詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河邉由紀恵「マミーカー」

2008-09-17 09:39:00 | 詩集
河邉由紀恵「マミーカー」(『四土詩集第Ⅲ集』2008年07月31日発行)

 繰り返しがとても効果的だ。ことばは繰り返されると、それが自然に「肉体」のなかに入ってきて、「意味」がなくなる。そして、その「意味」がなくなった瞬間に、すっ、と別のものにかわる。そこに詩が出現する。
 河邉由紀恵「マミーカー」の書き出し。

夕方になるとおばあさんはマミーカーを押してだりや荘を出るがらがらとマミーカーの音をひびかせておばあさんは区民センターの前を通りすぎるおばあさんはだれとも喋らないからおばあさんの舌はもう小鳥の舌よりも短いおばあさんは手入れをしないからおばあさんの髪はもう白くてぼうぼうだおばあさんは日の光りにあたらないからおばあさんはもうさなぎのようにかわいている

 「おばあさん」が繰り返されるので、おばあさんがどんどん変わって行って、「さなぎ」になってしまっても、それでいいような気がしてくる。というより、「さなぎ」にかわってしまったために、よりくっきり見えてくる。
 変でしょ?
 その変なところが詩なのである。ありえないことが、ことばの運動のなかで、ありえるものになってしまう。いままで存在しなかったものがことばの力によって目の前に存在しはじめる。それが詩である。
 「さなぎ」はもちろん比喩なのだけれど、では、それはなんの比喩? こたえなんかはどこにもなくて、むしろ「比喩」そのものがリアリティーをもって、おばあさんをのみこんでしまう。
 だからこそ、河邉はもういちど「マミーカー」をひっぱりだしてきて、おばあさんをもとに戻す。

おばあさんのマミーカーは五福饅頭店をすぎ揚柳の布がかかったさくら整骨院をすぎさらに路地をまがりさらにお好み焼きぼっこうをすぎ(略)

 そんなふうにして、もういちどおばあさんにもどってしまったところで、また「変化」がはじまる。

おばあさんはここまでくるといつもあまいようないたいようなへんな気持ちになるおばあさんのかわいた体は桃の湯の湯気によってねっとりとしずかにしめってくる本当におばあさんの唐田はしんのしんまでしめってくる

 「さなぎ」は、もういない。そればかりか「さなぎ」が「かわいている」のと違って、反対に、おばあさんは「しんのしんまでしめってくる」。
 そして、この「しめってくる」の「くる」がすばらしい。「しめっている」のではなく「しめって・くる」。変化・変質・生成が、ここにある。この変化・変質・生成をへるからこそ、その後、それは一気にかわる。ことばが大転換する。

毎日会いつづけないとだめなのよしめったこの場所であのひとは盃からお酒をのむようにわたしの髪をひとすじ口にふくんで遠い目をして泣いていたわたしは泣いているあのひとのうすい背中をさすりつづけたぬるいお湯のなかでわたしたちの膝は洋梨のようにゆがんでゆらゆらゆれていた

 おばあさんは、突然「わたし」になる。「わたし」になった瞬間、それは読者と重なる。読み手と重なる。私たちが目撃するのは「おばあさん」ではなく、「わたし」(読者)の過去なのである。
 「おばあさん」から「わたし」へのこの変化こそ、この作品の本質、詩の中心である。
 どのような作品でもそうだが、そのなかに登場する人物が(動物や植物であってもいいが)、それが「わたし」そのものに思える瞬間がある。そのとき、読者は知らずに登場人物を生きている。読者は「わたし」を超えて「わたし」以外の人間になっている。
 「わたし」を超えて「わたし」以外のものになる--すべての文学(芸術)は、そのための通り道である。

 この大転換を、河邉は「おばあさん」と「マミーカー」ということばを繰り返すことで、てとても自然に、なんでもないことのように実現している。繰り返しのことばが、読者を無意識に誘うことを知っているようだ。いったん無意識をくぐるからこそ、大転換が「大」とも「転換」とも意識されないような(つまり、無意識のまま)、そこに出現する。
 とてもいい作品だ。




四土詩集 (第2集)
現代詩研究会・四土の会
和光出版

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小川三郎『流砂による終身刑』

2008-09-16 09:47:25 | 詩集
流砂による終身刑
小川 三郎
思潮社、2008年07月05日発行

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 「要領」という詩がある。詩集は、そのあたりから急におもしろくなる。その前の詩も悪いという感じではない。たぶん、それぞれにおもしろい作品なのだろうけれど、私にはちょっと抵抗がある。たとえば「昏倒日和」。

瞳に映る雨とは別に
欠片が世界を横切って
光に混入し
人はそれを
幻と見るか
未来と見るか

 ふいに進入してくる「人」の視線。それが「意味」にかかわってくる。それがうるさい。
 「壁」にも似た感じの行がある。

しかし時々
ノックが聞こえる。
人はそれを空耳と呼ぶ。
壁の上には青い空
越えた者はまだないはずだ。
しかし空耳は実在する。

 「人」と対比して、自己の意識を確認している。その部分がとてもうるさい。「人」と「意味」が交錯する部分でことばのスピードが極端に落ちる。スピードが落ちたために、何かが見えなくなる。「意味」をかき消して行く快感が見えなくなる。快感が見えず、余分な「意味」だけが見える。
 しかし、「要領」以後、何かがかわっている。突然おもしろくなる。

見上げると
古びた枝に
熟した柿がなっていて
すると背後の青空が
弾力を増した。
柿の赤を縮ませるほど
こちらに押し込む青になり
柿と空と私とを
切り離し難い秋にした。

 「柿と空と私とを/切り離し難い秋にした。」この2行の文体のスピードがいい。ここでは「人」に有無をいわせていない。「私」の独断(?)が世界を一気にひきしめ、同時に解放している。漢文に似た世界だ。
 この独断(?)を小川は別のことばで言い換えている。小川自身ではなく、「自然の声」として書いている。

それは人への裏切りから来る
豊穣な秋の色だ。

 「人への裏切り」。それは「人」を考慮しないということだ。配慮しないということだ。自然は人間など配慮しない。その清潔さに「私」が共鳴するとき、世界はきれいさっぱりと雑音を消してしまう。音のすべては音楽になる。--西脇順三郎の詩のように。

 私が何か書くよりも、ただ、その作品を全行引用する方がいいだろう。「性」という作品。

中華料理屋の
裏に捨てられた家具を
集めて歩けば一式になる。
そうして始めた今の暮らしなのだが
猫が寄って来て困る。

寒寒とした匂いが染みついた家具だから
私に似合いと考えたのだが
既にそれは猫のものであって
私は思い上がっていたようだ。

またも私は
他人の庭に住み込む事となった。
彼らは
闖入者の私を迷惑そうに一瞥するが
それまでで
テーブルに丸くなってつんとしている。
性悪でないようだから
うまくやっていけそうだ。
彼らもそうやって
ひとかたまりになったのだろう。

暖かい季節になったのに
家具は冷えたままだった。

 ひとつだけ言わずもがなの注釈をすると、この詩のなかほどに出てくる「他人の庭」の「他人」とは「人」ではない。猫である。「彼ら」も猫である。小川は「人」と対等に向き合うのではなく「自然」(人事とは無縁のいのち、ここでは「野良猫」、たぶん飼い猫ではなく、ノラ)と対等に向き合っている。
 そこでは「人事」というものが洗い落とされている。そして、「人事」が洗い落とされた分だけ精神が身軽になり、ことばにスピードが出てきているのだと思う。
 「人事」を精神の運動としてではなく「物理」として客観化すれば、西脇のユーモアになるのだろうけれど、そこまで行ってしまうと、西脇そのものだし……。と、思いながら、続きの詩を読んだ。

 西脇の「神話」のような世界も出てくる。これもスピードがあって、とても美しい。「風化石」の後半の一部。

昨日獣に子供が生まれた。
その子はまだまだ眠るようだ。
夜明けが優しくその羊水を
神のしずくを洗い流して
ぐんと力を増してやる。
すると田んぼの稲も伸びる。
端では神が石のまんま
今日一日を
沈黙している。

 「すると田んぼの稲も伸びる。」の1行の闖入がすばらしい。このスピード。こんな輝かしいスピードに満ちたことばに出会ったのは久しぶりだ。



2006年04月07日の「日記」で下記の詩集の感想を書いています。

永遠へと続く午後の直中
小川 三郎
思潮社

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小野山紀代子『望遠鏡を見る人』

2008-09-15 22:01:06 | 詩集
小野山紀代子『望遠鏡を見る人』(梓書院、2008年09月01日発行)

 詩は、突然、詩ではなくなるときがある。たとえば、「橋の上」。3連目までは詩が動いている。

静かに満ちてくる
夕暮れの汽水を
鷺が一羽歩いている

歩みを止めて
橋の上から
その鷺を見ている人がいる

一枚の絵だが
その人は
帰る道を見失ってそこにいるのだ

 この3連を動かしている詩は視線の詩である。河口に近い場所だろう。その広がりから鷺、鷺から人、そして絵。絵のなかに焦点を絞り込んだあと、人のなかへ反転する。このリズムがとてもいい。
 ただし、そこまでである。
 視線がとまり、観念が動きはじめる。

否定され取り残され
忘れられて
鷺を見ている

なにもかもどんどん通りすぎる

 何が通りすぎたのか。「どんどん」とは具体的にはどれくらいか。目が動いていない。小野山は、見えないものを見ようとして観念を動かしているが、それでは詩にならない。見えないものも肉眼で見なければならない。視線が、その見えないものをひっぱりあげてこなければ、詩にはならないのである。
 ことばの動かし方を誤解していると思う。

 「忘れかけた子守歌」にも魅力的な行がある。

あれは窓ですか
鏡ですか

 だが、この作品でも、そういう魅力的な行が登場したとたんに、そこで詩が変質してしまう。あと観念になってしまう。

ジャン・コクトーの「オルフェ」の
ガラス売りでもやって来そうな路地
少女の頃に見た仏映画の
ガラスの反射
鏡のゆらぎ

 「少女の頃」がせっかくの現実を「枠」のなかにとじこめてしまう。思い出という「枠」のなかに。他人の思い出など、おもしろくもおかしくもない。もし、それがおもしろいとしたら、それはほんとうは思い出ではなく、思い出という形を借りた現実である場合だけだ。

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滝田洋二郎監督「おくりびと」

2008-09-15 00:36:01 | 映画
監督 滝田洋二郎 出演 本木雅弘、山崎努、笹野高史、吉行和子

 私はこの映画見たのはたいへんスクリーンの汚い映画館であった。スクリーンが汚れていて、雪のシーンなど、白の向こう側に汚れが浮いて出る。もっと美しいスクリーンで見たら印象はもっとよくなったかもしれないが……。
 *
 この映画のなかで私がいちばん好きなのは、本木雅弘が山形の自然のなかでチェロを弾いているシーンである。すでにチェロを弾く仕事をしていない。聴衆もいない。それでも本木はチェロを弾いている。なぜか。チェロを弾くことが好きだからである。チェロの演奏者(プロ)であることをやめて、納棺師という仕事をしはじめてから、チェロを心の支えとして弾いている。自分のために弾いている。自分から出て行くのではなく、自分から出て行かない。ただそこにいる、ということのために弾いている。
 人はだれでも自分から出て行こうとする。いまの自分であることをやめ、いまの自分を超えた存在になろうとする。そういう「夢」を持っているものである。本木もまた納棺師になることで、いままでの自分ではない自分、自分を超越した新しい自分になろうとするのではあるけれど、そのときの自己実現は、他人を押し退けてというのではない。他者を主人公にしたまま、脇にいる。脇であることが求められている。そのときの「脇」の感覚を、それでいいのだ、と納得することが本木の仕事には重要である。自分から出て行かないこと、それが大切な要素である。自分から出て行かず、自分の内部をひとり、大切にして、生き続ける。その感じと、チェロを弾いている姿がとてもよく重なる。気持ちがいいのである。
 本木のしている仕事がとても大切なものである、ということは、実際にその仕事に触れた人しか知らない。それは個人と個人との、秘密の触れ合いである。秘密というよりも、親密な触れ合いと言った方がいいかもしれない。それはほかの人にいう必要のない親密な関係である。他人には言わないことを前提とした触れ合いである。(他人には言わないことを前提としているからこそ、こういう職業があることを、多くの人は知らない。--少なくとも私は知らなかった。)
 他人には語らないこと--その親密さをしっかりと自分のなかだけにとどめておくのはたいへんむずかしいことである。人はだれでも、自分の感じていることを語りたい。しかし、それを語らないことによって、自分をふくらませていく。だれにも知られなくてもいい。そういう世界を誰もが持っている。だれも知らない世界を自分の内部に抱えたまま、人間は生きている。それを大切にして生きている。そういう、一種の「脇」の人間のしずかな美しさが、チェロを弾く本木の姿にあらわれている。

 いくつかのエピソードが描かれているが、人はだれでも秘密をかかえて生きている。秘密をこころの支えにして生きている、ということは最後の本木の父との体面にくっきりと描かれる。本木は父の「内部」をまったく知らない。本木がこどものとき、彼を捨ててどこかへ出ていったということしか知らない。その父親がこども時代の本木とかわした約束を大切にし、小石を大事に持っていること、死の瞬間もそれを手放さなかったことは、最後の最後になってわかる。そういう秘密がふっと目の前にあらわれたとき、親密さが真実になる。そういう真実は、多くの人に見せる必要はない。いっしょに生きている人だけにわかれば十分なのである。
 人にはだれにでも告げたい何かがあると同時に、いっしょに生きている人、親密な人にだけ知ってもらえればいいこと、というものがある。そのいっしょに生きている人だけに知ってもらえればいいことを、この映画はとても大切に描いている。

 納棺師の仕事とは、たぶん、故人の美しさ--それも親密な人にだけ知ってもらえればいい美しさを引き出す人のことなのだろう。いっしょに生きている人はいっしょに生きているがゆえに、相手の美しさを知らない。どんな思いを生きていたかをあまり考えない。自分の考えを相手におしつけ、ついついけんかしたりする。そうして、ますます美しさを見うしなう。そんなふうにして見失われた美しさを納棺師は引き出すのだ。
 手で触れる。その顔に。その体に。チェロ--弦にふれておだやかな美しい音、音楽をつむぎだすように、本木の手は故人の体に触れながら、美しさを引き出す。故人が持っていたもの、語ろうとして語れなかったものを引き出す。それは本木にとっては一種の「音楽」なのである。そういうことを、この映画は感じさせてくれる。
 手のアップ、指の動きが何度もこの映画では描かれ、とても重要な役割をしている。吉行和子の手。その傷。峰岸徹の手。小石をにぎりしめた手。その手は何かをつたえようとしている。こころのなかからつかみ取ってきて、ほら、と開いて見せる前のしっかりにぎられた手のようだ。手にこそ、親密さの秘密がある。
 納棺師は、その最後に、故人の手を合掌させる。そっと自分の手でつつみ、相手の胸の上で合掌させる。納棺師が引き出した美しさ、その秘密、親密なものの奥にあるものを、故人がもう一度自分自身の宝物として死後の世界へ持って行けるように。その手の中には、美しさをみんなに見てもらうことで受け止めた何かがあるかもしれない。遺族のこころからの感謝、悲しみ、愛しさなどが……。そういうことも考えさせられた。




壬生義士伝

松竹

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松尾真由美「初夏の息、氷の花片のひとひらの彷徨いから」

2008-09-14 20:02:44 | 詩(雑誌・同人誌)

松尾真由美「初夏の息、氷の花片のひとひらの彷徨いから」(「ぷあぞん」別冊、2008年08月20日発行)

 松尾真由美の作品は私にはとても読みづらい。読み通すのに忍耐がいる。息が長いからである。そして、単に長いだけではなく、そこには複数の要素がこめられている。その分、どうしてもことば数が多くなる。タイトル「初夏の息、氷の花片のひとひらの彷徨いから」が象徴的だ。「初夏の息」だけでも「初夏」と「息」という二つのことばが出会っており、その二つは普通は出会わないことばである。最初から緊張感があり、そのうえにさらに「氷の花片のひとひらの彷徨いから」とつづくのだから、とても複雑である。あるいは微細であるというべきか。
 だが、逆説的だが、とても読みやすいとも言える。タイトルばかりを取り上げることになるが、「初夏の息」ということばは、普通は存在しない。だれも、それがどのようなものであるか想像はできない。「初夏」も「息」もありふれたことばだが、それが出会うということは、普通の会話ではありえない。このことばは松尾が「わざと」出会わせているのである。この「わざと」のなかに「現代詩」の「現代」の意味がある。そして、この「わざと」を松尾は「氷の花片のひとひらの彷徨いから」と補足している。「初夏の息」と「氷の花片のひとひらの彷徨いから」は同じものなのである。
 松尾はひとつのことを何度も繰り返し言い直す。言い直すことで、描きたいものの核心へと接近していく。繰り出されることばのひとつひとつが、書きたいことの中心へ向かって、少しずつ、ことばそのものを掘り下げる。そう思いながら読みさえすれば、松尾のことばはすっきりと理解できる。とても読みやすい。

 松尾の詩は、基本的にかけ離れた二つの存在の出会いである。(これは多くの詩に共通することでもある。俳句もシュールレアリスムも。)そして、そういう出会いのなかでも、松尾の詩にはひとつの特徴がある。
 50行目くらいに、次の1行。

崖の上と崖の下がまみえるところ

 「崖の上」と「崖の下」という対極の二つ。そして、それが出会う瞬間のことば「まみえる」。この「まみえる」に松尾の「思想」がある。「まみえる」ためには「距離」が必要である。「距離」がなくなった状態は「ぶつかる」(衝突)である。衝突は触覚の世界である。松尾のことばは「衝突」し、その結果、片方が破壊される(あるいは両方が破壊される)、そしてまったく別の物になるという世界を描かない。そうではなくて、「まみえる」ことで、「距離」を確認し、あるいは「距離」をつくりだし、つまり「わざと」意識化し、その「距離」のなかにことばで入っていくのである。「距離」をことばで耕すのである。
 「距離」のなかへことばで入っていくことは、さらに新しい「距離」をつくることでもある。「距離」のなかに「距離」をつくる。どこまでもどこまでも「距離」をつくりつづける。接近すればするほど「近づく」のではなく、逆に遠くなる。それは矛盾を含んだことばの運動である。
 しかし、この逆説的な運動というのは、あらゆる分野で起きている。素粒子論が突然宇宙論になる。微細に存在の構造を内部へ入っていけばいくほど、それは広大な宇宙の姿に似てくるというように。
 松尾の詩も同じである。「距離」のなかへ入っていけばいくほど新しい「距離」が誕生し、その「距離」のすべてを描き出すと「距離」の内部と、「距離」の外部がそっくりの姿になる。

 それは「真実」がそういう形をしているからなのか。それとも、私たちが「真実」というものを、そんなふうに、入れ替え可能なものとしてみつめたいからなのか。どちらであるか、よくわからないけれど、私は、そこには「真実」というよりも人間の欲望が働いているように思えて仕方かない。
 人間には「内部」と「外部」をそっくり入れ替えてしまいたい欲望があるのかもしれない。

 長い作品なので引用はしないが、行が動くたびに、行と行とのあいだから、そういう欲望が立ち上がってくるように感じる。二つのものが出会あわせ、そこに「距離」をつくりだし、その「距離」をあらたなことばで補足するふりをしながら、さらにあたらしい「距離」を生み出す。そうやって、「距離」を宇宙的に増やす。そのとき小さなものと巨大なものが入れ替わる。二つの存在の出会い、その距離をみつめたはずなのに、そこで見たものは「距離」の内部ではなく、「距離」の外部なのである。



睡濫
松尾 真由美
思潮社

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揺籃期―メッザ・ヴォーチェ
松尾 真由美
思潮社

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富岡和秀「アナグラム--それからのX」、かざとしょうこ「春日」

2008-09-13 20:06:51 | 詩(雑誌・同人誌)
富岡和秀「アナグラム--それからのX」、かざとしょうこ「春日」(「MELANGE 」10、2008年09月朔日発行)

 おもしろそうな詩が一気に瓦解するときがある。たとえば富岡和秀「アナグラム--それからのX」。

そんな白い雪を見たのは何年ぶりのことだろうかと女医は回想にふけった
あれは本州奥地の山で、そんなに寒いとは感じなかったが
枯れかけた松の根の近くの雪面に赤い血があちこち飛び散っているのを
同行のランドセルを背負った少年が発見したときには
幾分かの胸の高まりをおぼえ
持っていた絵筆でその情景を女医は急いで描いた
赤い絵筆でさっと刷いたような血の飛び方で
いくつかのしずくの波紋をなして散ったような赤い形状が点々とつづいていた
松の枝には黒鳥が巣を作り、さらに上空では孤を描いて獲物を探す鷲が飛んでいた

 奇妙な文体である。「同行のランドセルを背負った少年が」ということばは、音は美しいけれど、こういうとき「同行」って使うかなあ。だいたい「本州奥地の山」になぜ少年がランドセルを背負って歩いているというのも奇妙なら、女医が絵筆を持っているというのも奇妙である。
 もっとも奇妙なのは、「上空では孤を描いて獲物を探す鷲が飛んでいた」である。「弧を描く」ではなく「孤を描く」。造語まで繰り出して、世界を「わざと」ゆがめている。
 あらゆる「わざと」のなかには、常に詩が存在がする。そこには、それまでのことばではたどりつけない何かがある。--私はいつもそんなふうに感じて詩を読みはじめるが、この富岡の作品は、そういう「わざと」を最後でつまらなくしている。

その回想記のなかには

 れ
  か
   ら
    の
     え
      つ
       く
        す
という文字がアナグラムとして残されていたが
それは無意識をあばくための符号であったことは言うまでもない

 種明かしをしている。
 富岡は単に「アナグラム」を書いてみたかっただけなのである。そして、どういう「アナグラム」であっても、そこにはかならず作者の無意識が反映する。無意識というのは意識がないという意味ではなく、きちんとことばとして成り立っていない意識という意味である。まだことばとして成立していないものは、いつでも詩になる。そういうことを利用して、「アナグラム」という手法をひっぱりだしてきた。
 そして、奇妙、という批評を前提に、「これはアナグラムです」と告げている。そればかりか「それは無意識をあばくための符号であったことは言うまでもない」という、しなくてもいい種明かしまでしている。

 富岡は「わざと」種明かしをしたのだ、というかもしれないけれど、すでにタイトルで種明かしをしているのだから、そんなことをする必要はない。富岡がほんとうに書きたかったのは、「無意識」ではなく、実は、どんなアナグラムであっても、それは

それは無意識をあばくための符号であったことは言うまでもない

 という、「定説」である。富岡は最後の1行を富岡自身が見つけ出した「大発見」のつもりでいるのかもしれないけれど……。
 「定説」のなかには、詩はない。「定説」を詩に生まれ変わらせたいのなら、もっともっと「定説」の「無意識」にまでおりていかなければならない。



 かざとしょうこ「春日」は富岡の詩とは違った手法でできているが、安直さにおいてとても似ている。

春のひかりをそのままうけて
ほっこりと山がふくらんでいる

ゆっくりと大きく蛇行する川が
水鏡におだやかな春山が姿をみせる

ひろい川岸の一角で
灰を撒き手をあわせ
米を撒き手をあわせ
ひっそりと弔いをするひとがいる

 「ほっこり」「ゆっくり」「ひっそり」。そうしたことばが引き寄せる春のおだやかで静かな雰囲気。ことばが重なることで、単独のことばではつたえられないもの、まだことばになっていないもの、詩をつかみとろうとする。そのことはよくわかるけれど、

遙かなるかな
遙かなるもの

 と、安直に「答え」を読まされると、なんだかがっかりしてしまう。


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ショーン・ペン監督「イントゥ・ザ・ワイルド」(★★★★)

2008-09-12 10:07:39 | 映画
監督 ショーン・ペン 出演 エミール・ハシュート、ハル・ホルブルック、キャサリン・キーナー、ウィリアム・ハート、ヴィンス・ヴォーン

 映画を見ながら思い浮かんだことばは、「初恋」。そして「片思い」。
 主人公がさまよう自然(都会以外の場所)はとても美しい。大地と水と空気。そのあいだに存在するものいわぬ木々、草花、岩、動物。そのすべてが美しい。その美しさをカメラは存分にとらえる。
 それは、人間に汚染されていない。人事に汚染されていない。特に荒野の美は人間を拒絶した美だ。
 主人公は、その美に「片思い」をする。
 目の前に信じられない美が存在する。それは目にはっきりと見える。ときどき、その美しい存在が自分の目を見てくれたように感じる。その一瞬、まるで自分のすべてがうけいれられたように錯覚する。そういう至福がまずやってくる。「初恋」のときのように。
 この野性の美(人事を離れた美、非人情の美)は、すべて自分のものである、と錯覚する。その美に触れるとき、彼自身が人事の汚れから解放される気持ちになる。「自由」を感じる。そのときの、明るく、快活なこころを、そのまま野性は受け入れて輝く。そんなふうにカメラは自然の美しさをとらえる。これはほんとうに美しい。
 しかし、これはほんとうの恋ではない。愛ではない。
 目で恋をして、目で感じて、あるいは耳で、あるいは肌で(というのは、相手とのあいだで揺れ動く空気を肌で感じる、という意味だが)恋して、主人公は野性と一体になったと錯覚するが、そこにはほんとうの一体感はない。
 完全な拒絶にあっているわけではない。野性の草木を食べ、野性の動物を食べ、生きる。でも、たどりつけない。どうしても一体になれない。ときに食べ物がなくなる。飢えが襲ってくる。やっとしとめた獲物は、ハエに奪われ、狼に奪われ、鷲に奪われる。「初恋」のときのように、「現実」というものを知らされる。これが第2段階だ。
 どうしても一体になれない。野性そのものが生きている「場」にたどりつけない。その、たどりつけない苦悩のなかで、とぎすまされていく感性。意識。そして、そのとき感じるのだ。それは自分とは一体ではない。それは「自己」(私)の発見へとつながる。自分にできること、できないことがわかってくる。これが「初恋」の第3段階。
 拒絶され、だまされ、(自然からいわせれば、勝手な誤解なのだが)、間違って毒草を食べ、衰えて行く主人公。近づいてくる死。
 その瞬間、とんでもない至福がやってくる。「世界」が一瞬のうちに切り開かれる。人間が生きる「場」がくっきりと見えてくる。「初恋」の第4段階(最終段階)だ。

 「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合ったときだ。」

 自分は分かち合えるものをもっていない。そればかりか、もとうとしてこなかった。一方的だった、と自覚する。
 主人公の青年は、「人生において必要なのは自分ひとりで生きること、自分の頭と肉体しか頼るものがない状況のなかでひとりで立ち向かうこと、そういうことを体験すること」と考えて、荒野(ワイルド)をめざしたのだが、そこでたどりついたのは、そういう「哲学」とはまったく逆の考えである。
 人間が生きるのに必要な哲学はただひとつ「分かち合い」なのだ。

 とてもおもしろい。とても充実している。

 この映画が最終的に描いているもの、提出しているメッセージが、説教臭くならないのは、何よりも荒野の、野性のはりつめた美しさがきちんと映像化されているからだ。人間を拒絶する荒野の美が、拒絶されてとぎすまされていく意識、片思いの意識と拮抗するように強く描かれている。人間の意識をあざ笑うように剛直に生きる力として描写されている。
 たどりつけない美。そこにあるのに、自分とは一体になれない美。それなのに至福をもたらしてくれる美。それは矛盾なんだけれど、その矛盾のひとつひとつが、主人公の感性・生き方に触れてきて、主人公を変えていくのがわかる。
 ふと、チェ・ゲバラの青春を描いた「モーターバイスクール・ダイアリー」を思い出した。その作品とも通い合っている。矛盾にぶつかりながら、人生を変えていくという青春のあり方が。



 この映画は、主人公の青年が荒野をめざした理由を「家庭不和」にもおいているが、ちょっと余分なような気がした。
 人間に情をかけない自然は、その拒絶する力だけで、とても美しい。初恋の(片思いの)相手がより美しくなるのは拒絶が明らかになったときである。拒絶という力にあって、それでもその拒絶するものに近づきたいという欲望。そういう矛盾したというか、理性的に考えると無駄な行為に人間を駆り立てる力が人間の中にある。それだけに的をしぼって自然と主人公の対比だけを描けば、「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合ったときだ。」はファミリー・ドラマとは違った次元にまで高まったのではないかと思う。
 冒頭の、列車(?)からとらえされた風景(人間の生きている場の近くの自然)さえ、あんなに美しく、はりつめた感じで描出できるのだから、もっともっと自然の美と主人公の対話に集中してほしかった。
 欲張りすぎだろうか。





ミスティック・リバー

ワーナー・ホーム・ビデオ

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西出新三郎「母」

2008-09-11 08:20:09 | 詩(雑誌・同人誌)
西出新三郎「母」(「石の詩」71、2008年09月20日発行)

 詩はことばでできている。あたりまえのことだが、ことばがあると、そこに「意味」がある。その結果、詩にも「意味」が含まれてしまう。
 西出新三郎「母」には、「母とは何か」という「意味」が書かれている。ごくごく一般的な「意味」では、「母」は「やさしさ」である。この作品も、そうした「意味」をもっている。

神さまは
あちらへもこちらへも出向かなければならないので
困っている人
悲しんでいる人
どの人の家へも行ってあげる
というわけにはいかなかった

神さまはそこで
母を創って
一家にひとりずつ配ってあるいた

一千の家に一千の灯がともり
ひとつの灯の下には
かならずひとりの母がいる

人びとは母をまんなかに
夕餉の卓をかこみ
きょう一日の
困ったことや
悲しかったことを
きいてもらう

雪が降ってきた
あとからあとから
舞いおりる雪の中を
一千の灯がぐんぐんと
空へのぼってゆく

そこに神さまがいるかどうかは
べつにして
母は眠ってしまった子どもたちを
ひとりずつ抱きあげては
ベッドに運んだ

 この「母」は夢であり、願いかもしれない。思い出かもしれない。時間を超えて、ずーっと存在しつづける「意味」、つまり「永遠」というものかもしれない。その「意味」のなかにも詩はあるけれど、私がそれよりも詩を感じたのは「雪が降ってきた」からの連である。
 そこには「母」は描かれていない。人間が描かれていない。ただ「灯」が暮らしの象徴として描かれている。そして、雪が。
 雪が降るのを見上げた経験があるひとならわかると思うが、ひっきりなしにふってくる雪を見上げていると、体が浮いてくるように感じるときがある。雪が降ってくるのではなく、「私」が雪の中を空へ向かってのぼっていく。そういう錯覚にとらわれることがある。
 この上昇感と「灯」を結びつけたところに、この作品の「詩」がある。

 私たちはいつでも「ここ」から出発して、「ここ」ではないところへ行く。「ここではないところ」がどこかなどはだれにもわからない。わからないけれど、そんなふうにして「ここ」を離れてしまうのは、とても美しい。
 「ここ」を離れるというのは、芸術なのだ。「現実」を離れるというのは、芸術なのだ。
 その離れて行く「主語」として、西出は「灯」を描いている。「灯」のなかには暮らしがあり、暮らしの中心には「母」がいる。「母」が守りつづける「灯」。それが、みんな、雪の中をのぼっていく。暮らし、暮らしを守ること--それが芸術になる。その一瞬。それが、とても美しい。

 三好達治の詩も美しいが、その美しさに匹敵する美しさが、「雪が降ってきた」の連にはある。



 引用するとき、作品の最後の2行を省略した。西出がほんとうに書きたい「意味」は、その2行にあるのかもしれない。だが、私にはそれが「意味」でありすぎて、うるさく感じられた。「意味」は「意味」でいいけれど、「意味」になりきれていない部分、「雪が降ってきた」の連のことばの動きが、私は好きである。
 その連には流通する「意味」では語れないものがある。ほんとうの「美」がある。最後の2行は、そういう「美」そのものの動きを固定してしまう。「美」にとって固定は「死」に等しい、と私は思う。






家族の風景
西出 新三郎
思潮社

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桐野かおる『私の広尾』

2008-09-10 01:31:37 | 詩集
桐野かおる『私の広尾』(砂子屋書房、2008年08月05日発行)

 桐野かおるの詩には不透明なものがある。たとえば、「卍」。

死ねばいいのに と思っていた人が
本当に死んでしまった
しかも私の眼の前で
九階の自室のベランダから飛び降りて

(略)

慌てて駆け寄って下を覗くと
頭のあたりに大きな血溜りをつくり
卍形になったまま

 「死んだ人」というのは何かの比喩かもしれない。比喩かもしれないけれど、「死ねばいいのに と思っていた人が」というのが、なんとも不透明である。そういう気持ちは誰にでもあるだろうけれど、それが実際に起きてしまうと、普通ひとはそれをことばにはしない。どこかでこころの呵責を感じるからかもしれない。
 この詩は、続きを読むと、さらに不思議な気持ちにさせられる。

それしかないという道をつくっておいて
時間をかけ
ゆっくりとそこへ追いこんでゆく
願ってもないこの展開
それにしても
私の意図に気づいていたのかいなかったのか
(略)

一度外した視線を
もう一度地上に戻してみた

大丈夫 確かに死んでいる

私の眼の前で
というのが少し後味が悪いが

これくらいは仕方がないだろう

 「死」が何かの比喩であるとして、その比喩が実のことろ、何の比喩なのかよくわからない。よくわからないけれど、わからないがゆえに、なるほどね、と思うのだ。特に「ま/これくらい仕方がないだろう」という末尾の2行が、不透明さを超えて、ふいに肉体に迫ってくるのである。
 もしかすると桐野は「不透明」なものを書いているのではないのかもしれない。「透明」なのものを書いているかもしれない。「透明」なのものは見えない。「透明」の向こうにあるものだけが見える。本当に見えるのは「透明」とは逆のもの、「不透明」なものである。
 書いてあることが「透明」である、とは、どういうことか。だれもの意識に共有されていること、意識というより「肉体」に共有されていることが書かれていて、それをわざわざことばにする必要がないので、だれもことばにしない。そういうことが書かれているために、本当に書かれていることが何かはわからない。わからない癖して、この気持ち、よくわかる、といいたくなる。肉体が納得してしまう。ことばにはできないけれど、納得してしまう。肉体だから、ことばを必要ともしない。
 ここにはだれも書かなかった「正直」が書かれているのだともいえる。

 誰かのことをうらむ。死んでしまえばいいのに、と思う。死ぬがおおげさなら、失敗すればいいのに、恥をかけばいいのに、と思う。そのための下準備(罠?)もこしらえる。そして、それが実際に起きてしまう。そのときの後味の悪さ。けれども「ま/これくらい仕方がないだろう」とも思い、自分を納得させる。そういうことは、誰彼にも起きうることかもしれない。それは「理性」ではなく、「肉体」が、人間の「本能」のようなものが、引き起し、同時に、納得することがらである。
 このときの、

これくらいは仕方がないだろう

 の「これくらいは」。ここに、桐野の「正直」と「透明」が凝縮している。「これくらい」って、どれくらい? それはことばにできない。でも、だれもが知っている。知っているつもりになっている。

 桐野の「思想」は「これくらい」でできているのだ。

 「死ねばいいのに」と思う。「これくらい」のことは誰もが思う。「それしかないという道をつくっておいて/時間をかけ/ゆっくりとそこへ追いこんでゆく」。「これくらい」のことはだれもがする。「これくらい」は暗黙の了解である。そして、暗黙の了解であるから、それはことばにしない。
 「透明」と「暗」は一致する。
 見えるものは、「透明」ではないもの、「暗」とは違うもの、不透明なもの、つまり明るい光を反射するものだけである。--世界の見え方を、桐野はそんなふうにとらえているのだろう。そして、そのとらえ方は、私たちの「肉体」が抱えこんでいる「思想」と完全に一致する。肉眼は「透明」なのものは見えない。「暗い」場所でも何も見えない。桐野は何一つ、そのことに関して嘘をついてはいない。つまり「正直」に肉眼の実際を報告している。肉眼とともにある「肉体」のあり方、世界とのかかわり方(つまり、思想)を報告しているのである。

 この「正直」は別のことばでいえば、どういうものか。その「正直」の対極にある世界はどういうものか。「絶叫男」におもしろい行がある。隣の部屋で絶叫する男がいる。絶叫の理由はわからない。

寝言であんな大声を出す人はほかにもいるんだろうか
ジグムント・フロイトの書いた本でも読めば
何か合点のいくことがあるかもしれないが
そういう学問的なことと
こういう日常の卑近なこととを結びつけて考えるのは
何だかこじつけのような気がして気が進まない

 「正直」とは「日常」であり「卑近」である。「肉体」に身についてしまっていて、それを剥がして提示して見せるためのことばはないのである。「いわなくてもわかる世界」である。この対極にあるのが「学問的な世界」である。「頭」でとらえた世界である。「いわなくてもいいこと」を「頭のいい人」はいいたがるものである。「いわなくたっていいことばっかりいって」「そんなこと、いわなくたってわかっているのに」。でも、そんな声は「頭のいい人」には届かない。
 そういうことばが届かない人には、ま、仕方がない。わかってもらえなくてもいい。そういう感じで、桐野のことばは動いている。

 読めば読むほど、味が出てくる。




桐野かおる詩集―1988-2002
桐野 かおる
文芸社

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洞口英夫「夢街」

2008-09-09 11:03:55 | 詩(雑誌・同人誌)
洞口英夫「夢街」(「現代詩手帖」2008年09月号)

 きのう読んだ岡井隆「夏日断想集」のなかに、岡井が女流歌人が書いた歌の「つまづく」は「躓く」の方がいい、と書いてあった。詩人に限らず、多くのひとが表記にこだわる。これはとてもいいことだと思う。そうしたこだわりのなかには、ことばにならない「思想」がある。「思い」がある。「つまづく」と書こうが「躓く」と書こうが、同じだと思うひとは、こだわるひとの「思い」を領域を見落とすことになる。その「表記」がつながっている世界を見落とすことでもある。

 洞口英夫「夢街」にも不思議な表記が出てくる。全行。

夢の中でしか
行ったことのない街(まち)がある

前にも夢のなかできているので
なにもいわかんがないのだが
夢のなかでしか行くことができない

街にはみたこともない
お寺があって 大きな杉の樹があって
本堂では集まった人々に
管長が法話してた
お寺の近くの長屋では
小さな女の子がともだちと
むじゃきにあそんでいる
見たこともない 顔してた
 ○
夢のなかでしかいけない街がある   (平成十九年十二月三十日)

 2連目。「なにもいわかんがないのだが」の「いわかん」。「違和感」ではなく「いわかん」。「違和感」と書いたときより、私には意味が不鮮明な印象があり、もし違和感があったとしても、それが街のなかへ溶けて消えていってしまったために「違和感」がなくなったような感じがする。「いわかん」という表記を見ると、かすかに残っている「違和感」そのものが、街のなかへ消えて行く気がするのだ。「いわかん」ということばが思いつくくらいだから、何らかの不思議な気持ち、不可解さは一瞬あるのだろうけれど、そういうかすかなのこりかすのようなものすら、ふわーっと消えてゆく感じがする。
 とても魅力的に感じる。「いわかん」という表記はいいなあ、と思う。

 「いわかん」という表記のほかにも、洞口は表記にこだわっている。
 1行目は、夢の「なか」でしか。2連目、夢の「なか」で。最終行、夢の「なか」でしか。「中」と「なか」がつかいわけられている。
 1行目は、読者の意識をすばやく引き込む。2連目は、とても読みにくい。漢字まじりに書くと「夢のなか、出来ているので」と一瞬読み違えてしまう。「夢の中で、来ているので」という意味だとわかるまでに、なんともいえないあいまいな時間が横たわる。そして、そのあいまいな感じと「いわかん」という不思議な表記が、なぜか、とてもなじんでいる。
 2連目の、いわば同義語の繰り返しのような、何の説明にもならない3行が、不思議な表記によって(わざとわかりにくくした表記によって)、詩になっている。詩を主張している、と感じる。

 漢字とひらがなの表記のつかいわけは、ほかにも「行くことができない」「いけない」、「みたこともない」「見たこともない」がある。このつかいわけはとても不思議で、逆に書かれていたら、この詩の印象は違ってくると思う。
 「みたこともない」と「見たこともない」。私の印象では、3連目の書き出しの「みたこともない」は、ひらがなであることによって、イメージがあいまいになる。いったんイメージをあいまいにしておいて、「お寺」「杉」「樹」「本堂」「管長」などの、くっきりとしたイメージ(だれもが完璧に思い浮かべられる存在)へ読者の意識を動かしてゆく。ありふれた、というか、見慣れた光景を全面に出すことで、夢の不思議なリアリティーを強調する。
 そうして、「むじゃきにあそんでいる」とひらがなで書くことによって、一種の不気味さをはさみ、「見たこともない 顔してた」という行がくる。意識を「夢」から覚醒させる。「夢」はここまでですよ、と告げる。

 そして、最終連。 「夢のなかでしかいけない街がある」。「行けない」とは書かないことによって、「夢」がまだ根強く残っている感じがする。「夢」と「行く」という行為がどこかでつながっている、という印象がある。さらに「いけない」は「行けない」であると同時に「いけない」(よくない、禁止)ということばを遠くからひきつれてくる。「夢」のなかからひきつれてくる。夢のなかでしか行けない街--そんな街を夢見ることはいけない(よくない)ことだ、という声がとても遠いところから、しかし、とてもしっかりと聞こえてくる。

 とてもおもしろい。




闇のなかの黒い流れ
洞口 英夫
思潮社

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岡井隆「夏日断想集」

2008-09-08 11:10:04 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「夏日断想集」(「現代詩手帖」2008年09月号)

 ことばは逸脱する。国語をその国民の到達した思想の頂点であるというようなことを三木清は言ったが、そうすると逸脱することばとは、何になるのだろうか。別に何になってもかまわない(定義はどうでもいい)ことだろうが、私はちょっと「肉体」と読んでみたい気持ちになっている。「思想」に対して「肉体」。「思想」を支えている「肉体」と。それは切り離せないものだろうけれど、切り離せないにもかかわらず、何か違うなあと思えるもの、「肉体」。
 そういう思いは、たとえば岡井隆「夏日断想集」を読んだときに、ふいに、襲ってくる。「断想集」の「1」。

「加茂川の対岸をつまづきながらやつてくる君の遠い右手に触りたかつた」といふ歌を若い女性歌人が提出したとき「雷雲が圧迫してやまないためなのだろう特別にまた来日(らいじつ)のない憂愁の中に居たことであつた」と私も同じ座の文芸に参加して苦しげに歌つた「来日」といふ漢語が嫌はれて入点した数は女流が四私は零だ「つまづく」より躓くの方がいいのになあ「汝をして躓かしめる力は汝をして立ち上がらしめる力なり」(チマブエ)

 「女流歌人」の歌の「つまづく」にこだわって「躓く」の方がいいと思う。その思いは、「躓く」ということばを岡井が「汝をして躓かしめる力は汝をして立ち上がらしめる力なり」といっしょに記憶しているからである。その「記憶」が岡井の「肉体」である。「つまずく」ということばを岡井は知っている。(だれもが知っている)。ただし、その「知っている」には不思議な領域がある。岡井はチマエブをひいているが、もちろん、それはチマエブ自身のことばではない。というか、チマエブを訳したひとのことばである。あるいは「表記」である。ことばは「表記」とともにある。

 「表記」は「思想」だろうか? 「肉体」だろうか?
 これは、ちょっとわからない。考えはじめると長くなるので、省略して……。

 マチエブのことばは、「つまずく」(つまづく)と書こうが「躓く」と書こうが、その意味・内容にかわりはない。それでも、やはり岡井はこだわるのである。女流歌人の歌の「つまづく」も「躓く」と書いたところで、その意味・内容はかわらない。それなのに、岡井は、「躓く」がいい、とわざわざ書く。
 ことばは意味・内容を逸脱して、どこかとつながっているのである。そのつながりを、あれこれ書くことはむずかしい。具体的に書くのがむずかしいわけではない。実際、岡井はマチエブを例にひいて、「ほら、こんなふうに漢字で、躓くの方が……」と示している。そして、それが具体的であるからこそ、何だか説明がむずかしいのである。
 抽象的なことがらは難解といわれがちだが、具体的な方がもっと難解である。「理由」はどこまで言っても説明できない。ことばを覚えたときの、あいまいな何かが作用して、「つまづく」ではなく「躓く」だよなあ、と思う。それだけのことである。それだけのことであるが、そのそれだけのなかに、岡井のすべてがある。

 ことばは何かとつながっている。

 国語がその国の思想の頂点であるというときも、その国語は国民の何かとつながっている。もちろん「頭」ともつながっているが、「肉体」ともつながっている。個人個人の「肉体」はもちろんだが、国語の歴史(ことばの歴史、文学)ともつながっている。それは具体的でありすぎて、どうにも説明ができない。
 「思想」(頭)と「肉体」を分離できないように、ぴったりは重なっている。
 ぴったりと重なっているけれど、重なりながら、やはり逸脱している。
 たとえば、女流歌人の歌と、チマブエのことばは、同じ「躓く」ということばをもっているが、何かが違う。その差異。逸脱。その瞬間に、ふっと見える「肉体」。そこに「詩」がある。あ、このひとのことばは、こんなところとつながっているだ、とわかった瞬間に、そのひとがよりくっきり見えてきて、何か新しいものを見た、という気持ちになる。その「新しいもの」という感覚を呼び起こす「肉体」。そこに「詩」がある。
 岡井のことばは、そういう「肉体」へと、すっと、動いてゆく。

 「3」の「断想」は、その「肉体」を「不満」ということばで言い直している。(岡井は「肉体」ということばをつかっていないので、私がかってに「不満」を「肉体」のようなものと読み替えている、といった方が正確かもしれないが。)

「細部」とは魅力のある言葉だがたぶんSAIBUの母音配列が効いているためだろうと昔の教師が言つてゐた細部つて微細な部分といふ定義では不満で花ならば蜜房の香りつてところだ西欧では神のまします場所東洋ではそこに汗くさいひとを置く

 「意味・内容」を抽象ではなく、より具体的に書いてしまう。「具体」へと逸脱して行って、抽象を濁してしまう。混沌とさせ、そこから何かが動いてくるのを待つ。それが「肉体」のすべてである。そして、その動きの出発点には「不満」がある。「肉体」が納得しないものがある。「肉体」はよりぴったりとする「具体」をもとめつづける。
 「蜜房の香り」から、「汗くさいひと」へ。--それは、まだ、ことばになっていないことば。「詩」はまだことばになっていないことば。もちろんそれはどこかとつながっているが、そのつながりから、ふわっと浮いてきて、この「肉体」を洗い清めていく。その瞬間、なんとも言えない自由が満ちてくる。
 あることばが、既成のテキストから分離してきて、いまここにある「肉体」の中に動いている何かを洗い清める。そんなふうにして「肉体」をくぐりぬけて、ことばは既成のテキストから自由になる。そして「肉体」もその瞬間、洗い清められ、自由になる。そのとき「詩」が輝く。

 この輝きは、三木清のいう「思想」にもあるだろう。含めていいものだろう。「詩」と呼ぶことで。

 詩もまた、その国民(国語)が到達した頂点である。





限られた時のための四十四の機会詩 他―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社

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豊原清明「映画詩(一)くしを洗っている女」

2008-09-07 09:19:56 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「映画詩(一)くしを洗っている女」(「火曜日」95、2008年08月31日発行)

 豊原清明「映画詩(一)くしを洗っている女」は、映画のシナリオを詩の形式で書いたもの、というくらいの意味だろうか。描写がカメラの動きをしている。

垂水駅のすぐ近くの午前中の散髪屋
店はがらんとしていた
青い椅子が三台 ある
皺の入った コーヒーの匂いのする
千円を入れる
白い紙がにょろっ と出てきて

 映画そのものである。カメラが街の広い空間から理髪店に近づいてゆき、だんだん細部へと集中していく。「青い椅子が三台 ある」の1字空きのリズム、一呼吸おいた感じがいよいよカメラがカメラ独自の視点で世界をとらえはじめることを明らかにしている。
 クローズアップされる千円札。皺。くっきり映すので、ほんとうはカメラでは伝えることのできない「コーヒーの匂い」までスクリーンからあふれてくるような錯覚に誘われる。
 一部前払いなのか、それとも整理券の番号札だろうか。
 「白い紙がにょろっ と出てきて」の「にょろっ」まで、ここまでクローズアップがつづく。とても生々しい感覚。「にょろっ」。何をあらわすかわからないけれど、肉体に直接せまってくる「にょろっ」。そして、その後、ここでも1字空きが登場し、そこからカメラのリズムがかわる。かわることがわかる。

白い紙がにょろっ と出てきて
理髪師が言う「こちらへどうぞ」
若そうな女の声
(うれしい)僕は
「丸刈り三ミリ、もみあげは普通でいい」
とぶっきらぼうに言う 椅子に座る

 とてもいい。カメラの動きが、スクリーンの映像がくっきり浮かび上がってくる。「(うれしい)僕は」は、声には出さないけれど、顔に「うれしい」があふれたクローズアップだ。「女」はまだ「声」だけの登場で、僕と理髪店の「もの」(椅子など)が映し出されているだけだ。ほかの店員がいるとしても、背景として映っているだけで、焦点は当たっていない--そういうことが、1行1行から正確につたわってくる。
 「僕」が椅子に座り、いよいよ店員が登場してくる。人が登場してきて、「僕」のこころに作用しはじめる。

「担当のかとうと言います。よろしくお願いします。」
この女性は新人なのだろうか?
プロの理髪師は普通そんなこと 言わない
いつも無愛想で口泡吹いているが
しかしサービス精神に富んだ女性に
切ってもらうということは
胸にレモンを注ぐような不思議な快感に
満ちている 顔チラリとしか見なかったが

 ここでも1字空きが大活躍している。「プロの理髪師は普通そんなこと 言わない」。「僕」の胸の中にあらわれたことばだが、1字空いて「言わない」というまでの間。その「間」があることで、「僕」の思いは、普通の思いの領域を超越してゆく。飛躍してゆく。普通、人が思わないようなことまで思いはじめる。

胸にレモンを注ぐような不思議な快感

 えっ、これ、何? 何だかわからないけれど、ものすごく新鮮な感じに、突然圧倒される。
 これはもちろん映像にはならない。カメラではとらえられない。そして、ここに「映画詩」の、映画だけではないもの、映画を超える「詩」がある。
 もしこの作品が実際に映画になるときは、この瞬間、カメラはこまれでの映画がとらえたことのない映像を再現しなければならない。どこからかつかみとってこなくてはならない。映像そのものとしては、「僕」が映っている、若い理髪師が映っている、という単純なものだが、その瞬間の映像は、これまで私たちがみたことのある映像ではダメである。何かが超越していなければならない。逸脱していなければならない。こういうものを表現するのが役者の肉体である。役者の肉体が

胸にレモンを注ぐような不思議な快感

 を、一瞬のうちに表現しなくてはならない。ここでは、いわゆる「存在感」というものが役者に求められることになる。普通の人の肉体がもち得ない超越したもの、逸脱したものが観客を一瞬のうちに引きつけ、とりこにしなければならない。
 どんな映画にも、そういうシーンはあって、そういうシーンをハイライトと呼ぶが、この「映画詩」のハイライトは、

胸にレモンを注ぐような不思議な快感

 である。
 映画は(作品は)そのあと、若い女と「僕」のふれあいながらの揺らぎをていねいに描く。ちょっと省略して(この部分も非常にいいのだけれど、わざと省略します。読みたい人は、「火曜日」を手に入れるか、詩集が出るまで待ってください--映画のように、私もわざとじらしておきます)、その映画のおわり。

僕はフーッとため息をして
店を出た
丸刈り三ミリか
今はあつくもない梅雨
もっとしゃんしゃん
暑くなってくれや
父と合流
題名も知らない映画にJRの普通電車に乗って
ぷっと父は笑った
「円形脱毛しとる
白髪も生えとる」
弱冷車
老人の横で うわーっと欠伸する子供

 ユーモラスで、余韻がある。「胸にレモンを注ぐような快感」を、そんなふうに静かに落ち着かせて、映画が終わる。
 いいなあ。こういう映画、いいなあ。
 ジム・ジャームッシュだって、こんなしゃれた短編は撮れない。ウェス・アンダーソンなら可能だろうか。ぶっ飛んで、ポール・トーマス・アンダーソンなんかにまかせてみるか? あるいは初期の「の・ようなもの」のころの森田芳光ならできるかなあ。むりだなあ、きっと。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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ザ・ロイヤル・テネンバウムズ

ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント

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谷川俊太郎「キンセン」

2008-09-06 08:58:05 | 詩(雑誌・同人誌)
 谷川俊太郎の詩は読めば読むほど不思議である。「キンセン」の全行。

「キンセンに触れたのよ」
きおばあちゃんは繰り返す
「キンイセンって何よ?」と私は訊(き)く
おばあちゃんは答えない
じゃなくて答えられない ぼけているから
じゃなくて認知症だから

辞書をひいてみた
金銭じゃなくて琴線だった
心の琴が鳴ったんだ 共鳴したんだ
いつ? どこで? 何が 誰が触れたの?
おばあちゃんは夢見るようにほほえむだけ

ひとりでご飯が食べられなくなっても
ここがどこか分からなくなっても
自分の名前を忘れてしまっても
おばあちゃんの心は健在

私には見えないところで
いろんな人たちに会っている
きれいな風景を見ている
思い出の中の音楽を聴いている

 「谷川俊太郎」という名前がなかったら、私は、小学生か中学生が書いた詩だと思ったかもしれない。
 1連目の「じゃなくて」を行の冒頭にもってきて、ことばを訂正する。そのリズムが、こどもの口語そのものである。2連目にも「じゃなくて」が登場し、こどものことば、口語の口調の印象を強くする。

 だが、そのリズム、繰り返しながらことばを訂正し、ことばを探す--実は、ここに谷川の特徴があらわれている。谷川はいつもことばを探している。
 谷川のことばの探し方にもし特徴があるとすれば、探すとき、谷川は谷川ではない、ということだ。たとえば、この詩では、谷川は、小学6年生か、中学1年生の女の子である。少女になって、ことばを探す。ことばを探すことで、少女になってしまう。そんなことができる詩人なのだ。
 少女になりながらも、しかし、谷川は谷川である。きちんと谷川らしさを発揮する。
 3連目の、たたみかけるようなリズム、ことばをたたみかけて、ふっとジャンプして別次元へ移行する瞬間に谷川の特徴が(詩のいちばん美しい部分が)あらわれている。
 ただし、この瞬間にも、谷川は少女のままでもある。「心は健在」という一種の固さ、完全にはこなれきっていないような不思議な固さが、こどもの少しだけ背伸びしたことばの感じをとてもよく伝えている。
 そして、ここに「詩の本質」そのものを提示もしている。
 詩とは、少しだけ背伸びしたときに見えてくるものを書く。それは、おとな(すでに老人?)になってしまった谷川本人であるよりも、少女の姿、少女のことばを借りた方が、より正確にあらわすことができる。
 この詩のなかでは、現実の谷川と少女が完全に一体になっている。一体になることで、詩を完全なものにしている。
 特に最終連。
 「見えないところ」「いろんな人」「きれいな景色」「思い出の中」。こうしたことばは、おとなが何かを言おうとして書くならば、かなり印象が弱い。もっと具体的に書かないと何のことかわからない。ところが、少し背伸びした瞬間に少女が発見したものだとすれば、これ以外に書きようがない。「見えないところ」も「いろんな人」も「きれいな景色」も「思い出」も、少女には、実は、それが何かがわかっていない。ことばに誘われるようにして、それを見ようとしているのだ。発見した、と私は便宜上書いたが、少女はことばをつかって、それを発見しようとしている。
 そして少女は本能的に知っている。自分にはまだわからない何か、発見したい何かが、ことばにすれば、自分では発見できなくても、読んだ人がそれを発見してくれる。ことばは、読んだ人のこころのなかで発展する。そして、詩になる。そういうことを知っている。

 そして、この、ことばは読んだ人のこころのなかで発展し、詩になる、というのは谷川俊太郎の「思想」そのものでもあると思う。谷川は、いつでも、ことばを発展する余地のあるものとして書いている。発展する可能性を残したまま書いている。自分で書いてしまうのではなく、読者のこころが、新しくことばを書きはじめるのを誘っている。







谷川俊太郎質問箱
谷川俊太郎
東京糸井重里事務所

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小長谷清実「立ち尽くす日」

2008-09-05 11:12:34 | 詩(雑誌・同人誌)
小長谷清実「立ち尽くす日」(「交野が原」65、2008年10月01日発行)

 小長谷の詩で感心するのは、どの詩でも「音」である。「音」が何かを飲み込んでふくれてゆく。膨張して、世界を奇妙に変えてしまう。その、論理では追うことができない(もちろんこれは私の論理では、という意味であって、ほかの読者には論理で追うことができるかもしれない)、何か、膨らんで、膨らむことによってずれていく、その感じが私にはここちよい。(この対極にあるのが、岩佐なをである。岩佐の場合、膨らんでゆくというより崩れてゆく、そのずれ、ずれをひきおこす「音」が気持ち悪い。そのくせ、その気持ち悪いものをもっと見てみてみたい、聞いてみたいというキミョウな欲望をそそる。) 小長谷のことばの音の気持ちよさ。「立ち尽くす日」の冒頭。

崩れかけたレンガ塀の上を
過度に肥ったネコが歩いている
喘ぎ喘ぎ歩いていく
昼下がりの風 なまぬるく
かれの足にまとわり
まとわりついて
その足どりのけだるさや
わたしの過ぎてきた日々の
その息づかいに
呼応しているかのようであり

 4行目からが、とても気持ちがいい。
 どうして、この行が私にここちよく感じられるのか。
 たぶん「昼下がりの風 なまぬるく」の1字空きが大きく影響していると思う。この1字空きのなかには助詞の「が」が省略されている。(と、私は思う。)そして、省略することで、「論理」の構造を少し緩めている。そこから、「論理」ではなく、「音楽」が始まる。思い出したように次々にあらわれる「の」。その繰り返しのリズムと「音」。それがとても気持ちがいい。
 「昼下がりの風がなまぬるく」だと、とても窮屈である。重たくなる。1字空きがあるために、その空きを意識が飛び越えなければならない。この飛躍は、もしかすると飛躍というよりは肉体への沈下(沈み込み、もぐりこみ)かもしれないが。そして、意識はその飛び越え(あるいは沈下)の瞬間、論理を振り払ってしまう。
 歩いているのはネコのはずなのに、ネコが意識から消えてしまう。ネコは知らないあいだに「かれ」になり、「わたし」ととけあってしまう。その、ほんとうは違ったものを、くりかえされる「その」が、いっそう混濁させる。この、混濁。区別がなくなって、音だけが残る、この瞬間が私にはとても気持ちがいい。
 私は音痴だし、歌は好きではないが、こういう「音楽」はとても好きだ。酔ってしまう。黙読するだけだが、そのときも、喉や舌や口蓋が動き回る。ただただ音を出すことに酔って、動き回る。その「音」がどんな意味を語っているかなんかは関係なくなる。「ネコ」「かれ」「わたし」が「呼応」して、まじってしまっているのだから、そんなところに「意味」なんてありえないだろうし、ただ「音」に酔えばいいのだ、と思ってしまう。
 こんなふうに酔わせておいて、小長谷は、ものすごい意地悪をする。
 詩のつづき。

(だからと言って、次行を)
それからネコは
崩れかけた世界のはずれまで来て
少し思案し 飛躍 落下
夏草繁る空き地の中へ
(などと続けて終わりにしても
はじまらない、か?)

 むりやり「ネコ」に引き戻し、「論理」を築き上げるふりをして、「論理構造」そのものを脱臼させる。すべてのタガを外してしまう。「続き」「終わり」「はじまり」がいっしょに登場して、すべてが解体されてしまう。
 こういう意地悪は、最高である。日常のなかでも、ときどき、意地悪されながらいっしょに笑ってしまうしかないようなことがあるが、この詩でも、もう笑うしかない。「続き」「終わり」「はじまり」って、ことばだけで、音だけで、ほかにはなにもないじゃん。
 途中の「思案し 飛躍 落下」もよーく読むと変でしょ。「ネコ」は普通は「落下」はしません。「思案し 飛躍 着地」。その「着地」を「落下」にすることで、解体が完全になる。論理を「解体」したあと、瓦礫が残るのではなく、そこには「夏草繁る空き地」があらわれる。何もない「空気」がぽん、と出現する。

 それで、詩は、どうなるの?

 途中を省略して、最後の6行。

ネコよ わたしよ 世界よ
その妄想 追いやれず
ぶつぶつ呟き 立ちつくす
(次行だって、
いつまでもあるわけじゃ
ないし、な?)

 「ネコ」「わたし」「世界」がいっしょになってしまう。ことばのなかで、音のなかで、区別がつかない存在になる。そして、「音楽」だけが残る。
 「ぶつぶつ呟き 立ちつくす」の「ぶ」「つ」の連続と入れ替え、「つ」の甦り。そのリズムのおかしさ。ね、小長谷さん、この行が書きたいだけのために、この詩を書いたんでしょう。そう言いたくなる。
 そして、そういう質問を知っているかのように、最後の「ないし、な?」の「な」のくりかえし。最後まで「音」をばらばらにし、もう一度「音楽」を生み出す。その、音の動きすべてがとても気持ちがいい。

 こういう詩を読むと、詩人の「声」を聞きたくなる。「声」と言っても、別に肉声のことではなく、聞こえない「声」、小長谷の頭の中で響いている声のことなのだけれど。でも、それは実際には聞けない。想像するだけだ。それが残念だけれど、残念であることが、なんとも楽しい。こんな音かな、あんな音かな、と自分の頭の中で、声には出さず舌や喉を動かしてみる楽しみがある。





わが友、泥ん人
小長谷 清実
書肆山田

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テリー・ジョージ監督「帰らない日々」(★★★★)

2008-09-04 01:47:53 | 映画
監督 テリー・ジョージ 出演 ホアキン・フェニックス、マーク・ラファロ、ジェニファー・コネリー

 交通事故により最愛の息子を奪われる。警察の捜査は進まない。業を煮やした父が弁護士に調査を依頼する。そして、その弁護士が加害者だった……。
 厳しいストーリーである。この厳しいストーリーをカメラは揺るぎない映像でとらえていく。息子(兄)を失ってバランスをくずしてゆく一家。父と母(夫と妻)が傷つけあい、娘(妹)がおびえる。どうしていいかわからない。
 一方、依頼された弁護士は父親が自分を覚えていないのを知り、安心すると同時に良心の呵責にも悩まされる。自分は何もかも知っているのに、父親は何も知らない。そして知らないことを利用して生きている。さらに複雑なのは、弁護士自身にも息子がいるのだが、その息子は離婚した妻のところにいて、週に1回会うだけだということだ。弁護士は、いわば、生きたまま息子を失っている。息子を失うことの悲しみを知っている。もし、自分が自首すれば、さらに息子を失うことになる。息子から嫌われるかもしれない。そういう不安のために、いっそう自首する機会を失ってゆく。
 双方の苦悩を、主演の3人がリアルに演じている。
 ホアキン・フェニックスとジェニファー・コネリーは互いを傷つけることしかできない。力をあわせなければならないのに、互いを頼りあうことすらできない。慰め合うためのセックスもできない。体もこころも完全にばらばらになる。この姿を、カメラは慎み深くとらえている。こころの奥に踏み込むのでもなく、遠ざかるのでもなく、慎み深く、ただそばにいるという感じでとらえている。たしかに、カメラはそばにいるのだ。ちょうど、ふたりの心、体から息子が消えていないように。まるで死んでしまった息子のかわりに、そっと二人が苦悩するのをみつめているかのようである。そして、まるで、「お父さん、お母さん、頑張って生きて」と訴えているようである。そうなのだ。この映画は、見ていて、自然に「お父さん、お母さん、頑張って。壊れずに、ちゃんと生きて」と思わず祈らずにはいられない感じの映像で構成されているのである。
 娘(妹)を演じるエル・ファニングが、良心の苦悩をみつめながら、傷つき、しかし、いちばん先に立ち直る。兄の冥福を祈るために、ピアノを演奏する。その美しい姿に両親は少し立ち直る。この直後、父は、ふいに加害者の顔を思い出す。娘の力が父親を現実に引き戻したような感じである。この感じが、なんともいえず生々しい。
 だが、父親の、この現実への生還が、新しい不幸を引き寄せる。父親の悲しみ、憤りは、怒りに変わる。怒りは父親を破壊し、暴力に、復讐に駆り立てる。このときの変化がすごい。さらに怒りのなかで壊れてしまった父親が、最後の最後、加害者に銃を向けながら、緊張でことばが出なくなるシーンが圧巻である。
 夢のなかで金縛りにあったとき、ことばが出ないときのように、いいたいことがあるのに舌と喉が動かない。動いても、聞き取れるような声にならない。このシーンをホアキン・フェニックスが迫真の演技で演じる。結局、ホアキン・フェニックスはマーク・ラファロを殺すことはできない。ホアキン・フェニックスの、人間の、最後の良心が、彼を踏みとどまらせたといえば、そうなのだろうけれど、私はこの瞬間にも、やはり息子の視線を感じる。息子がそばにいて、父親に「お父さん、壊れたらダメ、頑張って生きてよ」とささやいているように感じられる。
 この聞こえない声、描かれない息子の姿に答えるように、ラストシーンで、ホアキン・フェニックスではなく、マーク・ラファロがビデオカメラをとおして息子に語りかける。自首するにいたった契機を語る。なぜ、すぐに自首できなかったか。息子を愛していたからだ、と。息子にとって、父の犯したことは、つらい現実を引き寄せるかもしれない。友だちにいじめられたりするかもしれない。それは心苦しいけれど、お前と過ごしたこの何日かはとても幸せだった……と。
 このラストシーンは、事故で死んでしまった少年の声の裏返しでもある。「お父さん、お母さん、妹よ、ぼくは死んでしまったけれど、いっしょに生きていたときはとても幸せだった。ぼくが幸せだったことを忘れないでね」と言っているように感じられるのである。
 どんな日常にも、たとえば映画には描かれていないものがある。映画が日常を描く。そのときに、映像にならない何かが常にその映像のそばにある。そうしたものを、この映画のカメラは正確に伝えている。それぞれの登場人物のそばにきちんと立って、その人を支える別の人間(そこにはいないけれど、その人をつきうごかしている人間)の存在と、そのことば、その声を代弁するように、正確に伝えている。
 死んでしまった少年は、父親が復讐にかられて殺人者になるようなことがないように祈っている。そして加害者がいつかは気がついて自首してくれることを祈っている。人間がそんなふうにして、きちんと再生することを祈っている。たぶん、この再生の祈りは、妹(エマ・フャニング)に最初に届いたのだろう。子どもどうしの、純な心に最初に響いたのだろう。そしてそれは少年の友だち(加害者マーク・ラファロの息子)にもきっと届くにちがいない。
 不幸を描いた映画なのに、そうした祈りがあるために、見終わったとき、何か明るい気持ちになる。だれも真の幸福を手にはしていないにもかかわらず、不思議な気持ち、救済された気持ちになる。カメラは、そういう気持ちをすくいあげるように、映像をつむいでいた。
 時間が経つに連れて、ああいい映画だったと思う作品である。


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