詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「龍を見る」

2012-12-11 11:01:49 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「龍を見る」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 谷川俊太郎「龍を見る」の初出は「文藝春秋」2012年02月号。2012年が辰年なので、それにあわせて書いたのだろう。この「何かあわせて」というのも「わざと」のひとつだが、谷川の詩の場合、なぜか「わざと」をあまり感じない。自然な感じがする。「あいさつ」の仕方が身についている(肉体になっている)ということなのだろう。

龍を見るという理系の友人がいる
現れるのは毎年初夏の辰の刻のころ
怖いかと訊くと首を横に振る
体のくねらせかたなどむしろ色っぽいのだと
鼻息の匂いはラベンダーに似て
口には無音の音楽を含んでいるという
あっという間に雲間に消えるが後味がいい
自分が大地から天空へ育まれるような心地がする
CGの龍なんぞは絵空事だと
自分が龍になったつもりか友人は息巻く

 1行目。「理系の」ということばが、とてもおもしろい。龍は架空の動物。そういうものを見るのは「文系」の人間と相場がきまっている。つまり、そういうことが「流通言語」の「定型」になっているのだが、この「流通言語」の部分をちょっとくすぐるような感じでことばが動く。そうすると関心は、龍ではなく、「理系の友人」の方に向いてしまう。
 あとは蛇足、というと谷川に叱られるかもしれないけれど、あとはその「方向」にむかってことばが自然に動いていく。龍よりも、「友人」の人間性(?)に引き込まれていく。龍なんてもともといないのだから、どれだけ描写したって「うそ」になる。けれど「友人」というのは実在する。「理系の友人」というもの実在する。--ほんとうに谷川に「理系の友人」がいるか、それは「だれ」かということは問題ではなく、谷川にそういう「友人」がいるということは、想像の「許容範囲」。想像できる。龍だって想像なのだが、「理系の友人」のほうが想像であっても「実在」する。
 龍は怖くない、と主張する。華奢な男ではなく、まあ、がっしりした男なのかもしれない。龍の体のくねらせ方は色っぽい、と言う。スケベなところがある男なのだろう。それからラベンダーのにおいがわかる、感性の開放された人間であるということもわかる。こういう人間だから龍の体のうねりにも色っぽいと感じるのだろう。さらに音楽のたしなみもあるんだなあ。無音の音楽なんて、武満徹の沈黙と測りあう音楽みたいでかっこいい。そうか。「理系」というけれど、たまたま仕事(?)が理系なだけであって、感覚としては「文系」かな--というような感じで「友人」はさらに「実在感」を増していく。つまり「肉体」になっていく。
 で、その「肉体」が……。

あっという間に雲間に消えるが後味がいい
自分が大地から天空へ育まれるような心地がする

 あらら。龍になって、天空へ飛んで行く。そうか。何かを「見る」ということは、「何か」になることである。龍は、もう、そこにはいない。そのかわりに「理系の友人」が龍そのものになっている。

CGの龍なんぞは絵空事だと
自分が龍になったつもりか友人は息巻く

 谷川は冷静に(?)、「自分が龍になったつもりか」と、あくまで「友人」は「友人」であって、龍ではない、と言っているのだが。
 ほんとうに、そうかな?
 「友人は息巻く」というのは「友人」の描写であるけれど--つまり、そこには「友人」を描写する谷川がいるはずなのだけれど、読んでいると、ふっと谷川が消えてしまって、「友人」だけが見える。
 これは別なことばで言いなおすと、谷川は「友人」そのものになって、そこで「息巻いている」。「友人は息巻く」と書いているのだけれど、「谷川は息巻く」という感じに読めてしまう。私は「誤読」してしまう。
 なぜこんなことが起きるかというと「息巻く」という「動詞」のせいなのである。「動詞」は「肉体」といっしょに動く。つまり「動詞」のあるところ、「肉体」がある。その「肉体」を「見る」とき、そこに存在するのは「肉体を見る別の肉体」というよりも、「見られる肉体」だけが存在する。「肉体」が無意識のうちに「一体化」している。「融合」している。

 あれっ。

 と、ここまで書いて私は思うのである。
 この関係は龍と、龍を見る理系の友人の関係そのものではないだろうか。龍が存在する。そしてそれを「見る」理系の友人がいる。だが、見ているうちに友人は龍になってしまった。
 同じように、龍を見るという友人がいる。その話を聞いている谷川がいる。だが聞いているうちに谷川は友人になってしまった。--ということは、谷川は龍になってしまったということでもある。
 そこまで「一体化」したからこそ、ことばは自然に動くのである。

 で、唐突に「あいさつ」に戻るのだが、そうか、「あいさつ」とは、「いま/ここ」にいる人と「一体化」することなのか、と気づくのである。
 この「日記」を書きはじめたとき、私は「あいさつの仕方が肉体になっている」と書くには書いたが、実は、それが何のことかわからずに書きはじめていた。(わからないから書きはじめていた、というべきなのかもしれない。)
 「あいさつ」というのは、まあ、「私はあやしいものではありません」という「証明」のようなものなのだけれど、これって、最初はぎこちないよね。「あやしいものではありません」というだけでは、まだまだ「あやしい」人間である。「あやしくなくなる」のは、相手と何かが「あう」ということを体験してからだ。「人生観」とか「趣味」とか、そういうおおげさなものではなく、たとえば笑顔のタイミングとか、声の調子とか。「肉体」そのものが「肉体」として、違和感なくつたわる。--それを「あう」というののだと思うけれど。
 だから、知らない人に「あいさつ」をするのはなかなかむずかしい。「あわせる」のはむずかしい。
 谷川にとってもそれはむずかしいことだったかもしれないけれど、長い年月(失礼!)を生きることで、むずかしさを克服し、しなやかに「あいさつ」を肉体にしみこませた。覚え込ませた。覚えたことはつかえる。人に「あわせる」ことができるのが谷川なのだ。そういう「あいさつの肉体(思想)」を谷川は生きているのだ。

 私は、谷川が他のひととコラボレーションをするのを2回見ている。そのときのことを、いま、ふいに思い出した。「主役」は谷川なのだが、いつも前面に出ているわけではない。他のひとが詩を読んだり絵を描いたり音楽を演奏したりするときは、彼らの肉体と作品が前面に出るように、すーっと消える。消えるといっても「引く」のではなく、他人そのものと「一体化」している。
 あ、あれも「あいさつ」の呼吸だったんだなあ。

 で、この「あいさつ」の効果(?)といえばいいのかな。効能といえばいいのかな?
 谷川の詩を読むと、それがときどき谷川の詩であるかどうかわからなくなるときがある。それは、たとえばモーツァルトの「タタタンタタタンタタタンタン」とかベートーベンの「ダダダダーン」を口にするとき、それをモーツァルトとかベートーベンとか意識しないのに似ている。肉体が勝手に音とリズムを繰り返す。同じように、谷川の詩を読んだあと、そのことばが「肉体」に入ってきて、「私のことば」そのものになる。言い換えると、それを「声」にするとき谷川を意識しないで、そのことばがまるで自分の「声」そのものになっていると感じることがある。
 だれかが「こんにちは」と笑顔で声をかけてくる。つられて「こんにちは」と声が出る。そのとき、私は「こんにちは」の「意味」など考えない。ただ「肉体」が反応している。「肉体」が反応しているということさえも意識しない。--こういう意識されない「肉体」こそが「思想」であると私は思っているのだが、そういう「思想」の最良のものを谷川は「あいさつ」の形で輝かせるのだと思う。
 辰年にあわせ龍が登場する詩を書く--「わざと」なのに「わざと」と感じさせないのは、それが「肉体」になっていて、その「肉体」が「肉体」のまま私につたわってくるからだと思う。




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