白井知子「窓辺にはだれもいなかったと」、松岡政則「背後の空から降ってくる」(「詩と創造」64、2008年07月20日発行)
白井知子「窓辺にはだれもいなかったと」は大国の誤爆、そのときのパイロットの証言を題材に、ことばを動かしている。
2行目に「たんねん」ということばが出てくるが、白井の想像力も「たんねん」である。この「たんねん」は2連目の「たやすく」の対極にある。大国は「たやすく」暴力を振るう。大国にとって暴力を振るい、小国を圧することは「たやすい」ことの一つなのである。この「たやすく」ふるわれる暴力にどう立ち向かうか。できることは「たんねん」に訴えつづけることだけである。
白井は、その訴えのために、「たんねん」に想像力を動かす。ことばを、その想像力のもとに集める。動かす。
少女にとっての「神様」はどこにいるのだろうか。少女はどこに「神様」がいると信じていただろうか。
この詩を読むと、「神様」は白井のなかにいる、と思う。少女が「神様」に知らせようとしていたこと、大事なこと--それは、いま、ここに白井のことばをとおして甦っているからである。
亡くなった少女に、そのことを伝えたい、という叶わぬ衝動に突き動かされる。
詩は、もちろん自己主張である。しかし、その自己主張が、ときに他者の代弁でもいいのだ。他者と一体になり、発せられなかったことばを他者そのものになって語ってもいいのである。他者のことばを語ることは、自分のことばはどうなってもいいと覚悟して、自分のことばをかえてしまうことである。自分がどうなってもいいと覚悟して他者に向き合うことは、愛だ。
他者への愛、生きている人間、暮らしへの愛が白井のことばにはあふれている。他人を愛することで、白井が少しずつかわっていく、ということが詩をとおしておこなわれている。
*
松岡政則「背後の空から降ってくる」にも他者との触れ合いがある。ことばを実際にはかわさない。しかし、じっさいのことばのやりとりがないからといって、そこにつながりがないわけではない。口には出されなかったことばが、こころに深く触れる、そういうこともあるのだ。
最終連とその前の連の間の4行。その空白。思いが、ことばになるまでの空白。それはことばにならない。ことばにならないものがいつでもあって、そのあとで、ことばは遅れてやってくる。遅れてではあるけれど、確実にやってくる。遅れてやってくることばを、どれだけ「たんねん」に聞き取ることができるか。--そこに、人間の「正直さ」が反映される。
もういいや、ではなく、遅れてやってきたことばを抱きしめる。ことばがことばになるまでにかかった時間を大切に抱き留める。
松岡の最終連のことばは「神様」に向けられたことばではない。しかし、それは白井が書いている少女の「神様」にむけられたことばと同じように、書かなければ、そのままどこかへ消えてしまったことばである。
この単純なあいさつ。その単純さなあいさつでさえ、ことばになるためには時間がかかる。それが人間である。
そのことばに先だつ「かるくお辞儀をして通り過ぎた」の「かるく」も、とても、とてもとても、いい感じだ。人間と人間の、距離がいい。「かるく」のなかに「距離」と「空気」がある。そして、そういう「空気」を正直にことばにできる松岡がいて、その結果として、最後の、声には出されなかったあいさつがある。
白井知子「窓辺にはだれもいなかったと」は大国の誤爆、そのときのパイロットの証言を題材に、ことばを動かしている。
窓辺の椅子に座り
ひと針 ひと針 たんねんに
記憶のほつれ目をかがっている人がいる
窓辺には誰もいなかった 影さえ動いていなかったと
圧する声は たやすく 言いはる--
(略)
日はとっぷりと暮れ
国境の村里を夜風がわたる
習ったばかりの大文字で
少女が手紙を書いている
煤けたランプの灯り 鉛筆をなめなめ
遠くにいる神様のところへ
とても大事なことを知らせようとしていた
未来とたわむれる装飾音のよう 文字がちらばり
少女は磁石と同じくらい 自分の鉛筆が誇らしかった
できたての短い文章を口ずさみ
窓の手すりの方へ
2行目に「たんねん」ということばが出てくるが、白井の想像力も「たんねん」である。この「たんねん」は2連目の「たやすく」の対極にある。大国は「たやすく」暴力を振るう。大国にとって暴力を振るい、小国を圧することは「たやすい」ことの一つなのである。この「たやすく」ふるわれる暴力にどう立ち向かうか。できることは「たんねん」に訴えつづけることだけである。
白井は、その訴えのために、「たんねん」に想像力を動かす。ことばを、その想像力のもとに集める。動かす。
遠くにいる神様のところへ
とても大事なことを知らせようとしていた
少女にとっての「神様」はどこにいるのだろうか。少女はどこに「神様」がいると信じていただろうか。
この詩を読むと、「神様」は白井のなかにいる、と思う。少女が「神様」に知らせようとしていたこと、大事なこと--それは、いま、ここに白井のことばをとおして甦っているからである。
亡くなった少女に、そのことを伝えたい、という叶わぬ衝動に突き動かされる。
詩は、もちろん自己主張である。しかし、その自己主張が、ときに他者の代弁でもいいのだ。他者と一体になり、発せられなかったことばを他者そのものになって語ってもいいのである。他者のことばを語ることは、自分のことばはどうなってもいいと覚悟して、自分のことばをかえてしまうことである。自分がどうなってもいいと覚悟して他者に向き合うことは、愛だ。
他者への愛、生きている人間、暮らしへの愛が白井のことばにはあふれている。他人を愛することで、白井が少しずつかわっていく、ということが詩をとおしておこなわれている。
*
松岡政則「背後の空から降ってくる」にも他者との触れ合いがある。ことばを実際にはかわさない。しかし、じっさいのことばのやりとりがないからといって、そこにつながりがないわけではない。口には出されなかったことばが、こころに深く触れる、そういうこともあるのだ。
男がひとり一斗缶に火を炊いて手をかざしていた
どこが、とういのではないのだけれど
世間には棲まない人のようだった
いっしょに火にあたらせてもらって
なんでもない話をするのもいいし
べつに黙っていてもすむような人だったけれど
かるくお辞儀をして通り過ぎた
賑やかに棄て続ける
青ざめた街が見えてくる
また躰体のどこからか
硬くなってくるのがわかったけれど
振り向かずに世間の方へと下りてゆく
(マタ来イヤ
(マタ会オウナ
最終連とその前の連の間の4行。その空白。思いが、ことばになるまでの空白。それはことばにならない。ことばにならないものがいつでもあって、そのあとで、ことばは遅れてやってくる。遅れてではあるけれど、確実にやってくる。遅れてやってくることばを、どれだけ「たんねん」に聞き取ることができるか。--そこに、人間の「正直さ」が反映される。
もういいや、ではなく、遅れてやってきたことばを抱きしめる。ことばがことばになるまでにかかった時間を大切に抱き留める。
松岡の最終連のことばは「神様」に向けられたことばではない。しかし、それは白井が書いている少女の「神様」にむけられたことばと同じように、書かなければ、そのままどこかへ消えてしまったことばである。
(マタ来イヤ
(マタ会オウナ
この単純なあいさつ。その単純さなあいさつでさえ、ことばになるためには時間がかかる。それが人間である。
そのことばに先だつ「かるくお辞儀をして通り過ぎた」の「かるく」も、とても、とてもとても、いい感じだ。人間と人間の、距離がいい。「かるく」のなかに「距離」と「空気」がある。そして、そういう「空気」を正直にことばにできる松岡がいて、その結果として、最後の、声には出されなかったあいさつがある。
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