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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新井高子『タマシイ・ダンス』

2007-11-19 02:01:37 | 詩集
 新井高子『タマシイ・ダンス』(未知谷、2007年08月31日発行)
 「波濤を立てて」という作品の冒頭。

えぇじゃないか、えぇじゃないか、
絵ぇじゃないか、影じゃないか、
江ぇじゃないか、泳じゃないか、
エェ邪ないか、エェ蛇じゃないか、

 どこまで行けるだろうか。どこまで「えぇじゃないか」を繰り返すことができるか。なかなか難しいようである。

翳じゃないか、エェじゃ泣いか、エェじゃ亡いか、エェじゃ内科、

 後半、あたりから、ちょっとおもしろくなるが、その前に、

あなたは時代の仇花で、
わたしは時代の風花ヨ、
ともに実らぬ花ならば、
ヨーホイ、
踊らニャ、損、損、損、song……

 という行を挟んでいるのが、新井の四苦八苦ぶりをつたえていておもしろいといえばいえるかもしれないが、ちょっと残念である。余分なことばをいっさい挟まず「えぇじゃないか」の変奏だけで一篇にしてしまった方がおもしろいだろうと思う。
 新井の詩は、音にこだわっているようで、実際には視覚にこだわっているだけにすぎない。視覚を邪魔するものはない方が快感が強まると思う。
 「花粉症」という作品では、やはり後半に

放ちます、放ちます、放飛、放、放、飛飛、放放

 のあと、鏡文字、横に倒れた活字、逆さになった活字を組み合わせて、「花粉」が飛び散っている様子を視覚化している。これは、快感と言えば快感である。
 新井が楽しんで書いていることがとてもよくわかる。
 ただし、私は、こういう作品は否定はしないが、肯定もしない。
 私は保守的な人間であって、ことばは耳で聞くのが出発点だと感じている。目で見る詩、音にならない詩というのは、肉体が納得しない。私は詩の朗読はしないが、詩を読むとき、無意識のうちに喉を動かしている。頭の中で音を聞いている。長い間つづけて読むと喉が疲れるので、そのことがよくわかる。
 視力で読む詩は、その喉が疲れる快感がない。

 あるいは、私は視力が弱いので、視力で読む詩が苦手なのかもしれない。これは視力の強い人のための詩なのかもしれない。

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西脇順三郎メモ(2)

2007-11-18 11:43:47 | 詩集
 「ambarvalia」は「わざと」がびっしりとつまっている。詩集のタイトルそのものが「わざと」である。
 「カプリの牧人」。

春の朝でも
我がシシリアのパイプは秋の音がする。
幾千年の思ひをたどり。
   (谷内注・「シシリア」は原文は2度目の「シ」は送り文字)

 この「春」と「秋」の出会いが「わざと」である。ほんとうに「秋の音」がするかどうかは関係がない。「春」と「秋」が出会うことで、そこに時間の広がりが生まれ、それが「幾千年」を呼び出すのである。

 「雨」はとても技巧的である。つまり、「わざと」がやはりつまっている。

南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
湖をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場をぬらした。
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。

 「もたらした」の「らした」が「ぬらした」の「らした」となって繰り返される。そして、その「ぬらされる」対象には「噴水」「湖」「魚」「風呂場」と水(ぬれること)と関係のあるものがほぼ交互に登場し、それが「らした」というときの下の動き、「ら」と「た」の行き来(「ら」の音と「た」の音のときの下の微妙な位置、類似した位置、そしてその間にはさまる「し」の効果による往復感)が、肉体に、特に「舌」にとてもここちがよい。
 「風呂場」から「舌」への、肉体の連想そのものがとても自然でもある。「柔い女神」の「柔い」は、そのまま「舌」を修飾することばにも感じられる。
 「らした」が作り出す音楽のなかで、1行目と最終行は、ふいに入れ代わり「南風は柔い女神をぬらした。「私の舌をもたらした。」とも読めるのである。雨が、その雨がぬらしたものを数えあがることが、舌を、つまりことばの音楽を、詩を「もたらした」と、私は感じてしまう。
 雨が詩を「もたらした」(音楽をもたらした、それも舌という肉体に結びついた音楽をもたらした)とは西脇は書いてはいない。しかし、私はそんなふうに読む。読むということは、たぶん、書いていないことを読むことなのだ。

 「雨」にかぎらないのだが、私は、西脇の詩は非常に音楽的だと思う。西脇の詩はよく絵画的だといわれるが、絵画というよりも音楽的だと私は感じる。音が非常におもしろい。
 「カプリの牧人」でも「シシリアのパイプ」という音がおもしろい。「い」の音と「あ」の音の繰り返しがおもしろい。「シシリアのパイプ」というとき、私はどんなパイプも実は思い浮かべない。ただ音のおもしろさ、声に出すときの口の動き、舌の動きが楽しくて、そのことばを読んでしまう。(「カプリの牧人」の「カプリ」も、実は私には、それが何を指しているかは問題ではない。音が大好きだ。)西脇もたぶん「音」が好きなのだと思う。そして「音」を楽しむために「わざと」外国の音を日本語の文脈のなかに引き入れているのだ。

 「菫」も「わざと」らしい作品である。

コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りで
あるがギリシヤの調合は黄金の音がする

 「銅銭振りで/あるが」という行の「わたり」が「わざと」らしいが、そうした「意味」の攪乱(?)よりも、わたしは「あるが」の「が」の音にとても「わざと」らしさを強く感じる。
 別な言い方をすると、私は、この詩では「あるが」の「が」の音がとても好きなのである。不自然な行のわたりも「あるが」の「が」を意識させるためのものに思える。

コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りであるが
ギリシヤの調合は黄金の音がする

 もし、そう書かれていたら、この詩はとても平凡だと思う。音楽が消えてしまうと思う。
 そして(これから書くことは西脇の肉声を聞いたことのない確認のしようがないのだが)、この「あるが」の「が」は標準語の鼻濁音の「が」ではなく、破裂する「が」であると思う。私は破裂する「が」の音が好きではないが、この行の「あるが」の「が」だけは鼻濁音ではなく、破裂音で読んでしまう。その方が「ギリシヤ」の「ギ」につながりやすいからである。
 「調合」「黄金」「音が」と「が行」がつづく。「調合」「黄金」もつられて破裂音で読んでしまいそうになる。ただし「音が」は私は自然に鼻濁音に戻る。(私にとっては、たぶん「調合」とか「黄金」は「ギリシヤ」やなにか、外国語のように生活のなかではなく、別な場所(学校)で覚えたことばだからかもしれない。)
 西脇は、この行を鼻濁音ではなく破裂音で読んでいたのではないか、と私は想像する。鼻濁音を常に発音している人間には「銅銭ふりで/あるが」という行のわたりは、生理的に発想しにくい。(発想しにくいから、そこに「わざと」が含まれている、という見方もあるかもしれないが。)
 またこの詩には濁音が非常に多く登場するが、ここではその濁音がとても美しい。濁音の美しさをきわだたせている詩だと思う。(引用しなかった残りの4行にも濁音が次々にでてくる。)

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砂川公子「重加音の魅力」

2007-11-17 12:11:18 | その他(音楽、小説etc)
 砂川公子「重加音の魅力」(「笛」242 、2007年11月発行)
 室生犀星の詩の魅力を分析している。声に出すと魅力的だという。そしてその魅力を分析して「同音重加」の語法にあるという。同じ音の繰り返し、たたみかけ、のことである。

 例えば「つつ」「したたり」の重加音、特に「つつ」がひんぱんにでてくる。
『抒情小曲集』「序曲」には
  芽がつつ立つ
  ナイフのやうな芽が
  たつた一本
  すつきりと蒼空がつつ立つ
 犀星自身もせりあぐる重層性にきっと気付いていたに違いない。更に凝集していった過程がうかがえる。例えば、 
  したたり止まぬ日のひかり
  うつうつまはる水ぐるま
 鮮烈な情景を核にこれらの同音重加が奏でられる。

 こうした手法が犀星特有のものであるかどうかはわからない。たぶん日本語の属性のひとつなのだと思う。砂川自身

きっと気付いていたに違いない

 という文を書いている。「きっと気付いて」「きつ」の繰り返しが「気付いていたに違いない」の「い」の変奏を呼び出している。「きっと」はなくても文章の意味は同じだが、「きっと」を差し挟むことで「気付いて」が加速し「いたに違いない」という断定へ突き進む。
 こうした批評の対象が作者に乗り移る瞬間というのはとてもおもしろい。
 そして、犀星に憑依(?)されたあとの砂川は、びっくりするような文章を書いている。先に引用した文章は次のようにつづいている。

 鮮烈な情景を核にこれらの同音重加が奏でられる。「さみしいぞ」といってみる。だが届かない。言い尽くせないさみしさとして、この感覚的な直接性が活かされるのである。

 「さみしいぞ」といってみる。--これは砂川の声だろう。しかし、それにつづく「だが届かない。」は誰の声なのだろうか。砂川の声なのか、犀星の声なのか。砂川が聞き取り、代弁した犀星の声といってしまうのは簡単だが、そうした二重性はここにはない。重なり合ってひとつになってしまった声があるだけだ。
 重ねる(重加音、のなかにもある「重ねる」)ということは、最低ふたつの存在を必要とする。ひとつのものは重ならない。そして、そのふたつのものが重なりあい、重なることで、ひとつへむかって動いて行く。ひとつになってしまう。(砂川の引用している詩にも「たつた一本」と「ひとつ」を強調することばがででくるが……。)
 その瞬間が、とても自然に書かれている。
 私は犀星の詩はあまり読んだことはないが、思わず犀星を読みたい、と感じた。短い文章だが、とてもこころを動かされた。

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 広瀬弓「つごもり」

2007-11-16 00:30:14 | 詩(雑誌・同人誌)
 広瀬弓「つごもり」(「現代詩手帖」2007年11月号)
 新人欄。藤井貞和が選んでいる。

眠れないでいると、わたしの胸の上に、ケンの夢に現れる「あふれずの池」が、暗い洞穴を開いた。胸の上では池の姿ではなく、縄文土器の壺の広口であった。

 このスピードがいい。「池」といっておきながら、「池の姿ではなく、縄文土器の壺の広口であった。」というスピードがいい。こうしたスピード感あふれることばを読むと、この作品が広瀬という署名がついているにもかかわらず、私は、あ、藤井貞和だと思ってしまう。
 終わりから2連目。

「池の中から上がっておいでよ、変若水(をちみず)あびたでしょ」私は壺に手を入れ、ケンの手を握って呼んでいる。

 ここにも藤井貞和を感じる。「変若水」にわざわざ「をちみず」とルビを振っているそのこだわりと、ふいにあらわれる古いことば(?)の華やぎに藤井貞和を感じる。ことばの違和感、そしてその違和感を利用して世界を輝かせる手法に藤井貞和を感じる。
 詩は、誰でも、自分の好みに合わせてことばを読む。書いた人がどう感じたかは、たぶん詩を読むときには重要ではない。読む人がそのことばを快感に感じるかどうかだけが重要なのだ。
 投稿欄の作品を読む楽しさは、もちろん新しいことばの感覚に出会うということが最大の楽しみだが、もうひとつ、選者の「好み」がくっきり浮かび上がってくるところがとても楽しい。
 「変若水」を、広瀬のように、広瀬よりもはやく使ってみたかった、という藤井貞和の声が聞こえてきそうな詩であった。

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早矢仕典子『空、ノーシンズン』

2007-11-15 10:40:23 | 詩集
 早矢仕典子『空、ノーシンズン』(ふらんす堂、2007年10月19日発行)
 「五月の待合室で」という作品が美しい。

五月の待合室で
なにか白くて
途方もなくうつくしいものを待っていたような気がする
それは どう猛な幸福
なんて名づけてみたくなるような

 「どう猛な幸福」ということばのなかに不思議な出会いがある。「獰猛」が「幸福」であるのはなぜか。そこに命があふれているからだ。自分自身でも制御できない命の横溢。そんなものが、たしかにあるのだ。
 「待合室」にはいろいろな「待合室」があるが、この「どう猛な幸福」ということばで、その暗示する命の力で、その「待合室」が病院の待合室のように感じられる。

五月の待合室で
待ちつづけたものが私の頭の中を
白く裂き開いていった
今となっては 過去のことか未来のことかも
わからなくなって
記憶と予感のあわいのような
その
ふるえ

 「過去のことか未来のことかも/わからなくなって」という瞬間。それは「今」であり「永遠」である。「今」と「永遠」が一致するとき、それは「過去」でもあり「未来」でもある。「記憶」であり「予感」である。
 それはたしかに「それ」としか、ことばにならないかもしれない。

それは どう猛な幸福
なんて名づけてみたくなるような

 というときの「それ」。--そこにたしかに存在するものがある。そこに早矢仕の真実がある。
 そしてこの「それ」は書き出しの2行目の「なにか」と呼応している。「なに」と「それ」という具体性を欠くもの--具体となるまえの存在。そうしたものをみつめることが早矢仕にとっての詩的行為なのだ。
 「なに」と「それ」。そこに、ことばにならない対話がある。この対話を別の言葉で言えば何になるだろうか。「重なり合い」である。

毎日のように歩くこの道---
あなたは人知れず そこにいて
私は時々あなたについて考えている
あなたの方でも時に思いなど巡らせているのでしょう
それが重なり合うとき私たちは瞬時に立ちつくしている
                     (「重なり合って」)

 ここでも「なにか」は正確には名づけられていない。それはもともと名づけることができないものなのだ。正確には名づけられないからこそ、重なり合うことで確かめるのだ。その存在を。
 
 どの作品も、詩というよりは、詩の誕生について書かれている。詩以前の、こころのふるえのようなものを書いている。繊細である。


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ポール・グリーングラス監督「ボーン・アルティメイタム」

2007-11-14 11:27:14 | 映画
監督 ポール・グリーングラス 出演 マット・デイモン、デヴィッド・ストラザーン、ジュリア・スタイルズ、ジョアン・アレン

 傑作である。あ、と声を出す間もない傑作である。カメラのスピードがとてもいい。アップ、ミドル、ロングと次々にかわるが、観客がことばで考える瞬間(余裕ではない)を与えない。(かわされることばも非常に少ない。この映画はことばを拒絶し、視力で世界をつくりあげている。)目を引きつけ、スクリーンの中へ、目だけではなく肉体そのものをも巻き込んでしまうカメラである。
 人間の目というものはとても不思議で、どんなときにも「焦点」をもっている。人込みのなかでも、私たちは「人込み」を見ると同時に「一人の人間」を見る。「人込み」のなかから「一人」を選んで、そこに焦点を当てて見るということがあるが、この映画のカメラはそういう人間の生理的な目をそのまま再現している。そのために、目がスクリーンに釘付けになるというより、肉体そのものがスクリーンのなかに引き込まれたような感じがするのである。焦点を当てて見ている部分と、焦点の域外に存在するものとの関係が、いきいきとした空間(距離感)をつくりあげる。
 冒頭近くの人込み(駅)のシーン、新聞記者が射殺されるまでのシーンが特にすばらしい。カメラの焦点にあやつられるままに、ボーンのもっている感覚と観客の肉体がシンクロしてしまう。あとは、もう、観客はボーンの肉体そのものを生きることになる。あらゆる映像の断片をことばで整理するのではなく、反射神経で整理し、理解し、判断し、実行する。(繰り返すが、この映画に会話はほとんどない。とくにボーンは考えていることをことばで説明はしない。肉体の動きがボーンの思想なのだ。)
 この、まるで肉眼そのもののようなカメラ(思想としての肉体となったカメラ)は、ボーンと狙撃手とのモロッコでの乱闘でもすばらしい動きをする。深作欣二の「仁義なき戦い」の手振れカメラの疾走のように、カメラそのものがまるで手足となって肉体とぶつかりあう。アクション全体を見せるのなら別の角度があるのだが、肉体との至近距離を維持し続けることで、全体は見えず、部分部分の動きが全体を想像させるという構造なのだが、このときの肉体の狙い(何をしたいか)が、脳そのものをひっかきまわし、神経を反射させる。肉体が反射神経になって動き回る感じが体に乗り移ってくる。痛さは吹き飛び、ただ生きるために反射する強い力だけが暴れ回る。
 こうしたカメラに答える俳優もすばらしい。マット・デーモンは主役だから、いわば「見つめる側」なのでカメラに直接反応する演技というのはないのだが、たとえばデヴィッド・ストラザーン(「グッドナイト&グッドラック」のアンカーマン)が目を動かすその瞬間の演技。アップの目の動き。あ、人間は、たしかにそんなふうにしてたとえば相手の目の動きだけを見ている。ほかの肉体の部分も見えているのだが、ほんとうに見ているのは目の動きだけ--という感じに答える、目のアップ。その目の緊迫感。はっと感じ、頭の中をことばを越えて意識が動き回り、結論に到達する瞬間の驚くべきすばやさ。それを肉体そのもの、その動きだけで再現する演技。そういう部分が、カメラそのものの動きと重なって、スピードをどんどんアップする。
 また、この映画は人間のアクションが主人公であり、マット・デイモンが動き回るヨーロッパ各地、ニューヨークの都市は舞台装置なのだが、その舞台である街をとらえるカメラもとてもいい。アクションをとっているにもかかわらず、街のにおいそのものまでも再現している。舞台の都市がかわるたびに「字幕」で、それがどの都市化ということが説明されるが、そういう説明など不要なほど、街をくっきりと描いている。その街で生きるひとの動きをきちんと取り込んでいるから、その街がそれぞれ独自の色で浮かび上がってくるのである。
 シリーズものの3作目か、と軽い気持ちでいると、傑作を見逃してしまうことになる。

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柏木麻里「蜜の根にひびくかぎりに」

2007-11-13 12:33:13 | 詩(雑誌・同人誌)
 柏木麻里「蜜の根にひびくかぎりに」(「径」2、2007年11月01日発行)
 花、あるいはタイトルに従えば蜜と、その周辺の存在が「8」から「0」へと逆に書き進められている。時間的に、過去へ、過去へとさかのぼるように書かれている。とはいっても、「小説」のようにストーリーがあるわけではない。(ストーリーを読み取ろうとすれば読み取れるかもしれないが。)そこにあるのは「ストーリー」というよりも、想像を誘う「間」である。
 柏木は「間」にこだわっている。それは「8」から「0」への番号の散らし方、各断章のことば、行の散らし方にもあらわれている。ここに引用しても、その形は正確に伝わらないから、その形のまま引用はしないが、柏木はことばと同時に「間」のバランスをとろうとしている。「間」といっしょにあるのは、視覚的には「空間」であるし、意識の中では「時間」である。そして、それが融合するとき、なんといえばいいのだろうか、一種の音楽が生まれる。音楽において音と音との「間」は「和音」、そして「リズム」だが、柏木は、いわばことばを紙の上に「間」をおきながら配置することで、ことばによる「音楽」を演奏している。そして、その音楽は「間」の音楽、「沈黙の音楽」でもある。
 「8」の断章。

花びらのうすさを
両がわからおいもとめている

 この2行は4字下がって書き出されている。そして「7」まで9行のアキがある。7行のアキが「沈黙」である。その沈黙と、読者は向き合わなければならない。「沈黙」からどんな音楽を聞き取るか。
 私は「不可能」という「音楽」を聞き取る。
 もちろん、その「音楽」は「8」の断章のアキだけを見つめていて聞こえる「音楽」ではない。「7」「6」「5」と配置されたことばの「間」を積み重ねることで(読み進むことで)、記憶のなかに響いてくる「音楽」である。
 アキを無視して引用することになるが……。「5」の2行。

なくなったものがひびく
  花の先端で

 私が聞く「音楽」は、「なくなったもの」を追い求める「音楽」である。「なくなったもの」を追い求めるのは「意識」である。ここにあるのは、柏木の「意識の音楽」なのだ。「6」には

そとを
澄ませている


そとにでられなかったものの

          糖度

 ということばがある。ここには「そと」と、書かれていない「うち」がある。「そと」と「うち」の、「沈黙の和音」がある。そうしたものが、沈黙によって作り出されている「和音」が、「そと」(世界)そのものを清澄なものにしている--そんなふうに柏木は感じているのだと思う。

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西脇順三郎メモ(1)

2007-11-12 09:50:45 | 詩集

 「定本 西脇順三郎全集 Ⅴ」(筑摩書房)の「第五巻月報」に篠田一士が「夏の野ばら」というタイトルで文章を書いている。「西脇さんの詩論はなにがなんだかよくわからないものだということを、よく耳にする。」という文ではじまる。篠田は、西脇の一文を引用したあとで、「別に説明はいらない。いや、説明してみてもはじまらない。いやいや、本当のことをいえば、もともと説明なんかできるものではないのだ。」と書いている。とても奇妙である。普通「わかる」というのは、他人のことばを自分のことばで言い直す(説明し直す)ことができることを指す。自分のことばで説明できなければ、やっぱり「よくわからない」というのが正直な感想なのではないのか。
 西脇はいったい「詩論」で何を書いているのか。「詩の消滅」に次の一文がある。

芸術上の法律行為は態と(故意に)やつた時に初めて芸術になる。
              (谷内注・「態と」には傍点が振ってある)

 西脇は詩を詩人が感じたことを書いたものとは定義していない。感じたことを書くのは低俗である。感じていないことを、わざと書く。感じていないことを書いてこそ、芸術である。
 さらにいえば感じていないけれど、感じたいこと、人間が感じるべきことを書き、人間の精神を覚醒させるのが詩である。ことばを通して、感じたいこと、感じるべきことを発見するのが詩人である。
 こういうことを、西脇は「わざと」わかりにくく(?)書いている。なぜ、わざとわかりにくく書くか、といえば、わかりやすく書いてしまえば、それが低俗になるからである。

 西脇は最初から「わざと」ことばを動かしている。有名な「天気」。

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日
   (谷内注・「ささやく」の2度目の「さ」は原文は「送り文字」)

 西脇は、冒頭から引用ではじめる。それは西脇のことばではない。西脇が感じたことばではなく、他人が感じたなにごとかである。それを西脇は「朝」と「わざと」結びつける。これは西脇が、朝に対して(たとえば、朝の光に対して)、それを「覆された宝石」のようだと感じたわけではない。西脇は「朝は覆された宝石のようだ」とは書いていない。まず「覆された宝石」というものがあり、それを「朝」を描写するのに使おうとする意思がここには存在する。「わざと」が存在する。
 そして、このとき、戸口で誰かがほんとうに誰かとささやいたわけではない。「朝」、誰かが誰かと戸口で声をかわす、というのはありふれた光景である。「おはようございます」「いい天気ですね」というのは日常の朝の挨拶である。そのあいさつからはじまるなにごとかの会話を、ゆっくり起き出してきた男(?)が聞くというのも日常のありふれた光景である。
 ありふれた光景であるからこそ、それが「(覆された宝石)のやうな朝」といっしょに語られたとき、まったく違ったものになる。ありふれた朝の光景も、そこにあるままではなく、別なことばで破壊してゆくとき、その瞬間に詩が噴出する。
 この瞬間、この詩を、西脇は「神」の「生誕」と呼んでいる。

 「天気」はわずか3行の詩であるが、そこには西脇のすべてが凝縮している。この3行のなかには、西脇の「詩論」そのものが息づいている。

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松本勲『凡人伝』

2007-11-11 22:13:53 | 詩集
凡人伝―詩集
松本 勲
和光出版、2007年09月25日発

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 「凡人」とは何か。いわゆる名もないひと、か。しかし、名ものないひとというのは実際には存在しない。ひとはひとりひとり名前を持っている。両親が名前をつけ、家族がその名で呼び、友人たちもその名で呼ぶ。歴史に固有の名前を記さないひとであっても、誰もが生きている。
 「順次生」という詩がある。その4連目。

ある思想家が家族について語っている
お前が存在するのは父母兄弟の先にまた
父母兄弟がいてその上にまた父母兄弟がいる
気の遠くなるのような遺伝子の繋がりによるもの
これを親鸞は順次生と言っている

 「凡人」とは、「順次生」として存在を明らかにする人間である、と松本は考えているのだろう。そして、この考えの(この詩の)いちばんの大切な部分は、その考えが「親鸞」のことばであり、また同時に「ある思想家」のことばである、という点だ。そしてさらに大切なのは、「親鸞」よりも、「ある思想家」である。
 「順次生」は松本が考え出した「考え」ではない。思想ではない。親鸞が考え出し、ひとに(名もないひとに)、名もなくても生きているひとに対して、なぜ人間は生きているのかを説明するために語ったことばである。そして、そのことばは次々に語り継がれ、まるで遺伝子のように時代を越えて、いま、ここにある。「ある」思想家によって、いま、ここに伝えられている。
 「ある思想家」の「ある」とは名前を伏せていうときの表現だが、それは同時に「凡人」をあらわしている。ことばは「偉人」(たとえば、親鸞)がひとりいても伝えられることはない。「偉人」は、ただそれを語るだけである。伝えてゆくのは「ある」ひとびと、名もないひとびとなのである。「ある」思想家はたまたま「ある」ひとびとのなかから出てきただけであって、「思想家」でなくてもいいのである。
 あらゆる命の営みは、この「ある」ひとびとによって遺伝子として伝えられている--松本はそう考えているように思える。

 松本のことばは、それを証明するように「ある」を出ていかない。「花村豆腐店」のように固有名詞のあるしてあっても、「花村豆腐店」は「花村豆腐店」でありながら「ある」豆腐店として描かれる。「ある」に吸収されるものだけが松本によってすくい上げられるのである。
 2連目。「祠のあるから一人の青年が発電所にやって来た」という行が象徴的である。「ある」、「一人」の青年。「一人」はこのとき「ある」と同じ意味を持っている。英語でいえば定冠詞「the」ではなく、不定冠詞「a」なのである。無数の不定冠詞としての人間が世の中をつくっている。
 松本は、そうした不定冠詞のひとを、ことばとして定着させようとしている。いったん書かれたものは、そのときから定冠詞つきの存在になるのが普通だが、松本は、あくまで不定冠詞「ある」という状態のまま、人間を描こうとしている。
 「ある」詩人のままであろうとする強い意思を、「ある思想家」の「ある」に感じた。
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高松文樹『時計』

2007-11-10 11:42:50 | 詩集
 高松文樹『時計』(思潮社、2007年10月31日発行)
 時計についての考察を詩にしている。詩は高松には思考であり、思想でもある。そして、その思考、思想はとても明確である。対象と「同期」(シンク)すること。対象と高松の思想・思考をおなじリズムをあわせること。「時計」の刻むリズムと高松の思考・思想のリズムをあわせること。
 「同期」をつよく意識していることは、そのことばが何回か登場することでもよくわかる。

知らず識らず
ヒトは大きな宇宙のリズムに同期(シンク)し
       (「体内時計(1)ヒト」)

ミツバチもミドリムシも
多くの動物たちも
太陽の奏でる明暗のリズムに同期(シンク)し
       (「体内時計(2)ミツバチとミドリムシ)

時計はいろいろな表情を見せながら
人間の呼吸と同期(シンク)し
       (「自然と人間を結ぶ」)

 時計といってもいろいろある。日時計、砂時計、水時計……電波時計。そういうものをひとつひとつ数え上げながら、高松はそれぞれの時計の持っているリズムと高松の思考・思想のリズムをあわせる。同期(シンク)する。
 そして、最後に「時計の奇跡」という作品で、パウロ六世、エジソン、フリードリヒの死と時計との関係で、彼らの時計と人生がシンクロしたことを描いている。人生が終わるとき、時計もとまる。それは彼らが「正しい」時間を「正しく」刻んだという証明でもあるのだろう。
 とても明解である。
 「正しい」時間を「正しく」生きる。一個の「時計」となることが人生だ。それが高松の思考であり、思想である。
 その「結論」。

時計は奇跡をはらんだ一つの有機体であり
遠い宗教である。

 とても明解である。
 「正しい」時間を「正しく」生きる。一個の「時計」となることが人生だ。それが高松の思考であり、思想である。

 しかし、どうも私には納得できない。
 こんなふうに理路整然としたことばで語られることが「思想」であることには間違いなだろうけれど、私がひかれる「思想」とは種類が違う。「思想」とは、こんなふうに理路整然とかたづけられるものではないと思う。矛盾していて、その矛盾の前で、にっちもさっちもいかなくなる。何かを断念してしまって、まあ、生きているからいいか、と引き下がってしまうものこそが「思想」という気がするのだ。頭で整理するのではなく、頭で整理できないものにぶつかったときの手触りのようなもの、抵抗感こそが「思想」だと思う。高松の書いていることばには、その抵抗感が希薄である。
 プラトンの対話篇からはじまるさまざまな思想・哲学は、「結論」をもたない。「結論」をもてないのが思想・哲学である。

 「思想」。それは、たとえて言えば、高松の作品に書かれている田中久重と「万年時計」の関係のようなものである。田中は3年かけ「万年時計」を完成させた。ゼンマイで動く、いまから見れば一種の「からくり」である。それはたいへんなものである。しかし、そのたいへんなものである、というのは同時にたいへんな「むだ」でもある、ということだ。そんな時計、いったい何になる? 何にもならない。誰もその時計で、いま11時20分だから、すぐに家を出れば11時35分の新幹線に間に合う、などと考えたりしないだろう。そして、その役に立たないことこそ、実は「思想」なのだ。役に立たないことでも、それをやってみるしかない。それをつくってみたいという欲望が思想なのである。その欲望を田中から取り去ってしまえば、田中は生きていて楽しくないだろう。役には立たないけれど、それがないと生きていけない欲望の根源に横たわっているもの--それが「思想」である。

 時計と人生はシンクロする--というのは、実は「思想」ではない。
 この詩集に横たわる「思想」は、そういうふうに思考・思想を表明しなければならないと考える高松の生き方である。詩には「思想」を書かなければならないと考える、その考え方そのものが「時計と人生はシンクロする」ということばを超えて存在する。
 そんなふうに、この詩集は読むべきなのかもしれないが、しかし、高松がほんとうにことばが好きなのかどうか私にはよくわからない。高松は考えることは好きなのだと思うけれど、ことばが好きなのかどうか、それを感じることができない。
 このことばが好き--そういうものが伝わってくる作品の方が、私は、より強く思想を感じる。無意味な欲望、そのひとでしかありえない欲望を感じ、なんだかうれしくなる。そういう喜びを、残念ながら、わたしはこの詩集には感じない。
 別なことばでいえば、こんなこと、よく書くなあ、バカじゃないのか、とけなして楽しくなるようなことば、おまえ、ほんとうにそんなことばで毎日ものを考えるのか、とからかってみたくなるような楽しさを、私は、高松の詩には感じられない。
 論理がずれてしまったが……。
 たとえば私には最近の岩佐なをの詩がおもしろい。なぜおもしろいかというと、私には気持ち悪いからである。おいおい、ほんとうにこんなことばが岩佐の体のなかにうごめいているのか? こんなことばが体の中からでてきて大丈夫なのか? そう感じるときの、とんでもない何かが好きなのである。
 高松の詩は、きちんと書かれている。でも、とんでもないものが欠如している。「万年時計」をつくった田中のような、何かとんでもないものが欠如している。私には、そう思えて仕方がない。
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ニール・ジョーダン監督「ブレイブワン」

2007-11-10 00:03:41 | 映画
監督 ニール・ジョーダン 出演 ジョディー・フォスター、テレンス・ハワード、ナビーン・アンドリュース、アリー・スティーンバーゲン

 映画を見ながらまず思い出したのは「長江哀歌」である。ニール・ジョーダンは否定するかもしれないが、ジョディー・フォスターの演じるラジオのパーソナリティーのやっていることはジャ・ジャンクーが「長江哀歌」でやったことの焼き直しである。
 日常の、人が見落としているもののなかに命のあり方を見出し、それを伝えるということ。
 ジャ・ジャンクーは傷ついた存在を映像でくっきりと浮かび上がらせ、そこにいとおしさをあふれさせた。
 ジョディー・フォスター(ニール・ジョーダン)は音でそれを試みようとしている。ニューヨークのさまざまな音。それをラジオで流しながら、ジョディー・フォスターが彼女独特の声で語る。低く、冷静でいながら、その奥にしっとりとした愛情を感じさせる声。たいへん美しい。ジョディー・フォスターの声の中から、ニューヨークがとても美しく浮かび上がってくる。ジョディー・フォスターの声はたいへん魅力的だが、その声の特質を最大限に生かした映画である。
 映画は見るものである。視覚表現である。というのは事実だが、この映画は、映画は同時に「音」であることも伝えようとしている。聞くことの意味を、浮かび上がらせようともしている。それはジョディ・フォスターのラジオ・パーソナリティーというキャラクターのなかにも存在しているのだが、それを導入部として、この映画では、もっとそれ以上のことをも語っている。音の深み、聞くことの深みへと観客を誘ってゆく。
 犯罪を追うテレンス・ハワード。彼はジョディ・フォスターの番組を聞いているという設定になっている。耳を澄ます人間である。この耳を澄ますこと--音を聞くことが事件の解決につかわれる、というのはごく普通の「伏線」だが、この映画では、それ以上のことを語っている。耳を澄ます、ひとのことばを聞く。それはひとのこころの声を聞くということなのだ。
 ジョディ・フォスターが警察へ事件の捜査進捗状況を聞きにゆく。そのとき応対する警官はジョディー・フォスターのことばを聞くが、それは事務的な態度であり、親身ではない。つまり、ジョディー・フォスターのこころの声を聞いてはいない。--その対極にいるのがテレンス・ハワードなのである。テレンス・ハはワードはいつでもジョディー・フォスターのことばと同時に、その奥にあるものを聞き取ろうとしている。ことばの意味ではなく、そういうことばを語るときのこころを聞き取ろうとしている。
 表面的な音(物理的な音)の背後にはその音を成り立たせるものがあり、時間があり、つまり生活がある。
 テレンス・ハワードは、最後は、ジョディー・フォスターのことばを聞かない。聞こうとしない。話させない。そして、そうすることで逆にジョディー・フォスターのこころの声をしっかり受け止める。映画のクライマックスはいつでもことばをもたない。せりふがない。せりふはないが、そこにことばがあふれる。声があふれる。それは観客のことば、観客の越えてある。
 テレンス・ハワードは、観客が聞くのと同じ声を聞いている。受け止めている。そしてそれを実行する。そのとき、その受け止め方が、その行動が、たぶん観客の、そうあってほしいという夢と合致する。(いわば、ハッピーエンドである。)この瞬間を、ことばは壊してはならない。だから、せりふはない。
 この映画は、「聞く」ということ映画にしようとした、ちょっとかわった映画なのである。聞き逃している日常の音、聞いているのにこころに刻むことのなかった音--そこから出発して、人間のこころの声を聞き、それを受け止めるという人間まで造型を深めていくというかなり文学的な内容を、娯楽に仕立ててた、ある意味では問題作である。(問題作をつくっているという意識があるからだろうと思うが、途中には、聞くことの問題点もきちんと描いている。ジョディー・フォスターがラジオのリスナーの声を生放送で伝えるシーン。)

 この映画で、もう一つ書いておかなければならないのは、ジョディー・フォスターの復活である。「羊たちの沈黙」以降、「パニック・ルーム」にしろ「フライト・プラン」にしろジョディー・フォスターは強い女性を演じ続けた。ジョディー・フォスターが事件に巻き込まれても彼女が最後に勝ち残ることは最初からわかってしまっていて、それが映画をつまらなくしていた。この映画では、ジョディー・フォスターは問題をひとりでは解決しない。解決できない。そうしたごく普通の弱さを体現することに成功した。次の映画が楽しみである。
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川上明日夫『雨師』

2007-11-09 23:11:31 | 詩集
雨師
川上 明日夫
思潮社、2007年10月31日発行

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 表記形式が独特である。冒頭の「春の文庫」。

みあげれば 弥生 風 宙のせせらぎ わたしの泪には いまも 右岸と左岸
が あって
きれいに 騒いでいるんだ 濡れているので それとわかる はるのひと文字
の 岸辺の干潟には

 分かち書きといってしまえばそれまでだが、その分かち書きの法則がよくわからない。単語ごとでもなければ分節ごとでもない。川上の意識のなかにはきちんとした法則があるのだろうけれど、それがわからない。そして、それがわからないうえに「わたしの泪には いまも 右岸と左岸が あって」という一気に読ませた方が魅力的なことばも混じっていて、私は読んでいて、ますます混乱する。
 何が書きたいのだろうか。

 「雨師」まで読み進んできて、川上が川上自身のことばで、彼のやっていることを説明している部分に出会った。

陽によってうつしだされ 陽によってたしなめられた その手の紙の 密かご
と しろい乳房を やわらかく 辱めては ときどきの 言の葉で そっと抱
きしめてやる その 想いのかずかず 美しさを 手のごはんに 盛る

 ある瞬間を、「言の葉」(ことば)で「そっと抱きしめてやる」。そしてこのとき「そっと」が重要なのだ。激しく抱くのではなく、「そっと」抱く。激しく抱くことよりも「そっと」抱くことの方が川上にとってはしっかりと抱くことなのだ。
 「抱く」とこは対象を逃がさないということのためだけにするのではない。対象を逃がさないことだけが目的ならば「激しく」「厳しく」「強く」抱く方がしっかりと押さえつけられるだろう。「そっと」では逃げられてしまうかもしれない。
 しかし、川上は「そっと」抱くのである。「激しく」「強く」抱いたときは、相手の抵抗があるかもしれない。「そっと」でも抵抗はあるかもしれないが、激しく抱いたときの方が激しい抵抗があるだろう。そっと抱けば、そっと抵抗があるだけだ。そして、この「そっと」のなかには、ひそかな交流がある。相手を感じ、感じている私を相手に伝える。その伝え合う呼吸が、川上の「分かち書き」のリズムなのだ。そのリズムは、相手によって、相手の反応によってかわるのだ。
 単語ごと、分節ごとという「法則」は適用できない。相手が抵抗する(反応する)その一瞬まで抱きしめ、反応があったとき、そっと放す。それは完全に離れる放し方ではなく、いつでももう一度「そっと」抱きしめることができるだけの「間合い」の離れ方(放し方)である。
 そうした呼吸が、川上の分かち書きなのだ。
 「雨師」の冒頭。

焦がれては また 露が びっしょりと 旅をむすんでいた 糸のような絹々
の おもいの果てで 散文にもようやく寂しさが かなえられた

 「露」には「あめ」とルビが振ってある。ことばに対するこだわりがあるのだ。「旅をむすんでいた」という微妙な日本語。その直後に、アキがあって、「糸のような絹々の」という、またわかったようなわからないような、「雰囲気」のことばがつづくが、これはまさに相手との呼吸をはかっているために生じることである。強引に対象を抱きしめ、論理的な(?)文章にすることもできるだろうけれど、それをしない。あくまで、対象との呼吸を大切にしているのだ。
 「散文にもようやく寂しさが かなえられた」は非常に美しいことばだ。
 私はふいに西脇の「淋しい」を思い出した。この「さびしさ」は西脇に通じる「さびしさ」なのだ。
 西脇の文体は、ある対象を抱きしめて、その抱いたときの感触、対象から受けとった感受性を両手に残したまま、次の対象を抱くという不思議な連続と断絶、飛躍と連続に特徴がある。どうしても断絶し、そして接続してしまうときの破壊に特徴がある。接続するとき、何かを破壊してしまう「淋しさ」に特徴がある。
 西脇のことば、とくに散文がそうだが、この接続による破壊を、西脇が「淋しい」と定義したために、とてもわかりにくく、また同時にそれが魅力になっている。ほかにもっと論理的(?)なことばで説明すればわかるところを、西脇は「淋しい」という抒情(感情)で説明したために、理性の問題であるべきもの(?)が感性の印象に置き換えられてしまった。
 このことは「散文」としては失敗なのかもしれない。
 しかし、そういうことを川上は「かなえられた」と定義している。この不思議な充実--それは、私の印象で言えば、やはり西脇そのものである。
 ふいに西脇に出会い、ふいに西脇を読み直したくなった。

 この私の文章は、川上の詩集の感想になっていないかもしれない。申し訳ないけれど、こういう感想しか書けない。ただ、西脇をはっきり思い出させてくれた大切な詩集である、この詩集は。私にとっては。そして、その西脇が、破壊だけではなく、その破壊のなかに「そっと」という感覚をもしかしたら持っていたのではないか--ということを思い起こさせてくれるというのは、ある意味で、とてもすばらしいことではないかとも思う。そういうことが可能なのは、川上のことばが、ことばの運動が、どこかで西脇と通じているということなのだから。
 --むりやりこじつけた「賛辞」になってしまったかもしれないが。


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江代充「部分」

2007-11-08 11:27:36 | 詩(雑誌・同人誌)
 江代充「部分」(「現代詩手帖」2007年11月号)
 江代はとても不気味である。その不気味さは、江代の体現する「融合」の感覚が、とても奇妙だからである。

 或る資料のために、部分的な書き込みを進めた。その薄い物を鞄
のなかに入れ、翌日の仕事までの時間を、暇のあるものにしようと
外へ出た。歩くばかりで何もしないでいるとき、わたしはよく何か
の近くにいるようだとかれは言った。自分はその言葉をわたしが言
ったことのように聞き、歩行の際にはこちらの思考が静かに閉じて
いることをたしかめた。

 「部分」の書き出しの1連。その終わりの方の「自分はその言葉をわたしが言ったことのように聞き、」ということばに、私はぞっとする。不気味さに、一瞬、読むのをやめてしまう。
 私は、「わたしはその言葉を自分が言ったことのように聞き、」とは書いても、けっして江代のようには書かない。「自分」と「わたし」ということばの書き方が微妙に違うのだ。
 そして、このときの「わたし」が、またとても微妙なのだ。その直前に「わたしはよく何かの近くにいるようだとかれは言った。」という文章があるために、その文のなかの「わたし」(実際は「かれ」)と奇妙に混ざり合うのである。しかし、この混ざり具合は、きれいに融合して見分けがつかなくなるわけではなく、別々に存在しているにもかかわらず、どちらがどちらか見分けがつかなくなるという感じなのである。
 私はこの文の初めに「融合」ということばを書いたが、江代はけっして融合せず、別々のものがとなりあったまま、その固体性をもったまま、互いを侵犯し合うという感じなのだ。
 「かれ」が言った「わたし」と、「自分」の「わたし」が「わたし」ということばのなかでたしかに融合するのだが、融合しながらも、それを「自分」が見つめることで、その「融合」から離れた視点をもったまま、「かれ」の「わたし」に「自分」の「わたし」を存在しないもののようにしたいと思っているのである。
 「歩行の際にはこちらの思考が静かに閉じていることをたしかめた。」の「こちら」とは「自分」のことである。「かれ」の「わたし」と重なり合った「自分」の「わたし」ではなく、重なり合っていない「自分」、「かれ」の「わたし」と「自分」の「わたし」が重なり合っていると感じている「自分」が「こちら」である。
 論理的な自己分析(?)といえば自己分析なのだろうけれど、このとき「見える」光景というのが、私には非常に不気味に感じられるのである。
 たとえていえば、これは「悪夢」である。
 夢のなかで起きているすべてのことはくっきり見える。くっきりしすぎるくらいくっきりしている。目で見るのではなく、網膜に直接焼き付けられたものをいやおうなしに見させられているという感じで見えてしまう。そして、そのとき、そこで起こっていることが「現実」とは何かが違うという意識がある。どこかで、これは「夢」だという意識がある。「醒めろ、醒めろ」と念じながら、夢のなかの「わたし」を夢みる「自分」がみている。「わたし」と「自分」はひとりの人間であるのに、同時に「わたし」と「自分」は別々に行動し、別々なことを思っている。
 そういう「悪夢」を江代は、「悪夢」の報告としてではなく、「現実」として書いている。そこに書かれているのは「融合」というよりも、固体をたもったまま激流を流れていく何か、固体そのものの流動のように思える。普通、流れて行くものは液体とか気体であるが、江代の場合は、固体そのものが、固体をたもったまま流れる。ぶつかるたびに、それは、たとえば「かれ」の「わたし」であるのか、「自分」の「わたし」であるのか、見分けがつかないようになって流れるのである。ぶつかることで互いに侵犯し、侵犯するということで、また融合せず「孤立」を確かめるのである。
 これは「人間」、「かれ」の「わたし」と「自分」の「わたし」にだけ起きることではなく、木でも、鳥でも、同じように、互いに侵犯し、離れ、流動するのである。最終連も非常に不気味である。静かであるだけに、よけいに不気味である。(引用はしないので、「現代詩手帖」で読んでください。--引用すると、その世界にそのまま引き込まれていってしまいそうで、かなり怖いのである。)

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杉本真維子『袖口の動物』

2007-11-07 11:39:20 | 詩集
 杉本真維子『袖口の動物』(思潮社、2007年10月25日発行)
 「あかるいうなじ」という作品にひかれた。

爪を切る音が
まるく
うるんでいる午後、

 書き出しの3行が特にいい。「まるく」が独立し、それからゆっくりと「うるんでいる」にかわる。改行のリズム。そこに、不思議な肉体性を感じる。現実を「頭」ではなく、肉体で受け止める感覚を感じる。「うるんでいる午後、」の読点「、」の呼吸もいい。ここから世界がかわる、という予感を静かに伝える。

ベランダで
物干し竿を拭く
陽の射したあかるい、うなじが、
うごくのを見ていた

それはまるで
水槽を眺めるように
わたしを、吸いこんでいった
そのむごんの
素足のようなうごきに
心を、踏んでほしいとさえおもった

 「陽の射したあかるい、うなじが、」という行は、書き出しの3行のようにストレートではない。書き出しのように書き直せば「うなじに/陽が射して/あかるい」になるのだと思うが、直接「うなじ」には触れず、「うなじ」にであうまでに「間」がある。それはベランダで物干し竿を拭くという作業だけではなく(そうした同時並行の作業は、一種の「場」の描写に過ぎず、肉体の描写ではない)、杉本のこころの間であり、「魔」なのだ。爪を切る音はストレートに鼓膜から肉体の中に入り、杉本の感覚を刺激したが、うなじの場合は、うなじを見ているにもかかわらず、うなじそのものではなく、まず「陽のさしたあかるい、」という「あかるさ」を見ている。そして、そこにためらうようにというか、いったん「あかるい」といっておいて、呼吸を整えて「うなじ」を直視する。その「間合い」がとてもエロチックである。かなしみを感じさせる。視線はうなじにたどりつきながらも、そこでもいったんとどまる。「うなじが、」の読点「、」と改行。読点「、」と改行には、そこに書かれていないことばがある。
 杉本にとっては、読点「、」と改行の呼吸が、そっくりそのまま詩なのである。

心を、踏んでほしいとさえおもった

 この1行の読点「、」はとても深い。改行してしまっては、「思い」が切れてしまう。別のものになってしまう。かなしみが別のものになってしまう。

 この、ことばのかわりの(?)改行、読点「、」を読むのはたいへん骨が折れる。ちょっと苦しい。ことばを目で追うだけではなく、声には出さなくても、黙読しながら、喉を、口蓋を、舌を、歯を動かさないと、こころの呼吸がわからない。ことばを「肉体」をくぐらせることで追わないことには、こころが一緒に動いてくれない。
 杉本の詩はどれも短いが、この短さには必然性がある。それ以上長くなると、実際に、苦しくなって読むことができない。
 肉体の間合い、呼吸というものを、しっかり身につけいてる詩人だと思った。

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田中宏輔「THE GATES OF DELIRIUM.」ほか

2007-11-06 11:44:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 田中宏輔「THE GATES OF DELIRIUM.」ほか(「分裂機械」19、2007年10月15日発行)
 文体がしっかりているとき、それが何を書いているかということは気にならない。内容は文体そのものに宿っているからである。

 間違って、鳥の巣のなかで目を覚ますこともあった。間違って? あなたが間違うことはない。Ghost、あなたは間違わない。転位につぐ転位。さまざまな時間と場所と出来事のあいだを。結合につぐ結合。さまざまな時間と場所と出来事の。

 書き出しの「間違って、鳥の巣のなかで目を覚ますこともあった。」には主語がない。こういう場合、日本語では「わたし」を主語とする。(敬語で書かれている文体は「わたし」ではない人間が想定されるが。)--というのは、単なる約束事であって、それを守る必要はないし、無意識の約束事を裏切ったところで、それが罪になるわけでも何でもない。
 田中は、一瞬、「わたし」という幻の主語を掲げておいて、すぐに「間違って? あなたが間違うことはない。」と主語を「あなた」(Ghost)に書き換える。
 この書き換えが絶妙である。
 「Ghost」が間違って、鳥の巣のなかで目を覚ますことはない--そう断定しているのは、鳥の巣のなかで目を覚ました主語ではない。別の主語「わたし」である。
 この短い文のなかには「Ghost」と「わたし」というふたつの主語があり、しかもそれが交錯している。交錯することで結びついている。田中のことばを使って言えば、そこには主語の「転位」と「結合」がある。そしてそれは繰り返されるのである。さまざまな場所、時間、出来事において。
 書き出しの3行で田中の詩はすべてを語っている。そして、そのすべては「意味」においてすべてというだけであって、ほんとうはすべてではない。すべてではないからこそ、田中は3行以降も延々とことばを吐き出し続ける。
 「転位」とは一種の「切断」であるが、それは「転位」と意識することで、実は別々な場を意識のなかで関連づけること、「結合」することである。「転位」と「結合」は「切断」をふくむにもかかわらず、切り離すことができない。
 途中に

既知→未知→既知→未知、あるいは、未知→既知→未知→既知の、出自の異なる連鎖が、いつの間にか一つの輪になってループする。

 ということばが出てくるが、「わたし」と「あなた」は「転位」し、「転位」することで「結合」し、連鎖し、輪になり、ループするのである。
 書き出しの文体が絶妙であったように、その文体は、最後まで乱れない。こういう乱れのない文体(一種の、意識の乱れを描いているのに、乱れない文体)が、わたしは非常に好きだ。とても気持ちがいい。



 同じ号にキキダダマママキキ「新しい道を眺める人」という作品がある。キキダダマママキキの詩にもおもしろい文体がある。

きみは肉体を所有するが、きみは
果たして重力のみを食べていたというのか

 引用したのは1連目の一部である。引用部分の「きみは肉体を所有するが」は誰もが理解できることばである。「きみ」が誰であろうが、そういう人間を想像することはむずかしくない。誰にでもわかる(りかいできる)、とは、そういうことを指していう。
 「果たして重力のみを食べていたというのか」はどうだろうか。たぶん、誰にでもわかるという文ではないだろう。なぜか。まず私たちは「重力」というものを「食べる」とは言わない。そんなものが食べられるかどうか知らない。だから、そこに書いてあることを判断する方法がない。ようするにお手上げである。
 そして、実は、こういうことは読者だけに起きるのではない。
 たぶん、その具体的な内容(?)、というか、そのことばで何を言いたかったのか、キキダダマママキキにもわからない。わからないけれど、書いてしまう--そういうことはあるのである。
 田中宏輔にしても、しっかりした文体で書いてはいるが、書いていることがわかっているかといえば、わかっていない。わかっているのは、そういう文体で、いま、こうして書いているということだけである。こういう文体で書けば、ここまでことばを吐き出してゆけるという予感だけである。何が書けるかわからずに、それでも何かが書けると予感して書いてしまうのが詩というものである。
 何が書けるかわからない、それでも書いてしまう。--そのとき、キキダダマママキキを支えているのは、

きみは肉体を所有するが、きみは
果たして重力のみを食べていたというのか

 という文体である。普通の散文では「きみは肉体を所有するが、」がひとつの文であり、「きみは果たして重力のみを食べていたというのか」がひとつの文である。それぞれに「主語」と「述語」がある。ところが、この主語と述語の関係を、キキダダマママキキはすこしずらしている。「きみは肉体を所有するが、きみは」を1行に、つまり、1文にしている。そして断絶を(改行を)挟んで「果たして重力のみを食べていたというのか」と書く。
 「きみ」という主語はかたく結びついているが、「肉体を所有する」と「重力のみを食べ」るという述語は、とんでもない断絶(改行)を抱え込んでいる。
 キキダダマママキキの書きたいことというのは、実は、この断絶である。同じ主語であっても、述語(動詞)は激しく断絶するのである。そして、そこに人間存在の苦悩の根っこがある。私たち人間(主語)は、さまざまなことをする(述語)が、そのさまざまなことのなかには「矛盾」だけではなく、「矛盾」を通り越してしまう何かわけのわからないものあるのだ。今までのことばでは言い表すことのできない「述語」の部分もあるのだ。キキダダマママキキの書きたいのは、そういうことである。
 「重力のみを食べ」る、なんて意味がわからない--読者がそういうなら、キキダダマママキキは意味がわかってたまるかというだろう。キキダダマママキキにも、それを意味がわかるようには、つまりは日常語に言い換えてしまうことはできないことがらなのだ。わからないから、わからないまま、それでもそのことばの先に何かがあるという予感に導かれて書く。
 予感を信じ、予感の中へことばを駆り立ててゆく。そして、その疾走のなかで、何かを見たと錯覚する--それが詩だ。そこにあるのは意味ではなく「文体」なのである。

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