詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松尾真由美『不完全協和音』(4)

2009-07-25 01:41:13 | 詩集
松尾真由美『不完全協和音』(4)(思潮社、2009年06月30日発行)

 ことばを増殖させる運動。入沢康夫の「旅するわたし--四谷シモン展に寄せて」と向き合った「旅の記憶、もしくは越境の硬度について」という作品で、松尾は、河津の作品と向き合ったのとはまた違ったことばをひきだしている。
 「おそらく」「まして」「なお」……。

 記憶? おそらくはかすかな衝撃が私を穿っていたのだ。

 「おそらく」がもっとも重要であると私には思える。「おそらく」というとき、松尾は、入沢の書いていることばからなにかを確信したわけではない。また、「かすかな衝撃が私を穿っていた」ということを確信しているわけではない。「おそらく」ということばをつかえば、入沢のことばが書いている「いま」「ここ」ではないどこかへ動いていけるということを確信しているだけなのだ。
 ほんとうに確信していることがあるなら「おそらく」は不要である。事実に基づいて推論するなら「おそらく」は不要である。
 「おそらく」ということばをつかうとき、松尾は、松尾自身の想像力を励ましているのである。それは想像力を、ことばを増殖させるための飛躍台なのだ。「おそらく」によって、「いま」「ここ」を離れ、想像力のなかに突き進み、そのなかで、「まして」と増殖を重ねる。「まして」は「況して」だが、そこには「増して」の意味が含まれる。それに「なお」をさらに重ねる。そのとき、ことばはどこを動いているか。
 「いま」「ここ」ではない。入沢の書いた「いま」「ここ」でもなければ、松尾自身の「いま」「ここ」でもない。ふたりが出会うことで生じた「いま」「ここ」という一期一会の世界でもない。そういうところから離れた場、そういう関係を超越した場を動いていく。
 「なお」はそういう場で登場する。

だが、どこでもない場所ゆえに、どことなくその装置はずれてゆき、天地さえ漂流していて、どこへ行くのか分からない場の混沌を楽しんでいるのか、それとも、この混沌に現実の苦悩が隠されているのか、ひどく曖昧なまま、いくえにも意味をかさね、様式化したごとくの詩形式をかためていって、そこから、茫漠とした世界がひろがり、なお、先へと進んでいきたい。

 「なお、先へと進んでいきたい」--これは、入沢の欲望でもなければ、松尾の欲望でもない。ふたりが出会うことで、出会うことになった、ことばそのものの欲望である。松尾は、そのことばの欲望に、松尾自身の肉体と想像力を提供している。

なお、先へと進んでいきたい。視えないものを視てみたい。出会いたい。触れてみたい。

 これは正確には、「視えないものを視てみたい。出会えないものに出会いたい。触れられないものに触れてみたい。」だろう。不可能性。不可能を欲望するという矛盾。
 こういうことを書き進めるために、松尾は、もうひとつ別のことばを利用する。「いわば」である。

いつまでも希求の旅をつづけ、時間も空間も溶けた逡巡のたおやかな渦のなかで、夢やまぼろしに追いすがる眼差しだけがきらめく。いわば、流れゆくものを流れゆくものとして、去ってゆくものを去ってゆくものとして、いくつもの事象が聖火のごとく眼裏に残されて…………。

 「眼」は「ことば」と書き換えることができる。(私は、「おそらく」とは言わない。)松尾の想像力の旅、「いま」「ここ」から超越する旅は、その運動する「ことば」だけがきらめく。このとき「ことばだけ」というのは、「意味ではなく」ということである。「意味」がきらめくのではない。「意味」など、存在しない。ことばの「運動」、ことばは「動くことができる」ということだけが、可能性としてきらめくのである。その「運動」の裏、軌跡と言い換えてもいいが、そこには「流れゆくものを流れゆくものとして、去ってゆくものを去ってゆくものとして」、つまり、これから先には何の関係もなく、ちらちらと輝きのまま残される。
 「眼裏に残されて………。」と、末尾のことばをあいまいに濁しているのは、こういう運動は、つきつめること、つまり述語を正確にすることとは相いれないからである。
 このことを、松尾は、次のように言いなおしている。

主語も述語も不案内なこの旅の、ひりひりとやわらかい感触が私を覆って、さまざまな生きものたちの性別が混合される。

 「主語」「述語」は無意味になる。重要なのは、「感触」であり、その感触をとおして、すべてのものが、つまり、
 
ふたりで
いやひとりで
もしくは複数の

 の「複数」(そこにはもちろん、「ひとり」と「ふたり」も含まれる)が混合するのである。混沌、無、何にでもなることができる可能性の「場」。そういう世界が出現する。その混沌、カオス、無の「場」まで、ことばは動いていく。動いていくことを激しく欲望する。

不完全協和音―consonanza imperfetto
松尾 真由美
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡井隆『注釈する者』

2009-07-25 00:00:00 | 詩集
岡井隆『注釈する者』(思潮社、2009年07月25日発行)

 岡井隆『注釈する者』は「現代詩手帖」に連載されたものである。連載のときから何度か感想を書いてきた。何と書いたか忘れてしまったが(いいかげんな話だが)、何度読んでもおもしろい。
 「側室の乳房について」は米川千嘉子の「側室の乳房(ちち)つかむまま切られたる妻の手あり われは白米を磨ぐ」という歌がラフカディオ・ハーンの「奇談」にもとづくというので、その「奇談」を読みながらあれこれ考えるという作品である。米川とラフカディオ・ハーンをつないでいるもの、ふたつの作品が共有するものを追いかけていく。
 それを純粋に(?)、文学の中だけで追いかけるのではなく、岡井の日常というか、現実の時間とからめながら追いかけていく。米川、ハーンの文学のことばのなかに岡井の日常が、岡井の肉体が紛れ込む。紛れ込み、その紛れ込んだものをかいくぐって、文学のことばへと、岡井のことばは動く。
 簡単に言い換えると、脱線する。注釈が脱線するのだ。
 脱線するのだが、脱線したあと、ずるっとした感じでもとに戻る。その「ずるっ」とした感じがなんともいえず楽しい。
 この「ずるっ」とした感じ、あるいは「ぬるっ」とした感じというのは、「文学」から、特に「注釈」からは切り捨てられることが多い。なぜなら、「注釈」というのは本来、よくわからないものを丁寧に解説し、分かりやすくするものである。分からないものが「ずるっ」「ぬるっ」と脇道へそれてしまっては、何を言っているのかわからなくなる。「あんたの、あれこれの思いはいいからさあ、さっさと、そこに何が書いてあるのか説明してよ」と言いたくなるかもしれない。そして、実際、「注釈」というものは、そういう個人的な「ずるっ」「ぬるっ」とした脱線を省略し、純粋に(?)、抽象的に、書かれるものなのだ。受験の解説(国語の、とはかぎらないけれど)は、だれのものでもないことば、最初から「共有」されることを前提としたことばで書かれている。
 岡井は、逆に(というと、言い過ぎかもしれないけれど)、教科書的「注釈」が捨ててきたものを紛れ込ませることで、「注釈」を詩にしている。 

 「注釈」に個人的なことを、そのとき、その日々のできごとを加える--そう書いてしまうと、それでおわりなのがだ、実は、「詩」は、そんなに単純ではない。「注釈」ついでに脱線しただけなら、それは詩にならない。

 脱線したときの「文体」が詩なのである。書かれている内容ではなく、書き方--注釈のなかに紛れ込む「日常」の描写の文体が詩なのである。

若い長身の理髪師に白髪を摘(つ)んで貰ひながら乳房を持たない性から見てそれをもつ性の二人が相争ふさまを思つてゐると青年はにこやかに話しかけながらここ数日此の詩を書くために(といふのは嘘だが)凝りに凝つた肩から背中にかけてその長い指でほぐして呉れるのだつたが鏡の中ではたしかに肩ごしにのばされた彼の手がいくたびとなく私の肉体を掴んだのであつた……。

 読点「、」のない長い文章のまま、うねっていく。背中をもんでいる手が、意識の中では胸を(?)つかんでいる--というぐあいに、米川の歌、ハーンの短編のようにねじれている。背中をもまれながら、乳房をつかまれた女の気持ちを想像しているのだが、それが実際に理髪店という現実の場で動くので、奇妙な、なんだか男色の匂いのようなものがまじり、その奇妙・異様な感じが、なぜだか「文学」とつながっていく。
 「文学」というのは、奇妙・異様なことを、日常のことばで語り直したものなのである。逆に、奇妙・異様なことを日常のことばで語りなおす--ということもできるが、まあ、区別はない。奇妙・異様と日常が出会うのが「文学」である。
 なんだか、脱線してしまうが……。
 岡井のことばがおもしろいのは、その脱線のときの文体である--ということに戻ろう。
 岡井の、この読点のない文体は、読点がないにもかかわらず、うねうねとうねっているにもかかわらず、とても読みやすい。読んでいて、すぐに理解できる。理路整然としていない(?)のに、とてもよくわかる。
 なぜなのだろうか。
 岡井のことばは、頭で理路整然と動かされたことばではなく、「肉体」にそって、自然に動かされたことばだからである。そこには「肉体の自然」がある。「理路整然」を放棄した、夏の草いきれがむんむんする野原のような、いのちの力がある。その自然な力が説得力を持っているのである。夏の草いきれが人間を圧倒するように、岡井のもっている「肉体の自然」が私を圧倒するである。
 そして、私はいま、岡井の「肉体の自然」と書いたのだが、そのときの「肉体の自然」とは、ほんとうは、岡井の身体のことではない。岡井が吸収し、蓄積した「日本語の文体・伝統」のことである。繰り返し読み、書き、鍛えられた文体が「肉体」になってしまっている。「日本語」の力、日本語の「文学のいのち」が、私を圧倒するのである。
 くねくね、うねうね、ずるっ、ぬるっ、と乱れながらも、その運動は「ぎくしゃく」ではない。豊かな水が、水自身の重さにしたがって低みへ自然に流れていく--そういう自然なつややかさがある。どこへ流れるかなど、どうでもいい。つややかな輝きをみせて流れればそれでいい。そのつややかさの自然。豊かな自然だかがもつつややかさ。そういうものが、脱線するたびに、静かに光るのである。

 この自然を、岡井は、この作品の中で、別のことばで書いている。私は記憶力が悪いので間違っているかもしれないが、岡井は「注釈」の連載の中で、1回だけ、「手の内」をみせている。岡井の日本語のいのち、力の源泉について、岡井のことばをつややかにしている力について、1回だけ語っている。
 「側室の乳房」のほぼ終わりの方。

そして治療のために呼ばれたオランダ人の外科医は、雪子を助けるためには両手を死体から手首のところで切断する外はないと言ひその通りにしたのであつたが古い伝統の和歌の手のひらはそんなことで死に絶えることはない。黒くて硬いその手は毎夜丑の時が来ると「大きな灰色の蜘蛛のやうに」、若い外来種の詩の乳房を寅の刻まで「締めつけ責めさいなむのである。」とこの帰化したアイルランド人は語るのであつた。雪子が尼になつて奥方の供養をして歩く結末はどうでもよいように思はれ、私は深夜の三鷹駅頭でバスを待つた。

 「古い伝統の和歌の手のひら」。語り継がれ、古典となった和歌のなかにあることば。それは死なない。肉体は死んでも、ことばは死なない。ことばだけが生き延びる。岡井は、そのことを「肉体」として知っている。そして、その「和歌の手のひら」は「大きな灰色の蜘蛛」になったように、形をかえながら生き延びていく。たぶん、それは人から人へ、語り継がれるたびに形をかえる。ここでは「大きな灰色の蜘蛛」と書かれているが、あるときは「黒い蜘蛛」かもしれない。あるときは「むらさきの蛸」かもしれない。「和歌の手のひら」とは、何かを語ろうとする「日本語」のことである。何かを語ろうとすれば、かならず、その対象を歪めてしまう。手のひらは、蜘蛛になるように。そして、手のひらを蜘蛛と語るとき、その蜘蛛によせた思いというものがある。妻への同情か。側室への嫉妬か。そういうもの、人間の感情・情念が、「手のひら」を歪め、「蜘蛛」にする。そういう語ることの「伝統」が「和歌」のなかにあり、そして、いまも日本語全体のなかに生きている。
 語り継がれ、そこで鍛えられた日本語の力--岡井のことばの魅力はそこにある。ことばの「根っこ」が深いのである。ことばの水源の水圧が高いのである。だから、ごとへでも自然に動いていく。つややかである。「理路整然」がくずれる(?)たびに、つややかに光る。その水量の豊かさをみせる。どんなに脱線しても、つややかに流れていくという力をみせる。


注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(37)

2009-07-24 07:21:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『旅人かへらず』のつづき。

四四
小平村を横ぎる街道
白く真すぐにたんたんと走つてゐる
天気のよい日ただひとり
洋服に下駄をはいて黒いかうもりを
もつた印度の人が歩いてゐる
路ばたの一軒家で時々
バツトを買つてゐる

 「洋服に下駄をはいて黒いかうもりを/もつた印度の人が歩いてゐる」の「行わたり」がとても印象に残る。学校文法では「洋服に下駄をはいて黒いかうもりを/もつた印度の人が歩いてゐる」になる。どこが違うのか。「意味」は同じである。「音楽」が違う。
 私が特に感じるのは「黒いかうもり」という「音」の美しさである。この音の美しさは「黒いかうもりをもつた」と続いてしまうと死んでしまう。「も」という音が近すぎるからである。
 「も」が改行されて、行の冒頭にくるとき、そこに強いアクセントがくる。(これは、私の場合であって、ほかのひとは違うかもしれない。)そして、「もつた」の「も」に強いアクセントがくると、それに引きずられるようにして「黒いかうもり」の「も」の音が記憶のなかでよみがえり、ふつたの「も」が「和音」となって響く。
 「白いかうもり」や「赤いかうもり」ではなく「黒いかうもり」であることも重要だ。「黒いかうもり」は、私にはとても美しい音に聞こえる。そして、その音は「もつた」と切り離されながら、同時に呼び掛け合うときに、さらに美しく響く。

 この詩には、イメージ自体の美しさ、「バツト」(たばこだろう)を買う印度人、洋服に下駄という不釣り合いなものの出会いの驚き、その驚きのなかの詩もあるけれど、私には、そうした異質なものの出会いという要素は、「黒いかうもり」という音の美しさに比べると、とても小さな部分しか占めない。



西脇順三郎詩集 (世界の詩 50)
西脇 順三郎
彌生書房

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松尾真由美『不完全協和音』(3)

2009-07-24 00:58:19 | 詩集
松尾真由美『不完全協和音』(3)(思潮社、2009年06月30日発行)

  「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」--そういう文体が松尾のなかにあるのかもしれない。一つの文体ではない。複数の文体。そして、複数であることによって一つである文体。--と、きのうの「日記」で書いた。
 それは『秘めやかな共振、もしくは招かれたあとの光度が水底をより深める』を読むと、いっそう強くなる思いである。巻頭の「汐の色彩、しめやかな雨に流れる鍵と戸と窓」は河津聖恵の「シークレット・ガーデン」と向き合った作品である。河津と松尾との「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」関係、ことばの運動が、そこにある。河津の詩が引用され、引用は引用として明示されているから、ふたりはふたりなのだが、ふたりであるからこそ「いやひとりで」動いていることば(ひとりとして動いていることば)という印象がする。「ふたり」であるときに浮かび上がる「共通性」--その「共通性」が「ひとり」という印象を呼び覚ます。区別のつかない部分がある。そして、その区別のつかない部分というのは、ほんとうに「ふたり」だけに共通するもの、共有されるものなのか。たぶん、違う。河津と松尾以外の誰かが共有するもの、松尾と河津以外の誰かが共有するもの、というものがそこにはある。そのために「もしくは複数の」という感じが生まれる。
 「共振」ということばを松尾はつかっている。(私なら、和音ということばをつかう。)それは複数の存在を前提としている。そして、複数でありながら「ひとつ」という印象が同時に存在する。そして、その「ひとつ」であるということが、別の他の「ひとつ」を生み出すという可能性として感じられる。
 「もしくは複数の」の「複数」は「ひとり」と「ひとり」が出会い、「ふたり」になり、「ふたり」であるということを意識しながらなおかつ「ひとり」の可能性(ひとつの可能性、といいかえようか)が見えてきたとき、その「ひとり」(ひとつ)の内部を通って、さらに「共振」(和音)の拡大、増殖がはじまる。その拡大、増殖が、「複数」なのだ。

 「汐の色彩、しめやかな雨に流れる鍵と戸と窓」の冒頭。

 だから、くらい木々の狭間を縫うように、夜のとばりの喉元から未知と既知が絡まりあい、地の雲に足先は覆われて、ひろがる不安あるいは千切れた根の行方を、ひとりで追ってゆくしかない。

 「だから」とはじまるが、何があって「だから」なのかは、わからない。理不尽である。理不尽であるが、たぶん、そういう理不尽が「出会う」ということなのだ。出会って、出会ったことをきっかけにして動いていく。出会った、「だから」動いていくのである。そして、この「だから」には実は「意味」がない。「だから」は引用部分の別のことばに言い換えるなら、「あるいは」なのだ。「だから」と「あるいは」を入れ換えてみればわかる。

 「あるいは」、くらい木々の狭間を縫うように、夜のとばりの喉元から未知と既知が絡まりあい、地の雲に足先は覆われて、ひろがる不安「だから」千切れた根の行方を、ひとりで追ってゆくしかない。
 
「ひろがる不安「だから」千切れた根の行方を」というのは、学校文法からすると少し奇妙な表現になってしまうが、その「だから」のなかの不思議な粘着力のありようは、「だから」と「あるいは」を入れ換えた方がより強烈にわかるだろう。
 「だから」ということばで「ひとり」と「ひとり」は結びつき(粘着し)、つまり「ふたり」は「ひとり」になり、その「ひとり」を「あるいは」ということばで分断し、「複数」へと動いていくのだ。
 「未知と既知とが絡まりあい」ということばが出てくるが、相反するもの(矛盾するもの)が絡まりあい、絡まることで「ひとつ」になり、「ひとつ」であることを意識することで、そこから「複数」の夢がはじまる。

 さらに、このことばに「それとも」や「いや」ということばが加勢する。それは「複数」を増殖させることばである。「さらに」ということばも加わる。
 次のように。

しめやかな叫びの音が内向し、四散して、あれは飛び散る羽根、それとも、つめたい氷の欠片? 消え去る影が一瞬だけ日を放ち、くろい喪の方位を焦がす。喪の方位が現れだす。そこに投げ込まれるものと消え去るものとの同化は真夜中の麻痺のなか、さらにみだれて放蕩する睡りに落ちる。

「内向し、四散して」という矛盾。つまり、「ふたり」がまず登場し、その「ふたり」(ふたつ)を「飛び散る羽根、それとも、つめたい氷の欠片」と、「それとも」ということばで、どちらか「ひとつ」(ひとり)にしようと試みる。そして、そう思った瞬間に、きっと「ひとつ」になる。まず、「飛び散る羽根」に、そして、瞬時の内に「つめたい氷の欠片」へと分裂する。「ふたつ」(ふたり)のイメージになり、「ふたつ」になったことが、別のイメージを呼び覚まし、増殖する。その増殖が「さらに」増えるのである。

 こういうとき、そのひとつひとつの増殖するイメージに「意味」を与えても、なにもわからないだろうと思う。増殖するイメージは、音楽のように、ひたすら動いていくだけなのである。全部がきれいかもしれない。そうではなくて、ある「和音」だけが特別に美しく、他の部分はその最良の「和音」を支えるものであるかもしれない。
 このことばの運動のなかになにかほんとうに存在するものがあるとしたら、増殖するイメージの氾濫ではなく、「だから」「あるいは」「それとも」「さらに」ということばを粘着させ、分離させる力なのだと思う。松尾は、そういうことばの粘着力と分離力(こんな表現があるかどうか知らないが)を、他人の詩と向き合うことで、とことん動かしているのである。




不完全協和音―consonanza imperfetto
松尾 真由美
思潮社

このアイテムの詳細を見る


アリア、この夜の裸体のために―河津聖恵詩集 (現代詩人叢書)
河津 聖恵
ふらんす堂

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(36)

2009-07-23 08:36:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

四三
或る秋の午後
小平村の英語塾の廊下で
故郷のいとはしたなき女
「先生何か津田文学
に書いて下さいな」といつた
その後その女にあつた時
「先生あんなつまらないものを
下さつて ひどいわ」といはれて
がつかりした
その当時からつまらないものに
興味があつたのでやむを得なかつた
むさし野に秋が来ると
雑木林は恋人の幽霊の音がする
櫟(くぬぎ)がふしくれだつた枝をまげて
淋しい
古さびた黄金に色づき
あの大きなギザギザのある
長い葉がかさかさ音を出す

 前半と後半にわかれる。前半は女とのやりとり。女の口語のなかにある、やわらかな響き。「下さいな」の「な」、「ひどいわ」の「わ」。そこに口語であるけれど、一種の「きまり」のようなものがある。口語にも文体がある。文体には「音」がある。独立した「味」がある。
 その「音」の対極に「つまらないもの」がある。それは女の「口語」の「音」がとらえることのできない「音」の世界である。「淋しい」音である。
 「恋人の幽霊の音」と書いて、そのあと、西脇はその「音」を説明している。具体的に書いている。
 「ふしくれだつた」「まげて」。まっすぐではないもののなかにある「いのち」。「古さびた」もの。「ギザギザ」のもの。新しくはないもの、まっすぐではないもの。そのなかにつづいている「いのち」の音。--それを西脇は「淋しい」と呼ぶ。

 そして、それは、最初に書いたこととは矛盾するかもしれないが、女の口語の「な」とか「わ」という音に通じるものを持っている。「な」とか「わ」は、男のまっすぐな(?)口語から見ると、「つまらない音」であり、男のまっすぐさを逸脱した「音」である。ある意味で、曲がっている。ふしくれだっている。古さびている。「音」のなかに古いものをもっている。古い「いのち」をもっている。その「淋しさ」、その「美しさ」に西脇は共鳴している。
 だから、自然に、前半の女の口語の世界が、西脇のいう「つまらないもの」の世界と向き合う形でつながっていく。
 そして、そのふたつは向き合いながら「和音」をつくる。

 女の「淋しさ」と西脇の「淋しさ」が、共鳴して、和音となって、「美」になる。



定本西脇順三郎全詩集 (1981年)
西脇 順三郎
筑摩書房

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松尾真由美『不完全協和音』(2)

2009-07-23 02:28:59 | 詩集
松尾真由美『不完全協和音』(2)(思潮社、2009年06月30日発行)

 松尾真由美の詩は覚えられない。「長い」ということのほかに、もうひとつ別の要素がある。「なおも狂れゆく塵の漂白」(なんというタイトルだろう、「狂れゆく」は「くれゆく」と読むのだろうか)の最後の部分。

こうして私はあなたの肩の横のあたりに立っている
剥奪しあい贈与しあい跛行しあい蒸散しあう尾の裏の
しめやかな森をつくって
埋もれていくのだ
ふたりで
いやひとりで
もしくは複数の
影をたばね
このように
撚った糸
炎える

 「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」。この3行が象徴的だが、松尾のことばの運動は「ひとつ」ではない。複数なのである。しかも、その複数であることが「ひとり」であり、同時に「ふたり」なのだ。「主語」にとらわれない--と、言い換えることができるかもしれない。
 そこに描かれるのは「ストーリー」ではない。「場」である。「場」には複数の主語が集まってくる。それは「ひとり」のストーリーを主張し、あるときは大切な人をみつけ「ふたり」のストーリーにすることもあれば、複数のストーリーのなかにまぎれ、「ひとり」であることを放棄することもある。
 だから、同時に、いくつものことが起きる。
 「剥奪しあい贈与しあい跛行しあい蒸散しあう」--という複数のことは、実は「ひとつ」である。ある「場」で起きたこと、と言いなおすと「ひとつ」になる。
 「……しあう」ということばは、あらゆる行為が、ことばの運動が「相互作用」であることをあきらかにする。「ひとつ」のストーリーに向けた運動ではなく、ただ、そこにある「運動」。どこへも行かないことで、いま、ここから離れてしまう運動。
 「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」とは、また、「だれでもない」ということでもあるかもしれない。
 「だれでもない」瞬間、その「場」が詩になる。誰からのストーリーからも独立して、その「場」(もの)そのものが詩になる。

 ストーリーから独立していくもの--それはストーリーを破壊していくものと同じである。ストーリーに属さないもの。それが詩である。

はなれゆくものの回路をあいまいに断ちつづけ

 「ただゆるやかに夜の記録は波立つ」の、この美しい1行。
 ストーリーから離れていくものを、さらに断ち切る。ストーリーを破壊していくもの、そのことばの運動、それを「戻り道」(回路、と松尾は書いているが)を、完全に断ち切り、ストーリーを破壊するものを、完全に浮遊させる。何者にも帰属させない。
 帰属不明であるから、それはけっして覚えられない。覚えるとは、何かに帰属させること。アイデンティティーを明確にすることである。松尾は、それを拒絶している。しかも、そのストーリーを破壊し、離れて行くものは、小石のように小さくはない。むしろ、長い長い「紐」(糸)のようなものなのだ。長いものはおのずと「ストーリー」を内包するものだが、そういうストーリーを、松尾は、「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」の行にみられる「いや」「もしくは」などのことばで破壊する。その破壊は、「撚る」ということでもある。ほどかなければどうしようもないもの、こんがらがったものにする。
 そして、その「撚った糸」はこんがらがりながら、こんがらがることでストーリーになろうとするので(ストーリーとは、こんがらがることである)、松尾はさらにそれをほどくということを繰り返す。
 これではいったい何をしているのか、まったくわからない。まったくナンセンス--無意味である。その無意味、ナンセンスこそが、詩である。人間を、「意味」から解放するものである。

 ナンセンスは、たいがい短いものである。破壊されたものは断片である。そういうものは小さい(短い)というのが、この世の「相場」である。しかし、松尾は、それを長々しく展開する。そこに松尾の特徴がある。短くあるべきものが、長い。そして、長いために自然に、それを短くするものを求めもする。ようするに、循環する。ストーリーを破壊すべきものがストーリーをもち、破壊されることを望む。矛盾する。だから、覚えられない。
 どんなものでも記憶されるものは単純である。矛盾しない。あらゆる「定理」は短くて矛盾しない。--松尾は、そういものの対極に詩を築き上げるのである。

 と、書きながら、私は、次のような部分にも、非常に惹かれる。魅力を感じる。真似してみたい欲望にかられる。

吐瀉物のなかの灰色の小石
拾うことでつながる擦り傷の窓枠

 ふいにあらわれる孤立した淋しさ。長い長いことばの運動のなかにふいに出現する孤独。(他の人が読めば、また違った風に感じるかもしれないけれど。)その一瞬に、私はとても惹かれる。
 「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」--そういう文体が松尾のなかにあるのかもしれない。一つの文体ではない。複数の文体。そして、複数であることによって一つである文体。

 松尾の詩集を読みながら考えるのは、そういうことである。きょうは、そこまで考えた。
 私の感想は「日記」なので、結論はない。ただ、考えたことを考えたまま、考えたところまで書きつづける。あした、目が覚めれば、きょう考えたことは夢のなかでひっくりかえり、まったく違うことを考えはじめるかもしれない。
 --こんなふうに、乱れて長くなるのは松尾の詩を読みすぎたせいだろうか。



燭花
松尾 真由美
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(35)

2009-07-22 07:51:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

四二
のぼりとから調布の方へ
多摩川をのぼる
十年の間学問をすてた
都の附近のむさしの野や
さがみの国を
欅の樹をみながら歩いた
冬も楽しみであつた
あの樹木のまがりや
枝ぶりの美しさにみとれて

 最後の2行に西脇の頻繁に用いることばが出てくる。「まがり」。これは「曲がり」。そしてそれと同時に「枝ぶりの美しさ」について書いている。この「美しさ」は私には「淋しい」に非常に近いものに感じる。ほんとうに「淋しい」ものは「まがり」である。そして、その「まがり」があるから、枝ぶりが「美しい」のである。そたに「淋しさ」が反映しているのである。

 この詩には、地名がたくさん出てくる。最初の「のぼりと」が象徴的だが、西脇は、地名を「音」として受け止めている。「意味」ではなく、「音」。「音」が西脇を「意味」から切り離す。そして、そのとき詩が生まれる。



斜塔の迷信―詩論集
西脇 順三郎
恒文社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松尾真由美『不完全協和音』

2009-07-22 02:40:26 | 詩集
松尾真由美『不完全協和音』(思潮社、2009年06月30日発行)

 松尾真由美『不完全協和音』は2冊組の詩集である。『儚(はかな)いもののあでやかな輝度(きど)をもとめて』と『秘(ひ)めやかな共振(きょうしん)、もしくは招(まね)かれたあとの光度(こうど)が水底(みなそこ)より深(ふか)める』。長いタイトルなので、一度では覚えきれない。--この、長いので覚えられない、というのは、意外と重要な要素かもしれない。松尾の詩の要素かもしれない、と、ふと思った。
 だから、そのことから書く。
 『儚い……』の「余剰に憩うひとときの投身にて」という作品。その書き出し。

そうして
聴こえない耳の
あてどない蝶のひらめき
ひらひらと浮き上がり
躰の奥から滲みだす息にまじわる
みずみずしい地の生理をおぎなうため
禁じられた球根をにぎってみて
ここよりずっと遠いところへ
冷たいぬくもりを乞うたあとの風景が歪んでいく

 引用しながら、どこまでが一つの文なのかわからなくなる。聴こえない耳のなかに蝶がいる。蝶のために耳が聴こえない。聴こえないかわりに、その蝶が見える。耳のなかに。あ、松尾の視力は(視覚)は耳のなかにある。耳のなかに視覚が混在している。視覚が混在しているから、聴覚が聴覚として独立して働かない--それが聴こえないということの理由なのだ。
 このイメージは美しい。そして、それが耳の奥から、耳の聴こえないという闇の奥から浮き上がるとき、その浮上には「息」が関係している。肉体の奥から、必然的に滲み出す「息」、その「息」の動きにあわせて蝶は浮き上がるのだろう。
 そのときの蝶と「息」の「まじわり」。これは、どうしたって、セックスである。耳が聞こえない。けれど、視覚は、相手の「息」を「音」ではなく、肉体の起伏で知る。その起伏、そのときのリズムにあわせて蝶がふわふわと浮く。「息」の風に誘われて、蝶が誘い出されてくるのか、蝶のひらめきがあたらしい息の起伏をひきだすのか。
 そのセックスのなかで、蝶は、よりみずみずしい喜びのために、生理的欲望を補うために、禁じられたことをする。球根をにぎる。禁じられた球根なのか、禁じられていることがにぎることなのか、その区別のつかないまま。球根からのびる茎、その先に花があるとして、それはだれのもの? 球根のもの? それとも蝶のもの? 花は、たとえば百合のように内部に深い闇をかかえ、「耳」のようになっているかもしれない。そうすると、蝶は、舌をその内部にのばすだけではなく、その内部へ還っていくかもしれない。耳のなかに、蝶。そして、聴こえないという現実。
 私は、どこへ来たのか、わからない。わかるのは、

ここよりずっと遠いところ

 「そうして/聴こえない耳の」ということばではじまった運動は、その最初の「ここ」より「ずっと遠いところ」まで来てしまっている。
 こういうことが起きるのは、松尾のことばが、一度では覚えられない長さの呼吸を生きているからである。一度で覚えられないから、少し進んでは、またもどる。戻っては、また進む。そのなかに重複するものが出てきて、その重複が、たがいにもとの形を歪めあう。
 想像力を、ものを歪める力と定義したのはバシュラールだが、この歪める力というのは、またものを持続する力でもある。持続するから歪みが生まれる。持続しないと、歪みにならずに、一瞬の輝きとなって砕け散り、なにも残らない。
 そうして、たがいに歪めあう運動のなかに、たとえば私は、いまセックスの瞬間を想像したのだが、この想像自体も、松尾のことばの運動を歪めているかもしれない。松尾は、ほんとうはまったく別のことを書いているかもしれない。
 わからないのだが、わからないまま、その覚えきれないことばの動きをただ追いかける。行ったり来たりしながら追いかける。そのたびに、ことばにならないものが増えてくる。松尾のことばが増えれば増えるほど、読んでいる私の内部では、ことばにならないものが増えてくる。
 私が引用した松尾の詩は9行だけなのに、私は、そのことばをはるかに上回る数のことばを書いている。そして、上回る数のことばを書けば書くほど、

ここよりずっと遠いところ(へ)

が、くっきりと見えてくる。「ここ」ではなく、「ここより遠いところ」へ向けて、ことばが動いていくのだということが見えてくる。蝶の形をとったり、耳の形をとったり、球根の形をとったりしながら……。
 どこまで動いていくのか。それはわからない。繰り出されることばを覚えきれない--その過去がそんなふうにしてだんだん怪しくなっていくのと同じようにして、未来もだんだん怪しくなっていく。すべてが怪しくなっていくにもかかわらず、その瞬間瞬間の1行ずつは明確で、それが明確であるために、なぜそんなにまで不必要に(?)明確になることで、過去や未来を攪乱するのかよけいにわからなくなり……。

 詩のつづきを少し引用する。

もてあました喘ぎのような一瞬の脈にからまり
濃密な風または酷薄な凪にかたまり

 「または」って何? 「濃密な風」と「酷薄な凪」は正反対のものではないのか。なぜ、それが「または」でつながるのか。同列に並ぶのか。すべてが、同等なのである。「ここ」も「ここよりずっと遠いところ」も同等なのである。同等であるけれど、違いがある。違いがわかる。--この矛盾。矛盾のために、ことばの運動が覚えられない。ひとつのところをめざしているわけではなく、つねに「ここ」と「ここより遠く」という二つの「場」をめざしているからである。
 こういう運動は、わからない。つまり、おぼえることはできない。つねに引き裂かれ、つねに互いを呼び合っている。その矛盾のなかで、それまで固まっていた自分自身の(読者自身の)ことばをときほぐす--そのきっかけが詩なのだ。

 覚えなくてもいいのが、詩なのである。

 逆なのだ。何が書いてあったのか、忘れてしまうのが詩なのだ。ことばが、それまで何としっかり結びついていたのかを忘れてしまって、新しい何かとかってに結びついて動く--その瞬間が詩なのだ。新しい何かと結びつくためには、それまでのことばを忘れなくてはならない。
 覚えてしまっては、だめなのだ。
 「儚いものの、なんだっけ」とか、「あでやかな、なんとかかんとか」「輝度、だったっけ?」とぽつんぽつんと思い出し、そのことばを勝手に動かして、松尾が見なかったものを見てしまう--それが詩である。

 私は「誤読」を気にしない。松尾が何を書こうとしていたかなど、気にしない。聴こえない耳、蝶、球根、息のまじわりから私はセックスを思い描いた。それが松尾の描きたかったものかどうかなど、気にしないのだ。松尾の意図がどうであれ、ひとつひとつとりあげればセックスとは関係ないことばから、私は、セックスを感じた。セックスの響きを感じた。そして、私は、松尾の書いた1行を覚えることはできない、暗唱することはできないけれど、「あ、あのセックスの詩」という具合に、この作品を記憶する。
 それが、詩。
 思い出せなくてもいい。ほんとうにもう一度読みたければ詩集を開く。そのために詩集がある。覚えてしまうなら詩集はいらない。



不完全協和音―consonanza imperfetto
松尾 真由美
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(34)

2009-07-21 02:08:02 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

四〇
窓口にたふれるやうに曲つた幹を
さしのばす花咲くさるすべりの樹に
何者か穴をうがつ
何事をかなす

 「さしのばす花咲くさるすべりの樹に」という「さ行」「は行(ば行)」の動きがとてもおもしろい。
 「何者か穴をうがつ/何事をかなす」には「な行」と「か行(が行)」のおもしろさがある。
 何の根拠もなく書くのだが、西脇の音の響きは、古今・新古今というよりも万葉に近い。私にはそう感じられる。「意味」があって、それにあわせて響きを選ぶのではなく、まず音そのものがある。
 「意味」はいらない。

四一
高等師範の先生と一緒に
こまの山へ遊山に行つた
街道の鍛冶屋の庭先に
ほこりにまみれた梅もどき
その実を二三摘みとつて
喰べた
「子供のときによくたべた」
といつて無口の先生が初めて
その日しやべつた

 西脇が「曲がった」ものが好きである。同じように「もどき」も好きである。それは逸脱していくもの、と言い換えることができるかもしれない。
 この詩では、私は最後の行がとても気に入っている。「口をきいた」でも「話した」でもなく「しやべつた」。この口語の響きがとても気持ちがいい。俗な響きが、あたたかい。

 「無口の先生」の「の」に西脇のことばの好みも出ている。「な」だとことばが軽くなる。深みがなくなる。

斜塔の迷信―詩論集
西脇 順三郎
恒文社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリヴィエ・アサイヤス監督「夏時間の庭」(★★★★★)

2009-07-21 00:50:32 | 映画

監督 オリヴィエ・アサイヤス 出演 ジュリエット・ビノシュ、シャルル・ベルリング、ジェレミー・レニエ、エディット・スコブ、ドミニク・レイモン、ヴァレリー・ボヌトン

 ラストシーンがとても美しい。
 映画は、母親が残した膨大な美術品と郊外の家をという遺産を、子供たち3人(仲がいいわけではない)が、どう引き継ぐかというきわめて現実的な話である。そのままの形で保存したい気持ちもあるが、相続税がたいへんである。3人の内2人はフランスに帰ってくるつもりもない。経済的にも金が必要なので売却したい……。
 ラストシーンは、ストーリーそのものとは、無関係のようにも見える。孫のひとりが、売られる前の家に仲間を集めてパーティーを開く。子供たちは、その家の価値、その家と、その周辺の自然で何があったかなど、まったく知らない。それまでの夏休みとはまったく違った時間、ロックをがんがん鳴らし青春を発散する若者たちの時間--そのなかで、孫の少女が、ふっと涙を流す。おばあちゃんの大好きだった場所へきて、あ、ここでこんなふうに思うのはこれが最後だ、と気がつく。失ったものにふいに気がつくのである。そこでセンチメンタにふけると映画はつまらない。少女は、その一瞬の感情をふりきり、少年とふたりで塀を越えて「秘密」の場所へ行く。「秘密の園」へ行く。
 あ、いいなあ。
 すべては「秘密」なのだ。母が残した膨大な美術品。そこには「秘密」がある。彼女と画家の「秘密」が。そのことは、この映画では声高には語られない。母親に「秘密」があったように、子供たち3人にもそれぞれ「秘密」がある。孫たちにも「秘密」がある。そして、その家の家政婦にも「秘密」がある。この映画には描かれていないが、そこに登場するアールヌーボーの家具や絵それぞれにもきっと「秘密」がある。
 「秘密」が人生を豊かにする。
 人々があつまり、同じ時間を過ごす--というのは、同時に人間のかかえている「秘密」も集まってきて、同じ時間を過ごすということである。そして、そういう「秘密」はことばでは語られない。明確なことばにはしない。だれも「私にはこういう秘密がある」とは言わない。もし、語るにしても、全員を相手に語るのではなく、集まった人のなかから特定の人を選んで語る。その「秘密」を、たとえば、そのとき人々が取り囲んだテーブルや、絵や、花瓶や、自然の光が「共有」する。そして、私たちが、ひっそりと語られた「秘密」を思い出すことがあるとすれば、それは語られたことばそのものよりも、そのときいっしょにあったテーブル、花、絵を思い出しながら、それを再現する。ここにすわって、このテーブルにひじをつき、このグラスでワインをのみながら……。
 ことばでは語られなかった何か、「秘密」を共有したときの「時間」が、そういうものたちのなかにある。
 ものが、テーブルが、花瓶が、絵が、窓から見える風景や、庭の光が、もう自分のものではなくなったとき、それは「秘密」そのものが自分のものではなくなったということである。そして、それは、単に「秘密」をなくすというよりも、人生そのものを、人生の充実した時間そのものを手放すことなのである。
 --こういうことを、ことばで説明するのは、面倒である。もともと「秘密」自体、ことばで語られていないのだから、それを共有するということをことばで説明するのは、野暮なことである。
 映画は、そういう野暮なことはせず、たいへん巧みに人生を描いていく。語られないの「秘密」は語らない。そのかわり、「秘密」が、どんなふうにして壊れ、忘れ去られていくか、そのときの「現実」をていねいに描く。「秘密」の管理(?)をまかされた長男の描写にそれがとてもよくあらわれている。
 たとえば、遺産相続問題を話しあうために弁護士のことろへ行く。その直前。車をとめる場所がない。急に路線を変えたりする。すると、後ろの車が怒る。怒られて長男は怒鳴り返す。ストーリーにはまったく関係がない。ハリウッドの映画なら、こういうシーンはないかもしれない。そのシーンがおもしろいのは、「秘密」と無関係だからである。「秘密」と無関係なものが、「秘密」を壊していく。そういう時間が、母が死んだあと、徐々に増えてくるのである。その象徴的なシーンである。
 そして、母の「秘密」、母とともにあった「秘密」が徐々に壊れていくのに反比例するように、娘の「秘密」が浮かび上がってくる。娘の問題行動が明るみに出れば出るほど、なつかしい「秘密」が壊れていくのである。母と過ごした「時間」が、とてもなつかしく思えてくるのである。
 なつかしい、とは、長男は具体的には言わないが、かわりにオルセー美術館で、「遺品」と対面する。暮らしから切り離され、鑑賞者からも見向きもされない。なぜ、鑑賞者はそれを見向きもしないのか。「秘密」を知らないからだ。それが、どこにあって、どんな会話を聞いてき方を知らないからだ。「秘密」と、他人によっても破壊されていくのである。ただ長男だけが、その美術品が、テーブルが、花瓶が過ごしてきた「時間」、その「時間」のなかにある「秘密」を知っている。そして、あ、こんなふうにして、美術品は「秘密」と無関係な「もの」になっていくのだと、淋しく思うのだ。
 そのとき、フラッシュバックのように、ほんの少しだけしか描かれなかったけれど、母と子供たちの、「思い出」がリアルにスクリーンによみがえる。母の家での食事、お喋り、そのときの花、空気、光、そういうものが、スクリーンにふわーっとあらわれる。

 これは、フランスでしかありえないような、傑作である。たいへん美しい映画である。



 ジュリエット・ビノシュは、この映画では、私が唯一名前の知っている役者である。ほかの役者は見たことがあるかもしれないが、知らない。そのジュリエット・ビノシュだが、やはりうまい。母が死んだあと、死んだということを思い出すシーン。何もいわず、表情だけが変わっていく。見とれてしまった。他のシーンでも、自己主張せず(?)、全体のなかに溶け込んで行く。なぜ、金髪に染めて出ているのかよくわからないが……。

 長男の娘が、父親の質問に、すべて「ちょっとね(un peu)」と応えているのもおもしろかった。若者ことばは、世界同時発生(?)という感じがする。


ダメージ [DVD]

紀伊國屋書店

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(33)

2009-07-20 07:28:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

 西脇の詩でこころを動かされるのは音楽と「自然」である。西脇の書く自然、木々や草が私にはとてもなつかいし。

三九
九月の始め
街道の岩片(かけ)から
青いどんぐりのさがる

 この「青いどんぐり」。まだ完成されないもの(熟成しないもの)に目を止めて、それをいつくしむ視線が私はとても好きだ。曲がった枝やなにかに対する視線も、そだっていく力に対する畏怖の念のようなものが根底にあるように私には感じられる。
 「青いどんぐり」の「青い」ということばも好きである。この青はもちろんブルーではない。グリーン、みどり。みどりを「青い」と呼ぶときの、深い感覚。ことばのなかにある、深い意識--深い意識とつながっている感じが、とてもいい。
 この詩は「青いどんぐり」だからこそ、以下の連が成立する。「みどりのどんぐり」だと、次の連の、人と人をつなぐ深い意識、積み上げてきた「思い」のようなものが浮いてしまう。「青い」どんぐりの「青い」につながる、深い部分の意識が、ふるびた口語のなかに生きている。

窓の淋しき
なかから人の声がする
人間の話す音の淋しき
「だんな このたびは 金比羅詣り
に出かけるてえことだが
これはつまんねーものだがせんべつだ
とってくんねー」

 旅に出る人への餞別--というものが、いまもあるかどうかわからないが、私が子供の頃はそういう風習がまだ生きていた。そして、実際に、西脇が書いているような調子で語る。語りながら餞別を渡す。
 それはつまらない風習かもしれない。けれど、その奥に生きているなにかがある。人と人との深いつながりがある。そういうものが「淋しい」と呼ばれる美しさである。
 西脇は、ただ、そういうものを「意味」にすることは嫌いである。
 それで、「意味」を拒絶して、「音」にしてしまう。「人間の話す音の淋しき」。ここでの「淋しき」は「美しい」と少しもかわらない。

 この「淋しさ」と「美しさ」の関係を、西脇は、次の連で書き換える。この3連目は、「せんべつだ/とってくんねー」と言った人への、返礼である。

「もはや詩が書けない
詩のないところに詩がある
うつつの断片のみ詩となる
うつつは淋しい
淋しく感ずるが故に我あり
淋しみは存在の根本
淋しみは美の本願なり
美は永劫の象徴」

 ふたりの対話は、対話として成立しない。断絶がある。その「断絶」は「淋しい」。けれど、そういう「断絶」を明るみに出す「音」が存在するというのは、とても「美しい」。
 「断絶」という意識は、その奥で「連続」という意識を呼び覚ます。つながるべきものがつながらず「断絶」する。その断面に動いていることば、その音。「意味」に還元せずに、「音」のまま、放り出す。その瞬間に

 詩

 がくっきりと浮かびあがる。
 「詩のないところに詩がある」は「意味のないところに詩がある」と同義である。「意味がない」とは「断片」のまま、連続(接続)を拒絶しているということである。連続していないから、孤独。孤独だから淋しい。そして、その不連続を意識するところに「美」がある。

 「美」は不連続の存在である。




北原白秋詩集 (青春の詩集/日本篇 (14))
北原 白秋,西脇 順三郎
白凰社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩佐なを「黙礼」

2009-07-20 02:24:32 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「黙礼」(「孔雀船」74、2009年07月15日発行)

 詩を読んでいるとき、私は「意味」を考えていない。私は、私の知らないところからふいにあらわれてくることばを待っている。驚きの一瞬を待っている。
 岩佐なを「黙礼」は、とても「ひくい」ことばではじまる。思わず身を正さずにはいられない「(質の)高い」ことばではなく、あまり注意を傾けなくても、なんとなく読んでしまえることばからはじまる。

一月にその街を歩いた
街と呼べるのかヒトがいなかった
運河が道路より
ほんのちょっと(これくらい)下に流れていて

 そして、その「ひくい」ことばを(これくらい)というふいの挿入によってさらに「ひくい」ものにする。ことばを読んでいるというより、なにか、ある日のできごとをぼんやりと聞かされている感じになる。(これくらい)にともなう肉体の動きもふと目に浮かび(私は岩佐には会ったことがないけれど……)、ことばではなく、その肉体の方へ少し引きずり込まれたような気持ちになる。
 これは、おもしろい、と私は思う。
 「意味」ではなく、「意味」になるまえの、ことばのうごめきがある。話し方、ことばの動かし方、しかもそこに肉体が絡んできて、それから先は、はっきり言って、私は「ことば」を読んでいない。
 岩佐の口調、ことばのリズム、そのうさんくさい(?)ものを楽しんでいる。(うさんくさい、は、私にとってはほめことば、です。)
 岩佐のことばは、なにか「意味」を裏切っている。いま、ここにある「意味」、流通している「意味」を裏切って、そういうことばでは伝えられないものを「口調」のなかにあふれさせている。
 意味を裏切る、意味をこばむ、そして意味以外のものを伝えようとすることばは「うさんくさい」。私をどこへ連れて行くかわからない。この、一種の不安な感じ、えっ、どこへ連れて行かれるの? というわからなさが、たぶん詩なのである。
 どこへ行くかわかっているとき、そこには詩はあらわれない。

一月にその街を歩いた
街と呼べるのかヒトがいなかった
運河が道路より
ほんのちょっと(これくらい)下に流れていて
流れなくて淀んでいるだけ
だったかもしれずただ
まっぱだかのキューピーさんが浮いていた
(しっかりして下さいっ)

 変でしょ? だれもいない街。運河。そこにキューピーが浮いている。ヒトに呼びかけるように「しっかりして下さいっ」とほんとうに言ったの? それとも、ここで、こんなふうに驚かすと、読者(聴き手)が、ぐいっとさらに接近してくると思って、そう書いただけ? 
 ようするに、トリック? (話術、という言い方もあるけれど。)
 なんでもいい、と私は思う。
 ここには、ほんとうに「意味」はない。ただ、人を(読者を)ひきずりまわすことばの動きがあるだけである。読者をひきずりまわす、というのは、岩佐自身をもひきずりまわすということでもあるのだが、まあ、いっしょになって、どこか知らないことばの動きを追っていみているだけなのだ。ことばは、どこまで動いていくことができるか。それを、こんなふうにして動かして、楽しんでいる。
 そして、だんだん、描写がリアルになってくる。リアルな感じがあふれてくる。岩佐が「一月にその街を歩いた」というのがほんとうかどうかは問題ではなく、つまり、岩佐の体験・経験とは無関係に「街」そのものがリアルに見えてくる。
 というより、やっぱり、岩佐の体温になじんだ「街」、その「街」を歩く岩佐の肉体がリアルになってくるということかな?
 「街」と岩佐の「肉体」の区別がなくなる--ということかもしれない。
 ここまで、書くと、ほら、うさんくささが何かがわかるでしょ? うさんくさいというのは、あることがらが、ある人の体温にあたためられて、それ自体の匂いではなく、岩佐の体温を発しているということ。「街」の匂いを嗅いだつもりが、岩佐の匂いを嗅いでいる。人間の匂いって、臭いでしょ?(ごめんなさいね、岩佐さん。)

 で、匂いが、どんどん強烈になってきます。うさんくさいを通り越して、あ、臭い--という感じ。
 詩のつづき。

夏に雨嵐がくると道路まで
水路になり水が引いたあとは
消毒薬臭の街に変わるに違いない

 おーい、どうして「夏嵐」なんだよ。「一月にその街を歩いた」のじゃなかったのかい。なんて、ちゃちゃを入れるまもなく、どんどん臭さは暴走していく。増幅して行く。もう、臭いということも忘れてしまう。そして、嗅覚がなじんでしまうと、嗅覚に刺戟された視覚が、またまた変なものを見つけ出してくる。

いぢいぢと生きる虫メらは
水か消毒薬で殺られるだろう
そのかたわらを赤目の鼠が
忍びの者ふうな速足で走るだろう
鼠たちは白茶けた細い紐を咥え
これはヒトが心ぼそくなった折に
心からひりだす細くちぢれた紐

 あ、いいなあ、なんだかわからないけれど、「街」と「肉体」と「心」が融合して(こんがらがって?)、とっても変。
 「ヒトが心ぼそくなった折に/心からひりだす細くちぢれた紐」なんて、あるかどうかわからない。言い換えると、これは、ことばでしかありえない何かである。
 これが詩。

 びっくりするなあ。何がなんだか、わからないけれど、この「紐」の部分が強烈だ。もう、あとは、どうでもいい。岩佐さん、またまた、ごめんなさい。でも、この「紐」があるから、この作品は詩になっている。紐に「意味」をつけくわえたいひとはかってにつけくわえればいい。私は「意味」をつけくわえず、どんな説明もなしに、この紐がいい、紐にびっくりした、紐にうれしくなった、と書く。

 このあとも、さらに変になる。

これはヒトが心ぼそくなった折に
心からひりだす細くちぢれた紐
そうしたものを口で引きずって
地下まで報せに走る秘密のオネズがいる
街を来年の一月に歩いた
さらいねんも

 「来年の一月」は未来。その未来に「歩いた」という過去形はあわない。学校文法なら、間違っている。この間違っている、ということ、「意味」を超越するということが、詩なのである。だから、これはこれでいいのだ。
 間違うことで、いっそううさんくさくなっていくのである。詩になっていくのである。



岩佐なを 銅版画蔵書票集―エクスリブリスの詩情 1981‐2005
岩佐 なを
美術出版社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(32)

2009-07-19 07:48:05 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

三五
青いどんぐりの先が
少し銅色になりかけた
やるせない思ひに迷ふ

 西脇の目は、自然の変化を、それも完全になる前の変化を鋭くとらえる。完全に色付いたどんぐりではなく、すこし色のかわったどんぐり。そこには「かわる」ということへの熱い思いがある。「かわる」のは「いのち」が動くから「かわる」のだ。「かわる」ことのなかには、「いのち」の根源につながるものがある。それが「淋しさ」。

三八
窓に欅の枯葉が溜る頃
旅に出て
路ばたのいらくさの咲く頃
帰つて来た
かみそりが錆びてゐた

 「かわる」のは有機物だけではない。鉱物もかわる。剃刀は錆びる。その変化のなかにも、西脇は「いのち」をみている。



北原白秋詩集 (青春の詩集/日本篇 (14))
北原 白秋,西脇 順三郎
白凰社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林嗣夫「方法」(2)

2009-07-19 00:54:41 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「方法」(2)(「兆」142 、2009年05月01日発行)

 きのうの「日記」で私は私の感想をきちんと書けたのだろうか。思っていることをきちんと書ける--ということはほとんとないけれど、今回の場合、特に、その心残りのようなものが重くのしかかってくる。

修辞にいらだつときは
こっそりその場を抜け出して
抜け出して
しかし 別に行くところもない
行くところもないということを
軽く
口ずさんでみてはどうか

 これも「修辞」といえば「修辞」になるのだろう。
 この部分が気になるのは、そこに書かれていることが、たとえば最終連の、

風がやわらかく包もうとしているものを
そのまま
わたしだと言ってみる方法もある

 とは違うからだ。
 最終連は、ウグイスの「ホーホケホケ」でも何でもいいのだが、「わたし」ははっきり「わたし」ではないものである。
 ところが2連目では、「口ずさんでみ」たものは、「わたし」なのか、「わたし」ではないのか、よくわからない。
 こそっそり場を抜け出して、そのことを「抜け出して」と口に出してみる。「別に行くところもない」と思い、その思いを「行くところもない」と口に出してみる。「わたし」の行為、「思い」をそのまま、ことばにしてみる。なぞってみる。そのとき、「わたし」は「わたし」のあり方を確認しているのだろうか。
 それとも、「ことば」そのものになっているのだろうか。

 林の夢(欲望?)は、あるいは「本能」は、「ことば」そのものになることを求めている。ことばが描き出すものが「真実」であるかどうかではない。つまり、「ことば」で真実を書き表したいということではない。もちろん、真実を書き表せればそれはそれにこしたことはないが、真実でなくてもいいのだ。もし、「ことば」そのものになれるなら。

 私の感想は、たぶん、多くの補足を必要とする。もっとていねいに書かないと、何を書いているかわからないだろうと思う。--そう、思うけれど、実は、どう書いていいかわからない。

 林の書きたいものは「真実」ではない--というとき、私が思い描いている「真実」とは、たとえばプラトンだとかカントだとか、哲学者の完成された「ことば」のことである。現実をことばで分析し、いままでのことばでは見えなかった隠れた事実--現実を動かしている力を明るみにだす--そうやって明るみに出されたものを「真実」だと定義すれば、林の求めていることばは、そういう「真実」とは無関係なことばである、という意味である。
 人間の存在そのものにかかわり、人間を、いまある状態から、もっと高みへ育てていくことば、その「修辞」、「修辞的事実」、そういう「真実」とは違うものを、林のことばは求めている。そういうことばとは違ったことばになろうとしている。

 「修辞に疲れたときは」というのは、単になにかを「美しく(?)」語ることに疲れたらというのではないと思うのだ。プラトンやカントや、その他だれでもいいのだけれど、なにか「真実」を語ろうとする「強いことば」に疲れたらという意味なのではないのか。そういうものを「ことば」で語ろうとするのではなく、もっと違う『真実』(区別するために、『 』でくくってみた)を語りたいのではないのか。もっと違う『真実』を語ることばになりたいのではないのだろうか。
 「強いことば」で語る「真実」とは違うもの、「弱いことば」で語る『真実』。
 なにか、そういうものを求めていると感じる。

 「真実」を「わたし」と言い換えてみる。
 林の求めているのは「強いことば」で語る「わたし」ではない。「弱いことば」で語る『わたし』なのだ。それは「強いわたし」ではなく、『弱いわたし』。
 私たちの「肉体」のなかには、「強いわたし」もいれば、『弱いわたし』もいる。「強いことば」があふれているとき、『弱いわたし』はどこかに欠落している。それを、すくいだしたい。ことばで、ちきんと定着させたい。そういう『弱いわたし』のための「ことば」そのものになりたい。
 その方法として、

こっそりその場を抜け出して
抜け出して
しかし 別に行くところもない
行くところもないということを
軽く
口ずさんでみてはどうか

 という方法がある。
 それはどこかで、最終連の、「ホーホケホケ」に「なる」(それをわたしだと言ってみる)という方法につながるのだろうけれど、その、一種の「俳句的境地」にたどりつくまえの、2連目の、不思議に「弱いことば」に私はこころを動かされるのである。
 どうしようもない(?)人間のあり方が、ていねいに、正直に描かれていると感じる。だから、何度も何度も読んでしまう。何度も何度も考えてしまう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(31)

2009-07-18 07:43:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

三三
櫟(くぬぎ)のまがり立つ
うす雲の走る日
野辺を歩くみつごとに
女の足袋の淋しさ

 この詩にも濁音の美しさ、「くぬぎ」「うすくも」という音の響きあいの美しさがある。「櫟のまがり立つ」の「の」、「うす雲の」の「の」、「女の足袋の」の「の」の繰り返しの音楽がある。
 また、もうひとつ、非常に特徴的なことがある。

野辺を歩くみつごとに

 の「みつごと」。これは「密事」であろう。ふつうは「みつじ」というと思う。けれど西脇は「みつごと」という。西脇は漢字を「常識」にしたがって読まない。「音」を重視して読み替える。「音楽」にしてしまう。
 「みつじ」では「くぬぎ」「まがり」「うす雲(ぐも)」と響きあわない。「みつごと」と読んでこそ、その「ご」が「ぎ」「が」「ぐ」というが行の濁音と響きあうのだ。

 この詩は、「音」だけでなく、イメージとしても西脇の嗜好をよくあらわしている。
 西脇には、「まがり(る)」というまっすぐではないものへの嗜好もある。西脇にとっては「まがる」は「淋しさ」の根拠のひとつである。たぶん、「まがる」というのは矯正されていないもの、自然なものという意識が西脇にはあるのだと思う。
 その一方、「女の足袋」にも「淋しさ」を西脇は感じている。なぜ、女の足袋が淋しいのか。「みつごと」(「むつごと」にも通じる)のときも、女は足袋を履くという「暮らし」を(習慣を)守っている。その習慣は、たぶん、女にとっては「いのち」なのだ。身だしなみを整えるというのは、女の「いのち」のありかたである。そういう根源的な「いのち」のありかたが「淋しい」と呼ばれるものである。
 「まがる」というのも、木やその他のものの「いのち」の根源的なあり方である。だから「淋しい」。

三四
思ひはふるへる
秋の野
都に居る人々に
思ひは走る
うどの花が咲いてゐた
都の人々はこの花を知らず

 「都の人々」が知らないもの、そういう「いのち」のあり方、それもまた「淋しい」。人の手のはいっていない「自然」。そこには「いのち」が根源的な形で存在する。だから「淋しい」。
 その視点から見ると、「女の足袋」は少し変わっているかもしれない。「足袋」は文化である。人の手によってつくられたものである。
 けれど。
 たぶん、西脇は、「女の足袋」を人の手によってつくられた文化とは見ない。「女」の本性が滲み出た「自然」だと感じる。だから「淋しい」。
 どんなときにはあらわれてしまう「いのち」の「本能」の美しさが「淋しさ」なのだと思う。


評伝 西脇順三郎
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする