詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上亜紀「青空に浮かぶトンデモナイ悲しみのこと」

2012-12-12 10:53:47 | 詩集
川上亜紀「青空に浮かぶトンデモナイ悲しみのこと」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 「現代詩手帖」12月号は「アンソロジー」が掲載されている。読み落とした詩がたくさんのっているので読みごたえがある。川上亜紀「青空に浮かぶトンデモナイ悲しみのこと」は『三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし』のなかの一篇だが、詩集で読んだとき、私は読み落としていた。

きがつくと青空には入道雲の代わりに
トンデモナイ悲しみが浮かんでいて
わたしは傘をさして足を速めた
(おいかけてくるんだねそいつが)

 この書き出しでは「トンデモナイ悲しみ」がどういうものか、具体的にはさっぱりわからない。2連目。

夏はそれでもどこまでも眩しくて
白と黒の縞柄の傘がつくる影は淡く小さい
わたしはサングラスをかけて
そのトンデモナイ悲しみをそっと眺めた
(空が眩しいのでよく見えない)

 ここでも、「トンデモナイ悲しみ」はわからない。わからないけれど、とてもいい。他人の悲しみなんて、具体的にはわからなくて「悲しみ」が川上には見えるんだろうなあ、くらいの軽い感じがちょうどいいのかもしれない。
 「トンデモナイ悲しみ」と書いているけれど、ことばはとても軽快で、そこには「トンデモナイ悲しみ」のかわりに、はつらつとした「肉体」と「若さ」がある。「輝き」がある。茨木のり子の「私が美しかったころ」に似たリズムである。
 もし「トンデモナイ悲しみ」があるとしたら、それはどんなときでも「はつらつと動いてしまう肉体・知性」というものかもしれない。うちひしがれてじっとうずくまっているのではなく、そんなことはできずに、何か動いてしまう力--そこに「トンデモナイ」なにかがある。「トンデモナイ」ものだから、それをどう呼んでいいかわからない。だから、いまは「悲しみ」と呼んでみたのである。
 「トンデモナイ」ものであるから、「悲しみ」は「よろこび」かもしれないし、「不安」かもしれないが、そんな「流通言語」のための「定義」はどうだっていいのだ。「流通言語」ではとらえきれないから「トンデモナイ」のだ。
 この軽快さ、この強靱さはいいなあ。

あれこれと破れた記憶を抱えて
クリーニング屋に持っていったが
「猫の毛がついたものはお断りします」の貼り紙
繕いは駅の向こうの店でやっていますよと断られる

 こういうとき、感じるのは「悲しみ」? 怒りかもしれないなあ。でも「怒り」と言われたらクリーニング店のひとは逆に怒るかな?
 まあ、こういうことに遭遇したときは、たしかに「うれしくはない」。だからといって「悲しみ」と言ってしまっても、きっとひとにはわかってもらいにくい。
 このあと、詩は、かなり「転調」する。4連目を省略して、5連目。

廃線になった列車の線路を見にいった島で
片腕のない男がサトウキビ畑の脇に立っていたっけ
でもそれがいつのことか思い出せない
映画館の暗闇から外に出て見上げた空は
夕焼けでジャムのように甘酸っぱくて
友達が教えてくれた喫茶店でコーヒーを飲んだっけ
でもそれがいつのことか思い出せない

 5連目はまだつづくのだが、ここにあらわれた「思い出せない」ということばで、私は、はっとしたのだ。別ないい方をすると「誤読」するきっかけのようなものをみつけた、と思ったのだ。
 そうか、「思い出せない」か。
 たとえば川上はクリーニング店でのことを「思い出せる」。「いま/ここ」ではないけれど、まだ「いま/ここ」と呼んでいい場で起きたことである。これは廃線を見にいった島、映画館からでたあとの夕焼けをみた街との対比でいうのだけれど。そして、そうやって対比してみると、川上の「思い出せない」ことには不思議な特徴がある。「こと」は思い出せる。片腕のない男が立っていたこと--それをみたこと、は思い出せる。夕焼けをみたこと、コーヒーを飲んだことは思い出せる。「いつ」が思い出せない。
 これはことばをかえていうと。
 「こと」というのは自分の肉体が動いてつかみとる何かである。「こと」というのは「名詞」だけれど、実は「動詞」がそこにひそんでいる。「動詞」がひそんでいるということは、そこでは肉体が動いているということである。
 「いつ」という「時間」も「肉体」に深く関係してくるときもあるけれど、それが「思い出す」ということとつながると、実は、とても変な動き方(?)をする。
 片腕のない男を見たこと、コーヒーを飲んだこと、それからクリーニング店で断られたこと--そこには「時系列」があって、ほんとうはまじりわあない。けれど、思い出すとき、その三つのことの「あいだ」に「時間」はない。すぐそばに隣り合っている。「肉体」は「時間」を消してしまう。
 これはよくよく考えると「トンデモナイ」ことのように私には思える。
 そして川上の言っている「トンデモナイ」も、どこかでそういうものとつながっている。

きがつくと青空には入道雲の代わりに
トンデモナイ悲しみが浮かんでいて
わたしは傘をさして足を速めた
(おいかけてくるんだねそいつが)

 「トンデモナイ悲しみ」は「いつ」のもの? つまり、「いつ」起きたことがらに起因している?
 私の疑問は変?
 そうだよね。「悲しみ」と書かれているけれど、ここでは「どこで」も「何が原因で」も書かれていないのだから、私がそこから「いつ」だけを取り上げて、そこでつまずくというのは、とても変。そういうことを取り上げても「悲しみ」はわからない……。
 でも、私は「いつ」にこだわる。
 というのは5連目の「いつのことか思い出せない」と違って、1連目では、それが「いま」であることはたしかだからである。「きがつくと」、つまり気がついた「いま」、それは起きている。そして、この「いま」を「いま」だと感じているのは(ことばにしないから、実は「無意識」というか、意識することを忘れているのは)、「肉体」である。
 「肉体」が「いつ」からほうりだされてしまっている。
 「肉体」が「過去」の「時間」から解放されて(?)、自由になって、ほうりだされている。
 茨木のり子の詩を思い出したのも、そこでは茨木の肉体は「戦争」という「過去」からほうりだされて動いているからだ。
 「過去」からほうりだされた「肉体」は、つまり「過去」に頼ってはいけないということでもある。だから、そこに「不安」もまじってくる。しかし、それは「不安」であっても、そこには「自由」の「よろこび」がある。この「自由」と「よろこび」は「トンデモナイ」ものである。言い換えると「過去」の「定義」ではとらえることのできないもの。「過去」という時間からの「エクスタシー」のようなものである。
 「過去の定義」を解体し、「時間」の束縛を切断し、「肉体」のエクスタシー、「いま」のエクスタシーのなかに突入していく。そこで何が起きるか知ったことではない。知ったことではないけれど、それを「肉体」で受け止める。何が起きたって「肉体の私」は「私の肉体」のままである。どんなに「切断」してしまったとしても、そこには絶対的に「接続・連続」がある。
 これも「トンデモナイ」ことである。
 「トンデモナイ」は「肉体」そのものが「思想」である、ということだ。「頭」を拒絶して「肉体が思想である」と宣言することである。

きがつくと空の上から
オレンジと黄色の縞のシャツを着たトンデモナイ悲しみが
細いサングラスをかけてわたしを見ている
トンデモナイ悲しみのまわりには
雲がきれぎれに浮かんでいた
「きれいなシャツですね」
思わず声をかけるとトンデモナイ悲しみは小さな雲をしたがえて
すっーと地面すれすれのところまで降りてきた
「悲しんでいるひとはわたしを見るとこわがって遠ざかっていくので、今年の夏は思い切って派手な服を着てみました」
「それはいい思いつきですね」
「けれども楽しい気持ちのひとにはわたしなんか見えないのです」

そこでわたしはトンデモナイ悲しみと二人で
街に遊びにいくことにしたのだった

 いいなあ。これは。
 わけがわからないけれど「肉体」がある。「肉体」は「遊ぶ」ことができる。「遊び」とは「無意味」である。「無意味」とは「意味」の拒絶であり、言い換えると「詩」である。「無意味(詩)」とは、「過去の時間」から切断された「いま」でしかありえない「こと」である。その「こと」を「こと」にするのは「肉体」である。




三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし
川上 亜紀
思潮社
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