石田瑞穂『まどろみの島』(思潮社、2012年10月20日発行)
石田瑞穂『まどろみの島』には「あとがき」がある。親しかった従妹が急逝した。そのあと「呆然自失」の状態でイギリスに行った。そのときのノートを頼りに6行のことばを書いた。それは詩であり、手紙である。「死者には、もう夢のなかでしか会えない」という思いで書いたものである。
そうやって書かれた、たとえば次の作品。
「あとがき」を読まずに読むと、これは風景のスケッチである。ここに「物語」を見つけ出すことはむずかしい。きのう読んだ田中の作品と比較するとよくわかる。田中の作品のなかには「主役」の「私」がいて、それが「目的」をもって動いている。そのことがわかるように書かれている。けれど石田の作品にはそれがない。「目的」がない。飛行機に乗っていて地上をながめていることがわかるが、なぜ石田が飛行機に乗っているかわからない。「目的」がない。
田中の作品が「物語(ストーリー)」を感じさせるのはそこに「目的」が書かれていて、その「目的」が同時になかなか実現されないというか--だんだん違うもの出合いながら、そうして迂回しながら逆に凝縮するという「結果」に落ち着くのに対して、石田の作品には「結果(結末)」がない。田中の作品を手がかりにすれば、「目的」とは「結末」であり、詩とは「目的」が「結末」に結晶するまでの「過程(運動)」ということになる。石田の場合は、そうではない。
石田のことばも「迂回」といえば「迂回」かもしれない。従妹を亡くし、呆然としている石田がこころが落ち着くまでの「過程」のことばなのだから。
でも、田中の作品のことばと石田のことばは大きく違う。「迂回」という点では一致したとしても、まったく違った運動である。
どこが違うか。簡単に言ってしまえば、田中のことばは「意識(精神)が凝縮する」という運動なのに対して、石田のことばは「放心」である。「凝縮」ではなく、ただ「いま/ここ」にある意識(従妹が亡くなり悲しいという気持ち)を解き放つ。「悲しみ」に凝縮させるのではなく、「悲しみ」から自分を解き放つ、という運動である。
おもしろいのは、と書いてしまうと、悲しみにある石田に申し訳ないが、そういう「放心」のなかには、「放心」でしかたどりつけないものがある。「放心」した状態で世界で向き合うとき、その「放心」の中心へ向かって何かが飛び込んでくる。そして、それが一瞬のうちに結晶化し、「放心」には実は「中心」があるということを知らせる。「中心」を持つことによって「放心」はただ開かれた何かであるというより、世界を生み出すビッグバンのようなものに変わるのである。
あ、ことばが急ぎすぎているね。抽象的すぎたね。これはよくないことである。詩にもどって言いなおそう。
最後の1行を読み直そう。
これは夕日に照らされた川が赤く染まり「血潮(血管)」のように見えるということを「比喩」をつかって書いたものである。
で、この詩で重要なのは、その「比喩」よりも「また」である。「また」が石田のキーワード、石田の「思想」である。赤く染まった川を地球の血潮であるととらえる「比喩」に思想があるのではなく、「また」にこそ「思想」が、石田の「肉体」がしっかりと根をおろしている。
「また」ということばはなくても「意味」はかわらない。赤く染まった川が血潮に見えるという「意味」はかわらない。風景の「核心」はかわらない。だから「また」はなくてもいい--かといえば、そうではない。「また」こそが石田のいいたいことなのだ。
人間には「血潮(血管)」がある。石田に「血潮」があり、また従妹にも「血潮」がある。そして、それを石田は地球にも「また」血潮が流れているということをとおして再確認する。石田に「血潮」がある。「また」地球にも「血潮」がある。そう気づいたとき、従妹にも「また」「血潮」があったということをあらためて知るのである。
従妹ににも「また」血潮がある--ということは、従妹が人間である限りいわなくてもわかってることである。わかっていることだけれど、それを「実感」したいのだ。そしてそれは従妹にも「また」血潮が流れている、ということでは「実感」にはならない。
川も「また」地球を流れる血潮だ--とことばにすることで、その「また」のなかに「従妹もまた」が切り離せない形で「一体化」してくるのである。「また」のなかには「主語」として書かれていない従妹が生きている。
亡くなった従妹はときどき「あなた」という形で石田の詩に登場するが、多くの作品では「あなた(従妹)」は書かれない。書かれないのは、石田が従妹のことを忘れているからではなく、彼女が石田の肉体となっているからである。石田にとっては従妹は「あなた」ということばを必要としない存在である。対象として認識する必要がないくらい肉体になってしまっている。つまり「思想」になってしまっている。
その「肉体の思想(思想の肉体)」が凝縮していることばが「また」なのである。
だから、石田の作品には、あらゆるところに「また」を補うことができる。そして「また」を補うとき、同時にそこには従妹の姿が浮かんでくる。石田と「一体」になって、風景をみつめ、何事かを考えている従妹がそこに浮かび上がる。
この作品では「また」はどこに省略された形(書かれない形、肉体そのものになった形)で存在するか。--これを正確にいうのはむずかしい。「誤読」を承知でいえば、
ということになる。「誤読」というよりも、まあ、これは私はそういうふうに読みたいということなのだが……。
で、その「また」を「血潮の川」のように言いなおそうとするととてもむずかしいのだが、橋の上からフィヨルドに囲まれた島をみる。波のしぶきが虹となって輝いている。その虹に囲まれて孤立する島のように、「また」あなた(従妹)は孤立していたのだと、石田は思い出している。「孤立」していても、それは「故国」なのだ。「私の場所」であり、「また」あなた(従妹)の生きている国なのだ。
そう思って読むと、「また」は、
かもしれない。「また」は「孤立」「孤独」と結びつき、そこに「また」あなた(従妹)を浮かび上がらせる。そうして、それは「また」石田自身でもある。
あるいは
かもしれない。
誰にも通じない--というか、だれかに通じてほしいと祈りながら発する「モールス信号」のようなことば、それは「また」あなた(従妹)のことばであり、石田のことばでもある。
「また」は書かれていない。だからこそ、私たちはどこにでも「また」を補って石田の詩を読むことができる。それは書かれていないことばを読むわけだから「誤読」なのだが、こういう「誤読」でしかたどりつけない「物語(ストーリーの核心)」がある。
*
田中は「物語」を「論理」として組み立てたが、石田は「物語」を断片化し、そのなかに「また」という思想を隠すことよって、「論理(ストーリーとして語れるもの)」ではないもの、詩を、屹立させているといえばいいのかもしれない。
石田瑞穂『まどろみの島』には「あとがき」がある。親しかった従妹が急逝した。そのあと「呆然自失」の状態でイギリスに行った。そのときのノートを頼りに6行のことばを書いた。それは詩であり、手紙である。「死者には、もう夢のなかでしか会えない」という思いで書いたものである。
そうやって書かれた、たとえば次の作品。
嵐の最中に凍りついた波頭のように
澄みきった大気のなかに雪の峰が
くっきりと浮かび上がります
翼が傾く瞬間 何かの拍子に
銀に輝く雪と川が落日の炎に燃えて
川もまた地球を流れる血潮だと知る
スカイ島上空
「あとがき」を読まずに読むと、これは風景のスケッチである。ここに「物語」を見つけ出すことはむずかしい。きのう読んだ田中の作品と比較するとよくわかる。田中の作品のなかには「主役」の「私」がいて、それが「目的」をもって動いている。そのことがわかるように書かれている。けれど石田の作品にはそれがない。「目的」がない。飛行機に乗っていて地上をながめていることがわかるが、なぜ石田が飛行機に乗っているかわからない。「目的」がない。
田中の作品が「物語(ストーリー)」を感じさせるのはそこに「目的」が書かれていて、その「目的」が同時になかなか実現されないというか--だんだん違うもの出合いながら、そうして迂回しながら逆に凝縮するという「結果」に落ち着くのに対して、石田の作品には「結果(結末)」がない。田中の作品を手がかりにすれば、「目的」とは「結末」であり、詩とは「目的」が「結末」に結晶するまでの「過程(運動)」ということになる。石田の場合は、そうではない。
石田のことばも「迂回」といえば「迂回」かもしれない。従妹を亡くし、呆然としている石田がこころが落ち着くまでの「過程」のことばなのだから。
でも、田中の作品のことばと石田のことばは大きく違う。「迂回」という点では一致したとしても、まったく違った運動である。
どこが違うか。簡単に言ってしまえば、田中のことばは「意識(精神)が凝縮する」という運動なのに対して、石田のことばは「放心」である。「凝縮」ではなく、ただ「いま/ここ」にある意識(従妹が亡くなり悲しいという気持ち)を解き放つ。「悲しみ」に凝縮させるのではなく、「悲しみ」から自分を解き放つ、という運動である。
おもしろいのは、と書いてしまうと、悲しみにある石田に申し訳ないが、そういう「放心」のなかには、「放心」でしかたどりつけないものがある。「放心」した状態で世界で向き合うとき、その「放心」の中心へ向かって何かが飛び込んでくる。そして、それが一瞬のうちに結晶化し、「放心」には実は「中心」があるということを知らせる。「中心」を持つことによって「放心」はただ開かれた何かであるというより、世界を生み出すビッグバンのようなものに変わるのである。
あ、ことばが急ぎすぎているね。抽象的すぎたね。これはよくないことである。詩にもどって言いなおそう。
最後の1行を読み直そう。
川もまた地球を流れる血潮だと知る
これは夕日に照らされた川が赤く染まり「血潮(血管)」のように見えるということを「比喩」をつかって書いたものである。
で、この詩で重要なのは、その「比喩」よりも「また」である。「また」が石田のキーワード、石田の「思想」である。赤く染まった川を地球の血潮であるととらえる「比喩」に思想があるのではなく、「また」にこそ「思想」が、石田の「肉体」がしっかりと根をおろしている。
「また」ということばはなくても「意味」はかわらない。赤く染まった川が血潮に見えるという「意味」はかわらない。風景の「核心」はかわらない。だから「また」はなくてもいい--かといえば、そうではない。「また」こそが石田のいいたいことなのだ。
人間には「血潮(血管)」がある。石田に「血潮」があり、また従妹にも「血潮」がある。そして、それを石田は地球にも「また」血潮が流れているということをとおして再確認する。石田に「血潮」がある。「また」地球にも「血潮」がある。そう気づいたとき、従妹にも「また」「血潮」があったということをあらためて知るのである。
従妹ににも「また」血潮がある--ということは、従妹が人間である限りいわなくてもわかってることである。わかっていることだけれど、それを「実感」したいのだ。そしてそれは従妹にも「また」血潮が流れている、ということでは「実感」にはならない。
川も「また」地球を流れる血潮だ--とことばにすることで、その「また」のなかに「従妹もまた」が切り離せない形で「一体化」してくるのである。「また」のなかには「主語」として書かれていない従妹が生きている。
亡くなった従妹はときどき「あなた」という形で石田の詩に登場するが、多くの作品では「あなた(従妹)」は書かれない。書かれないのは、石田が従妹のことを忘れているからではなく、彼女が石田の肉体となっているからである。石田にとっては従妹は「あなた」ということばを必要としない存在である。対象として認識する必要がないくらい肉体になってしまっている。つまり「思想」になってしまっている。
その「肉体の思想(思想の肉体)」が凝縮していることばが「また」なのである。
だから、石田の作品には、あらゆるところに「また」を補うことができる。そして「また」を補うとき、同時にそこには従妹の姿が浮かんでくる。石田と「一体」になって、風景をみつめ、何事かを考えている従妹がそこに浮かび上がる。
ここには八百もの島があるという
内陸へ細く弓を引く
嶮しいフィヨルドの海に取り囲まれ
世界からの孤立と孤独を報せる
モールス信号のようなゲール語が今も話される
私たちの故国は遠い虹の袂にあります
スカイ・ブリッジ
この作品では「また」はどこに省略された形(書かれない形、肉体そのものになった形)で存在するか。--これを正確にいうのはむずかしい。「誤読」を承知でいえば、
私たちの故国は「また」遠い虹の袂にあります
ということになる。「誤読」というよりも、まあ、これは私はそういうふうに読みたいということなのだが……。
で、その「また」を「血潮の川」のように言いなおそうとするととてもむずかしいのだが、橋の上からフィヨルドに囲まれた島をみる。波のしぶきが虹となって輝いている。その虹に囲まれて孤立する島のように、「また」あなた(従妹)は孤立していたのだと、石田は思い出している。「孤立」していても、それは「故国」なのだ。「私の場所」であり、「また」あなた(従妹)の生きている国なのだ。
そう思って読むと、「また」は、
嶮しいフィヨルドの海に取り囲まれ
「また」世界からの孤立と孤独を報せる
かもしれない。「また」は「孤立」「孤独」と結びつき、そこに「また」あなた(従妹)を浮かび上がらせる。そうして、それは「また」石田自身でもある。
あるいは
世界からの孤立と孤独を報せる
モールス信号のようなゲール語が「また」今も話される
かもしれない。
誰にも通じない--というか、だれかに通じてほしいと祈りながら発する「モールス信号」のようなことば、それは「また」あなた(従妹)のことばであり、石田のことばでもある。
「また」は書かれていない。だからこそ、私たちはどこにでも「また」を補って石田の詩を読むことができる。それは書かれていないことばを読むわけだから「誤読」なのだが、こういう「誤読」でしかたどりつけない「物語(ストーリーの核心)」がある。
*
田中は「物語」を「論理」として組み立てたが、石田は「物語」を断片化し、そのなかに「また」という思想を隠すことよって、「論理(ストーリーとして語れるもの)」ではないもの、詩を、屹立させているといえばいいのかもしれない。
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