詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(4)

2006-04-15 23:13:45 | 詩集
 『漆あるいは水晶狂い』(1969)。巻頭の「弾道学」の書き出しがとても印象的だ。

叫ぶことは易しい叫びに
すべての日と夜とを載せることは難かしい
と左手の反古は語るけれど
それはアルミ製の筒花のような嘘だ

 書き出しの2行は意味的には「叫ぶことは易しい」けれども「叫びにすべての日と夜とを載せることは難かしい」という意味になるだろう。しかし、渋沢は「けれども」を書かないし、また「叫ぶことは易しい」と「叫びにすべての日と夜とを載せることは難かしい」を明確には対比させない。というより、「叫び」という主語を、行をわたらせることで対比を消し去ろうとしている。「叫ぶことは易しい」は「叫び」を修飾しているのだ。省略されているのは「けれども」だけではなく「けれども、その」が省略されている。「叫び」という主語は、いったん、「叫ぶことは易しい」という冒頭へ戻ることを要求される。何かしら、精神の反復運動、往復運動がここに隠されている。
 隠された精神の反復運動、往復運動が渋沢の精神の運動形態であるといえるかもしれない。そういう点からいえば書かれていない「けれども、その」が渋沢のキイワードだと言える。
 作者には自明のこと、説明できないこと、それが含まれているキイワードは、作者に密着しているがゆえに、省略されるのが普通だ。どうしても省略できないときのみ、表記される。
 そして、どうしても省略できなかったのが3行目、4行目の関係である。「語るけれど」と「けれども」でないのは、次に反復、往復する主語が「その」という、英語でいえば定冠詞つきのことばではなく、「それ」という指示代名詞で受けるしかないことばだからだ。
 反復、往復は、ここでは1行目のように緊密ではない。少し「間」がある。
 「間」があるからこそ、そこには余剰が入り込む。それが「アルミ製の筒花」である。このことばがいったいどこからやってきたのか、読者の誰にもわからないだろう。(「筒花」ということばの意味さえ私にはよくわからない。私の持っている辞書には載っていな。丁子頭のようなものだろうかと、私は推測して読むだけである。)読者の誰にもわからない余剰、渋沢の抱え込んでいる現実、そこに「詩」がある、と思う。
 誰にもわからない余剰、それは渋沢の肉体と言い換えてもいいかもしれない。肉体が触れている現実、現実との通路としての余剰。そこでは渋沢は完結していない。現実と繋がってしまっている。意識して、というより、意識できないまま繋がってしまっている。そこに意識が欠落している、あるいはそこでは渋沢の意識が世界を支配していないから、読者は、その不透明なものに平気で触れることができる。「アルミ製の筒花って何?」と、その存在をああでもない、こうでもないとこねまわして、そこに勝手な解釈を放り込む。そうやって作者に触る。作者の肉体を感じる。
 渋沢は、そういう読者の乱暴を、この詩では許している。

 読者にそうした自由、乱暴を許しておいて、一方で渋沢は自分の言いたいことを言い始める。

ほんとうに難しいのは目に
記憶と岸辺をもたらすこと
とぎれたわるい眠り
凍原から滑り落ちるわるい笑い
わるい波わるい泡

 ここでは「わるい」ということばによって精神の反復、往復運動が描き出される。行きつ戻りつしながら、その往復をエネルギーに替えて、ここからはみ出していく。自己からはみ出していく。現実へはみだしていく。それが渋沢がやろうとしていることだろう。
 「わるい」という表現は意味ではない。意味になりきれていないもの、渋沢の肉体である。肉体のなかに蠢いている感覚、「悪い」と書くのでは意味が違ってしまう何かだ。
 したがって、この「わるい」は渋沢の肉体ではあるけれど、渋沢から引き出すことはできない。読者が自分自身の肉体から引き出さなければならない。そういう性質のものである。
 「現代詩は難解である」とはかつて繰り返し言われたことだが、それが難解なのは、作者の書いたことばのなかに意味があるのではなく、意味は読者が作者のことばを自分の肉体のなかに抱き込んでしまって、それが意味となって生成してくるのを待たなければならない構造になっているからだ。どこを読んでも「解答」などない。作者のことばを手がかりに、それまで自分が抱え込んでいたことばを叩きこわし、叩きこわしたことばが自分の肉体のなかから生成してくるのを待たなければならない。
 こうした作業が好きか嫌いか。
 私は好きだ。
 じぶんのことばが壊れるたびに、渋沢の肉体が見えてくる。そしてそれはいつでも完全には見えない。いつも見えないものを含んでいる。隠されたものを見る、というのは、なかなか楽しいことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大家正志『空虚な空間』

2006-04-14 12:05:52 | 詩集
 大家正志『空虚な空間』(ふたば工房)。
 私は本を読むのが遅い。とてつもなく遅い。ところが大家のこの詩集は30分もかからずに読み終えてしまった。(ほかの人なら、もっと早く読むことができるかもしれない。)「うまく説明できない」という詩のなかに「自分にかんすることで/説明できそうなことはほとんどない」(27ページ)ということばが出てくるが、印象はまったく逆で、大家にとって説明できないことは何一つない、どの説明も明瞭でわかりやすく、どんな停滞も淀みもない、という感じがする。「宇宙」「引力」「量子」などということばも出でくれば、コルトレーンも出てくる、クーブリックも出てくる。「星の王子様」(フランス語)も出てくる。私はフランス語は読めないけれど、そこに書かれていた 2行は理解できた。見た瞬間に分かった。大家のことばには、何か、人を一瞬にして「理解」へ誘い込む力がある。そのためにとてつもなく早く読むことができる。

ダムの干上がった日
妻と
腐った水を見に行く
腐った水に閉じ込められたバクテリアは
ぼくの脳に棲むウイルスに似ている
と妻はいう
「あなたに抱かれるたびに
腐ったウイルスがわたしの身体のなかにはいりこんでくる
だからといってどうってことはないけど
そんなこと一度も考えたことがないでしょう?」
        (「サマータイム」39ページ)

 この行に私は思わず線を引いてしまった。そこにはめずらしく「他人」が登場しているからだが、それでも、それは「他人」というには手触りがなめらかすぎる。何か、明瞭なイメージを残しすぎる。すーっと理解できて、すーっと通りすぎていく。
 「他人」というのはもっと不透明で、なんだ、こいつは、と思ってしまうものなんだがなあ、という不思議な印象につまずくといえばつまずくのだが、それは何か靴先が歩道のひびにひっかかったくらいの感じでもある。
 なぜこんなに早く大家のことばが読めてしまうのだろうか。
 「エヴェレット解釈(文科系のための量子力学的世界)」を読んでいて、はっと気がついた。

九九九九億九九九九万九九九九個の「他者という自我」が
永遠に干渉しあうこともなく
互いをおもいやって
心をふるわせている

 「九九九九億九九九九万九九九九個」か。ふーん。「一兆分の一」ということばも出てくるけれど、大家は「九九九九億九九九九万九九九九個」と「一兆」を区別しているんだろうか。区別できるんだろうか。たとえば(1)直径10センチの完全な円がある。(2)ほぼ同じ形の九九九九億九九九九万九九九九角形がある。(3)一兆角形がある。(1)(2)(3)を大家は肉体で、つまり、目で見て、あるいは指でなぞって、それを識別できるんだろうか。できないと思う。肉体ではできないことが、しかし、ことばではできてしまう。ことばでなら九九九九億九九九九万九九九九角形と一兆角形、円を区別できる。その違いを具体的に指摘もできる。九九九九億九九九九万九九九九角形は一兆角より一角少ないし、角があるかぎり円ではない。
 あたりまえすぎることだけれど、このあたりまえが、詩ではかなりつらい。
 詩はことばでできている。しかし、詩を読むとき、人はことばを識別するわけではない。というか、九九九九億九九九九万九九九九角形と一兆角の違いを識別するようにして詩を読むわけではない。むしろ九九九九億九九九九万九九九九角形と一兆角はことばでは違うけれど同じものであり、逆に、たとえば大家の書く「かなしみ」と大家の連れ合いがもらす「かなしみ」は同じことばなのに違ったものを言おうとしているというようなことを感じ、納得するために読む。
 「サマータイム」の妻のことばは印象的ではあるし、大家と妻との違いをあらわそうとして書かれたものではあるのだけれど、私には、ふたりは結局、九九九九億九九九九万九九九九角形と一兆角の違いにしか感じられない。そっくりである。識別できない。大家は「サマータイム」のなかで「世界の涯て」「ビッグバン」などについて思いをめぐらし、

蝉も涸れはて
耐熱球菌が繁殖する地表に
吃音性の宇宙が着陸する

 というような、わかったようなわからないことを考えているが、この思考の構造は妻が考えるダム(宇宙)とウイルス、大家の体(脳)とウイルスの構造と相似形である。
 頭でなら、大家と彼の妻が言っていることは九九九九億九九九九万九九九九角形と一兆角のように完全に別であると理解できるけれど、肉体的には違いがわからない。大家のことばが早く読めてしまうのは、そこに肉体が存在しないからではないのか、と思ってしまう。頭のなかだけでことばが識別され、語られている、という印象を持った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(3)

2006-04-13 14:47:58 | 詩集
 『不意の微風』(1966)。渋沢が自画像を書き始めた、と感じた。

月が出ていれば月を感じ
女がいれば女を感じもする
確かに世界はいつもそこにあって
あいかわらず愛し合い殺し合いしているのだが
おれの中にひとつの狂気が育たぬばかりに
石みたいに世界から拒絶されるのだ (「信じるためにも」122 ページ)

 「世界から拒絶される」と渋沢は書いているが、むしろ渋沢が拒絶しているのだろう。「女がいれば女を感じもする」の「も」。その並列の助詞は何を意味するだろうか。一体感のなさだ。渋沢は女といるとき女がいるということを感じるけれど、女と一緒にいる、おんなと渋沢とが今ここに同時にいるとは感じないのだ。渋沢がいて女「も」いる。だからこそ世界は「ここ」ではなく「そこ」という離れた場所なのだ。

おそらく世界こそすでにひとつの狂気
(略)
信じるためにも
おれはいまこそ世界の狂気に呼びかけねばならぬ (「信じるためにも」123 ページ

 「意識」から世界へと歩みだそうとする渋沢が、ここにいる。

 「三十歳」「人が盲になるとき」は、そうやって世界へ踏み出した渋沢の自画像である。

信じていないから
彼には光なんてものが存在しないのだろう
性格はあいまいだ
意識と行動との通路を探しまわっている
(略)
無責任な男である
自分勝手に世の中を真暗にして
さてそれから
この世は闇だといって嘆いてみせた

 「信じていないから/彼には光なんてものが存在しない」とは存在していると意識しないから彼には光は存在しないという意味だろう。「信じる」とは存在を意識することだ。存在していると意識できたものだけが渋沢にとって存在していることになる。
 これは「信じるためにも」も同じである。
 「信じるためにも/おれはいまこそ世界の狂気に呼びかけねばならぬ」とは存在しているものを存在していると意識するためにも、いまこそ世界の存在のあり方に向けて歩みださなければならない、という意味になる。世界へ向けて「意識と行動との通路」を築かなければならない。
 世界が真暗であるとしたら、それは単に渋沢が世界が真暗であると意識したにすぎない。ほんとうに世界が真暗であるわけではない。もし真暗なら他の人も騒いでいるだろう。ところが他の人は騒いではいない。うろたえてはいない。
 自画像を書くことで渋沢のことばは動き始めた。そう感じた。「三十歳」「人が盲になるとき」につづく作品群も自画像として読むことができる。
 「スパイラル」「パストラル」「像」「五月」など短めの作品がとても美しい。ことばが渋沢の意識のなかにとどまらず、意識を逆に世界の方から見つめなおしているという感じがする。批評が存在する。ユーモアが立ち上がってきている。世界と渋沢の相互交流がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前田實「たまゆら」ほか

2006-04-13 12:09:28 | 詩集
 前田實「たまゆら」(「ガニメデ」36)。
 死んだ男が生き返る話してある。表記の仕方がおもしろい。

墓穴からやっとはいだし 自分でもどうしていたのか分からないうちに わが家にたどりついたのだ そのときは後あと俺の名をきょうふの代名しのようによんだあの邪あくな怪異はあらわれず しばらくの間それはつづいたのだ

 「代名し」「邪あく」というように漢字とひらがながの交ぜ書きになっている。書かれていることはそんなに目新しい(?)ことではなく、よみがえりの、あれこれ聞いたような話なのだが、交ぜ書きがことばの距離感をあいまいにする。近づいてきたと思ったらゆっくり遠ざかる。遠ざかったと思ったらぱっと近づいてくる。そのリズムが文字を読んでいるのに声を聞いている感じがする。声を聞いている感じに似ている。ひとの話はふいに親身に感じられたりどうでもいいものに感じられたりするものだが、そういう肉声だけが持っている揺らぎの感じがおもしろい。その感じが、書かれている内容と一致しているようで楽しい。
 前田は同じ号に「ずれる」という作品も書いている。こちらはよみがえりというような「まゆつば」の話ではなく、夫婦の日常である。

百五拾年もつづくふるい大きな家に
つまとふたりで住んでいる
いつも同じにみえる家のなかも
一秒ごと ゆるやかに変っていく
想ぞう以上にゆっくりなのだが
ここのところ
一つへんかがあった

 ここでも「想ぞう」のように漢字、ひらがなの交ぜ書きが登場する。タイトルがそうなっているからいうのではないのだが、この交ぜ書きによって、私の感覚は微妙に「ずれ」る。めのずれのなかに、たぶん、前田がいる。
 ことばのなかにある時間の感覚、すっと動くものと、ねっとりと動くもの。それを前田は見ようとしているのかもしれない。

 同じ「ガニメデ」の沼谷香澄の「むすりまタン」のタイトルで短歌を書いている。自在な音楽が楽しい。

中庭のユーカリの影にぱぱとまま。わたしコアラちゃんなのえへへ。
もふもふの、ああもふもふの家族部屋、ピクミン2のフィギュアを踏んだ
あのねのね、ミレットなの、ちゅうりっぷ、おやゆび王子がアザーンするの

 一方、音とはあまり関係なく、表記をいじっただけのものもある。

昨日着てた、ままのブルカが干されてる色とりどりの香をしたたらせ

 ちょっと古いと思う。「白妙の衣干すてふ…」の音楽にも負けていると思う。せっかくなのだから、もっと音楽を解放してほしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(2)

2006-04-12 22:06:36 | 詩集
 『渋沢孝輔全詩集』(思潮社)を読む。(2)

 『場面』(1959)。この詩集は読むのに苦しい。どのことばも遠く感じられる。ただ遠いだけではなく、常に前の行が次の行で否定されている感じがする。先行することばを否定しながら、否定する力で前へ前へと進んでいく感じがする。しかも、その進む先が、何といえばいいのだろうか、一歩も前進しない感じがする。同じところにとどまっている感じがする。そのために遠さがより遠くなるという印象がある。何かが欠けている、という印象がつきまとう。
 詩集の最後の「夜の樹間」まで読んで、その苦しい印象がどこから来ているかわかったような気がした。

なんにも変りはしないのだ
私には決定的ななにかが欠けていた
私は夜にも住まず
昼にも住んでいなかった
そのくせさわやかな夜の意識があった     (095 ページ)

 「意識があった」と渋沢は書くが、ここには意識しかない。どのような存在も感覚も意識でしかない。ことばは意識の外へとは出て行かない。「外部」(自己以外のもの)が欠けている、というのが私の印象だ。外部がないから、渋沢のことばとは接触のしようがない。外部に触れれば、ことばは変質する。意識の純粋さをもったまま外部とは接触できない。外部に接触するには、接触するためにことばは変形しなければならない。たとえば、手になって、あるいは舌になって。ところが、渋沢のことばは変形しない。意識そのものの純粋さだ。
 「盲のライオン」のなかの一節。

  誇高いかれの意識のなかでは
  ここはいまでも月の光に冴えわたる
  原始の曠野       (105 ページ)

 意識のなかで、意識されたものがいつまでも純粋な幻として存在する。それは現実ではない。現実を遠ざけるものだ。
 別なことばで渋沢は次のようにも書いている。

もしもこの世に裸形でないものがあるとするなら
きみの鏡に凍てついている
きみのまぼろしの姿だけ

 ここに書かれているのは、すべて幻である。それも意識のなかでとらえられた幻である。現実とは無縁である。それは何のための世界か。渋沢は、次のように認識している。

私には行動などできるわけがなかったが
しかもなお私の世界は
そこに住みつくためにあるのではない
そこから出ていくためにあるだけなのだ   (112 ページ)

 自分の「意識」から出ていくため、現実と触れ合い、そのなかで変化していくために渋沢は詩を書いている。そう自覚している、というふうに、最後の最後になって、私は感じた。そして、そう感じたときから、この詩集全体を覆っている不思議な遠さが、とても苦しく哀しいものに感じられ、私のなかから、ふいに息が漏れた。
 よし、渋沢がどんなふうに変わっていくのか、詩集をとおして見ていこう、という気持ちにもなった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(1)

2006-04-11 21:19:37 | 詩集
 『渋沢孝輔全詩集』(思潮社)を読む。(1)

 『淡水魚』(1979)。「古代風」という作品が記憶に残る。

青錆びた空間に倦怠の時を刻む
あけぼの。思いは、生まれ、去り
夢かも知れぬ階段に
朦朧として 十字架のようなものが立つ。

再びは報いをもたぬ古代風の
胸像。絃をつなぐ意志よ。
朝、ひぐらしのアトムは未知を想い
消すことの出来ない汚辱に生きる。

 あ、渋沢はこういう作品も書いていたのだ、と思った。整然とした文体は渋沢の特徴だが、それはこの作品にも共通する。それでいて何かが違う。「古代風」というタイトルそのものを具現するかのように、ここに書かれていることがらは何かしら「古代」を想像させる。しかも日本の古代ではなく西洋の古代を。
 「再び架空の存在を呼ぼう」は「道化」の書き出しである。渋沢の作品は架空のものの導入によって骨格をつくっていることが多い。作品全体が「虚構」の世界のように感じられる。しかし、それは虚構ではあっても現代である。渋沢の作品が現代詩と呼ばれるのは、渋沢のことばが現代を描いているからである。
 ところが引用した作品は「古代風」。現代であることを、少しばかり放棄している。そして、その放棄によって、ことばが不思議な伸びやかさを持っている。いま、ここに限定されず、どこか遠くまで広がっていく、あるいは遠くのものを呼び寄せる感じがする。そこがとても印象的だ。
 この作品は渋沢の代表作とは言えないかもしれない。渋沢の特徴を端的にあらわしているとは言えないかもしれない。しかし、だからこそ、私はこの作品に惹かれる。

 もうひとつ引用する。「歳月」

<この世界をわたしは望んだことはない>
<けれどもそれがおまえの運命というものさ>
日々が重ねられ
古びた地球のうえに
わたしはそれゆえ自分の運命を刻んだ
<この世界はわたしの作品なのだ>
<この世界はおまえの限界なのだ>

 「世界」が「わたしの作品」であり、同時に「おまえの限界」であるという。もちろん「おまえの限界」というときの「おまえ」は「わたし」だから、それは「わたしの限界」という意味になる。
 国語をその国の思想の到達点と呼んだのは三木清だったが、三木のことばと重ね合わせるなら、「詩」は渋沢にとって彼の思想の到達点(わたしの作品、わたしの限界)ということになる。
 そして、その作品のなかには、現実を厳しく見つめ、自己を点検するというような思想だけではなく、「古代風」のように、少し息を抜いたような、こころを自在に遊ばせてみたような作品がある。そういう息抜きのなかに、もしかすると自在な渋沢がいるかもしれない、という気持ちにもなる。そんな渋沢に出会えるよう、詩集を読み直してみようと思った。
 そして、自在な渋沢は、たぶん「歳月」の5行目に出てくる「それゆえ」とは無関係に存在する渋沢であるとも思った。

(以下は今後のための予備的メモ)
 渋沢の文体は非常に緊密である。それぞれの行の展開には、書かれていない「それゆえ」がいつも潜んでいる。「それゆえ」をどの行のあいだに挟んでも渋沢の作品の多くに違和感は生じないはずだ。そして奇妙なことに、引用した「歳月」だけは「それゆえ」が「なにゆえ」か実はわからない。説明がない。おそらく渋沢自身が意識しないままに書いた「それゆえ」だと思う。こうした作者が意識せず、しかし書かずにはいられないことばを私はキイワードと呼んでいるが、このことは詩集を読み進む過程でまた触れるかもしれない。触れないかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水嶋きょうこ『twins』

2006-04-10 23:13:25 | 詩集
 水嶋きょうこ『twins』(思潮社)。
 最初、イメージがまとまらなかった。何かに対していらだっているということ、ことばによってそのいらだちを突き破りたいという欲望は感じられるのだが、いらだちのありようがよくわからなかった。いらだちというものは大抵本人にはわかっても他人にはわからないものだが、水嶋の描いているものは特にその印象が強い。
 「レイ君の耳」まで読んで、ふいにひとつのことばが強烈に迫ってきた。

「レイ君、耳に取りつかれたね。」(略)耳に取りつかれたレイ君。レイ君に取りつかれたわたし。わたし、何に取りつけばいいのだろうか。

とりつく/とりつきたい
とりつく/とりつきたい

 「取りつく」という表現はひとつのこことばであるけれど、「取り+つく」と分離して感じられた。そして、その「取り+つく」の表現の、特に「つく」がなぜか気にかかった。
 読み進むと「つく」が何度も出でくる。
 「この上なく好きだから、巻きついてゆく」「吸いついてゆく」「しがみついてくる」(以上「パラサイト」)、「巻きついた光」「まといつく」(「tatto」)、「いやらしいくらいぐるぐると絡みつく」(「葬列」)、「路上にはりつく水の花」(「海辺のマネキン」)など。
 「つく」とは「密着」を意味する。そしてその密着は分離、隔絶を前提とする。本当は離れている。その存在が何らかの力で密着を強要してくる。離れることを拒否している。「つく」には、そういう印象がある。特に、水嶋の「つく」にはその印象が強い。
 水嶋の詩を読んで私が感じたいらだちは、たぶん水嶋が密着を強いられているものへのいらだち、本当は分離したい、隔絶したいのに密着してしまうことへのいらだちなのだと思う。そういうものがことばの奥底に流れているから「つく」が強烈に浮かび上がるのだろう。
 隔絶と密着は「犬吹公園」では次のように書かれている。

電車の窓からいつも見える公園がある
取り巻く欅の木のそよぎ
犬を連れた女の人たちが楽しそうに集う姿が
ガラス窓を通し
午後の光の中でにじんで見える
風景は通りすぎても
開け放たれた窓から入る
すえた犬のにおいだけがいつまでも消えない

 犬のにおいがいつまでも「つい」てくるということだろう。目は犬が遠ざかったことを認識する。しかし鼻は認識しない。人間の感覚は普通融合する。融合することで深い世界にたどりつく。しかし水嶋の感覚は融合しない。分離する。分離することで水嶋自体をいらだたせるとも言える。
 感覚の分離、それも強要された分離は水嶋に「もう一人の わたし」(「twins」)を呼び起こす。「デジャヴュ」には次の行がある。

ミラーサイドから わたしの画像は切断される
天井にはりつく着衣 夜の連体形
(略)
バランスを崩し 日常をゆっくりと落ちてゆく わたし
スレ違う《彼女たち》の肉体からは数々の物語があふれていた

 「わたし」と「彼女」は同じ水嶋である。(引用した部分の数行先には「わたし/彼女 彼女たち/わたし」という表現もある。)
 この引用部分で見落としてならないのは「日常をゆっくりと落ちてゆく」と「肉体からは数々の物語があふれていた」という関係である。日常から落ちていくわたしを水嶋は「彼女」と呼び、その彼女に日常ではなく「物語」を担わせている。
 ここに水嶋が詩を書く理由がある。

 もう一人のわたし(本当のわたし)を維持するために、水嶋は、水嶋にまとわりついてくるもの、密着してくるもの、水嶋を引きずり込もうとするものへ「彼女」を差し出し、そこで「物語」を完成させる。「彼女」を物語のなかで動かし、生かすことで、水嶋自身の肉体、感性、精神を守ろうとしている。
 水嶋の作品が感じさせるいらだち、痛々しさはそこから生まれていると思う。
 しかし痛々しい。痛々しすぎる。「tatto」では「本当のわたし」は「ぼく」というかたちであらわれている。何かに密着され、変形した「わたし」は「蝶」になって表現されている。(そして、この「蝶」はまた「ぼく」にまとわりつく存在である。だからこそ、「物語」にしてしまわなければならない。)

それでも蝶はぼくにまといつく。蝶の影、蝶の姿を払い、追い、つぶし、鱗粉をガラス瓶に閉じこめた。移りゆく日々、日常のまといつく灰にまみれ汚れてゆくぼく自身を閉じこめたかったんだと思う。

 こんなふうに痛々しい形で結晶する詩もある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池谷敦子『青く もっと青く』

2006-04-09 21:13:01 | 詩集
 池谷敦子『青く もっと青く』(書肆青樹社)。
 一篇の詩がこころに残った。「お芳さんの店」。昔、家で雇っていた女性が肉屋を開いた。父がお芳さんを犯したことがある。母はそこで買い物をする。「豚こま百円ください」と。その母を描いている。

暮らしに萎えていたいたからといって
なぜ そこで
「こま百円」と言わねばならぬ
わらっている かもしれぬ女の店先で なぜ

惨めな自分への更なるいたぶりか
ええ格好しいの夫への復讐か
それともやはり あなたは
哀しいまでに芯なしの人であったのか

 「惨めな自分への更なるいたぶりか/ええ格好しいの夫への復讐か」という推測は池谷のことばだろう。しかし「哀しいまでに芯なしの人であったのか」は池谷自身のことばではないだろう。「それともやはり」ということばから推察できるのは、池谷が「母は芯なしのひとだ」と他人から聞かされ続けたということだ。聞かされ続けたから「やはり」という表現がそこに挟まる。そんなふうには思いたくない。しかしもしかしたら他人が(父かもしれない)言っているように「芯なしの人であったか」と思ってしまう。
 「やはり」が強烈な「詩」である。
 池谷本人をも否定して世界を切り開いていくものがそこに存在する。そのありかをしめすことばが「やはり」である。「やはり」をとおして池谷は世界と出会う。

 ところで、この母への批判には「か」という疑問符がつく。ここに池谷のやさしさがある。他人の母への批判をそのまま自分から母への批判にはしない。答えを保留する。答えを出さない。そこに池谷自身のやさしさがある。そのかわりに、池谷は次のように思う。

半世紀たった今も
私に流れるあなたの血は答えてくれぬ から
母よ 亡き母
あなたの 胸底の沼に
子はせめて
一輪のこうほねを咲かせよう

 答えを出さない。批判に結論をつけない。ただ自分にできることをする。それは池谷が母から引き継いだやさしさかもしれない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷本州子『綾取り』

2006-04-08 23:07:26 | 詩集
 谷本州子『綾取り』(土曜美術社)。
 耳のいい詩人だ。「握飯」は農家の夕暮れ時を描いている。幼かった詩人と二人の妹。農作業から帰ってくる母を待ちかねて「おなかが空いた」と訴える。母親が急いで「握飯」をつくってくれる。

 じき夕飯やのに
 躾がなっとらん
祖母のいつもの小言を
蜩が茶化した
 ええやないかな かなかなかな
 ほっとかんかな かなかなかな

 この瞬間、ここには書かれていない情景が見える。「蜩」のことばは本当は父か母がもらした声なのだろう。「ええやないかな、ほら蜩も言ってるぞ、ええやないかな、かなかなかな」という具合に。そこに働くことに懸命なだけの父、母とは少し違った父、母がいる。わが子を愛する父と母がいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小川三郎『永遠へと続く午後の直中』

2006-04-07 15:14:32 | 詩集
 小川三郎『永遠へと続く午後の直中』(思潮社)。
 不思議と引き込まれる詩集である。不思議ということばがつい出てしまうのは、小川の声の静かだからだ。大声には誰でも耳を傾けてしまう。ところが小川の声は大声ではない。むしろぽつりぽつりと漏らす小さな声である。しかしその声が私を引き込む。なぜだろう。「紫陽花」まで読んできて、その手がかりが見つかった、と思った。

雨の予感が好きだ。
池に小波が起こり
紫陽花の葉が揺れる。
するとなんだか
繋がるじゃないか。

 「するとなんだか/繋がるじゃないか」。ここに小川の声の秘密がある。「繋げる」ではなく「繋がる」。自分から積極的に世界へ向かって「繋がり」を形成していくわけではない。「繋がる」のを待っている。それも積極的に待つのではなく、ぼんやりと待っている。「するとなんだか」という、なんともとらえどころのない時間、どこからともなくやってくる時間を待っている。
 ただし待っているといっても、それは何かがどこかからやってくるのを待つというのとはかなり違う。「汲み出す」を読むと何を待っているかがわかる。

昼寝から覚めると
一本の鉛筆だけ目に入った。
まだぼんやりで
私の意識には
鉛筆だけがあった。
私の記憶にもまた
鉛筆だけしかなかった。

鉛筆は書く為の道具であることを
寝起きの私は知っていた。
それ以外のことは知らなかった。
だから私は書くことにした。
髪が見当らなかったので
机に直接書くことにした。
すると思いがけないことに私は
たくさんの言葉を知っていて
するすると文字が溢れ出し
長々と列を成した。
意味を持たない落書きだったが
私すら意識できない
私自身なのだった。

 小川が「繋がる」ことを待っているのは「私すら意識できない/私自身なのだった」。「思いがけないことには」ということばがあるが、この「思いがけないことには」は「紫陽花」の「するとなんだか」に似ている。「汲み出す」にある表現を手がかりに読めば、「思いがけないことに」とは「意識」しなかったことだが、という意味になるだろう。「するとなんだか」は明確に「意識」することはできないけれど、という意味になるだろう。
 そうした「意味」とは別に、いま引用した「汲み出す」の部分にはとても重要なことばがある。小川の思想の「キイワード」がある。「直接」ということばだ。それこそ小川は意識していないだろうけれど、「直接」は小川の思想の核心である。小川自身にはあたりまえすぎて説明のしようのないこと、説明することを忘れてしまっている「思い」の核心、いつでも「思い」を動かしていく核心が「直接」にある。
 「紫陽花」に戻っていえば、「するとなんだか/繋がるじゃないか。」というとき、繋がるものは「私すら意識できない/私自身」であり、その繋がりは「仲介者」を持たない。何かをあいだに挟んで繋がるのではなく「直接」繋がるのだ。それもたとえば「紫陽花」という世界のなかの存在のひとつに繋がるのではなく、世界まるごと、世界全体につながるのである。世界の全体に繋がり、その繋がりのなかで、意識はたとえばある一瞬に「紫陽花」になり、同時に「池」にも「小波」にもなる。
 こうした世界全体との一瞬のうちの繋がり、同時に世界を構成するそれぞれの存在との一瞬のうちの繋がりを、小川は「予感」と呼んでいる。
 「予感」とは視覚でも聴覚でも触覚でも嗅覚でもない。すべてを統合し、融合した、混沌としたもの、混沌としないながら明瞭なものである。そしてそれはいつでも「私すら意識できない/私自身」のことである。
 小川のことばには、その「予感」、「予感」がかならず持っている感覚の統合・融合が静かな形で存在している。静かな形で存在せざるを得ないのは、「予感」は何かしらいまを否定するものだからである。いまとは違う何か、いまを否定して出現する何かだからであろう。
 「滲」のなかに次の行がある。

私は言葉を継ぎながら
心の底で
何かを否定しようとしている。
そうでもしないと
揺らいでしまう。

 「心の底で」はもちろん「意識の底で」という意味だろう。そうであるなら「揺らいでしまう」のは「私すら意識できない/私自身」にほかならない。
 「私すら意識できない/私自身」を何かと直接つながることで、いま、ここに、つまり現実の世界へ掬い出したい(救い出したい)。そんな願い、静かな祈りが深いところで流れている詩集である。

 詩集の「栞」を和合亮一が書いている。私は「栞」の文章にはたいてい違和感を覚える。(この詩集の田野倉康一の文章には違和感を感じた。)しかし和合の文章には違和感はなかった。あ、私と同じように読んでいる人がいる、と実感できた。ただし、和合が「一瞬にして巨大なるものへと繋がっていこう、という驚異的な接続への踏み込み」と表現している部分には、かなり抵抗を感じる。
 「接続への踏み込み」というとき、私はどうしても「私」という主体を感じる。世界、あるいは対象があり、そこへ向けて接続していくという風には、私には感じられない。そういう「現代詩風の自己拡張」(鈴木志郎康風の世界への向き合い方)ではなく、小川の場合は、世界と繋がることでそのつど自己生成をするという感じがする。それまでの自己はその瞬間瞬間消滅し、同時に生成する、という感じがする。「現代詩」というより「俳句」(それも古典俳句)を読んだときのような感じになる。小川の詩を読んだときに最初に感じる「静かさ」の印象は、そこに存在するのが「自己拡張」というような我の主張ではなく、ただ人間は世界とともにある、世界とともに生きている(生かされている)という深い認識のゆえだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小池昌代『地上を渡る声』

2006-04-06 10:24:42 | 詩集
 小池昌代『地上を渡る声』(書肆山田)。
 同じことばが何度か出てくる。「身体」「言葉」「時間」「意味」「わからぬ」など。それが最終的にひとつの「場」へつながる。
 「33」はこの詩集で小池が思いめぐらしてきたことのすべてが美しい形で結晶している。

あのとき彼女が話したことを
わたしはいま
ここに書こうとして うまく書けない
少女は
刺繍の図柄やその意味や始めた動機などを語ったわけではなかった
ひたすら刺繍の時間について語り、その時間のなかの、自分について語っ

「あっ、わたしだ」と私は思った。

 「身体」「言葉」「意味」は「 4」にまず出てくる。鳥を「トリ」と呼ぶのはなぜなのか。種類の違った鳥を、違いを認識したまま同じ「トリ」とことばにできるのはなぜなのか。

トリという言葉の意味はすっかり身体に入っているのです。(略)言葉の意味って、辞書に載っているものとは違う。辞書に載っている言葉は、すべて、言葉の言い換えにすぎない。意味、本質は言葉にできないのだ。それは瞬時にしか把握することしかできないもの。

 「言葉」は「身体」をとおして把握する。頭ではなく、こころでもなく、体で把握する。体で把握したものだから、「言葉」は「言葉」にならない。つまり、書き表すことはできない。ただ身体で納得するしかないものなのだ。
 「身体」で納得する。このことを「5」では、別の表現で小池は書いている。毛糸をまきとる作業を母と二人でやっている姿を描写した作品だ。

一人が輪を持ち、一人が巻き取る。…あのとき、思い出したのです。あの時間を。あの時間が、身体のなかから、するするするする、毛糸のように繰り出されてきたのでした。

 「身体」のなかから「時間」が繰り出される。ある時間が、いま、ここにある身体をとおしてよみがえる。重なり合う。そのとき、身体はその時間の「意味」をことばではなく、身体そのものとして把握する。納得する。
 同じようなことを「11」でも書いている。ウクライナの民話の絵本に出てくる男の足の裏。土で汚れている。その真っ黒な足裏に小池はこころを動かす。

こころがうごいたのは
足の裏の汚れになのか
足の裏を汚している男になのか
足の裏の汚れを描きこんだ画家に対してなのかは、よくわからなかったが
見ていると どういうわけか こころが鎮まる汚れだった

 「よくわからなかった」。しかし、こころが動いた。その動き方は、「鎮まる」という動きだ。これは、身体になじむということだ。こころは、身体のなかで落ち着いた場所をみつける。こころが身体から外へ出ていくのではなく、こころが身体に落ち着く。
 そこには、やはり「時間」が関係している。「11」のつづき。

むかし
家の外と内を隔てる境には
濡れた古雑巾が敷かれていた
子供のわたしは
その上に足をのせ
足裏をこすりつけては汚れをふいた
(ぞうきんで足を拭いてからあがりなさい! )

 過去の「時間」が身体のなかによみがえる。そして、それがウクライナの農民と重なり合う。理解する、わかる、というのは身体のなかの時間が重なり合うことだ。
 「言葉の言い換え」が「意味」ではなく、ある「時間」(体験)を自分自身の身体で繰り返し、そこで納得するもの(納得したもの)が「意味」である。
 「言葉」はしたがって、小池がどういう「時間」を体験したか、身体はどう動いたか。そしてそのとき、こころは落ち着いているか、落ち着いていなかったか、とうことを描写することになる。身体をとおして「時間」が重なり合うものは「わかる」、重なり合わないものが「わからない」。
 さらに重要なのは「わからない」ものに出会い、しかし、こころはその「わからない」ものにむかって動くことがあるということだ。ここに「言葉」を書く意味がある。「詩」を書く意味がある。ことばをとおして「時間」を動かす。「時間」を身体のなかに引き入れる。それが「詩」だ。

 「24」も、おもしろい。電車を乗り過ごし、知らない街に降り立った。そのときの「わたし」とは何者か。

うしなった時間はもうとりかえしがつかない。そう思いながら違和感に襲われた。失った時間? いったい誰が、どのようにして失った時間のこと? あのまま、乗り越さず、きちんと下車したわたしがいる。それならばいまこのホームに発っているのは、いったい誰か。失われたものなど何もなく、分裂と隙間が生じたに過ぎない。

 「違和感」は「わからない」ことに対して起こる。(「わからない」には二種類ある。ウクライナの農民の足裏のように違和感のないものと、乗り過ごした駅での思いのように違和感のあるの、がある。)この違和感について、小池は、もう一度繰り返している。別のことばでとらえ直している。

わたしはわたしに追いつけないまま、そうして永遠に別の道を歩く。

 これを別の角度から見るとどうなるだろうか。もし、わたしがわたしに追いつけた? そこには違和感がない。「わたしがわたしに追いつく」とはどういうことだろうか。
 それはたとえばウクライナの農民の足裏の汚れに、小池自身の幼い時代の体験が重なり合う、そして、その「時間」を身体で受け止める、ということである。
 「わたし」のなかには複数の時間がある。毛糸を巻いた時間もあれば、足裏を汚して遊んだ時間もある。それが過去ではなく、いま、ここに小池の身体をとおしてよみがえる。重なり合う。「分裂」「隙間」の対極、「違和感」の対極にあるのが、そうした時間である。ある時間が、いま、「わたし」に追いついたのだ。この瞬間が「わかる」ということだ。こころが鎮まり、身体が納得するということだ。至福の一瞬だ。

 この至福の一瞬が、最初に引用した「33」に結晶している。
 この「33」がおもしろいのは、その至福の一瞬が、小池の身体のなかから「時間」を引き出すものが、いま、そこにいる他人(少女)ということだ。ウクライナの農民の足裏も他人であるけれど、「33」の少女とは少し違う。少女は実際に生きており、小池と交渉している。
 「生きる」とは、と小池は書いてはないけれど、生きるとは、と私は考えてしまう。生きるとは、小池のこの経験のように、他者に出会い、他者のことばによって、自分自身がもういちど生き返ること。自分のなかにある時間、見落としていた時間を引き出してもらい、自分自身を理解し直し(わかり)、私に追いつくことである。私自身に追いつき、そこからもう一度、私を行きなおすことである、と。
 同じ「33」の部分。

旅人は誰ひとりとして、同じところへは戻れない。あなたは常に、前と違うところへ着地する。
そこから日々を開始するのです。

 小池昌代の新しい出発だ。
 小池は小池に追いついた。そしてこれから小池は小池を追い越していくのだ、と思った。10年に 1度の大傑作の詩集だと確信した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日原正彦「最後の満月」

2006-04-05 16:29:52 | 詩集
 日原正彦「最後の満月」(「部分」30)は、私には相変わらず気持ちが悪い。気持ちが悪いというと日原は怒るが、これはどうしようもない。たぶん私が気持ち悪いと感じる部分を他の読者は快感に感じるだろうと思う。ひとの感受性と、その感じたものをあらわすことばには、それくらいの差異はある。そして、そうした差異があるからこそ、詩という表現も成り立つ。
 私が気持ち悪いと感じる部分を具体的に書いてみる。

とんでもない満月がのぼってきた
あらゆる夜空の思い出からばらばらと外れ落ちてぐちゃりぐちゃり
とあらゆる時代の悪意の顔のうえで潰れたあらゆるまっくらな黄金
の混沌
それを寄せ集め捏ねて固めたような
はかりしれない満月が
闇という闇を食い散らかしながら
計算だらけの明日を怒鳴りつけながら

 私が最初の連で感じる気持ち悪さは「あらゆる」ということばの繰り返しである。「まっくらな黄金」という美しい存在が「あらゆる」の繰り返しにのみこまれ、溺れてしまっている。溺死している。その喘ぎ声を浮かび上がらせるような「あらゆる」の繰り返しが、私にはどうにもなじめない。
 また、「ぐちゃりぐちゃり」ということばは「潰れた」にかかることばと思って読んだが、その「ぐちゃりぐちゃり」から「潰れた」までの距離、時間が、また気持ちが悪い。「あらゆる」のことばの繰り返しの感覚の距離、時間と「ぐちゃりぐゃり」と「潰れた」までの距離、時間がぴったり相似形であるという印象があって、それもまた気持ちが悪い。
 というか、「あらゆる」の繰り返しのリズムと「ぐちりゃぐちゃり」「潰れた」の間隔、距離、時間のリズムがあまりにも正確に重なりすぎるので、いったいどれを見たのか(何が見えたのか)がわからなくなる。それも体の奥のリズムをねじまげられたためにわからなくなった、というような、いやあな感じが残る。
 これは逆に言えば(たぶん日原のリズムを快感と感じる人に言わせれば)、読者の体になじんだリズムを日原のリズムに引き寄せ、作り替えてしまうことばの粘着力の強さが魅力だということになるかもしれない。

 たぶんこういう詩はモーツァルトの音楽と同様、読者(聴く人)の体調と関係があるかもしれない。私は体調がいいときはモーツァルトの繰り返しはとても快感だが、体調が悪いときはいやでいやでたまらない。私が日原の詩を読むときは、きまって体調が悪いのかもしれない。

 もうひとつ、気持ちが悪いと感じる部分。2連目の書き出しの 2行。

何十本もの青ざめた饂飩のような貧血高層ビルを呑み込んだ
約一兆トンのグレープフルーツの輪切りのような満月だ

 「饂飩」と「グレープフルーツ」の取り合わせが、私には気持ち悪い。私は饂飩もグレープフルーツも好きだから、実は、その取り合わせではなく、本当は別のことばが気持ち悪いのだ。「何十本」と「約一兆トン」の取り合わせがいやなのだ。「何十本」は想像できる。ゆで上がると青く透き通る(青ざめる?)饂飩は想像できるが、「約一兆トン」が想像できず、非常に気持ちが悪い。

 想像できるものと想像できないものが同居している。それが私の感じる気持ち悪さの原因かもしれない。最初の連に戻れば「あらゆる」の繰り返しで「あらゆる」が目の前に浮かんだときは「ぐちゃりぐちゃり」と「潰れた」は一緒には浮かんでこない。「ぐちゃりぐちゃり」か「潰れた」かのどちらだけかが浮かび上がってくる。「ぐちゃりぐちゃり」と「潰れた」の距離、時間そのままに、どちらかが遠くなってしまう。二つが結びつかない。「ぐちゃりぐちゃり」は「潰れた」を修飾しているのだと意識すると「あらゆる」が 3回繰り返されているということがどこかへ消えてしまう。
 どのことばのリズムも掴みきれない。かならず私の意識できないところで何か不思議な音が存在する、という気持ち悪さがある。



 三井喬子「球体」(「部分」30)は途中からリズムが単調になる。前半の

球体を、採っては入れ、採っては入れ、止むことのない労役だ。
人殺しをしたわたしの罰の仕事だ。殺した理由もいかにして殺し
たのかも覚えていないが、男は死んだ。
その責はわたしにある。死んでしまえと言った記憶があるからだ。
ああ、どうしてそう思ったのだろう。どうやって殺したのだろう。
記憶にない部分が、わたしを責め立てる。

 常に自分にかえってきて、それからふたたび外へ出ていくという交渉が、後半はひたすら外部へ外部へと突っ走る。
 こういう作品こそ、日原がみせたような繰り返し、あるいは相似形の重ね合わせと、ズレ、というものがあると濃密な感じがすると思うのだが……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辻井喬「ミネルヴァの梟」

2006-04-04 23:44:14 | 詩集
 辻井喬「ミネルヴァの梟」(「現代詩手帖」4月号)。
 3連目が印象的だ。

いま閉ざされた空間に開いた白い穴は
地表に着いて芥箱や下水口の蓋や
港の桟橋や寺の反った屋根を覆い
ながい時間ぼくを動けなくしていた
意味の世界をすっかり見えなくして
だれの所有でもない想像力を解き放つのだ

 「だれの所有でもない想像力」とは何か。想像するものが何であれ、辻井が想像するとき、その想像力は辻井のものである。辻井が他人のことばを借りて想像すれば、それは辻井の想像力というより、そのことばを発したものの想像力だろう。
 ところが辻井は、そうは考えない。
 4連目に「だれの所有でもない想像力」の具体例が書かれている。

高い山巓の連なりの麓に
赤いトタン屋根の家が一軒二軒と見える
その下で子供が眠っているのだが
太郎でも次郎でもないことだけは確かだ

 これはもちろん三好達治の詩を踏まえての行である。しかし、それを辻井は「誰の所有でもない想像力」と呼ぶ。なぜか。三好達治のことばは三好が詩を書いた瞬間は三好のことば、三好の想像力がとらえた世界であるが、いったん詩になってしまうと、それは読者に共有されたものになる。文学は共有される。共有の思想になる。
 この行につづく次の5行はどうだろうか。

ゲームに疲れ三度の食事という週間もなくした
かれらは理想という言葉が残っていた時代の孫
両親は都会へ行ったままだから
こんな時代にすやすや眠り続けているのは
まだ幼いからだけなのだろう

 これは辻井の想像力である。しかし、それをも辻井は「誰の所有でもない想像力」と呼んでいる。辻井は共有の想像力、あるいは辻井の独創ではなく誰かが想像したものであるかもしれない想像力と呼んでいる。時代に共有された想像力と呼んでいる。
 こうした姿勢、辻井のことばなのに、それを辻井自身の想像力ではなく「誰の所有でもない想像力」と呼ぶところに、辻井のことばの大きな特徴があると思う。

 多くの詩人が「ことば」を詩人自身の固有のものと考えるのに対して、辻井はことばを辻井をとりまく時代、ともにその時代を生きる人々全体に所有されているものと考える。だから辻井は、時代と、その時代に生きた人々、つまり「歴史」を描く。
 ことばはその国の思想の到達点と定義したのは三木清だったと思うが、辻井もそう考えるのだと思う。
 そして、そのことばが「日本語」ではなく外国のことばで書かれたものである場合は、それは「世界」の思想の到達点ということになるかもしれない。
 自分の時代、歴史を描き、その空間と時間を世界規模へと広げていく辻井。それは現代の必然的な精神の運動かもしれない。

 この作品にはタイトルのことば、ヘーゲルだけでなく「ゴドー」(ベケット)も登場する。世界は、個人の想像力だけではとらえられない。複数の個人、複数の視点の想像力がからみあい、全体を運動として浮かび上がらせるしかない。辻井の作品が骨太の構想、とうとうとした時代の流れのなかで展開される根拠(?)のようなものを、「誰の所有でもいな想像力を解き放つのだ」という一行は明らかにしていると思う。その行に、辻井の思想の核が露出していると思う。

  辻井は「時代」をいま生きている人々と共有するために詩を書いている、というべきか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋博子『時の公園』

2006-04-03 13:02:02 | 詩集
 高橋博子『時の公園』(編集工房ノア)。
 高橋はどんな気持ちで詩を書いている。「春」に高橋の詩にかける思いが静かに語られている。冒頭を飾るにふさわしい作品だ。

私は樹のメッセージを受け取った
数えきれない季節を
幾層にもふり積もらせた地中で
地上と同じ相似形にひかる毛根たちから
やわらかく点滅する樹のことば
なぞっていくとここ何年も
忙しさを理由におろそかにしてきた
私のなかの私の樹がよみがえる

 「私のなかの樹」それをことばにする。それが高橋にとっての詩である。木の姿を描くとき、高橋は地上の姿だけではなく地中の根に思いを巡らしている。地中に存在する根によって木がいまある形であることを知っている。それは同時に高橋のありようでもあるだろう。外から見える姿、それと相似形をなしている高橋の内部。内部をくぐることで、外に出てくることばは輝く。詩になる。そういうものを書きたい、という気持ちがあふれた行だ。
 正直なこころがまっすぐに出てくる美しい作品がたくさんある。「あなたに**」は耳の不自由な若い母親に贈ることばだ。

あっ 今赤ちゃんが
あなたを見上げて笑いかけたでしょう
もをあなたの子供になりきっているのですよ
そう伝える私に
あなたは嬉しそうに微笑む

焦りや不安や苦しみは
好きという言葉に置き換えて
呪文のように唱えてみたらどうかしら
あなたの赤ちゃんが
答えをくれると思うけど

 高橋もまた焦りや不安や苦しみを好きということばに置き換えて子育てをしてきたのだろう。どんな母親も同じだろう。その体験を自分のことばで語る。ひとができることは自分の体験を自分のことばで語ることだけだ。それが相手に届こうと届くまいと、そうするしかない。高橋は、そのことばを静かに静かに差し出す。その差し出し方に、高橋の生きてきた時間のふくよかな広がりがある。
 この作品には若い母親の反応は書かれていない。書かれていないが、安心して微笑むその顔、その目の色が浮かんでくる。それがわかるのは、高橋の、そのことばを読むとき、私自身のなかに安心が広がり、思わず、「ありがとう」とささやく私がいるからだ。私は「若い母親」ではないが、そのとき若い母親になってしまう。
 ほんとうにありがとう。「焦りや……」の行に出会えたのは、きょうの喜びだ。
 ああ、そうなんだ。焦りや不安や苦しみを感じたら、それを「好き」と言ってみよう。子育てではなくても、それは何か、私を新しい世界へ連れて行ってくれるだろう。そんな気持ちにさせられる。

 高橋の作品には「あなたに**」にかぎらず、いつも他者(他人)が登場する。その他人は「あなたに**」のように必ずしも幸福で健康なひととはかぎらない。しかしそれなのに、そのひとの幸せ、こころの正直さのようなものがいつもあふれている。高橋は、他人のなかに生きている正直なこころの美しさ、強さを大切にすくいあげる。病院の 3人部屋のひとを描いた「空の話」、水俣病の患者を見守る野仏を描いた「野仏の語りごと」のような作品はもちろんだが、ある日、ネコのしっぽの落とし物(?)をみつけ、それを自分でつけてみたという「ネコのしっぽ」にも不思議な他人を抱擁する力がある。

むこうから
顔見知りの主婦がやってきた
いつものように長引く自慢話
長めのしっぽを左右に振りながら聞いていると
その人のかなしみが透けてみえる
いつもよりあいづち上手になっていた

 「ネコのしっぽ」は「あなたに**」の「好き」という呪文のようなものかもしれない。好きといって相手を抱き締める。ぎゅーっとではなく、そっと、抱いているのがわからさないくらいにそっと。すると何かがわかる。好きと誰かに言ってもらいたいという「かなしみ」かもしれない。それは高橋自身にもある気持ちだろう。自分のなかにある気持ちだからこそ、そのひとがこころの奥にしまっているかなしみ、木ならば地中に隠している地上と相似形のいのちがわかるのだろう。

 高橋の作品は高橋自身が母親だからだろうけれど、母親の視線がとてもあたたかい。そしてその視線は、高橋がごく自然にであう「街」だけではなく、同じ姿勢のまま世界へもつながっていく。アフガンへもバグダッドへもつづいていく。その静かな広がりはとても美しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャック・デリダ『触覚』

2006-04-02 12:55:51 | その他(音楽、小説etc)
 ジャック・デリダ『触覚』(青土社)。
 「われわれの目が触れ合うときは、昼か夜か」をめぐる考察。それを突き進めるに当たって、デリダは次のように書く。

 私は、無限、すなわち経験そのものの時間に備えた、無限の忍耐力を発揮しようとした。

 ここにデリダの「詩」(あるいは思想)の基本がある。「経験そのものの無限の時間」。彼は経験のなかで「目が触れ合うとき」を調べ尽くす。どうことばにできるかを「無限の忍耐」で書き始める。

 眼は触れ合うことができるようになるのか、唇のように押しつけあうことができるようになるのか。
 唇は眼のどの表面と比べられるのか。ふたつの眼差しが眼で見つめ合うとき、二つの眼は触れ合っているということができるのか。両者は接触に至っているのか--互いに。もし接触がつねに二つのXのあいだに生じるものだとすれば、接触とは何か。遮断するものが隠され、閉ざされ、秘密にされ、署名され、押し込められ、締め付けられ、押さえつけられているのか。

 こうした激しく経験へきりこんでいく質問は、それだけで想像力を刺激する。デリダがどういう「こたえ」を引き出すがではなく、どんなふうに質問を繰り返しうるかということが「詩」となって輝きだすのがわかる。

 そして、きょうのそのとき、わたしのなかに、デリダのことばに誘われて別のことばが動き始める。「眼は触れ合うことができるようになるのか、唇のように誘い合うことができるようになるのか。離れている存在が互いの引力を放出する。それを感じるとき、すでに接触は始まっているのか。誘う力はどこから放出されるのか。何が放出するのか。その運動に、私の肉体の、私の感性の何が作用しているのか。」
 ふいに詩を書きたくなる。ことばを動かしたくなる。ことばがどこまで動いていけるのか知りたくなる。
 読み出したばかりだが、そうした衝動をかりたてる一冊である。



 ふいに大岡信の「さわる」を思い出す。(引用は「現代詩文庫24 大岡信詩集」から)

さわる。
木目の汁にさわる。
女のはるかな曲線にさわる。
ビルディングの砂に住む乾きにさわる。
色情的な音楽ののどもとにさわる。
さわる。
さわることは見ることか おとこよ。

 大岡もまた「見ること」と「さわる」を結びつけている。

 この、大岡が「さわる」とひらがなで書いた部分を漢字にすると、奇妙な連想がはじまるす。「色情的な音楽ののどもと」という肉体的な表現に誘われて、私のなかでことばが動きだす。

 触る。こころに触る。気に障る。そして、この「障る」は障害を連想させ、そこからデリダの書いていた「遮断」「閉ざす」「隠す」へともことばが動く。
 触ると触れるはどう違うか。気が「ふれる」は気が触れると書くのか、気が振れると書くのか。あるいは気が降れると書いたときは、私の目は、想像力の目は何を見つめ、私の肉体は内部の何に触れているのだろうか。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする