詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

パディ・コンシダイン監督{思秋期」(★★★★)

2012-12-15 10:39:42 | 映画


監督 パディ・コンシダイン 出演 ピーター・ミュラン、オリビア・コールマン、エディ・マーサン 

 映画の原題は「ティラノサウル」という。何のことかわからない。そして、その「意味」(指し示すもの)はことばでしか語られない。映像としては描かれていない。こういう作品は、私は好きになれない。映画の「基本」を外している--のだけれど、この映画に関して言えば、そうではない。他の映像がそれを十分に補っているし、「意味」が映像化されないことにもきちんとした理由(根拠)があり、それが映画をがっしりとしたものに育てている。
 ピーター・ミュランとオリビア・コールマンがたいへんすばらしい。二人とも「言えないこと」がある。「言いたい」のだが、言えばずいぶん楽になるのだろうけれど、「言えない」。その「言えない」過去を自分ひとりで背負って、すさみ、悲しみのなかに沈んでいる。
 その「言えない」ことを、ふともらしてしまったのが「ティラノサウルス」である。オリビア・コールマンに妻のことを聞かれてピーター・ミュランは「ティラノサウルス」と答える。だが、それだけでは何のことかわからない。「どういう意味?」と、ふつうはすぐに聞いてしまうが(アメリカ映画だったら絶対にすぐに聞くが)、オリビア・コールマンは聞かない。
 あ、イギリスだなあ。
 私のまったくの個人的な思い込みなのかもしれないが、イギリスは「ことば」の国。そして、そのことばというのは「本人」が自発的に言わない限り聞かないし、わかっていても「聞かなかったこと」にする。つまり、個人のプライバシー(秘密)は個人が自発的に語らない限り「存在しない」。そういう「個人主義」が徹底している。逆に言えば「ことば」にしてしまえば、それは絶対の「真実」。「言えば」それが「事実」になる。
 言わなくても「事実は事実」という考えもあるだろうけれど、違うね。「言うこと」によって、それを「事実」として引き受けると他人に伝えるのがイギリスのことばなのだ。言った限りは、その「事実」を完全に自分で引き受けなければならない。生きていると「事実」であっても「事実」として認めたくないことがある。たとえばどうすることもできない「悲しみ」「孤独」--そういうものは、「事実」として認めたくない。だから「ことば」にしないのである。
 だからね、つらくて寂しい。
 ふつうなら側にいるひとが何事かをわかり、それに対して手助け(?)をする。ところがイギリスではわかっていても「知らない」のだから「わからない」という関係になる。「ことば」にして、そのひとが語らない限り、そのひとの隠していることは「知らない」。「知りようがない」。
 「感じる」と「知る」とは「ことば」になるか、「ことば」にならないかの違いがある。「ことば」にしないかぎり、あらゆることは「知る」に結びつかないのだ。(「知る」と「わかる」は、まあ、逆かもしれないが、何かしら「断絶」があるのがイギリスである。そして、その違いの間に「ことば」が横たわっている。)
 で、この「言えない過去」をピーター・ミュランとオリビア・コールマンは「言わないまま」ただ表情で、肉体で浮かび上がらせる。「肉体(表情)」のなかに「プライバシー」があるということを強く感じさせる。「言えない過去」があるということが、顔の皺、無精髭、見つめ返す瞳、じわーっとあふれてくる涙のなかにあると感じさせる。その感じが私の目をスクリーンに釘付けにする。なぜ、このひとたちは、こんなふうに
 不器用にしか生きられないのか、という思いがせつせつと迫ってきて、それが自分のなかにある「不器用」、うまく言えずに悩みを抱えつづけた日々のことなどを思い出させる。
 二人とも、言いたいのに言えない。--その言いたいのに言えない、言ってしまえば心が触れあうのに、とわかっているのに言えない。その言えないを少しだけ破るきっかけが「ティラノサウルス」だったのだが、そのことばにしても「説明」がいる暗号のように秘密に満ちたものである。「ティラノサウルス」と言ったあと、「意味はね」とつづけて言ってしまえば何かが変わるのだけれど、それができない。不器用な不器用な人間なのである。
 その「不器用さ」をとおして、あ、「ことば」はいつでも「秘密の過去」(その人だけの過去)を背負っているということもわかる。それがよけいに人間の「不器用さ」を印象づける。「隠している」ことのなかに、なにか、その人だけの「まっすぐ(正直)」があることがわかる。
 そして、そういうことが少しずつ、ずーっと積み重なって、最後にとんでもない形で現実を叩き壊すのだが、それが「意外」という感じがしない。そうなるしかないなあ、そうなってもしかたがないなあという感じがする。「正直」というのは、どうしたって「現実」とぶつかり、現実を叩き壊すしか生き残れないものなのである。それにたどりつくまでを、主演の二人はほんとうに「顔」と「姿」で具体化するのである。
 みとれてしまう。
 特に、オリビア・コールマンがピーター・ミュランにののしられながらショーケースの向こうで立ちすくんでいるときの映像がすごい。涙がじわーっとにじんでくるのをアップではなくロングショット(といってもバストショットと全身ショットの間くらいの感じだが)でみせる。涙がにじんでくるようすは映像でははっきり見えない。はっきりみえないが、はっきりわかる。映像という「平面」を見つめているのではなく、まるでその商店にいて立ち会っているような、全身からあふれてくるこころの動きがわかるのだ。「空気」がわかるのだ。
 こういう「空気」を見ている間は、なんとも苦しくて苦しくて仕方がないのだが、見終わったあと、ほっとする。「正直」が寄り添う形に安心する。やっとみつけた「正直」の丸裸の形に、ああ、よかったと思うのである。
 (どんな映画なのかわからないように、わざと「説明」を省いて書いてみた。「ティラノサウルス」というタイトルが何を意味していたのか映画を見終わったらわかるように、映画を見終わったあとなら私の書いている感想もわかるだろうと思う。)
                      (2012年12月12日、KBCシネマ2)




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