松尾真由美『不完全協和音』(4)(思潮社、2009年06月30日発行)
ことばを増殖させる運動。入沢康夫の「旅するわたし--四谷シモン展に寄せて」と向き合った「旅の記憶、もしくは越境の硬度について」という作品で、松尾は、河津の作品と向き合ったのとはまた違ったことばをひきだしている。
「おそらく」「まして」「なお」……。
「おそらく」がもっとも重要であると私には思える。「おそらく」というとき、松尾は、入沢の書いていることばからなにかを確信したわけではない。また、「かすかな衝撃が私を穿っていた」ということを確信しているわけではない。「おそらく」ということばをつかえば、入沢のことばが書いている「いま」「ここ」ではないどこかへ動いていけるということを確信しているだけなのだ。
ほんとうに確信していることがあるなら「おそらく」は不要である。事実に基づいて推論するなら「おそらく」は不要である。
「おそらく」ということばをつかうとき、松尾は、松尾自身の想像力を励ましているのである。それは想像力を、ことばを増殖させるための飛躍台なのだ。「おそらく」によって、「いま」「ここ」を離れ、想像力のなかに突き進み、そのなかで、「まして」と増殖を重ねる。「まして」は「況して」だが、そこには「増して」の意味が含まれる。それに「なお」をさらに重ねる。そのとき、ことばはどこを動いているか。
「いま」「ここ」ではない。入沢の書いた「いま」「ここ」でもなければ、松尾自身の「いま」「ここ」でもない。ふたりが出会うことで生じた「いま」「ここ」という一期一会の世界でもない。そういうところから離れた場、そういう関係を超越した場を動いていく。
「なお」はそういう場で登場する。
「なお、先へと進んでいきたい」--これは、入沢の欲望でもなければ、松尾の欲望でもない。ふたりが出会うことで、出会うことになった、ことばそのものの欲望である。松尾は、そのことばの欲望に、松尾自身の肉体と想像力を提供している。
これは正確には、「視えないものを視てみたい。出会えないものに出会いたい。触れられないものに触れてみたい。」だろう。不可能性。不可能を欲望するという矛盾。
こういうことを書き進めるために、松尾は、もうひとつ別のことばを利用する。「いわば」である。
「眼」は「ことば」と書き換えることができる。(私は、「おそらく」とは言わない。)松尾の想像力の旅、「いま」「ここ」から超越する旅は、その運動する「ことば」だけがきらめく。このとき「ことばだけ」というのは、「意味ではなく」ということである。「意味」がきらめくのではない。「意味」など、存在しない。ことばの「運動」、ことばは「動くことができる」ということだけが、可能性としてきらめくのである。その「運動」の裏、軌跡と言い換えてもいいが、そこには「流れゆくものを流れゆくものとして、去ってゆくものを去ってゆくものとして」、つまり、これから先には何の関係もなく、ちらちらと輝きのまま残される。
「眼裏に残されて………。」と、末尾のことばをあいまいに濁しているのは、こういう運動は、つきつめること、つまり述語を正確にすることとは相いれないからである。
このことを、松尾は、次のように言いなおしている。
「主語」「述語」は無意味になる。重要なのは、「感触」であり、その感触をとおして、すべてのものが、つまり、
の「複数」(そこにはもちろん、「ひとり」と「ふたり」も含まれる)が混合するのである。混沌、無、何にでもなることができる可能性の「場」。そういう世界が出現する。その混沌、カオス、無の「場」まで、ことばは動いていく。動いていくことを激しく欲望する。
ことばを増殖させる運動。入沢康夫の「旅するわたし--四谷シモン展に寄せて」と向き合った「旅の記憶、もしくは越境の硬度について」という作品で、松尾は、河津の作品と向き合ったのとはまた違ったことばをひきだしている。
「おそらく」「まして」「なお」……。
記憶? おそらくはかすかな衝撃が私を穿っていたのだ。
「おそらく」がもっとも重要であると私には思える。「おそらく」というとき、松尾は、入沢の書いていることばからなにかを確信したわけではない。また、「かすかな衝撃が私を穿っていた」ということを確信しているわけではない。「おそらく」ということばをつかえば、入沢のことばが書いている「いま」「ここ」ではないどこかへ動いていけるということを確信しているだけなのだ。
ほんとうに確信していることがあるなら「おそらく」は不要である。事実に基づいて推論するなら「おそらく」は不要である。
「おそらく」ということばをつかうとき、松尾は、松尾自身の想像力を励ましているのである。それは想像力を、ことばを増殖させるための飛躍台なのだ。「おそらく」によって、「いま」「ここ」を離れ、想像力のなかに突き進み、そのなかで、「まして」と増殖を重ねる。「まして」は「況して」だが、そこには「増して」の意味が含まれる。それに「なお」をさらに重ねる。そのとき、ことばはどこを動いているか。
「いま」「ここ」ではない。入沢の書いた「いま」「ここ」でもなければ、松尾自身の「いま」「ここ」でもない。ふたりが出会うことで生じた「いま」「ここ」という一期一会の世界でもない。そういうところから離れた場、そういう関係を超越した場を動いていく。
「なお」はそういう場で登場する。
だが、どこでもない場所ゆえに、どことなくその装置はずれてゆき、天地さえ漂流していて、どこへ行くのか分からない場の混沌を楽しんでいるのか、それとも、この混沌に現実の苦悩が隠されているのか、ひどく曖昧なまま、いくえにも意味をかさね、様式化したごとくの詩形式をかためていって、そこから、茫漠とした世界がひろがり、なお、先へと進んでいきたい。
「なお、先へと進んでいきたい」--これは、入沢の欲望でもなければ、松尾の欲望でもない。ふたりが出会うことで、出会うことになった、ことばそのものの欲望である。松尾は、そのことばの欲望に、松尾自身の肉体と想像力を提供している。
なお、先へと進んでいきたい。視えないものを視てみたい。出会いたい。触れてみたい。
これは正確には、「視えないものを視てみたい。出会えないものに出会いたい。触れられないものに触れてみたい。」だろう。不可能性。不可能を欲望するという矛盾。
こういうことを書き進めるために、松尾は、もうひとつ別のことばを利用する。「いわば」である。
いつまでも希求の旅をつづけ、時間も空間も溶けた逡巡のたおやかな渦のなかで、夢やまぼろしに追いすがる眼差しだけがきらめく。いわば、流れゆくものを流れゆくものとして、去ってゆくものを去ってゆくものとして、いくつもの事象が聖火のごとく眼裏に残されて…………。
「眼」は「ことば」と書き換えることができる。(私は、「おそらく」とは言わない。)松尾の想像力の旅、「いま」「ここ」から超越する旅は、その運動する「ことば」だけがきらめく。このとき「ことばだけ」というのは、「意味ではなく」ということである。「意味」がきらめくのではない。「意味」など、存在しない。ことばの「運動」、ことばは「動くことができる」ということだけが、可能性としてきらめくのである。その「運動」の裏、軌跡と言い換えてもいいが、そこには「流れゆくものを流れゆくものとして、去ってゆくものを去ってゆくものとして」、つまり、これから先には何の関係もなく、ちらちらと輝きのまま残される。
「眼裏に残されて………。」と、末尾のことばをあいまいに濁しているのは、こういう運動は、つきつめること、つまり述語を正確にすることとは相いれないからである。
このことを、松尾は、次のように言いなおしている。
主語も述語も不案内なこの旅の、ひりひりとやわらかい感触が私を覆って、さまざまな生きものたちの性別が混合される。
「主語」「述語」は無意味になる。重要なのは、「感触」であり、その感触をとおして、すべてのものが、つまり、
ふたりで
いやひとりで
もしくは複数の
の「複数」(そこにはもちろん、「ひとり」と「ふたり」も含まれる)が混合するのである。混沌、無、何にでもなることができる可能性の「場」。そういう世界が出現する。その混沌、カオス、無の「場」まで、ことばは動いていく。動いていくことを激しく欲望する。
不完全協和音―consonanza imperfetto松尾 真由美思潮社このアイテムの詳細を見る |