身」への「迂回」であることがわかる。田中はここでだれかに「言い訳」しているのではなく、自分に言い聞かせている。自分を納得させている。このことはあとでもふれるが、田中のことばの運動の特徴の一つである。つまり、そこに「思想」がある。
 「迂回」はまた「わざわざ見物に出かけたのは」という倒置法にもあらわれている。倒置法というのは「迂回」というより「迂回」以上のものである。ふつう「迂回」は目的地が出発点とは別にある。しかし倒置法は、何といえばいいのか、後ろから前へ「帰る」(戻る)。前へ進むのとは逆の運動である。倒置法は「迂回」ではなく、ほんとうの「迂回」はかっこのなかにくくられた一文の形の方である。ことばがどこかへたどりつくのを引き延ばすために、かっこのなかの文章は、かっこという形で挿入されたのである。「挿入」が「迂回」と同義である。
 「迂回」と倒置法の違いをもっと見ていくと……。倒置法は、ことばの順序は前後が入れ代わるのだが(そして、それを読むときひとは、ことばをもう一度入れ換えてたどりなおす--つまり逆方向へいったん引き返すのだが)、ストーリーであるから、前に戻りながらも、前に進む。つまり「矛盾(?)」した動きをする。
 倒置法という「文法」はつかわなくても、同じようなことができる。
 「由緒はあるらしい……」の文章は「店=折半堂」へ戻ることで、出版元を尋ねるというストーリーそのものの「前進」させる。そして、ここにも「見映えのしない……通りに」ということばと、「それでも……商店街に」という修飾語(?)の「迂回」がある。
 この作品のことばは、整理していいなおすと、「ずれ(飛躍)」、「迂回(挿入)」、「倒置法」というような、一直線ではない運動をしながら先へ進む。迂回による引き延ばし、倒置法による逆方向への進行、挿入による分断と接続--なにかしら「逆」のもの、「矛盾」したものを常にことばのなかに取り込む。
 「他者」を取り込むという具合に言うと、まあ、これからあとの説明を省略できるのだが……。(このあと、作品は60代の店主、9歳のままの知能のこども、仮=花離という手の込んだペンネームなどをたどりながら、進み、次第に言語空間の内部を複雑にしながら、その複雑さを結晶化させる。--これを全部ていねいに説明するのはめんどうなので省略してしまうが……。)

 このとき。(と、私は「飛躍」してしまう。つまり、説明を拒否して、テキトウに書いてしまうのだが。)
 そういう迂回とか挿入とか、めんどうくさいあれこれを内部に含みながら結晶化する文体--それが、実は、田中にとっての「肉体」なのである。
 ストーリーだけなら、田中の書いている「文体」はとてもめんどうくさい。「要約」してしまえば簡単なことを、田中は「わざと」複雑にしている。「わざと」迂回し、「わざと」挿入によってしか、田中のことばは結晶化できない。迂回し、挿入し……というとき、そこにあらわれてくる「他者」が田中のことばを引き延ばしながら、そこに一つの形を与える。
 きのう読んだ粒来のことばが人間の「肉体」そのものを現前させるとするなら、田中のことばは「ことばの肉体」を人間の「肉体」のなかに組み込ませてしまう。人間の「肉体」を「ことばの肉体」でのっとってしまう--のっとってしまうといっても、上を覆ってしまうのではなく、なかに入っていく。
 で、最初に少し書いたことと関係してくるのだが。
 こういうことばの運動は一種の「言い訳」である。他人を説得するのではなく、自分が納得するために、ことばを動かす。自分を納得させるためだけのためのことばだから、それは何度でも「過去」へ「過去」へと遡るようにして、そこにあるもの(あったもの--この作品では「詩集」、そしてそれを書いた人など)を少しずつ具体化する。
 「過去」を「奥」と言い換えるとわかりやすくなる。「存在の奥」、「存在の内部」というともっと「哲学的」に「流通言語」っぽくなるかもしれない。
 田中のことばは、そのことばが先へ進むほど(つまりストーリーとして展開していくほど)、逆に「内部」を耕し、その「奥」を豊かにする。結晶は「奥」で花開くのである。
 だから、ほら(とここでも、私ははしょって飛躍する)。

明るい暮れ方の野の道は限りなくわたしの中へ沈んでいった。

 詩は、そうやっておわる。
 あらゆる迂回、挿入、倒置法などの径路を経ながら、「世界」は「わたしの内部」になる。
 きのう読んだ粒来の詩が、ことばを拒絶する(ことばを捨てる)ことで肉体を現前させるのに対し、田中はことばを全て「内部」に閉じ込める、そして田中は世界と「一体」になる。田中にとって「世界」とは「ことば」なのだ。粒来にとって「肉体」が「世界」であるのとは対照的である。



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谷内 修三
思潮社
コメント
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