詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(61)

2009-08-18 07:14:43 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一四四
秋の日のよろめきに
岩かどにさがる
妖霊の夢
たんぽぽの毛球
半分かけた
上弦の夢うるはし

 「岩かどにさがる」の「か行」の動き、「妖霊の夢」の「や行」の動きも愉しいが、最後の2行の「は行」が愉しい。現代仮名遣いでは「は行」が浮かび上がらないかもしれないけれど、あ、「うるわしい」は「は」だったのだ、「は」の音は冒頭以外は「わ」になるのが日本語の規則だった……などと、思い出してしまったが。
 ここでは、絶対に、西脇は「は行」にこだわっている。
 その証拠。
 「半分かけた/上弦の夢うるはし」の「上弦」は「上弦の月」であるだろう。上弦の月は半分欠けているに決まっている。(下弦の月もだが)。その誰が見ても半分かけている上弦の月を「半分かけた」と書くのは「はんぶん」の「は」の音を印象づけたいためなのである。

一四五
村の狂人まるはだかで
女郎花と蟋蟀をほほばる

 この2行では、「蟋蟀ほほばる」という音を西脇は書きたかったのだ。「蟋蟀」は旧かなで書けば「こほろぎ」。「ほほばる」の「ほ」が出てくる。そして、「ほほばる」の2度目の「ほ」と「こほろぎ」の「ほ」は、口語にしてしまうと、つまり声に出してしまうと、ともに「お」になる。
 「一四四」の「半分」と「うるはし」では音は微妙に違ったが、「蟋蟀」と「ほほばる」では、音が完全に重なる。
 西脇は、ことばで音楽をやっているのだ。


続・幻影の人 西脇順三郎を語る

恒文社

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松川穂波『ウルム心』(2)

2009-08-17 09:38:32 | 詩集
松川穂波『ウルム心』(2)(思潮社、2009年07月10日発行)

 「世界」を「部品」に分解(解体?)してしまう視線。そして、その解体からもう一度、隠れていた「世界」を築き上げる視線。こういう強靱な視線は、詩よりも散文に適しているかもしれない。解体から再構築へ進むとき、どこかでぐいとすべてを引き受ける度量のようなものが必要なのだが、そういうものを松川はそなえている。自己主張ではなく、相手に(部品に)思う存分動き回らせ、それをつかず離れず支える距離感がいい。
 「いつものバーへ」の途中の部分。風邪をひいて病院へ行った。その描写。

巨体に黒い眼鏡をかけた陽気な二代目院長は ただの風邪ですよ と言って
かしこまるわたしを安心させた そしてインフルエンザの発見とその歴史につ
いて 身振りをまじえて話しはじめた ころころとした指が顕微鏡になり 死
体を埋めるスコップになった やがて 話題を第一次世界大戦にうつし(二
代目院長はウイルスより戦争の方がお好きなようだ) ドイツ軍の塹壕のな
かの兵士が十をかまえるポーズをとったとき 女性看護師が次の患者のカルテ
を そっとさしだして 戦争はいきりり終結

 とてもいきいきしている。松川の描く主人公(?)というか、「わたし」は何もせず、受け身で、現実を解体してながめているような感じがあるのだが、他人(?)というか、この詩の場合、医者だが、直接日常にかかわってこない人は、倦怠感とは無縁の、積極性に満ちた人間である。その積極性が、ある意味では松川の世界の解体に力を貸しているのかもしれない。「世界」の構造からはみだして生きていこうとする力--それを受け取るとき、そこに「世界」をつくっている「部品」には、「部品」ではおさまりきれない何かがあると感じ、それをていねいにみつめてみようとする意識が松川にあるのかもしれない。
 この二代目院長には、話のつづきがある。そこもおもしろい。

わたしは 財布を待合室に置き忘れたことを思い出した 自然に小走りになっ
て もとの道を戻った 受付に走り込むと さっき診察をうけたばかりの二代
目院長がタヌキのように座っている わたしが何もいわないさきから にこに
こしながら ころころした指で わたしの財布を差し出す「はい これ」ああ
医者にしておくには惜しい男だ 深く礼を言い せわしげなふりをして立ち去
る ゆっくりしていると またウイルスの いや次の戦争が始まりそうだった
から 微熱は消えていた

 前半の描写に比べると、ちょっと密度が落ちている。--けれど、その少し密度が落ちている部分がとても微妙なのだ。「微熱は消えていた」とあるように、松川は「健康」になっている。そうなると、世界の解体が微妙におとなしくなる。
 松川の世界は「微熱」と一緒にある、ということかもしれない。松川のことばの運動の距離感は「微熱」の距離感かもしれない。
 微熱があるとき、変な話だが(あるいは、強引な話だが)、目なんかはウルム。そして、そういうウルム目で世界をみると、なんとなく、世界も少し世界そのものから分離しているというか、離脱しているように感じられることがある。世界につながっているのだけれど、ひとつひとつが「部品」となって、そこから少し浮いて見えるように感じるられることがある。
 「ウルム窓」とは「ウルム目」のことだ。「目は心の窓」だからね。

 この微熱の目、微熱のこころ--そのことを、というか、微熱のなかで何かを感じている「わたし」と、そのことを意識する「わたし」のことを、「竹林」という作品は描いている。

竹林のなかには
竹が立っている
竹でないものも
竹の姿で立っている
頬をおしあてると
竹は ひんやりした碧の冷たさ
竹の姿をしたものは
あえかな震えを伝えてよこす

 「頬をおしあてると/竹は ひんやりした碧の冷たさ」は「わたし」に「微熱」があるとき、いっそう鮮烈に感じられるだろう。そして、ここでとてもおもしろいのは、「わたし」が竹そのものではなく、「竹の姿をしたもの」(竹ではなく「部品」になってしまった竹を「竹の姿をしたもの」は呼んでいるのだと思う)に反応していることである。
 ここには朔太郎の「竹」に対する敬意がある。
 「あえかな震え」という表現に、それが色濃くでている。

風が渡れば
竹は
かしこい生徒たちになって
しずかに はしゃぐ
竹の姿をしたものは
少し遅れて
はしゃぎすぎるから
(わたしには)すぐ わかる

 「しずかに はしゃぐ」という矛盾の美しさ。そして、そのあとの「少し遅れて」という「ずれ」の指摘。世界の構造から、「少し遅れ」るとき「部品」は「部品」らしくなる。時流(?)から少し遅れて動く--その動きのなかに、「部品」の懸命さが浮かび上がるのである。こういうものを松川はていねいに、すくいあげる。
 そういうものは誰にでもわかるかどうかは判然としないが

(わたしには)すぐわかる

 そう。松川は、そういうものを明確に見て取るのである。「ウルム心」、ウルム目は、健康な(?)目よりも敏感にはんうのするのだ。
 とぎれとぎれの引用で申し訳ないが、詩は、つづいていく。

曇天をつき破って
さーっと陽が漏ると
竹林のなかは 浄土のように白く光る
いつか切られる日
竹は すっくと静かである
(中空は すでに孕まれて)
ゆっくりと笑いながら天頂から倒れてくる
竹の姿をしたものは
そのとき
どこかに消える
(嗚咽のような葉ずれがして)

竹林のなかは
ざわめく碧の蜃気楼
わたしと わたしでないものが
わたしの姿で横切っていく
竹の姿をしたものがついてくる

 最終連に登場する「わたしと わたしでないもの」。ここに「微熱」がある。「微熱」が「わたしと わたしでないもの」をつくる。
 微熱を、「意識の覚醒」と呼んでもいいかもしれない。それまで眠っていた意識が揺り動かされて、ふと目覚める。それは軽い覚醒である。軽いから重要ではない、というのではない。始まり、あるいは覚醒の始まり以前の始まりのような、小さな、微細なものであるけれど、そこから、振幅が大きくなり、世界がゆらぐことがあるのだから。
 微熱のなかで、「わたしと わたしでないものが/わたしの姿で」動くとき、それにあわせて、世界の「部品」が「部品」の姿で動きはじめる--それを松川は書いている。

 これは、ほんとうにおもしろい詩集だ。



バラの熱―詩集
松川 穂波
白地社

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誰も書かなかった西脇順三郎(60)

2009-08-17 07:06:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

一四〇
秋の夜の悲しき手を
引きよせ
くぬぎの葉ずれをかなでさせ
かよわい心はせかる
星の光りを汲まんと
高くもたげる盃の花咲く
むくげの生籬をあけ
静かなる訪れをまつ
待ち人の淋しき

 前半が、私は好きである。「くぬぎの葉ずれをかなでさせ/かよわい心はせかる」。ここにはかさかさという音が隠れている。「悲しき手」「かなで」「かよわい」よりも、「せかる」の「か」が「かさこそ」という音を浮かび上がらせる。「せか」るの「せ」が「さ行」を呼び覚まし、「かさかさ」になるのだろう。

一四一
野に摘む花に
心の影うつる
そのうす紫の

 この断片では「う」の音がとても印象的だ。「うつる」「うす」紫--その「う」の原点は「摘む」になる。「う」は子音の影に隠れているけれど、その静かな響きが「うつる」「うす」紫の「う」を、底からていねいに支えている。

 絵画的イメージよりも、音の呼び合う感じの方が私には強く感じられる。





幻影の人 西脇順三郎を語る

恒文社

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高橋睦郎『永遠まで』(17)

2009-08-17 00:02:55 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(17)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「思うこと 思いつづけること」は四川大地震の死者たちに捧げられた詩である。その4連目。

飲めず、食えず、眠ることのできないあなたがたと、飲み、食い、
眠らずにはいられない私どもが和むには……しかし、私どもがあな
たがたと和むことは、けっしてありえないだろう。その厳然たる事
実を思うこと、避けることなく思いつづけること。

 生きている人間は思いつづけなければならない。そして、思いつづけるために書く。ことばにする。思うだけではなく、きちんとことばにして、書く。書き留める。そして、書きつづける。
 これは四川大地震の犠牲者に対してだけではなく、高橋が一貫してとりつづけている態度である。この詩集を貫いている姿勢である。
 最終連で、もう一度、繰り返している。

いまはそのことを思わなければならない。心を尽して思わなければ
ならない。あなたがたが関知しようとしまいと、つづけられる限り
思いつづけなければならない。それが私どもがこちら側にいるこ
と。そして、あなたがたが向う側にいるということ。等しく、ひと
りひとり、ひりひりと孤独であるということ。

 最後のことばは複雑である。死者は孤独である。その死者を思いつづけるとき、「私」も孤独である。しかし、そこに、何らかの通い合うものがないのか。--高橋は、ない、と言っているように思う。何も通い合わない。けれど、思わなければならない。
 生きている私たちが死者を思ったからといって、死者が孤独から解放されるわけではない。死者は孤独である。だからこそ、その死者に匹敵する孤独を獲得するために、詩人はことばを書く。死者の孤独を生きるために書く。
 そうやって、高橋は「死者」そのものになろうとしているようにも思える。

 この詩集におさめられた多くの追悼詩--そのなかで、高橋は、死者そのものになろうとしていた。死者を生きようとしていた。その多くは高橋の知人であったが、この「思うこと 思いつづけること」には、そういう知人は出てこない。だから、この詩では、高橋は死者の具体的な生については触れていない。生きてきた「過去」については触れず、死の瞬間、死というものだけを浮かび上がらせ、死者そのものになろうとしている。
 抽象的である。抽象的である分、高橋の思想が抽象化され、一般化されているような印象が残る。
 







永遠まで
高橋 睦郎
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(59)

2009-08-16 07:47:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一二六
或る日のこと
さいかちの花咲く
川べりの路を行く
魚を釣ってゐる女が
静かにしゃがんでゐた
世にも珍しきことかな

 「世にも珍しきこと」と言われているのは何だろうか。釣りをする女? しゃがんでいる女? 私は「音」から「しゃがんでいる」の方だと思う。思ってしまう。
 「さいかちの花」というのは、私はどうしても思い出せないのだが、さいかちというのは幹に棘があり、豆のような実がなる木である。その豆のような実は、田舎の川の、小さい名前もないような魚が釣り針にかかったように、哀れである。
 西脇がこの詩を書いたとき、ほんとうに釣りをしている女を見たのか。
 私には、どうも、さいかちを見ているうちに思いついて書いた空想のように感じられる。さいかちの棘は釣り針の先っぽである。さいかちは川の近くにある。だから、釣りを思いついたのだろう。そして、釣り人は、男ではなく、女の方が、なぜかはっとさせるものがある。だから、女。--そして、その姿を描こうとしたとき、「さいかち」ということばの冒頭の「さ」が「静かにしゃがんで」の「さ行」を誘い出したのだ。(「さ」と「しゃ」の子音は正確には別の音ではあるけれど……。)私には、そんなふうに感じられる。「さいかち」という音には、そんな力がある。

一三二
茶碗のまろき
さびしきふくらみ
因縁のめぐり
秋の日の映る

 3行目、「因縁のめぐり」という音が異質である。起承転結の「転」という感じで、1行目、2行目の音を破っている。その破壊によって、「秋の日の映る」がとても静かな感じになる。そして、そのまま、もう一度1行目へ帰っていく。
 この循環運動は「秋の日の映る」の「の」の力が大きいと思う。「秋の日が映る」でもいいのだろうけれど、「の」の方が静かに循環する。「まろき」の「ろ」の中にある「お」と「秋の日の」の「の」の中にある「お」が通い合う。「が」の場合は、音の明るさが違ってしまう。


随筆集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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松川穂波『ウルム心』

2009-08-16 01:54:34 | 詩集
松川穂波『ウルム心』(思潮社、2009年07月10日発行)

 松川穂波『ウルム心』を読んだ。私は不勉強な人間なので、松川穂波という詩人を知らなかった。同人誌か何かで作品を読んでいるかもしれないけれど、まったく記憶にない。たぶん、今回読むのが初めてだと思う。
 読みはじめてすぐ引き込まれた。文体が安定している。とても安心して読むことができる。ただし、文体が安定しているのだけれど、その安定がどこから来るのかよくわからない。そして、文体が安定していると言っても、それは何かを積み上げていくというような文体ではない。うまくいえないけれど、ことばを積み上げて、その果てに何かを築き上げるというような文体ではない。築き上げていくのではないのだけれど、その細部のひとつひとつが堅牢で、その堅牢さが、文体が安定しているという印象を産むのだ。
 この堅牢さ、叩いてもこわれない感じ--れは、何なのだろう。
 その疑問を抱いたまま、読みはじめたら、やめられない。
 表題作「ウルム心」に何か手がかりがあるだろうか。私は、急いで、急いで、急いでページをめくるのだけれど、「ウルム心」という詩がない。目次を見る。やっぱり、ない。どこか、ある1行に隠れているのだろうか。またまた、ぺらぺらぺらとページをめくる。でも、見つからない。一気に読んだので読み落としているかもしれないが、どの作品にも「ウルム心」ということばがない。(もし、どこかにあるのなら、ごめんなさい。読み落としです。)
 たしかに、この詩集の文体は、先に書いたように何かを築き上げていくような文体ではないから、うるむ、うるうるゆるむ、というような感じなのだけれど、それはじめじめしていないし、ゆるむといっても構造がゆるやかになるというだけであって、けっしてこわれない。こわれないようながっしりした細部でできあがっている。
 これはいったい何なのだろうなあ。
 詩集を片手に持って、掌に叩くようにして、ぽんぽんぽん。ふと、「帯」に目がとまった。倉橋健一が書いている。「頽唐意識」などという不思議なことば、私の知らないことばがあっていやだなあ、と思いながら、そのつづきを読むと。

「窓」の一字を「ウルム心」と覚えればと教えてくれた

 びっくりした。「ええっ」と思わず、声がでた。
 「窓」という漢字を分解したのが「ウルム心」なんだねえ。昔、「疑問」の「疑」という字を、「ヒ、マ、矢(や)」から疑問が浮かぶんだと説明してくれた友人がいたが、それを聞いたときと同じような衝撃を受けた。私は、そんなふうには漢字を見ることができない。
 そして、同時に、ああ、そうなのだ、と納得した。というか、何かがわかったような気持ちになった。
 松川の文体は、あることがらを、分解して見せたものである。「何かを積み上げていく文体ではない」と最初に書いたが、それは「いま」「ここ」を、独自の距離感で分解していく文体なのだ。安定している--というのは「窓」を「ウルム心」と分解するように、その分解の方法が、誰もが知っているものに向けて分解していて、その誰もが知っているということをけっして踏み外さないところにあるのだ。
 そして、この誰もが知っているものを、松川は「部品」と呼んでいる。
 「海辺の市」という作品に出てくる。私は本を読むとき、ドッグイヤー(ページの端を三角に折る、犬の耳みたいにね)をつくり、鉛筆で、この部分からなら感想が書けるかな、と思うところに傍線を引きながら読む。最初のドッグイヤーと傍線が、そこにあった。

海は荒れていた

海辺の市にまぎれこむ
ひとたばの菊 鍋 古い切手 鳥かご 歳時記 干魚 ひしゃく 線香 錠前
わすれられたような
部品が並べられ
世界をあたらしく淋しくしていた

 この行に、私は「ウルム心」を感じたのだ、きっと。「世界をあたらしく淋しくしていた」の「あたらしく」はあくまで「あたらしく淋しく」である。「あたらしくしていた」ではない。その「あたらしいさびしさ」が「部品」のなかに宿っている。「世界」という「構造物」から解体された「部品」が、何も作り上げることもできず、こんなふうにして実は「世界」をささえていたのは、実は私たちです--と静かに主張するように、そこに存在している。
 「世界」の「構造」の一部、その部品となって生きているものたち。そのひとつひとつに、ひっそりとよりそって、そのさびしさを代弁する。ああ、いいなあ、この抒情。

売るものは何もない
買うものは何もない
白い波が沖から押し寄せ
黙って帰っていった

ぼうぼうとテントが鳴り
悪寒が鳴り

わたしはある老人から 南の国の毒蛇のエキスだと称する薄赤いビン入りの水
薬を買わされた 蛇のジュースでしょうか いや 肩こりの特効塗り薬だとい
う 老人の南の国のなまりは温かい テインの下に飾られた毒蛇の剥製の目が
海をみつめていた

その日
海は無心に荒れていた
海も無心も
世界の部品であった
南の国も肩こりも
遥かに連結されていた
海辺の市をさまよいながら
わたしは わたしだけのあたらしい日々を望郷した

白い波が沖から押し寄せ

 「遥かに連結されていた」にも、私は傍線を引いていた。世界が部品に解体され、それは同時に、それまでとは違った「構造」というか、「連結」をさびしく夢見ているのだ。その連結の中には「南の国」も「肩こり」もある。
 日常の、流通言語でとらえた世界の構造では、そういうものは連結されない。けれど、松川は、そういうものを静かに連結する。
 「窓」を「ウルム心」という部品に解体し、そのあと「窓」として連結するとき、窓は少しあたらしいさびしさになっている。
 それと同じことが、「海辺の市」の「部品」と「世界」の関係で起きている。「さびしれ」が新しく定義しなおされている。いままで、誰も書かなかった抒情詩である。傑作詩集である。





ウルム心
松川 穂波
思潮社

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高橋睦郎『永遠まで』(16)

2009-08-16 00:21:18 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(16)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「ぼくはいつか」。北欧の詩人、ニルス・アスラク・ヴァルケアパー、通称アイルに捧げた詩。その書き出し。

ぼくはいつか みたことがある
はげしく吹きつける雪片(ひら)の中
せめぎあい ぶつかりあう枝角(づの)
吐き出され たちまち霧粒(つぶ)となる息と唾(つば)
大きく見ひらいた 血走った目 目 目
吹雪の森を抜け 凍てついた川を渡り
進む 進む けもの けもの けものの群
群に寄り添い 群を守る毛皮の人の群
雪に国境がなく けものに国境(くにざかい)がないように
毛皮の人の群にも 国が 国境がない

 トナカイの群れと狩猟の人々の描写だが「雪に国境がなく」がとても美しい。大地だけではなく、天にも国境がない。大地のことは国境と結びつけて想像するのはたやすいが、天のこととなると、私は思いもつかなかった。この天を、領土の上の「空」と考えれば、領空というものがあるから、そこに「国境」はあるのだが、私は「雪に国境がない」ということばを呼んだ瞬間、横にひろがる「空」ではなく、どこまでもどこまでも高みへのぼっていく天を思ったのだ。
 私の、この読み方は、誤読かもしれない。高橋は「領空」の意味で「雪に国境がない」と書いたのかもしれないが、私には「天」が真っ先に浮かんだのだ。そして、その「天」で起きている「気象」、空気の運動、水分の運動、蒸気が上昇し、冷やされ雪になって降ってくるという運動--その運動こそ、「国境」(国家)を超越している。その運動は、繰り返される真実である。地と天を行き来するその真理の運動に国境はない。そして、その運動は、天地とか東西南北とかいう、人間の意識をも超越して、自由である。真理というのは(あるいは、事実と言い換えてもいいと思うのだが)、自由なものなのである。

 そんな思いに、ぐい、と引っぱられるようにして詩を読み進むと、詩人・アイルの生涯が語られてゆく。アイルはトラックにはねとばされて宙を舞う。無事、回復し、高橋たちと連詩を読む。そして、突然、死んでしまう。昇天する。アイルは、地と天の間で、雪のように運動したのだ。軽やかに。

 詩の、最後の部分。

あれから四年 年ごとに透明になるきみの
気配の記憶に ことしまた はじめての雪
降りつづく雪の中で 国もなく 国境もなく
ぼくらが 習いおぼえなければならないのは
絶えず発つこと 発って無重力になること
無重力ですらない 透明な無の翼になること
無の翼でいっぱいの天(そら)に 宇宙になること

 「天」と「宇宙」が登場する。「雪に国境がなく」に、やはり「天」は隠れていたのだ。詩のことばは、たぶん、詩人の書きたいことを誘導するように動く。その誘導を信じて、そのことばについていくことができる人間が詩人なのかもしれない。
 そのとき、詩人のことばは、アイルそのままに、雪となって天を舞う。(そら)と高橋はルビを降っているが、その(そら)は「領空」とは無縁の、どこまでもどこまでも高い(そら)である。そのはてしない(そら)をことばが舞うたびに、高橋はアイルを思い出すのだ。高橋は、アイルのことばを追いながら、アイルそのものに、つまり、天と地を結ぶ真実になるのだ。
 とても美しい詩だ。


宗心茶話―茶を生きる
堀内 宗心,高橋 睦郎
世界文化社

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大谷良太『今泳いでいる海と帰るべき川』

2009-08-15 11:22:21 | 詩集
大谷良太『今泳いでいる海と帰るべき川』(思潮社、2009年07月25日発行)

 大谷良太『今泳いでいる海と帰るべき川』は散文詩である。散文ほんらいの特徴というのは論理の積み立てによってことばが加速して、いま、ここから離脱していくことだが、大谷の散文はすこし違う。いま、ここから離脱して、どこかへ行くのではなく、いま、ここを解体する。散文なのに、ことばを積み立てない。積み上げない。ことばを組み立てている何かを解体する。そして、こわれていく先に、いま、ここの危うさを浮かび上がらせる。

 「熊」という作品はキッチンにまぼろしの熊を飼っているという詩だが、この熊のことは深くは描かれない。つまりカフカの「変身」のように深くは描かれない、という意味だが。熊を中心に日常がすこしずつねじまがってゆくという具合には描かれない。そのねじまがりぐあいのなかに、現実の問題が描かれるという具合にはことばは動かない。
 そのかわり、熊ということばとともに、一気に現実が、日常が解体していく。

私は孤独なそいつに観察されながらハイネケンを傾けていた。誰かにそのことを話したい、誰だってかまわない。無性に思う。「きみは熊を飼っているかい? そいつは人なつっこいかい?」

 「私」は孤独である。話し相手が「誰だってかまわない」と思うくらい、孤独である。この人にだけはわかってもらいたいというような、深い孤独ではない。「私」がかかえている空虚な孤独が、「きみは熊を飼っているかい? そいつは人なつっこいかい?」ということばとともに投げ出される。どんな悩みでも深刻な悩みは、あらかじめ質問者の内部で答えが用意されていて、その答えにあうかあわないかが、重要なのだ。「やっぱり」か、「そんなはずはない」か、たいていの場合は、どんな答えにしろ、その両方の感想を持ってしまうのが深刻な孤独の悩みだが、大谷の描く孤独は、そういう領域へは踏み込まない。
 ただ、そう言ってみたいのだ。そして、答えとしては「きみは熊を飼っているかい? そいつは人なつっこいかい? だってさ」という反応しかないのだ。
 この空虚なやりとりを、たとえば「透明な空虚」と呼ぶと、とたんに詩らしく(?)なるのは、不思議だ。きっと、詩は、いま病気なのかもしれない、とふと思った。

 詩集のタイトルとなっている「今泳いでいる海と帰るべき川」は一緒に暮らしている女と男のことを描いている。そこには「熊」の話が別の形で出てくる。

生鮭をムニエルにしながら、彼女は考える。そして話してくれる。「わたしが育った川はどこなんだろう? わたしが帰る川はどこなんだろう?」バジルの壜を手に持ったまま、私もしばらく考えてみる。少なくとも、今泳いでいる海を私は知っていると思う。けれど彼女が知りたいのは帰るべき川のことだ。

 「私」が「海」と呼んでいるものは、現実の日常である。それは日常世界の比喩である。彼女が「川」と呼んでいるのも比喩である。比喩と比喩が、ここではすれ違う。つまり、その比喩の海と川を泳いでしまう鮭の存在によってかろうじてつながっているのだが、それはつながっているというよりも逆に二人を別々の方向へ解体してしまう。少なくとも、「私」は鮭によって川と海がしっかり結びついているのではなく、「私」には川のことがわからない、そのわからないことを間にして「私」は「彼女」と、いま、ここにいる、ということが浮き彫りになる。
 この関係の、一瞬の希薄さ。空虚さ。透明さ。

 たぶん、「せつなさ」ということばで、大谷のことばを読み直せば、もっと違った形で感想を書けるのだと思う。その方が、きっと大谷の詩の本質に触れることになるとは思うのだが、抒情の構造が、散文という形式をかりたために強く表にでて、「現代詩」になりすぎている感じがする。



今泳いでいる海と帰るべき川
大谷 良太
思潮社

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野木京子「梔子の朝方」

2009-08-15 07:47:20 | 詩(雑誌・同人誌)
野木京子「梔子の朝方」(「文藝春秋」2009年09月号)

 野木京子「梔子の朝方」の1行目で、私は奇妙なことを感じてしまった。

棒のように(ぼーれぃ)役立たず
朝焼けの坂の途中で立ち尽くしていたら
どこからか降りてくる人々がいて
彼らは私を通り過ぎ あるひとは私の胴を通り抜けた
              (火を越えて海へ行くの?)
つぶれた街の子どもたちは私を取り囲み
ぐるぐる回り 私の手をつかみ 連れていこうとするので
私はわぁわぁ叫んで 声をあげて振り払ったが
今でも体の一部は連れていかれたままのよう
穴があいて どこか存在がすぅすぅする

 1行目の「ぼーれぃ」は漢字で書けば「亡霊」になるのだと思う。「亡霊」のような体、何かを失ってしまった体。その感覚の中を人が通り過ぎていく。3、4行目は、そういうことを書いているのだと思う。全体としては、「亡霊」のように、何かを失ってしまった空虚な感じ(存在感が欠落した感じ)を書こうとしているのだと思う。
 そうはわかっているのだが、1行目の「ぼーれい」を私は、「棒例」と思ってしまったのだ。「棒例」と、誤読したいのだ。(誤読は、私が一番好きなことがらだ。誤読しているときが、一番愉しい。)
 「棒例」というのは、もちろん、造語である。どういう「意味」かというと、「棒」の「例」(例え)である。「棒のように」というのは直喩であるが、その「棒のように」を言いなおしたことばが「棒例」。--そして、その「棒例」という奇妙なことばをつかうのは、実は、比喩する(?)運動そのものを描きたくて、わざとそう書いているのである。野木がほんとうに書きたいのは「亡霊のような欠落感」ではなく、比喩をつくりあげる精神のありようそのものなのである。
 比喩とは、いま、ここにないものをつかって、いま、ここにあるものを印象的に表現することである。ある存在と比喩のあいだには、何か不思議な関係がある。存在と比喩のあいだを、何かが行き来する。その精神の運動は、もしかすると、どこかで存在感を書いたものかもしれない。
 --というのは、正しい言い方ではないかもしれない。
 ある存在を、比喩をつかって語るとき、何かが欠落する。比喩が押しつけたものが、存在から何かを押し出してしまう。それは重要なものであるかどうかはわからないのだが、たとえば人間を「棒」にたとえたとき、人間の何かが「棒」を受け入れるとき失われていく。比喩とは、何かを奪い取り、別の何かをつけくわえる行為かもしれない。
 そういう運動、ことばの操作をする運動をつづけると、人間は、やはり存在感を欠いたものになってしまうのではない。何か大切なものを失ってしまうのではないか。

 --というようなことを、野木は書きたいわけではないのだろうけれど、私は、「ぼうれぃ」ということばから、そのことばが登場するすばやさから、そんな奇妙なことを考えてしまった。


ヒムル、割れた野原
野木 京子
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(58)

2009-08-15 07:15:55 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一二二
十二月の初め
えのころ草も枯れ
黄金の夢は去り
夢の殻(から)のふるへる

 この作品は、最後の行が不思議に美しい。「夢の殻」の「から」という音が美しい。「黄金の夢は去り/夢の殻はふるへる」という2行は、「夢」ということばが2回もつかわれていて、少しうっとうしい感じがするのではないけれど、不思議と「から」という音が美しい。2行目「えのころ草も枯れ」の「枯れ」と響きあうからだろうか。そうか、「殻」というのは「枯れた」存在なのか--と、意識が音楽のなかで、呼び合っている形象を感じ取るからだろうか。

一二三
山の椿は
年中花咲くこともなく
枝先の白い芽は葉の芽
はなよりも葉の美しき
黒ずめるみどり
かたく光るその葉
一枚まろめて吹く
その頬のふくらみ
その悲しげなる音の
山霊にこだまする
冬の山の静けさ

 「黒ずめるみどり」からつづく行のリズムが気持ちがいい。特に「一枚まろめて吹く」からの3行のリズムと、音のつらなりが、私には気持ちがいい。「ふ」を中心とする「は行」と「その」がつくりだすリズムが、一気に加速していく。


文学論 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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高橋睦郎『永遠まで』(15)

2009-08-15 00:07:02 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(15)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「海へ 母へ」はジャック・マイヨールに寄せた作品。そのなかほど。

海の中には すべてがある
そのことを説明するのに なんと
人間の言葉の 貧しいこと
試みて 果たさず いらだって
とどのつまりは 海へ
海の中に 言葉はあるか
海にあるのは たった一つの
融通無礙な 言葉以前の 言葉
その言葉は きみを 抱きとる
限りなく 自由にしてくれる

 何かに魅了された人間というのは、ここに書かれている状態にあるのだ。「何か」のなかに、ことばにならないことばを感じ取る。それは日常私たちが話していることばでは伝えられない。つまり、ことばにはならない。ことばにはならないのに、ことばを感じる。そして、そのことばのなかでうっとりしてしまう。
 あらゆる人間が、ことばにならないことばにひきつけられる。ことば以前のことばを、「肉体」そのもので感じてしまう。
 もし、それをむりやりことばにすると、どんなことがおきるのか。

きみのメッセージに 人間たちは
惜しみない 拍手とほほえみ
結局は とまどいと拒絶
きみに寄り添い 抱きあい
共に 海に潜った恋人さえも

 人は、ジャック・マイヨールの行為を称讃し、そのことばも読むけれど、ジャック・マイヨールはあいかわらずひとりである。
 だれが、彼のことを理解できるか。だれが、彼を真摯に抱き留めることができるか。それは、少年ジャックが海へ飛び込んだとき、ジャックの名を呼んだ母だけである。行ってはいけない、危ない、と心配して陸へ呼び戻そうとする母の声だけが、ジャックの声にならない声を理解している。その声に魅せられては、絶対に、陸へ帰ってくることはできないと、母だけが知っているのだ。
 それは、母といういのちの本能だろうか。

きみは還っていく 始まりへ 海へ
幼いきみを呼ぶ 遠いあの声に
応えるために mama-a-a-a-a-a-n-n

 この母と子の絆--それは、「奇妙な日」に書かれている母と高橋のことを連想させる。高橋は、ただ母のために、「ぼくの大好きな たったひとりの/おかあさん」と書くために、詩を書いているのではないだろうか、とふと思った。





和の菓子
高岡 一弥,高橋 睦郎,与田 弘志,宮下 惠美子,リー・ガーガ
ピエ・ブックス

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磯崎憲一郎「終の住処」

2009-08-14 15:45:55 | その他(音楽、小説etc)
 磯崎憲一郎「終の住処」(「文藝春秋」2009年09月号)

 芥川賞受賞作。ひさびさに、あ、おもしろい芥川賞作品だと思った。文章がいい。ていねいで、落ち着いている。
 ストーリーは、あって、ない。ストーリーはどうでもいいのである。

 妻はもう何年も前から知っていたのだ。「別に今に限って怒っているわけではない」おそらく妻は、俺と結婚する以前から結婚後に起こるすべてを知っていた、妻の不機嫌とは、予め仕組まれた復讐なのだ。妻は俺に復讐するために結婚した、しかし復讐せねばならないだけの理由、つまり俺の浮気は、じっさいには結婚した後に起こった。--この論理はあきらかにおかしい、因果関係が、時間の進行方向が反転している。しかし永遠の時間、過去・現在・未来いずれかの時間のなかで確実に起こることならば、ひとりの女といえどもそれを予め知ることが不可能などと誰がいえるだろう?

 ここに磯崎の書こうとしていることが集約している。「永遠の時間、過去・現在・未来いずれかの時間のなかで確実に起こること」は、人間は予め知っている。単純化していうと、人間は産まれ、死ぬ。これは、誰でもが知っている。そして、その間には、恋愛があり、結婚があり、ということも誰もが知っている。もちろん、そういうことをしない人もいるけれど、人の一生には、知らないことなど起きない。知らないことは、起きても、それがなんであるかはわからない。
 たとえば、9・11の同時テロ。起きてしまったことについて、私たちは何事かを知っているが、それが自分の生活とどんなふうにつながっているかは、誰も知らない。いや、わかっている人もいるかもしれないが、わからない人がほとんどである。どうして飛行機が何機も乗っ取られ、それが凶器になったのか。その劇的な変化と、自分の生活をつないで、生活のこととして語れる人は、誰もいないと言ってしまってかまわないくらいに、とても少ないはずである。
 ところが、そういう特別なことではなく、日常のことは、人は誰でも、何かが起きる前から知っている。この小説のテーマである結婚というか、男女のなかのことなど、特にそうである。男と女は出会ったときから、次に何が起きるかを知っている。知っていて、結婚するのである。そして、「やっぱりなあ」というような後悔(?)を抱きながら生きていく。(もちろん、逆に、「かならず夢がかなうとわかっていた」ということもあるのだが。)
 この、やっぱりなあ、というとき、その「やっぱりなあ」の向こう側(?)には、ことばにならないたくさんの思いがある。「やっぱりなあ」と思った瞬間、その思いの中に一気に結びついてくる過去の記憶というものがある。その結びつき方は、ある意味では、非論理的で、いい加減なものだが、突然、過去が現在と脈略をもち、同時に未来をも支配するということが、これもまた、ことばにできないくらいの「ひらめき」で頭のなかを駆け回る。
 これをことばにするのは、とても難しい。そこでは時間が収縮したり、逆にとてつもなく延びたりする。ことばにすると、どうしても非論理的で、くだくだとした愚痴(?)のようなもの、きいていてうんざりするようなもの、ぞれでどうしたの、といいたくなるようなものになってしまう。
 こういうことを、磯崎は、ていねいに書いている。
 たとえば。
 遊園地に妻と子供と一緒に遊びに行った。おもしろいことは何も起きない。さあ、帰ろうというときになって、

「せっかく来たのだから、観覧車にだけは乗っておきましょう」そのとき妻は、たしかに丘の頂上を見上げていた、しかしことばは別の遠い場所で話された過去の言葉のように、遥かに聞こえた。--そうか、しまった! もしかしたらこの観覧車は家(うち)の窓からでも、夕焼けのオレンジ色の稜線からわずかに飛び出る小さな黒い半円形として見えているのではないだろうか? きっとそうだ、そうに決まっている。結婚して、新居を構えてからの六年間というもの毎日、妻は遠くにこの観覧車が見えることだけを支えにして生活してきた、いつも妻が見ていた遠くの一点とは、まさしくこの観覧車にほかならないのではないか! --だが落ち着いて、冷静になって考え直してみれば、彼の家の窓が開いている南側は、この遊園地のある町とは真反対の方向だった、観覧車などは彼の家から見えるはずがないのだ。

 妻のことばをきっかけに、男は思いめぐらしている。一度は、「きっとそうだ」と思い、すぐに、その間違いに気がついてそれを否定している。ここでは、男の思い、錯覚がていねいに再現されているだけで、現実には何も起きていない。こういうことを、磯崎はていねいに書くことができる。
 こうしたことがら、いろいろな思い込み、錯覚、しかも、それは一瞬のことなので、現実にはなんの影響も与えないようなことは、いつでも人の思いの中にしまい込まれていて、ことばになることはない。そういう、ことばにならなかったことばを、すくいだし、小説の中にきちんと整理している。
 誰もが知っている、誰もが思っている--けれど、まだ誰も書かなかったことを書く。それが文学のおもしろさだ。醍醐味だ。



終の住処
磯崎 憲一郎
新潮社

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平岡敏夫『蒼空』

2009-08-14 15:02:22 | 詩集
平岡敏夫『蒼空』(思潮社、2009年08月01日発行)

 「あとがき」に「十四歳になって間もなく陸軍に入り、十五歳の夏の敗戦まで一年半ほど軍隊生活を体験した。」とある。そのときの体験を描いた詩集。
 「そら」という作品が一番こころに残った。

くろいほどのあおいそら
どこまでもひきこまれてしまうあおぞら
たましいのつながりがのぼってゆくそら

おんなのめのようにすみきったあおぞら
おんなのあしのようになめらかなそら
おんなのはだのようにあたたかいそら

たなびくしろいひげがみおろしているそら
くろいくろいまっくろなおくのおくのそら
あおぞらをかみがしずかにおりてくるそら

おれたはしごがうっすらうかんでいるそら
きれたいとがきらきらぶらさがっているそら
とっこうきがゆっくりすいこまれていったあおぞら

 3行目の「つながり」ということば。これが、たぶん平岡の「思想」である。平岡は何とつながっているのか。何につながりを見出すのか。
 特攻機が消えていく。その特攻機を操縦していた人も消えていく。「たましい」も消えていく。そして、それはひとつではない。いくつものたましい。同時に、そのたましいには「つながり」がある。「つながり」が「つながり」として、空をのぼってゆく。
 平岡の魂は、いま、ここに、地上にあるけれど、それはつながっているのである。
 見上げれば、空には、その「つながり」の糸が切れた状態でぶら下がっている。「きれたいとがきらきらぶらさがっているそら/とっこうきがゆっくりすいこまれていったあおぞら」。平岡は、いつでも、その空とつながっている。

 この「つながり」とは別に、平岡の「肉体」は、現実にあっては、また別のものと「つながり」を持っている。
 
浜町の飲食街の裏側からうどんの出し汁の匂いが、と思う間もなく、
重いブレーキ音とともに汽車は停車した。
                        (丸亀駅)

日朝点呼、五時四十五分。
ああ、木犀はにおっていたよ。          (木犀) 

道路ひとつ隔てた民家の奥から芋焼きの匂いが迫ってくる
                        (迫ってくる)

 平岡の健康な肉体は嗅覚を持っている。嗅覚が、軍隊の生活から日常の生活へ引き戻す。平岡の肉体は嗅覚で日常、平和とつながっている。
 「たましい」ではなく、ずっーと「匂い」とつながったまま生きる方がいい。
 健康な肉体と日常の平和とをつなぐ嗅覚--そのつながりを断ち切ってしまうのが「軍隊」(戦争)ということだろう。

 多くの「たましい」は嗅覚とは別の、平岡の知らない何かで「日常」とつながっていたかもしれない。そのつながりを断ち切られた無念さを思わずにはいられない。

 


蒼空
平岡 敏夫
思潮社

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廿楽順治「それから」

2009-08-14 11:38:52 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「それから」(「ガーネット」58、2009年07月01日発行)

 ことばは何のためにあるのだろう。存在しないことがら、事実ではないもの--いや、事実を超えたものを、事実の方に引き寄せるために、ことばは発せられる。
 きのう読んだ池田順子のことばに対する意識に似通うものが廿楽順治の作品にもあると思った。
 「それから」の冒頭。

つづくのがとてもいやになってしまった
ひとりひとり
刺身みたいに切れていたらどうだろう
意識はうすいよね
つづいて
いたときにはすこしも気づかなかった
かなしさ
お尻がまるだしなのにおしえてやれなかった

 人間は「つづいて」はいない。触れ合っても、手をつないでも、性交しても、肉体は「刺身みたいに切れて」いる。つながってはいない。
 つながっているのは「肉体」ではなく、「意識」である。「ことば」である。
 池田の「つつみ」では、少女と母の肉体はつながってはいないのに、つながっている。「意識」としてではなく、制御できない(制御する術のない)本能としてつながっている。本能が人間ひとりひとりを超越してつながっている。
 廿楽の「つづく」は、そういう本能とも違う。あくまで、「意識」である。だからこそ「意識はうすいよね」、ちょうど安い刺身のように……、と書かずにはいられない。
 安い刺身のように、とは、私がかってにつけくわえたことばではあるのだけれど、そんなふうに、なにかを「つづけ」てしまうのが、意識、人間の関係なのだろう。
 池田の「つながるいのち」の悲しみは愛しみであるが、廿楽の悲しみは哀しみである。愛と哀。どちらも「アイ」とも読めるのは、何か、理由があるのかもしれない。

(そういえば)
湖のなかにも
おなじような過疎の町があった
十九でそれをみた
住む
ためには私語が刺身にされなければならない
うすく
ひとや物と
このさき切れていかなければならない

に落ちていった友だちはひとり
なにかを探しにいったわけではないし
捨てにいったわけでもない
この空に
つづいていたくなかっただけ

 何もかもが「つづく」。(そういえば)ということばひとつで、過去のできごとも、いま、ここに「つづく」。
 つながるではなく、つづく。
 「つづいていたくなく」て、投身した友だちさえ、「つづいていたくな」かったということばで「つづいて」しまう。その矛盾。この矛盾を乗り越える方法、術はない。この矛盾を生きるしかない。それが、廿楽の哀しみである。


たかくおよぐや
廿楽 順治
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(57)

2009-08-14 07:42:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。
 
一二〇
色彩の世界の淋しき
葉先のいろ
名の知れぬ野に咲く小さき花
色彩の生物学色彩の進化論
色彩はへんぺんとして流れる
同一の流れに足を洗はれない
色彩のフラクリトス
色彩のベルグソン
シャバンの風景にも
古本の表紙にも
バットの箱にも
女の唇にも
セザンヌの林檎にも
色彩の内面に永劫が流れる

 「永劫」とそこに存在するのではなく「流れる」。そして、「永劫」が何かの「内面」に「流れる」とき「淋しい」。 
 この西脇哲学は、とてもおもしろい。
 けれど、それよりおもしろいのは、

色彩の生物学色彩の進化論

 ということばである。これはもちろん「色彩の生物学」「色彩の進化論」とふたつのことを書いているのだが、西脇は、そのふたつを改行もしなければ、一字空きもつかわずに、ひとつづきに書いている。だから、読み方によっては「色彩の、生物学色彩の進化論」というふうに読むこともできる。つまり、色彩、そのなかでも生物学色彩(というものがあると仮定しての話だが)の進化論、とも読むことができる。鉱物学色彩、水質学色彩、宇宙学色彩、文学色彩、哲学色彩などというものもあっても、いいじゃないか。そして、もし、そういうものがあるとすれば、そこにはやはり進化論というものがあって……、と私は読むのである。
 想像力は暴走し、誤読を勧めるのである。
 しかし、私の誤読は、そんなに的外れではないのかもしれない。

色彩のフラクリトス
色彩のベルグソン

 ほら、哲学色彩が出てきた。--というのは、冗談のようなものだが、「色彩の生物学色彩の進化論」は「色彩の生物学/(一呼吸)色彩の進化論」と読んではいけない。きっと、そう読んではいけない。あくまで、区切ることなく、呼吸の間を差し挟むことなく、一気につづけて読む。
 そうすると、そのリズムにのって、ことばがぐいぐい暴走する。ベルグソンも古本もバット(たばこだろう)の箱も、同列に並んで動く。この明るさ、軽快さが、とても気持ちがいい。

 セザンヌが大好きな私としては、「一二〇」は前の部分を全部叩ききって、最後の2行、

セザンヌの林檎にも
色彩の内面に永劫が流れる

 という行だけが独立していた方が、もっと、うれしい。--これは、西脇の詩の読み方に反する思いかもしれないけれど、まあ、私は、誰の作品も、自分勝手にしか読むことしかできないのだが、確かに、セザンヌの林檎の内面には永劫が流れている。だから美しく、そして淋しい。



幻影の人 西脇順三郎を語る

恒文社

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