塚本敏雄「驟雨に濡れて」(「GATE」16、2012年10月26日発行)
塚本敏雄「驟雨に濡れて」は奇妙だ。
たしかに「やれやれ」という感じもするが、これはこれでいいのかな。「わざと」だからね。ただし「嵐の中で山小屋に閉じ込められた二人のように/お互いを求めた」というのは「流通言語」ではセックスをするということだから、ええっと思うなあ。屋外でセックスしてはいけないということはないし、人に見せたいというのもそれはそれでいいが、何も雨の日に木の下で……。うーん。「お互いを求めた」は肉欲とは関係がないのかもしれないなあ。せいぜいがキスくらいか。
そうすると、しかし、つまらなくないか? 「嵐の中で山小屋に閉じ込められた二人のように/お互いを求めた」がセックスではないとしたら、そこから始まるのは、もっと「抒景」になってしまわないか?
どうも書きたいことがきちんと肉体の中から生まれてきていないような感じがする。
この2連目の、最初の2行はおもしろい。たしかに「ここからが詩だ」という感じを与えてくれる。それにつづく2行も、まあ、いいかなあ。
でも「神様を……」以後は、情景にもなっていない。「流通言語」が平気な顔をして歩いている。
それでも、私がこの詩について感想を書いているのは……。(実は、何度も書きだしてはやめたのだが。)
ことばを書きながら「これは詩ではない」と思い、そこからジャンプして詩に入る瞬間のことを塚本はかすかに意識している--そのことについて書いてみたかったのだ。詩は詩それ自体としても存在するだろうけれど、「これは詩ではない」という意識があってさらに明確になる。詩ではないという意識が詩を強くする。
「急に」の奥に詩がある。「急に」と感じるのは塚本であって、「きみ」は「急に」飛び跳ねたわけではない。必然があって飛び跳ねた。しかしその必然が塚本にわからないから「急に」と感じるのである。そこには「きみ」の「過去」がある。絶対に触れえない何かがある。そういうものに塚本は出会っている。そこに詩がある。詩は「急に」あらわれるものなのである。
ここからが問題だ。
ここから、どこへ歩きはじめるか。「急に」とどんなふうにして向き合うか。
塚本は「考える」のである。「急に」に対して、その「急に」の背後に「原因」を「考える」。「詰まるところ」とは一種の「結論」である。「考える」ということは「結論」を出すということである。ここでは「ものか」と仮定でおわっているが、考えるということにおいては仮定は結論と大差がない。仮定は証明されて現実になる。
で、これが塚本にとって問題なのは。
「考え」は「考え」として、「考えのことば」を追求していけばいいのだけれど、「一種の痙攣のようなものか」ということばを最後に(結論として)、「急に」とぎれてしまう。「考え」のことばが自律して動いていかない。
「神様を連れて……」という古くさい描写が「急に」あらわれる。
この古くさい「情景描写」が塚本の「過去」なのだ。「嵐の中で山小屋に閉じ込められた二人のように/お互いを求めた」に通じる「流通言語」の「描写」が勝手に動いてしまう。「流通言語」の描写が肉体になってしまっている。
それを捨てきるところまで塚本は来ていないのだ。
ここの部分はとても美しい。とてもいいなあと思う。
ここには「figure of speech=言説の形」という「流通言語」を理解した上で、それを否定し「森の歩き方」という強引な「破壊」がある。「流通言語」の否定がある。つまり、詩がある。「過去」がある。「肉体」がある。
さらに言い換えると「他者」がいる。--そして、この「他者」というのは、私(谷内)にとっての「他者」であり、塚本にとっては「他者」ではない。塚本が「流通言語」を脱ぎ捨てるとき、そこに「肉体」が、「思想」が、噴出する。それは「きみ」が「急に」「飛び跳ねる」のと同じである。
それをつなぎとめるのは塚本の「肉体」だけである。
「他者」というのは「わからない」。「わからない」からこそ、そこに詩がある。「流通言語」ではたどることのできない何か、出合った瞬間にだけ感じる「肉体」の共鳴のようなものがある。
森と歩くという動詞。塚本には森を歩いた肉体の記憶がある。そして、それがあるから、たとえば詩の始まりの部分の緑、木、鳥というものが書かれているわけである。肉体はどうしたって知っているものの方になじんでしまう。
この肉体が知っているものの、さらに「奥」にある何かに触れながら、その距離をたもってことばを動かせば、塚本の詩はもっとおもしろくなるのに、と私は感じてしまう。
森を生きた肉体と、英語のようにあとから「頭」で肉体の中に取り込んだもの(絶対的な他人--英語というのは日本人には日本語の「肉体」ができあがってから目の前にあらわれる別のことばの肉体である)をつきあわせて、「過去」をていねいに、それが動きだすまで待っていれば、とてもおもしろい詩が生まれるのになあ、と思ってしまう。
「肉体」と「頭」のあいだに「流通言語」をいれて、それを「肉体」と「頭」の「接着剤」にしたって、ぜんぜんおもしろくない。不自然で興ざめがする。「英語に……」の6行はほんとうにおもしろいのになあ。
塚本敏雄「驟雨に濡れて」は奇妙だ。
木々の緑を背にすると
雨の降りの強さがよく見える
ぼくたちは雨に降りこめられて
神社の鳥居の脇にある
大きな木の下で雨を避けていた
鳥がときおり飛び立って
ぼくたちを驚かせた
そして ぼくたちは
嵐の中で山小屋に閉じ込められた二人のように
お互いを求めた
さて ここまでは抒景である
これからが詩だ
(やれやれ)
たしかに「やれやれ」という感じもするが、これはこれでいいのかな。「わざと」だからね。ただし「嵐の中で山小屋に閉じ込められた二人のように/お互いを求めた」というのは「流通言語」ではセックスをするということだから、ええっと思うなあ。屋外でセックスしてはいけないということはないし、人に見せたいというのもそれはそれでいいが、何も雨の日に木の下で……。うーん。「お互いを求めた」は肉欲とは関係がないのかもしれないなあ。せいぜいがキスくらいか。
そうすると、しかし、つまらなくないか? 「嵐の中で山小屋に閉じ込められた二人のように/お互いを求めた」がセックスではないとしたら、そこから始まるのは、もっと「抒景」になってしまわないか?
どうも書きたいことがきちんと肉体の中から生まれてきていないような感じがする。
きみは平らかに歩いていて
急に飛び跳ねるところがあるね
それは詰まるところ
一種の痙攣のようなものか
神様を連れて大社を出た祭りの行列は
すでに遠いざわめきとなって
市街地の夕闇に溶けている
しかし ここでは
神の不在を穏やかに照らしだす
提灯の列が揺れているばかり
この2連目の、最初の2行はおもしろい。たしかに「ここからが詩だ」という感じを与えてくれる。それにつづく2行も、まあ、いいかなあ。
でも「神様を……」以後は、情景にもなっていない。「流通言語」が平気な顔をして歩いている。
それでも、私がこの詩について感想を書いているのは……。(実は、何度も書きだしてはやめたのだが。)
ことばを書きながら「これは詩ではない」と思い、そこからジャンプして詩に入る瞬間のことを塚本はかすかに意識している--そのことについて書いてみたかったのだ。詩は詩それ自体としても存在するだろうけれど、「これは詩ではない」という意識があってさらに明確になる。詩ではないという意識が詩を強くする。
きみは平らかに歩いていて
急に飛び跳ねるところがあるね
「急に」の奥に詩がある。「急に」と感じるのは塚本であって、「きみ」は「急に」飛び跳ねたわけではない。必然があって飛び跳ねた。しかしその必然が塚本にわからないから「急に」と感じるのである。そこには「きみ」の「過去」がある。絶対に触れえない何かがある。そういうものに塚本は出会っている。そこに詩がある。詩は「急に」あらわれるものなのである。
ここからが問題だ。
ここから、どこへ歩きはじめるか。「急に」とどんなふうにして向き合うか。
それは詰まるところ
一種の痙攣のようなものか
塚本は「考える」のである。「急に」に対して、その「急に」の背後に「原因」を「考える」。「詰まるところ」とは一種の「結論」である。「考える」ということは「結論」を出すということである。ここでは「ものか」と仮定でおわっているが、考えるということにおいては仮定は結論と大差がない。仮定は証明されて現実になる。
で、これが塚本にとって問題なのは。
「考え」は「考え」として、「考えのことば」を追求していけばいいのだけれど、「一種の痙攣のようなものか」ということばを最後に(結論として)、「急に」とぎれてしまう。「考え」のことばが自律して動いていかない。
「神様を連れて……」という古くさい描写が「急に」あらわれる。
この古くさい「情景描写」が塚本の「過去」なのだ。「嵐の中で山小屋に閉じ込められた二人のように/お互いを求めた」に通じる「流通言語」の「描写」が勝手に動いてしまう。「流通言語」の描写が肉体になってしまっている。
それを捨てきるところまで塚本は来ていないのだ。
英語にfigure of speechという言葉がある
直訳すれば 言説の形 ということになるのか
辞書をひけば
修辞的表現とある
だが ぼくは
森の歩き方 と言いたい
ここの部分はとても美しい。とてもいいなあと思う。
ここには「figure of speech=言説の形」という「流通言語」を理解した上で、それを否定し「森の歩き方」という強引な「破壊」がある。「流通言語」の否定がある。つまり、詩がある。「過去」がある。「肉体」がある。
さらに言い換えると「他者」がいる。--そして、この「他者」というのは、私(谷内)にとっての「他者」であり、塚本にとっては「他者」ではない。塚本が「流通言語」を脱ぎ捨てるとき、そこに「肉体」が、「思想」が、噴出する。それは「きみ」が「急に」「飛び跳ねる」のと同じである。
それをつなぎとめるのは塚本の「肉体」だけである。
「他者」というのは「わからない」。「わからない」からこそ、そこに詩がある。「流通言語」ではたどることのできない何か、出合った瞬間にだけ感じる「肉体」の共鳴のようなものがある。
森の歩き方
森と歩くという動詞。塚本には森を歩いた肉体の記憶がある。そして、それがあるから、たとえば詩の始まりの部分の緑、木、鳥というものが書かれているわけである。肉体はどうしたって知っているものの方になじんでしまう。
この肉体が知っているものの、さらに「奥」にある何かに触れながら、その距離をたもってことばを動かせば、塚本の詩はもっとおもしろくなるのに、と私は感じてしまう。
森を生きた肉体と、英語のようにあとから「頭」で肉体の中に取り込んだもの(絶対的な他人--英語というのは日本人には日本語の「肉体」ができあがってから目の前にあらわれる別のことばの肉体である)をつきあわせて、「過去」をていねいに、それが動きだすまで待っていれば、とてもおもしろい詩が生まれるのになあ、と思ってしまう。
「肉体」と「頭」のあいだに「流通言語」をいれて、それを「肉体」と「頭」の「接着剤」にしたって、ぜんぜんおもしろくない。不自然で興ざめがする。「英語に……」の6行はほんとうにおもしろいのになあ。
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