季村敏夫『日々の、すみか』第二版(書肆山田、2012年12月10日発行)
2012年、詩に関することで私が一番うれしかったのは季村敏夫『日々の、すみか』第二版が出版されたことである。初版は1996年04月30日の発行である。阪神大震災から1年以上経っている。この詩集を読んだときの感動を私は忘れることができない。「出来事は遅れてあらわれた。」ということばが出てくる。私は、そのことばに打ちのめされた。私のなかからことばが出てこなくなったのだ。
阪神大震災から17年がすぎた。そして2011年03月11日には東日本大震災が起きた。その衝撃のあとでも、私は、やはり季村の「出来事は遅れてあらわれた。」を思い出すのである。「出来事」は「ことば」によって「出来事」として定着する。それが定着するのは、いつでも「遅れて」である。「遅れ」のあいだに、ことばは何かをつかむのだ。何かをととのえるのだ。そう思う。
それは「大事件」だけではない。
この詩集そのものも、同じように動いている。生きている。96年に詩集が出たとき、この詩集はある程度は評判になったけれど爆発的に評判になったというのとは違うと思う。和合亮一の東日本大震災のことを書いた詩集がマスコミで何度も取り上げられ、各種のメディアに和合が登場したのに比べると、季村の詩集の評判はささやかなものだったと記憶している。96年の「現代詩手帖」12月号、「今年の収穫」でもそれほど多くの人が取り上げていたようには記憶していない。(手元に雑誌が見あたらないのでたしかなことは言えないけれど……。)
その詩集が東日本大震災のあと、今になって、再版されたということ--これも「遅れてあらわれた出来事」である。衝撃的なものは、いつでも「遅れて」あらわれる。その衝撃が人間の肉体のなかでしっかり根付いて、それを手探りでさぐりあて、「あ、これだ」とわかるまでには「時間」がかかる。「肉体」が「覚えている」ことは、すぐにはことばにならないのだ。
そして(これは、少し飛躍になるのだが)、この「遅れ」と「あらわれる」をくりかえして、ことばは「古典」になるののだ。それが書かれたときにももちろん読まれる。しかし、そのことばが衝撃的であるときは、その瞬間に読まれて終わるだけではない。時間がたって、「肉体」がそれを思い出すとき、もう一度読まれる。それが繰り返されて「古典」が生き残る。
初版から再版まで16年かかった。そのことを私はなぜかうれしく感じるのだ。初版がでてすぐに話題になり版を重ねる。多くの人に読まれるというのは大切なことである。しかし、時間が過ぎてから、あ、このことばの「源流」はここにあったのか、と多くの人が気がつき、それがもう一度読まれる--これはすばらしいことだ。季村の『日々の、すみか』は「古典」として生きはじめたのである。16年という時間が『日々の、すみか』を「古典」にした。そして「古典」というのは「古い」ではなく、「いまを生きている」ということである。「16年」が「いま」なのだ。長い長い時間を「いま」に変えてしまうのが「古典」なのだ、というようなことも思った。
読み返すと、いろいろなことを思う。そのことも書きたいが、きょうは最初に書いた感想を、ここに転写しておく。(いまなら違った書き方をする部分もあるのだが、特に「意識」ということばは、いまなら「肉体」と書くところなのだが、その当時の私の感じたことを書き直してもしようがないので、そのままの形で転写した。)
季村敏夫は神戸に住んでいる。震災にあった。震災から立ち上がって、詩を書いた。『日々の、すみか』(書肆山田)だ。
*
「出来事は遅れてあらわれた。」ということばに驚かされた。「祝福」という詩のなかに出てくる。
大地震は遅れてきたわけではない。予想もしないときに起きた。「遅れた」というより「早すぎた」というべきだろう。しかし、季村は「遅れてあらわれた」と書く。
なぜか。
大地震は起きただけでは「出来事」ではない。大地震が起き、そこからやっと逃げ出したとき、その瞬間においては、それはとらえどころのない何か、「驚愕」でしかない。人は呆然と立ち尽くし、突然の世界の変化に放心する。
それが「出来事」になるには、何が必要か。「ことば」だ。「ことば」にされ、意識に組み込まれて、定着しなければならない。
小さな事件ならば、出来事が意識に定着するまでには時間はかからない。しかし、震災があまりにも大きな出来事、一度も経験をしたことのない出来事だったために、それは「ことば」でとらえなおし、意識のなかに組み入れるまでには時間が必要だった。そうしたことを季村は「出来事は遅れてあらわれた。」と書いている。
*
季村は「阪神大震災」をどのように、ことばに定着させようとしたのか。「祝福」は次のように始まる。
ことばは、まず書物のなかからやってきた。かつて読んだ本のなかの老婆のことばが、今ここで繰り返されている。そして、そのことばに対して「なにもいえない」といった男のことばを思い出し、自分がその気持ちでいることを確かめている。
なぜ自分のことばではなく、本のことばが最初に思い浮かぶのか。自身の体験の衝撃が強すぎて、自分のことばでは何もとらえることができないのだと思う。全く新しい体験を、自分だけのことばで描写することは難しい。全く新しい体験とは、それを語ることばがないからこそ新しいのだ。そこでは人間はことばを失い、呆然とするしかない。
被災した老人のもらすことばに、季村は呆然とする。何が起きているのかわからないままに、目の前の世界を見つめる。それから記憶にすがって現実を描写することで理解しようとする。
しかし、何かが違う。本のなかには確かに季村が今体験し、多くの人が体験していることの一部が含まれている。しかし、本のことばが告げるものは、季村たちが体験したすべてではない。
どんな風に世界がみえたのか。どんな風に悲しく、みじめであり、また滑稽だったか。本のなかのことばに頼らず、自分たち自身のことばで語り合ううちに、「出来事」は少しずつ輪郭を持ちはじめる。そうやって、人々は「外」ではなく、人々の「内」で大地震は、新たに立ち上がり、定着する。「出来事」が姿をあらわす。
季村は書いている。
*
語り合い、意識を深めていくにしたがい、不思議な感情があらわれる。「出来事」が明確になるにしたがい、不思議な気持ちにとらわれはじめる。
「なにもいえない」は「出来事」を描写することばがないという意味だが、それは私たちがよく口にする「何も言えない」ともすこし違う。私たちはいいたいことが「過剰」にあって、それをことばであらわすことができないとき、「何も言えない」「何も言ったことにならない」と言う。季村たちの「なにもいえない」は、もちろんこうした意味を含んでいるが、何かが明確に違っている。
「なにもいえない」というのは、言いたいことが「過剰」にあるという意識にもとづくのではない。今語ってきたことばが「何か」を決定的に欠いているという意識にもとづく。「言いたいこと」は本当は一つなのだ。それを言えないという悲しみ、悔しさ。「欠如」による苦悩が、そこにはある。
「なにもいえいな」と告げたとき、その「欠如」が「共有」される。誰も口に出さないにもかかわらず、誰もがその一言で「欠如」を知ってしまう。それほど明白で、それほど衝撃的な「欠如」が、ことばをかわす以前から、大地震を体験した季村たちに、すでに「共有」されていた。そして、その「欠如」の「共有」こそが、「出来事」を「遅れて」あらわす原因でもあった。
暗黙の「欠如」の「共有」--それは「死者」のことだ。「死者」はそばにいる。多くの人が、共に生きているはずの人間の「欠如」を生きているということだ。
その「悲しみ」を「共有」しながら、季村たちは「ほほえむ」。その「ほほえみ」は非常につつましい。自分の悲しみを声高に訴えるのではなく、その悲しみで他の人が悲しまないように、あるいは自分の悲しみゆえにそばにいる人に気配りをさせたりしないように、という思いが、彼らをほほえませる。「なにもいえない」とは、また「死者」に対して、どうすることもできない、という悔しさ、悲しさ、苦しみの表明でもある。そうしたすべてが「なにもいえない」ということばとともに「共有」され、それ自体がひとつの巨大な「出来事」にかわる。
そして、この「なにもいえない」という絶望的な告白は、非常にお得の感情を含みながら、非常にささやかなことばのなかに還元される。それは、とても切ない。
「一日生きれたことがしあわせです。」
この、つましすぎるほどの「幸せ」の奥には「死者」がいる。「死者」が「共有」されている。「死者」が「共有」されているからこそ、それを告げる声は「ささやき」となり、胸に深く刻まれる。
そして、この、悲しく、絶望しているにもかかわらず「幸せ」と言うしかない矛盾、この複雑な感情のために、「出来事」は「遅れてあらわれ」るしかなかった。
*
季村は「死者」がそばにいる、という悲しみにたたずむだけではない。さらに一歩進んで、その「死者」のためにこそ、ことばをあつめ、「出来事」を明確に再現しようとする。「出来事」の再現をとおして、「死者」の鎮魂をしようとする。
「しずけさに狂い」には、次の行がある。
激しい地震、数千人の死者、数えきれないけが人、壊れ、焼けた家々。それを「悲惨」と表現することは簡単だ。しかし「悲惨」では言いきれない何かがある。
あの一瞬、多くの人が亡くなった。その思いは「(私達は)明らかに生き残ったのだから」という思いにつながり、「私達」と「死者」のあいたに決定的な「断絶」「ずれ」をつくる。その「断絶」と「ずれ」は「悲惨な」という形容詞ではどうにもとらえることができない。意識に「とこば」として定着しない。
どうすれば「死者」とつながることができるか。「死者」の苦しみ、やりきれなさ、さらには「死者」の愛を表現できるか。「悲惨な」ということばでは何一つ表現できないことだけは明らかだ。
そしてこのとき、つまり、自分の言葉で「死者」のすべてを、あるいは「死者」につながる生き残った者たちの感情を定着させることができないとき、自分たちのことばで「死者」をこころのなか「生起」させることができないとき、そのときほんとうに「墜落」させられる者は、季村たち地震、つまり被災者だ。
だからこそ、季村は語る。「言葉」を集める。
自分たちの生を、そして「死者」の思いを自分たちのことばで語ること--それは地震に伴う大惨劇を食い止めることのできなかった政治や行政に対するの怒りであり、その怒りは同時に「死者」の魂の代弁でもある。そして「死者」の気持ちを代弁することこそ、鎮魂のもっとも大切な仕事だ。
屋外で白い尻をさらし、それを犬に見つめられる。そんな滑稽な日々の暮らしもことばにする。そう滑稽さこそが「死者」と「生き残った者」の区別なら、そうしたものを欠いたままことばを鍛えても意味がないからだ。「死者」とは何か、「生き残ったもの」とは何か、常に問いつづけることが、死者を鎮魂することになるからだ。
季村は、すべてを語ろうとしている。「出来事」をすべてことばにしようとしている。ことばにすることで語り継ぎ、語り継ぐことで歴史を作ろうとしている。それが「死者」への鎮魂になると信じている。
この信念は絶対的に正しい。
そう感じたからこそ、私は、ただ季村の声に耳を傾けることしかできないと感じた。批評のことばがむこうである、とはそうした意味である。
2012年、詩に関することで私が一番うれしかったのは季村敏夫『日々の、すみか』第二版が出版されたことである。初版は1996年04月30日の発行である。阪神大震災から1年以上経っている。この詩集を読んだときの感動を私は忘れることができない。「出来事は遅れてあらわれた。」ということばが出てくる。私は、そのことばに打ちのめされた。私のなかからことばが出てこなくなったのだ。
阪神大震災から17年がすぎた。そして2011年03月11日には東日本大震災が起きた。その衝撃のあとでも、私は、やはり季村の「出来事は遅れてあらわれた。」を思い出すのである。「出来事」は「ことば」によって「出来事」として定着する。それが定着するのは、いつでも「遅れて」である。「遅れ」のあいだに、ことばは何かをつかむのだ。何かをととのえるのだ。そう思う。
それは「大事件」だけではない。
この詩集そのものも、同じように動いている。生きている。96年に詩集が出たとき、この詩集はある程度は評判になったけれど爆発的に評判になったというのとは違うと思う。和合亮一の東日本大震災のことを書いた詩集がマスコミで何度も取り上げられ、各種のメディアに和合が登場したのに比べると、季村の詩集の評判はささやかなものだったと記憶している。96年の「現代詩手帖」12月号、「今年の収穫」でもそれほど多くの人が取り上げていたようには記憶していない。(手元に雑誌が見あたらないのでたしかなことは言えないけれど……。)
その詩集が東日本大震災のあと、今になって、再版されたということ--これも「遅れてあらわれた出来事」である。衝撃的なものは、いつでも「遅れて」あらわれる。その衝撃が人間の肉体のなかでしっかり根付いて、それを手探りでさぐりあて、「あ、これだ」とわかるまでには「時間」がかかる。「肉体」が「覚えている」ことは、すぐにはことばにならないのだ。
そして(これは、少し飛躍になるのだが)、この「遅れ」と「あらわれる」をくりかえして、ことばは「古典」になるののだ。それが書かれたときにももちろん読まれる。しかし、そのことばが衝撃的であるときは、その瞬間に読まれて終わるだけではない。時間がたって、「肉体」がそれを思い出すとき、もう一度読まれる。それが繰り返されて「古典」が生き残る。
初版から再版まで16年かかった。そのことを私はなぜかうれしく感じるのだ。初版がでてすぐに話題になり版を重ねる。多くの人に読まれるというのは大切なことである。しかし、時間が過ぎてから、あ、このことばの「源流」はここにあったのか、と多くの人が気がつき、それがもう一度読まれる--これはすばらしいことだ。季村の『日々の、すみか』は「古典」として生きはじめたのである。16年という時間が『日々の、すみか』を「古典」にした。そして「古典」というのは「古い」ではなく、「いまを生きている」ということである。「16年」が「いま」なのだ。長い長い時間を「いま」に変えてしまうのが「古典」なのだ、というようなことも思った。
読み返すと、いろいろなことを思う。そのことも書きたいが、きょうは最初に書いた感想を、ここに転写しておく。(いまなら違った書き方をする部分もあるのだが、特に「意識」ということばは、いまなら「肉体」と書くところなのだが、その当時の私の感じたことを書き直してもしようがないので、そのままの形で転写した。)
季村敏夫は神戸に住んでいる。震災にあった。震災から立ち上がって、詩を書いた。『日々の、すみか』(書肆山田)だ。
*
「出来事は遅れてあらわれた。」ということばに驚かされた。「祝福」という詩のなかに出てくる。
大地震は遅れてきたわけではない。予想もしないときに起きた。「遅れた」というより「早すぎた」というべきだろう。しかし、季村は「遅れてあらわれた」と書く。
なぜか。
大地震は起きただけでは「出来事」ではない。大地震が起き、そこからやっと逃げ出したとき、その瞬間においては、それはとらえどころのない何か、「驚愕」でしかない。人は呆然と立ち尽くし、突然の世界の変化に放心する。
それが「出来事」になるには、何が必要か。「ことば」だ。「ことば」にされ、意識に組み込まれて、定着しなければならない。
小さな事件ならば、出来事が意識に定着するまでには時間はかからない。しかし、震災があまりにも大きな出来事、一度も経験をしたことのない出来事だったために、それは「ことば」でとらえなおし、意識のなかに組み入れるまでには時間が必要だった。そうしたことを季村は「出来事は遅れてあらわれた。」と書いている。
*
季村は「阪神大震災」をどのように、ことばに定着させようとしたのか。「祝福」は次のように始まる。
一九二〇年代動乱期の中国で、阿Qという愚人を野に放った人の作品をひもといていたとき、はっとすることがあった。「祝福」という小品の、誰ひとり身寄りのない老婆の言葉に出会ったときである。
「人が死んだあとで、魂というものはあるのでしょうか。地獄はあるのでしょうか。同じ家の物は死んだあとでまた会えるのでしょうか」
老婆のどの問いにも、作者とおぼしき男は「なにもいえない」とつぶやき、そのまま口をつぐんだ。心おだやかならず、くらいおもいが立ちはだかった。おおつごもりの、その夜、痩せさらばえた老婆は野垂れ死ぬ。
虐殺につぐ虐殺の時代の、新年を祝福する日。そんなやすらぎの一日に、つましい老婆の詩を書き留め「知識は罪悪である」と、男は魔王の形で立ち去った。
それから約七十年後、私たちは震災という出来事のため、一瞬のうちに棲み家を失い、身ひとつとなった老人たちと寝食をともにするということがあった。書物のなかの対話は「今ここ」の再現ではないかと、私達は深緑色のテントのなかの仮設の湯槽に浸り、やっとはなやぐ老人たちのさざめきを身近にしておもっていた。(略)
ことばは、まず書物のなかからやってきた。かつて読んだ本のなかの老婆のことばが、今ここで繰り返されている。そして、そのことばに対して「なにもいえない」といった男のことばを思い出し、自分がその気持ちでいることを確かめている。
なぜ自分のことばではなく、本のことばが最初に思い浮かぶのか。自身の体験の衝撃が強すぎて、自分のことばでは何もとらえることができないのだと思う。全く新しい体験を、自分だけのことばで描写することは難しい。全く新しい体験とは、それを語ることばがないからこそ新しいのだ。そこでは人間はことばを失い、呆然とするしかない。
被災した老人のもらすことばに、季村は呆然とする。何が起きているのかわからないままに、目の前の世界を見つめる。それから記憶にすがって現実を描写することで理解しようとする。
しかし、何かが違う。本のなかには確かに季村が今体験し、多くの人が体験していることの一部が含まれている。しかし、本のことばが告げるものは、季村たちが体験したすべてではない。
どんな風に世界がみえたのか。どんな風に悲しく、みじめであり、また滑稽だったか。本のなかのことばに頼らず、自分たち自身のことばで語り合ううちに、「出来事」は少しずつ輪郭を持ちはじめる。そうやって、人々は「外」ではなく、人々の「内」で大地震は、新たに立ち上がり、定着する。「出来事」が姿をあらわす。
季村は書いている。
出来事は遅れてあらわれた。月夜に笑い声がまき起こり、その横で顔を覆っている人影が在った。おもいもよらぬ放心、悲嘆などが入り混じり、その後、私達のなかで出来事は生起した。
*
語り合い、意識を深めていくにしたがい、不思議な感情があらわれる。「出来事」が明確になるにしたがい、不思議な気持ちにとらわれはじめる。
多くを語っても「なにもいえない」ことを告げたとき、やっと私達はほほえみを灯すことができるようになった。
「なにもいえない」は「出来事」を描写することばがないという意味だが、それは私たちがよく口にする「何も言えない」ともすこし違う。私たちはいいたいことが「過剰」にあって、それをことばであらわすことができないとき、「何も言えない」「何も言ったことにならない」と言う。季村たちの「なにもいえない」は、もちろんこうした意味を含んでいるが、何かが明確に違っている。
多くの老人たちは、放心して何日も横になったままであった。そのなかのひとりの「焼けだされたけど、こうして一日生きれたことが幸せです」このささやきが私達に刻印された。
「なにもいえない」というのは、言いたいことが「過剰」にあるという意識にもとづくのではない。今語ってきたことばが「何か」を決定的に欠いているという意識にもとづく。「言いたいこと」は本当は一つなのだ。それを言えないという悲しみ、悔しさ。「欠如」による苦悩が、そこにはある。
「なにもいえいな」と告げたとき、その「欠如」が「共有」される。誰も口に出さないにもかかわらず、誰もがその一言で「欠如」を知ってしまう。それほど明白で、それほど衝撃的な「欠如」が、ことばをかわす以前から、大地震を体験した季村たちに、すでに「共有」されていた。そして、その「欠如」の「共有」こそが、「出来事」を「遅れて」あらわす原因でもあった。
暗黙の「欠如」の「共有」--それは「死者」のことだ。「死者」はそばにいる。多くの人が、共に生きているはずの人間の「欠如」を生きているということだ。
その「悲しみ」を「共有」しながら、季村たちは「ほほえむ」。その「ほほえみ」は非常につつましい。自分の悲しみを声高に訴えるのではなく、その悲しみで他の人が悲しまないように、あるいは自分の悲しみゆえにそばにいる人に気配りをさせたりしないように、という思いが、彼らをほほえませる。「なにもいえない」とは、また「死者」に対して、どうすることもできない、という悔しさ、悲しさ、苦しみの表明でもある。そうしたすべてが「なにもいえない」ということばとともに「共有」され、それ自体がひとつの巨大な「出来事」にかわる。
そして、この「なにもいえない」という絶望的な告白は、非常にお得の感情を含みながら、非常にささやかなことばのなかに還元される。それは、とても切ない。
「一日生きれたことがしあわせです。」
この、つましすぎるほどの「幸せ」の奥には「死者」がいる。「死者」が「共有」されている。「死者」が「共有」されているからこそ、それを告げる声は「ささやき」となり、胸に深く刻まれる。
そして、この、悲しく、絶望しているにもかかわらず「幸せ」と言うしかない矛盾、この複雑な感情のために、「出来事」は「遅れてあらわれ」るしかなかった。
*
季村は「死者」がそばにいる、という悲しみにたたずむだけではない。さらに一歩進んで、その「死者」のためにこそ、ことばをあつめ、「出来事」を明確に再現しようとする。「出来事」の再現をとおして、「死者」の鎮魂をしようとする。
「しずけさに狂い」には、次の行がある。
「悲惨な」という形容詞で名づけられるとき、その場から決定的に墜落してしまう。時間を後戻りし、私達は後ろ向きになって遡る。空気や風のわずかな違いがあとでわかったとしても、「明らかに生き残ったのだから」、私達は、場からの遅れを生きることになる。
(略)寒さにふるえる白いお尻は、妙な角度で首を傾ける犬に見つめられていた。私達は悲しいほど滑稽であり、だからこそ死者たちから峻別されて在り、ひとつひとつの姿をおもいだして「言葉」で拾い集めていた。
激しい地震、数千人の死者、数えきれないけが人、壊れ、焼けた家々。それを「悲惨」と表現することは簡単だ。しかし「悲惨」では言いきれない何かがある。
あの一瞬、多くの人が亡くなった。その思いは「(私達は)明らかに生き残ったのだから」という思いにつながり、「私達」と「死者」のあいたに決定的な「断絶」「ずれ」をつくる。その「断絶」と「ずれ」は「悲惨な」という形容詞ではどうにもとらえることができない。意識に「とこば」として定着しない。
どうすれば「死者」とつながることができるか。「死者」の苦しみ、やりきれなさ、さらには「死者」の愛を表現できるか。「悲惨な」ということばでは何一つ表現できないことだけは明らかだ。
そしてこのとき、つまり、自分の言葉で「死者」のすべてを、あるいは「死者」につながる生き残った者たちの感情を定着させることができないとき、自分たちのことばで「死者」をこころのなか「生起」させることができないとき、そのときほんとうに「墜落」させられる者は、季村たち地震、つまり被災者だ。
だからこそ、季村は語る。「言葉」を集める。
自分たちの生を、そして「死者」の思いを自分たちのことばで語ること--それは地震に伴う大惨劇を食い止めることのできなかった政治や行政に対するの怒りであり、その怒りは同時に「死者」の魂の代弁でもある。そして「死者」の気持ちを代弁することこそ、鎮魂のもっとも大切な仕事だ。
屋外で白い尻をさらし、それを犬に見つめられる。そんな滑稽な日々の暮らしもことばにする。そう滑稽さこそが「死者」と「生き残った者」の区別なら、そうしたものを欠いたままことばを鍛えても意味がないからだ。「死者」とは何か、「生き残ったもの」とは何か、常に問いつづけることが、死者を鎮魂することになるからだ。
季村は、すべてを語ろうとしている。「出来事」をすべてことばにしようとしている。ことばにすることで語り継ぎ、語り継ぐことで歴史を作ろうとしている。それが「死者」への鎮魂になると信じている。
この信念は絶対的に正しい。
そう感じたからこそ、私は、ただ季村の声に耳を傾けることしかできないと感じた。批評のことばがむこうである、とはそうした意味である。
日々の、すみか (Le livre de luciole) | |
季村 敏夫 | |
書肆山田 |