詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新井豊美「時のこども」、木坂涼「広島」

2012-12-14 10:15:24 | 詩集
新井豊美「時のこども」、木坂涼「広島」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 新井豊美の詩は、私は『いすろまにあ』のころの作品がいちばん好きで、ときとともになじめなくなっていた。「時のこども」(初出「RIM」37、2012年03月発行)もすべてがきもちよく感じるわけではないが、前半はとても好きだ。

どこから来たのですか?
そのとき空は
晴れていましたか、それとも曇っていたのでしょうか

まちはどうでした?
あのまちの丘をめぐる長い石段
どちらの方角へ白い鳥ははばたいてゆきましたか

 私がこの詩が気に入っているのは「あのまちの丘をめぐる長い石段」という1行があるからだ。どこの「まち」か、この詩ではまったくわからない。しかし、わからないながら、わかることがある。「あのまちの丘をめぐる長い石段」があるということ。そして、何よりも「まちはどうでした?」と問いかけているひと(新井、と仮定しておく)は、そのまちを丘と長い石段とで「覚えている」ということがわかる。新井にとって、あのまちとは丘があり、長い石段がそのまわりをめぐっているまちなのだ。
 丘をめぐる石段を思い出すとき、視線は自然と石段をのぼるのだろう。そうすると視線は知らず知らずに高みを目指し、その先に「空」がある。この「肉体」の動き、「肉体」が覚えていることが、「いま/ここ」にないものをしっかりと「いま/ここ」に呼び出す。
 新井がその空を見たとき、空は晴れていたか。曇っていた。どちらかはよくわからない。わかるのは、新井が空を見上げたとき「白い鳥」がある方角へ飛んで行ったということだ。そのことも新井の肉体(たとえば、目)ははっきり覚えている。覚えているから問いかけずにはいられないのだ。「どちらの方角へ」「はばたいてゆきましたか」と。
 答え次第では新井は新井でなくなる--というのは、変な言い方だが、その方角が新井が見た方角と重なるなら、そのとき新井はその答えをしてくれたひとそのものになり、肉体が覚えている記憶をもう一度生きる。他人になることで、自分を生きる。
 「他人になることで、自分を生きる」というのは「矛盾」だけれど、矛盾だからこそ、そこに「思想」がある。とこばになる前の、「肉体」の「覚えている」ものが動きだす「強さ」がある。
 初期の新井には、そういう力が、とてもしなやかな形で動いていた。だから、しなやかに動く女の肉体を思い(私は、その当時新井を私よりも年下と思い込んでいた)、ちょっと淫らな連想なんかもしたのだが。
 そういうしなやかな力、「肉体」の奥にある力が、いつのまにか「頭」の力に変わっていた。そのことが、私にはなぜかとても残念に感じられた。その「頭」は「男の頭」という感じが、私には、どうしてもしてしまうのだった。
 この詩にも、後半、そういうものが浮き上がってくる。

みることもとどくこともできないはるかな星雲の意思で
時のとうめいなゆびさきがこどものひたいに
はじめて、微風のようにふれてきたとき
それは愛? それとも
もっとふかいよろこびの伝言
おおきなまなざしのひかりを浴び
土地という揺籠、なつかしい闇のあたたかさと訣別して
おさない声がたちあがる
声が、垂直な声の木がひかりの中に

 最終行はとても魅力的である。声が木になって光の中にのびていく。それはとても美しいイメージだ。ここには声(聞く)と木(見る)が融合している。区別がつかない。つまり、それは「肉体」そのものになっている。--ということを、ちょっと補足すると。私たちは聞いたり見たりする。そのとき耳や目が働く。それは耳、目と独立した「器官」の名前で呼ばれるけれど「肉体」でつながっている。耳・目というのは便宜上の「名前」であって、それは「肉体」から切り離しては存在しえない。ふたつの動詞(聞く、見る)が動くとき、そこには「肉体」がわかちがたい形で、つまり「区別できない」形で存在するということだ。耳は耳であり、目は目でありながら、それは「ひとつの肉体」であるということだ--そういう「動き」のなかで、人間の「肉体」は「肉体」そのものになる。つまり「思想」になる。
 こういう美しい行を書く新井が、どうして、

みることもとどくこともできないはるかな星雲の意思で

 というような「肉体」を拒絶したことばを書けるのか、それが私にはわからない。
 「みることもとどくこともできないはるかな星雲」。これがことばとして存在しうるのは、「肉体」がとこばをおっているからではなく、「頭」がことばを動かしているからである。「頭」というのは「肉体」ができないことをなんでもしてしまう。たとえば、半径1センチの円に内接する正千角形と正九百九十九角形を「頭」は識別できる。けれどその識別は肉体(たとえば目、あるいは手ざわり)で識別できる人間は、よほど訓練された人間だけである。ことばにできたから、それを肉体がそのまま受け入れることができるかといえば、そんなことはできないのである。そういう「肉体」ではできないことを平気で(?)書いて、それを「意思」ということばで加速・増殖させる。--こういうことは、「男の頭」がくりかえしてきた「失敗」の代表例である。

時のとうめいなゆびさきがこどものひたいに

 この行は、そういう「男の頭」と「肉体」をなんとかもう一度結びつけようとする(「男の頭」を「肉体」に引き寄せ、きちんと接続させようとする)工夫なのだが、こんなフランケンシュタインの実験のようなものは、私には、どうにも気持ちが悪い。

それは愛? それとも
もっとふかいよろこびの伝言

 どうしたって、ことばが「肉体」から離れ、「頭」が暴れはじめる。

 なんとか新井の詩のおもしろいところを書こうとしたのだが、うーん、やっぱり批判に終わってしまった。


 
 木坂涼「広島」(初出「愛虫たち」79、2012年03月発行)は東日本大震災後、広島を尋ねたときのことを書いている。その後半。

エコバッグかつぎなおしてきた道へ
ドームのそばには班単位の修学旅行生
と、みんないっせいに私を見た
質問はドームのこと?
語れるだろうか 広島 福島

「写真撮ってもらえますか?
ミッションなんです」

中学二年生のための私の使命
パチリ

 他人(修学旅行生)の「思想(肉体)」は木坂の「肉体(思想)」なんか気にしていない。木坂が広島で福島のことを思っているなんて関係がない。ほかのところを動いている。広島ではドームといっしょに写真を撮らなければいけない、広島にきたという「記録」を「肉体」がわかる形で残さなければならない。--いやあ、これは、なんともすごいね。「感想」なんて「頭」ででっちあげることができるが、写真はそこに行かないと撮れないからね、という具合に「短絡」して考えてはいけないのだけれど、それに通じる何かがある。「正直」がある。「肉体」と「肉体からはなれない思想」の「正直」がある。
 そうか、その「正直」が「ミッション」か。ならば、それに答えるのが、「いま/ここ」に居合わせた木坂の使命だろう。確かにね。
 ここには、新井の詩に登場するような「意思」とか「愛」とかいった「頭」で考えたことばはない。「ミッション」ということばが出てくるが、これはたぶん「ミッションイッポッシブル」や何かの「サブカルチャー」から手に入れたことばである。「頭」で消化してつかっていることばではなく、「肉体」でのみこんで、「意味」を剥奪して、強引につかっていることばである。ことばはいつでも、こんなふうに強引に「肉体化」される。
 その若い力に正確に向き合って(つまり、ありったけの力で抵抗しながら)、木坂は

中学二年生のための私の使命
パチリ

 と「肉体」を動かす。ここには「愛」とか「意思」というような抽象化してひっぱりだせる「流通言語の思想」はない。ただ「肉体」がある。中学生の「肉体」と向き合っている木坂の「肉体」がある。
 それをそのまま「ことば」にしている。
 こういう「肉体」にふれたとき、私はうれしくなる。





現代詩手帖 2012年 12月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社

女性詩史再考―「女性詩」から「女性性の詩」へ (詩の森文庫)
新井 豊美
思潮社

だっこべんとう
木坂 涼
教育画劇

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