詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トム・フーパー監督「レ・ミゼラブル」(★)

2012-12-25 09:29:38 | 映画



監督 トム・フーパー 出演 ヒュー・ジャックマン、ラッセル・クロウ、アン・ハサウェイ

 冒頭、囚人たちが船をロープでひっぱっているシーンがある。それを見た瞬間、あ、この映画はダメ、おもしろくないと思った。そして、それはほんとうにおもしろくなかった。舞台で成功したミュージカルを映画にするのはとてもむずかしい。芝居小屋で「レ・ミゼラブル」は見たわけではないが、映画よりもはるかにおもしろいだろうことだけは想像できる。
 冒頭のシーンのどこがいけないか。CGである。船もそうだが囚人たちがやはりCGである。CGというのは簡単に言うと映像の捏造である。ほんとうはそこにないものがフィルムに定着させられている。(いまはフィルムでさえないかもしれないけれど、便宜上フィルムと書いておく。)つまり、観客は現実には見えないものを見せられているのである。映画は肉眼では見ることのできないものを見るという醍醐味をもったものだけれど、肉眼で見ることができないものをスクリーンで見るということと、ほんとうは存在しないものを見せられる、捏造を見せられるということは別問題である。
 そして、この実際にはそこにないものをCGで見せるというのはミュージカルとは相いれないことがらである。舞台を想像するとそのことがよくわかる。舞台の装置はどんなに精巧につくられたものであってもほんものではなく、そしてそのほんものではないというところは装置がほんものに比較すると視覚への情報量が乏しいということである。簡略化した情報だけが舞台にのせられる。船を引く囚人たちがほんとうは1000人だとしても、舞台では30人ですませてしまう。残りの 970人は観客が想像する。船だって舳先の先端だけしか舞台になくても巨大な船だと観客が想像する。目はほんの少ししか働いていないのである。
 目のかわりに、耳への情報量が多い。ふつうの芝居なら「台詞」なのに、ミュージカルではそれに音楽がつけくわえられている。音楽は感情を揺さぶる。台詞がなくても感情がゆさぶられるのに、台詞と音楽で二重に刺戟してくるのがミュージカルである。そこでは目は半分休んでいる。そうしないと「肉体」が忙しくて、とてもつらくなる。
 この映画はそういう観客の「肉体」を無視している。必要ではない視覚情報をどんどんスクリーンに盛り込む。そうすると「音楽」がうしろにひいてしまい、映像だけがやたらうるさい感じになる。
 顔のアップの問題を考えると、もっとはっきりする。舞台では顔のアップは観客席からは「見えない」。涙をながしているかどうか、それを「見る」ことはできない。見えなくても、台詞(声)が直接観客に触れてくる。声は役者の肉体を離れて観客の肉体に直接触れるという特権を持っている。音楽が、その声の「感情」を増幅させる。役者の声のなかにあるものを、音楽が強調しながら観客のところまでやってくるのである。顔や涙が見えなくても観客はもらい泣きをするのである。
 これがこの映画のように顔のアップがあり、声があり、感情を増幅する音楽があるとなると、もううるさくてうんざりする。もらい泣きなんか、とてもできない。
 映画の特権は、たとえば目--顔のなかにある小さな部分を、絶対にありえない大きさにまで拡大してスクリーンに映し出すことである。舞台では「声(音)」が特権を持つのに対して映画では「顔」が特権を持つのである。その特権を最大限に生かしながら映画をつくるというのは「正統派」の方法なのだろうけれど、これはミュージカルにはまったくむかない。舞台の特権と映画の特権がであったらけんかになってしまう。
 で、さらにこの映画は「舞台」のまた別の特権を破壊するということもやっている。舞台を見ていないのでわからないのだが、映画から想像する限り、舞台では何人かの役者が同時にそれぞれの思いを歌にするというシーンがある。ときには同じメロディーに違うひとのことばが同時に重なる。あるいはことばもメロディーも違うけれど、ひとつの舞台の上で同時に歌われるという場面があると思う。そのときその歌は、互いに「聞こえない」のだが観客には「聞こえる」という具合になっている。歌っているひとは自分の感情を歌うのであって、そのときだれか別の人が別の感情を歌っているということを知らないことになっている。ただ観客だけが複数の人間の感情がついたり離れたりして「同時に」存在することを知っている。この「同時」という時間のなかにドラマがあるのだが、映画はそれを「同時」に表現できない。舞台の「同時」という「特権」を完全に殺してしまっている。昔、「ウエストサイド物語」では画面を分割して複数の声を同時に存在させ「舞台」と同じ効果を上げていたが、この映画では画面の切り替えでそれを処理している。そうすると、その瞬間瞬間に「歌」がばらばらになる。「同時」が消える。「ひとつの時間」のなかでの「出合い」が映像によって分断されてしまうのである。ああ、つまらない。がっかり。「群衆」が「ひとりひとり」に分断されて、ダイナミックな感じが完全に消えてしまう。
 映画の文法はどうなっているか、舞台の文法はどうなっているか、ミュージカルとは何のなのか--そういうことをまったく知らない人間がつくったとしか思えない。2012年最低の映画である。
                     (2012年12月14日、ソラリアシネマ7)











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コメント (1)
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