詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘「秘密の木」

2012-12-07 11:08:03 | 詩集
長田弘「秘密の木」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 長田弘「秘密の木」(初出『詩の樹の下で』2011年12月発行)を読むと、この詩人はとても孤独なひとだと直感的に感じる。孤独のなかで、遠いどこかの孤独、全体に触れあえない孤独と語り合っているという感じがする。その対話は離れた場所から見ているととても美しい。そして、その対話は美しいのだけれど、そこに入って行っていいのか(私も仲間に入れてください、と言っていいのか)、それがどうもわからない。そういうふうに語りかけることがはばかられる。あまりに美しすぎて。

 大きな木のうつくしさは、どこまでも、その全体のうつ
くしさだ。大きな木の中心には、直立する幹があり、木の
中心から多くの枝が枝分かれしていって、さらにその枝々
からもいくつもの、いくつもの小枝に細く分かれて行く。
 枝々の先々を、葉の繁りが柔らかく覆って、葉は日の光
を散らして、静かな影をひろげる。うつくしいのは、遠く
から見る樹形が、空のなかにいつもきれいな均衡をたも
ち、どんなときにも樹下のひそやかな静けさをうしなわな
い木だ。
 遠くからその木を見ながら、その木にむかって近づいて
ゆくと、木がみるみるうちに見上げる高さと大きさになっ
てきて、逆に、じぶんはどんどん小さくなってゆく。人は
小さな存在なのだ。
 うつくしい大きな木が抱いている、この世でもっとも慕
わしい、しかも、もっとも本質的な秘密。うつくしい大き
な木のある場所が、小さな存在としての人の生きてきた場
所なのだという秘密。

 なぜ、長田を「孤独」と感じたのか。
 辺見の詩と比較していうと(こういう比較は無意味なものだとは思うのだけれど、私はきのう読んだことばの影響を受けながら長田の詩を読んでいるので、どうしても比較してしまうのだ)、長田の詩には大きな飛躍がなく、同じことばが繰り返されているからだ。
 辺見の詩では「きみ(のからだ)」は突然「牛」になった。この「飛躍」のなかにある辺見だけの「接続」というものを私は正確にたどることができない。なぜ「きみ」が「牛」になったか、その「理由(必然性)」をつかみとることができない。そして、それが「わからない」からこそ、「牛」への飛躍、「牛」そのものを実感することができる。
 「他人」というのは「わからない」から他人なのである。「きみ」が「牛」になる理由がわからないからこそ、私は辺見のことばを信じる。信じるという形で、私のなかに動いている「牛」を手がかりに「きみ」をも想像する。「きみ」と「牛」の「絆」のなかに辺見を感じる。それは、私には絶対にわからない何かであるけれど、だからこそ、それを信じるとき、私のなかで何かが動きだす--そういう詩であった。
 長田の詩のなかには、そういう「不思議」(絶対的な拒絶によって逆に私をひきつけることば)というものがない。大きな木を私は美しいと思う。私の古里には神社に大きなけやきの木がある。私はこの木が大好きだ。その木のことを思い出す。私はその木を美しいと感じたことはないが、とても好きである。「美しい」と感じる必要がないくらい好きなのだと思う。長田が書いているように中心に太い幹があり、枝が分かれていく。木はみんなそういうものだと思うけれど、それを長田はていねいにていねいに描写している。そして、その描写のなかに、木の「うつくしさ」が次第にしっかりしたものになってくる。この静かな変化、ことばの動きが美しいのだが、それがシンプルで美しいほど、なんとなく近寄りがたさのようなものを感じてしまう。美しさのなかに長田がとじこもっていくような感じがするのである。そのために「孤独」ということばを思いついてしまうのだと思う。
 ていねいな描写、とさっき書いた。それは「飛躍」の少ない描写ということもできるかもしれない。そしてそれはさらに「論理的」なことばの運動と言い換えることができるかもしれない。たとえば、

 遠くからその木を見ながら、その木にむかって近づいて
ゆくと、木がみるみるうちに見上げる高さと大きさになっ
てきて、逆に、じぶんはどんどん小さくなってゆく。人は
小さな存在なのだ。
 
 この詩は起承転結の4段落から成り立っているが、その「転」の部分。ここには大きいものと小さいものの関係が「論理的」に書かれている。何かが大きくなるとき、相対的にもう一方は小さいものになる。そういう「論理」を書いたあと、長田は、その「論理」を力に木と人間(長田)の関係を密接なものにし、「主語」を「木」から「人間(長田)」にかえてしまう。
 木を描きながら、その木こそ人間なのだという断定する。
 ただしこの木から人間の「飛躍」は、とても「巧妙(?)」に書かれている。木と人間はあきらかに違った存在である。それをそのまま「同一」のものとして語るには長田のことばは繊細すぎる。
 辺見は「きみ」と「牛」を有無を言わさず「同一」のものにしてしまったが、長田は木と人間を「同一」にするのではなく、「木の生きている場所」と「人間の生きている場所」を重ね合わせる。木と人間は同一ではないが、「生きている場所」が同一である。そして、そのとき「場所」は「空間」ではなく、「生きていること」(動詞のあり方)なのだ。どうやって生きるか、どんなふうに生きるか--その「生きる」という動詞があってはじめて生まれてくる「時間」を長田は「場所」と呼び、それが木と人間は同じだという。それは、「私(長田)は木のように生きてきた」と告白するのに等しい。
 自分の「場」を守り、大地にしっかり根を下ろした分だけ空に手を広げる。そういう形でバランスをとりながら自分を育ててきた--そういう「生き方」。
 それは「形」(目に見える「もの」)ではなく、「形」のなかにある「動き(動詞)」であるからこそ、いっそう美しい。形の美しさは「眼」に響いてくるが、「動き」の美しさは「肉体」の内部にまで作用する。動詞の美しさを把握するのは、同じように動いてみる肉体そのものである。
 で、(と、ここで私は少し変なことを言うのである。)
 
 で、その「眼」ではなく「肉体」そのものと関係しているのが2段落目。

 枝々の先々を、葉の繁りが柔らかく覆って、葉は日の光
を散らして、静かな影をひろげる。うつくしいのは、遠く
から見る樹形が、空のなかにいつもきれいな均衡をたも
ち、どんなときにも樹下のひそやかな静けさをうしなわな
い木だ。

 ここの部分の「主語」の乱れ(?)につまずかない? さっと読んでしまえることばなのだけれど、何か「肉体」の内部を刺戟されない? 肉体の内部がねじれるような感じがしない?
 「枝々の先々を、葉の繁りが柔らかく覆って、葉は日の光を散らして、静かな影をひろげる。」この文章の主語は何? 「葉は」ということばが文章のなかほどにあって、そこに格助詞があるために「葉」が主語のように感じられるけれど、ちょっと違うなあ。「葉」を主語だとすると……。

 葉は「枝々の先々を、葉の繁りが柔らかく覆って」となってしまう。「葉」が重複してしまう。ここの文の「主語」は「葉」ではなく「木」である。詩の最初に書かれている「大きな木」そのものが主語として存在し、「主語」の形で文章には書かれていないけれど、ことば全体を動かしている。「葉は……静かな影をひろげる」は「木は日の光を散らして、静かな影をひろげる」と書き換えることができる。
 こういうことは、ふつうはいちいち言わないまま、なんとなく私たちは納得している。意識しないうちに「わかっている」。
 --これが、実はことばの不思議なところなのだと思う。
 数学や科学のようにどこまでも論理的に何かを組み立てるのではなく、どこかで「ぶれ(ずれ)」のようなものを含みながら、「全体」を納得する。そのとき「全体」と「肉体」がたぶん重なり合う。(←これは、私の感覚の意見。大雑把にしか言うことができない。論理的に説明できない。)
 で、いま取り上げた文章の主語が「木」だと仮定したとき、その文につづくことば。

                うつくしいのは、遠く
から見る樹形が、空のなかにいつもきれいな均衡をたも
ち、どんなときにも樹下のひそやかな静けさをうしなわな
い木だ。

 この文の主語は? 文法的には「うつくしいのは」と格助詞つきで書かれている「うつくしい(も)の」かな? これはなんとも中途半端な日本語だね。たぶん「うつくしい(もの」ではなく、「うつくしい(こと)」を含んでいるのだと思う。「こと」というのは「動詞」とともにある動きであり、先に書いたこれが最後の部分(動詞としての「生き方」)に影響しているのだけれど、そういう細部(文法)にこだわらなければ、主語はやはり「木」であると思う。
 「うつくしいのは」ということばは「木がうつくしいのは」という形がわかりやすい。「木がうつくしいのは……」と始め、そのあとことばは「うつくしい」の理由、根拠をならべる。
 「(木が)うつくしいのは、遠くから見る樹形が、空のなかにいつもきれいな均衡をたもち、」--これは「木の」樹形が遠くからみると美しく見えるのは、空のなかにいつもきれいな均衡を保っているから、ということになる。
 で、そうだとすると。で、さらに、その後を見てみると……。
 「木がうつくしいのは」……「どんなときにも樹下のひそやかな静けさをうしなわな
い木だ。」あれっ、「木が」で始まり「木だ」で終わる。
 なんともいえず、肉体がねじくれる。私の肉体か、それとも私の「ことばの肉体」か。その区別は私にはつかないのだけれど。
 「意味」はとてもよくわかるのだけれど、「頭」で考えると、「頭」がねじれるというより、まっすぐに動こうとする「頭」に刺戟されて「肉体」がねじれるような、奇妙な感じになる。

 その瞬間。

 あ、長田はこういう「ねじれ」のようなものを、ひとりで大切に生きてきたのだ。それをまもりながらことばを動かしてきたのだ、と感じる。
 それはちょうど木が、いくつものねじくれた節を内部にかかえながら大きくなっていくのに似ているかもしれない。瞬間的には何か奇妙な感じ、不細工な感じ(?)がするのだけれど、それを乗り越えて枝が広がり葉が繁ると美しい大きな気になるような感じといえばいいのかな。
 そうか、こういう「論理のねじれ」というか「節」のようなものを、しっかりと「肉体」で受け止めて、「頭」で考えるとおかしいけれど(主語が重複するのは下手な文章である、と「学校作文」ではな言うのだけれど)、この「ねじくれ」によって全体そのものは強靱に、いっそう美しくなる--そして、その美しさは「肉体」に響いてくるのである。
 さっき私は、この部分で私の肉体がねじれるような感じがすると書いたが、それは別ないい方をすると、私が無意識に生きている「文法主義(?)」の「ことばの肉体」を「そうじゃない」と叩かれたような感じがするからかもしれない。
 「学校文法のことば」ではなく、もっと違う「ことばの肉体」があり、それの方が「肉体」にぴったりするのだ、ということを、「整体」みたいに長田の「ことばの肉体」が押してきたからかもしれない。

 美しいもののなかにはむりがある。舞台で役者の姿が美しく見えるときは、その肉体のなかに「むり」が働いているときである。むりな動きをすると、それが観客には美しく見えるということを聞いたことがあるが、長田のことばのなかにも、その役者の肉体のむりと似たものが動いている。ふつうの人は動かさない(学校文法で育ったことばでは動かさない)ことばの筋肉が動く。
 そういうことも考えた。
 だが、これをまねする(役者のことばでいえば「盗む」)のはむずかしいなあ。ことばの肉体を最初から鍛えなおさないといけない。
 そんなことは私にはとてもできないので、いやあ、美しい詩だなあと感想を書いて終わることにする。




詩の樹の下で
長田 弘
みすず書房
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