詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水嶋きょうこ「飛猿」

2008-01-18 08:56:15 | 詩(雑誌・同人誌)
 水嶋きょうこ「飛猿」(「ひょうたん」34、2007年12月20日発行)

 よくわからない詩である。よくわからないけれど惹かれる行がある。
 冒頭。

台風が近づいています。風がビルの窓ガラスをがつがつとたたきます。曇った、きしむ空の中に小さな明かりのついた部屋、その部屋にひとりの男。白髪交じりの小柄な男がいました。田口です。

 と、登場人物(?)の紹介がおこなわれる。当然、筆者は「田口」ではない。その筆者ではない「田口」の肉体の感じが、だんだんなまなましいものにかわってゆく。そこからがおもしろい。

人のいない部屋なのにしめった空気がそこらじゅうにうち澱んでおりました。息苦しい、息苦しいぞ、田口は、立ちあがり、ネクタイを緩め、薄明かりの中、浮かぶ手のひらをみつめます。手のひらには深い皺が刻まれている。みつめていると田口のからだはゆるみました。

 「みつめていると田口のからだはゆるみました。」があぶない。とても、あぶない。そこがおもしろい。
 なにか張りつめていたものがなくなって、田口が田口でなくなってゆく感じが「からだはゆるみました。」のなかにつまっていて、あふれてくる。田口を田口でなくしてしまう。当然、それをみつめる水嶋も水嶋自身ではなくなる。
 2連目の後半。

壮大な曇天の空の下、老いた猿は何か大きなものに取り残された田口自身のようであり。田口は思わず足下に力を入れました。風が足下から湧きあがり、アスファルトをおおう、落ち葉がするすると文字となって舞いあがります。

 田口は、猿になる。そして、水嶋も猿になる。そのなり方が、引用しなかった部分にあるのだが、これは水嶋が1連目で「田口」を発見したのとおなじ方法である。みつめる。みつめることで、そこに自分と共通する(かもしれない)存在をみつける。共通する存在をみつけるということは、それが似ているからではない。違っているから、似ている、という部分がみつかり、そこへのめりこんでゆく。違ったものの中に存在する似ているものが、「呼ぶ」のである。(呼ぶ、ということばが引用では省略した部分にある。)呼ばれて、聞いた瞬間に、「からだはゆるみ」、「私」ではなくなる。
 これがおもしろい。

 水嶋は水嶋ではなく「田口」になり、「田口」は「田口」ではなく「猿」になる。そして、その瞬間から、水嶋-「田口」-「猿」とつながったものが「わたし」になる。何もかもがゆるんで(それぞれのからだがゆるんで)、すべてが「私」になってしまうのだ。3連目からは、それまでの「散文体」が捨てられ、行わけになる。そして「わたし」が突然登場するのである。
 ことばを追って行くと、田口は猿に見せられビルから飛び下り、死んでしまう--という印象がある。そして、死んでしまって「わたし」になるという感じがする。人は死んでしまうと「水嶋」も「田口」も関係なくなり、「わたし」になる。「からだがゆるむ」とは「死」の体験なのである。
 --というふうに動いて行くことばが、奇妙で、こわい。そして、おもしろい。
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田島安江「鶏景」

2008-01-17 11:11:45 | 詩(雑誌・同人誌)
 田島安江「鶏景」(「somethig」6、2007年12月23日発行)
 田島は「鶏景」「鶏径」「鶏町」と3篇の詩を書いている。連作ということだろう。

旱魃続きで穀物も野菜もとれなかった年
村では週に一羽鶏をつぶした    (「鶏景」)

 という行から書きはじめている。鶏は実際の鶏である。卵も産むけれども、つぶして食べるための鶏である。そうであるのだけれど、その鶏が実際にそうであるからこそ、鶏を超えてしまう。そういう瞬間がある。
 「鶏景」の3、4連目。

あとにはがらんとして
人気のいえ鶏気のなくなった鶏舎が
残されただけである
人びとは食べては眠り
また食べては眠った

空腹は少しも癒されず
一晩眠っても
朝にはまた
空腹を抱えねばならなかった
起きるのさえ億劫であった
布団のなかでうつうつと
よからぬことを考えて過ごした
そっとマッチをすると
暗闇にぼっと
見知らぬ人の顔が映し出される
鶏の顔ではないのでほっとして
またねむるのである

 「人気のいえ鶏気のなくなった鶏舎が」というのは意識的に書いたのか、無意識に書いてしまったのか(たぶん後者だと思うが)、そのことばに象徴されているように、「人」と「鶏」が鶏を食べているうちに区別がつかなくなる。
 食べるということは、食べたものになるということである。
 ふるいふるい人間の体の中に眠っているものが、ふいに目覚めてきて、田島を超えて存在してしまう。そういう瞬間を、田島はきちんととらえている。その瞬間に対応している。
 『トカゲの人』あたりから田島は突然おもしろくなったが、この詩でも、そのおもしろさが拡大している。
 4連目の後半(「そっとマッチをすると」以降)の不思議な人間の肉体の感覚、肉といっしょにある精神の動きのなまなましい温かさはすばらしい。食べたものが人間の体のなかで肉になり、食べた人間が食べられたものになるように、肉体(肉)はそのまま精神になり、精神はそのまま肉として蘇る。切り離せない。切り離せないから、ずるずると互いに引っ張りあいながら「よからぬ」ところへ行ってしまう。そうやって「人間」ではなくなってしまう。「詩人」になってしまう。そのうち「詩人」は「死人」になって、それから括弧なしの詩人として蘇る。そんなことを予感させる作品である。

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アンドリュー・ドミニク監督「ジェシー・ジェームズの暗殺」

2008-01-17 10:37:21 | 映画
監督 アンドリュー・ドミニク 出演 ブラッド・ピット、ケイシー・アフレック、サム・シェパード

 南北戦争後のアメリカ。伝説のアウトローと彼を暗殺した男の野望と悲しみを描いている。
 映像がすばらしい。19世紀という時代を知らないのだけれど、あ、19世紀の風景だと言いたくなってしまう。空の色、枯れた草の色、雪の色--そういう自然の色がすばらしい。強い自己主張ではなく、そこに存在しながら何か他のものに頼っているというと誤解があるが、まわりと溶け合っている。融合することで、そこに存在する。その融合の間を、人間が動くとき、そこに複雑な変化が始まる。
 これはそのまま男たちの関係にもあてはまる。それぞれが何か複雑な交錯と融合を生きている(アウトローの文法のようなもの)のだが、それが微妙に狂いはじめる。野望によって。その不思議な交錯する感情を邪気いっぱいのブラッド・ピットと繊細なケイシー・アフレックが演じる。互いの表情の中に互いの野望が映る。反映する。反映するからこそ、そこから予想を超える動きが加速する。たいへんおもしろい。
 象徴的なのがクライマックスの暗殺のシーン。
 ブラッド・ピットが壁にかかった馬の絵のほこりを払う。絵にはガラスがはめられている。ブラッド・ピットはそのガラスにケイシー・アフレックが銃を構える姿を見る。これは、まるでそれを見たくてブラッド・ピットが馬の絵(そのガラス)に近づいたとさえ思えるほどの、不思議な静けさをたたえたクライマックスである。(ブラッド・ピットがその瞬間を望んでいたということは、その寸前に、彼が銃を体から外すシーンに暗示されているのだが。)
 そして、このときの映像が、またとても美しい。灰色の、つまりモノクロの絵、それに映る色彩を殺した男の服、つまり白いシャツ、黒いズボンが交錯する。そのぼんやりとした交錯の中に、ぼんやりさ加減を超えて劇が走る。ドラマが炸裂する。ただし、ここでも色は19世紀なのだ。血は真っ赤ではない。黒だ。衝撃をあおる赤を拒絶し、黒い力で引き込む。
 映画全体をつらぬくこのトーンはすばらしい。美しい。

 しかし、と私は付け加えずにはいられない。『長江哀歌』がすでにやったことの二番煎じである。この映画のトーンは『長江哀歌』をなぞっているにすぎない。これから10年はだれもが『長江哀歌』をなぞって映画を撮るだろうと思う。日常が抱え込む生活の傷跡をていねいに再現する映像文法をさまざまな形でまねるだろう。この映画は、それを19世紀の自然とファッション(家の中のインテリアを含む)に応用した。すばらしくよく消化した。ほとんどオリジナルの領域だけれど、私はやはりそこに『長江哀歌』の影響を見る。もっともこれは私が『長江哀歌』の影響下でこの映画を見ただけ、ということになるかもしれないけれど。

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金恵順(キム・ヘスン)「あなたの瞳の中の水」ほか

2008-01-16 11:37:47 | 詩(雑誌・同人誌)
 金恵順(キム・ヘスン)「あなたの瞳の中の水」ほか(韓成礼訳、「somethig」6、2007年12月23日発行)
 「somethig」にはいつも韓国人の詩が載っている。それがとてもおもしろい。「あなたの瞳の中の水」は抒情あふれる詩だが、抒情に流れない。その1連目。

私が朝起きて悲しい歌を歌えば
コップの水も悲しくなり、便器の水も悲しくなり
花の茎の中にぶくぶくと上がった花瓶の水も悲しくなり
のどの中に水をいっぱい含んだまま我慢している
蛇口の中の水も悲しくなり

 「悲しい」ということばが何度も出てくるが、そこには悲しみはない。「悲し」(み)ということばは、「悲し(み)」を探している。
 金は「悲しくなり」と書いているが、その「なり」に抒情を拒絶する力がある。悲しいのではなく、悲しく「なる」。動詞なのだ。感情を動詞としてとらえる精神の動きがある。激しさがある。
 その過激さが「便器」を呼び出す。
 あるいは「花の茎の中にぶくぶく上がった」の「上がった」という動詞を誘い、「我慢している」も引きずり込む。じっとしているのではなく、動き回るのである。「我慢している」でさえ、「のどの中に水をいっぱい含んだまま」と「含む」という動詞といっしょに存在する。そして、この動詞が、「のど」という肉体を覚醒させる。もちろん、この「のど」は蛇口ののどのことであるが、「のど」と書いた瞬間からそれは蛇口ではなく金のにくたいそのものになる。蛇口は金の肉体なのだ。
 存在と肉体がシンクロし、精神を、いままで動いていなかった場所へと駆り立てる。そして、そのことばに駆り立てられながら、駆り立てられることを利用してことばはさらに動いて行く。詩になって行く。

 3連目。

流れる水は流れながら身を洗うが
こんなに悲しい歌は私の体の中で淀み
流れ出すこともできない、排水口の栓が泣き
その下のパイプが泣くのだ

 肉体のこの変身、変形。自己が自己でなくなる。その瞬間こそ、自己を貫く精神がなまなましく生き延びる瞬間である。自己を否定して、自己を獲得する。「悲しみ」のなかに溺れるのではなく、悲しく「なる」こと、悲しみを作り出すことの意味がここには存在する。



「梅雨」もおもしろい。

幽霊たちはいつもぶつぶつ、言います
その中でも恨めしく死んだ女たちが一番うるさいです
初恋に落ちた幽霊は意外にひたひたと静かに現われ
狂った女の幽霊は少し恐ろしく現われます
髪の毛に稲妻が付いて来るからです

湖水はそんなに強く叩いてはいけません
たたいた所ごとに血の水が上がって来ます

口からミミズが出ているあの女
あまり叩くのは止めてください
毎日毎日叩かれるから口から
ミミズが一かます、二かます零れ落ちるじゃないですか
後でその内臓までゲーゲーすべて吐いて
空になって潰れるように崩れて行きます
臭いが大変ひどいですね

 入水自殺した女の姿を描いているのだが、描くたびに金はその女に「なる」。しかし、そういう女に「なった」からといって、そのままでは終わらない。そういう女に「なって」、しかもその女を「書く」のである。
 金にとって「なる」と「書く」ことは同義なのである。
 そういう女に「なって」「書く」と私は書いたが、ほんとうは、「書く」ことで、そういう女に「なる」と言い換えた方がいいかもしれない。「書く」ことで金は金という自己を超越し、女という普遍を手に入れる。
 そのとき、ことばは詩になる。

 すぐに「somethig」を買って、その全編を読んでください。

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藤維夫「アルカディア」

2008-01-15 11:52:44 | 詩(雑誌・同人誌)

 藤維夫「アルカディア」(「SEED」14、2007年12月31日発行)
 普通の会話ではつかわないことば。それをあえてつかう。つかうことで、無意識をかきまぜる。--詩をそんなふうに定義してみたくなるときがある。たとえば藤の「アルカディア」の2連目。

永遠のアルカディアの美酒を飲む
幻影の始まりと終わりまで
木や花や鳥 生き物たちのベッドはきっとあたたかいものだ
帰還していく朝の季語と改行のときが明るくなる
青ざめた顔が美しく蘇るなか
最初のブラームスがきて ソナタのピアニシモは終わる

 「改行のときが明るくなる」。まさに意識が「改行」される。音楽でいえば「転調」かもしれない。「最初のブラームスがきて」の「きて」が、また美しい。「くる」という動詞は日常的にはこんなふうにつかわないが、「改行のときが明るくなる」ということばの使い方が新鮮なので、この「きて」の違和感がなくなる。「きて」以外のことば方が不自然かもしれない--そう感じさせるほど美しい。
 そして「きて」に対応するように「ソナタのピアニシモは終わる」の「おわる」。1行のなかに「きて」と「おわる」が同時に存在するスピード。ここから藤のことばは飛躍する。ありえないことを、そのスピードにまかせて呼び込んでしまう。
 3連目。

新緑の木々と 紅葉の木々
卵黄のような脳髄 浮腫のような睾丸
バレンボイムの指揮棒は終わらない

 「新緑の木々」と「紅葉の木々」は普通は併存しない。新緑の木々の隣に紅葉の木々があるということはありえない。ここでは「時間」はかきまぜられている。そのかきまぜられた「時間」のなかから「脳髄」と「睾丸」が並列して浮かび上がる。「新緑」と「紅葉」のように、遠く離れたものが一瞬のうちに出合う。
 かきまぜられた無意識が、「意識」の世界ではありえないものを出合わせる。この出合いを快感と感じるか不快と感じるか。それが「現代詩」に向き合ったとき、たぶん、読者を2つに振り分けるのだろう。「おもしろい」と「難解」に。 それまでの「意識」を退屈にかんじるひとには「おもしろい」ものに見え、いままでの「意識」を手放したくないひとには「難解」に見える。



 ということは別にして……。3連目の「卵黄のような脳髄 浮腫のような睾丸」に私は西脇順三郎を思い出した。くるみを天使の睾丸と読んだ西脇を。そして、「あとがき」にかえてという副題をもった(イカロスの踊り)を最後のページに見つけた。

永遠を歌った西脇順三郎は小千谷に行ってしまった
銀杏を拾いどんぐりを積み
それから先の詩の休暇は楽しい
風の声も鳥の歌声もイカロスの踊りもつづいている

 こういう偶然(?)は楽しい。もう季節はすぎてしまったが、これが晩秋ならば銀杏ひろい、どんぐりを積みに行きたくなる。「意識」なんかは全部放り出して。

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広岡曜子「潜り戸」ほか

2008-01-14 14:44:37 | 詩(雑誌・同人誌)
 広岡曜子「潜り戸」ほか(「左岸」31、2007年12月24日発行)
 連作「京都」という形で3篇。そのどれもに肉体が微妙な形で出てくる。

町家のおじいさんは
奥座敷に座ったままで
ようこちゃん、あんたの小指、細いさかいに耳かきになるわ

にやにや笑っている
最近はろくろ遊び
形のととのわない緑色の魚の皿が
ときどき座敷を泳いでいる

祇園のそばの
旧家では
潜り戸(くぐりんど)を潜って
長い時間を ひょと超えていく

あかない蔵には
いまも古い雛人形が そろって眠っているらしい

降り積もった湿気もいっしょに
人形の
深く切れ込んだ目と 真っ白な胸のはだけるところまで
                 (「潜り戸」)

 教官が少女の平泳ぎの形の足を指さして
「どうだ、きれいだろう。」
と告げる
 深緑色の藻が、ねっとりと両足にからみつく。藻は、遠く
湖から運ばれたのかもしれない。

「あそこはものすごく深いんだってね…。」
 おさげの友人が上目遣いで耳打ちする。そう、だれも
水底の秘密を知らないのだ。
                (「南禅寺界隈」)

すっかり化粧の落ちた顔を
レジの大きな鏡で見て
そして、
ちょっと口元で笑ってみる

ふふふ、
                  (「秋の楽隊」)

 「潜り戸」「南禅寺界隈」は「過去」の時間を呼び寄せる。「肉体」のなかにはいつも「過去」が川の淀みのようにつもっている。水は流れているのか、それとも淀みだけをのこして他の水が流れていくのか。そんなことを思わせるように、肉体をのぞきこむとかならず「過去」がわきあがってくる。「肉体」として他人に見られた記憶が。
 広岡は、その不快さのようなものを、隠さずにみつめている。
 広岡が、肉体である、ということを受け入れている、ということだと思う。そのときの受け入れの姿勢が、妥協でもなければ、あきらめでもない。挑戦、というのでもない。ちょんとことばがみつからないのだが、「秋の楽隊」の、

ふふふ、

のなかに、その不思議な感じが凝縮している。
 「町家のおじいさん」も水泳の「教官」も、結局、思っているだけで、肉体のなかになにが動いているか知らないでしょ、と言っているような感じなのである。
 こうした世界が、なぜ「京都」なのか。
 京都というのは、知ってるつもりでしょ? でも知ってるのはそこに住んでいるひとだけ。京都は「街」ではなく「肉体」、「過去を抱え込んだ肉体」ということなのかもしれない。
 3篇読んだだけではまだよくわからないが、連作が完成したとき「肉体としての京都」が浮かび上がってくるのかもしれない。それも「観光都市」としての「肉体とその過去」ではなく、「日常」としての「肉体」と「過去」が。
 そんなことを期待させる3篇である。

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大江健三郎『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』

2008-01-13 14:56:43 | その他(音楽、小説etc)
臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ
大江 健三郎
新潮社、2007年11月20日発行

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 大江健三郎の文体が変わった。その書き出し。

 肥満した老人が、重たげな赤い樹脂製のたわむ棒(フレクス・バー)を左手に、足早で歩いていく。

 「重たげな赤い樹脂製のたわむ棒(フレクス・バー)を左手に」という修飾語の重なった文はかつての大江健三郎のままだが、「肥満した老人が、」「足早で歩いていく。」という簡潔さに私はちょっと驚いた。ここから何かが始まる--そういう予感が漂ってくる。
 小説が始まってすぐ、

 --まだ百歳までには時間があります。小説も、主題というより、新しい形式が見つかれば書くつもりです。

 という「種明かし」があるが、大江は新しい形式を手に入れたために、この作品を書きはじめたのである。その形式にふさわしい文体が、冒頭の、途中にかつての大江独特の修飾過多の名残は残しながらも、簡潔な姿である。
 大江がここで試みているのは「映画」と小説の融合である。映画の文体を小説に取り込むことである。冒頭は、たしかに映画の文体になっている。カメラの視線でとらえられている。

 肥満した老人が、重たげな赤い樹脂製のたわむ棒(フレクス・バー)を左手に、足早で歩いていく。その右脇を、肥満した中年男が青いたわむ棒(フレクス・バー)を握って歩く。老人が右手を空けているのは、足に故障のある中年男が重心を失った時、支えるためだ。狭い遊歩コースで擦れちがう者が興味を示すけれど、たわむ棒(フレクス・バー)の二人組は、かまわず歩き続ける。
 老人が(私だ)、不整脈を発見されて水泳を止めた時、……(略)

 これが映画ならば、スクリーンに映し出されるのは、顔を移さず、首から下の姿で老人(肥満)がわかる人間の姿である。顔を省略するのは、その老人の姿をまず印象づけるためである。左手に棒を持っている。カメラは顔を写さず、首から下へ、つまり胸から、棒もった手へ移動し、そして棒から棒の先端、地表の近くへと移動する。足早に歩く、その足を映し出す。それから少し角度を広角にとり、隣りを歩く中年の男を、その足元を映し出す。棒を映し出す。さらに広角になり、擦れ違うひとを写す。擦れ違うひとの視線を写す。だが、まだ老人の顔は写さない。状況を明確にした上で、ようやく、

 老人が(私だ)、

 と主役の「顔」が映し出される。
 この映画の文体をどこまで維持できるか、というのが小説家の本当の仕事なのだが、私の印象では、それは完成されていない。まだまだ映画になりきっていない。けれども、そういう文体を試みていることに、私はとてもこころを動かされた。新しいことをやろうとする意欲というものに引き込まれた。

 映画と芝居は、ともに役者を必要とする芸術だが、その形式は大きくちがう。映画にはフィードバックという便利なものがあるが、芝居にはそれがない。芝居は常に「今」のなかに「過去」を抱いたまま「未来」へ動かなくてはならない。映画は小説といくらか似ていて、「今」を描きながら突然そのなかに「過去」をまぎれこませ、実は「過去」にこういうことがありました、と説明できる。しかも、何度も何度も「過去」を繰り返し登場させることで、その「過去」の意味あいを少しずつ変えていくということが可能である。この映画の便利な便利な技法が、この小説では随所に取り入れられている。
 ストーリーが展開するにつれて「過去」がつぎつぎと(しかもおなじ「過去」が)繰り出され、徐々に「過去」という全体が浮かび上がってくる。そして、それが「今」を乗り越えて「未来」へあふれだす。関係なかった登場人物の「過去」が繰り返されることで重なり合い、単独でははっきりしなかったものが見えてくる。--ようするに、破局があらわれる。カタストロフィーといってもいい。
 この小説では、私の「アナベル・リイ」(ポーの詩)と少女ポルノの映像、女性主人公の役者の少女ポルノを撮られた記憶が、ひとつの映像の中で出合う。
 そして、その破局ゆえに、その破局のなかの悲劇、傷ついたヒロインが、傷を手がかりに再生する。生まれ変わる。
 この小説を映画の「脚本」そのものとして読むにはかなり厳しいけれど、その手法は、私のような映画が大好きな人間から見るととてもおもしろい。あ、大江健三郎は映画を見たことがあるんだ、ということさえ驚きであった。映画から文体を作り替えようとしていることも以外であった。

 文体とからんでくる問題だが、この小説には、女主人公の再生が「過去」にもきちんと描かれている。破局を超えて主人公が生きて行ける理由が「過去」のなかに丁寧に描かれている。映画を見終わった瞬間、あるシーンが突然意識の中でフラッシュバックを引き起し、一瞬のうちに映画の全体をもういちど頭の中でよみがえる時があるが、それに似た現象を引き起こす場面がある。

 --病気で臥(ふ)せっている「メイスケさん」を「メイスケ母」が励ましてやる言葉、私はあれが好きです。「もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。」

 女性は産む性である。何度でも産む。「あなたが死んでも、私がもう一度、産んであげる」。それがたとえ母子相姦でも気にしない。女主人公ははっきり言っている。「本当の母親だったとしても、何が悪い、という気がする」と。
 ここには大江健三郎の「夢」というか「願い」が込められている。もう一度産んでもらいたい、という夢ではなく、女のように、もし大切なものが死ぬならもう一度産んでやりたいという夢が。主人公(私=大江)と女主人公の夢が少女ポルノの中で重なり合い、破局してしまった瞬間、「私」と「女主人公」は重なり合い、互いの中でもう一度生きるのである。互いに相手を産み、そして産まされるのである。
 それの何が悪い?
 何も悪くない。感動してしまう。

 『新しいひとよ目覚めよ』にも感動したが、常に新しい文体を作り出して行く大江には、やはり感動してしまう。

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井川博年「語らい」

2008-01-12 11:02:06 | 詩集
現代詩手帖 2008年 01月号 [雑誌]

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 井川博年「語らい」(「現代詩手帖」2008年01月号)
 井川博年「語らい」はとても不気味な詩である。「現代詩手帖」 1月号には何篇も作品がのっているが井川の詩がいちばん不気味である。日常と非日常のつなぎめ、ずれと、それを見つめる視線が不気味である。そんなところだけに感情をつめこもうとするこころのありようが武器見てある。

きょうだいや
ともだちと
旅の宿で枕を並べて
夜を語りあかすのは
なんと楽しいことだろう

電気を消した部屋の中で
遠い日の父母の思い出や
近所のひとたちの知らなかった話
みんなが共通に知っている
ひとたちの変わったエピソードを
ほそぼそと寝床の中で交わすのは--

温かい布団の中から
亀のように首だけだして
お湯で温まった手足を詩を伸ばし
可笑しい所になると布団に潜りこみ
足をばたばたさせて
笑いころげるのだ

--楽しいことは
いつまで続くのか
いつしか夜も更けてくると
いつの間にか隣のりの話し声も止み
声をかけてもすーすーという
寝息が聞こえるばかり

さみしくなり
ひとり暗い窓の外の
風の音を聞いていると
人の世の短さをつくづくと
思い知らされるのだ。

 「なんと楽しいことだろう」と書きながら、その「楽しさ」がすでに寂しさを含んでいる。「旅の宿」。その「旅」も「宿」も日常ではないからである。日常から少しずれた場所である。
 そこで「遠い日」の思い出、あるいはすでに「知っている」こと、「知らなかった」ことを語る。語られる世界は「今」ではなく、「今」ここにはない時間である。その変えることのできないものに触れながら「笑いころげる」。
 そして、「笑いころげ」ることで「今」を楽しんだと思うまもなく、「--楽しいことは/いつまで続くのか」と、「楽しいこと」から遠ざかる。
 「なんて楽しいことだろう」と書いたのが嘘のようである。「なんと楽しいことだろう」は「なんと寂しいことだろう」と同義なのである。
 ここには「すきま」がある。「ずれ」がある。「すきま」「ずれ」は、そして必然的に生まれたものというより、井川が彼自身の思いで作り出した「ずれ」「すきま」である。そして、井川にとっては詩とは、そういう「すきま」「ずれ」を作り出し、そのなかにどっぷりと沈み込むことでもある。

 この作品には書かれていないことばがある。

--楽しいことは
いつまで続くのか

 「--」。わざわざことばを隠し、隠していることをみせるこの「--」。そこにはことばが隠されている。
 「しかし」である。
 「しかし」は逆説の接続詞である。「しかし」がこの詩にはいくつか隠されている。どうしてもその存在を明確にしなければならないときだけ「--」という形で、隠した形でつかわれているのだが、ほんとうに隠された部分を読み取っていくと……。
 きょうだい、ともだちと旅の宿で語り明かす。「しかし」語るのは「旅」の話ではなく(きょうの思い出ではなく)、もう知っていること(ひとりが知らなくても他の人は知っていること)である。その話をしながら笑い転げる。「しかし」楽しいことはいつまでも続かない。
 そのあとが絶妙である。「そして」楽しい語らいがおわると「さみしく」なってしまう。「そして」風の音を聞いていると人の世の短さを思い知らされる。
 この最後の「そして」はほんとうに「そして」なのか。「しかし」でも可能である。区別がつかない。入り交じっている。人の世の短さを知らされると書きながら、それを書くこと、書けることの楽しさ(喜び)がここにはひっそりと隠されている。

さみしくなり
ひとり暗い窓の外の
風の音を聞いていると
(しかし)
人の世の短さをつくづくと
思い知らされるのだ。
(と書くことができる
書く喜びを味わうことができる)

 私は、どうしても、そう読んでしまうのである。そして、私が最後に補ってみた2行を完全にふっきるように(つまり、そういうことを想像させないように)、詩の最後にだけ記された句点「。」に、どこまでもどこまでも抒情に淫していこうとする意思のようなものも感じ、それも非常に不気味なのである。
 

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高橋睦郎「小夜曲 サヨコのために」

2008-01-11 10:36:45 | 詩(雑誌・同人誌)
現代詩手帖 2008年 01月号 [雑誌]

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 山口小夜子に捧げられた詩である。高橋は小夜子に「詩」を見ていた。高橋にとって小夜子の「衣装」は詩にとっての「ことば」であり、「着る」ことは「書く」ことであった。
 たとえば

古い門 新しい階段
布を裁ち ミシンを踏む学校
教科書で指名され 立ちあがり
読まされて 忘れられない一節
「化粧術は死者をよみがえらせ
衣裳術は蘇生者を立ちあがらせる」
それは 遠い古代の死んだ国の谺
いいえ お墓の中からの
なつかしい声

 「化粧術は死者をよみがえらせ/衣裳術は蘇生者を立ちあがらせる」がほんうとに教科書に書かれていた文章か。また山口小夜子がほんとうに感動したことばか。それはわからない。むしろ、それは高橋が山口小夜子のためにつくりだしたことばのように思える。そして、高橋自身に向けて発していることばのように思える。

「ことばは死者をよみがえらせ
詩は蘇生者を立ちあがらせる」

 高橋のことばは山口小夜子をよみがえらせ、そしてその詩は山口小夜子を立ちあがらせる。つまり、生き生きと、読者の前に現れ、動きだす。そして、そのよみがえり、立ち上がり、動く山口小夜子は、実は高橋そのものである。
 この至福のような一体感は次の部分を読むといっそう強まる。

私は着た
風を着た
空を着た
夜明けを着た
夕焼けを着た
海を着た
草原を着た
廃墟を着た
地下迷路を着た
考古学を着た
占星術を着た
髪霊術を着た
着ては脱ぎ
脱いでは着ながら気付いた
着ては脱ぐ私も一種の服で
本当は着られているのだと
私にも本当は
顔も体もないのだと

 「着た」を「書いた」にすれば、それはそのまま高橋である。前半は省略して、後半だけ書き換えてみよう。「服」は詩である。(「脱ぐ」は「捨てる」と、とりあえず書き換えてみる。ことばを書くということは、ことばを捨てることだから。)

書いては捨て
捨てては書きながら気付いた
書いては捨てる私も一種の詩で
本当は書かれているのだと
私にも本当は
顔も体もないのだと

 「書かれている」は「書かされている」にしてしまうと、池井昌樹になってしまう。高橋の場合は、「書かれている」である。
 ことばによって「書かれる」。「書かれる」とこで高橋自身が「詩」になる。高橋自身が「詩」になってしまうからこそ、そこには高橋の顔はない。たとえば、この作品では、そこには高橋の顔も体もなく、ただ山口小夜子の顔と体があるだけなのだが、その一体感、高橋が山口小夜子の顔になり、体になるという一体感が高橋のことばのすべてなのである。
 高橋のことばはあらゆる対象のなかに高橋を封印し、消し去り、そうすることで高橋と世界は和解する。一体になる。

 最終連。

蒙古斑の幼女のお尻
のような すべすべの
満月がのぼる
いつか風が出て
満月の表面に
蒙古斑のような
さざなみをつくる
さざなみがくりかえし
月を洗い 洗い流した後
夜明けが立ちあがる
私は夜明けに溶け
私は夜明けになる
かつて着たことのある夜明けに
夜明けになった私を着るのは
誰だろう

 とても美しい連だ。終わりから2行目の「着る」はもちろん「書く」である。山口小夜子と一体になった高橋--それを書くのは、誰だろう。その問いに、私は、思わず、私はこんなふうに書いてみました、と言うしかないのだが、ここには深い深い祈りがある。詩への限りない祈りがある。

 詩は読まれねばならない。引き継がれねばならない。


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蜂飼耳「雪ノ下」

2008-01-10 11:14:40 | 詩集
現代詩手帖 2008年 01月号 [雑誌]

思潮社

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 蜂飼耳「雪ノ下」(「現代詩手帖」2008年01月号)
 蜂飼は名前に「耳」という文字を持っているが、その名にふさわしい優れた耳を持っていると思う。「耳」で聞き取る音が世界を開いてゆく。どの作品を読んでも、そう感じる。
 「雪ノ下」の冒頭。

川の片目が
開くときだれかの
両の眼はとじていく

 「川の片目が」の「か」の音の繰り返しに誘い込まれてしまう。「開くときだれかの」には「か」行は隠れながら「ら」行を引き出す。そして「両の眼は閉じていく」と「ら」行の音を冒頭へ放り出す。しかも一回限り。「両眼」ではなく「両の」とその音を浮き彫りにするかのようにゆったりとのばされる音。
 私は、もう、ここで夢中になってしまう。

 つづく2連目。

雪 雪

 音が変わる。音楽でいえば、一種の転調というところか。しかし、ほんとうに転調したかどうかは、まだわからない。「雪 雪」というリズム、繰り返すことで強調されるリズムが、転調のはじまりを予告するようで、わくわくする。

 3連目。

引き取られるものはそのとき息で
血圧酸素の値は低下 断崖を象(かたど)る波形(はけい)は
出没の数を減らしていく(雪 雪)

 何もかもが変わる。転調を通り越した転調かもしれない。それにしても「断崖を象る波形は」という音の美しさは異常だ。美しすぎる。耳に美しいということを超越して、口蓋に、舌に、その半分無意識に動かす筋肉のすべてに美しい。快感を引き起こす。
 そういう音楽を響かせておいて、最後に通奏低音のように

(雪 雪)

 括弧の絶妙さ。2連目の「雪 雪」が静かに、遠くで、しかし確実に響く。こういうときは、もう、音楽に身をゆだねて、それに酔うしかない。
 3連目の後半から4連、5連の初めにかけても、美しいとしか、ほかにことばが見つからない。

かなしみ追い越し浮かぶ魚屋
店頭で手を拭く 店名の薄れた前掛けに
捌(さば)く両手は隠され流されて

雪 雪
 雪 雪 雪

こごえる地平が握る掌ゆるめないときは
 握られたまま、繭つくる繭つくる

 隠された(省略された)助詞がことばの動き、リズムを加速させ、なめらかな輝きを響かせる。
 意図的なのか。それとも無意識なのか。意図が無意識になり、無意識が意図になってしまった「天才」の音楽がここにある。

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ヨシフ・ブロツキイ「ケロミャッキ」

2008-01-09 09:11:52 | 詩(雑誌・同人誌)
 ヨシフ・ブロツキイ「ケロミャッキ」(たなかあきみつ訳、「ロシア文化通信 GUN  群」31、2007年12月28日発行)
 詩はことばを新しくする。古いことばを洗い直し、真新しくする。ローゼ・アウスレンダー『雨の言葉』を読んだときに、そう思ったが、ブロツキイにもそれを感じる。
 ただし方法は違う。
 ローゼ・アウスレンダーはほとんどのことばを捨て去り、ひたすら捨て去り、捨て去ることで、新しくなろうとする。すべてを捨てることを通して、はじめて「あなた」に会えるとでもいうように。
 ブロツキイは雄弁である。たとえば、「ケロミャッキ」の「Ⅶ」の部分。

どうでもよい。さまざまな冬の空間の生石灰は、じぶんの餌を
郊外のひとけのないプラットホームから拾い集めつつ、
それら空間に針葉樹の枝の重みで
黒いコートをはおった現在を置き去りにする、そのラシャ地は
チェヴィオットラシャよりももっと丈夫で
そこで未来を予防しさらに
過去をいぶしガラスのさえぎるビュッヘェよりもすぐれて予防した。
黒以上に恒常的なものはなにもない。
こうして文字が誕生する、あるいは《カルメン》の動機が。
こうして転換の敵対者たちは服を着たまま眠りこむ。

 「拾い集める」が特徴的だが、ブロツキイは捨てるのではなく、「拾い集める」。見落としてきたものを。ただ集めるだけではなく、「主語」を「私」ではなく、「おまえ(あなた)」でもなく、人間以外のものに譲りながら拾い集める。
 これはある意味では、「私」が「私」であることを捨て、たとえば「生石灰」として生まれ変わるということでもある。
 そのとき、世界はまったく新しくなる。「私」がいなくなるので、感情は行き場がない。しかし感情というもの、思いというものは、どんなときにだって存在する。たとえ「私」が「私」であることを捨てたときでも、感情は、そこにうごめいている。生まれてようとしてうごめいている。「生まれ変わる」と書いたのは、そういう意味である。「世界」が視点を変えることで生まれ変わり、そのまだどんな感情にもまみれていない世界のなかでまっさらな感情ごと、純粋な感情ごと、「私」はそれまでの「私」ではない人間になってしまうのである。
 方法は違うが、ブロツキイもまた別の意味で「私」を捨てるのである。捨てることでのみ、人は新しくなる。
 矛盾した言い方でしか書き表すことができないのだが……。
 ここにはすべて捨てられたことばが書かれている。捨てようとしたものが書かれている。「拾い集め」たものすら、実は知らずに身につけたものである。知らなかったということを、自覚し、捨てるのである。そこにはすべてブロツキイの体温の刻印がある。「生石灰」に自分自身を譲っているときでさえ、そこにはブロツキイの体温が、ブロツキイの生きてきた時代・世界がもっている体温が刻印されている。初めて出合った(初めて目撃した)世界のようにブロツキイは書くが、それはすべてブロツキイが自覚しないままいっしょに存在していた世界である。ブロツキイは世界はほんとうはこうだった、と意識しながらことばを脱ぎ捨てる。自分体温、無意識の体温を帯びた無数の存在・ことばを脱ぎ捨て、寒風の中にさらす。そのとき、その震えから、感情が新しく生まれるのである。生まれ変わるのである。
 生まれ変わるということは、いままでの延長線上にはことばはうごかないということでもある。どうしても、なにかにぶつかるたびにうねってゆく。「生石灰」が「拾い集め」たものは何? 簡単に言えない。針葉樹と思えばラシャにかわり、カルメンにもかわってゆく。うごめきながら、世界を異形のものにする。--異形をつくりだすために、異形を意識させるために、詩は存在するのだ。



 冬生まれ、雪国生まれの私としては、「Ⅱ」の部分がいちばん好きである。

《σ(ペー)》字形ではじまる海の細かいながらかな波、
遠目にはもろもろの自己観念と酷似している波は
くねくねと蛇行しつつだれもいない浜辺にどっとうち寄せ
皺となって凍りついた。山査子の裸枝のかもす
乾いた恐怖感はときおり網膜に
あばたの樹皮でおおうよう促した。
さもなければ鴎らが雪煙からぬっと現れた、
何も書かれていない紙のような白日の
だれのものでもない手によって汚された隅のように。
そして久しくだれも点灯しなかった。

 「鴎」の描写が特に好きである。冬の海を思い出す。雪を思い出す。風を思い出す。そして、鴎の腹の白い輝きを思い出す。背中は冬の空に吸い込まれ、一体になってしまっている。腹だけが光をはなつようにきらきらと生きている。その鴎を。
 ブロツキイのみた鴎と私の知っている鴎は違うだろう。それでもブロツキイの鴎ということばのなかで、私の鴎がもう一度、生きて、舞うのである。


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Diana Krall 『All for you 』

2008-01-09 00:51:23 | その他(音楽、小説etc)
オール・フォー・ユー~ナット・キング・コール・トリオに捧ぐ
ダイアナ・クラール,ラッセル・マローン,ポール・ケラー,ベニー・グリーン
ユニバーサル ミュージック クラシック

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 Diana Krall 『All for you 』
 12曲目の「If I Had You」がたいへんおもしろかった。大野れいの訳では次のようになっている。

どうやって微笑むのか
世界中に教えてあげるわ
いつもいつも
幸せな気分でいられるは
曇り空を青空に変えることだってできる
もしもあなたがいれば

 仮定の歌である。実現してはいない歌である。それなのに、たいへん幸せな気持ちになる。
 仮定は夢であり、願いであり、祈りである。
 そして、人は夢、願い、祈りの中で幸せになるのだ。
 ダイアン・クラールの声はハスキーでおしつげがましさがない。迫力がない、ともいえるのだが、その一歩引いた感じが、仮定の夢、祈りの雰囲気にとてもあっているということかもしれない。

 「A Blossom Fell」もシンプルで気持ちがいい。「If I Had You」もそうだが、ダイアナ・クラールはドラマチックな音でひとを引っ張って行くというよりも、その静かさ(平穏さ、穏やかさ)のなかでひとを安心させるというタイプなのかもしれない。
 聴いているうちに、徐々に、その魅力がつたわってくる。

 ピアノの弾き語りだが、ピアノの音が非常にやわらかいのも、彼女の声にとてもよくあっていると思った。
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武田肇『海軟風』

2008-01-08 09:47:35 | その他(音楽、小説etc)
 武田肇『海軟風』(銅林社、2008年02月01日発行)
 句集である。私は俳句は門外漢である。何も知らない。だから私がこれから書くのは批評ではなく、ことばへの感想である。
 この句集はとても疲れる。縦長の本で、紙が厚い。広げるのに苦労する。そういう物理的なことに拮抗するようにして、ことばがとても多い。俳句だから17文字のはずなのだが、17文字の軽みがない。 1ページに2句ずつという配置(?)も、とても重たい。重たい俳句を目指しているのかもしれないが……。

二分後も切り立つてゐよ春の崖

 この句に惹かれた。「春の崖」の「春」が軽いからだと思う。「冬の崖」だったらたぶん重たくてやりきれない。なんだか投身自殺したあとも、そこに崖のまま突っ立っていろよ、といっているような感じがする。「春」だから軽い。明るい。「切り立つて」もきらきら輝いている岩の感じが出ている。
 これに音楽が加わるととてもいいのになあ、と思う。(私は欲張りである。)「切り立つてゐよ」という中7文字には音楽を感じるが、「春の崖」がそれを壊している感じがする。「崖の春」ではまずいのかな? 音楽は、しかし、個人差があって、私が心地よいと感じるものと武田が心地よいと感じるものは違っているだろうから、まあ、これはほんとうに単なる思いつきの感想にすぎないのだろうけれど。

空港へむげんに遅れる春の客

 この句もおもしろいのだが、「遅れる」で、私はつまずいた。「空港へむげんに」まではとても響きがよい。特に「むげんに」がのびやかでいいなあ、と思う。漢字ではなく、ひらがなで表記したところがさらに伸びやかさをおしひろげる。ただし、「むげん」は鼻濁音で読んで、という限定つき。鼻濁音ではない「げ」だと、とたんに厳しくなる。ぎすぎすしてくる。
 武田は鼻濁音を正確に発音するだろうか。
 私は九州に住んでもう長くなるが、今でも、が行の音が嫌いで、ぞっとする。学生時代「***実現」とデモしている仲間に会ったが、「実現」は私には「実験」にしか聞こえなかった。「順吾」という名前は「順子」にしか聞こえなかった。坂口安吾は「さかくち・あんこ」である。大好きな「林檎」も「りんこ」。これは、ほんとうにぞっとする。傑作は「市外電話」。私が発音すると「しないでんわ」と聞こえるらしく、話が通じなかったことがある。
 ふと、そなんことを思い出しながら読んだのだが「むげん」は鼻濁音であってほしい。

雲雀野や家具一斉にそとへ出る

春泥を押し上げてゐる笑窪かな

 これもおもしろいが、やはり音楽が気になる。目で読んだときはおもしろいのに、意識の中で声帯が動きはじめると何かがひっかかる。
 私は濁音というのは清音より豊かで美しいと感じる人間だが、武田の濁音にひっかかる。「春泥」はきれいな音だが「笑窪」と組み合わさると、その美しさが消えてしまう。どうしてだろうか。「しゅんでい」というのびやかなリズムを「えくぼ」というリズムが殺してしまう。
 「しゅんでい」の「しゅ」はすばやく動いて、1音なのに半分の音に聞こえる。一方「ん」は母音がないので音は半分という感じ。「しゅ」と「ん」で2音になり、さらに「でい」は実際には「でえ」と「で」のなかの「え」を引きずる感じでゆったりのびて2音。「しゅんでい」のなかだけで、音楽が楽しめる。
 その音楽と「えくぼ」が私の感覚では、完全に不一致。不協和音ならぬ不協リズムである。「えくぼ」の「く」は私の耳の印象では3音ではなく2音である。アルファベットで表記すると「EKBO」、「く」は「う」を含まない。(「草」の「く」も最近の感じでは子音Kだけにしか私には聞こえないし、自分で発音するときもUはほとんど欠落している。)

鞦韃よりうへにあり春日と死と

 この句もおもしろい。でも、これも目で読んだとき。声に出すと舌になじまない。

 たぶん私の感じる音楽と武田の感じる音楽はまったく別のものなのだろう。音楽が違いすぎて、私は、武田の句はとても疲れる。

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ローゼ・アウスレンダー『雨の言葉』(2)

2008-01-07 00:43:34 | 詩集
雨の言葉―ローゼ・アウスレンダー詩集
ローゼ・アウスレンダー,加藤 丈雄
思潮社、2007年12月25日発行

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 「言葉」について書かれた痛切な詩、思わず涙がこぼれてしまう悲しい祈りの詩がある。「言葉と言葉」。その全行。

私たちは隣同士
言葉と言葉の

ねえ
おしえてください
あなたのいちばん好きな言葉を

私のは
あなた        (谷内注・「あなた」はゴシック体)

 「言葉」を生きる。そして「言葉」を生きるということは、「言葉」を使って語り合うということである。だれかとつながるということである。触れ合うということである。「あなた」と。「私」を「私」のまま受け入れてくる「あなた」と。そのひとりをローゼ・アウスレンダーはひたすら求めている。そしてそれはほんとうは彼女の外にはいないのである。彼女の中にいるのである。彼女は自分自身と「和解」したがっているのである。生きている--そのことと「和解」したがっているのである。
 そして、その「和解」は「言葉」を書くこと。「言葉」を書くことで「あなた」ではなく「私」でありつづけること。--そういう矛盾でしか成り立たない「和解」である。
 この「和解」のことを、ローゼ・アウスレンダーは「愛」とも呼んでいる。
 「愛 Ⅴ」という作品。

私たちは互いをまた見いだすでしょう
湖の中で
あなたは水として
私は睡蓮の花として

あなたは私を運ぶでしょう
私はあなたを口にふくむでしょう

私たちは互いに一部となるでしょう
みなの見ている目の前で
星さえも
驚くことでしょう
今二人ハ
モトノ姿ニ戻ッテシマッタ
自分タチヲ選ンダ
夢ノ姿ニ

 「あなた」と「私」、「水」と「睡蓮」は、「詩」と「言葉」に置き換えることができる。「詩」と「言葉」は水と睡蓮のように出会い、互いを選び合うのだ。そして一体となる。切り離しては存在し得ない。ローゼ・アウスレンダーにとって「言葉」とは「詩」であり、「詩」とは「言葉」である。そして、そのなかで命は「和解」するのである。「生きる」ということが、その瞬間だけ、許されるのである。



 もう1篇。悲しく、美しい詩。「分ける Ⅱ」。

私はふるい落とす
ひとつの林檎を
夢の中から

さあ
分けましょう
この実を

この身の中の
虫を

この夢を
さあ
分けあいましょう

 「林檎」と「虫」は「詩」と「言葉」である。「林檎」のなかで「虫」は生きる。そして「林檎」と「虫」は「命」と「言葉」でもある。それは別々には生きられない。
 「虫」は「林檎」を傷つけながら生きる。「言葉」は「命」をむしばみながら生きる。そして、むしばむこと、傷つけることで、「命」の輝きを知らせる。そういう矛盾でしかありえない関係がある。

 この作品の中で「虫」ということばは洗い直されている。私たちが普通考えている「虫」、「林檎」をむしばみ、傷つけるだけの「害」のあるものとしてではなく、生きる力として新しくよみがえっている。
 「詩」とは、常に、そうやってことばを洗い直し、新しくする働きのことでもある。


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ローゼ・アウスレンダー『雨の言葉』

2008-01-06 10:04:39 | 詩集
雨の言葉―ローゼ・アウスレンダー詩集
ローゼ・アウスレンダー,加藤 丈雄
思潮社、2007年12月25日発行

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 「言葉」という表現がたくさん出てくる。「言葉」しか、なかったのだ。ローゼ・アウスレンダーには。そのことが、まるで生傷のように、ひりひりと痛みをともなってつたわってくる。それは「言葉」という表現が出てこない作品にも感じられる。たとえば「伝記的メモ」。その全行。

私は語るのです
あの燃え上がった夜のことを
それを消したのは
プルート河

悲しみにしだれる柳のことを
血色欅(ちいろぶな)の木
歌うことをやめた小夜啼鳥(さよなきどり)のことを

黄色い星のことを
その星の上で私たちは
刻一刻と死んでいった
あの死刑執行の時代に

薔薇について私は
語りはしない

彷徨(さまよ)い揺らぎ
ブランコにのって
ヨーロッパ アメリカ ヨーロッパと

私は住むのではない
私は生きるのです

 ここには第二次大戦を生き抜いたユダヤ人詩人としての「伝記」が反映されているのだが、その最終連の2行を、私は思わず「言葉を」ということばをさしはさんで読んでしまうのである。「ヨーロッパ、アメリカ、ヨーロッパ」とブランコのように揺れながら「生きた」のはローゼ・アウスレンダーだが、その「土地」に住むのではなく「生きる」のだと書くとき、彼女は、彼女自身の「言葉」を生きているのである。ただ「語る」ために、彼女自身の「言葉」を語るために生きているのである。
 「生きる」とは「言葉」を「語る」ことと同じ意味なのだ。ローゼ・アウスレンダーにとっては。
 そして彼女にとって「言葉」とは、非常に限られたものなのだ。「言葉」は無数にある。「言葉」には無数の組み合わせがある--と、私は信じているが、ローゼ・アウスレンダーは、そんなふうには考えていない。
 「的中」という作品。

紙でできた弓
張りつめた雪面
私の指はそこで
矢のごとく飛ぶ
定められた場所へ
定められた言葉へと

言葉の旅
数分の隔たりを行く
そしさらに
あの地点まで
そして私は出会う
あなたの言葉と

 「言葉」は「定められている」のである。ひとつしかないのである。それを探すのだ。ただただ探して生きるのだ。それがローゼ・アウスレンダーだ。この作品でローゼ・アウスレンダーは「あの地点」「あなた」を具体的には指し示していない。それは実は指し示せないからだ。「あの地点」はどこかにあるのではない。いつもローゼ・アウスレンダーのなかにある。彼女の体験の、彼女の肉体のなかにある。「あの地点」は彼女とともに生きているのである。ヨーロッパ、アメリカ、ヨーロッパと揺れるときも、けっして「あの地点」から離れることができない。

定められた場所へ
定められた言葉へと

 「場所」と「言葉」が同列に、そして同じく「定められた」と限定されていることが、ローゼ・アウスレンダーが「場所」と「言葉」を同じものと考えていることを指し示している。そして、「場所」に彼女が「私は住むのではない/私は生きるのです」と言ったように、彼女は、いま「定められた言葉」を生きているのである。
 それは「あなた」についても同じことである。「あの地点」「あなた」が語りかけてくる「言葉」--それをローゼ・アウスレンダーはただひたすら耳を澄まして聞き取る。聞き取ることが、語ることなのだ。語ることが生きることなのだ。



 詩集のタイトルとなっている「雨の言葉」はとても美しい。これも短い作品なので全行引用する。

雨の言葉が
私に氾濫する

滴(しずく)によって吸い上げられ
雲の中に押し上げられ
私は雨となって
開いた
真っ赤な
罌粟(けし)の口もとに降る

 雨--水分は天と地を行き来する。そんなふうにローゼ・アウスレンダーのことばもまた天と地を、ヨーロッパとアメリカを、つまりは世界のいたるところを行き来し、そのことばを受け止めてくれる人のそばで、その口もとで、そっとよみがえる。「罌粟」を「生きる」ように、ローゼ・アウスレンダーは「読者」(あなた)を、そのとき「生きる」のである。
 深い深い祈り、透明な透明な祈りがここにある。

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