詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『穴』(その3)

2006-10-21 14:32:26 | 詩集
 粒来哲蔵』(書肆山田)。(その3)
 「五右衛門偽伝」。この作品については同人誌に発表されたときに感想を書いた。しかし、もう一度書いてみたい。何度でも感想を書きたくなる楽しい作品である。
 「偽伝」とことわっているように、ここにかかれていることは「真実」ではない。「偽」も巧妙な偽、本物と間違えそうな偽物ではなく、はっきり偽とわかる書き方をしている。たとえば、五右衛門が大坂城に侵入したとき。

 宿直(トノイ)の侍「賊来タレリ。」ト叫ブヤ、襖(フスマ)の陰、畳ノ隙間、障子ノ桟カラ、刀槍薙刀(ナギナタ)ノ類、鉢巻ヲ伴ッテ現ル。鉄砲、大砲、バズーカ砲、遂ニハ戦車、劣化ウラン弾モ出テトドマルトコロヲ知ラズ。

 秀吉の時代、五右衛門の時代に戦車やバズーカ砲、劣化ウラン弾があるはずもない。あるはずもないのに書く。偽物であることをはっきりさせるためである。同時に、単に偽物であることをはっきりさせるためではなく、ことばを楽しむためである。戦車もバズーカ砲、劣化ウラン弾もことばとして存在するだけではなく、現実に存在するものだけれど、それが詩のなかに現れることはめったにない。詩は自由なようでいて、そんなに自由ではない。
 つかいたいけれど、つかい方がわからないことば、つかうタイミングがわからないことばというものもある。そういうものも、粒来は自在につかってみせる。
 五右衛門が油ゆでになるシーン。

 五右衛門素早ク低温殺菌ノ術ヲ行イ、油熱ヲ鎮メ適温トナシ、入リテ鼻唄ヲ歌イ、タオルデ首筋ヲ拭イ、果テハ軽クタップヲ踏ム。釜底割レテ油流レ、五右衛門裸ノママ零(コボ)レ出テ、衆目ニフグリヲ曝(サラ)ス。手ニ余ッテ押サエキレズ。観衆ヨリ「タマヤー! 」ノ声カカル。五右衛門赤面シツツ手ヲ振ル。時ニ文禄三年八月二十三日也。

 「タマヤー! 」はもちろん大輪の花火にかける掛け声である。しかし、こんな掛け声は素人にはかけにくい。タイミングがわからない。歌舞伎の掛け声も同じである。一度はやってみたいが、やはりできない。そんなことばが世の中にはある。それをここでは、五右衛門の大きな「ふぐり」に対して発している。「タマヤー! 」のなかには驚嘆と笑いもある。こんなふうにことばを自在につかえたら、世の中は楽しくなるだろう。
 そういう「お遊び」もこの作品のなかにはある。

 そして、こうした自在な遊び、自在な言語の運動が、漢文体で書かれているのも魅力である。漢文体ならではの省略、スピードが随所にあふれている。「衆目ニフグリヲ曝(サラ)ス。手ニ余ッテ押サエキレズ。観衆ヨリ「タマヤー! 」ノ声カカル。五右衛門赤面シツツ手ヲ振ル。」の短文の積み重ねもそうした類のものである。

 「想像力」は現実をゆがめる力、と10月19日の日記に書いた。
 そのゆがめる力を力として具体化するためには「文体」がいる。「文体」が成立するためには、ことばと対象の距離を一定にすること、その一定を維持する「物差し」が必要である、とは20日の日記に書いたことである。
 粒来は、「五右衛門偽伝」では「漢文体」を「物差し」としてつかっている。漢文には漢文のリズムがある。そのリズムがあれば、ことばは安定して動いてみえる。伝統として読者のなかに存在するものを、ことばの「容器」としてつかっている。
 そうやってリズムを一定にしておいて、そのリズムの「容器」のなかにバズーカ砲、劣化ウラン弾もぶちこめば、「タマヤー! 」という遊びもぶち込む。
 日本語はこういうこともできる。「詩」はこういうこともできるのである。

 こうしたことができるのは、もちろん粒来にしっかりした「文体」があるからである。叩いても壊れない「文体」があるからである。
 土台の「文体」ががっしりしているから、どんなことばでも取り込むことができる。取り込みながらことばを自在に動かしていくことができる。
 「想像力」とは現実をゆがめる力である。ただし、それをゆがめるためには強固な文体が必要である。文体が軟弱なら、現実をゆがめる前に、ことばそのものがゆがんでいってしまう。

 「鉈」のことばの動きが粒来の基本的な文体であると思う。粒来はしかし、「穴」のような文体も「五右衛門偽伝」のような文体も自在につかいこなすことができる。そして、ゆるぎのない文体こそが「詩」なのだと実感させてくれる。「文体」の力こそが「詩」なのだと実感させてくれる。

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粒来哲蔵『穴』(その2)

2006-10-20 23:17:20 | 詩集
 粒来哲蔵』(書肆山田)。(その2)
 「穴」は「墓穴」のことである。「おれ」はどうやら死んでしまっている。それなのに「おれ」は誰かと対話する。死んでしまっても意識がある、という点では「鉈」に近い世界である。
 作品は次のように始まる。

穴がある、という。--見ると成程穴なので用心する。

穴がある、という。おれは--わかっている、という。

 この作品が魅力的なのは、「おれ」と誰かの対話がゆっくりと進んでいく点にある。読み通せば、この作品が「墓穴」に埋められる人間と、埋める人間の対話であることがわかるのだが、その対話の住み具合が、とてもゆっくりしている。「穴がある、という。おれは--わかっている、という。」という行は、まるで現実で何かをすることを拒んでいるときにいう「わかっている」(いまは、それをしたくない)ということばの響きにとても似ている。ここでは「時間」が遅延させられているのである。
 想像力を「現実をゆがめるちから」ときのう書いたが、きょうは「想像力とは時間の動きをゆがめる力」と書いてみよう。
 ことばによって時間はどんな動きでも墓穴を掘って埋めるまでを1行で書くこともできれば、粒来のように何行にもわけて書くこともできる。そんな操作ができるのは「想像力」である。
 もちろん、その「ゆがみ」が不定形であったら、とても「時間がゆがめられた」という印象にはならないだろう。「でたらめ」と思うだけだろう。時間の進み方は時計の秒針のように均等で、なおかつゆっくり進むとき、そこに「ゆがみ」が生まれる。「ゆがみ」は矛盾したいい方になるが「正しく」ゆがまなければならない。一定の距離感でゆがまなければならない。「想像力」の物差しは一定でなければならない。
 この作品で、粒来は、そうした「物差し」を、1行ずつ、誰かと「おれ」との対話で校正することによって提示している。誰かと「おれ」という一定の関係が繰り返されることによって、その繰り返しのなかから「物差し」が生まれる。そして、その「物差し」をつかい続けることによって、その「ゆがみ」が正確なゆがみであるということが明らかになり、正確であるがゆえに、信頼に足るものになる。つまり、粒来の書いていることが、死んだ人と誰かの対話という日常ではありえないことなのに、ことばの上ではあってもかまわないものとして立ち上がってくる。

 「物差し」を一定にする。対象と自己との距離を一定にする。これは、詩にしろ、散文にしろ、「文章」の基本的なことではあるのだけれど、こういう基本が守られていない作品が多いように思う。
 粒来のようなベテラン詩人の作品に対して「物差し」がしっかりしている、安定していると評価するのは、いわずもがなのことになってしまうが、こんなふうに正確な「物差し」のリズムに出会うと、やはり、そのことを書いておかなければと思ってしまう。
 粒来の書いている世界は「死後の世界(?)」というようなものであり、それは一種の非現実なのだが、それが現実のように迫ってくるのは、この「物差し」の正確さのためなのである。
 ゆっくり始まった時間は、最後までゆっくり進んでいく。一度もスピードを上げない。一度もスピードを落とさない。
 その絶妙な正確さがことばのなかに存在するからこそ、最後の「急に糞がしたくなる」がおかしい。笑ってしまう。死んだ人間と、それを墓に埋めようとする人との対話自体がおかしいといえばおかしいが、それが最後の「急に糞がしたくなる」によっていっそう強まる。



 「物差し」のついでに。

穴がある、という。--見ると成程穴なので用心する。

穴がある、という。おれは--わかっている、という。

 このとき「穴がある」と言っている人間は誰なのか。それは最後までわからない。明かされない。明かされないけれど、対話を通して、その誰かが「おれ」にとっては何らかの親しみのある関係であることがわかる。
 問いかけの気楽さ、返答の気楽さ。そこから浮かび上がる親密感。それも最初から最後まで変わらない。
 「物差し」にはいろいろな種類があり、からみあって作品の世界をつくっている。「親密感」「親しさ」という「物差し」をずーっと目撃し続ける(読み続ける)からこそ、「急に糞がしたくなる」というような、気の置けない相手にしか言わないようなことばが登場しても違和感がない。軽い笑い、軽いおかしさとなる。

 軽く書き流した風に読んでしまう作品だが、細部にまで配慮が行き届いたすばらしい作品だと思う。詩集の表題にしている理由も、なるほどなあ、と納得してしまう。


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粒来哲蔵『穴』(その1)

2006-10-19 23:42:25 | 詩集
 粒来哲蔵』(書肆山田)。(その1)
 冒頭の「鉈(なた)」という作品に不思議なことばが出てくる。ほとんど終わりに近い部分である。

 死んだ男の夢の中で、空一面眩いばかりに吊り下げられた鉈の刃が光っていた。

 「死んだ男の夢の中で」。
 死んだ男は夢を見るだろうか。死んだあと、意識はない、と考えるのが普通の考えだろう。意識がなければ夢は見ない。
 それでも私たちは「死んだ男の夢の中で」ということばを受け入れることができる。死んだ男が夢を見てもかまわないと考えることができる。想像力は現実を否定して動く。現実を否定し、ゆがめる力が想像力といってもいい。そして、この現実をゆがめる力、その力によって動いていくことばが「詩」である。粒来の「詩」である。

 現実をゆがめる、とは、別のことばで言えば、かならず現実に触れているということである。現実とつながっているということである。接触から現実がゆがみはじめるのである。接触がなければ、現実は常に自己の外部にあり、ゆがむことはない。ゆがませることはできない。接触が現実と自己との境目で作用するのである。現実をゆがめると私は書いてきたが、その接触を境にして、現実がゆがむのか、それとも自己の方がゆがむのか、あるいは両方がゆがむのか、それは判然とはしない。判然としないゆがみのなかを、ゆがみとなって動いていくのが想像力であり、その運動が、粒来の「詩」である。

 接触は、どんなふうに粒来の作品のなかにあらわれている。
 「鉈」は「空に鉈を投げ上げて笑っている男がいた。」で始まる。投げ上げた鉈の「落ちる地点はいつも男の予想を裏切った。」そしてある日、落ちてこなかった。見失なった。その夜、男は女を抱いた。

 男が女を組み敷いた時、再び空から鉈の降る音がした。今度はさすがに男にも確信めいたものが閃いた。男は女をかなぐり捨て、暗夜を一気に走り抜けた。どこという当てはなかったがそこはどこかにあるはずで、そここそが鉈の落下点であるべきだった。やがて男はとある古屋敷の柿の木の下に立っていた。木守りの実が一つだけ梢近くで熟れていた。男はそれを見上げた、とたんに鉈が降ってきて、男の頭蓋を断ち割った。熟れ柿のそれに似た赤いどろどろしたものをちらして男は昏倒した。

 「男が女を組み敷いた」。そこに接触がある。そのとき、男は見失なった鉈の音を聞く。 「鉈が降ってきて、男の頭蓋を断ち割った」。そこに接触がある。自己(男)と男以外のもの(女、鉈)が作用して、男をそれまでの男とは違った存在にする。見失なった鉈の空を切る音が聞こえる(聞くことができる)男に。頭蓋を断ち割られた男に。
 現実がゆがむ前に、男そのものがゆがんでいる。男がそれまでの男ではなくなる。頭蓋が断ち割られた男は、男そのものではなく、「死」になってしまっている。想像力は、ほんとうはそこから始まっている。現実をゆがめる力というよりも、自分が自分でなくなり、自分でなくなったまま現実を見る。そうすると、その現実は、どうしてもそれまで見ていた現実のままではありえない。つまり、ゆがんでいる。
 接触によって始まる変化を受け入れること、その変化を生きることが想像力を生きるということである。

 「詩」はこのときから、あらゆる変化を生きることの「予行演習」のようなものになる。そして、それが「予行演習」のようなものだからこそ、私たちは、そのことばの運動を受け入れる。受け入れながら、人間がどんなふうに変化しうるか、その変化の可能性の領域を、のぞいてみる。粒来のことばにしたがって、ことばがどこまで動いてゆくかをみつめる。
 想像力は現実をゆがめる力であるが、それは実は、自分自身をゆがめる力、ゆがめながらなお存在しつづける力である。

 「死んだ男の夢の中で」と粒来は書いていた。
 粒来のこの詩集には「死」がたくさん登場する。「死」とことばを通して接触し、「死」をゆがめ、同時に「死」を前にして生きている自己をゆがめる。どんなふうに「死」を受け入れるか、というより、どんなふうにしてもう一度「生」をゆがめて、「死」に拮抗できるだけの存在としてとらえられるか、と問うているようでもある。どんなふうにゆがめなおせば、これまでの生は死に拮抗するだけの豊かなものになるのか、と試しているようでもある。
 「死」と拮抗する意識があるからこそ、そのことばには張り、緊張がある。ぐいぐい動いていく力がある。動き続けるものだけがもっている清潔さがある。



 この「鉈」には、一か所、とても奇妙な部分がある。冒頭の一段落の最後の文章。男は鉈を投げ上げては、落ちてくるとそれを拾いに行っているのだが……。

水に落ちた時には男もさすがに取りにいく自分のえげつない恰好を恥じたが、取り戻すとすぐに笑って投げ上げた。

 地上に落ちた鉈を取りにゆくのは平気である。だが水に落ちた鉈を取りにゆくのは恥ずかしい。「えげつない恰好」が恥ずかしい。どういうことだろうか。地上に落ちた鉈を拾い上げる恰好は「えげつな」くはなくて、水に落ちた鉈を拾うときだけ「えげつない」のだろうか。
 なぜ?
 水に体が(服が?)濡れないように、地上とは違った恰好をするから? それとも水に自分の姿を映すから? つまり、自分の姿をみつめることになるから?

 書きたくない何か、書こうとして書けない何かが、この一文の奥に存在するのかもしれない。この作品を読むだけでは、それがどういうものか、まったくわからない。


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八木忠栄「雪はおんおん」

2006-10-18 14:25:43 | 詩(雑誌・同人誌)
 八木忠栄「雪はおんおん」(「現代詩手帖」10月号)。
 どこが好きなのか、問われてわからない詩がある。なんとなくと答えて、それからゆっくり答えを探してみようと思い、そのままになってしまう詩がある。たとえば「現代詩手帖」10月号では、八木忠栄の「雪はおんおん」。

おんおんおんおん
雪はいつどこでだって降っている

 繰り返される2行。そのことばに出会うたびに、「雪はいつどこでだって降っている」ということが、奇妙ないい方になるが、思い出させる。記憶のように、雪が、風景をつれてやってくる。雪が、生活をつれてやってくる。雪というよりも、雪とともにある「時間」がよみがえる。雪の「時間」が積み重なった「歴史」が見えてくる。
 これは私が雪国で育ったためだろうか。もしかすると、八木の書いている雪は雪国で育った人間にしか見えないものかもしれない。
 長い作品で、雪は、後半になるほど魅力的で鮮烈になるが、その鮮烈さが鮮烈であると感じるたびに、なぜか1連目を思い出してしまう。

一列 ゆらゆら
木の橋をわたってくる女たち
思い思いのコートをまとった十数人
かげろうのようになるいてくる
彼女たちには目がない 鼻がない
口もない 耳もない
目がないのにあおむいて泣いている
口がないのにひっそりと笑っている
泣いているのに笑っている
笑っているのに泣いている
藁くずになり ぼろきれになり
おろおろあるき すべってころぶ
すべってころんで またあるき
崩れゆく時間だけをきつく抱きしめ
ゆっくりと ゆらゆら……
おんおんおんおん
雪はいつでもどこだって降っている

 2行目に登場する「女たち」。なぜ、「女たち」なのだろうか。「男たち」ではないのか。それは雪の風土と関係がある。雪国では、女たちは雪に閉じ込められたままだ。もちろん男も閉じ込められるのだが、男はときとして「兵隊サン」(2連目に登場する)として雪のなかからも強制的に徴兵されていく。女はそうしたことがない。(少なくとも日本の歴史においては、そうしたことがない。)女の方が雪の風土そのものとして存在する。雪の風土を肉体として蓄積している。だから、まず「女たち」が登場する。
 「女」を登場させておいて、それから「男」(兵隊サン)を登場させる。そうやって「世界」を少しずつ広げてゆく。そして、広がる世界を、けっして広がらない時間(雪のなかに暮らしている時間、どこにも出て行かない時間、それはことばを変えていえば、自己から出ていかない時間、自己を守り通す時間、他者へと侵入して行かない時間、かもしれない)から見つめなおす。いや、見つめなおすというよりも、広がってゆく世界がなんだかちがうと感じ、ただおろおろする。おろおろしながら、雪が降っている、だから出てゆけない。私の世界は、この雪の降る世界だけ、と泣いて、さまよっている。

 生きるということは「矛盾」を抱えて生きることである。

目がないのにあおむいて泣いている
口がないのにひっそりと笑っている
泣いているのに笑っている
笑っているのに泣いている

 泣くことと笑うことは別のことである。泣くと笑うは「矛盾」した行為である。しかし、その「矛盾」が同居するのが現実である。「矛盾」のなかで、何かが崩れていく。

崩れゆく時間だけをきつく抱きしめ

 その「抱きしめ」るという行為。そこに「女」の生き方がある。崩れてゆく「時間」は現実にはならなかった「時間」である。しかし、それが現実にならなかったからといって存在しなかったことにはならない。女たちの願いは社会には受け入れられず具体的にならなかったが、具体的にならなかった願い、時間のなかに、生き続けているものもある。それがいつよみがえるかわからない。2度とよみがえらないかもしれない。しかし、それがあったことを知らせるために抱くのである。「きつく抱きしめ」の「きつく」は、それを守ろうとする力の表現であり、単に守るだけではなく、抱き締めた「時間」そのものに対して、「抱いているよ」と呼びかける声でもある。

 詩を通して、八木は、そういう時間を抱きしめつづけた女たちに対して、その力、暖かい肉体の力を感じているよ、と返礼しているのかもしれない。だからこそ、まず「女たち」を2行目に書いたのである。
 
 雪に閉じ込められ、さまよい、泣いている女たち。その女たちへの共感が、静かな現実批判となっている詩である。

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指田一「中断」

2006-10-17 23:49:51 | 詩(雑誌・同人誌)
 指田一「中断」(「SPACE」70)。
 「オナニーする?」という一行で始まる詩は、なだらかに動いて行って、3連目から不思議な動きをする。

二階から女がおりてくる
一階の娘のおむつを取り替える
母親より大きくなった娘の口から甘い液がこぼれ
母親が舌

そこまで書いて男(たぶん58歳)は中断した

 そして中断しただけではなく、終わってしまう。この終わり方に私は「詩」を感じた。一種の「満足」のようなものを感じた。嘘がまじらない何か、指田のことばを借りていえば「甘さ」、ゆったりしたものを感じた。
 母親が舌をどうしたのか、どう動いたのかさっぱりわからない。そこから先の動きを書いてはいけないと判断して書くのを中断したのか、指田のことばでは書き表すことができなくて中断したのか、そのこともわからない。わからないけれど、私は、指田は書き表すことができないと判断して中断したのだと強く感じた。ことばを重ねれば、それはそれでなんとか描写や意味にはなるだろう。しかし、そこでは「自然」が消えてしまう。「自然」のかわりに「むり」が生まれる。
 そうした「むり」を指田は嫌ったのだろう。
 1連目にもどって詩を読み返す。

オナニーする?
正直にとは全然ちがう
その時 肌に気持ちよい風がさわって 緑に寄り道し
男は女と寝転んでいたから その時
女は自然に話せた たったひと言だったけれども
する
男の前を 声が振り返った その時
男は肌に気持ちよい風を感じた

 「正直」には「むり」がついてまわるときがある。「むり」に「正直」にふりまうときがある。「むり」をして「正直」であらねばならないときがある。
 そうしたことが指田は嫌いなのだろう。
 「正直」よりも「自然」が好きなのだろう。「むり」な「正直」よりも「自然」な「嘘」がいい。その「自然」とは風のようなものだろう。何かにぶつかれば、しずかに方向をかえる。方向をかえながら、動けるところまで動いていく。動けなくなったら、そこで止まる。
 その「自然」さが「中断」ということだろう。「中断」のなかには「むり」がない。「自然」があるだけである。それが気持ちよさ、何か甘いゆったりした広がりのように感じられるのである。

 1連目に、「自然」き同じくらい美しいことばがある。「寄り道」。これも「むり」とは縁のない動きである。「わざと」ではなく、なんとなく「自然」に寄り道する。「オナニーする?」という質問自体が「寄り道」のようなものだ。何か、ほんとうに問いただしたいものがあって聴いているわけではないだろう。ただ、なんとなく、ふっとことばが体の奥から沸いてきたのだろう。そういうことばは、そのまま、ただ放り出しておけばいい。そこから何かをむりやりひっぱりだしても、何か「むり」がついてまわり、醜くなるだけだろう。
 「むり」になる前に、「自然」のままで、ことばを中断し、中断して放心するということを指田は知っている詩人だと思った。


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ブライアン・デパルマ監督「ブラックダリア」

2006-10-17 21:52:19 | 映画
監督 ブライアン・デパルマ 出演 ジョシュ・ハーネット、スカーレット・ヨハンセン、マイク・ウォルバーグ、ヒラリー・スワンク

 ブライアン・デパルマはこの映画で何を撮りたかったのか。影である。しかもそれは現代の影ではなく50年代の映画のなかにある影である。自然の光ではなく人工の光がつくりだす影--そして、その影によって一見豪華に見える現実という嘘(ここには映画そのものも含まれる)、その関係を描きたかったのである。
 ファイアー(警官)とその愛人(?)の家。訪問したアイスと愛人が階段で会話する場面。あれっ、と思わず声を出しそうになった。壁に影が映っている。それは常識的に考えてあたりまえのことなのだが、その影の映像が異様にくっきりしている。いまどき、こんな影を「無意味」に強調した映像はない。クラシックな映画、セットでライティングして撮った50年代の映画を思わせる影である。(このこのろ映画は影がライトのせいで四方八方に散っているものもある。その当時は影にまでリアリティーを求めなかったということだろう。)
 その時代の影、そして影をつかった表現をデパルマは試みているのだと思う。この影は「無意味」ではなく、この影こそ「意味」なのである。
 影はクライマックスでも印象的に使われる。ファイアーが呼び出されて行ったビル。そこでの殺人。天井で動き回る人間の影をアイスは目撃する。(デパルマが師とあおぐヒチコックに似た映像があると思う。)実際の人間の動きは目撃しない。--ここに、この映画の「カギ」がある。アイスはほとんどのことがらにおいて現実をリアルタイムでは見ていない。起きてしまった現実は見ているが、それが起きる瞬間は直接目撃していない。(ファイアーが殺人をおかす瞬間は、逆に、自分たちが襲われたと勘違いするくらいである。)印象的な動きをする影はそのことを象徴している。
 アイスの捜査は、いわば影を掴む捜査である。影を追い詰め、その影が生まれてくる足元、そこに立っているのが「犯人」である、とアイスは考えている。そんなふうに、この映画の映像は語る。
 そして、ここからが重要である。この映画の、映画としての見どころである。
 影は単に「犯人」の姿を浮かび上がらせているのではない。影はたしかに「犯人」なしでは生まれてこない。しかし影は「犯人」だけでも生まれてこない。光が必要である。光が犯人にぶつかる。そこから影がはじまる。影は光によって動く方向がまったく違うのである。ライトを捜査すれば影は逆の方向へその形をのばすのである。(50年代のセットのライティングについて書いたのは、このことが言いたかったからである。)
 影=犯人は光によって恣意的に操作されている。
 この映画は、アイスがそのことを発見するまでを描いた映画であり、それをことばではなくちゃんと映像として象徴的にも描いている。だからとてもいい映画である--といえるかというと、話はまったく別である。
 つまらない。見え透いている。私はアイス(ジョシュ・ハーネット)と女(スカーレット・ヨハンセン)の階段のシーンで直感的にこの映画の陰の主役は「影」であることに気がついた。(まるで駄洒落だが……)そしてクライマックスともいうべきファイアーが殺されるシーンで、アイスが影しか目撃していないこと、光源によって影が変わることに気がついていないことを知った。
 このクライマックスを境に、映画はアイスがどんな風に光源によって間違った影を見てきたか、だれがどんな光で影を操作していたかを次々に知る。そのなかには信頼していたはずの相棒(ファイアー)と女が含まれる。(銀行強盗の金を隠している、という事実)。その発見の過程は一気呵成といえば一気呵成だが、ご都合主義といえばご都合主義である。驚きも何もない。
 画面全体のセピア風の色調も、影を全体になじませたいと思って操作しているのだろうが、あざとい感じしか残らない。影き光を映像としてストーリーに溶け込ませるなら、もっと丁寧に、影にみとれてしまうくらいの美しい影を、もっと随所に伏線として使わないと、単なる思いつきという印象しか残らない。


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ふじむらまり「つきのひかり」

2006-10-16 23:10:06 | その他(音楽、小説etc)
 ふじむらまり「つきのひかり」(「読売新聞」2006年10月03日夕刊)。
 私は俳句はほとんど読まない。偶然、不思議な句に触れた。

ゆりの木をはなれて白しけふの月
手の甲につきのひかりのおもさあり
白萩やははの言の葉かろからず
秋水にそひ西洋のひとひとり
おもちやかぼちやと思ひしがすこしまよふ
秋風のきのふあさくさへは寄らず
きらきらきら月の桂のしだれけり

 最初の句に私は驚いた。
 月の白さを、その白がユリの花から乖離して空に浮かんだものと見ているのだろう。頭の中に、地上のユリ、天の月、そのふたつを分離し、同時につなぐ秋の透明な空気が広がる。透明とは、遠く離れたものを引き寄せる力のことだと思ったりする。
 しかし、私は何か、体のなかがむずむずするような、不思議な気持ちになる。頭は透明な空気に洗われているのに、体のなかになにかが濁ったまま、取り残されている。体の芯まで透明に染まりきることができない。
 なぜなのだろう。「ゆりの木」。あ、ユリはふじむらには「木」なのか。そして、それが私の感じる「むずむず」と繋がっていると思うのだ。ユリはたしかに背が高い。茎もなかなか太い。足元に咲く花に比べると「木」なのかもしれない。そして、「木」だからこそ、「はなれて」ということばも生きているのだと頭で理解する。「私」(ふじむら)とユリの距離(「木」によって強調される高さ--目、あるいは体との距離)が「はなれて」ということばを引き出しているのだとわかる。私→ユリ→月と動いていく「距離」を「はなれて」ということばのなかで把握しているのだ。なるほどなあ。「はなれて」とは、こんな具合につかうのか、と一瞬、ことばの奥深さに触れた気持ちにもなる。
 しかし、やはり「むずむず」は残ってしまう。頭で納得すればするほど、よけいに「むずむず」が増幅されてしまう感じがする。
 なぜだろう。
 「白し」と「けふの月」がつきすぎているのだと思う。
 「白し」と「けふの月」のあいだに「切れ」があればそうでもないのだろうけれど、べったりとくっついてしまっているために、頭で考えるほど「距離感」がないのだ。
 まったく別の存在が出会った、そしてその「一期一会」に驚いている感じがないのだ。ふたつの存在が出会って、いままでの自分が自分でなくなってしまうという驚きがないのだ。
 「切れ」とは「透明感」、そのふたつを近づけ、衝突させ、そのことによっていままでの「距離感」を否定するもの、新しい「距離感」(あるいは空間的広がり、時間的広がり、つまりは精神的、感覚的広がり)をつくりだしていくものだと思うが、そういう「切れ」が欠けているのだと思う。
 こういう「切れ」はたぶん「頭」ではなく、肉体でつかみ取るもの、自己の存在を、自己以外の存在に同化させてしまって、その同化のなかで、自己を生成しなおすときにつかみ取るものだと思う。そういう肉体の運動がふじむらにはないのかもしれない。

 2句目も不思議である。
 重さを測るとき、私は手の平をつかう。手の平になにかを載せる。手の甲に載せたりはしない。

 3句目もいやな感じがする句である。ふじわらは、「つきのひかり」の7句について彼女自身で解説している。

 秋のひと日、東京・向島の百花園に母とあそんだ。草花や行き交う人々を眺めているうちに、ふと、日本人とは古来よりもののあはれに心魅かれる人々の総称ではないかと思った。
 草花や小さな生き物に心を寄せる気持ちを尊いものと感じた。そしてまた、母の愛情などというものは、目に見えないものでありながら、じつに確かなものであるとも感じられた。
 俳句は目に映るものの他に、目に見えないもの、感じたものを詠むことができる。

 この解説はほとんど3句目の句についての解説(補足説明)といえるものだと思うが、この「頭」で書かれたことばが何か不気味である。
 「俳句は目に映るものの他に、目に見えないもの、感じたものを詠むことができる。」というよりも、俳句は目に見えないはずのものが見えたときに生まれてくるものでないといけないのではないのか。頭で考えると見えない、母の言葉の重さは目に見えないし、手でも測れない--それなのに、目で見え、体で感じてしまう。そしてその錯覚(酩酊)の一瞬から何かが覚醒する、新しい感覚が世界を切り開く、新しい感覚のなかへ自分自身が生まれ変わる、そういう「運動」を575でとらえたのが俳句ではないのかなあ、と思うのだ。

 ふじむらの俳句は私は今回はじめて7句読んだだけなので、こんなことを書いていいのかどうか、自分でも少し疑問に思うのだが(即断しすぎていないかと疑問に思うのだが)、なんだか、ふじむらは頭がよすぎる。頭がよすぎて、頭でことばを動かしてしまうというような印象が残った。





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田代田「どろぼうかささぎ」

2006-10-15 14:52:26 | 詩(雑誌・同人誌)
 田代田「どろぼうかささぎ」(「孑孑」65)。
 田代のことばは逸脱する。その逸脱が田代の「詩」である。

どろぼうかささぎ

梅雨の月
を窓に据え聴いているロッシーニ
序曲集
図書館の借りものである
聴いているがわからないさっぱりわからない
お隣にうりさくならないようにときどきヴォリュームを下げる
下げすぎると全体がもっとわからなくなるうるさくならない
やうに
ヴォリュームを上げる
一度は体験しなくちゃ

これはコトシパラグライダーパイロット級
の免許を取得した幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さんである
このあいだ落ちてはいけないヤマウルシの樹の上に落ちた
幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さんは
スキューバダイビングもやっている
この飽食な時代生きとし生きるうちに様々な体験をしておかなくちゃ
幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さんの信念のようだ
上がったものは必然的に落ちるいや降下する
五井山の頂きから
パラグライダーは降下する地域住民に迷惑をかけないように
間違っても送電線だけは避けるように

 ロッシーニからパラグライダーに逸脱する。そして、その逸脱は「空想」ではなく「現実」への逸脱である。個人的な体験への逸脱である。固有名詞への逸脱である。
 ロッシーニなら誰でも知っている。「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」は誰も知らないといえば語弊があるかもしれないが、彼を知っている読者は少ない。ごく限られている。そのごく限られたものへと田代は逸脱していく。逸脱しながら、そこに個人的な体験、個人的な肉体をもぐりこませる。
 たとえば、今引用した行のなかから「個人的な体験」「個人的な肉体」を指摘すれば、ロッシーニの音楽が「お隣にうるさくならないように」である。田代は自分の好みを主張すると同時に、その好みを貫くときに他人に(お隣に)「うるさくならないように」、「迷惑にならないように」気を配っている。気配りが田代の個人的体験であり、個人的に肉体である。そういう個人的肉体が「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」の個人的に体験・肉体と重なり合う。重なり合うから、その重なり合う部分へと逸脱していく。「地域住民に迷惑をかけないように」。
 この重なり合い具合、ずれ具合に、田代の「詩」がある。
 人間のこころは、別々な場所で同じように動く。たとえば「迷惑をかけないように」という具合に。しかし、そこには「ずれ」がある。「ずれ」のなかに田代と「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」がまったく別人として浮かび上がってくる。そのとき「社会」(世間)が見えてくる。田代は、こうした世間が好きな人間である。世間を通して自分と他者との違いを見つめ、同時に共通する何かを見つける。そして「ああ、やっぱり、だれもかれも、人間なのだなあ」という感慨をひっそりと深めていく。
 「迷惑をかけないように」という部分で重なり合った田代と「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」はさらに、重なりを深めていく。つまり人間の、世間のつきあいを深めていく。先の引用部分のあと、3行省略するが、次のようにつづく。

  紫陽花やパラグライダー犇きぬ

十七才で出会った溺れると犇くという漢字には感動したものである
幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さんは犇いた五井の空から
感動ものですぜ
と空からの風景を熱っぽく語ってくれる
感動という意識からずいぶん遠ざかっている
はじめて見たオンナのアソコに感動したものですぜ
感動とはさうしたものである

 「迷惑をかけないように」、しかし「感動」はしたいのである。感動は個人的なものである。それは個人の感動であるから他人に「迷惑をかける」ことはない……とはいえない。その感動を獲得するために、他者の生活を踏みにじることもあるかもしれない。ロッシーニの音楽の音量が。あるいは墜落するパラグライダーが。
 そんなことを思いながら「感動」とは「はじめて」の体験のことであると、田代は「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」のことばに重ねて考えるのである。はじめて「溺れる」「犇く」という漢字を見て感じた何か、はじめて空から地上を見たときに感じた何か(それこそ、そこには牛が犇いて、漢字になっているのかもしれない)、はじめて「オンナのアソコ」を見たときに感じた何か……。すべてが「はじめて」である。
 こうしたことがらを田代は、抽象的(あるいは形而上学的、芸術的?)に語るのではなく、現実に語られることば、「幡豆郡吉良吉田町消防士の黒部さん」のことばに重ねるように逸脱しながら語る。
 常に世間に逸脱しながら、そこで自分を立ち上がらせる。世間としての自己こそが自立した自己である、という思想=詩が田代の作品である。



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エリベルト・イェペス「ヴェトナム帰還兵のトラウマ」

2006-10-14 15:20:33 | 詩(雑誌・同人誌)
 エリベルト・イェペス「ヴェトナム帰還兵のトラウマ」(越川芳明訳)(「現代詩手帖」10月号)。
 一瞬の描写に鋭い思想がこめられている。

オアハカのミシュテカ族の移民たち
ティファナの
〈ソーナ・ノルテ〉の
酒場の
酔っぱらいども
妖しげなナイトクラブが
ただで出してくれた
レバー炒めを吐き出している
米国のヴェトナム帰還兵たちと
オアハカの移民たち
警察も泥棒も変態も
スリたちも
平等に
吐き気に襲われる

 おわりから2行目の「平等に」。
 このことばの深みは、この詩だけではつたわらないかもしれない。アメリカの国境に近い街。そこにアメリカは楽々と越境してきている。一方、メキシコからアメリカへの越境は簡単ではない。「不平等」がそこには存在する。「不平等」だからこそ、不平等への怒りがさまざまな形で噴出する。「泥棒」「スリ」「変態」。それらは自己を存在させるための明確な方法なのだ。明確すぎるから他人から嫌われる。嫌うということをたてにとって「警察」という自己保存の形も生まれる。そこではあらゆることが「矛盾」として存在し、「矛盾」がエネルギーになっている。「矛盾」は「平等」への渇望が引き起こす運動である。
 見えない「平等」が「不平等」の顕現の奥に横たわっている。「平等」への渇望が中南米の太陽のようにぎらついている。
 そんな場で、誰の目にも見える「平等」は肉体の反応である。体が受け付けないものがある。肉体はそういうものを吐き出して自己の肉体を防御しようとする。「レバー炒め」。それは誰の体にもあわない。そのために誰もが吐き気に襲われている。その瞬間、「国帰還兵」「移民」「警察」「泥棒」「変態」「スリ」の区別はない。区別がないことが「平等」である。

 しかし、この詩は、そんな単純な肉体の「平等」だけを描いているのだろうか。国境を挟んで対立する二つの世界。「不平等」への怒り。そょ一方で、人間は同じ肉体を生きている、腐った(?)レバー炒めを食べれば誰でもが吐き出してしまうという「平等」さ。そんなものを明るみに出すだけなのだろうか。

 「ヴェトナム帰還兵」ということばが指し示すものをしっかりと掴まなければならないのかもしれない。アメリカから出発し、ベトナムに侵入し、そして帰ってきた人間。「越境」の体験者。「越境」することで肉体がかわってしまった人間。
 なぜ彼らはアメリカではなく、国境を越えてメキシコの街にいるのか。メキシコからアメリカへ越境しようとする人がひしめく街にいるのか。「越境」が肉体を新しい世界(それが「天国」か「地獄」かはわからない)へ覚醒させる、幻惑させる、その一瞬の力に酔ってしまうためではないだろうか。
 どこの世界にも、自分が属する世界から「越境」して行きたい欲望に突き動かされる人間がいる。それは「精神」というよりも、ほとんど肉体そのものの欲望である。肉体そのもののの欲望だから制御がきかない。肉体が、「越境」という行動をとってしまうのである。
 「吐き気」。それは人間が異物を吐き出そうとしているのか、それとも異物が人間の肉体を嫌ってみずから出ていこうとしているのか。私はときどきそんな疑問にかられる。特に吐き気がおわったあとの一瞬、その透明な時間に、もしかするとこれは「異物」と私がかってに名付けたものが、私の体を脱出していこうとしていたのではないか。苦しんでいたのは私ではなく「異物」の方であったかもしれない、と一瞬、思う。
 肉体も「異物」も「平等」なのである。
 ヴェトナムという「越境」を体験した肉体には、「レバー炒め」が「異物」であったのか、それとも「レバー炒め」にとって「ヴェトナム帰還兵」の異様な体験をした肉体が「異物」であったのか、それはわからない。
 最初に私は「レバー炒め」が「異物」であり、それは「ヴェトナム帰還兵」にも「移民」にも「警察」にも「泥棒」にも「平等」に作用すると書いたが、それは本当は違っているかもしれない。肉体の反応が同じであるからといって肉体がかかえる問題が同じとは限らないかもしれない。
 「平等」ということばは、一見、肉体の反応する力が誰にでも「平等」にそなわっているような印象を与えるが、そうではないのかもしれない。一見同じ反応に見せかけながら、本当は、それがなぜ「平等」に見えてしまうのかを問うているのかもしれない。「ヴェトナム帰還兵」の肉体と「移民」の肉体が「平等」であっていいのか。それはアメリカへと「越境」することは「ヴェトナム帰還兵」の肉体になることか、という問いにも繋がるかもしれない。「越境」してしまえば、誰もが「平等」に「ヴェトナム帰還兵」になりうるという危険性を、この詩は指摘しているかもしれない。

 「平等に」。その短いことばにこめられている内容は、わかったようでわからない。複雑である。もしかすると「矛盾」している。「矛盾」を内包しているから、それは「思想」なのであり、同時に「詩」なのである。


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デレック・ウォルコット「海が歴史である」

2006-10-13 23:57:32 | 詩(雑誌・同人誌)
 デレック・ウォルコット「海が歴史である」(恒川邦夫訳)(「現代詩手帖」10月号)。
 デレック・ウォルコットはカリブ海セントルシア島生まれの詩人・劇作家と恒川は紹介している。過酷な歴史が詩人の背後にはあるが、過酷さによって磨かれたことばで詩人は現実を絶妙に批判する。「海が歴史である」は島の歴史を踏みにじったものへの怒りが軽蔑の形で噴出している。軽蔑といっても、しかし、侮蔑のことばはつかわない。侮蔑のことばをつかわないことによって、その侮蔑がいっそう強まっている。

君たちのモニュメントはどこ? 君たちの戦争と戦没者は?
君たちの民族の記憶はどこにあるの? みなさん、
あの灰色のドームの下ですよ。海です。海がそれらを
呑み込んでいるのです。海が歴史なのです。

元始、そこには混沌のごとく重い
ねっとり波打つ水がありました。
それから、トンネルの出口に見える明かりのように

カラベル船の灯が現れたのです。
それが「創世記」でした。
それから押し込められた人々の叫び声
糞便、呻き声がありました。

「出エジプト記」です。
珊瑚で接合された骨と骨
鮫の影の祝福に包まれた
モザイク模様、

 自分たちの歴史を他人の歴史で語る。記憶で語る。奴隷船の出現を「創世記」で語る。それは奴隷船こそが「歴史」をつくったという批判である。奴隷船以前にももちろんカリブ海の島に歴史はあるが、その歴史は奴隷船をもっている歴史からはけっして見えない歴史である。だから語らない。奴隷船以前の歴史を理解することばを奴隷船をもっている言語はもっていない。そうした批判がここにはこめられている。
 「創世記」や「出エジプト記」に書かれていることなら英語を話す人間にもわかる。だから「創世記」「出エジプト記」ということばを用いる。カリブの島の人々があじわった苦悩は英語国民にはけっしてわからない。わからないから語らない。英語国民にわかることは英語の歴史が語ることばだけである、という批判がここにはある。

カラベル船の灯が現れたのです。
それが「創世記」でした。

 「カラベル船」と「創世記」とは無関係である。そのあいだには深い深い断絶がある。けっして結びつかないもの、逆に言えば、二つを切り裂くものがそこにはある。しかし、その二つを結びつける。その急激な出会い、唐突な出会いのなかに「詩」がある。「詩」とは衝撃のことである。「カラベル船」と「創世記」がぶつかる衝撃は、それを目撃する人間のこころの衝撃である。
 
 デレック・ウォルコットの「詩」は、そして、その衝突のスピードにある。ゆっくりぶつかるのではない。予告しておいてぶつかるのではない。相手の出現にあわせて、すぐに反撃する。そのスピードのために、衝撃はより強いものになる。
 「間髪を入れず」という表現が日本語にあるが、デレック・ウォルコットの反撃は、その「間髪を入れず」という類のものである。それは

カラベル船の灯が現れたのです。
それが「創世記」でした。

 という短いことば、ことばの短かさに象徴的にあらわれているが、それに先立つ行にも、デレック・ウォルコットの間髪を入れないスピード、反撃の速さがうかがえる。

君たちの民族の記憶はどこにあるの? みなさん、

 原文がどう表記されているのかわからないが、この行の「君たちの民族の記憶はどこにあるの?」と質問した人間はデレック・ウォルコットとは別人である。カリブの島を植民地にした人間のことばである。これに対して「みなさん、」と答えているのはデレック・ウォルコットである。発言者が誰であるかを明確にするなら、

君たちの民族の記憶はどこにあるの? 
みなさん、

 と改行した方がわかりやすいだろう。しかしデレック・ウォルコットは改行しない。前の発言が終わるか終らないかという感じで、すぐに「みなさん、」と反撃し始めるのだ。ここに隠されたスピードがある。スピードの始まりがある。
 しかも、そのスピードは、素早いと同時に、素早さをより強くみせるための忍耐力を持っている。スピードにまかせてまくし立てても反感を買うだけだということを知っているかのようである。あるいは、怒りにまかせて反撃しただけでは衝撃を与えられないということを、デレック・ウォルコットは、あるいは、カリブの島の歴史は感得しているということかもしれない。どう反撃すべきかを、単に言語としてではなく、肉体として知っているということかもしれない。
 デレック・ウォルコットは「みなさん、」とすぐに応答したが、その素早さをいったん押しとどめてゆったりと語り始める。

あの灰色のドームの下ですよ。海です。海がそれらを
呑み込んでいるのです。海が歴史なのです。

 この2行は、それを読んだだけでは意味をなさない。ナンセンスである。デレック・ウォルコットが質問者の質問に怒っているということは、この2行だけではわからない。そういう安心感(?)のようなものをまといながら、意味をなさないことばで人を誘い込む。「今、何を言った?」という疑問を抱かせる。疑問は関心とほとんど同義語である。そうやってひっぱっておいて、ゆっくりと時間を動かし、動き始めたと思ったとたんに

カラベル船の灯が現れたのです。
それが「創世記」でした。

 という短いリズム、トップスピードの言語だけが可能な飛躍に満ちたことばを提出する。弾力の強いゴムを引けるだけ引き絞って、限界で手放したような衝撃的な飛躍。
 このリズムの変化、激しさのなかに「詩」がある。

 そして、この作品は、ほかのことも暗示する。
 この反撃のゆったりかまえて、それから急に変化してみせる方法は、実は、ふいに思いついたものではないということを。繰り返し繰り返し、デレック・ウォルコットは反撃を練ってきたのだ。そうした工夫をできるだけの時間(歴史)がデレック・ウォルコットにはあった。それは逆の言い方をすれば、デレック・ウォルコットをはじめとするカリブの島を苦しめた植民地の時間がそれだけ長かったということである。長い長い被植民地の時間のなかで、デレック・ウォルコットのことばは鍛えられたのである。そして、そのデレック・ウォルコットのことばを鍛えたながい時間の存在そのものが、ここでは語られていないが、実は、デレック・ウォルコットのことばの正確さによって、見えない形で告発されている。

カラベル船の灯が現れたのです。
それが「創世記」でした。

 は巧みな「比喩」を超越した、厳しい告発である。
 ことばを追っただけでは見えてこない告発が潜んだ詩である。


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クラーク・ジョンソン監督「ザ・センチネル/陰謀の星条旗」

2006-10-13 21:27:16 | 映画
監督 クラーク・ジョンソン 出演 マイケル・ダグラス、キーファー・サザーランド、キム・ベイシンガー

 この映画の見どころは前半の「もの」の映像である。たとえば黒塗りの車の生きているようなぬらりとした曲線。それが鏡のように車につけた星条旗の影を抱き込む。そのときの陰影。あるいはホワイトハウスの柱、壁、屋根。太陽の角度によってかわる色の変化。周囲に溶け込まない存在感。そこには空気がない。「もの」(存在)と私(観客)のあいだに広がっていて当然の空気がない。何か直接視覚に飛び込んできて、その存在感のまま脳にはりつく感じがする。ぬるぬるにしろ、ざらざらにしろ、奇妙にべったりと脳の内部へ侵入してきて、「もの」と私とのあいだにある空気、距離感を分断していく。ぶきみである。何らかのカラー処理がしてあるのだと思うが、普通のハリウッド映画にはないざらざらした色が、神経をさかなでするようで、不思議に引き込まれる。
 シークレットサービスの行動も、「もの」のように分断された形で動いていく。シークレットサービスの行動の一瞬一瞬が鉱物のように立ち上がり、それが鉱物のまま流動していくように描かれる。本当はすみずみまで計算され、流れるような行動なのだが、一瞬一瞬が私たちの日常とは違うので、その違いが強烈に立ち上がり、一瞬一瞬に「存在感」がみなぎるのである。
 連続しているものを分断し、「もの」の存在感として描き出す。そして、その存在感の奥に何か、普通のストーリーではない何か、たとえば「陰謀」があると暗示する、この前半の映像は、それなりにおもしろい。
 ただし、こうした「もの」の存在感に拮抗するストーリーというものはありえない。どんなに巧妙にストーリーを仕組んでみても、そういう架空のものは、「もの」の存在感には勝てない。対抗しうるのは役者の存在感だけである。役者の肉体が刻んできた何か、特権的な力以外に、「もの」の存在感に対抗できない。ストーリーが「陰謀」を企ててみせても、そんなものはこわくもなんともない。肉体が、役者の肉体そのものが「陰謀」として立ち上がってこなければ、人間の行動は単なる狂言回しの道具にすぎない。そういうものは見ていて何の発見も引き起こさない。
 映画は非常につまらない。
 ただし、キム・ベイシンガーだけはおもしろい。「もの」の存在感に拮抗してスクリーンにあらわれる。豪華な顔が翳り、華やぎ、苦悩する。その瞬間だけ、スクリーンで映像化されなかった「もの」(この映画で言えば、マイケル・ダグラスとの濃密なセックス)があったということを感じさせる。美女の力というのはすごいものであると、あらためて感心した。
 マイケル・ダグラスはストーリーを追うのに忙しくて、どうしようもない。キム・ベイシンガーとキスをしてみせても、それは映画の演技としてのキスにすぎず、表面的なものである。映画には省かれている時間を肉体が表現しないと、その肉体は、人形とかわりがない。役者の肉体がストーリーを隠してしまうくらいでないと(ストーリーの裏側にある表現されない時間を感じさせないと)、映画は映画になり得ない。単なる簡便な紙芝居である。キーファー・サザーランドも同じである。マイケル・ダグラスにはまだ肉体を鍛えているという涙ぐましい苦労が感じられて、それはそれでおもしろいが、キーファー・サザーランドにはそんな肉体のかけらもない。

 この映画に「詩」があるとすれば、前半の「もの」の存在感をつたえる断片的な映像と、キム・ベイシンガーの美貌だけである。

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豊原清明「優しい珈琲も震えて」

2006-10-12 23:28:06 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「優しい珈琲も震えて」(「ポエームTAMA」31)。
 豊原のことばは私の想像の領域を超えて動く。たとえば

ああ。と悲観しては
魂の涙に、
メ、がきえていくのだ
この、メ、は、目であるから
清くあって欲しいと誰もが思い、
しかし、涙は流れていくのです。
涙が、突き刺さって、メが消えていく

 これは作品の後半部分の引用だが、この全体が私の想像の領域を超えるが、とりわけ、「清くあって欲しいと誰もが思い、」に驚く。特に「誰もが思い、」の「誰もが」にびっくりしてしまう。
 清原は、どこかで他人を信じきっている。しかも、その信頼は、人間は結局は清らかであるという信頼である。その信じきっていることが「誰もが」ということばに象徴されている。
 目は清らかであって欲しいとたしかに私は思う。しかし、その思いが「誰もが」と言ってしまえるほど他人に共有されているとは私には思えない。ところが豊原は「誰もが」と言い切る。
 この無防備な信頼、人間への共感に「詩」があるのだ。
 人間への信頼があるからこそ、次のような行も書くことができる。(先に引用した部分より前に書かれた行である。)

祖母が死に、母が病む。
それでも顔色を変えずに
口笛吹いて、
ごまかしている。

 ごまかしているのは、他人を、であり、同時に、自分を、である。そして、そういうことは、ことばにしなくても「誰もが」わかっている。わかっているという自覚があるから、「魂の涙に、」という純粋なことばが生まれてくる。
 「清くあって欲しい」と「誰もが思」う目を突き破って、というか、目を否定して「魂の涙」が流れる。私を(豊原を)、そして豊原のまわりの他人を、ごまかしてしまったことを悲しむ魂の涙が、溢れてくる。

 この純粋なことばを、私は、どんなふうに紹介していいのかわからない。どんなふうに書いてみても、私のことばは豊原のことばを汚すだけだろう。ひとりでも多くの読者が、豊原の「優しい珈琲も震えて」を読んでくれることを願うだけてある。


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池井昌樹「虫飼の子」

2006-10-11 14:43:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 池井昌樹「虫飼の子」(読売新聞 2006年10月10日)
 息子の視点から描いた自画像である。「虫」とは「詩」である。詩人を「虫飼」と池井は息子に呼ばせている。

ちちは虫飼(むしかい)らしいのだけれど
虫飼うところをみたことがない
まいあさおんなじじかんにおきて
いつものようにおかわりをして
いってきますとうちをでて
それからなにをしているんだろう
どこでどうしているんだろう
まいばんおんなじじかんにもどり
いつものようにさけをのみ
いつものようによいつぶれ
いきててなにがたのしいんだろう
あんなやつ
ちちなんかじゃない
いつものようにムカツキながら
ねむりにつくと
虫籠(むしかご)に
ほのぼのとあかりがさして
だれなんだろう
ききほれている
いっしんにききほれている
あのねいろ
あのひとと
いつかどこかでであったような
めざめれば
ちちはいなくて

 「ちち」は3回出てくるが、そのたびに「ちち」ということばが指し示すものが違っている。最初の「ちち」は普通の紹介である。何の意味も含まれていない。「指示代名詞」のようなものである。2回目の「ちち」には批判が含まれている。こうした紹介と反発は、少年にありがちな「ちち」への向き合い方である。
 3回目の「ちち」には池井の願いがこめられている。「ちちはいなくて」と息子の思いを池井は代弁しているが、その「いない」という感覚は、夢のなかで「ちち」とであっているからこそ生まれることばである。
 現実には息子と「ちち」の和解(?)はないのかもしれない。しかし、いつか、どこかで和解はある。息子と「ちち」は人と人として出会う。
 「ちち」と池井は、また、息子の夢のなかのできごとのようにして出会ってきたのだろう。「ちち」とは詩人のことである。それが「だれ」であるかは、池井にはあまり問題ではない。何をしているかが問題である。「ちち」は何をしているか。

ききほれている
いっしんにききほれている

 2度繰り返される「ききほれている」。そのことばの「ほれている」。さらにそれを強調する「いっしんに」。そのことばのなかに池井は詩人の姿を見ている。我を忘れている。我を失っている。詩人とは我を失って、無防備で存在することができる人のことである。それは池井の理想であり、池井の実践である。
 「いつかどこかでであったような」。
 詩人はだれであっても「いっしんに」「ほれている」という状態を生きている。それはある特定の人物ではなく、特定の「状態」なのである。だからこそ「いつか」「どこか」ということばが生まれる。「いつか」「どこか」は「いつでも」「どこでも」と同じである。いつでも、どこでも、人が放心し(「いっしんに」と「放心」は池井のなかでは同じ意味のことばである)、何かに熱中していれば、そのとき人は詩人である。

 こうしたいつもながらの池井のことばを追いながら、私は、そういう「意味」の部分ではなく、実は、それとは違う部分にとてもこころを動かされた。4行目。

いつものようにおかわりをして

 とても美しいことばに出会った、と思った。
 「おかわり」が非常に美しい。ご飯を食べる。もう一杯、おかわり。その行為のなかに、食べることを堪能している姿が浮かぶ。夢中で、いっしんで食べている。食べることに「ほれている」。そうした姿が浮かぶ。
 「おかわり」とは繰り返すことである。その繰り返しのなかに「いっしんに」「ほれている」という状態が知らず知らずにあらわれている。繰り返すことによって「ほれている」という状態、「いっしんに」という状態が深みを持つ。
 繰り返すということは惰性ではない。夢中であるということだ。それは常に新しい瞬間である。

いつものようにさけをのみ
いつものようによいつぶれ

 この息子が批判している姿も、実は、「いっしんに」「さけに」あるいは「よう」ということに「ほれている」状態なのである。「さけ」は息子から見れば「いつもの」酒かもしれないが、池井にとってはそのつど違う。酔いもいつも、それぞれ違う。違ったものがそこにあるから、池井は繰り返す。繰り返して、いっしんに、その瞬間、その時間、その状態に「ほれている」といえるまでのめり込む。

 そして、ここまで書いてきて思うのだが、「いっしんに」「ほれている」という「放心」を池井はこの詩でも繰り返しているように見えるけれど、実は、それは繰り返しではなく、そのときそのときの新しい「いっしんに」「ほれている」なのだ。
 「虫飼」になって、(虫飼というものの存在を知って)、その瞬間からはじまる「いっしんに」「ほれている」--それが今度の詩である。
 似ていても違っている。その繰り返しのなかで、その違いを見つめることで、深まっていく「状態」がある。
 私たちは、池井に負けないよう、池井の詩を「おかわり」しなければならないのだ。

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スティング「ラビリンス」

2006-10-10 22:42:57 | その他(音楽、小説etc)
 「ラビリンス」はロックシンガーのスティングがリュート演奏家のエディン・カラマーゾフと組んでつくった1枚。ジョン・ダウランド(1563-1626)の曲を歌っている。
 スティングの深々としたテノールが不思議な陰影を与える。
 「流れよ、わが涙」「暗闇に私を住まわせて」は、私を、ここではない、どこか遠いところへ、しかも距離的に遠いのではなく、こころの奥底に遠いという感じのところへ連れ去る。いや、誘い込む。そこに何があるのか。よくわからない。それは私が完全に知らないものではなく、知っているけれど直視することを避けてきたような何かである。引き込まれるのは、スティングの声が主張する声ではなく、まるでスティング自身に語りかけるような響き、ぬくもり、同時に冷たさをもっているからだろう。おしつけがましさがないのである。スティングが偶然ききとった音楽を、ただその音楽のまま、声にのせているという感じがする。
 「ご婦人用の見事な細工物」という曲は楽しい。美しい女性をみたときのような、晴れやかな気持ちになる。
 歌のほかに詩の朗読もある。その声も深みがあって美しい。
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望月昶孝「牛」

2006-10-10 22:23:15 | 詩(雑誌・同人誌)
 望月昶孝「牛」(「長帽子」68)。
 前半がおもしろい。おもしろいと思った前半だけを引用する。

深夜に伯父を偲んでいると
牛が一頭現われる
蠅がたかって
尻尾を振り回すあめ牛だ

深夜
不意に目覚めて眠れない夜は
牛を見ている
牛の背中の伯父を見ている
自分の無気力を伯父に詫びるのだが
牛の尻尾が邪魔をして
伯父の表情がわからない
牛はその角でこちらを突こうとするが
伯父の手が角に掛かって動かない
何か云うのだが
私の云うことは軽すぎて
飛んで行ってしまう

 伯父と牛の関係がまったくわからない。「あめ牛」というのもわからない。きっと飴色をした牛なんだろうと思う。(私の家では昔牛を飼っていた。私の家の牛は黒かったが、なかには茶色っぽい色の牛もいる。きっと、そうした牛を「あめ牛」というのだろうと、私はかってに想像している。)何もわからない上に、どうも私は「伯父」と「あめ牛」を同一の存在と思っているらしい。(とは、無責任な感想だが……。)
 伯父は尻尾を振って蠅を追い払っている牛である。私に見えるのは、蠅を追い払っている牛の尻だけである。そういう人間関係(?)というものが、たしかに存在する。どんな表情で蠅を追い払っているのか、それはわからないが、ただ尻尾が蠅を追い払っているその背中(尻)だけを見つめながら、その存在のたしかさを知る、ということがある。私の知らない苦悩とよろこびがある(はずである)。そういうものを実際に知ることは絶対にない。ただ、そこに牛がいるように、牛がいて、尻尾で蠅を追い払っているようにして、ただ存在しているとしか見えない人間がどこかにいて、その存在をただ感嘆して眺めている--そういう人間関係がある。
 何か、「放心」を誘うのだ。牛のように、ただどっしりと存在し、まわりにたかる蠅を尻尾で追い払っている。そういうあり方が人間にあってもいいのだ。そういうとんでもないぼんやりした、望月のことばでいえば「無気力」にも似た何かが、「放心」を誘うことがあるのだ。
 牛は自堕落に(無気力に--自堕落と無気力はほんとうは違うだろうけれど)、ただ蠅を追い払っているが、それでもその存在は私より大きい。巨大な無気力、巨大な自堕落といってもいい。そうしたものに向き合うと、なぜか「自分の無気力を伯父に詫びるのだが」という気持ちにもなる。自分の無気力、自分の自堕落は、牛の無気力より小さい、牛の自堕落より小さい。そのことを詫びたいという気持ち……。自分は無気力でも自堕落でさえもないという悲しみ。そういうものを、望月の詩を読んでいて、ふいに思い出す。
 こんな感傷(センチメンタル)は牛には関係がない。だから牛は振り向かない。同じように伯父も振り向かない。

牛はその角でこちらを突こうとするが
伯父の手が角に掛かって動かない

 は、この詩のなかにあって、とても難解な2行である。
 牛と伯父が同一人物(?)であるなら、こういう動きは本来ありえない。しかし、ありえないにもかかわらず、この2行を読んでもなお、私には牛と伯父が同一人物に見える。背後から、ただその存在の大きさを見つめるだけの望月に対して、牛は(伯父は)何か否定的なことを言いたい。しかし、それを言わずに、ただだまって自分(牛、伯父)のこころのなかにしまいこみ、無関心を装う。それが「動かない」ということなのだが、この「動かない」のなかにこそ、ほんとうの「動き」がある。振り向いて何か言ってしまうときの動きを超えた拒絶の力がある。存在の力、飴色をした巨大な牛のかたまりとしての力がある。そうしたことが「動かない」にこめられている。
 この「動かない」のなかにある絶対的な運動、はげしい拒絶、拒絶を感じさせないほど巨大な存在する力……。そうした力を感じるからこそ、次の3行が成立する。

何か云うのだが
私の云うことは軽すぎて
飛んで行ってしまう

 伯父、あめ牛に比べたとき、「私の云うことは軽すぎ」る。この絶望的な体験、その体験ゆえに、望月は深夜に伯父を思い出す。牛を思い出す。そして、その悠然と蠅を尻尾で追い払う姿にみとれる。
 この「放心」は少しばかり、私の大好きな詩人、池井昌樹の詩の「放心」に似ている。こういう「放心」に出会うとき、あ、ここに詩人がいると私は思う。詩人の視線、どこまでもどこまでも届いてしまう詩人の視線を感じる。
 この詩で残念なのは、望月のことばは、そうした放心から引き返して「意味」を語り始める。そして、せっかくの「詩」を消し去ってしまう。

牛の
腹の中にいる
みたいだ

と最後にもう一度「放心」へ戻ってくるにはくるのだけれど、その戻る過程の道が、どうも「説明」(意味の形成)に終始しているようで、とても残念なのである。「放心」へもどる過程では「牛」が消えてしまっているということが残念なのである。私が最初に引用した行のあとも、ずーっと牛が牛として存在し、そして最後の3行に到達したのなら、とてもすばらしい作品になるのに、と思ってしまう。
 そういうことを思わせる楽しさが最初の部分にはある。
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