詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

沖田修一監督「南極料理人」(★★★★)

2009-08-23 16:47:51 | 映画


監督・脚本 沖田修一 出演 堺雅人、生瀬勝久、きたろう、高良健

 最近、日本の映画には傑作が多い。題材をていねいに描き、細部に人間性を塗り込めるからだろう。人間があたたかい。そのあたたかさが、とてもいい。
 「南極料理人」は、南極の、昭和基地よりももっと奥部(?)の基地での8人の日常を描いている。観測の仕事は仕事としてあるのだが、その紹介は少し。もっぱら、日常を描いている。それも、タイトルからわかるように、食べることを中心にして話が進む。
 そして、この映画は、その料理がとてもうまそうである。食べることが、そこに生活している8人を「家族」にするのだ。同じものを食べる。そのことが人間を家族にする。そして、その一緒に食べるものがうまければ、その家族は、こころが通い合う。たとえけんかしても、こころが通い合う。
 なかには伊勢海老のエビフライというものまで登場する。これは、うまそうではない。前の南極観測隊が残して行った伊勢海老を見つけ、それを料理することになったのだが、ひとりが「伊勢海老といえばエビフライ」と口走ったために、そんなものになったのだ。料理人は他の料理を提案するが、「みんなの気持ちはエビフライになってしまっているからね」と隊長に念押しされてしまう。「伊勢海老は、やっぱり刺身だよなあ」などといいながら、うまくないなあ、としぶしぶ食べるのだが、それもこれも忘れられない思い出になる。同じものを、同じ気持ちで食べた--ということろに、「家族」の一番大事なものがある。「同じ気持ち」。
 これが、最後の最後に、「おいしい」思い出として登場する。
 ラーメン。隊員のなかにラーメン狂いの男がいて、夜食にラーメンをつくって食べていた。食べすぎて、在庫がなくなる。途中からラーメンのない日々がつづく。小麦粉、卵はあるが、カンスイ(?)がない。だから、手打ちもできない……。しかし、あるとき、隊長がカンスイの分子構造を調べ、それと同じ分子構造を、台所にあるものでつくれることがわかる。
 そこで、一念発起。
 料理人がカンスイづくりからはじめ、ラーメンの麺を打つ。そして、待望のラーメンができあがる。全員がそろって食事するのが「家族」のならいだが、ひとり、時間になってもやってこない。迎えにひとりを出す。けれど、待っていたらラーメンが延びてしまう。我慢できない。早く食べたい。ということで、2人が欠けたまま、ラーメンを食べはじめる。「うまい」。至福の時間だ。
 遅れてやってきた2人が、外はすごいオーロラだ。こんなすごいのは見たことがない。というが、だれもラーメンの丼を手放さない。席を立とうとしない。「観測しなくていいんですか?」。いい。観測よりも、ラーメン。食べたい食べたいと思っていたものを、食べたい食べたいという気持ちのまま、一緒に食べる。それは、最高に、うまい。「気持ち」がひとつになるのだ。
 それは、この映画のなかで紹介されたフランスのコース料理や、分厚いステーキよりも、はるかに8人のこころをひとつにする。どんな高級なものよりも、どんな豪華なものよりも、「大好きなもの」が一番おいしい。そして、その「大好き」を分かち合うのが「家族」。「大好き」をちゃんとつくるのが「おかあさん」。
 このとき、堺雅人演じる料理人は、南極観測隊の「おかあさん」になったのだ。最後の食事のシーンでは、堺雅人はエプロンをつけている。昔ながらのおかあさんの恰好をしている。そして、その食卓では、隊長は「おとうさん」をやっている。家族のなかには「おとうさん」と仲違いしている子供もいる。あいさつもしない。それに対して「おとうさん」が文句を言う。それを「長男」が「おとうさん、まあ、いいから、いいから」となだめたりする。ただ仲がいいというのではない。そういう「不協和音」もまじえて、家族の日常というものはある。そして、たとえそういうことがあっても、一緒に食べる、というのが家族なのだ。
 この一緒に食べるから家族--ということには、オチもついている。
 南極から帰ってきて、家族で遊園地へ出かける堺雅人一家。遊園地で、娘の誕生会の話をしながら、ハンバーガーやポテトを食べる家族。照り焼き(だったかな?)ハンバーガーはべとべと。うーん、まずそう。特に、何でも料理できる堺雅人の舌にはあわないんじゃないかなあ。と、思っていたら。「うまい」。
 なぜ、うまいか。
 ちゃんと理由があるのだ。「誕生会には友だちを沢山呼んで、オードブルみたいに、フライドポテトとかいろいろ並べて」というようないかにも子供向きの会のことを母親が話していたら、娘が「そうだ、お父さんが料理つくってよ」という。堺雅人は南極では料理をつくっているが、家ではつくっていない。つくったことがない。妻のつくったから揚げを「二度揚げしないと、べたべたで胃にもたれる」と苦情を言いながら、我慢して食べている。その「お父さん」が、わが家でも「おかあさん」をやることになったのだ。「お父さんが南極へ出張に行ってから、家が楽しくて仕方ありません」というような娘が、父親に「おいしい料理をつくって」と甘えている。おいしいものを一緒に食べたい。それをつくって、と甘えている。このとき、家族がほんとうに家族になった。「父」が「父」からを破って、「おかあさん」になる。その変化のなかに、「うまい」が隠れている。
 それがラーメンであれ、から揚げであれ、フライドポテトであれ、「大好き」なのものをこころをこめてつくり、いっしょに食べる。そのとき、それは最高の味になる。その味が、先取りの夢のようにして、ハンバーガーにかぶりついた堺雅人の口のなかに広がっているのだ。
 最後のシーンは、南極での料理の数々に比べると、付け足しのデザートのようなものだが、ほんとうは、この最後のシーンがメーンディッシュなのかもしれない。とてもいいラストシーンだ。とても気に入った。




笑う食卓―面白南極料理人 (新潮文庫)
西村 淳
新潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(66)

2009-08-23 06:53:51 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一六一
秋の夜は
床に一輪の花影あり
もろもろの話つきず
心の青ざめたる
いと淋し
『古屏風の風俗画の中にある
狐のやうな犬
遊山する女の眼
桜と雲の上に半分見える
寺や社の屋根
秋のまつげのやうな草の葉
思ひ残る』

『から衣(ごろも)を着てゐた時代の
女のへそが見たいと云つた
女がある
秋の日のうらがなしさ』 

誰か立ちぎきするものがある

 まだつづきがあるのだが、この作品の「もろもろの話」には、終わりから2番目(ここでは引用していない)の連ににだけ「女」が登場しない。あとは「女」が登場する。ただし、最初の「話」のなかの「女」は絵である。その最初の「話」は屏風絵を題材にしているせいか、とても絵画的である。
 特に、 

遊山する女の眼
桜と雲の上に半分見える
寺や社の屋根
秋のまつげのやうな草の葉

 が絵画的である。「桜と雲の上に半分見える」は屏風絵の描写だが、まるで絵のなかの女がさくらや雲の上に半分頭を出している寺や神社の屋根を見ているような感じがする。まるで、「湯算する女」そのものになって、絵ではなく、実際の風景を見ているような錯覚に陥る。絵の登場人物になったと錯覚するくらい、つまり、西脇の詩ではなく(ことばではなく)絵そのものを見ているような錯覚に陥る。ことばが絵画的だから、そういう印象が生まれるのだと思う。
 また、「秋のまつげのやうな」ということばの中にある「まつげ」が「遊山する女の眼」へ引き返すので、いっそう、絵のなかの登場人物になったような気がする。
 だから「思ひ残る」ということばに触れたとき、自分のこころが、絵のなかの女、遊山する女の中に、確かに思いが残ってしまったのだという気持ちになる。

 次の「話」。その3行目「女がある」は少し変わっている。「いた」ではなく「ある」。存在した、「いた」(いる)という意味で「ある」。「誰か立ちぎきするものがある」の「ある」と同じつかい方である。
 ただし、厳密には、同じではない。「誰か立ちぎきするものがある」というとき、その「誰か」は「男」か「女」かわからない。どんな存在かわからないとき、「いる」ではなく「ある」ということが多い。英語では、こういうとき主語に「he(she )」ではなく「it」をつかい、動詞は「be」をつかうが、日本語では「動詞」の方で「いる」「ある」という使い分けをするように思う。
 ここで「ある」をつかわれると、なんとなく、くすぐったい感じになる。なぜ「いる」(いた)をつかわなかったのか。
 次の行と微妙に関係しているのではないか、と思う。
 「女がある」でことばがおわるのではなく、「女が/ある秋の日のうらがなしさ」という具合にことばが行を渡ってゆくべきなのではないか、という思いが私には残る。
 3行目が「女が」でおわってしまうと、それを受ける「動詞」がなくなるが、詩は、散文とは違うから、そういう乱れはあっていいのだ。「女が……」と言おうとして、その「……」を考えているうちに、次のことばがやってきたので、ついついそれを取り込んでしまった。そういう印象がある。
 「いま」「ここ」の「秋の日のうらがなしさ」ではなく、「ある」秋の日のうらがなしさ。過去を思い出している。思い出している限り、女は、また「いま」「ここ」にはいない。「いま」「ここ」にはいないのだけれど、「秋の日のうらがなしさ」とつながる形で思い浮かぶ。「いま」「ここ」にあらわれてくる。
 だから「ある」なのだ。
 いくつもの「意味」がかさなりあって、「ある」を奇妙な存在感のあることばにかえてしまっている。
 詩、というのは、きちんとした散文にはなれずに、ふいに乱れる意識かもしれない、と思うのである。
 「女がいた」と書けば単純だけれど、そう書こうとする意識をふいに裏切って、ことば自身が動いていくのだ。ことばがことば自身で、ことばの「理想」を実現してしまう。詩人は、それをきちんと受け止め、書き留める--それが詩人の仕事なのかもしれない。





詩人西脇順三郎 (1983年)
鍵谷 幸信
筑摩書房

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金澤一志『魔術師になるために』

2009-08-23 00:03:25 | 詩集
金澤一志『魔術師になるために』(思潮社、2009年07月30日発行)

 私は近視、乱視、音痴である。したがって、といっても理解してもらえるかどうかわからないが、文字があちこちに散らばった作品は、まったく感性に触れて来ない。目がちかちかして、どこに焦点をあわせていいかわからない。どこから読んでいいかわからない。私は音読をする習慣はない。けれども、どうやら口蓋、舌、鼻腔、歯、喉を無意識につかって(耳はつかわずに、という意味である)、ことばを読んでいるらしく、本を読むと非常に喉がつかれる。発声器官の「快感」を基準に読んでいるふうなところがある。
 金澤の詩集は、私のような読み方を許してくれない。文字は散らばり、したがって音そのものも散らばっている。複数の音源から響くさまざまな音を目で見ながら、頭のなかに楽譜を再現するような能力がないと、その「交響楽」は理解できない。私には、そういう能力はまったくない。音楽の「採譜」というのは、私には絶対にできないことのひとつである。--こういう詩は、絶対音感の耳を持ったひとにまかせるしかない。

 私にもかろうじて読むことができるのは「モランディの尺骨」のような、きちんと(?)縦に書かれた詩である。3行から成り立っているのだが、その最後の行。

ふなびとととがびとの恋とがびととととがびとの情まよいびととたびびととゆあみびとこもれびとはまれびとの灯

 「ふなびと」というのは前の行の「ゆらのとをわたるふなびと」という百人一首(この歌は、私は大好きだ)の「ふなびと」を受けているのだが、船に乗るひとは高瀬舟ではないが、罪人である。その罪人の恋。情。罪人(金澤は「とがびと」と書いているのだけれど)は、いわば「迷いびと」。何かに迷い、恋に迷い、正しい道(?)から逸脱して、とんでもない道に迷い込んだひとだろう。それは人生の「旅人」、どこにもない場所へとむけて旅をするひとかもしれない。そういう旅をするにはまず「ゆあみ(湯浴み)」びととなって身を清めるということも必要なのかもしれない。湯浴みの清潔さに、「木漏れ日」(こもれび)の美しさが重なる。湯浴みの、飛び散ったきらきら輝くしぶき(しずく)が「木漏れ日」のように揺れる。
 おっと、木漏れ日ではなく、「こもれびと」だった。
 でも、ここでは「こもれ人」ではなく「木漏れ日と」と読むこともできる。ふいに、ことばが逸脱していく。それこそ、ことばがそれまでの論理を外れ、迷っていくように。
 これは、「誤読」? そうかもしれない。そうに違いないのだけれど、私は何度も書いているが「誤読」が大好き。「誤読」するために本を読む。
 「木漏れ日」はなんのための輝きだろう。金澤は「まれびとの灯」と書いている。「まなれ」な「ひと」の灯す明かり。輝き。
 あ、そうかもしれないと、私の想像力は勝手に飛躍する。罪人は、とてもまれな人。それは俗人が手にいれることのできない「輝き」をもっている。罪人こそ輝かしい。その罪人の恋とは、世界で一番輝かしい恋ではないだろうか。
 --こうした読み方は「誤読」だろう。「誤読」に違いない。けれど、私は、そうい「誤読」がやめられない。そして、この1行には、そういう「誤読」を誘うように、ひらがなのかたまりがうごめいている。ひらがなの「びと」「と」「が」が入り乱れて、簡単には「意味」にならない。私は便宜上、漢字をあてて、私の「誤読」を説明したけれど、私の口蓋は、舌は、喉は、繰り返される音のなかで、たださまよう。さまよいながら、複数の意味を行き来する。つまり、意味を否定しながら、意味をさがし、さまよい、意味に出会うたびに、それを叩き壊し、音そのものを口蓋に、喉に、舌に、歯に、触れさせながら、あ、この早口ことばみたいなことばは気持ちがいい、と感じる。

 こういう詩ならば、何篇でも読みたい。



魔術師になるために
金澤 一志
思潮社

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ハナ・マフマルバフ監督「子供の情景」(★★★)

2009-08-22 22:56:27 | 映画

監督 ハナ・マフマルバフ 出演 ニクバクト・ノルーズ、アッバス・アリジョメ

 アフガニスタンの子供の姿をリアルに描いている。マーク・ハーマン監督「縞模様のパジャマの少年」のような「美化」がない。悲劇に仕立てるという美意識がない。そこが、とてもいい。
 6歳の少女が、学校へ行きたい、と思う。隣の男の子が学校でならってきた本を読んでいる。「男が昼寝をしている。くるみが落ちてきて、頭にこっつん。ああ、よかった、これがカボチャだったら俺は死んでいる。」というような話。何とか字が読めるようになりたい。「お話」を読みたい。だから、学校へ行きたい。
 学校へゆくにはノートと鉛筆がいる。合わせて20円(円、というのは、いい加減な私のでっちあげ。ほんとうはナントカカントカという通貨の単位があるのだが、面倒なので、円で我慢してね)。でも、お金がない。卵を4個売れば20円になる。生み立ての卵を持って市場を歩く。でも、だれも買ってくれない。そればかりか、2個は落としてしまう。10円にしかならない。あっちこっち歩くが買い手はいない。鍛冶屋さんがパンなら買う、という。そこで、パン屋へ行って物々交換。パンを持って、鍛冶屋へ行って、やっと10円。文房具屋へ行って、ノートだけ買う。鉛筆は、おかあさんの口紅で代用することにする。
 で、子守をしなければならないのだけれど、赤ん坊の足を紐でしばって、男の子と一緒に学校へ。でも、そこは男子校。「女の子は、川の向こう、あっちへ行け」と言われ、追い出されてしまう。女の子の学校へ行ったは行ったで、座る場所がない。それでも、なんとか、もぐりこむ。鉛筆がわりの口紅をみつけられ、教室はにわかに化粧ごっこがはじまる。それを先生にみつかり、またまた追い出されてしまう。なかなか、学校へ通うのもたいへんである。(おしんのように、学校の外から窓越しに勉強--というわけにはいかない。)
 このあたりの描写もおもしろい。卵を売り歩くシーンもいいが、特に、ノートと鉛筆の金がほしくて、おかあさんを探してあっちへ行ったりこっちへ来たりするシーンが、なかなかいい。険しい尾根の道を歩きながら、「おかあさん、どこ。崖の道を歩くのはこわいよ。崖から落ちたらおかあさんも困るでしょ。おかあさん、どこにいるの?」とさまようシーンがいい。尾根には深い亀裂も入っている。傍から見ていても危険なのだが、そこはやはり、現地の子(と、思う)。おぼつかない足どりではあるのだけれど、どことなく慣れている。何度も何度も、その道を通った感じが全身から滲んでいる。子供は、とても順応性がある。とても、たくましい。その感じが、このシーンにとてもよくでている。
 だからこそ、その後の「子供の情景」がいきいきとしてくる。
 女の子は、学校へ行きたい。ただ、そのことしか考えていないが、男の子たちはそうではない。非日常。とんでもないことに、こころを奪われる。アフガンでとんでもないこと、と言えば、戦争。それしかない。「タリバンごっこ」に夢中である。(私たちの世代が「アンポ」ごっこ、みんなで集まって「アンポ反対、アンポ反対」とデモもごっこするのに似ている。)
 みんなで女の子を取り囲んで、棒切れの機関銃で「プシュー、プシュー」(バンバン、バキューン」とは言わない)、ノートを取り上げ、まっさらな紙で紙飛行機つくる。友だちの少年をアメリカのスパイに見立て、落とし穴に落としたりもするし、ほかの女の子たちさらってきて(?)、洞窟に監禁したりもする。遊びだから、撃たれて死んだふりをすれば解放されるのだが、女の子たちには、その遊びのルールもわからない。男の子たちは、野原の道も洞窟だけでタリバンごっこをするわけではない。大人たちが一生懸命働いている畑(?)でも、みさかいなしに女の子やその友だちを追いかけ、「プシュー、プシュー」。大人は大人で、「やめなさい」というような注意などしない。子供相手に時間をつぶしたくないのだ。
 大人は、こどもをかまわない。最低限のことしか、しない。それ以外のことをする余裕がない。これが戦争の「日常」なのだ。庶民の「戦争」の日常なのだ。そのなかで、子供は、かなえられない夢を、それでも追いかける。学校で文字を習いたい。物語を読んでみたい。何が起きているのかわからないが、タリバンごっこは、棒切れがあればできる。体を動かし、時間を忘れることができる。勉強と、戦争ごっこに、区別はない。どちらも、自分の知らないことが、そこで起きている。だから、それに夢中になる。そこで生きるしかない。
 悲惨だけれど、そこには不思議ないのちの輝きがある。「縞模様のパジャマの少年」のような、悲劇はない。現実が悲劇になるには、ある虚構が必要なのだろう。子供は何も知らない、というような、大人にとって都合のいい虚構が。「子供の情景」の監督は、そういう「虚構」を排除している。そのかわりに、子供の欲望が引き寄せる世界をていねいに描写している。それはある意味で悲惨だが、とてもたくましい。そこが、この映画のいいところだ。

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誰も書かなかった西脇順三郎(65)

2009-08-22 07:02:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一五九
山のくぼみに溜(たま)る木の実に
眼をくもらす人には
無常は昔の無常ならず

 「くぼみ」から「くもらす」への移動。「くぼみ」の「ぼ」は「たまる」の「ま」を通って「くもらす」になる。「ば行」と「ま行」のゆらぎ。ともに唇をいったん閉じて、それから開く音。
 「無常」は「むじょう」。突然、あらわれたことばのようであるけれど、「むじょう」もまた「ま行」を含む。
 ここにも「音楽」がある。

一六〇
草の色
茎のまがり
岩のくずれ
かけた茶碗
心の割れ目に
つもる土のまどろみ
秋の日のかなしき

 「つもる土のまどろみ」という音が美しい。「ど」と「ろ」。さて、この「ろ」はRかLか。私の場合、Rの音になる。
 「つもる」の「る」はLに近づく。TとLは相性(?)がいい。
 けれどもTが濁音(?)Dになったとき、ら行はLよりもRに近づく。
 この行には、LとR、TとDが交錯し、口蓋、舌、歯の接触が微妙に違って、とてもたのしい。清音と濁音では声帯の響き方も違う。その変化に、私は音楽を感じる。



 


西脇順三郎全集〈別巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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木村草弥「風力分級」、三井葉子「橋上」

2009-08-22 00:44:32 | 詩(雑誌・同人誌)
木村草弥「風力分級」、三井葉子「橋上」(「楽市」66、2009年08月01日発行)

 知らないことを読むのはとてもおもしろい。そして、私のようなずぼらな人間は知らないことがあると、それについて調べるのではなく、知らないことの中にある「知っていること」(わかっていること)、いや正確にいうと知っていると思っていること、わかっていると思っていることを中心にして「誤読」へ踏み込み、そこで勝手に「わかった」と自分だけで喜んでしまうのである。
 木村草弥「風力分級」は蟻地獄のことを延々と書いている。そこには「感想」というよりも事実が書いてある。(たぶん。)そして、その事実は専門的なことなので、私にはわからないことばがある。
 蟻地獄は、粒揃いでない荒地でどうやって巣(わな?)をつくるか。粒揃いになるように「整地」するのだそうだ。そして、そのとき「風力分級」という作業をする。

<風力分級の極意をアリジゴクに学ぶ>など考えてもみなかった。
つまりアリジゴクは整地作業をする際に砂を顎の力で刎ね飛ばすのだが
その際に「風力分級」という「物理学」を応用するのである。

 「風力分級」というのは風の力を利用して「ふるい」にかけるようなものなんだろうなあ。軽いものは遠くへ飛んで行く。重いものは近くに落ちる。それを利用して、自分にふさわしい砂(罠にふさわしい砂)を集める。うーん、アリジゴクのことを思うと気が遠くなるけれど、きっと、そういうことなんだろう。
 木村さん、あっています? 間違っています? 間違っていた方が、私はうれしい。
 どんな間違いであっても、その間違いさえも土台にしてことばう動いていける。間違っていた方が、とんでもない「思想」にたどりつけるからね。バシュラールは想像力を「ものを歪める力」と言ったような気がするが(あっています? 間違っています?)、このものを歪めてみる力の中にこそ、「思想」がある--と私はまたまた勝手にかんがえているので……。
 そして、このアリジゴク。成長する(?)とウスバカゲロウになるのだけれど、巣(罠)のなかにいる間は、糞をしないそうである。巣が汚れるのがいやだからだそうである。(アリジゴク語、ウスバカゲロウ語で聞いたのかしら?)そして、羽化してから、「二、三年分の糞を一度に放出するらしい。」(ああ、よかった。やっぱり、見えることを手がかりに、想像しているだけだね。--私のやり方と同じ、…………じゃないか。私は、ことばを勝手に「誤読」するのであって、事実を観察して、そこから推論を築いているわけではないから。)
 というようなことを、書いてきて、突然、最終連。

何も知らなかった少年は
年月を重ねて
女を知り
<修羅>というほどのものではないが
幾星月があって
かの無頼の
石川桂郎の句--《蟻地獄女の髪の掌に剰り》
の世界を多少は判る齢になって
老年を迎えた。

 あ、あ、あ。「女を知り/<修羅>というほどのものではないが/幾星月があって」なんて。小説(私小説)なら、その<修羅>を綿密に描くのだけれど(最近、詩でもそういうことを書いたものを読むけれど)、その肝心なこと(?)は書かずに、アリジゴクにぜんぶまかせてしまっている。
 きっと、そのなかには木村独自の「風力分級」があり、何年も糞をこらえているというようなこともあったんだろうなあ。(触れて来なかったけれど、途中に水生のウスバカゲロウの「婚姻飛翔」についての説明もあるのだ。)
 まあ、これは私の勝手な想像だけれど、この瞬間、アリジゴクの生き方が木村の「思想」そのものに見えてきて、とても愉しい。笑いたくなる。陽気になる。(申し訳ないけれど。)きっと、女との「修羅」を具体的に書かれても、これほどまでにはおもしろくないだろうと思う。女のことを書かずに、アリジゴク、ウスバカゲロウを科学的(?)に書くということの中にこそ、木村の「思想」がある。女、その修羅については、「科学的」には書けない。だから、書かない。書けることを(知っていること)を積み重ねて、その果てに、これは女と男の世界のことに似ているなあ、とぽつりと漏らす。その瞬間に、木村の「肉体」が見えてくる。
 私は、こういう作品が好きだ。



 三井葉子「橋上」は入院した友人のことを書いている。

いつ 死んでもいいよ
でも 今日でなくてもよい とわたしの友人が言いました

 という2行で始まり、その友人のことばに驚いたことを書いている。「今日でなくてもよい」は、とても傑作である。

あの世とこの世は彼岸と呼び 此岸と呼び
虚空には
橋が
懸かっていると言いますが

この友人のあしの軽さ あしどりのよさ
そう言えば北斎にも谷にかかる橋を渡るひょうきんな人たちを描いた
あでやかな
浮世絵がありました

あの世にも
この世にも傾かない
名人のあしが
座敷を歩いたり
縁先きを歩いたり。

 「あの世にも/この世にも傾かない」はいいなあ。たしかに、そういう「思想」を、「名人」の思想と呼んでいいのだと思う。「いつ 死んでもいいよ/でも 今日でなくてもよい」ということばを聞きながら、友人が座敷を歩いたり、縁先きを歩いたりしているときの、その軽やかな、けれど確かな足どりを思い出している。そういうふうに歩きたいと思っている。
 友人に対する親密さ、友人が三井によせる安心感のようなものが漂っている。





茶の四季―木村草弥歌集
木村 草弥
角川書店

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誰も書かなかった西脇順三郎(64)

2009-08-21 07:53:59 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一五七
旅に出る時は
何かしらふところに入れる
読むためではない
まじなひに魔除けに
ある人は昔
「女の一生」を上州へ
ある国の革命家は
「失はれた楽園」を
野の仕事へ

 ここに書かれているのは、異質な取り合わせの「詩」。異質なものが出会う時、詩が生まれる。--それはそうなのだが。
 私は2行目が気に入っている。「何かしらふところに入れる」。この、「ら行」のひびきが滑らかである。そして、そのなめらかなひびきが「読むためではない」という異質な音と断定によって破られるのも、不思議と気持ちがいい。
 あ、音ばかりを楽しんでいては、詩にはならないのだね。反省。
 しかし、次の「まじなひに魔除けに」がまた、おかしい。「まじなひ」「魔除け」と、なぜ同じようなことを2度言うのか。たぶん、「ま」をくりかえすため。「に」をくりかえすため。こういう音楽があるから、それ以降に出てくる本と、それを持っていく人の対比が新鮮になる。そこでは「ら行」のようなくりかえし、「ま」「に」のようなくりかえしがない。一回きりの音と異質なものの出会いがある。

 途中を省略して、詩の後半。

旅に出る時
恋に落ちないやうに
飢餓に落ちないやうに
ダンテの「地獄篇」の中に
えのころ草をはさんで
食物は山の中に沢山ある

 「恋に落ちないやうに/飢餓に落ちないやうに」。「恋」と「飢餓」の対比がおもしろいが、その対比が生きるのは「落ちないやうに」がくりかえされるからだろう。

 最後の行は私は「しょくもつは」と読んでいる。「食物は」とは読まない。「しょくもつ」の方が「たくさん」という音と響きあう。「山」と「沢山」と、そこでは視覚上「山」がくりかえされているのだが、「山」でありながら「やま」と「さん」のずれ。それは「しょくもつ」の「し」、「たくさん」の「さ」のずれの感じとも響きあう。「たべもの」と読むと「たくさん」と頭韻になってしまって、ずれがなくなる。「やま」と「さん」のずれが埋没してしまう。それでは、なんとなく、私にはおもしろくない。



西脇順三郎全集〈第4巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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浦歌無子「水の陥穽」

2009-08-21 00:19:42 | 詩(雑誌・同人誌)
浦歌無子「水の陥穽」(「水字貝」1、2009年05月21日発行)

 浦歌無子という詩人を私は知らない。はじめて知った。はじめて読む詩人の作品はとてもおもしろい。いままで知らなかったことばがたくさん出てくる。浦の詩には「骨」がたくさん出てくる。
 「水の陥穽」の「骨」が出てくるまでの部分。
 (浦の作品は、独特の字体をつかっている。漢字とひらがなの大きさも違っていて、何だか古い?時代の本を開いているような感じがする。ここでは、活字の大きさや字体は、私がいつもつかっている字体、文字の大きさで引用する。原文は「水字貝」で読んでください。)

水の音が漏れている
シンクをピカピカに磨けば
羅刹が私の骨に火をつけていく

 「羅刹」が私にはわからない。「羅漢」「羅針盤」の「羅」、「古刹」「刹那「の「刹」。「らさつ」か「らせつ」か。わからないことばは辞書を引いて調べるのがいいのだろうけれど、私はわからない部分がある方が好きなので調べない。「誤読」したいので調べない。骨に火をつけるくらいだから、きっと鬼だろう、と思って読み進む。そして、鬼のことを、こんなややこしいことばであらわすのは、浦のなかに、そういうややこしいことばがうごめいているのだろうなあ、とも思う。(タイトルの「陥穽」は落とし穴か、罠くらいの「意味」だろうけれど、これも私の「誤読」かもしれない。--わからないことをいいことに、というか、なんとなく想像がつくことをいいことに、私は「誤読」を押し進める。)
 わからないことだらけだけれど、この書き出しの3行で私がわかるのは、「私」がシンク(流し)をピカピカに磨いているということである。汚れたものをピカピカにする。そのとき、まあ、ひとは、自分のなかにある汚れというか、嫌なことも、一緒にピカピカにしたいと思うものかもしれない。その嫌なこと、人に対する恨みのようなものを一新したい、まっさらにしたいなどと考えているから、どこからともなく鬼がやってきて、その嫌なこと、恨みをあおるように、骨に(体の芯に)火をつけていく--そういうことを、想像しながら(そんなふうに「誤読」しながら)、詩を読んでいく。
 こんなふうに、勝手に「誤読」するというのは、私が、それだけ浦の詩に引き込まれている、ということである。浦のことばには、そういう引き込む力がある、ということである。
 詩のつづき。

仄暗い夜明けである
それはかりか清らかな匂いとともに
猛追してきたのは二月八日の雨だ
中足骨(ちゅうそくこつ) 足根骨(そくこんこつ) 腓骨(ひこつ) 脛骨(けいこつ)
排水溝にはためきながら落ちてゆく
金魚の紅いひれがわずかに見えたような気がするが

なのだ

 背骨とか腰の骨ではなく、「中足骨 足根骨 腓骨 脛骨」。あ、なんだか、体の知らない部分、体の部分には違いないのだが、いつもは意識しない部分が、それがどこかわからないまま、「こっち、こっち」と騒ぎはじめる。それは、ひとへの恨みとか嫌なことの根っこが、「こっち、こっち」と呼んでいるような感じである。
 そんな訳のわからないような感覚だから、そこに存在しないはずの「金魚の紅いひれ」なんかも見えた気がする。体のなかの「骨」は肉眼では見えないから、肉眼がなんとしてでも見えるものをほしがっているような感じがする。
 この、「肉体」のなかにある不明なもの、肉眼では見えないものを、ことばでなんとか見えるようにしようとするとき、そういう意識の運動に影響されて、肉眼が「誤読」を始める。いま、ここにないものを見てしまう。「私」が何を恨んでいるのか、あるいは何を苦悩しているかわからないけれど、そういう精神の、感情の動きを、私の書いているようなくだくだしい「説明」ではなく、骨と金魚で書いてしまう。そこに詩がある。とても、おもしろい。
 そして、「罠」。--やっぱり、「陥穽」というのは「罠」だね、と私は自分を納得させながら、「誤読」へさらに進んでゆく。

麻痺したまま矩形にくり抜かれたステンレスを磨き続ける
膝蓋骨(しつがいこつ) 大腿骨(だいたいこつ) 仙骨(せんこつ) 指骨(しこつ)
鬼さんこちら手の鳴る方へ

 ほら、やっぱり、鬼。こうなると、もう、「誤読」は止まらない。やめられない。浦のことばを読んでいるのか、自分の中で、恨みに火がついて燃え上がっているのかわからないくらいだ。そうか、恨みながら、シンクを磨くとはこういうことか、と思いながら読むのである。

いっそううしろから背中をヒトツキに
シカシ メカクシヲ サレテイルノハ
ハタシテ ダレナノダロウ
盲いたまま手さぐりで
つるぎを磨こうとしているのは
うろうろとはいまわりながら
甘井(かんせい)をさがしているのは
中手骨(ちゅうしゅこつ) 手根骨(しゅこんこつ) 尺骨(しゃっこつ) 椎骨(ついこつ)
罠には何もかかっていないが
降らない雨という時間が流れている
(長い黒髪をざんぶりと濡らしたい)
(二月の雨の日に死んだあの金魚はとっくに埋めてしまったのに)
降らない雨を養分に
磨きあがったシンクいっぱいに
ひよひよ泳ぐふかいあか深紅の花
胸骨(きょうこつ) 肋骨(ろっこつ) 上腕骨(じょうわんこつ) 肩甲骨(けんこうこつ) 鎖骨(さこつ) 頭蓋(とうがい)
真火(まび)に慰撫され
一部は灰になり
そして一部はありありと残り
わたしはそれを黙って長い箸で拾い
バリバリと噛み砕く
無数のわたしは雨降らしの悲鳴となって
果てしなく食道を落ちてゆき
白く鳴りわたる振動に
くつくつと笑いがこみあげてくる

 鬼--結局、自分の思いだね、鬼に骨を焼かれ、その骨を火葬場で拾うように自分で拾い、食べる。ああ、人間は、そんなふうにして恨みを消化し、生きていく。--というのような「意味」は、まあ、どうでもいいなあ。
 肉体を何がなんでも「骨」にこだわりつづける、「骨」からとらえなおす。そのためにことばを鍛える。ことばをあたらしい方向へ動かす。これが、いいのだ。これが愉しいのだ。
 シンクは深紅、深い紅なんていうだじゃれ(?)をばねに、恨みのなかで狂っていくのではなく、健康な笑いへ引き返すために、骨を焼く--そのことをぐいと押していくことばの運動もいいなあ。 

 「水字貝」には、ほかに「骨髄の海」「目眩」という作品もある。どれも「骨」に似たもの、肉体の中にあって、肉眼では見えないものをことばの運動の出発点に据えて、ぐいくい動いていく。そこでは、「水の陥穽」で「鬼」がでてきたように、何やら人間の想像力(構想力)の歴史というか、積み重ねのようなものが、情念でぐにゃりとずらされた形で滲むのだが、そうなんだなあ、そういことって、肉体をきちんと(骨をきちんと)おさえてこそ動きはじめるものなんだなあ、と浦の詩を読みながら思った。

 今回読んだのは3篇だが、早く詩集を読みたい。少なくもと10篇以上はまとめて読みたい。浦ワールドで「誤読」をして遊び回りたい--久々に、そういう気持ちになった。

 みなさん。間違いなく、まったく新しい詩人が登場しましたよ。そう叫びたい作品群である。
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誰も書かなかった西脇順三郎(63)

2009-08-20 07:43:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一五一
折にふれ人知れず
争ふ夫婦の舌のとがり
永遠の暗黒にもどり
古の土の思ひ
物いはず
落葉をふむ
互いにはぐくむ庭に
ひよどりの鳴く

 1行目の「折にふれ」がさまざまな音楽に変奏されていく。「折り」は「舌のとがり」「暗黒にもどり」の「とがり」「もどり」。そして最終行に突然復活する「ひよどり」。
 「とがり」「もどり」は「が」を鼻濁音で発音すると、ときには「とまり」「もどり」のようになるから、そこには「ま行(?)」の口蓋、鼻腔の感覚が交錯する。(鼻濁音を上手に言えない幼い小さい子どもが「手紙」を「てまみ」は発音することを思い出してほしい。)文字で見るだけではわからない音がある。(とは言うものの、私は西脇の詩を音読はしたことがない。しかし、黙読のとき、自然に、口蓋、鼻腔が反応する。それほど西脇のことばは「音」が美しいのだと思う。)
 夫婦喧嘩(?)の様子を描いているようで、それはみせかけ。音を動かしてみたかったのだけだ。「折にふれ人知れず/争ふ夫婦」などという奇妙な表現は「わざと」でないと出てこないだろう。
 「ふれ」の「ふ」を中心にした「は行」は「ふれ」「ふうふ」「あらそふ」「いにしへ」「おもひ」「いはず」「ふむ」「はぐくむ」「ひよどり」とにぎやかである。
 「ひよどり」のなかには「どり」(り)と「は行」がそろっているのも愉しい。

一五四
座敷の廊下を行くと
とざされたうす明りの
障子に映る花瓶に立てられた
山茶花の影の淋しき

 3行目「障子に映る花瓶に立てられた」のリズムが、なんとも不思議である。私なら「障子に映る/花瓶に立てられた」と書いてしまいそうである。さらに言えば「障子に映る」は2行目と、「花瓶に立てられた」は4行目と一緒にしたい意識がある。私の無意識の文法は、そんなふうに行のことばを割り振っている。その無意識の割り振りを破壊して、西脇のことばは動く。私の文法意識は破壊される。この瞬間が、くすぐったくて、愉しい。
 こういうリズムのあとでは「さざんか」という「ん」を含む音のすばやさが気持ちがいい。「障子に映る花瓶に立てられた」ということばが「わざと」(むりやり?)凝縮されて1行に押し込められているのだから、次のことばもぎゅっと凝縮された漢字がいい。長音のある花だときっと「影」は映らないし、「淋しさ」もぼやけるだろうと思う。

文学論 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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伊藤悠子「海草を干すように」

2009-08-20 00:41:44 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「海草を干すように」(「ふらんす堂通信」121 、2009年07月25日発行)

 伊藤悠子「海草を干すように」に、左古真由美『あんびじぶる』に通じるものを感じた。

なにげなく なによりも 自分たち自身に なにげなく思えるだけの時間
をかけて 知らない土地へと 自分たちを移していけないものか いつし
か 移っていたということはあり得ないか 自分とそしていつも連れてい
るこの小さな子という自分たち二人を 見知らぬ土地へと転がしていく方
策を 静かな鳥のように海を見つめながら考えている

遠くの浜で
漁師が二人海草を干している
一人は背が低く女かもしれない
二人は夫婦かもしれない
移っていくことを生業として
移っていくことを考える
たとえば海草を干すようにして移っていくのだ
浜に
今日は今日一日分の海草を干す
明日は今日終わった処にロープを張る
小さな子に渡してもらった海草を干していく
あさっては明日の終わった処にロープを張る
小さな子は手伝いが好きで
「はい」「はい」と渡す
海草を干したロープが
浜に続いていく
えんえんと

 伊藤にももちろん「心眼」というものがあるのだが、伊藤は「こころの目」よりも「肉眼」を信じているようである。見えないものを書こうとはしない。見えるものを書く。ただし、その見えるものを、少しずつ「移していく」。海草を干すロープのように。どこまで進んだかをきちんと印をつけながら、少しずつ少しずつ、進んで行く。そして、その少しずつを延々とつづけていたら、いつのまにか「いま」「ここ」が「いま」「ここ」ではなく、「見知らぬ土地」だった--そういうことばの動かし方をする。
 その、見えるものをきちんと見て、それを引っぱっていく(移していく、と伊藤は書いているが)力に、私は、詩を感じる。



詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂

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左子真由美『あんびじぶる』

2009-08-20 00:18:21 | 詩集
左子真由美『あんびじぶる』(竹林館、2009年08月14日発行)

 アンビジブル--みえないもの。たとえば、「輪郭」。「輪郭」そのものは見えるけれど、その輪郭のなかに見えないものがある。「輪郭」という詩の全行。

りんごをなぞるように
きみのりんかくをなぞる
ふしぎだ
せかいと
きみとに
さかいめがあるなんて

 清岡卓行の「石膏」の「ああ/きみに肉体があるとはふしぎだ」を思い出すが、大きな違いがある。左子は「きみ」に肉体があることを不思議とは感じていない。「さかいめ」に不思議さを感じている。この「さかいめ」は左子がことばにするまで存在しなかったものである。ことばによってはじめて見えてきたもの、つまりそれまでは見えなかったものである。
 左子のいう「みえないもの」とは、そういう類のものである。

 「名前」という作品。その全行。

区別するためではなく
よりわけるためでもなくて
呼ぶという行為よりは
もっと深いわけがあって

ひとは名付けられる
ひとつの身体に
ひとつの名前
呼ばれるたびに思い出すために
世界にたったひとつの
命であること

いつも 朝が
まっさらな朝であるように
すみずみにまで
血が流れはじめる
そのときだ

名前を呼ばれると
わたしの身体は
ぴくん と跳ねて
地球という椅子から
起立する

 「名前」。これはもちろん視力では「見えない」。だが、左子が主題にしている「見えない」とは視力で見える・見えないのことではない。「輪郭」もそうだが、視力には輪郭そのものは見える。視力には輪郭は見えるけれど、その輪郭が「せかい」と「きみ」の「さかいめ」とは見ない。それを「せかい」との「さかいめ」と見るのは、意識である。
 「肉眼」ではなく「心眼」。
 肉眼が見落としていたものを、こころの目が拾い上げる。ことばのなかに。そうすることで、見える--意識できるようになるものがある。
 「名前」では、それは「命」。
 だが、もっと正確にいうと「世界にたったひとつの/命であること」の「こと」。左子が見ようとしているもの、ことばで見えるようにしようとしているものは「いの」ではなく、「命であること」の「こと」なのだ。それは「名詞」ではなく、一種の動きである。運動である。
 重要なのは、その前の行だ。

呼ばれるたびに思い出すため

 呼ばれて思い出す。呼ばれるとは、自分ではない誰か、である。「名前」でいえば、その名前をつけてくれたひと、親である。親に呼ばれて思い出す。「命」とは、親から子へとつながる「こと」、親から子へと渡されるもの、その「渡す」という「こと」のなかにあるものだ。
 「たったひとつの/命」は、ほんとうは「たったひとつ」ではない。かならず、それに先立つ「いのち」がある。
 そして、いつものは忘れているそのつながりは、「呼ばれること」によって見えてくる。呼ばれる「こと」によって、「いのち」がつながりである「こと」を思い出すのだ。思い出さなければならないのだ。
 「いのち」に血が流れはじめるのは、「よばれる」ことによってである。「呼ばれる」そのときからである。

名前を呼ばれると
わたしの身体は
ぴくん と跳ねて
地球という椅子から
起立する

 最終連で、左子は、そう書いているが、身体は「椅子から/起立する」ことはあっても、実は「地球という椅子から」起立することはない。「地球という椅子」は意識のなかにしかない。意識によって定義される椅子である。
 見えなかった「いのち」の「つながり」、「つながり」が「いのちであること」が見えるこころの目にだけ「地球という椅子」が見えるのである。

 見えないものを見る。見えるようにする。ことばによって。それは一種の「賭け」である。左子は「賭け」という作品で「肉体」をもつことを「賭け」であると書いているが、そこに書かれている「肉体」と「ことば」を入れ換えると、左子の「見えないものを見る」という「こと」が、そのまま説明したことになると思う。全行引用する。ぜひ、「肉体」と「ことば」を入れ換えて読んでみてほしい。

肉体は
さみしい遭難者
ちいさなランプを灯す
イカ釣り船のようだ

肉体を持つことは
ことばを持つことに似ている
それは
取り返しのつかない
ひとつの賭けなのである

深い夜の底で
わたしはさみしい賭博者になり
ちいさなランプを灯して
なけなしの金をはたき
擦り切れた人生までをはたいてみる

神は
わたしたちに
肉体を与えてしまった
ちいさなランプひとつを
舳先に掲げさせて

 2連目。表現を入れ換えて、「ことばを持つことは/肉体を持つことに似ている/それは/取り返しのつかない/ひとつの賭けなのである」としてみる。そうすると、そこに「いのち」、「こと」としての「いのち」が見えてくる。ことばを持つことは「いのち」をもつことと、同じ。それは、誰かから、渡され、引き継ぎ、自分の力で育てていかなければならない。ことばと「いのち」はそのとき、同じものになる。少なくとも左子にとっては同じものだ。渡された「いのち」を育てるように、渡された「ことば」を育てる。見えないものが、見えるようにするために。そして、見えないものを見えるようにするために、詩がある。





愛の手帖―佐子真由美詩集
左子 真由美
竹林館

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誰も書かなかった西脇順三郎(62)

2009-08-19 07:41:54 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一四九
夏の日は
青梅の実の悲しき
いたどりの国に生れ
おどろの路に迷ふ
鐘のない寺の屋敷を通りぬけ
朝顔の咲く垣根を過ぎ
もずの鳴く里を通り
雨の降る町に休み
たどたどしく歩み行く
むぐらの里に
茶をのみかはす
せせらぎの
女の
情流れ流る

 「おどろの路にまよふ」の「路」は何と読むのだろう。「みち」か。私は「ろ」と読みたくなってしまう。「国に生れ」(くににうまれ)「路に迷ふ」(みちにまよう)はリズムはそろうのだが、「いたどり」の「ど」き「おどろ」の「ど」が響きあったあとでは、「おどろ」の「ろ」と「路(ろ)」を一緒に響かせてみたくなるのだ。そのためなら、「国に生れ」を「くににあれ」と読み、「ろにまよう」とリズムを合わせてもいいじゃないか、とさえ思う。
 この詩は、歩いていくリズムがとても速く、「休み」ということばがでてくるのだけれど、少しも休んだ気がしない。休んだついでに何かをじっくり観察する、という具合ではないからだ。逆に、休んだために、リズムが狂い「たどたどしく」なるのがおかしい。そして、この「たどたどしい」には「いたどり」が隠れているのがうれしい。きっと、そこには「杖」も隠れているのだろう。「いたどり」は「虎杖」であるのだから。
 最後の方の「茶をのみかはす」には、「いたどり」に「杖」が隠れているのと同じように「かはす」に「かわず」(旧かなでは「かはず」)が隠れているのだろう。だから、すぐに「せせらぎ」が出てくる。
 音がなだれて、音の流れのなかで情景が急展開する。それが、とてもおかしい。

 最後の「情流れ流る」は「じょう・ながれ・ながる」と読むのだろうか。「なさけ」ではないと思う。「流れ流る」と繰り返したのは、きっと音をもう少し愉しみたかったのだろう。

一五〇
斑猫の出る街道を
真向きに茜を受け急ぐ
尖塔の町に行きつかず
茶の生籬と南天の実のつづく
やがて
まきのまがきから顔を出した
女に道をきいてみた
正反対に歩いたのだ
「まつすぐに戻られよ」

 西脇の漢字とひらがなのつかい方はずいぶん奇妙である。漢字で書いてよさそうなことばがひらがなだったりする。(むさし野、とか。)
 この詩では「生籬」という妙なことばがある。私はいいかげんに「まがき」と読んでいた。「一四〇」の「むくげの生籬をあけ」も「まがき」と読んでいた。「生」の字を省略して、まあ、「意味」を勝手に優先させていたのだが、「生籬」は「まがき」と読むのではないのかもしれない。
 この詩では「茶の生籬」のほかに「まきのまがき」ということばがある。「まがき」と読ませるのなら、同じ断章で書き分ける必要はないだろう。
 では、なんと読むか。「なままがき」と読んでみたい。早口ことばみたいだ。早口ことばみたいで愉しい。「なままがきとなんてんのみのつづく」(このとき「が」は鼻濁音でなくてはならない)。あ、すらりと言えたときの快感。「まきのまがきからかおおだした」も同じような快感がある。
 そんな早口ことばで遊んだあと、「まつすぐに戻られよ」と言われると、あそんでないでさあ、とたしなめられたような、笑いだしたい気持ちになる。

 「はんみょう」を「斑猫」と漢字で書いているのも、「生籬」とおなじように、奇妙にこころをくすぐられる。



西脇順三郎 変容の伝統
新倉 俊一
東峰書房

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川口晴美『半島の地図』

2009-08-19 00:12:55 | 詩集
川口晴美『半島の地図』(思潮社、2009年07月30日発行)

 「半島」という作品の、終わりの方。27ページ。

ミズシマ
私のからだのなかにいつもある
わたしから離れていこうとするものを
そんな名で呼んでみようか

 私は、この部分を「誤読」した。私はもともとカタカナ難読症でカタカナを正確に読めたことがないのだが、「ミズシマ」を「ミズスマシ」と呼んでしまった。その前には、「水島」という漢字の表記があるにもかかわらず、である。
 その前後を含めて引用する。

水島
というそこは昔は半島に連なっていた土地が
波の浸食で離れ島になったのだと
駅の案内板にあったのを思い出す
離れてしまったもの
つかのま泳ぐだけの場所
揺れる光の先にある
わたしのような
ミズシマ
私のからだのなかにいつもある
わたしから離れていこうとするものを
そんな名で呼んでみようか
遠い
駅へ向かう車をひろうために
わたしは
半島のような腕をあげる

 自分の肉体(?、「こころ」というひともいるかもしれないけれど……)のなかにある自分から離れたもの。偶然できてしまった離れ島。きちんとした「比喩」になっている。「ミズシマ」と正確に読むことができない私がいけないのだが、私は、ふいにおとずれた「ミズスマシ」を、しかし、捨てる気になれないのである。
 自分の肉体のなかにある、自分から分離した肉体。その分離してしまった肉体は水に浮かんでいる。その水面を腕をひろげて、小さな水紋をつくって、すーっ、つつーっとすべりながら行ったり来たりする小さなミズスマシ。それこそが川口の描く「わたし」に見えてくるからである。

 この詩集には、「半島」にかぎらず、「わたし」と「わたしから離れて行くもの」が描かれている。あるいは、「わたし」が「わたしではなくなる」という瞬間をみつめる「わたし」が描かれている。
 巻頭の「サイゴノ空」は殺され死んでいく「わたし」の思いを描いているが、そのいくつかの行。

涙がこぼれて
あたたかいと一瞬だけわかる
だけど頬に張りついた髪の毛にさえぎられながら首筋まで伝う頃には感覚がぼやけて
わたしの涙はわたしのものではなくなった
いいえこれまで一度だってわたしのものだったことがあっただろうか
いいえいいえわたしのものだった何かなどひとつでもあっただろうか

もう一度会いたいかどうか
わからないわたしはどんどんわたしじゃなくなって
川の水が流れてゆきます

わたしとわたしじゃないものの境界がきしんで
わたしじゃないものはわたしにやさしくしようとしているのではなく
わたしを思い通りにしようとしているんだと気づいた

境界はなくなりわけのわからない世界とまじりあうわたしは形をなくして
世界のひとかけらになってゆく

わたしはからっぽになる
わたしはわたしじゃないものになって
それはからっぽで晴れた明け方の空のように青ざめている

 「わたしはわたしじゃないものになる」。分離するだけではなく、わたしではないものになる。「サイゴノ空」では「明け方の空のようなもの」と書かれているが、「半島」では、「水島」ではなく、「水島」をつくる「海」(水)になっているのではないのか。それは「わたし」と「わたしじゃないもの」の間に横たわる何かである。「肉体」である。「わたし」と「わたしではないもの」の区別は、つくようで、つかない。それは分離するけれど、完全に分離しない。逆に、接近してきて合体することがあるけれど、完全にはひとつではない。いずれも、「わたし」と「わたしじゃないもの」は「不完全なひとつ」である。「不完全なひとつ」の接着剤(分離剤?)のようなものが、そういう運動をするものが「肉体」である。「肉体」で「わたし」と「わたしじゃないもの」が出会うのだ。
 そして、そのとき、そこに「明け方の空のようなもの」が出現し、陸と島のあいだにある「水」のようなものが出現する。
 そういう場としての<わたし>。そういう場を動き回る<わたし>。それが「水」のあるところで、「ミズスマシ」となって動いているのは、悪いイメージではないと思う。そしてこのとき「ミズスマシ」とはいうものの、じっさいに、ミズスマシをみるときそうであるように、私は、ミズスマシそのものではなく、水にひろがる小さな波紋、同心円のすばやい動きを見ている。ミズスマシとは「昆虫」ではなく、水のありかと、水の上の波紋の運動だ。

 川口の詩は、「わたし」と「わたしじゃないもの」の間にひろがる水面を動き回るミズスマシの運動だ。
 「わたし」と「わたしじゃないもの」と言いながら、そこには重さがない。重さがないというと変だけれど、そういう深刻なテーマの割りには軽い。ことばが軽快である。すーっ、つつーっと動く。
 胸にずしりと落ちてきて、そのことばを何度も反芻しなければ、しっかり受け止めることができない--という印象がない。

ひろったタクシーの窓越しに見上げると胸の内側にあるものが吸い上げられていく。胸の内側に何があるのかなんて自分でもわからないのに。   (「夏の獣」)

 本当は重くなるかもしれないものを、川口は、重くなる前に自分で否定している。ある意味では「わたし」と「わたしじゃないもの」を分離することで、川口は「安寧」を保っているのかもしれない。もちろん、そういう安寧の保ち方、自分自身の維持の仕方には、それなりの哀しみがあるのだと思う。工夫、苦心があるのだと思う。
 この哀しみをきちんと批評するには、「ミズシマ」を「ミズスマシ」と誤読するのとは違う読み方が必要なのだと思う。

 たとえば、「ドライヴ」の、

いったいわたしたちはどこに来たんだろうねと呟くと年下の男は振り向いて
ハンドルに老いた手を健やかにひらいた
あかるい日射しを受け取るように
軽々とひらかれる掌が眩しいのは
樹木の陰を縫いながら細い道を辿って来たあいだにわたしの頬や額が
深い緑に濡れてつめたく
ほんの少し死んでいるひとのようにつめたくなっていたからかもしれないと気がつく

 という行などを中心にことばを追えば、もっと違った形で川口の肉体の哀しみに接近できたのかもしれない、と思いはするのだが、その場合でも、私は、じっさいにそのことばを追いはじめたら、きっと「樹木の陰を縫いながら細い道を辿って来たあいだに」の「あいだ」に視点が動いてしまうだろうなあ、と思う。

 だが、私はミズスマシではない。ミズスマシのように水面にきれいな波紋を移動させながら動き回ることはできない。ばしゃばしゃと水しぶきをあげながら泳ぐ人間である。
 あ、静かで、きれいな哀しい詩集だ、という印象しか語れない。私が書くと「誤読」が増幅するだけである。読書ではなく、「誤読」が私の趣味なのだけれど。



半島の地図
川口 晴美
思潮社

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マーク・ハーマン監督「縞模様のパジャマの少年」(★★★)

2009-08-18 12:11:00 | 映画
監督 マーク・ハーマン 出演 エイサ・バターフィールド、ジャック・スキャンロン、デヴィッド・シューリス

 たいへん丁寧につくられた映画だ。ナチス将校の家庭の描写からはじまるが、どっしりしたベルリンの家の雰囲気がとてもいい。街並みの描写も美しい。戦争中だが、すさんだ印象はなく、どんな状況でも「日常」はそのままつづいていく。将校の昇進パーティーだが、その昇進を家族の全員が喜んでいるわけでもない(母親が怒っている、嘆いている)、というところに、この映画の視点がある。(将校の部下も反ナチスであることが、途中で描かれる。)人間の感性・思想は「一枚岩」ではない、ということは今でこそ当たり前だが、ヒトラー独裁政権下でも、そうした「日常」がある、とこの映画は描く。
 悲劇は、この「日常」から起きる。主人公ブルームはナチス将校の家庭の8歳の少年。彼は家の外で起きていることがわからない。戦争をしていることは知っているが、それがどういうことか分からない。ブルームにとっての「日常」は友だちと遊ぶこと、遊びだけが「日常」だ。
 その少年ブルームが「収容所」のフェンス越しに8歳の少年シュムールと出会う。収容所をブルームは「農場」と思い込んでいる。シュルームは、農家の少年だと思い込んでいる。父の昇格に伴い、ベルリンを離れ、「友だち」が誰もいないブルームは、シュムールと友だちになる。友だちといっても、フェンス越しにお菓子を渡し、会話をするだけである。ブルームは収容所で起きていることを正確には知らない。そのうえ、家で覗き見したナチスの宣伝映画をうのみにして、父親はユダヤ人に親切にしていると思い込んでいる。シュムールも収容所で起きていること、その事実をはっきりとは知らない。誰かがどこかへ行ったまま帰ってこない、という現象を漠然と知っているだけだ。
 そして、ブルームが引っ越すという、その日。シュムールのいなくなった父を探すために、ブルームは「縞模様のパジャマ」を着て(ユダヤの少年に変装して)収容所に潜りこむ。収容所が何かを知っていれば、シュルームが脱走するのだが、そこで行われていないブルーム、宣伝映画をうのみにしたブルームは、収容所の中へユダヤの少年としてはいりこく。そこで、悲劇が起こる。最後の最後まで、何が起きているのかわからないまま、「行進」し、「シャワー」を浴びる。
 ブルームがいないことに気づいた母が、そして父である将校が、懸命に探すが、収容所にたどり着いたとき、既にブルームは虐殺され、「パジャマ」だけが大量に部屋に残されている。どのパジャマをブルームが着ていたかもわからない、無数のパジャマが。
 この理不尽な悲劇。無垢、無知ゆえに善意の少年が無残な死を迎えるという悲劇の理不尽性。
 だが、理不尽であるだけに、私はかなり疑問を感じた。これでは、悲劇が少年一家に収斂してしまう。無垢な少年の悲劇は事実だけれど、無垢な少年がかわいそうでは、ホロコーストの事実が矮小化されないだろうか。製作者は、無垢な少年さえも巻き込んでしまうのが戦争だ、と主張するだろうけれど、違和感が残るのである。
 事実をどこまで子供に教えるか――というのは難しい問題だ。子供には残酷な事実は教えない、残酷さに耐えられる年齢になるまでは事実を隠す、というのは一つの「教育」方法だろう。その結果が招いた悲劇――そう捉えなおしてみても、違和感は消えない。
 この映画は、ドイツ人の涙を絞るだろうけれど、ユダヤ人にとっては、どううつるのだろう。ブルームがかわいそう、という気持ちはかわらないだろうけれど、そのかわいそうという気持ちで、ユダヤ人が味わった苦悩がいやされることはないだろう。ブルームは死んだ。だが、同時に死んだユダヤ人はブルームの家族全員よりもはるかに多い。家族の死を嘆く時間もなく、絶望する時間もなく、ただ苦しみのなかで死んでいった。誰もいなくなった小屋(小屋にしか見えない)のベッドにつるされた無数の縞のパジャマ。無念の、無数の人々の、描かれなかった「日常」はどうなるのだろう。その人たちは、かわいそうではないのか。
 どうしても、疑問というか、怒りのようなものが残る。

 そのことを別にすれば、この戦争中も、きちんと「日常」を維持するナチス将校の家庭。つましいというよりは豪華で美的にととのえられた「生活」。そして、戦争とは無関係に美しい田舎の緑。小川の流れ。透明な空気。そういう「非情」(人間の人情とは無縁の、という意味)な自然と人間の対比――そこに、悲しみが刻まれる映像の美しさは、胸に迫る。そういう自然をきちんと描いている点は、とても素晴らしいと思う。ブルームが、収容所まで行くシーン、そして最後に将校の父が、母が必死にブルームの追跡をするときの自然がまったく同じという「悲劇」――これは、ギリシャ悲劇のように美しい。



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今村秀雄「運河に沿って」、アレクセイ・パールシチコフ/たなかあきみつ訳「時刻表」

2009-08-18 10:52:52 | 詩(雑誌・同人誌)
今村秀雄「運河に沿って」、アレクセイ・パールシチコフ/たなかあきみつ訳「時刻表」(「coto」18、2009年07月25日発行)

 今村秀雄「運河に沿って」は散文詩である。行分けでは書けない、粘着力のあることばが後半に出てくる。

 「なんや、小人が酔ってわるいのか?」
 と、ののしる声に答えられず、私がその場から逃げ去るしかなかったのは、彼からの問いが正確に私の卑しい心を反映して、人ごみの商店街に浮かぶ、空虚な放心であったからだ。

 「彼からの問いが正確に私の卑しい心を反映して、」という文が、いったん「私」の肉体をくぐりぬける。そのくぐりぬけるときにひきずったものが、粘着力となって、次のことばにからまる。思わず読み返してしまうのは、その粘着力を、もう一度体験したいからである。書かれている「内容・意味」ではなく、ことばが粘着力を持つ、ということが大切なのだ。
 ことばが動いて、論理をつくる。その論理のなかに「意味・内容」がわかりやすいように整理される。--その運動は、さらりとしていて軽快なときもあるが、今村のことばは粘着力を持っている。そして、それが肉体の悲しさを伝えてくる。
 こういう粘着力を持ちつづけることは苦しい。しかし、持ちつづけなければならないと思う。だからこそ、最後の4行には、とても問題があると思う。
 今村は、せっかく到達した粘着力を脇へおしのけ、抒情にかえてしまう。

いつか二人で大きくなったらね
小さな汗の手で握りあって、どんな約束をしたのだろうか
見ろよ!カーンカーンと火花をちらせながら
夜の波間を進水して行く船

 ここが好き--というひともいると思うが、私は、ここは余分だと思う。「船」は書き出しに比喩としてつかわれている。(大きな船みたいな工場)。船をもう一度登場させることで、ことばを円還にとじこめ、完結したかったのだろうけれど、散文の精神というのは基本的に完結しない。ただ、いま、ここを破っていくだけである。
 粘着力を持ったまま「破る」「突き進む」というのはとてもたいへんなことだ。
 そのたいへんなことをやったのだから、それはそのまま、破って、突き進むしかないのである。円還にしてしまっては、破り、突き進んだかいがないだろうと思。



 アレクセイ・パールシチコフ/たなかあきみつ訳「時刻表」は、ことばが動き、論理を獲得することで粘着力を持つというよりも、文になる前に、ことばが粘着力を持っている。書き出しの4行。

海上の雨粒は柄を下むきにしたネジまわしよりも大きい。
軟弱な沖積地にある敷地と明確な境界のない全景。
彼女のながいレインコートは木立をぬいつつ色あいを変える。
彼女における将校の一列横隊に似たなにか--いくつもの楕円と睫毛が回転中に。

 ことばの粘着力は、ことばそのものが「過去」を持っているからである。たとえば「雨粒」の比喩。「下むきにしたネジまわし」。これは、アレクセイ・パールシチコフがじっさいにネジ回しをつかったことがあるという「過去」をもっている。ネジ回しをつかうときは、その上下を気にする。意識する。もしかすると、ネジを回すだけではなく、釘を打つのに柄の部分をつかったことがあるかもしれない。「過去」によって、ネジ回しがリアリティーをもち、その結果として雨粒にリアリティーが出てくる。
 比喩、とは、いま、ここに存在しない何かをつかって、いま、ここにあるものを語ることだが、アレクセイ・パールシチコフの比喩は、明確な「過去」をもっている。「過去」の時間をもっている、と言いなおせばいいだろうか。その「過去」の明確さのことを、私は「単語(ことば)そのものの粘着力」と呼びたいのだが。
 一番わかりやすいのが、4行目の「彼女における将校の一列横隊に似たなにか」というときの、「将校の一列横隊」という比喩。そこには彼女が見てきた「時間」がある。「時間」をかかえこむから、粘着力が出る。
 2連目。その1行目。

--わたしはうんざりした、--と彼女は言う、--塵まみれの車輪、宝籤の人質であることに。

 「わたしはうんざりした」。その突然の声の奥にある「過去」。それは具体的に説明されるわけではないが、説明しないことで、逆に「過去」という時間の存在だけを強烈に投げかけてくる。
 この強烈さに拮抗するために「塵まみれの車輪、宝籤の人質」という比喩が採用されるのだが、このことばも、説明を省いた「過去という時間」だけを投げつけてくる。そうやって、「過去の時間」がべたべたと粘着力を持ったまま、いま、ここにからみついてくるので、現実が、つまりいま、ここが「過去」とは切り離せないものであることがつたわってくる。そして、そんなふうに「過去」に現在が蹂躙されるという苦悩がどうしようもない力で目の前にあらわれてくる。
 こういう詩を訳すときは、きちんと「歴史」を知らないと、ことばが動かないだろうなあ、と思う。ことばのひとつひとつが、強い力で存在しているのを読むと、たなかはきっと歴史をちゃんと踏まえているに違いないとわかる。アレクセイ・パールシチコフの来歴など、私は何も知らないが、それらしいものが見えてくる。感じられてくる。たなかの訳は、そういう「過去」を感じさせる訳である。




ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂

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