詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子「窓辺にはだれもいなかったと」、松岡政則「背後の空から降ってくる」

2008-08-18 01:20:42 | 詩(雑誌・同人誌)
 白井知子「窓辺にはだれもいなかったと」、松岡政則「背後の空から降ってくる」(「詩と創造」64、2008年07月20日発行)
 白井知子「窓辺にはだれもいなかったと」は大国の誤爆、そのときのパイロットの証言を題材に、ことばを動かしている。

窓辺の椅子に座り
ひと針 ひと針 たんねんに
記憶のほつれ目をかがっている人がいる

  窓辺には誰もいなかった 影さえ動いていなかったと
  圧する声は たやすく 言いはる--

(略)

日はとっぷりと暮れ
国境の村里を夜風がわたる
習ったばかりの大文字で
少女が手紙を書いている
煤けたランプの灯り 鉛筆をなめなめ
遠くにいる神様のところへ
とても大事なことを知らせようとしていた
未来とたわむれる装飾音のよう 文字がちらばり
少女は磁石と同じくらい 自分の鉛筆が誇らしかった
できたての短い文章を口ずさみ
窓の手すりの方へ

 2行目に「たんねん」ということばが出てくるが、白井の想像力も「たんねん」である。この「たんねん」は2連目の「たやすく」の対極にある。大国は「たやすく」暴力を振るう。大国にとって暴力を振るい、小国を圧することは「たやすい」ことの一つなのである。この「たやすく」ふるわれる暴力にどう立ち向かうか。できることは「たんねん」に訴えつづけることだけである。
 白井は、その訴えのために、「たんねん」に想像力を動かす。ことばを、その想像力のもとに集める。動かす。

遠くにいる神様のところへ
とても大事なことを知らせようとしていた

 少女にとっての「神様」はどこにいるのだろうか。少女はどこに「神様」がいると信じていただろうか。
 この詩を読むと、「神様」は白井のなかにいる、と思う。少女が「神様」に知らせようとしていたこと、大事なこと--それは、いま、ここに白井のことばをとおして甦っているからである。
 亡くなった少女に、そのことを伝えたい、という叶わぬ衝動に突き動かされる。

 詩は、もちろん自己主張である。しかし、その自己主張が、ときに他者の代弁でもいいのだ。他者と一体になり、発せられなかったことばを他者そのものになって語ってもいいのである。他者のことばを語ることは、自分のことばはどうなってもいいと覚悟して、自分のことばをかえてしまうことである。自分がどうなってもいいと覚悟して他者に向き合うことは、愛だ。
 他者への愛、生きている人間、暮らしへの愛が白井のことばにはあふれている。他人を愛することで、白井が少しずつかわっていく、ということが詩をとおしておこなわれている。



 松岡政則「背後の空から降ってくる」にも他者との触れ合いがある。ことばを実際にはかわさない。しかし、じっさいのことばのやりとりがないからといって、そこにつながりがないわけではない。口には出されなかったことばが、こころに深く触れる、そういうこともあるのだ。

男がひとり一斗缶に火を炊いて手をかざしていた
どこが、とういのではないのだけれど
世間には棲まない人のようだった
いっしょに火にあたらせてもらって
なんでもない話をするのもいいし
べつに黙っていてもすむような人だったけれど
かるくお辞儀をして通り過ぎた

賑やかに棄て続ける
青ざめた街が見えてくる
また躰体のどこからか
硬くなってくるのがわかったけれど
振り向かずに世間の方へと下りてゆく




(マタ来イヤ
(マタ会オウナ

 最終連とその前の連の間の4行。その空白。思いが、ことばになるまでの空白。それはことばにならない。ことばにならないものがいつでもあって、そのあとで、ことばは遅れてやってくる。遅れてではあるけれど、確実にやってくる。遅れてやってくることばを、どれだけ「たんねん」に聞き取ることができるか。--そこに、人間の「正直さ」が反映される。
 もういいや、ではなく、遅れてやってきたことばを抱きしめる。ことばがことばになるまでにかかった時間を大切に抱き留める。
 松岡の最終連のことばは「神様」に向けられたことばではない。しかし、それは白井が書いている少女の「神様」にむけられたことばと同じように、書かなければ、そのままどこかへ消えてしまったことばである。

(マタ来イヤ
(マタ会オウナ

 この単純なあいさつ。その単純さなあいさつでさえ、ことばになるためには時間がかかる。それが人間である。
 そのことばに先だつ「かるくお辞儀をして通り過ぎた」の「かるく」も、とても、とてもとても、いい感じだ。人間と人間の、距離がいい。「かるく」のなかに「距離」と「空気」がある。そして、そういう「空気」を正直にことばにできる松岡がいて、その結果として、最後の、声には出されなかったあいさつがある。




秘の陸にて
白井 知子
思潮社

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草の人
松岡 政則
思潮社

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中本道代『花と死王』

2008-08-17 07:14:04 | 詩集
 中本道代『花と死王』(思潮社、2008年07月31日発行)
 「水の包み」という作品にひかれた。

莟をつけたまま枯れているフリージア
もう薫らないが
花は枯れた後でさらに美しくなる

(略)

枯れると花びらは薄くなりそこに色素が沈着して
非常に微妙な色彩の諧調をなします
それは忘れられた夢に似ています

 「枯れると花びらは薄くなりそこに色素が沈着して」に中本の特徴がある。もっと具体的に書くと、「枯れると花びらは薄くなりそこに色素が沈着して」の行のなかの「そこに」に中本の特徴がある。「枯れると花びらは薄くな」るという事実を提示し、「そこ」という指示代名詞でつなぐ。「そこ」とは薄くなった「花びら」である。
 枯れた「花びら」には二つのことが起きている。ひとつは「薄くなる」こと。もうひとつは「色素が沈着する」こと。二つのできごとが「出会っている」。その出会いを浮かび上がらせるのが「そこ」という指示代名詞である。「そこ」は二つのできごとの「出会い」を明確にする。いや、明確にする、というより、二つのできごとの出会いを演出するのである。二つのできごとはそこで偶然出会うのではなく、中本によって演出され、出会うのである。結びつき、つながるのである。
 そういうつながりは、中本が書く前にも存在したかもしれない。存在したから、中本は書くことができる。ただし、そういうつながりは、中本によって明確になったのである。こういう操作を「発見」という。
 この操作が、同時に、違った「発見」につながっていく。
 いままでつながっていなかったもの(つながっていると意識化されなかったもの)をつなげる。すると、そこに詩があらわれる。つまり、いままで存在しなかった世界(異次元)が出現する。

非常に微妙な色彩の諧調をなします
それは忘れられた夢に似ています

 「非常に微妙な色彩の諧調をなします」は物理現象である。花びらが薄くなるのもの、そこに色素が沈着するのも物理現象である。ところが、ことばは、そういう「物理現象」の世界からはみだして動いていく。

それは忘れられた夢に似ています

 「夢」が入り込んでくる。この「夢」を引き出すための出発点として「そこ」という指示代名詞があった。いわば、それは「異次元」へ飛躍するための助走の出発点である。そして、助走し、加速し、ジャンプする。そのときの踏切台が、「それは忘れられた夢に似ています」の「それ」である。
 この「それ」は何か。何を具体的に指している。国語の試験なら「微妙な色彩の諧調」ということになるかもしれない。だが、「微妙な色彩の諧調」と言い切ってしまうと、何かが不足する。その色彩の諧調の奥には、花びらが薄くなるというできごとと、色素が沈着するというできごとがあり、その出会い(むすびつき)がある。
 「それ」とそういう「むすびつき」そのものを指している。

 その証拠(?)には、その結びつきは、そこからさらに拡大していくからである。

眠るわたしたちから立ち昇る
一つの夢
ただ一つの薫り
解(ほど)かれない贈り物の包みのような

眠るわたしたちを見てください
奇怪な悲しい形
恐れと願いが未知の花を開かせています

雪どけの水が流れると
死んだ少女が見つめてくる
深い瞳の色のない頬
戦(そよ)ぐ繊(ほそ)い髪の毛
けれどすぐに彼女は底知れぬ国へと退(ひ)いていく

 「そこ」ということばで、いままで意識されなかったできごとを明確にし、つなげてしまった結果、そのつながりは、「わたし」と「枯れ花」をより緊密に結びつけ、区別がつかないものにする。
 「夢」。
 「夢」のなかで「わたし」と「枯れた花」が融合してしまうのだ。
 最終連にあられわる「死んだ少女」は、「枯れた花」であり、「わたし」(中本)である。この完全な融合によって、「異次元」は確固としたものになる。つまり、詩になる。



 指示代名詞から始まる「異次元」、「異次元」を誘い出すための指示代名詞。それはつぎのような詩にも見受けられる。

力は海の中心から来て
岩のはざまで旋回し
そのとき一瞬
強靱で深く透明な胴体を見せる  (「貝の海」)

貝は
この世でただ一つの意匠をつくっては死に
その眩(くる)めく内容は
限りなく宇宙の穴へと吸い込まれていく  (「貝の海」)

だれも知らない一隅で横たわる裸形の
その失われゆく時のために
肉はふいに生きて薫り  (「薄暮の色」)






花と死王
中本 道代
思潮社

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黄道と蛹―中本道代詩集
中本 道代
思潮社

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町田康「私自身のこと スピンクス日記①」

2008-08-16 07:43:54 | その他(音楽、小説etc)
 町田康「私自身のこと スピンクス日記①」(「本」2008年08月号)
 町田康の文体の健康さは、どうでもいいことを、そのままことばにできることである。どうでもいいこと、というのは、だれの頭の中にも同じように動き回ることばのことである。だから、ふつう、ひとはそういうことを書かない。自分にあまりにぴったりと合いすぎていて、わざわざことばにする必要を感じない。だれもが同じように感じている(感じたことがある)と知っているから、わざわざことばにする必要は感じない。ことばを書くとなれば、少しはかっこよく(?)書きたい。自分の「オリジナル」を出したい。私はこういう人間である、と伝えたい、という欲望がわきあがるからである。
 そして、このことは、裏を返せば、ことばとは「わざわざ」書くものである、という意識がどこかにある。この「わざわざ」は「わざと」とよく似ている。ほとんど同じである。だれもが「わざと」書いたものが「文学」であると無意識的に知っている。「わざと」がないものは、単なる日常のたわごとである。だれもが知っていることなので、「わざわざ」ことば(文字)にして確かめたい、あとでもう一度この感じを思い出したい、という気持ちになれないし、そんなことを書いても、ひとから、「それで?」と言われるだけである、ということを人は知っている。
 町田は、この常識を逆手にとる。
 だれもが知っている。だれもが体験したことがある。だから「文学」にしようとはだれも思わないものを、「わざと」書くのである。そして「わざと」書かれた瞬間から、ことばは「文学」になる。
 たとえば、次のような文章。

私はそろそろ起きようか知らん、それともう少し眠ろうか知らん、なんて考えつつ、両の手、両の足を天井の方に、にゅう、と伸ばし、腹を丸出しにしていると、いつの間にかまた眠ってしまって。
 そんなことで次に目が覚めたときはもう八時でした。
 いかん、いかん、こんなに寝てしまって。
 そう思って慌てて飛び起きると、言わんこっちゃない、もう九時を回っていて、(略)
 こういう「寝過ごし」の体験と、そのときのこころの(頭の?)動き、というか、そのとき思ったことばというのは、だれもが知っている。そして、そんなことを書いても、だれも感動しないだろうなあ、となぜかしら無意識に思っている。
 その「無意識」に文学から排除したものを、町田は「文学」に取り込んでいる。

 そして、そういう「日常」(だれもが知っていること)を取り込むとき、実は、町田はとてもていねいにことばを動かしている。こころの動きのリズム、呼吸をとてもていねいに取り扱っている。そのために、だれもが感じていることが、だれもが感じていながらだれも書かなかった、はじめてのことばとして動きだす。「文学」が、その呼吸とともに始まる。

私はそろそろ起きようか知らん、それともう少し眠ろうか知らん、なんて考えつつ、

 「……か知らん、それとも……か知らん」はよく聞くことばだが、そういうことばを実際に声に出すとき、ひとは、どこか気取っている。たとえば私は、町田が書いたことばのとおりには考えたことはない。「起きようかな、もうちょっと眠ろうかな」とは考えるが、そのとき読点「、」で書いた部分に「それとも」ということばは入らない。「それとも」という「論理的」な動きを誘うことばは、自分ひとりの思いのなかでは発生しない。「それとも」ということばを必要とするのは、自分の思いを他人に説明するときだけである。「それとも」ということばは、次には前に言ったこととは逆のことをいいますよ、と予告するためのものである。そんなことは自分自身には予告する必要がないので、私は、私自身が何かを考えるときは完全に省略する。
 「それとも」ということばはだれでも知っている。だれでもつかう。そして町田は、そのだれでも知っていることばをだれもが知っている通りにつかうのだが、それを「わざと」つかう。そうすることで、ことばを「日常」から「文学」へと動かして行く。
 他人を意識したこころ。わざと。
 それは、同じ一行のなかの「考えつつ」の「つつ」も同じである。「つつ」は「ながら」と同じである。だれもが知っている。そして、それは聞けばわかるが、日常は「会話」のなかには登場しない。少なくとも現代では「つつ」ということばを会話のなかにつかったら、とても奇妙、変に気取った言い方だなあ、という印象を呼び起こすだろう。

 そして、この「気取り」の感覚が、町田が、「わざと」書いていることばが、不思議と目覚めの人間の意識の呼吸にぴったりあう。
 目覚めるとき、人は、少し気取る。たぶん、きょうを、きのうとは違った新しい一日にしたいという思いが働くのだろう。リセット。そのための、気取り。
 それは「両の手、両の足」という表現にも感じられる。「両手、両足」と言ってしまいそうなところを、「わざと」ゆっくりと「両の手、両の足」と意識を動かす。「両手、両足」よりも、「両の手、両の足」の方がゆったりする。このゆったりが、そのまま文章になって、
 
両の手、両の足を天井の方に、にゅう、と伸ばし、

 そして、そこにさしはさまれた「にゅう」ののんびりした表記(ひらがな)が、まさに「にゅう」としか言いようのないものになる。「にゅう」を読点「、」で挟んで独立させているところも、とてもいい。「にゅう」が、意識から独立して肉体そのものの「にゅう」になり、もういちどゆったりした感じで精神に戻ってくる。その呼吸が「にゅう」を挟んだ二つの読点「、」である。
 町田は、ことばの「呼吸」を正確に文字にできる作家である。(「わざと」正確に書いているのである。)

 このあと、少し気取ったあとの文章の変化も、とてもおもしろい。

腹を丸出しにしていると、いつの間にかまた眠ってしまって。

 「腹を丸出しにして」には、「両の手、両の足」ということばを選んだときの「気取り」はない。「また」には「それとも」のような「気取り」はない。「眠ってしまって」という文章の終わり方は「文語(語)」ではない。文章語なら「眠ってしまった」になる。「て」で終わる文章は、ない。
  これはもちろん、学校で教える文法には、という意味である。--「日常の会話」は「文法」をはみ出して動くから、「て」で終わることはしょっちゅうある。
 というよりも、ふつう人間は、いちいち考えを「成文化」しない。途中で、次々とことばがことばを追い越して行く。言いたいことが、次々にあふれてきて、ひとつひとつ「成文化」している暇はない。だから「て」で中断し、つまり、いったん呼吸をととのえて、次へと加速する。

 腹を丸出しにしていると、いつの間にかまた眠ってしまって。
 そんなことで次に目が覚めたときはもう八時でした。
 いかん、いかん、こんなに寝てしまって。
 そう思って慌てて飛び起きると、言わんこっちゃない、もう九時を回っていて、

 ことばが「でした」という「ですます調」を挟んで、かっぱつに動く。文語「ですます調」と、「言わんこっちゃない」に象徴される口語。こういう文章語、口語の同居は、学校教育(作文)では「文体の不統一」として「減点」の対象になるものだが、町田は「わざと」それを同居させる。そうすることで、意識の動きの慌ただしさ、統一性のなさがくっきり浮かび上がる。「気取っている」ひまはない、という朝のあわただしさが浮かび上がる。
 町田は、ここでも「呼吸」を正確に描いているのである。

 「呼吸」が正確につたわってくる、ということは、そこにその人間がくっきりと立ち上がってくるということである。私たちはひとと向き合ったとき、論理よりも「呼吸」を感じ、「呼吸」に反応する。「呼吸」を無視して「論理」だけを追うと、なんともいやあな感じが「空気」のなかにまじってくる。
 「呼吸」があうと、論理は多少乱れても、何か、物事がスムーズに運ぶ。

 どのような文章も同じである。「呼吸」が正確につたわってくると、つづきが読みたくなる。どんなふうに話が展開しようが、いま感じた「呼吸」をずーっと感じたいと思い、そのことばを追いかけることになる。町田の文章の魅力は、そういう「呼吸」をいつでも行間に感じさせるところにある。





町田康詩集 (ハルキ文庫)
町田 康
角川春樹事務所

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荻悦子「洋梨」、新延拳「夕刊の頃」

2008-08-15 01:01:33 | 詩(雑誌・同人誌)
 荻悦子「洋梨」、新延拳「夕刊の頃」(「現代詩図鑑」2008年夏号、2008年07月01日発行)
 何かを見つめる。そうすると世界が微妙にかわってくる。そして、その世界がかわるということは、実は自分自身がかわってしまうということである。その変化は小さいかもしれない。大きいかもしれない。変化の大小を測るものはなにもない。それぞれに、その変化の一瞬があるというだけである。
 荻悦子「洋梨」は、世界の変化と肉体の変化をシンクロさせて描いている。その、肉体がすーっと浮き上がってくる部分が美しい。

洋梨が転がり落ちた
淡い水色の布の上
(略)

ただじっと見つめていると
洋梨の重さに圧されて
脇にできた隈の部分が
浮き上がってくるようなのだ

私の喉の奥から
低い母音を誘い出しながら

 「脇にできた隈の部分が」の「隈」に荻の発見がある。重さの影響でへこんでいるのに、浮き上がってくる。この矛盾。矛盾をとけあわせるための「隈」ということば。そこから、肉体が始まる。とても自然だ。洋梨の果肉の色をした「喉」がとてもいろっぽく誘っている。
 「低い母音」も、とてもいい。とても、いろっぽい。
 喉を滑り降りていく洋梨の記憶。果肉のやわらかさ。あまさ。それを、迎え水のように誘う「母音」。ことばにならず、ただ喉をかけのぼる息。それがふるわせる声帯のゆったりしたふるえ。
 これ以上書くと(すでに書いていることを含めて)、深読みになるだろうか。

 たぶん私はどんな詩でも深読みする。誤読する。そして、深読みや誤読を誘ってくれる詩が好きである。詩人が書いた通りに読む気持ちなど、私にはない。私は私が読みたいように読むだけだからである。



 新延拳「夕刊の頃」は、人間と人間の、「間」を感じさせる。

夕刊が配達される頃は
みなやさしい声を出すね

みどりのサラダに塩をふる
淋しさをふる
胡椒をふる
せつなさをふる
(略)

雨がふっている
窓の隅の蜘蛛の巣がかすかに揺れていて
こういうのを淋しいというのだろうね



 最終行の、ぽつんと放り出された「ね」はだれの声だろう。「こういうのを淋しいというのだろうね」と言ったひとの、念押し(?)の「ね」だろうか。それとも、そのことばを引き受けたひとの、阿吽の呼吸で発せられた「ね」だろうか。
 別人のことばと、私は、受け止める。
 そう読むと、「塩をふる」から始まる「ふる」の繰り返しと、「雨がふっている」の「ふる」の重なり合いにも呼吸のやりとりがあることに気づき、「間」が不思議にいろをもちはじめる。
 こういう感じを、私は、いろっぽいと思う。


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長嶋南子「さくりゃく」「ビーフジャーキー」

2008-08-14 08:16:28 | 詩(雑誌・同人誌)
 長嶋南子「さくりゃく」「ビーフジャーキー」(「きょうは詩人」10、2008年05月05日発行)
 長嶋南子のことばには不思議な「日常」のちからがある。「暮らしの知恵」の「思想」がある。「思想」というのは、カントとかヘーゲルとか、さらにははやりのなんとかかんとか(よくわからないので書かない)の面倒くさいことばのなかにもあるだろうけれど、ふつうの暮らしのことばにもある。そして、ふつうの暮らしのことばの方が完全に「思想」になってしまっている。長い時間をかけてたたき上げた(たたきこわして残った?)ものがある。頼りにできる何かがある。
 たとえば「うそ」と本音」。それを「暮らしの知恵」はどんな具合にかきまぜるか。「さくりゃく」の全行。

仕事をやめた
夫も亡くなったので未亡人でいく
いろけ
くいけ
おかね
じかん
主婦よりも割がいい
もっとしおしお歩きなよ
触れたら落ちるからね
っていったら
またうそばっかと友だちは笑う
親は何度も殺してきたし
男をとっかえひっかえしたとか
出たくない会合にはいいわけじょうず
うそばっかりついてきた
これからは本音でいく
と また自分にうそをつく

 「うそ」と「本音」は区別がつかない。「建前」と「本音」も区別なんかつかない。「建前」にほんとうにいいたいことがある。「そんなことは建前だ」と否定されるとき、「建前」には希望のような「本音」があることに気づいたりする。
 「触れたら落ちるからね」ということばの奥には、触れられて、落ちてみたいという「本音」がある。そして、それが「本音」だとわかるからこそ、友だちはそれを「うそ」と笑う。だって、触れられて、落ちてみたいのは、だれにだって共通した欲望である。長嶋に先を越されたら、その話を聞かされるだけである。だから、「冗談じゃないわよ」という否定を隠して「笑う」のである。
 こういうことは、会話の「呼吸」である。
 書いてしまうと、説明がとても面倒である。ただ、会話の呼吸とだけ指摘しておく。「暮らしの知恵」(暮らしの思想)は、こういう「呼吸」のなかにある。「呼吸」はことばを発しないが、その発しない部分に「思想」がある。ことばを飲み込んで、破壊し、知らん顔をする。ことばで築き上げる「思想」よりも手ごわいものがある。「かなわないなあ」というようなものがある。
 長嶋は、その「呼吸」の瞬間を、詩のなかに取り込んでいる。
 「ビーフジャーキー」も、そういう「呼吸」でできている。言いたいことば、言えないことば。気づいてほしいことば。長嶋が彼女自身で飲み込んで、肉体に隠したことば。それが、ふわふわと解放されて、自由に動いている。とても気持ちがいい。

息子が帰ってきて
ビーフジャーキーの袋を開けている
(食べちゃだめ それは男のために買ってきたんだもの)
片眼で見ながらクリームつけて
顔のカクシツ落としている
腕だって足だっておなかまで塗りたくる
ふりつもった日々がよじれてボロボロはがれていく

(略)

いい気になって毎日ぬりたくって
カクシツ落としをしていた
皮膚がなくなって体液がしたたり落ちる
骨を抜いて干されてビーフジャーキー
男がたずねてきて
おいしそうにかじっていく
(もっとかじって もっと)

息子が缶ビール片手に
ビーフジャーキーをかじっている
あっ 痛いよ
そこはわたしのスネ肉のところ

 「カクシツ」と「角質」であると同時に「確執」である。「角質」と「確執」をつきまぜて、ごちゃごちゃにして、で、それのどこがちがうのよ、と長嶋は啖呵を切っている。なるほど、似ている。「確執」はこわばってこわばって、人間からやわらかさを奪っていくからね。



 
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池井昌樹『眠れる旅人』(4)

2008-08-13 07:49:26 | 詩集
 池井昌樹『眠れる旅人』(4)(思潮社、2008年09月01日発行)
 どんな語ることばも思い浮かばないのだけれど、ただ、好きだなあ、という作品に出会うときがある。
 何かあれこれ語るべきことがあるのかもしれない。ほんとうは、語っても語っても語ったことにならないような何かがあるのかもしれない。そして、その何かに、私はまだたどりついていない。だから、何も語ることができないのである。
 偉大な人間だけがその何かにたどりつく。そして凡人は、その偉大なひとがたどりついた何かをただ眺める。そして、それが自分が見つけた何かでもないのに、その世界にひきこまれる。自分でみつけだした何かと勘違いしそうである。
 いいなあ。でも、どう言っていいのかわからない。ことばが、そのまま自分の肉体のなかをくぐりぬけて、私のなかから声をひっぱりだしてくれる。その声を出すことが気持ちがいい。意味もわからないのだけれど、そこには人間を救う何かがある。そんなことを感じる詩である。
 中也の詩の世界に似ているかもしれない。内容が、というのではなく、そのことばの魔力が。そこに書かれていることば、それをただただ自分の舌でころがす。そうすると、そのことばがまるで自分のことばのように肉体になじんでくる。こころになじんでくる。愛唱歌というものがあるが、それに似た愛唱詩となる作品である。
 池井の最高傑作である。きっと長く長く、ひとの口伝えで読者のなかに根付いて行く詩である。
 ただ、声に出して読んでもらいたい。「豚児」。

ひとのかわきたひとでなし
でも
ひとりなきたいよるがある
おろかなちちでありました
(こらよ)
おろかなおとこでありました
(つまよ)
おろかなむすこでありました
(ちちよ)
おろかなつみを
ゆるしたまいし
(ちちははよ)
ひとのかわきたひとでなし
でも
ひとりなきたいよるがある
ばけのかわぬぎふとんをかむり
ひとこえぶうと
きえいりそうに



童子
池井 昌樹
思潮社

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チャン・イーモー監督「北京五輪開幕式」

2008-08-12 08:29:43 | その他(音楽、小説etc)
 チャン・イーモーはたいへんな野望の持ち主である。野望がそのまま映像となって噴出してくる。
 私は今回の映像ではじめてチャン・イーモーが「墨」の色にも関心があることを知った。(これまでの映画に「墨」が出てきたかどうか、記憶にない。出てきても、記憶にない程度の印象だったのだろうと思う。)ただ、やはり、「墨」はチャン・イーモーにはあわない。チャン・イーモーの色彩、動きは抑制ではないからだ。抑制ではなく、解放だからである。
 集団の演技には「抑制」が必要だ、という見方もあるだろうが、チャン・イーモーの演出を貫いているのは抑制ではない。2008人の奏者が太鼓をたたく。そのとき、その集団を貫いているのはリズムを伝えるという統一した意識・リズムをあわせるために肉体そのものを他者にあわせるという抑制ではない。そこには「禁欲」がない。彼らを貫くのは、2008人の背後に存在する13億の人間の解放である。
 チャン・イーモーの演出によって繰り広げられる集団の演技には、たとえば北朝鮮のマスゲームのような完璧な統一感はない。ひとつのものをつくりあげるにしろ、そこには何かふぞろいなものがまぎれこんでいる。そして、そのふぞろいのなかに13億の人間がいる。13億の人間の解放がある。
 これはとても強烈であり、また不気味でもある。人間の奥にひそむ欲望。それを実現するためにはときには集団行動が必要である。集団を組織することが必要である。そういうことは、頭では理解できるが、実際にそういう集団を見ると、私はおびえてしまう。人間が集まりさえすれば、集団で行動さえすればなんでもできる。なんでも可能である。そういう「本能」の爆発のようなものを感じるからである。
 私はどこかで集団というのはうさんくさいと感じているのかもしれない。

 それにしても、次々に繰り広げられる集団パフォーマンスはすごい。ハリウッド映画ならCGでやってしまうことを、チャン・イーモーは人間をつかってやってしまう。そうなのだ。この開会式は、ある意味ではチャン・イーモーのハリウッド映画に対する挑戦なのだ。CGにやれることには限界がある。どんなに巧みに描いてみても、そこからは恐怖は生まれない。人間のもっている謎、本能が絡み合って動くときの不可思議なものを描ききることはできない。チャン・イーモーはCGではなく、人間を、何万人(と、思う)を動かしてみせる、演技させてみせることができる。そう啖呵を切っているのである。
 人間だけではなく、中国の街そのものをも背景にしてスペクタクルを描く。「鳥の巣」をはみ出し、北京の街そのものを会場にして繰り広げられる花火。それを俯瞰する映像。それは「鳥の巣」のスタンドからは肉眼では見えない。モニターがあれば、そのモニターをとおしてみるのだろうけれど(たぶんモニターがあって、そこから市街の花火も見えるのだろうけれど)、それはフィールドのパフォーマンスを見るのとは違った目である。そして、この市街を(さらには遠く離れは万里の長城を)巻き込む演出は、肉眼をあざむくという映画特有の演出である。北京市街の方々で打ち上がる花火を私はテレビで見る。モニターで見る。まるで実際に花火を見るように。しかし、それは私が見ているのではない。あくまでチャン・イーモーの演出した「映像」を見ているだけである。私の「肉眼」は動いていない。動いているのはチャン・イーモーの「肉眼」であり、彼の「肉眼」を代弁するカメラである。「肉眼」では同時に見ることのできないものを、ひとつのモニター(スクリーン)のなかで合体させ、そこに観客が「肉眼」では体験できないものを描き出し、魅了する。そういう魔法。それを、チャン・イーモーはCGではなく、人海戦術でやってのける。
 これは、ハリウッドに対する(あるいは世界の映画関係者に向ける)たいへんな宣伝である。

 それにしても。

 私は、その人間を集めさえすればなんでもできるというチャン・イーモーの思想(そして、それはもしかすると中国そのものの思想かもしれない--そのことに対して、私はとても恐怖を感じている。これはほかの映画の感想でも書いたけれど)にいやなものを感じないわけではないけれど。
 それにしても。
 最終聖火ランナーには度肝をぬかれた。これまで書いてきた感想をすっかり忘れてしまうくらいに度肝をぬかれ、夢中になって見てしまった。一種のワイヤーアクションである。ワイヤーでつり下げられて天を走る。映画で見慣れている。しかし、映画はフィルムの継ぎ接ぎである。実際に天を(宙を)走るのは10メートルもないであろう。ところが、この開会式では「鳥の巣」をほぼ一周する。ワイヤーでその間つり下げられているだけでもたいへんだと思うが、そのつりさげられている間中、ランナーは空中を走っている。まるで大地を軽々と走る短距離ランナーのように正確な歩幅で走っている。小さなモニターで見て、こんなに度肝をぬかれるのだから、実際に「鳥の巣」で見たら、どうだろう。私は感動で気が狂ってしまったかもしれない。いや、そうではなく、これはやはり映像で見るからこそ、気が狂うほど引き込まれるのかもしれない。演出である、天を駆けて見えるが見えるが実態はワイヤーでつり下げられているということがわかっていて、よけいに度肝をぬかれるのかもしれない。
 チャン・イーモーは他人に対してこんなことを平然とさせることができるのだ。たいへんな困難をともなう肉体の動き。それを他人に平然とおしつける。そしてまた中国人はそれ楽々とこなしてしまう。チャン・イーモーのアイデアと中国人の肉体で、いままで存在しなかったスペクタクルをどこまでもどこまでも実現できる。

 チャン・イーモーの力業。ただただ、それに圧倒された。




 チャン・イーモーの映画はいろいろあるが、見るならやっぱり、これ。
 コーリャンの緑のいのちと、真っ赤に飛び散る血。その対比の強烈さ。若い若いコン・リー。完璧な映画の1本。



紅いコーリャン

紀伊國屋書店

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池井昌樹『眠れる旅人』(3)

2008-08-11 01:04:29 | 詩集
 池井の詩には「なつかしい」ということばがたくさん出てくる。9、10日に取り上げた「カンナ」にも登場した。「なつかしい」は基本的に、なじみがあって、その親しいことに対してこころが動くときにつかわれることばである。「カンナ」の

かどをまがればカンナのはなが
なんだかなつかしいにおい
あたりいちめんたちこめていて

 は、そういう意味でつかわれている。
 池井は、しかし、そういう意味とは少し違った意味でも「なつかしい」ということばをつかう。たとえば、「毎朝」。

まいあさバスをまつあいだ
いろんなひととであいます
おたがいはなしたこともない
いろんなゆくえがあるのです
まいにちしらないひとたちと
こうしてバスをまっていますが
いつからかしらきがつけば
もうであえなくなったひと
あのひとたちはバスにのり
どこへはこばれたのかしら
なんだかなつかしそうなめで
ときどきぼくをそっとみた
あのおじいちゃん
あのおばあちゃん
まいあさバスをまつあいだ
まいあさしらないひとたちと
かたをならべて

 「しらないひと」。その「しらないひと」が「なつかしそうな」目で池井をみつめる。知らないひとが自分を「なつかしそうな」目で見ている、と感じる。
 ここでは、現実がみつめられていない。「いま」「ここ」ではなく、別のものがみつめられている。知らないひとは池井自身を見ているのではなく、池井をとおして別の存在を見ている。そのことを池井は感じている。
 池井と見知らぬひととの間には、時間と場を超えてつながる何かが存在し、その何かを見ている。そして、そのとき見えるものを「なつかしい」と感じているのだ。

 いま、ここにはないもの。

 そして、その、いま、ここにはないものとは、この詩では、「なつかしい」目である。池井を「なつかしそうなめで」見つめた「あのおじいちゃん/あのおばあちゃん」こそがいない。
 ここに、痛切な悲しみがある。愛しみがある。
 
 存在するものをとおして、存在しないものを見つめる。存在するものをとおして、存在しないものを愛する。その悲しみ。それが池井にとっての「なつかしさ」である。
 「カンナ」の場合も、ほんとうに「なつかしい」のは「カンナ」のにおいではない。

どうかされましたかあなた
しらないこどものてをひいた
しらないどこかのおかあさん

 「しらない」のに、池井に接してくる人々。その人々、その接近してくるということそのものが「なつかしい」のである。「しらない」のに接近してくるとき、そこには「人間」そのものに対する愛がある。特定の誰かが好き、というのではなく、人間そのものへの愛がある。その愛を池井は、思い出し、その愛のなかに佇んでいるのである。しゃがんでいるのである。そして放心しているのだ。
 悲しいと愛しいが、このとき重なり合うのだ。

 池井はいつでも「愛しみ(悲しみ)」を生きていて、そのこころの動きを「なつかしい」と感じている。「知っている」を超越して「しらない」ということのなかにある、純粋なもの、「知っている」ものにまみれていない純粋な愛を生きている。
 そういう「愛」を「なつかしい」ということばで書かなければならないのは、そういう愛が現実には存在しなくなっているからかもしれない。消えていきつつある愛--それにむかって、池井は手を伸ばしている。たったひとりで。だれかがそばにいるときでも、いつもたったひとりで。





眠れる旅人
池井 昌樹
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池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
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池井昌樹『眠れる旅人』

2008-08-10 08:42:53 | 詩集
 きのう取り上げた「カンナ」という詩には、もうひとつ、おもしろい特徴がある。

かどをまがればカンナのはなが
なんだかなつかしいにおい
あたりいちめんたちこめていて

 まず、池井の嗅覚はカンナの花に集中する。カンナの花のなつかしいにおい、に集中する。そして、そこから「あたりいちめん」へと広がっていく。辺り一面になつかしい匂いがしていて、その匂いは何かと見回してみるとカンナの花であった、というのではない。カンナの花の匂いに気がつき、なつかしいと感じる。そのあとで、その匂いが辺り一面に広がっているのに気がつく。
 カンナに求心した感覚が、遠心となって周囲へ散っていく。求心の瞬間には「ぼく」というものがしっかり存在している。その確固とした存在が遠心によってあたりいちめんに広がる、拡散する。
 その結果として、

ここがどこだかぼくがだれだか
もうわからなくなってしまって

 という状態が訪れる。
 求心→遠心。ひとつの、確固とした「ぼく、自己」が、あらゆるところに拡散してしまえば、「ぼく」がだれであるかはもちろんわからなくなる。
 求心の瞬間、「ぼく」はカンナの花の匂いを「なつかしい」と感じる感覚に統合されている。そして、その統合する感覚が強くなると、それはビッグバンのように瞬間的に爆発して、辺り一面に広がり、中心(ぼく)をなくしてしまう。「ぼく」が誰かはどうでもよくなる。「どこ」かは、どうでもよくなる。
 求心→遠心は「放心」でもあるのだ。
 放心とは無防備のことでもある。無防備だからこそ、「しらないどこかのおかあさん」が心配して声をかけてくる。放心は無防備だからこそ、こどもの直感には何だか不気味に見える。
 放心というのは、何とつながっているかわからない、何とでもつながりうる状態であるということをこどもは直感として知っている。本能として知っている。
 だから、こわい。

 そして、「放心」した「ぼく」には、その本能としての「こわい」だけが強烈に迫ってくる。結びついてくる。こどもは「こわい」という一点の感情に集中している。「こわい」という表情をみせてはいけない、などという配慮はしない。ただ「こわい」。その剥き出しの感情も、また、無防備である。
 「ぼく」の無防備と、こどもの無防備が、無防備であるという一点で重なり合う。区別がつかなくなる。「ぼく」がこどもなのか、こどもが「ぼく」なのか。そして、区別をなくして、そのまま「おかあさん」の手をにぎりしめるのである。

 それは、遠い日のことだ。

 「きょうもぼろぐつひきずって」で始まった詩は、「いつだかとおいひるさがり」へ迷い込んで終わる。「きょう」と「特定できない過去」が一瞬のうちに出会う。その「一瞬」のなかに、こどもと母と路傍にしゃがむ男が「てにてをつな」いでいる。
 実際手をつないでいるのは母とこどもだが、見えない手と手を3人はとりあっている。実際には手をつながずに、直感のなかで、本能のなかで手をつないでいる。そしてその手は「やさしい」のである。
 この「やさしい」はひとを拒まない、ということでもある。

 拒まないというのは、ある意味では、拒めないにもつながる。だから、こわいのだ。すべてが、こわいのだ。存在していること、生きていること、ことばを書いていることがこわいのだ。
 何とつながってしまうのか、それはだれにもわからない。しかし、詩人は、つながってしまう。つないでしまう。いま、ここにはない何か、と。




眠れる旅人
池井 昌樹
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一輪
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池井昌樹『眠れる旅人』

2008-08-09 12:34:01 | 詩集
 池井昌樹『眠れる旅人』(思潮社、2008年09月01日発行)
 誰かの視線。池井をみつめる視線。池井の詩にはかならずといっていいくらいに登場する。この詩集の冒頭の「カンナ」にも登場する。

きょうもぼろぐつひきずって
かどをまがればカンナのはなが
なんだかなつかしいにおい
あたりいちめんたちこめていて
ここがどこだかぼくがだれだか
もうわからなくなってしまって
しゃがんでじっとしていたら
どうかされましたかあなた
しらないこどものてをひいた
しらないどこかのおかあさん
やさしいてにてをつながれて
ぼくはこわごわみつめていた
いつだかとおいひるさがり
カンナのはながさいていて

 ここには、しかし、直接「視線」のことは書かれてはいない。書かれているのは「ぼく」の方の視線である。

ぼくはこわごわみつめていた

 その「こわごわ」の先に誰かの視線がある。「しらないどこかのおかあさん」の視線か。あるいは「しらないこども」の視線か。
 「こわごわ」は、「ぼく」というよりも、むしろ「しらないこども」の感情だろう。
 「しらないこども」。かつて、こどもであったとき、池井は母に手を取られて、母が路上でうずくまるだれかに「どうかされましたかあなた」と声をかけるのを聞いたのだ。幼い池井は、声をかけられた男がふりかえるのを「こわごわ」とみつめたことがあるのだ。
 その「こわごわ」はなんだろうか。
 この男はほんとうに「人間」なんだろうか。この男は、いったい「何」とつながっているのか。「何」と手をとりあっているのか。もしかすると、母の手から離れて、「ぼく」もそのような男になってしまうのか。母の手を離してしまうと、そのような男、「何」とも得体の知れないものと手を結んでいる「人間」以外のものになってしまうのだろうか。
 幼い子どもだけがもちうる直感。直感が見てしまう世界。
 それが、いま、池井のなかで、自分のものとも、他人のものとも区別のつかないまま、一体となっている。「時間」の区別がなくなっている。
 現在の池井が、「しらない」母と子をみつめているのか、過去の池井が「しらない」男をみているのか。現実と、経験がいりまじり、立場が逆転する。いや、逆転ではなく、融合する。溶け合ってしまう。
 「きょうも」で始まった詩は、いつのまにか「いつだか」わからない時間にたどりついてしまう。「いつだか」わからないのは、時間がとけあってしまったからである。過去-現在-未来が溶け合う瞬間を「永遠」というが、そういう「永遠」はふいにやってくる。
 そして、この「永遠」を呼び込む力として「視線」が存在する。
 池井をみつめる誰かの視線、何かの視線。それを感じるとき、その視線は池井自身の視線にもなる。
 ここに存在する何か。その何かは「異形」のものである。(たとえば、路傍でしゃがみこんでいる「男」)。そして、その「異形」は「異形」であることによって、現在から分離し、同時に現在ではない何かとつながっている。そして、その「つながる」ということが「永遠」なのだ。つながった瞬間に「永遠」が存在するのだ。

やさしいてにてをつながれて

 この1行に登場する「つながれて」。「現在」と「異形」が手をつなぐ。その手のつながりのなたに「永遠」がある。





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池井 昌樹
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早矢仕典子「白色のアリア」、斎藤恵子「雨上り」

2008-08-08 08:50:23 | 詩集
 早矢仕典子「白色のアリア」、斎藤恵子「雨上り」(「no-no-me」8、2008年08月08日発行)
 早矢仕典子「白色のアリア」は、ことばが途中から加速する。

その通りだけは
雪の積もる速度が特別にはやかった

雪のひとひら ひとひら に
まるで意思でもあるように

水気をたっぷり含んだ雪片の
白 が地面の暗色をすべて覆い尽くそうとして

白は 薄汚れた白の上に着地し消え去る前に次の白をもとめて
はやく 白を、白! と上空へ向かって叫ぶ
空は矢つぎ早に白をそそぎ 白は
狂おしく降り急ぎその羽のような軽さに焦れながら
地面の暗いしろに自身の白を重ね
白! 白! 白!

 雪に「まるで意思でもあるように」。だが、雪に意志があるのではない。雪に意志があってほしいと早矢仕は望んでいる。欲望している。欲望が雪に乗り移って、ことばを動かしている。欲望には理性などない。ただ感情があるだけである。

白! 白! 白!

 早矢仕の感情は、もうことばにならない。ただ感嘆符「!」になってまき散らされる。この感嘆符までのことばの動きが詩である。1連を2行ずつに書いてきて、その2行ずつというスタイルでは我慢できなくなって「白」を繰り返す。この抑制のなさ、我慢できない感じがおもしろい。
 そして、何よりも、そういう「狂おし」いほどの激情のなかにあって、「白」と「しろ」をつかいわけているところに、不思議なおもしろさがある。

地面の暗いしろに自身の白を重ね

 「地面の暗いしろ」。これは、早矢仕自身なのである。彼女のこころは「白」を獲得していない。「白」を欲しているが、「白」になりきれず、地面の、「暗いしろ」、その弱々しい色のままにある。「白!」は激しく叫びながら、一方で、「しろ」をみつめている。
 欲望には理性などない--と書いたが、欲望は理性を持たないけれど、いくつもの感情を持つことができる。白をもとめる一方、自分自身を「暗いしろ」と思うセンチメンタル。ナルシズム。自分自身へのいとおしさ。
 詩は、あるいはことばは、やはり自分自身へのいとおしさから発せられるのである。それ以外からは発せられない。--ここに、ふいにあらわれた正直さ。そこに早矢仕のことばのおもしろさがある。詩がある。
空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集
早矢仕 典子
ふらんす堂

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 斎藤恵子「雨上り」にも不思議なナルシズムとセンチメンタリズムがある。

雨上りをこえる
道はもうぬれていないので広くなる
新しい石を探すことはしないけれど
捨ててしまった
うすく壊れやすく汚れによわい
石が誘っている気がする

 書き出しの「雨上りをこえる/道はもうぬれていないので広くなる」の2行、その「広くなる」という変化の発見がとてもいい。そして、そういう発見があるので、

うすく壊れやすく汚れによわい

 このナルシズムとセンチメンタルにぐいと引きつけられてしまう。雨上がりに道が広くなるという発見をする視力が、実は、肉眼だけの力ではなく、むしろその力の底に「こころ」があるということを教えてくれるからである。

川が流れている
いつだって底に石がゆらいでいる
顔を映して見ることはしない
なつかしく古びてしまう

湿った石は口に含むと甘くなる

 「なつかしく」という平凡な(?)ことばが、ここでは「こころ」がすべての世界を変えていることを明らかにする。世界は「こころ」をとおってことばになる。そして、そのことばをとおして生まれてくる世界は、私たちの「日常」(流通言語)にはないものをもたらしてくれる。

湿った石は口に含むと甘くなる

 「甘い」という感覚もすばらしいが、「甘くなる」の「なる」が特にいい。2行目にも実は「なる」はあった。「広くなる」の「なる」。
 いまある世界は、「こころ」をとおったことばで描かれるとき、まったく新しい世界に「なる」。詩とは、そういう「なる」を描くものである。「なる」という変化がていねいに描かれているとき、それとともにあるナルシズム、センチメンタルは美しい。

夕区
斎藤 恵子
思潮社

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アレクサンドル・ウラノフ「グスタフ・クリムト」

2008-08-07 10:32:41 | 詩(雑誌・同人誌)
 アレクサンドル・ウラノフ「グスタフ・クリムト」(たなかあきみつ訳)(「ガニメデ」43、2008年08月01日発行)

 アレクサンドル・ウラノフ「グスタフ・クリムト」(たなかあきみつ訳)を読みながら、クリムトの絵を思い出した。そのことばは、たった1行でクリムトを呼び出すのである。

閉じた--半ば被われた--眼。

 挿入されたことば。「半ば被われた」ということばが指し示す世界。それがクリムトであると同時に、この挿入自体がクリムトである。この挿入は、前のことばを否定すると同時に、ずらし、ずらしながら世界を深める。広げる。それは、挿入というより、言い直しである。

閉じた--半ば被われた--眼。
 感覚への沈潜。地と装飾--閉じた眼の前をよぎるもの。

 「--」で表わされたもの。ことばを捨てて、飛躍し、もういちどことばを拾いなおす。その飛躍のなかの無言。言い直しの前の、一瞬の沈黙。そこに、詩がある。
 「閉じた目の前をみぎるもの」。そんなものはない。閉じた目の前には実際は闇しかない。しかし、その闇の向こうに、何かがある。記憶。見たという記憶。その記憶へ飛躍するために、眼は閉じられなければならない。「--」は、そういう「閉じる眼」(閉ざされた眼)をあらわす。
 「--」は、ことばが何かを言い直すとき、存在と不在とを結ぶ架け橋になる。現実と記憶(あるいは肉体のなかにあるすべての感覚といった方がいいかもしれない)との間に広がる深淵を渡るための架け橋である。「--」を渡ると、そこには、それまでとは違った世界が広がる。
 ただし、その世界はほんとうに存在するのか。それとも、深い深い深淵を渡ったために、意識がめまいを起こし、錯乱し、その結果として見るものなのか、実際はわからない。

閉じた--半ば被われた--眼。
 感覚への沈潜。地と装飾--閉じた眼の前をよぎるもの。どこかそこの太股あたりの接吻はまぶたの裏で青い星々をばらまく。背中を滑走する掌はくるくるまきついて毛深い緑の海藻になる。
 もしかしたら他の眼が現れるかもしれない--眉の円弧と密生した睫毛の円弧で象られて、それらは以前の眼よりもつぶらで、まぶたを閉じた瞳は何を見ている?(それらをけっして鏡に見てとれないだろう。それらを見るのはもっぱら他の隻眼、他の隻瞳だ。)

 「--」は挿入であり、言い直しであるから、それがたとえ深淵を渡ったとしても、一種の「繰り返し」である。挿入、言い直しは、一種の否定であるが、それは否定を媒介とした前進であり、別のことばで言えば「繰り返し」である。ここに書かれているのは、すべて「繰り返し」である。同じことばである。

他の隻眼、他の隻瞳だ。

 このことばが象徴的だが、そんなふうにして少しだけ違えて繰り返すときの、差異へのこだわり。そこにクリムトにつながるすべてがある。
 存在は繰り返されてパターンになり、模様になり、つまり装飾になる。装飾の奥には、その存在の最初の、パターンになる前の「いのち」がある。「いのち」の現前からパターンまでの気の遠くなるような繰り返し。そして、その繰り返しのときにあらわれる差異をしっかりと認識する「肉眼」。「肉眼」と「肉眼」の奥に存在する感覚・記憶の眼。そこにも、やはり「--」が存在するのだ。

 それにしても、「隻瞳」ということばの不思議さ。原文はどうなっているのかわからないが、私の日本語には「隻眼」はあっても「隻瞳」はない。手元の漢和辞書を引いてみたが「隻瞳」はない。たなかの造語なのかもしれない。
 だとすれば、この造語のなかに、たなかの深い洞察力がある。アレクサンドル・ウラノフへの共感というべきなのか、アレクサンドル・ウラノフがクリムトに寄せた共感への共感と呼ぶべきなのかわからないが、いままで存在しなかったことばをつくりだして、アレクサンドル・ウラノフという人間そのものへ渡ってしまう不思議な力がある。「--」ということば、ことばにならないことばをていねいに渡っているうちに、たなかは、自然に、アレクサンドル・ウラノフそのものになってしまったのだろうか。

 書けば書くほど、繰り返しになってしまう。

 この作品は「--」の発見によって成立している。原文テキストも「--」をつかっているのだろうけれど、その「--」をていねいに訳出している正直さがたなかのことばにある。
 クリムトの絵そのもののように金と泥が併存するようなきらびやかなことばが無数に登場するが、そのことばとことばのあいだに渡された「--」。その動きそのもののなかにこそ、詩があるということを、たなかの訳は教えてくれる。

 ことばは、それぞれ「呼吸」をもっている。ひとのことばは、それぞれの「呼吸」とともにある。あるときは読点「、」であり、あるときは「--」として「呼吸」は姿をあらわす。それは、ほんとうは、もっと別なことばで言い直した方が詩の解明に役立つのだと思うが、私は「呼吸」ということばしか、いまのところ、思いつかないのだが。

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M・ナイト・シャマラン監督「ハプニング」

2008-08-07 10:32:07 | 映画
監督  M・ナイト・シャマラン 出演 マーク・ウォールバーグ、ズーイー・デジャネル
 この映画は、ほんとうなら出演(主演)緑、と書くべき映画である。緑。植物。それが主役の映画である。ところが、カメラが悪く、緑が主役になれなかった。大都会でそよぐ緑。その苦悩が、緑を反乱に駆り立てる。人間を襲いはじめる。都会に住む人間には、その怒りがわからない。ただ、とまどい、逃げるだけである。そういう映画になるはずだったのだろう。
 狙いは、わかる。わかるけれども、そんなことは「頭」でわかってもしようがない。
 スクリーンに映った緑の動き。風にそよぐ。葉っぱが裏返る。ざわざわという音。ざわめきが、その葉っぱの動きがさらに風を呼び起こし、つぎつぎと広がって行く。都会(ニューヨーク)のセントラルパークからはじまり、ニューヨークを超えて、郊外へ、ひとの住んでいない山の中まで、と広がって行く。その感じが、緑の動きそのものとして表現されていなければ、なんにもならない。
 スクリーンに映る緑、木々の葉や草の動きが、まったくこわくないのである。緑が変化していいはずなのに、ぜんぜん変化しないのである。
 私はアメリカ映画の緑は美しいと思ったことはほとんどない。ウディ・アレンの映画が唯一の例外だが、アメリカの映画は緑の美しさに鈍感なのかもしれない。そんな鈍感なアメリカ映画が、緑の反乱、緑の暴動を描けるはずがない。
 映画はしようがなしに(?)、緑の反乱、緑の暴動を、夫婦の愛の確認(愛の欠乏からの脱出)によって「和解」へと収束させるのだが、何だ、これは? 思わず、怒りが込み上げる。

  M・ナイト・シャマランは、ほんとうなら、もっとおもしろい映像がとれる監督である。出世作「シックス・センス」では、ブルース・ウィリスが事故にあったあと、一転して、大学の全景がスクリーンに映される。何ヶ月後、という字幕とともに。そのときの、大学の全景の異様さ--それまでの映像とは違ったトーンが、これは現実ではない、と感じさせる。そのシーンが、あの映画のすべてだった。見た瞬間に、あ、これからは何か「日常」とは違ったものが始まるという緊張感があった。(そして、実際に、その後の展開は「日常」ではなかった。「日常」に見えたが「日常」ではなかった。)
 「ハプニング」の緑、木々や草の動きには、それがない。大失敗作である。

 これに比較すると、宮崎駿の「崖の上のポニョ」は傑作である。おもしろくはない作品だが、水中のシーンはすばらしい。アニメなのに(?)、水の感覚がつたわってくる。透明な水。描かなくていいはずの「水」がきちんと描かれている。水中で目を開くと、全体が薄い「水色」に染まって見えるが、その薄い水色の感じが、水中のシーンでとても自然に表現されている。水のなかに潜って世界を見ている感じがする。水中で、洗濯物が風にそよぐシーンの美しさにはびっくりしてしまう。--しかし、宮崎駿のやっていることは高級すぎて、逆に、だから? といいたくなるような感じなのである。

 宮崎駿は子ども向けの「童話」を描くふりをして、実際は、アニメで水を同表現できるかを試みていた。それはとてもすばらしい。傑作としか言いようがない。(そして、水のシーンが傑作だから、私は、作品全体としては駄作だと思う。あまりに水に夢中になりすぎていて、ほかの部分がついていっていない。)
  M・ナイト・シャマランは緑を描こうとして、緑の「み」の字にも届いていない。
 この違いは、ちょっと、無慈悲なくらい大きすぎる。

シックス・センス

ポニーキャニオン

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アレクサンドル・ウラノフ「たがいにわれわれは」

2008-08-06 11:03:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 アレクサンドル・ウラノフ「たがいにわれわれは」(たなかあきみつ訳)(「ガニメデ」43、2008年08月01日発行)

 詩はことばでできている。何度か書いたことである。そして、私は、やはりそんなふうに感じさせてくれる作品が好きだ。ことばにすることではじめて存在が、その存在の形式が明らかになる--そういう作品が好きだ。
 (なんにも出会わなかった視線は失われたか……)という仮のタイトル(だろうと思う)を持つ作品。

なんにも出会わなかった視線は失われたか。視線は空間内をおもむろに這いずりまわり、視線の破片はもっと遠くへ飛ぶ、たがいにばらばらの、帰還することをのぞまない破片は。

 視線は何かに出会う。そして、「帰還する」ことで完結する。その往復。もし、その視線が何にも出会わなかったら。目の前には、ばくぜんとした空間、虚無が広がるのか。視線は、どうするのか。それで、満足するのか。アレクサンドル・ウラノフは、「視線の破片はもっと遠くへ飛ぶ」と書く。そう書いた瞬間、「視線の破片」という、いままで存在しなかったものが誕生する。
 「視線の破片」というものは、本来存在しない。視線がとらえた何かの破片というものはあっても、視線は常に「帰還する」ことで視線としての任務を完了するものである。肉体と分離できないものである。ところが「視線の破片」ということばの結びつきは可能であり(なぜ可能なのか、といえば、たぶん視線がとらえた存在の破片というものがそこかしこにあり、存在が破片として存在するなら、視線も破片として存在してもいい、という錯覚が起きるのである)、ことばになった瞬間、それは存在しはじめるのである。
 ここまでは、いわば論理の世界である。

 この作品の書き出しは、論理的に(?)読むことができる。そして、その論理のなかにも詩は存在するのだが、ほんとうにおもしろいのは、論理を超えた部分である。
 視線の破片。その運動の、描写。

視線の破片はもっと遠くへ飛ぶ、たがいにばらばらの、帰還することをのぞまない破片は。

 倒置法と、「破片は」という主語の繰り返し。
 倒置法のなかで、ことばは往復する。「破片は」とたなかあきみつの訳は繰り返しているが、その主語の繰り返しが、そのまま視線の「帰還」の往復と重なるように世界を広げて行く。
 この瞬間から、ことばは、ほんとうにことばだけの世界へ入っていく。ことばによってはじめて成立するせかいをつくりはじめる。「視線の破片」は、存在そのものとして、世界を動かす。
 この詩のほんとうの魅力は、この倒置法の訳と、倒置法を強調する「破片は」の繰り返しにある。倒置法によって「破片は」が繰り返されることで、視線は「帰還」しなかったけれども、意識は「帰還」し、円環をつくり、世界を完結させるのだ。独自の世界をそこに、世界そのものとして出現させるのだ。
 ここからは、ことばだけが動く、意識そのものの世界だ。
 詩のつづき。

背後で視線が発生するとはおまえはとうていわからないだろうし、鏡すら、つねに遅れるカーブにすぎない。

 ふいに登場する「おまえ」。これはだれ? 視線の破片? それとも、この作品を読んでいる私? 私という読者?
 とても巧妙である。わからなさを残したまま、そのわからないものによって意識を動かして行く。わからないから、それを追いかけるしかない。しばらくすると「われわれ」ということばにも出会う。「届く」と動詞もでてくる。「貫きあう」「返還」「内転」ということばもでてくる。簡単に(?)要約すると、倒置法と主語の反復によって、世界が完全に閉じられ、そのなかで、すべてが往復につながる運動をするのである。そして意識をひっかきまわすのである。

こうして闇は闇を見つめる。

 詩は、そんなふうに閉じられる。なんにも出会わなかった視線とは、闇そのものの視線である。闇が闇をみつめる--という擬人法。その擬人法の「世界」が、もう一度、この瞬間に反転する。冒頭へ、読者を連れ戻し、もう一度詩を読み直すよう誘い込む。

 ことば、ことば、ことば。どこまでいっても、ことば。ことばだけ。それは何とも結びつかず、ただことばとだけ結びつく。その不思議な楽しさ。ことばには、こんなこともできる。ことばは、こんな欲望をも持っている。
 --たなかの使用したテキストではどうなっているのかわからないが、

視線の破片はもっと遠くへ飛ぶ、たがいにばらばらの、帰還することをのぞまない破片は。

 この倒置法と主語の繰り返しによる訳出がこの詩を輝かせている。この詩にいのちを与えている。テキストが倒置法でできているのだとしたら、たなかはその意図を正確に受け止めて倒置法にしたのだし、もし倒置法で書かれていないのなら、たなかは倒置法を用いることで詩に新しい(より適切な)いのちを与えたといえるだろう。


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くらもちさぶろう「ほんだな」ほか

2008-08-05 11:18:12 | 詩(雑誌・同人誌)
 くらもちさぶろう「ほんだな」ほか(「ガニメデ」43、2008年08月01日発行)

 くらもちさぶろう「ほんだな」は不要になったスチール製の本棚を処分する様子を描いている。ごくごく日常的なことがらを、これまたごくごく自然なことばで書いているのだが、そのごくごく普通のことが、「ひらがな」の力ですーっと異次元へ動いて行く。異次元といっても知らない世界ではなく、非常によく知っている世界へ動いて行く。そして、あ、世界はこんなふうにつながっているのか、と驚かされる。

スチール の なか から しみ だした のか
すずしい かぜ も はいらぬ
くらい へや の かたすみ で
せぼね が まがる ほど つまれた
ほん の おもみ に だまって
よる も ねないで たえて いた ので
ちゃいろ の よごれ が
しみだして きた のか
しおからい あせ が からだ の なか から
しみだして くる ように

そだいゴミ に だす まえ に
そきとって やる

はは の はだか の からだ を きよめる ように
だまって たえて きた くろう から かいほう されて
ほっと した かお の おおきな しみ を
ふきとって やる

 本棚と母とが重なり合う。重なり合いを超えて、本棚が母そのものになる。漢字まじりで書かれていても感動はすると思うが、この「ひらがな」のとぎれとぎれのことばを読んでいると、その分かち書きの空白のなかから母が、母につながるいのちが、すーっとあらわれてくる感じがして、とてもいいのだ。
 本棚とは母との間にはつながりはない。つながりはないけれど、ことばが、ぷつんぷつんと切り離されて散らばっていると、ことばをつなげようとする意識が自然に生まれてきて、そのつなげようとする意識のなかに、何か別のものがつながってくる。この作品の場合、その何かは母なのだが、そういうつながりを無意識の領域で誘い込む力がひらがなの分かち書きにあるように感じられる。
 分かち書きには不思議な吸引力がある。くらもちは、その力をとても自然な形で具体化している。
 たぶん本(あるいは「日記」)だとおもうのだが、やはり不要になった本を束ねて処分する詩。「そうしき」。

ながい わかれ を する まえ に
からだ が しなう ほど だき あう ように
かたく きつく しばる

さいご の ページ に
きえかかった ひづけ を みつけ
その ころ を おもいだし
やわらかに さすって やる
こわがる こと わ ない よ と
こころ の なか で
こえ を かけながら

 処分する、廃棄する--というのは、処分されるもの、廃棄されるものにとっては一種の「死」である。その「死」が、ひらがなの分かち書きで書かれると、その「死」という不在のもの(本棚にしろ、本にしろ、それは人間のようには死なない、死を持たない存在である)へ向けて、いのちが動いて行く。この感じが、ほんとうに、不思議で、なんともなつかしい。
 「そうしき」の別の部分。

とつぜん
いきかえった ように
ひとくみ が ゆか の うえ に くずれ おちる
われた こえ で わかれ の あいさつ を さけぶ

 この生々しい切なさは、ひらがなの分かち書き以外では存在し得ないだろう。そう思った。




D.H.ロレンスの作品と時代背景
倉持 三郎
彩流社

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コメント (1)
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