詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高良勉『ガマ』

2009-04-16 11:36:26 | 詩集
高良勉『ガマ』(思潮社、2009年02月26日発行)

 巻頭の「ガマ(洞窟)」が高良勉の思想を力強くあらわしている。

隆起珊瑚礁から生まれた島々を
数万年もの間 雨水や炭酸ガスが溶かし
地底の奥深くまで 鍾乳洞が拡がっている
恥毛のような草むらの中に
紡錘形の口を開き
島の腹部は ガマ(洞窟)だらけ
ああ 聖なるかな 島の子宮よ

 沖縄戦のとき、島民が避難し、そして亡くなった洞窟、ガマと呼ばれる洞窟。そのガマを高良は「子宮」と呼んでいる。「子宮」であるかぎり、その入り口に「恥毛」があるのは当然のことである。当然のことであるけれど、「子宮」呼んだ「ガマ」の入り口の「草むら」、その茂みを「恥毛」と呼ぶことによって、その「子宮」は「観念」ではなく「肉体」になった。
 そして「子宮」が「肉体」であるということは、このとき高良は「男」であることを超越して、「女」になったということである。

大空洞の彼方 に拡がる闇
ホッ ホーイッ と呼びかけても
こだまは返ってこない
その闇の中 数えきれぬ人間たちが
うごめいている わめいている
艦砲射撃で左肩をやられ
目と耳を失った 父がうなっている
看病をしているのは戦友か 母か

もう ガマの中の陸軍病院は撤退し
地上からは 米軍の手榴弾や
ガソリン爆弾が 投げ込まれてくる
ガマの奥深く 逃げていく
「従軍慰安婦」たち 戦争は何年続いたか

地中の暗闇から 真夏の青空へ
やがて父や母たちが 捕虜となって
はい上がってくる ノミやシラミ
ウジ虫に喰われた 身体を引きずって

その母の子宮の中 小さな
私の命が宿っている
ガマから生まれた 戦後の命が

 最後の連は、高良がそのとき母の胎内にいたということを語るだけではない。
 高良のすべて、高良だけではなく、沖縄の「戦後の命」がすべてが「ガマ」によって育てられているということを語っている。
 悲惨な犠牲があって、その犠牲をきちんと見つめ、その犠牲に答えるために何をすればよいか--そういうことのすべての「原点」が「ガマ」にある。
 高良の「いのち」の原点が、「ガマ」のなかの母、その母のなかの「子宮」--そこに生きていると書くとき、高良のことばそのものが「子宮」になっている。高良のことばが、沖縄の思想の「子宮」になっている。「子宮」になることで、沖縄の思想を宿している。
 ことばが「子宮」となっているかぎりは、高良もまた「女の肉体」をもっているということである。
 「胎児」として「子宮」を見つめているだけではない。また1連目に「恥毛」ということばがあったが、男として、つまり、自分のセックスの対象として「子宮」を見ているわけではない。自分の遺伝子を後世に遺すための「場」として「子宮」を見ているわけではない。「子宮」になるために、ことばを鍛えているのである。より頑強な「女の肉体」そのものになるために、男を超越しようとしている。
 男であることを超越して、「女の肉体」になる--ということは、自分自身を超越して「沖縄」になるということでもある。沖縄戦の苦悩が凝縮している「ガマ」を常に自分の肉体の中に取り込むことは、必然的に「沖縄」そのものとして生まれ変わる、「沖縄の人間」であるけれど、あらためて「沖縄の人間」として生まれ変わることでもある。「戦後」ということばを高良はつかっているが、その「戦後」というのは「戦争中」と深くつながっていて、切り離すことはできない。したがって、「沖縄の人間」として生まれ変わるということは、「戦後」の人間として生まれ変わるということではなく、「戦中」のにんげんとして生まれ変わるということである。男を超越して「女」になるように、「いま」を(あるいは戦後を)超越して、「戦中」に生まれ変わる。「戦中」の血を引き継ぐために生まれ変わるということである。

目と耳を失った 父がうなっている

 この、「現在形」。

やがて父や母たちが 捕虜となって
はい上がってくる

 この、「現在形」。
 「過去」の時間を「過去」ではなく、「いま」として引き継ぐ。「過去」を「過去」にしてしまうのではなく、「いま」として生きるために生まれ変わる。そのために、ことばを書く。ことばを書くことで、「いま」を超越する。

 そして沖縄にはまた、高良同じように、自分自身という存在を超越して、「沖縄」なろうとした先人・仲間たちがいる。高良は、そういう先人たちに敬意をこめて追悼の詩を書いている。幸喜孤洋を追悼した「巻き貝」。

巻き貝の好きな
詩人がいた
その作品からは
アンモナイトが連想された
古生代の海底をはいずり廻り
浮上してくる薄紅色のアンモナイトよ

 「古生代の海底をはいずり廻り/浮上してくる」ということばは、「ガマ」の奥深くを生き延び、そこからふたたび地上に出てくる「沖縄の人間」と重なる。「アンモナイト」もまた「ガマ」なのである。「生きかた」、つまり思想が「ガマ」なのである。

 ひとは誰でも、そのひと自身である。それはとても大事なことである。けれども、同時に、ひとは自分自身であることをやめる、自分自身を超越するとき、ほんとうにそのひとになる。つまり「固有名詞」で呼ばれる人間になる。
 高良は「ガマ」となることで高良そのものになる。

ガマ
高良 勉
思潮社

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絶対零度の近く
高良 勉
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『田村隆一全詩集』を読む(56)

2009-04-16 00:47:43 | 田村隆一

 「川」という作品には西脇順三郎のような、誰もが知っているひとは出てこない。そのかわりに複数の人が出てくる。
 「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」「養老院裏の老絵描き」「マムシ沢の作曲家」「詩人」「大学教師」。田村と親しい読者なら、それぞれの人物は誰それのことである、とわかるかもしれない。私は、それが誰を指しているのかわからないので、そのことばのままに受け止めておく。
 その複数の人間が登場する作品の 3連目。

どんな人の心の中にも川は流れている
その川上には
きっと養豚場があって
何匹かの豚が脱走するかもしれない
脱走に成功した豚もいるかもしれない
失敗して屠場送りになった美しい豚もいるかもしれない
人は
心の中を流れている川に
どんな名前をつけるのだろう
夜半に目ざめてその川音を耳にしたとき
さかさ川
極楽寺川
二階堂川

自分の耳にささやきかけるのか

 この「川」が私には「時間」のように思える。ひとは、それぞれの「時間」を生きている。「心の中を流れる川」は、私には「時間」のように思える。
 それは田村と出会って、それぞれに「川音」をたてる。つまり、田村と出会うことで、「いま」「ここ」ではない「源」(川上)で起きたことを「いま」「ここ」に呼び出し、田村に語る。語るのは、いつでも「過去」のことである。体験したこと、つまりそれぞれのひとの「肉体」(肉眼・肉耳)が体験したことである。エピソードということばが体験の代わりにつかわれているが、それはそれぞれの「肉体」が「肉声」で田村に語ってくれたことである。
 このことばは、西脇の「カマキューラ」とは違うけれど、やはり独特の「音楽」である。つまり、それぞれの人間の「肉体」によって、変化したもの、その「肉体」が消化することによって、いくぶんか脚色されているかもしれない。
 そういう乱れ(差異--と、いえば現代フランス思想的になるかも……)を、田村は「名前」と呼んでいる。 

心の中を流れている川に
どんな名前をつけるのだろう

 「鎌倉」ではなく「カマキューラ」と名付けたように(呼んだように--呼ぶことは、他人から見れば、それに対する新しい「名付け」でもある)、不思議な音そのものの変化ではないけれど、それはやはり「音楽」なのだ。
 「名付け」を動かしているのは、一方に「意味」があるかもしれないが、もう一方には「音」そのものの美しさ、「音楽」がある。嫌いな音でひとはものに「名前」をつけたりはしいない。
 「川」の流れに「音」がある、「音楽」があるように、「名付け」の「音」にも「音楽」がある。そしてそれは「川」の流れのように、やはり「時間」をもっている。
 「自分の耳にささやきかける」という一行があるが、「音」は「肉耳」に働きかけるのである。「音」のなかで、ひとは、「いま」とは違う何かに触れる。そこにきっと「時間」がある。

 私の書いていることは飛躍が多すぎるかもしれない。論理的ではないかもしれない。飛躍したついでに、もう一度、飛躍してみよう。論理を吹っ飛ばして、ただ感じていることを書いてみよう。

 最終連。

ある大学教師がその最終講義でしずかに語ったそうだ
「私の夢は
煙草屋のおやじになって
ウツラウツラしていることだったのに
自動販売機ができてしまっては
もうどうしようもありません」

 私には、ここにも「時間」が書かれているように感じる。店頭でたばこを直接手渡しで売るという時代から自動販売機で売るという「時代」の流れ。そういう「一般的な時間(?)」とは別の、もうひとつの「時間」の「夢」がここには描かれている。

ウツラウツラしていること

 意識がぼんやりしている。ほとんど無意識。放心。そのとき「時間」は、何時何分という「時間」と消えてしまって、ただ「とき」そのものになっている。どこへでもつながる。どこへもつながらない。そういう宙ぶらりんの、ゆらぎ。
 --たぶん、というのは、またまた、大きな論理の飛躍になってしまうのだが、その「無・時間」の大きなウツラウツラとしたゆらぎは、この詩に登場する無名のひとたちとの接触の瞬間に似ている。
 「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」らとふれあう時、田村は、詩人や文化人と会う時の「時間」(文化的教養、その蓄積がつくりだす広がり)の構造、枠というものを、そのまま持ち込むことはできない。そういうものを捨て去って、無防備になって、彼らのことばを聞く。そして、そのことばの流れてきた「時間」を思いやる。彼らには、田村が触れ合っている文化人とは違う「時間」の流れがあって、その流れと田村は無防備で出会う。
 そうすると、そこに「音楽」がはじまる。
 「音」はそのとき「意味」にもなる。
 ジャズのセッションを私は思い浮かべるのである。「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」らはひとりひとり違った楽器をもっている。それは「鎌倉」とピアノが音を出すとすれば、それぞれの楽器はたとえば「キャマクーラ」という音を出すのに似ている。同じ主題を語っても「音」そのものが違い、そこから「音」を重ね合わせる楽しみが広がり、自然な運動になる。主旋律が変奏され、変奏されることで、いままで気がつかなかった旋律の奥にあるものが突然輝きだし、疾走する。そういう疾走を「意味」と呼ぶなら、「音」は出会うことで「意味」へと燃焼し、消えていく
 その運動の間、「時間」が、「無・時間」がそこに存在する。

 「川」を読みながら私が考えたことは、そういうことである。




誤解―田村隆一詩集 (1978年)
田村 隆一
集英社

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林亮『椅子のように』

2009-04-15 09:22:14 | 詩集
林亮『椅子のように』(私家版、2009年03月01日発行)

 林亮『椅子のように』は短い連作で構成された詩集である。少し俳句に似ているかなあ、世界の把握の仕方、つかんできて、ぱっと放す感覚が俳句的かなあ、と思っていたら、俳句を書く人のようであった。
 「水平線 Ⅲ」が、私は特に好きである。

水平線なのか
水平線の
残像なのか
わたしなのか
わたしのなかの
残像なのか
いつから今を
無くしてしまったのか

 水平線と私の区別がなくなる。その瞬間を「今を/無く」と書いている。
 この「今を/無く」すが、私には、とても俳句的に見える。水平線でも、私でもなく、「いま」がなくなる。「いま」をなくしてしまうと、どうなるのか。「永遠」が広がる。「いま」がブラックホールのようにすべてを飲み込み、一瞬のうちにビッグバンが起き、その一瞬が「永遠」になる。
 それはほんとうに永遠? それとも永遠という残像?
 どちらでもいい。(ほんとうは、どちらでもいいということではないかもしれないけれど。)
 「永遠」とは、そして、「時間」がなくなることでもある。林は「今」と書いているけれど、その「今」を「時間」と定義し直すと、林の「思想」がよくわかると思う。「無・今」は「無・時間」なのである。「永遠」とは拡大された時間ではなく、計測するための基準を、物差しを放棄した時間、物差しを拒絶した時間なのである。「無・時間」の「無」は基準、物差し(たとえば、何時間、何分、何秒という時の単位)を捨て去った、無防備の時間である。
 こういう「時間」を「今」と定義するのは、林が「一期一会」を生きているからである。すべては「いま」しかない。「いま」だれかと、何かと会う。その出会いは一度かぎりであるから、その一度かぎりを「時間」を超越した交感にまで高める。その交感のなかで、自分が自分でなくなる--生まれ変わる。「いま」を「出会い」を、自分が生まれ変わるための瞬間ととらえて、真摯に生きているからだろう。
 そして、この真摯というのは、正直ということでもある。「真剣」というと、なんだか何かをめざしているようで気持ちが悪いが、林の真摯は「正直」。何かを目指すとすれば、それは「無垢」をめざしている。「無為」をめざしている。何もしないで(自分から働きかけるのではなく、という意味)、相手があたえてくれるものを、ただ受け止める、相手が手渡してくれたものに、自分自身をそわせてみる、完全にその対象になるために自分を素っ裸にしていきるという真摯である。
 放心して、完全に無防備になって、好きな海を見つめていたい。あ、何もせず、ただ水平線を見つめたのはいつのことだったろうか、とふと、思った。

 「無・時間」とは、「時間」の「過去」と「未来」の区別がなるなる、ということでもある。「思い出 Ⅲ」はそんな時間の姿を描いている。

夕暮れには
露台に腰を掛けて
ずっと待っている
思い出がわたしに
追い付くのを
思い出がわたしを
追い越していくのを

 「思い出」は過去からやってくる。そして「思い出」がわたしを追い越していく--どこへ? 未来へではなく、やはり「永遠」へというしかない。

 「旅 Ⅴ」にも心がふるえた。

わたしは
わたしとわたしは
時間を旅している
永遠にわたしに
出会うことはない
わたしは旅をし
旅をするわたしと
わたしの隙間を
旅するわたし
そのように雲は流れる

 「一期一会」ということは、「わたし」が常に「わたし」ではなくなるということ。だれかに、何かに出会うたびに「わたし」は生まれ変わる。「わたし」と「生まれ変わったわたし」のそのふたつの「わたし」の間(林は「隙間」と書いている)、「わたしのいのち」がある。それは永遠の旅--永遠の運動である。
 林は、この「無・時間」を「雲」になって流れていく。「生まれ変わる」とは「なる」ということなのでもある。
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『田村隆一全詩集』を読む(55)

2009-04-15 01:01:19 | 田村隆一

 『ワインレッドの夏至』(1985年)には西脇順三郎が登場する。
 西脇はとても音楽的な詩人だったと私は思う。「夏至から冬至まで」という作品で、田村は西脇の不思議な「音楽」(音)について書いている。

カマキューラの山々なども白く」
とJ・Nは
鎌倉をカマキューラと発音したが
その秘密がやっと分かった

 その秘密とは。
 西脇の連れ合い、マジョリイと関係がある。田村は西脇がマジョリイと海岸を歩いているのを見た--というF先生の話を聞く。カマキューラと最初に発音したのはマジョリイである。西脇はその「音」をおもしろいと思い、それを詩にしたのである。
 日本とイギリスの出会い。異質なものが出会うと、そこにはなにかしら不思議な変化がおきる。鎌倉はカマキューラになる、というふうな。
 このとき、この変化のなかに起きていることはなんだろうか。
 異国の出会い、というだけではなさそうである。空間の出会いだけではなさそうである。

 「時間」の「未消化」ということを、私はきのう書いた。私は、かなり飛躍した見方になることを承知で書いているのだが、田村は、この西脇のなかの「音楽」に触れて、「空間」ではなく、「時間」に触れているのだと思う。

 「ワインレッドの夏至」という作品は、「Ambarvalia」に出会った時のことを書いている。
 そのなかに、次の行がある。

それから
ワインレッドの色は
ヨーロッパにひろがりはじめ
一九四一年は北半球のほぼ全域を染めあげる
大戦が三千万の死者と廃墟と死語を遺して夏の嵐のように過ぎ去っていったが
僕のワインレッドの不思議な詩集も
灰になった

その灰の中から
ぼくの戦後の青春がはじまったが
ワインレッドの詩人は
ホメロス以来の文学文明にあらわれた憂鬱の諸形式を脳髄に刻みつけて
憂鬱の熟成にむかう
新潟小千谷(おぢや)から江戸への文明のシルクロードは
ロンドンのキューガーデンへ
そしてイタリアの庭へと
長安からギリシャへと言語空間のシルクロードまでひろがり
その詩には
絵画的な光りがきらめき
油彩と水彩と水墨から
ふるえる野が誕生する

 「絵画的」ということばがある。そして、さまざまな土地を駆け抜けることばのために、この西脇論は、「空間的」に見える。一見、「空間的」である。けれど、田村は、どこかで「時間」を感じているのではないだろうか。西脇のことばの運動が「時間」と交差していると感じているのではないだろうか。
 ここには地名と同時に、「時代」が描かれている。「戦後」「ホメロス」の時代、「江戸」「シルクロード」の時代……。
 「空間」が出会うと同時に「時代」も、つまり「時間」も出会っている。そして、「場」の出会いが「絵画的」だとするなら、「時間」の出会いこそ、「音楽的」というものではないかと思う。
 西脇は外国語に触れた時、「音楽」を感じていたのだと思う。音そのものの中にある不思議な何か。音はつながってことばになる。そのつながりのなかに「時間」が潜んでいる。絵画はあくまで「平面」(空間)としてつながっていく。しかし、「音」はやはり「空間」に広がりはするけれど、その広がりは「平面」ではなく、「時間」として広がり、消えていく。絵画と違って「音」は消えていく。それは、「時間」は消えていくということでもある。
 「時間」が消えるから、かけ離れたものは、何の障害もなく、「いま」「ここ」で出会う。「鎌倉」ということばが「キャマクーラ」と出会うように。

 そんなことは、どこにも書いてない。--たぶん、多くのひとは、そういうだろうと思う。私の書いていることは、完全な「妄想」の類。度を越した「誤読」だと。

 もしかすると、私が西脇の詩について感じていることを、私は田村を利用して(?)語っているだけなのかもしれない。そうだとしても、田村のことばにも、田村が西脇から「時間」と「音楽」を感じ、そこに何かを見出していたという行が、はっきりと存在する。「ワインレッドの夏至」の最終連。

古代的歓喜から
近代的憂鬱へ
二十世紀の
世紀末の

へと旅した詩人の声は

を活性化し多声化しながら
諸生物の夏の
喊声を
よびおこす

 「古代」「近代」「二十世紀」と「声」(音)、そして「多声化」。音楽がぶつかりあいながら、音楽を破壊し、音楽を生成する。
 「鎌倉」が「カマキューラ」だって? そんな「音楽」があるか? ある、と私は思う。そして、そこで鳴り響くのは単に「声」だけではなく、人間が生きてきた「時間」なのだと、思う。「音楽」は「時間」の「肉体」である、と私は思う。
 空間的存在を把握するためには「肉眼」が必要だったように、田村は西脇の「音楽」を通して「肉耳」にであっている。そこに「時間」がある。





ワインレッドの夏至―田村隆一詩集
田村 隆一
集英社

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豊原清明「さえない奴がなぜ恋に」

2009-04-14 11:56:25 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「さえない奴がなぜ恋に」(「白黒目」16、2009年03月発行)

 豊原清明「さえない奴がなぜ恋に」は「自主製作映画ノート」という説明がついている。映画の脚本である。いつものことながら、とてもおもしろい。映画そのものである。
 そのなかほど。

○居間(夕食・現在)
   父と母がすき焼きを食べている。
母「撮らんとって! やめてー」
父「何やっとんや」
母「人の嫌がることしたらあかん、なっ。」
   カメラ、ぱたっと切れる。

○僕の部屋
僕の声「けっきょく、撮れんかった~。」

○タイトル「さえない奴がなぜ恋に」

○僕の部屋
   勉強椅子にビデオカメラを置き、
   悶々としている姿。
   録画ボタンを押し、カメラに顔がはいれるように
   自分で自分を撮影している姿。

 リズムがすばらしい。映像を見ていないが、映像が、そして音が、せりふというより、ことばが「意味」にならずに、音としてスクリーンに飛び散る。その映像と音が「音楽」のように、感覚の防御壁のようなものを解体してしまう。つまり、引き込まれてしまう。映像を見ているわけではない。実際に、映画を見ているわけではない。けれど、そういう錯覚に陥る。完璧な脚本だ。
 どこに秘密があるのか。

○居間(夕食・現在)

 この場所と時間の指定。その指定する「感覚」にある。「現在」という「特定」の仕方というか、表現に、とても特徴がある。
 映画というのは、特に断りがないかぎり、そこに起きていることがらは「現在」である。それはふつうは省略し、過去や未来を描く時、たとえば「1週間前」、あるいは「3時間後」ということわりがはいる。
 豊原の、この作品でも、引用しなかった前の部分では、

○今年の一月十六日の詩のノートを映す(カメラ)

 という「日時」の指定がある。カメラは、その後1月17のノート、1月18日のノートという具合に、「現在」へ向かって、映像をかえるから、時間は、その映像とともに動いていることになる。そして、(夕食・現在)という「いま」へたどりつき、そこから映画が映画としてほんとうにはじまるのだが、この「現在」のあらわしかたが特徴的である。

 どのような「いま」も過去を持っている。そして、その過去は常に「いま」という時間のなかに姿をあらわす。映画は、そういう「過去」を役者の「肉体」に語らせる。それぞれの「肉体」がかかえこむ「過去」という時間を出現させることで、この映画には、実は「過去」があるということ、暮らしの背景があるということを明らかにする。「いま」からはじまっているけれど、この人たちは、それぞれ何十年と生きてきて、「いま」「ここ」にいるのだということを、役者の「肉体」のちからを借りて言わせる。
 豊原の脚本では、豊原自身の「過去」は「詩のノート」の映像で浮かび上がるのだが、「父」と「母」はその「過去」なしにはじまる。そして、

母「撮らんとって! やめてー」
父「何やっとんや」
母「人の嫌がることしたらあかん、なっ。」

 というたった3行で、ふたりの「過去」、ふたりのというのは、「ぼく」を含め、実は3人の過去なのだが、それを瞬時にスクリーンに定着させる。

母「人の嫌がることしたらあかん、なっ。」

 の「なっ。」は念押しの「なっ。」である。このひとことによって「ぼく」は何度が「人の嫌がること」をしてきたのだとわかる。父はそのたびに「何やっとんや」と一括する。母は、そういうことをしてはいけないということを、説明する。その繰り返しが、何度もあったはずであるということが、この一瞬でわかる。
 「現在」と豊原は書いているが、そこには「現在」よりも「過去」がしっかりと描かれている。「現在」を突き破って、「過去」があらわれ、その出現によって、「いま」が「未来」へと突き動かされていく--その運動が、くっきりと描かれている。
 役者の「肉体」、父と母を演じる役者の「肉体」によって。そして、「ぼく」の存在によって。「肉体」のことはなにも書かれていないが、そこには「役者」の「肉体」がすでに存在している。
 これは別の言い方をすれば、豊原のことばは、いつも「過去」を持っていて、その「過去」が「いま」、「ここ」に噴出してきて、ことば自体が動いていくということになる。詩の場合もそういう運動の方程式を撮るが、映画でも、それは同じである。
 「いま」という時間のなかに、常に「過去」が「肉体」として存在し、それが「未来」を蹴破るのである。

 この映画では、それは、どこへ動いていくか。ラストシーン。

○子供が一人もいない遊び広場
   松林のすぐ向こうの高速道路がちらっと、映る。
   山ほどの車が走っている、音が聞こえる。
僕の声、一句「孤独といふ入れ墨彫って一月一日」

 俳句は、「いま」という時間をもたない。いや、「いま」という「時間」のなかで、「過去」と「未来」がしっかりむすびついて、「いま」が無・時間になる。時間が消滅する。空間もひろがりと一点が連結し、無・場(空間)になる。
 「僕」は「父」「母」の「過去」から噴出してくる力と向き合って、「僕」自身の「過去」をさっさと洗い流すのだ。そして、その洗い流した「時間」そのものを「俳句」のなかに投げ込み、「いま」でも「過去」でも「未来」でもない時間に、なってしまう。
 「一月一日」と書かれているけれど、その「時間」の刻印は、意味がない。暦の「一月一日」としっかり結びついているが、強すぎて「一月一日」を超越してしまっている。それは「一月一日」であって、「一月一日」という24時間ではない。「一月一日」ということばが存在する瞬間だけ、そこにある「一月一日」なのだ。

 「いま」が「過去」と「未来」によって突き破られ、貫かれることによって、「いま」ではなくなってしまう。--そういう俳句的「現在」の時間感覚が、豊原のことばを動かしている。
 豊原のことばは、詩も俳句もおもしろい。そして映画の脚本もおもしろい。それは、豊原が、いつでもことばのなかに「過去」を持っていて、その力で「いま」を突き破るからである。
 --逆に言い直した方がいいのかもしれない。
 私たちはだれでも「過去」を持っているが、「いま」を生きるというとき、実は「過去」をそれほど意識しない。意識するのは「未来」である。「未来」のある姿にむけて、「いま」をととのえていく。「未来」の時間に「いま」を奉仕させる、といえばいいだろうか。
 ところが、豊原はそういうことをしない。「いま」は「未来」の「奴隷」ではない。「未来」がどういうものであるかは考慮に入れない。ただ、「過去」の力で「いま」を突き破る--そのときに出現するのが「未来」である、と信じているだけである。いや、「未来」をもつきぬけた「無・時間」であると知っている。
 本能として。
 豊原のことばを動かしているのは「頭」ではなく、本能なのだ、と思う。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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エラン・リクリス監督「シリアの花嫁」(★★★★)

2009-04-14 09:53:04 | 映画
監督 エラン・リクリス 出演 ヒアム・アッバス、アクラム・J・フーリ、クララ・フーリ

 イスラエル占領下のゴラン高原。小さな村。ひとりの女性がシリアの男性と結婚する、その当日の様子を描いている。一度、国境を越えシリアに入ってしまうと、もう二度と故郷へもどってくることはできない。それでも国境を越えていく……。
 これは、とても悲痛な話である。
 はずである。
 ところが、とても明るい。希望に満ちている。
 花嫁の一家は、イスラエル占領下のゴラン高原そのままに、複雑である。父は政治運動が原因で投獄されたことがあり、いまは仮釈放中である。中間地帯まで花嫁を見送りに行くことはできない。長男(花嫁の兄)はロシアで結婚し、国を見捨てたと批判されている。次男は各国をまわり(?)よくわからないビジネスをしているプレイボーイである。三男はシリアにいてゴラン高原へは帰って来ることができない。長女は結婚しているが夫との関係がうまくいっていない。そういう一家が、結婚式の前、一同に集まる。家族なのに、わだかまりがあり、しっくりいかない。
 それなのに、とても明るい。希望に満ちている。
 登場人物のひとりひとりが「信念」を持っている。他人のことばには耳を傾ける。しかし、それはあくまで他人の主張を聞くためであって、他人の主張にそって自分の考えをかえるためではない。他人の考えをかえさせるためには、まず、他人のことばも聞かなければならない。それだけである。けっして、自己の考えを曲げない。曲げない、ということを明確に主張するために、他人の考えも聞くのである。
 それはどうしても衝突を招いてしまうが、それがどうした、という図太さがある。
 戦時下を生きるとは、こういうことなのだと思う。衝突がある。それが、どうした。私には私の信念がある。信念があるところ、衝突があるのはあたりまえ。衝突は悲しいけれど、悲しいくらいでは、ひとは死ぬことはない。そういう度胸が、全員にある。全員が、度胸が据わっている。
 全員が、そういう演技をして、この映画の、一種の「非日常」を日常にかえてしまっている。日常というのは、どうしたって、どこかに叩いても壊れないような頑丈なものがあり、それが時間を支えているものである。
 特に、長女役の女優がすばらしい。倍賞美津子のような雰囲気なのだが、彼女の強さが、心底、すごい。悲しみでいらいらしながら、その悲しみを肉体のなかになだめ、妹といっしょに美容院へゆき、ドレスアップを手伝い、父を説得しようとし、警官を説得しようとし、と、じっくりと物事を進めていく。自分は不幸な結婚生活をおくっている。けれど、妹には幸せになってもらいたい、その一念で、結婚式をきちんとしたものにしようと頑張る。 
 映画のハイライト。
 トラブルにトラブルが重なり、いざ国境を越えようとすると、「イスラエル出国」というパスポートにおされたスタンプが問題になり、シリアに入れない。シリアにしてみればゴラン高原はシリアである。「イスラエル出国」ということを認めれば、ゴラン高原がイスラエルになってしまうからである。そのトラブルの最中に、父親が政治活動をした(デモに参加した、軍事中間地帯へきた)という理由で逮捕されそうにもなる。状況はますます閉塞したものになっていく。
 ここで、父親から嫌われていた長男が思いがけない活躍をする。父を助けるために、彼自身ができることをする。さりげなく描かれているが、この自分にできることをする、というのが、「信念」を揺るぎないものにしている。ゴラン高原を生きる人々をたくましくしている。プレイボーイの次男でさえ、自分にできることをしている。
 そして、ほんとうのほんとうのハイライト。
 パスポートの「出国証明」のためにシリアへゆけない花嫁。彼女は、どうするか。彼女にできることは何か。
 シリアから占領地へ車が入ってくる。そのときゲートがあく。その開いたすきを利用して、彼女はひとりでシリアへ歩きだすのだ。自分の足で、自分の決めた方向へ、だれにもたよらずに。パスポートにも、軍人にも、国連職員にも、家族にもたよらずに。結婚するとは、そういうことだ。そういう「信念」が彼女のなかで、そのとき確立する。
 それにあわせるように、長女は、逆方向へひとりで歩きはじめる。花嫁を見送る家族から離れ、花嫁の歩みにあわせるように、反対方向へ。彼女には夢がある。大学で勉強するという夢がある。その夢のためには、夫を捨て、二人の娘も捨てることになる。けれど、花嫁がひとりで歩きはじめたように、彼女もひとりで歩きはじめる。だれかのためではなく、自分のために。
 みんなが自分のために生きる、自分の信念のために生きる。
 その揺るぎのない強さによって、この映画はとても明るくなっている。この強さ、この明るさ。この明るさは、近年なかった明るさである。まぶしいきらめきではなく、けっして消えない火という、強い明るさである。そして、それは「政治主張」をきっと叩き壊す明るさ、強さであるとも思う。
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『田村隆一全詩集』を読む(54)

2009-04-14 00:38:51 | 田村隆一

 「待合室にて」には未消化のことばがある。人間の<物>性について考えつづける田村が、語ろうとして語りきれていない奇妙なことばがある。<物>の対極にあることば。「時間」。
 最後の方の部分。

「うがいをしてください」
ぼくは治療酔うの寝椅子からとびおりると
「時間」のなかに帰って行く
「つぎの月曜日の午後三時においでください」

 ここに書かれる「時間」は単なる「日時」である。だが、田村の書きたいのは「日時」ではない。「日時」ではないのに、「日時」から書きはじめるしかなったのは、田村の「時間」思想が<物>思想ほど鍛練されていないということだと思う。
 田村は、診察室から待合室に戻り、「大型の画報」にふたたび見入る。そして、

飛行機事故もホテルの大火災もテロも暴動も
飢えも貧困も
多色刷りの絵にすぎない
ここには「時間」が欠けている
「時間」が欠けているなら
「時間」から脱出することも追跡されることもないわけだ
白い空間と
縞模様のラテン音楽

 ここに書かれている「時間」は「日時」ではないか田村は「日時」ではない「時間」について語ろうとしているが、「日時」からはじめたために、奇妙にずれてしまっている。「時間」が未消化のまま、放り出されている。

飛行機事故もホテルの大火災もテロも暴動も
飢えも貧困も
多色刷りの絵にすぎない
ここには「時間」が欠けている

 もし、この「多色刷りの絵」が「時間」をもっていたら何になるか。それはきっと<物>である。<物>から「時間」が欠け落ちると、それは「絵」になってしまう。
 「時間」は<物>のなかにあって、<物>はまた「時間」のなかにある。<物>は「時間」を超越して全体的な<物>、つまり詩になる。そのときの「時間」というのは「日時」ではない。<物>の運動の領域のことである。運動にはかならず「時間」が必要である。運動することによって「時間」は広がる(数えられるものになる)が、同時に「時間」は運動のなかで凝縮もする。運動が加速すると「時間」はどんどん短縮する。<物>は時間のなかではげしく運動し、時間そのものを無限からゼロに還元し、それはゼロになった瞬間に無限になる。
 そういう矛盾→解体→生成が「時間」の本質だが、田村は、この詩ではまだきちんとことばにできていない。ただ「時間」というものを抜きにして、人間存在の思想は語れないと気づき、それに手をかけている--という感じである。

 最終連に

ぼくは「時間」を所有するために
あるいは「時間」に所有されるために

 という2行がある。
 この「あるいは」は、所有することとと、所有されることの間に区別がないことを証明している。無時間と無限が<物>の運動によって、ひとつになる。
 だが、田村は、まだそれをどう書いていいのかわからない。だから、「笑い話」のようにして詩をとじている。

ぼくは「時間」を所有するために
あるいは「時間」に所有されるために
ゆっくりとソファから立ち上がり
何気なくふり返ると
待合室の隅でうずくまっていた
暗緑色の<物>が
車輪のごとくはげしく回転しながら
治療室のなかに飛びこんでいった

 <物>とは絶対的な人間、詩人、詩であったはずだが、ここでは単なる凡人として描かれている。凡人の比喩になっている。<物>がそういう状態になっているのは、実は「時間」がまだ「思想」になっていないためである。思想になっていない「時間」に影響されて、<物>も思想以前に引き戻され、カリカチュアされているである。
 
 すべては、未消化の思想が引き起こしたことばの乱れである。




砂上の会話―田村隆一対談 (1978年)
田村 隆一
実業之日本社

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たなかあきみつ『ピッツィカーレ』

2009-04-13 12:18:09 | 詩集
たなかあきみつ『ピッツィカーレ』(ふらんす堂、2009年03月12日発行)

 たなかあきみつ『ピッツィカーレ』はことばを追いかけると何が書いてあるかわからない。ひとつのことばからいくつものことばがプリズムで分光された光のように、純粋な形で放射される。そのきらめきに目を奪われて元の形が見えなくなる。つまり、それらの輝きは、もとはひとつの「白」であったということが……。
 たとえば「闇の線」、その(3)。

ふるい、雨
どんな記憶をふるいにかけるにしろ
さほど挫けず雨は網をうつ
デシベルの樽に鈴なりのたがをかける雨
暗視野を裂くそのピアノは衣裳トランクの底のよう
着なれぬストレートジャッケットの黄ばみがぴょんぴょん
闇の線を渡りつめる
ピアノは今にも破裂しそうだが
ペダリングのくるぶしにひそむ各種アンモナイトは
生乾きの回転木馬をなおも上下に反復中

 「ふるい、雨」。「ふるい」は「古い」ということばを呼び覚ます。その呼び覚まされた「古い」が正確であるかどうかは問題ではない。つまり、たなかが意図したことかどうかは問題ではない。「古い」は「記憶」と結びつく。新しい記憶というものもあってもいいから、この結びつきはすこし平凡である。そこに、いわば異質なものが出会った瞬間に炸裂する詩は存在しない。だから、たなかは、その「古い記憶」を「ふるい」にかける。余分なものをふりわける。古いの「網」は次の行の「網」を呼び、さらには「ふるい」のまるい樽のような形、樽をしめる「だが」を呼び起こし、そのふるいからこぼれる記憶のこまかい「雨」へと引き返し、「雨」から「雨音」、そして「ピアノ」へのつながる。「雨音」「ピアノ」という組み合わせも斬新とはいえない。むしろ、比喩の慣用句に属する。だが、この慣用句であることが、こういう詩の場合、重要である。慣用句をはさみ、ことばを安定されながら裏切る--そのときに、詩が、急にあらわれる。

暗視野を裂くそのピアノは衣裳のトランクの底のよう

 雨音→ピアノはさらに分光されて、「衣裳トランクの底」へと細分化される。突然の細分化は、それが何かさっぱりわからない。なぜ、「衣裳トランクのそこ」? そういうわからなさをひきだしておいて、次に、

着なれぬストレートジャッケットの黄ばみがぴょんぴょん

 衣裳→ジャケット→黄ばみ。その「ぴょんぴょん」。離れて存在する無数。それは、やはり雨音。そして、ピアノ。ピアノ「線」。その「破裂」しそうな響き。「ピアノ」の演奏の時の「ペダリング」。そこから、そして、「くるぶし」。あ、「記憶」のなかの、あの「くるぶし」である。気にかけている人がピアノを弾いている。その「くるぶし」が見える。--そんなことは、たなかは、いちいち書いていないが、そんなことのいちいちを私は想像してしまう。そして、「くるぶし」の形から「アンモナイト」のうずまき……。連想の、連想による、連想のための「分光」。
 いったい何を見たのか、わからなくなる。--これは、詩にとって不幸なことか。そうかもしれないけれど、そうではないかもしれない。
 私は、こういうことばの前では、そのことばの運動の全部を追ったりはしない。書いているたなかには申し訳ないが、そのことばをすべて追ってみても、というか、すべてを追ってしまえば、結局、それはさまざまにぶつかりあい、「分光」まえの「白」にもどってしまう。私の貧弱な視力では。
 で、どうするか。
 私は、こういう詩は、その文脈を忘れて読む。文脈を忘れた時に、ふっと浮かび上がってくるもの、思い出のようにふいに襲ってくるものを、詩と判断して読む。この詩集はずいぶん以前に田中からいただいたものだが、長い間感想を書かなかったのは、ようするに忘れるのに時間がかかったからである。
 長い時間をかけて、ことばが闇に沈んでいく。すると、その沈んでいくことばを逆にたどって浮き上がってくるものがある。雨の日。雨にあわせてピアノを弾いている。そのペダリング。そのときの「くるぶし」の不思議な生々しさ。
 ストレートジャッケットというのは、どういうものか知らない。もしかすると、それは男性の服装かもしれない。けれども、私は、「くるぶし」ということばを受け止めるために、それが男性のものであっては、ちょっと楽しくない。だから、ストレートジャケットが消えるまで、感想を書くのを待っていたのだ。
 今、それを書いてしまえば、また逆戻り……かというと、そうでもない。
 いったんストレートジャケットを消して、誤読してしまえば、それは、もうたなかの手を離れた世界だからである。私はいつでも「正しい読み」などしたくはない。「誤読」だけをしたいのである。作者(詩人)の真意など、つまらない。「真意」など、知ったことではない。
 ある詩について、「肉体」を感じられないと書いたら、実際の「肉体」のことを書いたのです、と言われたが、そんな「真意」など、ことばのなかに感じられなかったら、私にとっては「真意」ではない。「真意」がつたわらないように、書く方が悪い。それが「誤解」であっても、つたわってきたものが、いつでも、読者にとって「真意」である。
 脇道にずれてしまった。
 たなかの詩にもどる。
 脇道にずれた瞬間に、私は、ふと「ストレートジャケット」というのは、レコードのジャケットの種類のことかなあ、などとも思ったが、「衣裳」とあるから、きっと違うね、とまた、そのことばを消した。
 たなかの詩には、ことばがたくさん出てくる。そして、それが1行の中でイメージを完結するのではなく、複数の行にわたって動いてゆく。その動きが残像のようにゆらめく。さまざまな読み方があるだろうけれど、私は、そういう残像が記憶のなかで少しずつ薄れ、少なくなっていくのを待っている。ときには、いくつかのことばを意識的に消してゆく。そして、そこに残った少ないことばとあらためて交流する。

 引用した詩のつづき。

水たまりをかたどる風の接線うえで
ぐるぐる発行する汗の粒は孔雀の羽根だった
歯ブラシ一本残された路上で
夜来の雨はふたたび跳びはねる
その片脚は痛みを矢印に着地をはかり
毛深いもう一本はもっぱら横滑り

 「歯ブラシ」は消した方が雨の街角の風景がすっきり浮かぶ。「水たまりをかたどる風の接線」というのはとても美しい。けれど、私は、その美しさを消して、「歯ブラシ」を残したい。それから「片脚」「毛深い」も。いや「脚」と「毛」を。
 これだけ書けば、私が何を考えているかはわかると思うけれど、「くるぶし」を中心に、「アンモナイト」のように螺旋を描く雨の記憶--その螺旋というか、中心へ中心へとひっぱる何かを、そんなふうに読みたいという欲望が、私にはある。


 誤読とは、結局、作者の「真意」ではなく、読者にとっての「真意」を語ってしまうことなのだろう。
ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂

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『田村隆一全詩集』を読む(53)

2009-04-13 01:54:32 | 田村隆一

 「物」は、さらに多くの詩に登場する。「冬休み」。

おれは「物」だから
夏休みはいらない
人類には夏はつらいことだろう
七月八月の二カ月くらいは
人類はたっぷり夏休みをとるべきだ
「物」と遊べ
「物」から学べ
「物」の意味
その光りとリズムが分ったら
人間存在の悲惨と滑稽が身にしみるだろう

 これは、田村は「物」となって、「物」と「交感」しているという宣言である。「交感」とは「物」の「その光りとリズムが分」かることである。「交感=分かる」である。そして、その「分かる」は「意味」が「分かる」ではない。「光りとリズム」。その色と音が「分かる」である。色と音をつかまえるのは「意味」(観念)ではなく、「肉体」である。「眼」(肉眼)であり、「耳」(肉耳、と呼んでおこう)である。「肉眼」「肉耳」が「物」と「交感」する。そのとき田村は「人類」ではなく、「物」になる。

 「所有権」にも、「物」としての田村が出てくる。

おれは<物>だから
六十歳の<物>だから
とっくに減価償却はすんでいる

 そして<物>であることを再定義して、次のように書く。

おれは<物>だから
詩そのものだ
おれの言葉は所有権者どもの言葉では
ない

 <物>が「詩」である。<物>とは「肉体」(肉眼・肉耳)であり、それは「物」と「交感」し、「物」を「分かる」存在のことである。詩とは「物」との「交感」のことであり、その「交感」を記録したことばが詩であるから、そのことばは「所有権者どもの言葉では/ない」。こういうときの、「ない」の1行は、強調である。
 ことばであるかぎり、それは次のような誤解を招くかもしれない。

所有権者どもには
おれの言葉が
悲鳴に聞こえたり
鼻唄に聞こえたりしたかもしれないが

 だが、それは錯覚である。詩は、所有権者の理解を超えた存在であるか。詩の絶対性、超越性を田村は、次のように書いている。

おれの舌は
あらゆる国境を 砂漠を
七つの海を 五つの大陸を飛び越えて
地の果て
海の彼方まで
どこまでものびていって

おれは
<物>の言葉だけで
喋りつづけているのさ

 これは、詩の、絶対的超越性の宣言である。
 おもしろいのは、この絶対的超越性を田村は「奴隷」という、いわば否定的な人間のありようと結びつけていることである。否定されるものと結びつけて、崇高なものを語っている点である。
 この逆説、矛盾のありかたこそ、田村が矛盾→止揚→発展という形の運動をめざしていないことを明らかにしている。田村のことばがめざしているのは矛盾→解体→生成である。



奴隷の歓び―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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ジョン・ウー監督「レッドクリフPart2」(★★★)

2009-04-12 21:46:26 | 映画
監督 ジョン・ウー 出演 トニー・レオン、金城武、チャン・フォンイー

 「Part1」に比較すると格段におもしろい。これはあたりまえのことかもしれない。「Part1」は人物紹介に忙しくて映画になっていない。長いだけの予告編だった。予告編が終わって、やっと本編になった。
 「Part2」が「Part1」よりはるかに優れていた点がふたつ。ひとつはトニー・レオンと金城武の琴セッション。「Part1」では、ふたりが琴を弾き終わったあと、ことばで何があったのか、ふたりはどんなことを感じあったのか、わざわざことばで解説していた。観客は映像と音から何かを感じ取る必要はなかった。ことばを聞けばよかった。これでは映画ではない。「読み物」である。映画は、映像と音楽であって、ことばはいらない。今回も二人が琴を弾くシーンがあるが、ことばによる説明はなにもない。かわりにトニー・レオンの妻の姿がぱっと挿入される。その瞬間に、トニー・レオンの苦悩が観客のものになる。ちゃんと映画になっている。
 ふたつめ。やはりことばが何もない。出陣の前、冬至なので、みんなで団子を食べる。トニー・レオンの器の中に、みんなが1個ずつ団子を入れていく。団欒ではなく、団結の印、いのちを捧げるという決意のようにして、団子を入れていく。この素朴な行為の描写がいい。これが映画だ。同じ映像が繰り返されて、それが観客のこころのなかで「意味」になる。ことばではなく、映像が「意味」を語る。
 しかし、余分なことばも、まだまだある。
 トニー・レオンが剣舞を舞う。それを妻が「解説」する。せっかくトニー・レオンがかっこよくポーズを決めているのに、そのひとつひとつの動きを「戦法」の解説にしてしまっては、映画がつまらなくなる。合戦の最中に、その動きのひとつでもフラッシュバックで見せれば、そのとき、観客は、あ、あれはこういう闘いのシーンで、こんな動きになるのかと感動するのに、そういう映像は見せずに、ただ「ことば」があるだけである。ことばが映像を壊してしまっている。
 ことばが唯一、有効な働きをしていたのは、トニー・レオンの幼友達が合戦前にトニー・レオンをたずねてきて、思い出話に花を咲かせるシーン。ここでは、トニー・レオンが友だちの筆跡をまねていたずらをしたことが話題にあがる。トニー・レオンは他人の筆跡を真似することができる。そして、その技術をつかって敵をあざむく。思い出話がなければ、その後のストーリーが成り立たない。あのシーン以外は、ことばはいらない。

 合戦のシーンも、特に新しい映像があるわけではないが、それなりに楽しめた。ことばがほとんどないのと、「Part1」であったような長尺の人物紹介がなく、集団の戦いにしてしまっているからである。戦争というのは、ようするに個人が個人ではなくなってしまう状態のことだから、そこではことばはいらない。ことばは無意味である。個人であることは無意味であり、また、戦争の敗北の引き金にもなる。チャン・フォンイーが負けたのは、結局、戦争に個人の感情(恋愛)を持ち込んだからである。実らぬ恋愛という個人的な事情が組織の動きをちぐはぐにしてしまった。判断の時期を誤ったからである。一方、トニー・レオン、金城武の連合が勝ったのは、集団だけではなく、天候さえも組織に組み込んだからである。天候は人間の事情などなにも考えない。そういう非情なものは、ことばで説得するのではなく、ただ自分たちが天候の側によりそうだけである。天候を味方につけるのではなく、天候の動きに人間の動きをあわせる。そして、ことばをもたぬ非情なもの、天候(霧や風)にかわって、霧や風のことばを語るのである。「霧で姿を隠します」「風の向きが逆転した一瞬に攻撃をします」。このときのことばは、説得のためのことばではない。たんなる補足である。言われなくても、その場にいる人には、霧の状態や風向きはわかっているのだから。わかっていることだけを語る時、ことばは映像のじゃまにはならない。

 それにしても、と考えてしまうのは、中国というのは、やっぱり「数」の国なのだ。「数」をそろえれば何でもできるという考えがどこかにあるのだと思う。北京オリンピックの開会式のセレモニーも「数」の力で映像を圧倒した。それは、ちょっと、こわい。この映画は、ある意味では「数」に対抗して勝った少数のことを描いているのだから、一見、数の否定にも見えるけれど--たぶん、それは映画とは無関係なものである。映画は、やはり「数」でスクリーンを圧倒する。大量の人、人、人。それがさーっと組織的に動くそのときのエネルギー。少数でさえ、万人単位なのだ。数の動きが見せ場なのだけれど、ちょっと、こわいものもある。



 登場人物の人間関係がわからないと映画が楽しめない--というひとは「part1」で予習(見たひとは復習)していくと都合がいいかもしれない。



レッドクリフ Part I スタンダード・エディション [DVD]

エイベックス・マーケティング

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木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」ほか

2009-04-12 09:54:13 | 詩(雑誌・同人誌)
木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」、渡辺兼直「達磨 暁(キョウ)斎の眼力を睨む」、三井葉子「からす」ほか(「楽市」65、2009年04月01日発行)

 木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」はさまざまな「語り直し」である。

 或る日。
外がやかましいので出てみると
地上から一本の軌道が
エレベーターを載せて
天井の宇宙静止軌道の宇宙ステーションまで
伸びていた

それは
まるで「ジャックの豆の木」のように
亭々と立っていた
上の端は雲にかかって
よくは見えない高さだった。

 このあと、「聖書」から「ヤコブの梯子」が引用され、つづいて芥川龍之介「蜘蛛の糸」が要約される。さらにつづいて、

軌道エレベータの着想は
宇宙旅行の父-コンスタンチン・ツィオルコフスキーが
1895年に、すでに自著の中で記述している。

静止軌道の人工衛星から地上に達するチューブを垂らし
そのケーブルを伝って昇降することで地上と宇宙を往復するのだ。
全体の遠心力が重力を上回るように、反対側にも
ケーブルをのばして上端とする。
軌道エレベータを建設するために必要な強度を持つ
カーボンナノチューブが発見されたことにより実現したのだった。

 「夢」を、コンスタンチン・ツィオルコフスキーの夢が「スペースシャトル」という形で実現に近づいているいま、その彼の夢と重なり合うものを、「ジャックと豆の木」「聖書」「蜘蛛の糸」と重ねてみる。
 そうすると、そこに、人間の想像力の不思議さが見えてくる。
 ひとは、どれだけ突飛なこと(?)を考えようと、どこかでつながっている。なぜ、ひとは、そんなふうにして重なり合うのか。
 そのことを木村は、「解説」しようとはしない。そこが、おもしろい。
 木村は「解説」のかわりに、「重ね合わせ」をていねいにやる。人間のことばは、常に、誰かの語ったことばの語り直しであるということを知っている。語り直す時、そこはなんらかの個人の思い、体験がしのびこみ、ずれができるのだが、そのずれの存在が逆に、離れているものを引き寄せる。ずれているから重ならないのではなく、ずれているから重なっている部分があることがわかる。ずれが増えるたびに、重なり合う部分もまた増えるのである。
 私は不勉強なので木村の詩を読むのははじめてなのだが(だと思う)、とてもていねいな思索をもとにことばを動かしていく詩人なのだと思った。新しい哲学を作り上げるというよりも、すでに語られた哲学を、ていねいに自分自身のものに消化して、ことばを鍛える詩人なのだと思った。



 渡辺兼直「達磨 暁(キョウ)斎の眼力を睨む」も語り直してある。河鍋暁斎の「吉原遊宴図」をことばで語っている。
 その後半。

折しも
床の間にありて
達磨大師
画中より身をのりいだし
われ つまらぬ修行に熱中いたし
手足を失ひしかども
人間とは
げにおもしろき動物であることよ

 「達磨大師」が吉原の一情景を目撃して、そんなことを、いうかなあ。いわないね。これは達磨大師に託して語った渡辺自身の思いである。そして、そこには当然「ずれ」がはいってくる。「ずれ」は意識すると、つまり「わざと」書くと、批評になる。「われ つまらぬ修行に熱中いたし」というのは、いいなあ。思わず笑ってしまう批評である。そして、思わず笑ってしまう時、たぶん、達磨になれない多くの人間が重なり合うのである。つながるのである。
 渡辺のことばには、時間をかけて鍛え上げてきたスピードがある。漢文と俗語(口語)のすばやい行き来があり、思わず見とれてしまう。



 今回の号にかぎらず「楽市」ととても充実している。
 今号には、谷口謙「自宅の廊下」もとてもおもしろかった。検視医(という言い方でいいのだろうか)の体験を書いている。死亡時刻をつきつめていくと、どうも死者が死んだ時間が、家族が彼を自宅の廊下へ運ぶ前だったらしい。酔って帰って来たと、家族は思い、とりあえず自宅の廊下に寝かせたのだが……という体験を書いているようなのだが、そのことばが、実にていねいなので、まるで1回かぎりのことなのに、何度も何度も語られてきた人間の「運命」のような、不思議な強さを感じさせる。
 司茜「ポケットの中の」は梶井基次郎「檸檬」と「八百卯」のことを書いたものだが、そのことばも、「檸檬」の別の角度からの語り直しであり、やはりことばがていねいで時間の手触りを感じさせる。
 三井葉子「からす」はカラスの「かあかあ」という鳴き声をきいて、それを語り直しているうちに芭蕉へ「ずれ」ていく。

あかあかと日はつれなくもあきのかぜ
というけしきが好きだった

つれて行ってよ
あかあか

抱くふりをして
抱いているふりをして


なんミリかくらいのわたしを
そのなんミリかくらいの杖の先で
押さえて


そんなら
わたし

かあかあ

泣く。

 「あかあか」と「かあかあ」。音楽の中で出会う「いのち」がある。


茶の四季―木村草弥歌集
木村 草弥
角川書店

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花―句まじり詩集
三井 葉子
深夜叢書社

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『田村隆一全詩集』を読む(52)

2009-04-12 00:00:39 | 田村隆一

            (51、の補足として。あるいは51の最後の部分の改訂)

 <物>は「人間」である。というより、田村は「人間」を「物」としてとらえたい願望を持っている。「人間」を「物」としてとらえたい--というとき、それは「観念」に変質する前の状態としてとらえたいということである。
 人間は「肉体」と「観念」でできている。そこから観念をはぎりと、「人間」だけにしたい、という欲望を生きているということもできる。「肉体」に出会いたい。「肉眼」になりたい、という欲望を生きている、と言い換えることもできる。

 きのう読んだ「物」の最後の方の部分。

<物>に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
<物>の音と光りと色彩が沸きたっている

 この<物>は「人間」と置き換えることができる。

「人間」に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
「人間」の音と光りと色彩が沸きたっている

 そして、このとき「音と光りと色彩」は「観念」である。「抽象的な情報市場」の「情報」と呼ばれている「観念」、そのさまざまな形態。そこには「肉眼」と「肉体」がないのである。「肉体」「肉眼」の不在がある。
 けれど、その「肉体」「肉眼」の不在を通してしか、田村は「人間」そのものに会えない。出会えない。
 「肉体」「肉眼」の「不在」--その「不在」を破壊し、解体してしまうことが「肉眼」になることなのだ。そのために「詩」を書いている。
 いつでもそうなのだが、田村のことばは、「矛盾」のなかで輝いている。「不可能」のなかで爆発している。

 「物」の最終連。

昨夜は<物>のために詩を読んで聞かせてやったのに
きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり

 「詩」を「人間」のために読んでやる。「観念」に汚染された「きみ」のために詩を読んで聞かせる。すると、

きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり

 これは、実は逆説に満ちた「肯定」である。「きみ」の姿を肯定している。ここに田村の「夢」がある。田村は田村のことばを「ギリシャ奴隷」のように受け止めてもらいたいと夢見ている。「ギリシャ奴隷」と定義されているのは、「祝福」「罰」と無縁の、「鞭の痛みを感じられる」「皮膚」をもった「いのち」のことである。
 「きみ」は、「観念」とは無縁のまま、田村のことばと「交感」しているである。「あかるい目」で「交感」している。「肉体」「肉眼」で「交感」している。

 これが実際にあったことか、なかったことかわからないが、いずれにしろ、それが田村の至福の一瞬である。

 人間を「物」の状態に還元したい--人間を「物」として書きたいという欲望は、『奴隷の歓び』にあふれている。「帽子の下に顔がある」の書き出し。

<物>Aが
細くて暗い急階段をのぼって
<物>Rの寝室に入ってきたのは
昨日の夕方だった

 このときの<物>は書かれていなくても、その内容というか、書かれていることがらにかわりはない。「意味」にかわりはない。

Aが
細くて暗い急階段をのぼって
Rの寝室に入ってきたのは
昨日の夕方だった

 と書き直しても、「意味」にかわりはない。
 だからこそ、「わざと」書き加えられている<物>という表現に「詩」がある。田村の思想がある。
 なんとしてでも「人間」を「肉体」「肉眼」の状態に解体したいという欲望が、この<物>に潜んでいる。

おれたちは
あくまで天動説の世界を生きている
太陽は東から昇り西に沈む
肉眼で見えるものだけがおれたちの
論理の根拠だ

 「人間」は「観念」の操作で「真理」をつかみ取る。たとえば「地動説」。たしかに、それは「真理」である。だが、人間にとって必要なのは「真理」だけではないだろう。「真理」を超えた「誤謬」が人間には必要な時もあるだろう。
 「真理を超えた誤謬」というのは「矛盾」である。そんなものは存在しないのだけれど、そういう矛盾でしかいいあらわせないなにかが人間を突き動かす。そしてその「真理を超えた誤謬」をつかみ取るのが「肉眼」「肉体」なのだ。
 「真理を超えた誤謬」にたえとば、「恋」がある。「恋歌」のなかの、「男奴隷の歌」の最後の部分。

それでも
恋がしてみたい
それでも愛をささやきたい
言葉なんか無用のもの
目と目で
生命が誕生するだけ

 「目と目で」は「肉眼」と「肉眼」の出会いである。そこから「生命」が誕生する。「肉体」が交わる時、「肉体」を超越した「交感」がある。それは「生命の誕生」という「真理」に結びつくのだが、その前に、「肉体を超越した交感」という「誤謬」がある。その「誤謬」なしに、いのちは誕生しない。

 詩に悲しみがあるとすれば、それは、ことばでことばを否定しないことにはことばにたどりつけない、ことばの「肉体」、ことばの「肉眼」にたどりつけない、という「矛盾」を生きるしかないということだ。
 「言葉なんか無用」と、詩人はことばでいうしかないのである。


毒杯―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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松浦成友「万華鏡」、金井雄二「ひとつのしろいぼーる」

2009-04-11 07:45:16 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦成友「万華鏡」、金井雄二「ひとつのしろいぼーる」(「独合点」98、2009年04月05日発行)

 松浦成友「万華鏡」、金井雄二「ひとつのしろいぼーる」はともに、全部ひらがなで書かれた作品である。しかし書き方は違う。
 松浦の「万華鏡」。

にじ が はな に なって しずかに まう
 あか
   あお
     き
      みどり
         いろとりどり の はな が さきみだれる

 ここに書かれている色は「赤/青/黄/緑」だろうか。それとも「赤/青/黄緑」だろうか。たぶん、前者なのだろうけれど、私はなぜか「黄緑」と読んでしまう。そう読みたい欲望がある。
 その欲望を知っているのだろうか。

かたち は つねに へんかし
あらたな けっしょう を うんでいく

という行が、3連目に登場してくる。「万華鏡」のなかの色は、ほんらい一つずつ独立している。けれど、それは互いに作用して「変化」し、「新たな結晶を生んでいく」。その生むというのが「黄/緑」であると同時に「黄緑」でもあるという現象なのだと思う。
 ひらがなの、ひらがな特有のくぐりぬけて、ことばが新しくなる。その動きのなかに詩がある。
 この変化は、もう一度、とてもおもしろい行を生み出す。

あさ の ひかり の なか で
   いろ と いろ が かさなりながら
このよ の すべて を とかして
   えめらるど さふぁいあ そして いちじくのみ

 「無花果の実」。そこに漢字は書かれていないが、私は、ひらがなが一瞬漢字に結晶し、それから再びばらばらに砕け散っていくのを見てしまう。「無花果」という文字のなかにある「無」「花」「果」という組み合わせが、万華鏡の三要素のように思えてくるのだ。
 松浦は、それを狙って書いているのか、それとも「黄緑」と同じように、私の勝手な誤読なのか。
 どちらでもかまわない。
 ひらがなはひらがなであると同時に、そのことばを追う読者にとっては「漢字」でもある。読みながら、どうしても、意識が「漢字」を通してことばを追っている。そして、そこに「無花果」がまぎれこむ。ひらがなが、遠いところにある「無花果」をひっぱりあげ、それから、「無」「花」「果」にかえる。
 この変化を、松浦は「とかして」(溶かして)と書いている。
 この「溶解」もとてもおもしろい。

くるしみ を ろか して
いのち の さいご の ひ が
かがみ の なか で うつくしく はな ひらく

 最後に、もう一度「花」が出てくる。「無花果」が一瞬よみがえる。そのとき、「くるしみ」「いのち」は、聖書のアダムとイブを思い出させる。セックスを知ってしまった「いのち」。「最後の火」なのか「最後の日」なのか。私は、誤読に誤読をかさね「最後の日」と読みたいのだ。時間そのものと読みたいのだ。時間が開いて、そのときに「果」(はて)が「無」のなかで「花」そのものになる。
 この錯乱。
 きっと、私の錯乱なのだろうけれど、私は、いつでもそんなふうにして、詩人のことばのなかで錯乱することを夢見ている。



 金井の「ひとつのしろいぼーる」は少年時代の思い出を書いている。

ひとつのしろいぼーるをどこまでとばせることができるのか、ぼくはためしてみたかったのです。ぼーるはおとながつかうこうきぼーるではなくて、あたってもこどもがしんでしまわないように、ごむでつくられたなんきゅうというぼーるなのです。

 最後に、金井少年は黒い畑で、それをバットで飛ばす。

たいせつな、ひとつのぼーるをどこまでとばせることができるのか、ぼくはためしてみたかったのです。

 それは、文字通りに読めば、たしかにどれだけボールを打ち飛ばすことができるか、ということを書いている詩になるのだが、私は、やはりここでも誤読したい。
 最初に引用した部分、「当たっても子供が死んでしまわないように、ゴムでつくられた軟球というボールなのです。」その、「死」ということば。それに、とても強くひかれる。ここでは、金井少年は、ひそかに「死」を体験しているのである。
 それはことばをかえて、たとえばボールがつるつるになってしまう。なくす。(なくしたら、おしまい。)グローブもバットも大事に大事につかう。失ってしまったら、もう野球ができないからである。--野球ができないという世界、「死後」の世界があることを、少年は知っているのである。
 なくしてはいけない、だから、なくしてもみたい。
 ボールをどこまでもどこまでも遠くへ飛ばす--そのとき、そのボールが落ちた「場」が「死」の領域である。それは、黒い畑とつながっている。いま、少年がいる日常とつながっている。
 そのつながりは、どこでつながっているのか、その境界線がよくわからない。すぐとなりかもしれない。遠くかもしれない。あるいは、いま、ここ、のはるかな地下かもしれない。どこかわからないが、どこへでもつながる不思議な「死」の力--それが、漢字交じりではなく、ひらがなだけで書かれると、その接点(境界線)のなさが、とてもリアルにつたわってくるのである。

 私の書いている感想は、誤読を通り越してしまっているかもしれない。しかし、私はいつでも誤読したい。誤読したいから、ことばを読んでいる。誤読を誘ってくれることばが大好きである。




風と光のレジェンド―松浦成友詩集
松浦 成友
土曜美術社

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今、ぼくが死んだら
金井 雄二
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(51)

2009-04-11 00:02:39 | 田村隆一
 『奴隷の歓び』(1984年)に「物」という作品がある。「奴隷」を「物」と定義している。「奴隷」とは何か。「物」とは何か。田村の「定義」は何を言おうとしているのか。

神は
奴隷を人の子として創造しなかったから
祝福も罪もあたえはしない
都市(ポリス)は
奴隷に市民権をあたえるなど夢にも考えつかないから
物量として扱う

 「祝福も罰もあたえはしない」。「祝福」「罪」と無関係なもの、断絶した存在が「奴隷」であり、「物」ということになる。
 この「祝福」と「罪」は別なことばでも書かれている。

紀元一世紀から奴隷社会の崩壊がはじまる
奴隷から濃度へ
物から人へ
物だけが所有していた純粋な歓びも涙も
政治的社会的存在の複合観念に変質する
物が歓びの声を出すのではない
観念が音を出し
水のようなものを目から流すのだ

 「祝福」「罪」と無関係なもの、「純粋な歓び」「涙」。この「純粋な」ということばは、それが「神」からあたえられたものより上位である、絶対的であるということをあらわす。その「純粋」な歓びと涙が「人」になったとたんに消えてしまう。
 「人」と「物」を区別するのは「観念」である。「物」は「観念」をもたないのに対し、「人」は「観念」をもつ。そして「観念」をもったときから「純粋」ではなくなる。「観念」が歓び、「観念」が涙を流す、つまり悲しむ。
 田村は、「観念」に汚染されない(?)状態を「理想」としている。
 「奴隷」「物」は、「観念」に汚染されていない純粋な何かの象徴である。「観念」に汚染されない状態とは「肉体」(肉眼)のことである。
 弁証法は矛盾→止揚→発展という運動の軌跡を描くが、田村は、矛盾→解体→未分化という運動を描こうとしている。未分化の状態に人間を立ち返らせるために、ことばを動かしている。未分化の状態のひとつが「肉眼」であった。
 「奴隷」「物」の礼賛は「肉体・肉眼」の礼賛と同じ意味になる。

 「物」であること、「肉眼」であることとは、どういうことか。それは、いったいどんな関係をつくりあげることができるというのか。田村は何を夢見ているか。

ヘレニズム時代のギリシャ奴隷のテラコッタ像の写真を見た
(略)
この立像の側面からは
<物>の両眼は見えないが
遠くを見つめている感じだけは分る
いったい何を見つめているのか
何が見えたのか
無名の<物><物>との交感は
可能なのか

 「交感」。しかも「物と物との交感」。
 田村は、観念によって人間と人間が、その間に何かを作り上げるということをめざしていない。「交感」すればいいのである。「交感」が夢なのである。「交感」こそが「祝福」と「罪」の入り交じったものなのだ。歓びの瞬間、歓びの時間なのだ。(ここから、セックスの意味も出てくるが、ここでは省略する。)
 現代人は観念によって「人」と「人」が交流するのに必要なものを生み出し、その新しい物によって人間関係を強固にする。しかし、田村は、あるいは詩はといった方がいいのか、詩は、交流ではない。交感なのだ。田村は、交感へ向けてことばを動かす。そのためにあらゆる既存の「交流」を破壊しようとする。
 田村が常に矛盾を利用し、その矛盾そのもの、矛盾をつくりあけている存在と、その存在形式を解体しようとするのは、交流ではなく、交感を理想としているからだ。交感は、未分化の領域でおきる。交感とは、互いの越境、侵入のことである。それが可能なのは、未分化の領域においてである。

 だが、これは現代においては非常に難しい仕事だ。すでに「物」が大量にあふさ、「物」を媒介にして「交流」のしっかり築き上げられているからである。「物」は「奴隷時代」とは変質してしまっている。

<物>に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
<物>の音と光りと色彩が沸きたっている

昨夜は<物>のために詩を読んで聞かせてやったのに
きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり

 この「物」の変質があるからこそ、田村は「奴隷」を引き合いに出してきたのである。「奴隷」という現代では否定されているものを通ることで、矛盾→解体→未分化という運動を描こうとしているのである。「奴隷礼賛」はあくまで、現代の「変質した物」を解体するための起爆剤である。

奴隷の歓び―田村隆一詩集
田村 隆一
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山岸光人「ウキナ石鹸」、渡辺洋「しずかな歌」

2009-04-10 10:51:31 | 詩(雑誌・同人誌)
山岸光人「ウキナ石鹸」、渡辺洋「しずかな歌」(「雨期」52、2009年02月25日発行)

山岸光人「ウキナ石鹸」。恋人か、友人か。親しいひとを失なったあと、その人の部屋を整理しにきたふたり。「私」と「きみの姉さん」。私にとっては、この詩は、好きな部分と、ぎょっとしてしまう部分が同居している。

扉を開けると
きれいに片づいている

来なくてもよかったね
きみの姉さんがふりむく

(略)

きみが
最後にみたものを
おしえてほしい

眠るまえの
網膜の淡いで
きらめいていたもの

眠ったあとも
目蓋のふちで
ゆれていたもの

たとえば、皮の手帳
たとえば、ボルドーのインク
たとえば、それで消されたいくつもの住所

はじめようか
きみの姉さんが部屋にあがる

かたわらの流しに
ポツンと石鹸がころがっている
部屋を片づけて
手を洗ったのだろうか
消えそうに
ウキナ石鹸とある
聞いたこともないこの石鹸を
きみはいったい
どこで
手にいれたのだろう

 最後に突然出てくる「ウキナ石鹸」が魅力的である。ウキナが「浮名」に似ているのはちょっと残念なのだけれど、その「石鹸」という「もの」が魅力的である。
 途中に出てくるのは、「網膜の淡い」「きらめいていた」「目蓋のふち」「ゆれていた」「消されていく住所」など、抒情的なものである。特に、「網膜の淡い」の「あわい」は、「間」の誤植だろうけれど、その誤植のなかにある「きらめき」「ゆれる」「消される」と通い合うセンチメンタルが、うるさい。
 その「うるささ」を石鹸が石鹸がきれいに洗う。花王石鹸とかなんとか石鹸とか、ほんとうは、なれ親しんだ石鹸の方が魅力的だとは思うけれど、名前の聞いたことのない「ウキナ石鹸」でも、抒情をいくぶんかは洗浄できる。その「石鹸」が単にものだけであるのではなく、

部屋を片づけて
手を洗ったのだろうか

 この「肉体」への接近が、「もの」を輝かすのである。部屋を整理する。そのとき手は汚れる。その手を洗う。その一連の「暮らし」のなかに「肉体の思想」がある。それを「石鹸」はくっきりと浮かび上がらせる。
 皮の手帳、ボルドーのインクというような、きどった、「頭の世界」を拒否し、「肉体」にかえっていく力がここにある。

 それにしてもなぜ「ウキナ石鹸」なのだろうか。とてもいい部分なのに、「ウキナ」が「浮名」を連想させるだけに、とても残念だ。せっかくセンチメタルを洗い流す石鹸なのに、逆に、演歌的未練の強い強い匂いが残ってしまう。石鹸の匂いならいつでも清潔、というわけではないだろう、と思う。



 渡辺洋「しずかな歌」は、もしかすると、とても美しい詩なのかもしれない。渡辺は美しいものを書こうとして書いたのかもしれない。そして、山岸の詩とならべて読まなければ、ああ、きちんとした詩だなあ、という印象を残す詩かもしれない。けれど、私は、つづけて読んでしまった。正確には渡辺の詩、山岸の詩という順序で読んだのだけれど、山岸の詩を読んだあと、記憶の奥から渡辺のことばが、ふわっと浮いてきたのである。
 そんなふうに、誰か別の人の作品を読んだあとでも、その記憶の底からことばがよみがえってくるのだから、渡辺の詩は、きちんと完成された作品だとは思うのだが……。
 あまりにも「美しく」、同時に抒情的すぎる。そして、その美しさ、抒情は、「もの」を排除してなりなっている。
 1連目。

眠るな
一番よごれていないきみを思い出す前に
眠ってしまえば
誰からも思い出されなくなったきみが
夢のなかで
悲鳴のようにあばれだすだけじゃないか

 「一番よごれていないきみ」「誰からも思い出されなくなったきみ」「悲鳴」。ことばをつらぬくものはまっすぐである。このゲシュタルトの、あまりにも美しすぎる直線は、ことばを何度も何度も「頭」で整理した結果の美しさである。(清水哲男なら、ここにほんの少し「俗」をまぎれこませるはずである。ことばをつまずかせることで、まっすぐさを逆に浮き彫りにするはずである。)
 この美しさは、どんどん加速して行く。そして、その加速に、たぶん渡辺自身が酔っている。快感のなかで、忘我のなかで、つまり、「他人」をすっかり排除した「場」で、次のように飛躍する。

歌おうよ
歌がすきなきみをわすれないように
歌をすきじゃないやつらが
歌う歌であふれている街で

 この美しさを、どれだけ、受け止めることができるか。
 私は、閉口してしまう。投げ出してしまう。
 私は、音痴なこともあって、カラオケなんて大嫌いだが、渡辺のこの美声に酔いしれ、この旋律美しいでしょと聴衆に向かって朗々と張り上げる「歌」を聞いていいるくらいなら、自分勝手なキーで歌うカラオケ演歌でも聞いていた方がさっぱりした気分になる。
 だろう、と思う。

少年日記
渡辺 洋
書肆山田

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