福間健二「きみのために詩を書くよ」(「現代詩手帖」2012年12月号)
福間健二「きみのために詩を書くよ」(初出「朝日新聞」2012年01月17日)は最初何が書いてあるかわからなかった。けれど、きのう高橋睦郎の「風景」について書いたあと読み直すと、とてもよくわかる。よくわかると言っても、それは私のことだからよく「誤読」できる、ということである。
高橋睦郎の詩を読んだとき「改めて」ということばにふれた。「改めて」は「風景」のキーワードだが、この「改めて」を別のことばで言いなおすとどうなるか。
「わざと」である。西脇順三郎が「現代詩」を定義して、「現代詩とは、わざと書かれたものである」と言ったが、その「わざと」を高橋は「改めて」と言い直し、それを詩そのもののなかに隠した。木も川も丘も出てこない「風景」は「わざと」そう書かれたのである。ほんとうは目の前にあるかもしれないさまざまなものを「わざと」隠して、光と影との交錯のなかに閉じ込めた。その「わざと」そうすることのなかに、詩--つまり、「流通言語」とは違うことばの動きがある。ことばは、そんなふうに動くことができる、ということを書いてみせたのが高橋の詩である。
長い前置きになったが、福間も「わざと」ことばを書いている。「流通言語」ではなく、「流通言語」をつまずかせるような形でことばを動かしている。
しゃれた少し前のコマーシャルのようなことばの動き。とりわけ、そのなかの、
これが「わざと」っぽい。なぜ、読点がある?「侵略的少女」だと「意味」が違ってくる? まあ、違うのかもしれないけれど、その違いは?
論理的に説明しようとすると、わからなくなる。
「侵略的少女」と書いてしまうと、それこそコマーシャルになってしまう。「流通言語」そのものになってしまうので、ちょっと「分断」をいれることで、「流通」に歯止めをかけているのかもしれない。
ということは、それはそれとしておいておいて。私は、ここで少し「飛躍」をする。
最初は「侵略、的、少女」という魅力的なことばにひかれ、それについてあれこれ思うのだが、福間の「わざと」は、それとは別なところにある。そして、その「別なわざと」を隠すために、「侵略、的、少女」という「わざと」を飾っている。それで読者の目をくらまそうとしている。
ほんとうの「わざと」は、その直前の、
この「十本の指が十本とも」という部分。手の指のすべてのことを指していっているのだが、手をわざわざ指に微分し、さらにその微分に「十」という数字を割り振る。手の指が十本であることはわかりきっていることなので見落としてしまいそうだが、ふつうは、こういう面倒くさい言い方はしない。「手の指が全部かすかに発光して」くらいの印象である。細部を見ない。手の指が光って見えれば、「手の指が光っているね」ですむのだが、それを「十本の指が十本とも」というのは、とても奇妙である。
なぜ、こんなふうに数字にこだわったのか。「わざと」数字を詩のなかにまぎれこませたのか。
その理由は詩のつづきを読むとわかる。
2、3連目に「七つ」「八つ」「九つ」「十(個)」「十一(月)」「十二(月)」と数字が並ぶ。数え歌である。その数字を唐突に感じさせないために(なぜ、「ひとつ」から始まらないのかという疑問を引き起こさないようにするために)、「十本の指が十本とも」ということばが「わざと」書かれているのである。
「一時間」と「一」も出てくるには出てくるが、そのあと「二、三、四……」とやってしまうと、うるさくて「わざと」が目立ちすぎるから、その目立たないように「わざと」途中だけ「数え歌」にしている。さらにいえば、そういう「数え歌」の「わざと」を隠すために、「侵略、的、少女」という「表記」の方法が取られている。
もちろん逆に「侵略、的、少女」という「分断」を挟んだことばは、「数え歌」を隠すというよりも、「数え歌」が「数字」をはさんで飛躍することを強調している--ということもできる。
こういうことは「事実」ではなく、単なる「論理」の問題だから、正反対のことが簡単に言えてしまうのである。「論理」というのは単純に言えば自分の立っている位置を証明するだけのものであり、立っている位置が反対側に行けば逆向きのベクトルが動くだけのことだからである。
福間は、まあ、こういう「ことばの運動の論理」を熟知しているのだろう。そして、その「熟知している技術」を利用して、「流通言語」と交差するような形でことばを動かすのだろう。
そこに不思議な「軽み」「明るさ」のようなもの--ひとのこころを刺戟する何かが見える、感じられるということなのだろう。「死をねがう子たちを追い抜いた」というような、簡単にいってしまえないようなことさえ、なんでもないことのように書いて、そして隠してしまう--ともかく「技巧的」(「わざと」さえも隠してしまうほどの「技巧」を駆使した)作品である。
高橋の「わざと」には「改めて」ということばのように、何かしら「未消化」なことばの動きがあって、そこに「正直さ」を私は感じるのだが、福間の詩の場合、私は「正直」をどこに感じていいのかわからない。「うまい」ということに「正直」を感じればいいのかもしれないけれど、ここまで「うまく」書かれてしまうと、私はどうもに「人間」に出合った、「肉体」と向き合ったという気持ちがしない。
福間健二「きみのために詩を書くよ」(初出「朝日新聞」2012年01月17日)は最初何が書いてあるかわからなかった。けれど、きのう高橋睦郎の「風景」について書いたあと読み直すと、とてもよくわかる。よくわかると言っても、それは私のことだからよく「誤読」できる、ということである。
高橋睦郎の詩を読んだとき「改めて」ということばにふれた。「改めて」は「風景」のキーワードだが、この「改めて」を別のことばで言いなおすとどうなるか。
「わざと」である。西脇順三郎が「現代詩」を定義して、「現代詩とは、わざと書かれたものである」と言ったが、その「わざと」を高橋は「改めて」と言い直し、それを詩そのもののなかに隠した。木も川も丘も出てこない「風景」は「わざと」そう書かれたのである。ほんとうは目の前にあるかもしれないさまざまなものを「わざと」隠して、光と影との交錯のなかに閉じ込めた。その「わざと」そうすることのなかに、詩--つまり、「流通言語」とは違うことばの動きがある。ことばは、そんなふうに動くことができる、ということを書いてみせたのが高橋の詩である。
長い前置きになったが、福間も「わざと」ことばを書いている。「流通言語」ではなく、「流通言語」をつまずかせるような形でことばを動かしている。
何をさえぎる雨? たぶん、明日への見通しだよ。国分尼
寺跡から府中街道の方へ出るトンネルの壁のくぼみにきみ
は隠れていた。その十本の指が十本ともかすかな光を発し
て、侵略、的、少女。この秋のヴァージョン。生きていれ
ばいい、のかな。生きて、詩を書く。詩を読む。みんなが
もっと普通にやれるようになるといいんだけどね。
しゃれた少し前のコマーシャルのようなことばの動き。とりわけ、そのなかの、
侵略、的、少女。
これが「わざと」っぽい。なぜ、読点がある?「侵略的少女」だと「意味」が違ってくる? まあ、違うのかもしれないけれど、その違いは?
論理的に説明しようとすると、わからなくなる。
「侵略的少女」と書いてしまうと、それこそコマーシャルになってしまう。「流通言語」そのものになってしまうので、ちょっと「分断」をいれることで、「流通」に歯止めをかけているのかもしれない。
ということは、それはそれとしておいておいて。私は、ここで少し「飛躍」をする。
最初は「侵略、的、少女」という魅力的なことばにひかれ、それについてあれこれ思うのだが、福間の「わざと」は、それとは別なところにある。そして、その「別なわざと」を隠すために、「侵略、的、少女」という「わざと」を飾っている。それで読者の目をくらまそうとしている。
ほんとうの「わざと」は、その直前の、
その十本の指が十本ともかすかな光を発して、
この「十本の指が十本とも」という部分。手の指のすべてのことを指していっているのだが、手をわざわざ指に微分し、さらにその微分に「十」という数字を割り振る。手の指が十本であることはわかりきっていることなので見落としてしまいそうだが、ふつうは、こういう面倒くさい言い方はしない。「手の指が全部かすかに発光して」くらいの印象である。細部を見ない。手の指が光って見えれば、「手の指が光っているね」ですむのだが、それを「十本の指が十本とも」というのは、とても奇妙である。
なぜ、こんなふうに数字にこだわったのか。「わざと」数字を詩のなかにまぎれこませたのか。
その理由は詩のつづきを読むとわかる。
きみと話した一時間。この惑星のどこか、死をねがう子た
ちを追い抜いた旅路のはての駅と食堂が出てくる詩を思い
出した。遠い昔の家での話をきみはして、ぼくは自分が詩
を書いていることを話したね。ロマン派の詩人たちから盗
んだ七つの重大欠陥を八つにも九つにもして。じゃあね。
またいつか。
雨のあがった夜の遺跡。石と枯葉の上にその光る指をひと
つずつ落としてきみは去り、わかった。おたがいの明日の
なかにとびだして破裂して狂う、その入口が十個あるの
だ。それを踏まないように、十一月、十二月、ゆっくりと
動き、自分の息の音を聞いて、新しい年。寒さに負ける死
とのどんな取引も拒んで、きみのために詩を書くよ。
2、3連目に「七つ」「八つ」「九つ」「十(個)」「十一(月)」「十二(月)」と数字が並ぶ。数え歌である。その数字を唐突に感じさせないために(なぜ、「ひとつ」から始まらないのかという疑問を引き起こさないようにするために)、「十本の指が十本とも」ということばが「わざと」書かれているのである。
「一時間」と「一」も出てくるには出てくるが、そのあと「二、三、四……」とやってしまうと、うるさくて「わざと」が目立ちすぎるから、その目立たないように「わざと」途中だけ「数え歌」にしている。さらにいえば、そういう「数え歌」の「わざと」を隠すために、「侵略、的、少女」という「表記」の方法が取られている。
もちろん逆に「侵略、的、少女」という「分断」を挟んだことばは、「数え歌」を隠すというよりも、「数え歌」が「数字」をはさんで飛躍することを強調している--ということもできる。
こういうことは「事実」ではなく、単なる「論理」の問題だから、正反対のことが簡単に言えてしまうのである。「論理」というのは単純に言えば自分の立っている位置を証明するだけのものであり、立っている位置が反対側に行けば逆向きのベクトルが動くだけのことだからである。
福間は、まあ、こういう「ことばの運動の論理」を熟知しているのだろう。そして、その「熟知している技術」を利用して、「流通言語」と交差するような形でことばを動かすのだろう。
そこに不思議な「軽み」「明るさ」のようなもの--ひとのこころを刺戟する何かが見える、感じられるということなのだろう。「死をねがう子たちを追い抜いた」というような、簡単にいってしまえないようなことさえ、なんでもないことのように書いて、そして隠してしまう--ともかく「技巧的」(「わざと」さえも隠してしまうほどの「技巧」を駆使した)作品である。
高橋の「わざと」には「改めて」ということばのように、何かしら「未消化」なことばの動きがあって、そこに「正直さ」を私は感じるのだが、福間の詩の場合、私は「正直」をどこに感じていいのかわからない。「うまい」ということに「正直」を感じればいいのかもしれないけれど、ここまで「うまく」書かれてしまうと、私はどうもに「人間」に出合った、「肉体」と向き合ったという気持ちがしない。
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