高良勉『ガマ』(思潮社、2009年02月26日発行)
巻頭の「ガマ(洞窟)」が高良勉の思想を力強くあらわしている。
沖縄戦のとき、島民が避難し、そして亡くなった洞窟、ガマと呼ばれる洞窟。そのガマを高良は「子宮」と呼んでいる。「子宮」であるかぎり、その入り口に「恥毛」があるのは当然のことである。当然のことであるけれど、「子宮」呼んだ「ガマ」の入り口の「草むら」、その茂みを「恥毛」と呼ぶことによって、その「子宮」は「観念」ではなく「肉体」になった。
そして「子宮」が「肉体」であるということは、このとき高良は「男」であることを超越して、「女」になったということである。
最後の連は、高良がそのとき母の胎内にいたということを語るだけではない。
高良のすべて、高良だけではなく、沖縄の「戦後の命」がすべてが「ガマ」によって育てられているということを語っている。
悲惨な犠牲があって、その犠牲をきちんと見つめ、その犠牲に答えるために何をすればよいか--そういうことのすべての「原点」が「ガマ」にある。
高良の「いのち」の原点が、「ガマ」のなかの母、その母のなかの「子宮」--そこに生きていると書くとき、高良のことばそのものが「子宮」になっている。高良のことばが、沖縄の思想の「子宮」になっている。「子宮」になることで、沖縄の思想を宿している。
ことばが「子宮」となっているかぎりは、高良もまた「女の肉体」をもっているということである。
「胎児」として「子宮」を見つめているだけではない。また1連目に「恥毛」ということばがあったが、男として、つまり、自分のセックスの対象として「子宮」を見ているわけではない。自分の遺伝子を後世に遺すための「場」として「子宮」を見ているわけではない。「子宮」になるために、ことばを鍛えているのである。より頑強な「女の肉体」そのものになるために、男を超越しようとしている。
男であることを超越して、「女の肉体」になる--ということは、自分自身を超越して「沖縄」になるということでもある。沖縄戦の苦悩が凝縮している「ガマ」を常に自分の肉体の中に取り込むことは、必然的に「沖縄」そのものとして生まれ変わる、「沖縄の人間」であるけれど、あらためて「沖縄の人間」として生まれ変わることでもある。「戦後」ということばを高良はつかっているが、その「戦後」というのは「戦争中」と深くつながっていて、切り離すことはできない。したがって、「沖縄の人間」として生まれ変わるということは、「戦後」の人間として生まれ変わるということではなく、「戦中」のにんげんとして生まれ変わるということである。男を超越して「女」になるように、「いま」を(あるいは戦後を)超越して、「戦中」に生まれ変わる。「戦中」の血を引き継ぐために生まれ変わるということである。
この、「現在形」。
この、「現在形」。
「過去」の時間を「過去」ではなく、「いま」として引き継ぐ。「過去」を「過去」にしてしまうのではなく、「いま」として生きるために生まれ変わる。そのために、ことばを書く。ことばを書くことで、「いま」を超越する。
そして沖縄にはまた、高良同じように、自分自身という存在を超越して、「沖縄」なろうとした先人・仲間たちがいる。高良は、そういう先人たちに敬意をこめて追悼の詩を書いている。幸喜孤洋を追悼した「巻き貝」。
「古生代の海底をはいずり廻り/浮上してくる」ということばは、「ガマ」の奥深くを生き延び、そこからふたたび地上に出てくる「沖縄の人間」と重なる。「アンモナイト」もまた「ガマ」なのである。「生きかた」、つまり思想が「ガマ」なのである。
ひとは誰でも、そのひと自身である。それはとても大事なことである。けれども、同時に、ひとは自分自身であることをやめる、自分自身を超越するとき、ほんとうにそのひとになる。つまり「固有名詞」で呼ばれる人間になる。
高良は「ガマ」となることで高良そのものになる。
巻頭の「ガマ(洞窟)」が高良勉の思想を力強くあらわしている。
隆起珊瑚礁から生まれた島々を
数万年もの間 雨水や炭酸ガスが溶かし
地底の奥深くまで 鍾乳洞が拡がっている
恥毛のような草むらの中に
紡錘形の口を開き
島の腹部は ガマ(洞窟)だらけ
ああ 聖なるかな 島の子宮よ
沖縄戦のとき、島民が避難し、そして亡くなった洞窟、ガマと呼ばれる洞窟。そのガマを高良は「子宮」と呼んでいる。「子宮」であるかぎり、その入り口に「恥毛」があるのは当然のことである。当然のことであるけれど、「子宮」呼んだ「ガマ」の入り口の「草むら」、その茂みを「恥毛」と呼ぶことによって、その「子宮」は「観念」ではなく「肉体」になった。
そして「子宮」が「肉体」であるということは、このとき高良は「男」であることを超越して、「女」になったということである。
大空洞の彼方 に拡がる闇
ホッ ホーイッ と呼びかけても
こだまは返ってこない
その闇の中 数えきれぬ人間たちが
うごめいている わめいている
艦砲射撃で左肩をやられ
目と耳を失った 父がうなっている
看病をしているのは戦友か 母か
もう ガマの中の陸軍病院は撤退し
地上からは 米軍の手榴弾や
ガソリン爆弾が 投げ込まれてくる
ガマの奥深く 逃げていく
「従軍慰安婦」たち 戦争は何年続いたか
地中の暗闇から 真夏の青空へ
やがて父や母たちが 捕虜となって
はい上がってくる ノミやシラミ
ウジ虫に喰われた 身体を引きずって
その母の子宮の中 小さな
私の命が宿っている
ガマから生まれた 戦後の命が
最後の連は、高良がそのとき母の胎内にいたということを語るだけではない。
高良のすべて、高良だけではなく、沖縄の「戦後の命」がすべてが「ガマ」によって育てられているということを語っている。
悲惨な犠牲があって、その犠牲をきちんと見つめ、その犠牲に答えるために何をすればよいか--そういうことのすべての「原点」が「ガマ」にある。
高良の「いのち」の原点が、「ガマ」のなかの母、その母のなかの「子宮」--そこに生きていると書くとき、高良のことばそのものが「子宮」になっている。高良のことばが、沖縄の思想の「子宮」になっている。「子宮」になることで、沖縄の思想を宿している。
ことばが「子宮」となっているかぎりは、高良もまた「女の肉体」をもっているということである。
「胎児」として「子宮」を見つめているだけではない。また1連目に「恥毛」ということばがあったが、男として、つまり、自分のセックスの対象として「子宮」を見ているわけではない。自分の遺伝子を後世に遺すための「場」として「子宮」を見ているわけではない。「子宮」になるために、ことばを鍛えているのである。より頑強な「女の肉体」そのものになるために、男を超越しようとしている。
男であることを超越して、「女の肉体」になる--ということは、自分自身を超越して「沖縄」になるということでもある。沖縄戦の苦悩が凝縮している「ガマ」を常に自分の肉体の中に取り込むことは、必然的に「沖縄」そのものとして生まれ変わる、「沖縄の人間」であるけれど、あらためて「沖縄の人間」として生まれ変わることでもある。「戦後」ということばを高良はつかっているが、その「戦後」というのは「戦争中」と深くつながっていて、切り離すことはできない。したがって、「沖縄の人間」として生まれ変わるということは、「戦後」の人間として生まれ変わるということではなく、「戦中」のにんげんとして生まれ変わるということである。男を超越して「女」になるように、「いま」を(あるいは戦後を)超越して、「戦中」に生まれ変わる。「戦中」の血を引き継ぐために生まれ変わるということである。
目と耳を失った 父がうなっている
この、「現在形」。
やがて父や母たちが 捕虜となって
はい上がってくる
この、「現在形」。
「過去」の時間を「過去」ではなく、「いま」として引き継ぐ。「過去」を「過去」にしてしまうのではなく、「いま」として生きるために生まれ変わる。そのために、ことばを書く。ことばを書くことで、「いま」を超越する。
そして沖縄にはまた、高良同じように、自分自身という存在を超越して、「沖縄」なろうとした先人・仲間たちがいる。高良は、そういう先人たちに敬意をこめて追悼の詩を書いている。幸喜孤洋を追悼した「巻き貝」。
巻き貝の好きな
詩人がいた
その作品からは
アンモナイトが連想された
古生代の海底をはいずり廻り
浮上してくる薄紅色のアンモナイトよ
「古生代の海底をはいずり廻り/浮上してくる」ということばは、「ガマ」の奥深くを生き延び、そこからふたたび地上に出てくる「沖縄の人間」と重なる。「アンモナイト」もまた「ガマ」なのである。「生きかた」、つまり思想が「ガマ」なのである。
ひとは誰でも、そのひと自身である。それはとても大事なことである。けれども、同時に、ひとは自分自身であることをやめる、自分自身を超越するとき、ほんとうにそのひとになる。つまり「固有名詞」で呼ばれる人間になる。
高良は「ガマ」となることで高良そのものになる。
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