詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

栗原知子『ねこじゃらしたち』

2012-12-22 09:46:03 | 詩集
栗原知子『ねこじゃらしたち』(思潮社、2012年12月12日発行)

 栗原知子『ねこじゃらしたち』にも「正直」がある。「正直」は「わざと」の対極にある。だから、その詩の魅力を語ろうと思うと--うーん、どう書けばいいのかなあ。
 「草の中で」という巻頭の作品。

逃げ込んだ場所からは
風が見える
光が見える

あれら 白いものたちは
手の届かないところにあって
なにものにも汚されない
水底から見上げるように
ここからは 遠すぎるあの空

 「水底から見上げるように」が不思議である。草の中に逃げ込んだのであって、水の中ではない。水はそこにはない。なぜ、ここで突然「水底」? わからない。わからないけれど、たとえば海にもぐり、プールにもぐり、そこから空を見上げたことを私は「覚えている」。空が直接見えるわけではない。水面が見える。その向こうに空がある。間に何かがあって、その向こうに空がある。そのとき、たしかにそれは「遠い」。「遠い」とは距離だけの問題ではなく、間に何かがあるということなのかもしれない。
 そう「わかった」あとで、次の連が来る。

絶望ということばすら 贅沢に思えたとき
傍らでは草が揺れていた
私を救わない
けれども心をいざなってやまない
ぼうぼうと広がる 丈高い草が

 「絶望」も「贅沢」も具体的に書かれているわけではない。けれど「水底」から空を見上げた「肉体の記憶(覚えていること)」が書かれていない「絶望」や「贅沢」を、私の知っている「絶望」「贅沢」としっかり結びつける。そのとき、具体的にはわからなくても、「わかる」のである。--私の書いているのは矛盾だが、そういうことが起きる。
 そういうことを引き起こす「正直」が「水底」の1行にある。そして、それはそのあとの「ぼうぼう」につながる。
 こういう行に出合ったとき、私の「現代詩講座」では質問をする。

<質問>「ぼうぼう」を自分のことばで説明しなおすと、どうなる?

 受講生はとまどう。わかっているのに、それをあらわすことばが動かない。「肉体」でわかっているのに、「頭」がついていけない。
 この「頭」がついていけない「肉体」の奥に動いている何かは不思議な共通項をもっている。「肉体」の奥で動いている「思想」には何か不思議な共通項がある。それは「肉体」が「覚えている」何かなのである。「覚えている」ことはいつでもつかえる。「ぼうぼう」と広がる--このことばのつかい方はだれでもできる。そこにある、人間に共通した「正直」につながる何かがある。
 これは、いちいち説明はしなくていいものである。してはいけないことなのかもしれない。私は「わざと」ぼうぼうを自分のことばで説明しなおすと、どうなる?と受講生に質問してみるが、それは「答え」を求めているからではない。そこで立ち止まることを求めているからである。立ち止まって、そのことばが自分の「肉体」のなかにあることを感じればそれでいいのだ。
 他人の「肉体」と自分の「肉体」は別個のものである。けれども、それをつなぐものがある。そしてそれは「覚える」しかないものである。「覚える」ということさえ意識せずに、私たちはそれを「覚える」。そうして生きている。その無意識の「覚える(覚えたこと)」を刺戟してくる「正直」が栗原のことばのなかにある。
 「ねこじゃらしたち」のなかに、そういうことが別の形で、とても美しく書かれている。

……ねえ、ちょっとこの匂いなんだろうな
なにが?
なんか匂いするだろ ハイトーンのな
うそうそ あ これか
キンモクセイかな
わからんけど 秋のなんかだな
秋のなんかをかぐと、秋を思い出すな
おまえ一年草のくせにそれはないだろう
でもそういうのないか
あるな
根のせいかな
土かもしれない
どうだろうな
そういうことを考えると眠くなるな
なあ
ときどきだけどさ
おれ イネ科もなかなかだと思うことがあるな
これも なにかの命令なのかな
そういうこと考えると眠くなるし
ああ
ああ
ああ
風だ……

 「おまえ一年草のくせにそれはないだろう」--たしかに一年草なら「秋を思い出す」ということは不可能である。でも「肉体」はそういう「不可能」を超えて「覚えている」のである。これを遺伝子だとかDNAだとかの記憶と言ってしまうとそれっぽいけれど、そんなことはどうだっていいな。生きていることで(生き続けることで)、「覚える」なにかが「肉体」のなかで変化して、「覚えていないはずのないこと」まで「覚えている」と錯覚させる。そして、こういう錯覚は「正直」な人間ほど、正確に錯覚できるのである。そういう美しさが栗原にある。(私は唐突に、木坂涼を思い出しているのだが、木坂にもそういう「正直」がある。)
 で、そういうことは「考えると眠くなる」。考えなくてもいいのだ。ぼんやりと、ああ風が吹いている、風だね、と感じるように、ただ「そうかもしれない」と感じていればいいだけなのである。そして感じたことを否定しない。しっかり「肉体」として「覚える」。それだけでいいのである。
 そういうことが積み重なると、つぎのようなことを体験できるのである。「その列車」という作品。

梅の木みたいに やせた腕
着物でふくらんだ背中
真面目な魂
混雑した列車の中で守ってあげたい
おばあちゃんの美しいところ全部

何の用でか
ひたすらに揺られていく旅
本当より混んでいる東北本線で
もの言わぬ おばあちゃんの目だけが
どこまでも明るい
連結部はきしみ
人いきれは増すけれど
疎開のときには通りすぎたのだろう 仙台駅の
明るいペデストリアンデッキに
連れ立ってもみたくて

成人式まで届かなかった
私とおばあちゃんの 片道切符
朝の光にも
鳥たちの声にも 邪魔されず
南を指して揺れ続ける
数年に一本の その列車

 おばあちゃんを見つめる視線が清らかだ。列車に乗って、だれか「おばあちゃん」を守ってあげたい、という気持ちになる。無性に、列車に乗って「おばあちゃん」を探したい気持ちになる。いいなあ。







ねこじゃらしたち
栗原 知子
思潮社
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