監督 アンジェイ・ワイダ 出演 クリスティナ・ヤンダ、パヴェウ・シャイダ、ヤドヴィガ・ヤンコフスカ・チェースラック
「菖蒲」という短編小説を映画に撮る。ところが主演女優の夫が病気になり、女優は夫のことが気になるので映画に専念できなくなる。撮影がむずかしくなる--という「虚構」と「現実」が交錯するとても「文学的」な映画である。
私はこういう「文学的」な映画は好きではない。
だが、おもしろいなあ。「文学」を題材にし、それに「文学的」に接近していくのだが、「映画」のシーンが「映画」なのか「現実」なのか、それとも「小説」なのかわからなくなる。言い換えると「映画」になりきっている。
主役の女優が川辺のカフェ(?)で若い男を見かける。ハンサムなのだが、知的ではない。それがまたハンサムに不思議な輝きをあたえる。その若い男には若い女がいる。恋人。恋。--それを見つめる女優の視線と、その視線を引きつけながら同時に跳ね返してしまう若い男の非情な肉体の艶やかさ。色っぽさ。これが、実にすばらしい。そうか。中年(熟年?)の女からは若い男がこんなふうに見えるのか、と実感できる。それは「ほんとう」はカメラがとらえた若い男であって主役の女が見た男ではないのだが、主役の女が見た男に見えてしまう。あ、これが「映画」だ。
映画は女のこころここにあらずという視線(目の前には友人の女がいてしきりに話しかけてくるのだが、ぜんぜん見ようともしない。若い男の方ばかり見ている)と、その視線がとらえた若い男を交互に映し出すのだが、うーん、中年の女になって若い男を見ているような気分になる。なんだかどきどきする。私が中年の女になって若い男を見ているってこと、だれか、気づいていない? そんな感じになってしまうのである。
で、この視線のドラマに、もうひとつ、とてもおもしろいものが絡んでくる。クライマックスの「菖蒲」と関係するのだが、映画の原作である「菖蒲」をワイダと女優が読んでいる。そのとき「ここが大事」というようなことをいいながら「匂い」の描写を読む。菖蒲にはいくつもの匂いがある云々……。
セックスを何に感じるかというと、視覚をメーンに考える人が多いのだけれど(私はそうではないのだが)、この映画は視覚を描きながら、別なことをつけくわえる。「匂い」。若い男には「匂い」がある。それは女優の夫(そして小説のなかの、つまり映画のなかの夫)が失ってしまったものだ。その「匂い」に女はひかれていく。
川で泳ぐシーン。泳ぐ前に砂地に腰をおろしている二人。女の顔が男の体に近づいていくのだが、それはキスするためではなく、匂いをかぐためである。唇が近づくのではなく、鼻が近づいていく。いやあ、色っぽいなあ。エロチックだなあ。
不幸なことに、こういうエロチシズムは若い男にはわからない。顔が近づいてくるのは、唇が近づいてくるということ。キスをする、ということ。で、匂いをかぎに近づいた女の顔を引き起し、キスをする。--それに応えながらも、うろたえる女。そのうろたえた姿を見て、我にかえっていく(?)若い男。母親のような女とキスしたって、それが目的ではない。男にはちゃんと大好きな恋人がいる。
そのあとのクライマックスはいく通りにも解釈できる。どんなふうに「結末」を判断してもいいような--ただし、女はまた「若い男のいのち」を失ったのだ。自分のものであるはずの「若い男」を失ったということだけははっきりしている。そしてその「若い男」を失うということは、彼女の、息子を戦争で失ったという記憶と深く結びつき、同時に女が失った「若い男」にこだわっていたために、夫をも失ってしまったということを女に気づかせる。ことばで書いてしまうとちょっとややこしいのだが、映画はこれを三つの「結末」をすばやく映像で展開し、融合させてしまう。そのとき、あ、これが「映画の文法」だと教えてくれるのが「ことばの排除」である。女は菖蒲を取りにいって引き返す途中、溺れて死んでしまった若い男を抱き抱えて泣くのだが、このとき「泣き声」という「ことば」さえ、そこにはない。ただ、女の顔と、肉体だけがある。映像だけがある。それなのに、「声」が「ことば」が聞こえるのである。それも、女の「肉体」からではなく、映画を見ている私の「肉体」から。その「声(ことば)」はポーランド語でも英語でも日本語でもない。「ことば」になる前の「声」そのものである。
先日見た「レ・ミゼラブル」ではことばは歌になって鳴り響き、顔もアップで涙も何度も見ているのに、歌を聞いたことも表情を見たことも「肉体」に入って来ないのに、言い換えると登場人物になった気持ちにはぜんぜんなれないのに、「菖蒲」では完全に中年の女優になってしまう。映画のなかの「絶望」が映画のなかで完結せず、スクリーンを飛び出し、私の「肉体」のなかに居ついてしまう。
あ、すごいなあ。と、感想を書きながら、もう一度思うのである。女優の演技力もすごいが、監督の演出力、編集力がすばらしいのだ。映像がリズムを持って、音楽のように「肉体」の内部にまで入ってくるのである。映画を見ているのではなく、私がそこに行って、「女優」なって世界を見ている気持ちになる。
傑作。
(2012年12月29日、KBCシネマ2)
アンジェイ・ワイダ DVD-BOX 1 (世代/地下水道/灰とダイヤモンド) | |
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