詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平田好輝「長年」

2008-09-03 10:47:04 | 詩(雑誌・同人誌)

平田好輝「長年」(「現代詩手帖」2008年09月号)

 「あっというまに」という小詩集のうちの1篇。作品の終わり方がとてもいい。全行。

黒板拭きを使う仕事を
わたしは長年やってきた
教室を出るとき
自分が書いた字が一字も残っていないように
黒板拭きで隈なく消してから
出てきた

そんなことを四十年もしてきたのだが
白墨の粉をおびただしく余分に吸ったことは
まちがいない
書いた字を平気で残す人々が
羨ましかったが
わたしにはできないことだった
一字一句
四十何年間
全部自分で消してきたのだった

ただの習癖で
というふうにも言えるだろうし
いつもなんとなく
恥ずかしさが先に立って
とも言えるだろう
立派なことを考えてそうしていたことは
一度もなかった

 「立派なこと」の対極にあるのはなんだろう。「普通」である。
 この詩にあふれているのは「普通」の美しさである。「立派」は確かに美しいが、「普通」には「普通」の美しさがある。それは、とても静かな積み重ねの揺らぎの美しさである。使い込んだ肉体の美しさである。
 「羨ましかった」「恥ずかしさが先に立って」。その2行が抱え込んでいる美しさである。
 「羨ましさ」を肉体にしまいこんで生きる。「恥ずかしさ」を肉体にしまいこんでいきる。その、一種の自己抑制のようなものが、「四十何年間」のあいだに肉体に蓄積する。そして、その蓄積したものの呼吸が、すーっと吐き出されている。それがたまらなく美しい。
 「まちがいない」「一度もなった」。2回出てくる、この断定もいいなあ。どれも平田自身に向けられている。そのことばは他人には向けられていない。平田は、自分の肉体と対話している。
 ここに描かれているのは、ひとりの肉体である。それは孤立している。孤立して存在しうる肉体の美しさがある。

 平田のことばの美しさは、たぶん他人に頼っていないことである。もたれかかっていない。黒板の字を自分で書いて、自分で消す--という作業が象徴的だが、平田はなんでも自分で完結させるのである。
 「羨ましさ」も「恥ずかしさ」も自分のなかで完結させる。そして、一個の肉体になる。そういう肉体になるための訓練としてことばがあるのだ。




詩集 恩師からの手紙
平田 好輝
エイト社

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残雪『暗夜』(近藤直子)

2008-09-02 11:25:58 | 詩集
暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 全24巻(第1集)) (世界文学全集 1-6)
バオ・ニン,残雪
河出書房新社、2008年08月30日発行

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 池澤夏樹=個人編集世界文学全集のI-06。今回の芥川賞の作品がおもしろくなかったので、中国の現代作家はどんな作品を書いているのだろう、という興味から読んでみた。残雪というのはカフカの中国版かもしれない。簡単に言うとは、ことばをひたすら動かしてゆく。現実に則してして動かすというよりも、ことばを現実から切り離して、ことば自身でどこまで動いてゆけるかを実験している。言語実験という意味では、「現代詩」に近いかもしれない。
 ことばがこんなふうに動くなら、現実だってこんなふうに動いてもいい。精神が動くなら、その精神に現実があわせたっていい。
 実際、どのような進歩も、まず想像力があって、その想像力をどう具体化するかということでおこなわれてきたのだから、小説が、いままでなかったような世界を描くということは、そういう世界がやがては実現できるかもしれないということでもある。想像と空想の違いは、それを実現しようとする意志があるかどうかにかかっている。想像は創造につながるが、空想は創造にはならない。ただ、小説の場合(文学の場合)、「創造」は物理的現実に対応しなくてもいい。精神に対応さえすればいい。つまり、小説を読んで、あ、こんなふうに考えることができる、こんなふうに正しくも間違えることもできるという自由が浮かび上がればいい。
 「時が滲む朝」は政治的な「自由」をテーマに書かれていたが、残雪の作品は、ことばの「自由」がテーマだともいえる。三木清のことばにしたがえば、言語というのはその国民の精神の到達点である。どこまで精神を「自由」に遊ばせることができるか、ということを追求するのも非常に重要なことなのだ。

 「不思議木の家」という作品がある。その冒頭。

 この建物は実に背が高い。

 この「実に」に「詩」がある。ことばの冒険はそこから始まっている。「実に」という副詞はなくても建物の高さが変わるわけではない。 100メートルが 200メートルに変わるわけではない。変わらないけれど「実に」とことばを動かすことで、事実を「実感」にかえる。「実に」の「実」は「実感」の「実」なのである。そして、その「実」は「感じ」を隠しているのである。
 以後、「感じ」を強調するように、ことばは動いていく。

外壁は長い木の板を横に重ね、なかの材料もすべて木だ。木目もあらわなその板は年代を経てすでにまっ黒になり、少し離れてみると、ただもうぼうっと黒いばかりだ。家の形はごくありきたりだが、ありきたりでないのはそれが信じられないほど高いことだ。健在が普通の木であることからすれば、こんな高い建物が建てられるとは信じがたい。

 「信じられない」「信じがたい」。くりかえされる「信じる」の否定。それは「信じる」ということよりも「実感」として強烈である。それまでの常識では把握できないものがそこに存在する。それは「信じることができない」。そして、信じることができないとき、人には何ができるだろうか。ただ「感じる」ことしかできない。それも、「なま」な形で感じることしかできない。いままでの(既知の)「感じ」を超越しているからだ。
 そして逆説めいたことになるけれど、このいままでの「感じ」を超越する存在は、どんなふうにして超越するかというと、「超越」を構成するものが「普通」のものばかり、という条件を前提にして超越するのである。「普通の木」ということばが出てくるが、「普通」を組み合わせることで、「信じられない」ということが生じる。「普通の木」ではなく現代科学の最先端の素材をつかった建物なら、それがどんなに高くても「信じられない」ということはない。「普通の木」だから「信じられない」のである。知っているもの。なじんでいるもの。それは「感じ」にとてもなじんでいる。なじんでいるからこそ、それが異様な形になってあらわれると「信じられない」という意識を呼び起こし、それまでの「感じ」をひっくりかえす。頼るものがなのにない、「なま」の状態にしてしまう。いわば、「感じ」を「無防備」にしてしまう。「無防備な感じ(感覚)」は、接したものを「実感」として受け止めるしかなくなる。
 「実感」の「実」は「直接」という意味でもある。「直」は「ただ」でもある。「実感」とは「ただ・感じる」ことしかできない。そこには余分なものはない。

 小説は、こうした世界へぐいぐいと進んでゆく。
 常に「普通」のことがらを全面に出しながら、そこに「普通」を超えることがらを結びつけ、「実感」を修正できないように(普通にもどらないように)、次から次へと動いていく。「普通」と「超越」がくりかえされて、言語空間が濃密になっていく。

 現代の中国にも文学はあるのだ、と安心できる一冊である。「時の滲む朝」の口直し(目直し?)にはもってこいの一冊である。







魂の城 カフカ解読
残雪
平凡社

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小長谷源治『探している』

2008-09-01 10:52:34 | 詩集
小長谷源治『探している』(書肆青樹社、2008年09月20日発行)

 「貨物船のこいのぼり」は貨物船が30センチほどの小さなこいのぼりを掲げているのを見て、想像を広げたものである。4連のうちの後半の2連。

この船に祖父か父がいるのであろう
こいのぼりは空を元気に泳いで
灘(なだ)を渡り
島と行き来するのであろう

人はふしぎな動物だ
そこに相手がいなくても
思いを馳(は)せ
幸せを祈ることができる
力を得ることができる

 最終連に小長谷の思いが結晶している。最終連に書いているとおりのことを、小長谷はその前の連で書いてもいる。そこには見えない祖父(父)の姿を思い浮かべ、そのひとの思いを想像している。きっと、子どもの生長を祈っている、と想像する。その想像は、また、祖父(父)と子どもの幸せを祈る小長谷自身の祈り・願いである。祖父(父)も子どもも小長谷自身とは無関係である。無関係ではあるけれど、人は人の幸福を祈ることができる。知らない人の幸福を祈ることができる。--それが人間の力である。
 この考えから出発して、小長谷は戦争への怒りを幾篇もの作品に書いている。いのちを奪うものへの怒りを書いている。「呪(のろ)イ」という作品。

私ノ胸ニモ呪イガアル
小学校ノ恩師二人が戦争ニ殺サレタ
      (谷内注・「が」は「ガ」の誤植と思われる)

 「だれに」ではなく「戦争ニ」。ここに小長谷の怒りがある。「だれ」は欠落している。
 「戦争」は人と人のぶつかりあいではない。そこで戦っているのは「クニ」なのである。人は人と違って見えない。その見えないものが、見えるはずの人を隠してしまう。殺す人も、殺される人も隠してしまう。もし、その見えない人を、きちんと見る想像力(現実に生きている人に対しても、常に想像力を働かせて見なければならないのである。そうしないと、その人がたとえば何を「祈っている」のかが見えない。わからない)が欠落しているから、その人がほんとうにこの世界からいなくなっても平気なのだ。
 そうした想像力の欠如したものへの怒りを、小長谷は書いている。

 いわゆる「現代詩」ではない。しかし、こういう作品も書かれなければならない。書かないと、ことばは、どこかへ消えてしまう。




取ッテオキノ話―小長谷源治詩集 (日本詩人文庫)
小長谷 源治
近代文芸社

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