詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部嘉昭『みんなを、屋根に。』

2012-12-13 11:31:51 | 詩集
阿部嘉昭『みんなを、屋根に。』(思潮社、2012年11月30日発行)

 阿部嘉昭『みんなを、屋根に。』は思潮社が始めた「オンデマンド・サーヴィス」の第一弾。ネット注文に応じて製本する形式という。どういう形式でもいいけれど(私は文字ならどんなものに書かれていたものでも読んでしまうけれど、そして読んでしまえば、あとはことばを動かすだけだから)、うーん、文字が小さい。これが目の悪い私にはかなりつらい。文字の大きさと線の太さの関係が、ちょっと厳しい。いろいろ制限があるのかもしれないが、工夫をこらしてもらいたい。

 まだ読みはじめてすぐなのだが「四方」という詩がいい。

夢の四方なのではない
四方がすでにゆめなのだ
仮定の中心にいることは
ささやかにして確実な体感

 どこがいいかというと、スピードがいい。「オンデマンド・サーヴィス」の狙いがどこにあるのか私は知らないが、私の勝手な想像でいうと、書いたものが読者にとどくまでの時間が短縮されるということもそのひとつのメリットだろうと思う。書いたらすぐに発表(すぐに読める)というのはネットが切り開いたことばの運動の場だけれど、それが少しだけ時間がかかるけれど紙の媒体にも可能になったということならば、そこではやはりスピードがものをいう。
 ことばが腐らないうちに流通させてしまえ。
 これは乱暴な言い方かもしれないけれど、鮮度を真剣に考えるならば、そういう乱暴も必要なことである。新しいうちは何でもおいしい--かどうかは、まあ、わからないけれど、「新しいんだぞ」ということばにつられて反応する肉体というものがある。私などはミーハーだから「新しいんだぞ」と言われれば、それだけでそこに近づいてしまう。
 で、この詩の書き出しには、そういう乱暴な力がある。

夢の四方なのではない
四方がすでにゆめなのだ

 この対になった2行。--これって、どう違う?
 というより。
 「夢の四方なのではない」ということは、どういういこと? 何が「夢の四方なのではない」なのかなあ。「主語」がここにはない。「あるなにか」が「夢の四方ではない」のなら、それでは何の「四方」? 論理的に考えると、そういう疑問がわいてくる。
 けれど、そういう疑問の瞬間を否定するように、すぐ

四方がすでにゆめなのだ

 とつづく。
 え、そうすると「四方」が主語? 1行目に戻り主語を補うと、

「四方は」夢の四方ではない

 ということになるが、それでは2行目とつづけるとどうなる?

「四方は」夢の四方ではない
四方がすでにゆめなのだ

 なんだ、これは。論理として成り立たない。否定が、ひっくりかえされた形で断定にかわるのだが、その変化の瞬間には、否定がある。「……ではない」という否定を、瞬間的に否定して「……なのだ」にかわる。そのとき、そのまわりにあることば(何かを指し示す働き、運動の形)は、同じ姿をしている。言い換えると同じことばがつかわれながら、正反対のことが主張されている。
 めんどうくさいことに「夢」は「ゆめ」と書き換えられてもいるのだけれど、これっていったいなんなのさ。
 わからないよね。
 わからないけれど、同じことばが繰り返されたので、その繰り返されたということがわかり、またその繰り返されたことば自体、「夢(ゆめ)」「四方」ということばが知っていることばであるだけに、そこに「わかる」ものがあるように感じる。錯覚する。というより、「あ、なるほどそうか」と「わかってしまう」。
 この「わかる」はとても微妙。
 最初に書いたように、それを「論理的」、言い換えると「頭」で整理して「流通言語」にしようとすると、とても変。うまい具合にゆかない。
 ところがわかってしまう」。それはどういうことかというと、「夢(ゆめ)」とか「四方」ということばがすでに私たちの「肉体」になってしまっていて、「意味」を必要としていないからだ。「意味」として考える必要のないものだからだ。
 そういうもののなかに、そういうことばのなかに、肉体をぐいとねじ込み「……ではない」「……なのだ」とことばを乱暴に動かす。「……ではない」も「……である」も、やはり「肉体」になってしまっていることばで、私たちは「意味」ということをいちいち考えない。瞬間的に「そうだ」と納得する。
 このあたりの「肉体のことば」そのものの動きは、早ければ早いほど、なんというかとても印象に残る。有無を言わさず、それに従うしかない。それ以外の「ことばの肉体」の動かし方かあるとは思えない。
 私はわずか2行にこだわってくだくだと書いているが、こういうことばの動きは、阿部が書いているように、ぱっと捨て去っていくことが大切である。  

夢の四方なのではない
四方がすでにゆめなのだ
仮定の中心にいることは
ささやかにして確実な体感

 3行目に前の行の、前のことばの痕跡は残っているか。ひとは大切なことはくりかえして言いなおすものだが、3行目は1、2行目をどんなふうにして言いなおそうそしているか。
 「四方」の痕跡は「中心」ということばのなかに生き残っている。そうして、「夢(ゆめ)」は「仮定」に姿をかえているとも言えるのだが、「四方」が「中心」ということばのなかに残っているとすれば、そのとき「四方」は四角形ではなく「円」になる。「円」として考えた方が、「ぐるり」感がでる。--そうして、その感じは、そういえば「四方」というとき私たちは別に四角形を考えていないなあ、東西南北というときだって十字形の交差する線を考えているわけではなく、「周り中」という感じでとらえているなあと思い出す。「頭」が「正確」に形をとるもの(四角、十字)とは違って、「肉体」は形にならないもの(周り中、ぐるり)という不定形としてことばを「覚えている」。そして、つかっている。
 こういうことを、新しく追加された3、4行目は猛烈なスピードで言い切ってしまう。この速さを私は「乱暴」(あるいは暴力)と肯定的なことばで呼ぶのだが。(まあ、否定的と受け止めるひとがいるなら、それはそれでかまわないけれど。)
 ここで動いていることばの「力」が「頭」というより「肉体」であるからこそ、それは生き生きとしている。
 「頭」ということばを阿部はつかっていないが、「体感」ということばのなかにある「体」と「感じ」が、「頭」を想像させる。「頭」を否定して「肉体」でことばを動かしている、「ことばの肉体」が動いて、こんな行になった、と言っているように感じられる。補足すると、まあ、「頭」は「仮定(理性による考察の出発)」ということばのなかにあり、それに対向する形で「体感」、「肉体」と「感性」があり、その「頭」と「体感」を比較すると「体感」のほうが「確実」であると阿部は言っていることになる。--と判断して、私は阿部の「肉体」がことばの運動の中心にあると感じるのである。
 この「肉体」の強靱な印象は、とてもおもしろい「錯乱」を引き起こす。「幻覚」のようなものを引き起こす。これがまた、とてもおもしろい。ジェットコースターに乗っている気分である。「わあああああおーーーーっ」と叫び、手放して空気のなかにとびだしていく感じだなあ。

あふれる樹間がひかりにゆれ
風のすみかも開閉するとき
そこに同じものの瀰漫がある

 「瀰漫」って、何さ。読める? 私は読めない。だから、かっこいいと思う。私の知らないことを阿部は知っていて、みんなが知っていて当然という感じでつかっている。私はばかだからこういうときすぐ「わからない、知らない」と言ってしまう方だけれど、こういうことばに出合ったら知っているふりをしたくなるでしょう? わからないことだからこそ知っているふりをして「うん、そう」といいたくなるでしょ。
 こういうとき「意味」は「超越」されている。「意味」は「無意味」。つまり、完全に詩になっている。かっこいい。「わあああああおーーーーっ」私の肉体はそう叫ぶだけ。それで満足。「瀰漫」なんかわからなくていい。こんなにかっこいいことばである。次に出合えば、それを思い出す。そのとき、いま感じたことを思い出し、そのことばの文脈のなかで重ねれば、そこに「意味」はおのずとあらわれてくる。「意味」が肉体からあらわれるまで、それは「肉体」のなかにただしまい込んでおけばいいのである。
 「意味」なんか考えると阿部のスピードについていけなくなる。

時間のまばたきのようなもの
均質のくりかえしの均質
これが拡がりの姿なので
ゆるやかさに酔った気になって
身が紙ふぶきに似てゆく

 「均質のくりかえしの均質」。そう繰り返されるものは「くりかえし」という「均質」として「肉体」にぴったり合致する。ここではどんなスピードも「均質」であることによって「肉体」にたたき込まれるから「まばたき」のような時間さえも「ゆるやかさ」になる。
 「まばたき」と「ゆるやか」は「矛盾」だけれど、そういう「矛盾」をのみこんでしまうのが「肉体」である。「肉体」で「覚える」ことがらは、すべて「動詞(動き)」を中心としているから、どんなに速くてもゆるやかと言えるし、どんなにゆったりしていてもすばやいと言い換えることができる。--ほら、一流アスリートの肉体の動きはなめらかでゆったりしているからこそスピードがあるでしょ?

 いやあ、いいなあ。このスピード感覚。ことばの肉体のかっこよさ。ダニエル・クレイブみたいじゃないか。現代詩の007だね。
 ひとつだけ苦情(?)を書くと、詩が長すぎる。「四方」という詩は19ページでおわっていてもいい。20ページまでつづいているのだが、ページをめくると、そのページをめくるという肉体の動きに時間がかかってしまって、ことばの肉体の動きが中断する。これはとても残念なことである。
 阿部は、まあ、そんなことをしたら詩が中途半端になってしまう、というかもしれない。でも、詩なんて中途半端でいい。どっちにしろ「わからない」ことが詩なのだから、長々とつづけたってしょうがない。「意味」や「主張」など、だれも期待していない。(と、私は感じている。--007 の映画に「意味」を見出したいと思うひとがいないのと同じように。)
 ことばは、いま、こんなふうに突っ走っている。ついて来れるかい--そう見栄を切って日本語を挑発するには、この「オンデマンド・サーヴィス」はおもしろいかもしれない。

 



みんなを、屋根に。
阿部 嘉昭
思潮社
コメント
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