詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

近藤久也「口のついたもの」

2010-12-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「口のついたもの」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 近藤久也「口のついたもの」を読み、とてもおもしろく感じた。そのおもしろさを書きたいのだが、うーん、どこから書くべきなのか。最後の2行が、何といえばいいのか、「あ、声が聞こえた」と感じたのだ。まあ、それだけ書けばいいだけなのかもしれない。
 とりあえず引用する。そのあとで、何が書けるか、書けるところまで書いてみよう。

一九六八年の夏、和歌の浦の突堤で
生きた蝦に鉤をつけて糸を垂らしていた
すぐに小鰺が食いついてきた
あわてて引きあげようとすると
小鰺を追いかけてきた大きなカマスが
小鰺にくらいついた
あわてて引きあげると
カマスは鰺を散らして突堤で
実をくねらせてはねまわった
大急ぎで家に帰り
カマスをひらき一夜干しで
次の日に食べてしまった

一九八九年の春、奈良公園へ
幼い息子を連れて鹿をみにいった
ベンチでサンドイッチを食べていると
大きな鹿賀さっそくやってきて
息子のサンドイッチを鼻でつつき落とした
息子が奇声をあげたので
鹿は去っていった
ふと下をみるとサンドイッチに黒蟻が四匹
早くもたかっている
すぐに鳩が二羽舞い降りてきた
ああと思っていると
大きなカラスが一羽舞い降りてきて
鳩を追いはらった
しっしっと息子が小さな声をだした
すると
いつのまにかさきほどの鹿が舞い戻ってきて
カラスを追いはらいサンドイッチに近づく
息子があわてて拾いにいこうとするので
よせよせと
久しぶりに声を発したのだ
                      (初出は詩集『夜の言の葉』03月)

 小さいものを、大きいものが食う。それが1連目。2連目は実際に喰うところまで書かれてはいないが、同じ構造である。小さいものが食おうとするものを、大きいものが横取りする。横取りしようとする。
 弱肉強食--というのにはすこし変かもしれないが、まあ、似たようなものである。
 口は、何かを食べるためにある。そして、その口は、大きいものが勝つ。実に単純である。その単純さの中に、「いのち」の連鎖のおもしろさがある。そして、その関係を、なぜか美しいと私は感じる。こんなふうに繰り返されると、単純さが明確になるからかもしれない。
 そして、その単純さの果てで、なぜか、口が大変身する。
 食べる--ではなく、ことばを発するのだ。あ、口は、食べるだけではなく、ことばをいうためにもあったのだ、と気づかされるのだが……。
 何か、変。
 いや、別に変でもないのかもしれないのだけれど、そうか、生き物にはみんな口があるけれど、その口を食べること以外につかうのは人間だけなのか、と気づいて、そのことをおかしいと思うのだ。

よせよせと
久しぶりに言葉を発したのだ

 この2行がおかしいのは、そこに書かれていることが「うそ」だからである。「うそ」というと、語弊があるかもしれないけれど、近藤は生きているのだから、毎日黙っているわけではないだろう。なんらかのことばを発しているだろう。この日だって、たとえば「きょうは奈良公園へ鹿を見に行くぞ」とか「サンドイッチ食べるか」とかを息子に対して言っているはずである。無言で公園に来るということはないだろう。幼い息子とふたりなのに、無言で何かを食べるなどということも常識では考えられない。きっと何かを話している。
 それでも、

よせよせと
久しぶりに言葉を発したのだ

 と近藤は書く。
 なぜか。
 ここに書かれていることは「文字通り」のことではないのだ。近藤は久しぶりにことばを発したのではない。久しぶりにことばを意識したということなのだ。
 ことばは基本的に「もの」に対応する。「もの」があり、それをことばで追いかける。それはまるで「小さいもの」を「大きなもの」が食べるようなものである。「大きなもの」(ことば)は「小さなもの」(対象)を、のみこみながら動いていく。そして、「小さなもの」からはじまって「大きなもの」になっていく。たとえば、蝦を鰺が食べ、その鰺をカマスが食べ、さらにカマスを人間が食べるということで食の連鎖という「大きな世界」が生まれる。ことばは、「小さいもの(ことがら)」踏まえながら徐々に「大きなもの(こと)」をとらえる--細部から始まり、全体をとらえる。そういう動きをする。
 1連目、2連目で繰り返される「世界」はそういうものだ。繰り返されることで、そういう「世界」がしっかりと見えてくる。ことばは、繰り返すことで、あいまいに見えていたものをはっきりさせる力がある。

 まあ、こんな変な「哲学?」は、どうでもいい。

 おもしろいのは、そのあとの「よせよせ」。
 これは、先に書いた「哲学」(食の連鎖)とは関係がない。サンドイッチという食べ物をめぐっているから、「食」とは関係があるかもしれないが、「小さいもの」を「大きなもの」が食べることで世界がつながっている(循環している)ということとは厳密に言えば関係がない。(だから、さらに言いなおせば関係がある--という言い方もできるかもしれないが。)
 ふっ、とそういう「食の連鎖」という「哲学」から離れてしまう。
 あ、ことばは世界に接近するためにある、世界の構造を明確に認識するためにある--というだけではなく、世界からぱっと離れてしまうためにもあるのだ。
 この世界からの「離脱」というのはなんだかおもしろいなあ。ふいに身軽になったような感じがする。

 私の感想は、またまたいつものように「誤読」なのだろう。近藤の書いていることから、大きく脱線しているのかもしれないが、近藤はこの詩の最後の2行で、ことばは世界を描写するだけのためにあるのではなく、世界から離れるためにもあるということを実証しているように感じる。
 そのことが、おもしろい。
 詩は、世界に入り込み、その内部から世界を作り替えることもある。
 一方、世界から離れてしまって、その瞬間に別のものをみせる、ということもある。

 ここには、世界から離れることばとしての詩があるのだ。

夜の言の葉
近藤 久也
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(163 )

2010-12-21 12:22:29 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(163 )

 『豊饒の女神』の「豊饒の女神」つづき。

 後半は、

幸福もなく不幸もないことは
絶対の幸福である
地獄ものなく極楽もないところに
本当の極楽がある

 という行から、「意味」の強いことばを挟みながら動いていく。私は、西脇が書いていることをそのまま受け取ることができずに、「絶対の幸福」「本当の極楽」を、逆に「絶対の不幸」「本当の地獄」と読んでしまう。なぜか、書き落とされた(?)ことば「地獄」がとても気にかかってしまう。
 そして、それが最後に突然よみがえってくると、なぜか、うれしくなってしまう。

これは豊饒の女神であり
祭祀の二月の女であるか
春の野げしもタビコラも
地獄の季節をにげて
セメントのすきまから
また人間のいるところへ
頭を出して
何事かささやいている
弓の弦の大工のささやきをさけようと
祈るやがてソバやにあがり
三級酒に生物の無常を
語る日が近づいた

 「地獄」の復活がうれしいと同時に、私は、ここでは「さ行」の動きが音楽としてとてもおもしろいと思う。豊饒、祭祀、野げし、地獄、セメント、すきま。そこには「さ行(ざ行)」が動いている。
 それは「ささやいている」「ささやきをさけようと」ということばを経て「ソバや」へとつながる。そば屋がでてくるのは「諧謔」、ユーモアというものかもしれないが、うどん屋やてんぷら屋では音が違ってくる。「三級酒」「生物」「無常」とつながっていくとき、そこは絶対に「ソバや」でなくてはならないのだ。
 この「さ行」の音楽を優先させるために、「祈る」という強いことばは、行の冒頭にあるにもかかわらず、「意味」を奪われ、埋没している。「意味」を剥奪するために、西脇は、あえて行のわたりをして、そのことばを行頭に置いたのかもしれない。
 「意味」ではなく、音楽。酒、日本酒ではなく「三級酒」ということばが選ばれているのも、ただ音楽のためだと私は思う。
 この音の選択は西脇が意識していたことかどうかわからない。無意識にやっていたことかもしれない。無意識だとすれば、それは「本能」というのもだと思う。そうだとすれば、その「本能」こそが「思想」だと私には思える。




詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房


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森ミキエ「風景 Ⅰ」

2010-12-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
森ミキエ「風景 Ⅰ」(「ひょうたん」42、2010年09月25日発行)

 作品の全行が、というか、作品全体がというのではないけれど、ある部分が忘れられない詩がある。
 森ミキエ「風景 Ⅰ」。

掃除のあいま 押入れの古い箱を開けると
こわれた写真立てのなかに取り残された 海
海はとてもいい顔で笑っている
なにが嬉しかったのだろう
なにが面白かったのだろう
人も船も魚も貝も うつっていないのに
なぜ 捨てられなかったのだろう

 「海」に「顔」があるか。ない。では、この「顔」は「比喩」なのか。「比喩」でもない--と私は思う。「比喩」を通り越している。いや、「比喩」になる前の何かである。「比喩」にならないし、「比喩」になろうともしていない。
 でも、そこに、何かがある。何だろう。

掃除のあいま

 ここに書かれている「あいま」かもしれない。「掃除のあいま」というのは、掃除と関係がないかというとそうでもない。掃除というのは単にごみを掃き集める、汚れを拭きとるというものでもない。それは「暮らし」をととのえるための、あれこれである。知らないうちにたまってくるのはごみやほこりだけではない。散らばっているごみ以外にも、なにやかやがたまってくる。そういうものを、掃除のついでに整理しようと思うのは、誰にでも経験のあることだろう。
 「あいま」と書かれているけれど、それは「掃除」と「掃除」の「あいだ」、掃除とは無関係な「時間」ではないのだ。掃除の「つづき」でもあるのだ。とぎれていない。つながっている。「あいま」は「隔たり」ではなく、「つながり」である。

 「あいま」は「合間」と書くのだと思う。その漢字をじっくりみつめていると、また、違ったものも見えてくる。「時間」との違いがわかってくる。
 「時間」は「時」と「時」の「間」。「掃除」を例にとると、「ある部屋を掃除している時」と「別の部屋を掃除する時」の「間」には、まあ、厳密に言えば「間(隔たり、隔たりとしての広がり)」があるし、その「間(広がり)」の「時」を「休憩」につかったりすることもできる。
 「合間」は「時間」の定義(?)をあてはめると「合」と「合」の「間」ということになる。
 「合」って、何? 「合う」と考えると、何かと何かがひとつになること、重なること、同じになること--かもしれない。「ひとつ」「重なる」「おなじ」なら、そこには「間(隔たり、ひろがり)」はない。

 と、ここまで書いて、私は「あっ」と叫んだ。(私は、何もわからずに、書きながら考えるのである。--結論はいつでも予定していたものとは違ったものになってしまう。)急に、「間(隔たり、ひろがり)」とは違うことを書きたくなった。なってしまった。

 「合う」というのは、ひとつになる「こと」、かさなる「こと」、おなじになる「こと」--つまり「こと」と「こと」が「合う」こと? 「こと」と「こと」が「間」が「あいま」なのだ。それは、ほんとうは「こと間」かもしれない。
 「こと」というのは「時」のように計る単位がない。はかりようのないものが、「こと」と「こと」の「間」を埋めてしまう。そういう「こと」があるのだ。

 それは、「こと・ま」(あいま)には「時間」(時)というものがないということにならないだろうか。

 「時間」と「あいま」の違いは「時」があるかないかである。

海はとてもいい顔で笑っている

 その写真を見る「時」、そしてその写真を撮った「時」。それが写真である限り、そこには「時間」がある。あるはずである。しかし、その写真を見て「とてもいい顔で笑っている」と感じる「時」、その「時」は写真を撮った「時」との「間」をかき消してしまう。「時」と「時」の「間」はなくなり、森は、写真を撮った「時」そのものへ帰っている。そこで過去の「時」と会っている。そして、そのとき、森は「時」と会っているのではなく、ほんとうは、海をみた「こと」、海の写真を撮った「こと」と会っている。海を見て「いい顔」と感じた--その感じた「こと」と会っている。

 「こと」のなかには、「いま」しかないのだ。「過去」などない。「未来」もない。「こと」は分断できない。それは「過去」「いま」「未来」を「ひろがりのない・つながり」にしてしまう。「永遠」にしてしまう。「こと」はいつでも「永遠」なのだ。

ただ 波ばかり
波ばかりの 色あせたモノクロ写真
もう一度 見つめて もう一度 しまう
ざざーん ざざーん
箱のなかで生きている

 「こと」は「生きている」。
 私は「海はとてもいい顔で笑っている」ということばにひかれて、この詩が忘れられなかったのだけれど、ほんとうは「あいま」ということばを森が発見したことが、この詩の力なのかもしれない。



P―森ミキエ詩集
森 ミキエ
七月堂


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ナボコフ『賜物』(32)

2010-12-20 10:32:48 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(32)

新年をなぜか三人はベルリンの駅の軽食堂で迎え--たぶん、駅では時間の武装が特に強い感銘を与えるためだろうか--そのあとで色とりどりのぬかるみの真っただ中に出ていき、ぞっとするようなお祭り気分の街路をぶらついた。
                                 (72ページ)

 「時間の武装」とは何だろうか。駅では時間は厳密に全体を支配している。列車の出発、到着は決められている。時間の支配力を「武装」と呼んでいるのだろうか。だが、それが「感銘を与える」とは? ものごとが「時間」の支配にしたがって動く--そのことにナボコフは感銘を受けるということだろうか。そうであれば、ナボコフの性質(?)、あるいはロシア人の性質のひとつに時間のルーズさがあることになる。時間感覚がルーズだから、時間が厳密に行動を支配しているような世界に感銘を受けるのだ。時間に厳密なひとは、時間に厳密な行動様式には感銘など受けないだろう。当然のことと受け止めるだろう。
 ここに描かれている三人は、時間に対してルーズというか、時間をあまり気にしないということかもしれない。そしてそれは時間だけではなく、「生活」や「世界」に対しても厳格さを求めていないということにつながるかもしれない。「新年」という区切りを、「駅の軽食堂」という「正式な場」から遠いところで迎えるというところに、その性質が暗示されている。
 そして、それはさらに、それに続く文章で強調されている。
 「色とりどりのぬかるみ」とは雨上がりのぬかるみに街の明かり(ネオン)が映り、色とりどりになっているということだろう。「色とりどり」という華麗なものと「ぬかるみ」の結合、さらに「ぞっとするような」という否定的気分と、「お祭り」という違和感のあることばの結びつき。
 ここには「厳格さ」はない。むしろ、「気まま」「自由」という匂いがひしめいている。

 ナボコフの文章の細部は「厳格」「厳密」である。しかし、そのことばの結合は、私たちが一般的に「厳格」「厳密」と呼んでいるものを否定するようにして動いている。そのために、一種の逆説的な効果のようなものが生まれ、その細部がいっそう輝かしく見える。


ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社


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アントワン・フークア監督「クロッシング」(★★★)

2010-12-20 09:16:20 | 映画
監督アントワン・フークア 出演 リチャード・ギア、イーサン・ホーク、ドン・チードル、ウェズリー・スナイプス、エレン・バーキン

 リチャード・ギアという役者は、私は嫌いである。さえない。貧乏くさい。花がない。孤独――の匂いがする。この映画では、定年間近の、ただただ問題もなく定年までたどりつき、年金をもらうことだけを考えている。あ、ぴったり、と私は思う。適役じゃないか。孤独感が、いままでのどの映画よりも絵になっている。
 でも、そういう孤独人間でも、自分にできる最良のことは何かを考え続けている。それが少しづつあきらかになる。コンビニでの、新人警官の発砲の責任は自分にあると主張し、身を引いていくシーンは味があるなあ。上司に、こんな風に証言しろと言われるのだが、かたくなに拒む。このときの孤独感が、お、美しいじゃないか、と思う。彼の孤独は、仕事の中だけで完結し、仕事があるかぎり孤独ではないのだ。変な言い方だが、リチャード・ギアの孤独は仕事の孤独なのだ。
 警察の仕事、警官の仕事は、まあ、理解されない。反感をかいやすい仕事だ。仕事そのものが孤独であることが、たぶん宿命なのだ。そして、それが孤独であるとき、その仕事は美しい、ということかもしれない。誰も知らないところで完結していい、もしかすると何もしなくてもいい状態で仕事が完結するのが警察というところかもしれない。
 変な警官なのだけれど、その変なところが一種の「理想」を逆説的に暗示しているのが、この映画のおもしろいところかもしれない。
 クライマックスも、リチャード・ギアが考えていることは、誘拐され虐待されている女性を救うことだけ。誰かを殺すというようなことは考えていない。なるほどなあ、ここに、この映画の「理想」が描かれているわけか・・・。
 他の二人の警官、イーサン・ホークとドン・チードルも孤独なのだけれど、二人の孤独は美しくない。まわりの人と「友情」があるからだ。孤独だけれど、その孤独は、あるひとと「友情・愛情」があるために感じる切なさである。この仕事は自分のもの、という「完結」がない。イーサン・ホークは悪徳警官だから肯定されてはいない。これは当然として、ドン・チードルは一種のエリート(?)、花形に属するけれど、やはり「親身」には描かれていない。
 でも、この映画では、誰に肩入れして映画を見ればいいのかなあ。映画を見終わって、このシーン、この台詞を真似してみたい、というものがない。こんな映画は私は好きになれない。私はミーハーだから、映画を見たら、やっぱり主人公の気持ちで映画館から出てきたいのだ。


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細見和之『家族の午後』

2010-12-19 23:59:59 | 詩集
細見和之『家族の午後』(澪標、2010年12月20日発行)

 細見和之『家族の午後』の巻頭の「手前の虹」はとてもおもしろい。

結婚して間もないころ
妻とふたりで城崎へ出かけた
福知山線の丹波大山駅を過ぎたところで
窓の外に虹が見えた
山の彼方ではなく
山の手前
ほとんど手で掴めるすぐそこに
その虹はかかっていた

その後三年で
私たちは早々と破局を迎えていた
私は昼間翻訳の仕事にかかりきりで
夜はひたすら酒をあおっていた
私が飲み疲れて眠るころ
ようやく妻は外の勤めから戻ってきた
やがて妻は
いくつかの家財道具とともに
家を出た

それから
月に一度だけ妻と食事をしたり
映画を見たりする日々が続いた
右往左往ののちに
私たちは元の暮らしにもどったが
その間たがいに
虹の話はしなかった
これからもきっとしないだろう

私たちのまなざしに
ぼんやりとした
その始まりと終わりまでを
まるで無防備に差し出していたあの虹

 私は3連目がとても好きだ。特に、「その間たがいに/虹の話はしなかった」というところが好きだ。もっと厳密にいうと、「その間」が好きだ。
 「その間」って何?
 「学校教科書文法」から言えば、月に一度食事をしたり、映画を見たりする「間」、ということになる。別居して、右往左往して元の暮らしにもどるまで、ということになるかもしれない。
 ところが、私の「印象」では、そうはならない。
 「その間」は、「学校教科書文法」の指し示す「その間」とは違う。「その間」ではなく、むしろ、「その後」である。元のように二人で暮らしはじめてから以降、そのときから「いままで」である。
 だからこそ「これからもきっと」ということばが続くのだ。
 別れて、またくっついてから「いままで」虹の話をしなかった。だから、これからも話しはしない。しないだろう。

 「その間」は別れてからくっつくまで(もとにもどるまで)ではない--ということは、また別の意味も持ちはじめる。別れて、くっついて、それからいままで、であるなら、「その間」は、また「別れる前」をも指しているかもしれない。ごたごた(?)がある前--つまり、虹を見て、それから別れるまでの間、その間も二人は虹の話をしなかったのだ。二人は一度も虹の話をしていない。
 けれど。
 その、虹を見た記憶は、話さなくても二人に共有されている。
 私には、そんなふうに読めるのである。私はそんなふうに「誤読」してしまうのである。

 このとき「手前」ということばが不思議な感じでなまなましく生きはじめる。

山の彼方ではなく
山の手前
ほとんど手で掴めるすぐそこに
その虹はかかっていた

 ここにあるのは不思議なレトリックである。
 虹は山の彼方であろうが、山の手前であろうが、「ほとんど手で掴めるすぐそこに」など、ありはしない。手に掴めるところにある虹は、水道管が破裂したときにできる虹くらいなものである。列車が走りながら見る虹は、どんなに山の手前にあっても手に掴めるはずはない。
 「手に掴める」はレトリックである。そうであるなら「山の手前」もレトリックである。「山」と「私」の「間」が「山の手前」であり、そこにあるのは「はっきりしない間(ま)」である。そして、はっきりしないからこそ、その「間(ま)」はなまなましく動く。「間(ま)」の距離、広がりは、存在しながら、存在しない。「距離」は存在しないが、隔たっているという感覚は存在する。
 「間(ま)」は感覚なのである。「手前」も感覚なのである。「私」が感じている「もの」なのである。
 この存在しながら存在しない「間(ま)」--それこそが、二人がくっついたり、わかれたり、そしてまたくっつくときに、二人の間(あいだ)にあるものなのだ。
 それは明確にしてはいけないもの、明確にはならないものなのだ。ただ、あ「間(ま)がある」と感じて、それを受け止めていくしかないものなのだ。

私たちのまなざしに
ぼんやりとした
その始まりと終わりまでを
まるで無防備に差し出していたあの虹

 この最後の4行は、虹のことを語ってはいない。ふたりのことを語っているのである。ふたりは、ふたりの関係を、その始まりと終わりまでを、まるで無防備に、たがいに差し出している。その始まりと終わりはぼんやりしているけれど、つまりことばにしようにも明確にはならないものだけれど、「肉体」のなかではしっかりとわかっていることである。どこを踏み外せばまた別れるのか、どこに手をさしのべればこのままつづいていくことができるのか--そういうことが「手で掴む」ではなく「手に触れる」ようにわかるのだ。それは、いわば「手の前」にあるのだ。
 1連目「山の手前」は「山の」「手前」ではなく、「手の前」であり、その手の向こうに(手の彼方に)山があるのだ。

 細見にとって、大切なものはいつでも「手前」、「手の前」にあるのだ。「手前の虹」とは「手の前の虹」である。





アドルノの場所
細見 和之
みすず書房


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リドリー・スコット監督「ロビン・フッド」(★★★)

2010-12-19 22:28:37 | 映画
監督 リドリー・スコット 出演 ラッセル・クロウ、ケイト・ブランシェット

 男、男、男の映画。ラッセル・クロウは「グラディエーター」以来、男を売り物にしているけれど、うーん、私には女っぽく見える。「LAコンフィデンシャル」で見た時の印象が強いのかなあ。男だけれど、女に影響されて動くタイプ。(リドリー・スコットには違ったふうに見えるのかもしれないけれど。)だから、なんだか見ていて違和感がある。マックス・フォン・シドウのようなカリスマ性もないし。(ある、という人もいるだろうけれど。)透明感というより、不透明感がラッセル・クロウの「特権的肉体」だと思うのだが。その不透明感が女を誘うんだと思うんだけれどなあ・・・。あの、くぐもったような、甘い声なんかも、闘う男じゃないよなあ。
一方、ケイト・ブランシェットの透明感は剛直性があり、見ていて、あ、男、と思ってしまう。で、男、男、男のなかに入って、毅然とした眼で世界を見つめると、本当に女性の感じがしない。
いっそうのこと、ラッセル・クロウとケイト・ブランシェットを入れ替えたらと思うくらいである。
まあ、こんなことを思いながら見たせいもあるのか、どうも、おもしろくない。戦闘シーンが見せ場なのだけれど、海岸・水中の流血、弓(弾丸)はすでにスピルバーグの「プライベート・ライアン」で見てしまったしなあ。武器に占める飛び道具(?)が少ない分だけ、肉体がぶつかり合うんだけれど、新しい映像という感じがしないなあ。馬がはね上げる砂や、波しぶきがスクリーンに飛び散るけれど、そんな「もの」ではなく、やっぱり肉体そのものを見たい。リドリー・スコットはロビン・フッド時代の、自然の「肉体」、森や海や砂を撮ったんだ、というかもしれないけれど。でも、やっぱり見たいのは、重たい武器を持って人間同士がぶつかるとき、肉体はどんな動きをするのか。そこにどんなドラマがあるのか。大きくあけた口の奥からラッセル・クロウの銀歯が見えるのが見せ場というんじゃ、笑ってしまう。

映画そのものと関係があるかないか、よくわからないが、ウィリアム・ハートって、こんなに髪があった? 髪を増やして、美男子に戻っているのが不思議だった。マックス・フォン・シドウにしろ、ウィリアム・ハートにしろ、やせた男の方が、こういう映画では禁欲的な色気がにじむ。



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誰も書かなかった西脇順三郎(162 )

2010-12-19 14:19:38 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(162 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 「豊饒の女神」の書き出しは西脇の音楽をとてもよくあらわしている。

二月だのに秋の枯葉の音がする
税務署へ出す計算をたのみに
田園の坂の町をさすらつた
夕陽は野薔薇の海で
街路をオペラの背景のように照らしている

 もし、1行目、その書き出しが「二月なのに」だったら、この詩は動いていかない。「なのに」「だのに」は「意味」は同じ。同じだけれど、響きがぜんぜん違う。
 二月「な」のに、だったら、あき「の」はれは「の」と「な行」が響き、次は「ね」がする、と読んでしまうかもしれない。
 二月「だ」のに、だから、あきのかれはのお「と」がする、とつづき、それが次の行の、ぜいむしょへ「だ」すけいさんを「た」のみに、とつながり、さらに3行目の「で」んえんのさかのま「ち」をさすら「っ」「た」と響いていく。
 この3行には「だ」のに、「ぜ」いむしょ、「だ」す、「で」んえんという濁音の響きも美しく響いている。そして、これが「な」のにだとしたら、4行目の野薔薇、の「ば」ら、の濁音が登場する理由がなくなる。「だ」という濁音が、の「ば」らという濁音を呼び寄せている。また、「だ」という濁音が、「野薔薇の海で」の「で」を許しているである。

夕陽は野薔薇の海で
街路をオペラの背景のように照らしている

というのは、なんとも華々しいイメージで、絵として見るには芸術的というよりは、かなり毒々しい。うるさい。けれど、これを音楽から見るとまったく違う。
 「のばら」は「オペラ」のためにあるのだ。絵画的イメージを超えて、ここでは音楽が優先しているのである。
 のば「ら」、おぺ「ら」は、さらに、て「ら」してい「る」という「ら行」につながっていく。
 このとき「だ行」(た行)ではじまった音楽が「ら行」にかわっているのだが、ここには西脇の出身地、新潟の「音」の影響があるかもしれない。「た行」と「ら行」は「ら行」をRではなくLで発音するとき、とても接近する。
 私は西脇自身の声を聞いたことがないが、私の生まれの富山の東部、つまり新潟よりの人が「ら行」をLで発音するのを聞いた記憶がある。「オペラ」は外国語そのものはRの音だが、RとLを基本的に区別せず同じ音として聞いてしまう日本人には、Lで発音してしまうということもあるかもしれない。西脇自身は英語の人間なので、明確に区別するだろうけれど。
 まあ、ここには、私の感じている音楽と、西脇の耳とのすれ違いがあるのだけれど、すれ違いと感じながらも、先の引用が次のように展開していくとき、私はそんなにずれたことを書いているのではないという気持ちにもなる。

おつ 先をよこぎるものがあつた

 突然の変化。「先をよこぎるものがあつた」の「先」。これはもちろん「目の先」なのだろうけれど、私には「音の先」(耳の先)のようにも感じられるのである。
 「た行」と「ら行」、その揺れ動きのなかにLとRが交錯して動く。あれは何?

猫ではなかつた
射られた虎が足をひきずつて
森へにげこむように
貧しいびつこの老婆がよこぎつた

 「猫」と「虎」。まあ、似ているね。LとRのようなものかもしれない。
 私の書いていることは、たぶん強引な「誤読」というものだろうけれど、私はどうしてもそんなふうにしか読めない。
 ひとがことばを動かすとき、「意味」だけでは動かせない。
 「二月なのに」と書くか「二月だのに」と書くか、そのとき、そのことばを選ばせているのは「意味」ではない。肉体にしみついた音楽である。

貧しいびつこの老婆がよこぎつた

 この行の「びつこ」は今ではたぶん西脇も書かないだろうけれど、そのことばが選ばれているのも「び」つこ、ろう「ば」という音のためなのである。

 この「老婆」から詩のテーマ、「豊饒の女神」が動きだすのだが、テーマそのものは私にはあまり関心がない。だから、書かない。




西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1)
西脇 順三郎
新潮社


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金時鐘「錆びる風景」

2010-12-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
金時鐘「錆びる風景」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 金時鐘「錆びる風景」を読む前に、私は伊藤比呂美「新訳『般若心経』」を読んだ。きのうの「日記」に感想を書いた。これは、私にとってはとてもいいことだった。金の作品を先に読んでいたら、きっと読みとばしていたと思う。感想を書かずにいたことだろうと思う。

どこをどう経巡(へめぐ)ったのか
残り少ない山柿の
朱い実の下に
さざえの殻が一つ
あお向いて落ちている
空のへりで凍えている
赤い叫びと
ささくれた空をただ見上げている
虚ろな叫びと
開かない木戸の
錆びた蝶番(ちょうつがい)のかたえで
とどこおった時を耐えている

 この詩は不思議な詩でタイトルは「錆びる風景」であり、実際に「柿の実」のある風景の描写ではじまるのだが、書かれていることがだんだん「風景」ではなくなっていく。「主題」が「風景」から「時」へ、そして「時」の連続である「時間」へと変わっていく。 2連目。

今に柿も落ちて
自らが時間の出口となっていくだろう
そこで涸(か)れているものは
そのままそこで涸らしてた時を壊しているだろう
時が流れるとは
時点にあやかっていたい者の錯覚だ
黙っているものの奥底で
本当はもっとも多くの時が時を沈めているのだ

 「風景」が「時(時間)」にかわるにしたがって、「声」が浮かび上がってくる。
 1連目には「叫び」があった。2連目では、「叫び」の対極にある「黙っている」ということばがある。
 「風景」は、それぞれに「声」を持っている。「声」はあるときは「叫び」、あるときは「黙っている」。そして、その「叫び」も「沈黙」も、金のことばによって、いま、ここで「叫び」に「なる」。「沈黙」に「なる」。それは、金のことばが存在させた「こと」なのだ。
 そのとき、「ことば」とは「時間」にほかならない。「ことば」がなければ「叫び」も「沈黙」も存在することはできず、その結果として「時間」も存在することはできないからである。
 「ことば」は金が目撃している「こと」と金の肉体の共鳴なのだ。共鳴して「ひとつの声」に「なる」。「声」のなかに、「時間」がある。「声」が「時間」に「なる」。そうすることで「時間」が「ある」。

私の時間もたぶん
やりすごしたどこかの
物影で大口をあけていたのだろう
そこにはまだ事物に慣れていない時間の
初々しい象(かたち)があったはずだ

 私はここで立ち止まる。「誤読」の誘惑にかられる。「誤読」してしまう。

事物に慣れていない時間の/初々しい象

 「慣れていない」を「成れていない」、まだ「なってはいない」と読みたいのだ。「風景」とは「事物」というより「もの」のある姿だろう。そこには「事(こと)」はない。「こと」はあるかもしれないが、「こと」がなくても「風景」と呼ばれるかもしれない。けれど、金は「事物」と「こと」をつけくわえている。
 「事物になれていない」は「こと」も「もの」も、まだ「なる」ことができない状態。「こと」以前、「もの」以前の「時間」である。
 そして「こと」「もの」に「なる」のは、何かといえば、それは「時間」なのだ。「時間」というものが持っている何か、動いていくエネルギー(動いていく、と書いてしまうのは、動きこそが「時間」の基本的な要素であると考えるからだ)こそが「こと」「もの」に「なる」からだ。
 もし何かが「ある」とすれば「なる」という運動だけが「ある」のだ。
 このときの、まだ「こと」「もの」に「なる」ことができない「象」。それは、イメージである。
 「イメージ」が「未成(未生)」のものとしてあらわれ、それが「こと」「もの」に「なる」。「こと」「もの」になって、それが存在しつづけるとき、そこに「時間」が根を下ろし、暮らしになり、歴史になる。

 「錆びる風景」とは、「錆びる時間」のことかもしれない。「時間」が動かない。錆びついている。それは「こと」「もの」の奥で「沈黙」している。「沈黙する風景」がそのとき「錆びる風景」に「なる」。動くことをやめた「こと」と「もの」の世界だ。

今まさにつぐみが一羽
点と消え
今に垂直に
ついぞ誰ひとり聞くことのなかった
沈黙の固まりが突きささって墜ちる
錆びている私の
時間のなかを

 ふいにあらわれる「今」。「今」とは何か。わかっているけれど、わからない「時」である。「今」「墜ちる」のではなく「今に」墜ちる。「この」、「私」の「一点」に。「一点」だからこそ、「垂直」になるのだろう。
 金は、「沈黙」が「ある」ことを明確にすることで、「いま」「ここ」を「突き刺し」、そこから「時間」を噴出させようとしているのだろう。
 ただ、この「今」を、金はどう動かしていくのか。この詩からだけでは、私には、わからない。

 一方、きのう読んだ伊藤は、「いま」をどう動かすかを知っている。きのうは書かなかったが、伊藤ははっきりと書いている。

おしえよう このちえの まじないを。
さあ おしえて あげよう こういうのだ。

きゃーてい。
ぎゃーてい。
はーらー ぎゃーてい。
はらそう ぎゃーてい。
ぼーじー そわか。

 ここには「意味」は「ない」。そしてことによって、「意味」は「ある」。「ない」けれど、それを「声」にするとき「意味」に「なる」。どんな「意味」に? それは無意味な質問だ。「ことば」が「声」に「なる」とき、そこに「意味」は「ある」。わからなくていいのだ。わからなくたって、そこに「意味」が生成している。生まれている。「声」はすべてを「産む」力である。

失くした季節―金時鐘四時詩集
金 時鐘
藤原書店

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クロード・ルルーシュ監督「男と女」(★★★★)

2010-12-18 19:16:48 | 午前十時の映画祭
監督 クロード・ルルーシュ 出演 アヌーク・エーメ、ジャン・ルイ・トランティニャン

 この映画で一番好きなシーンは、アヌーク・エーメ、ジャン・ルイ・トランティニャンと子供たちが海岸で遊ぶところだ。走る子供の足に、ジャン・ルイ・トランティニャン足をひっかける。女の子の足にはうまくひっかからず、次にこころみた男の子の足にひっかかる。男の子は当然倒れる。それを抱き起こし、砂を払う――それだけのシーンだが、これがこの映画を象徴している。
 一回限り。
 男の子はきっと足をひっかけられることを知らないで走っている。このシーンがアドリブか、仕組まれた演出か、どちらであるか分からないが、もう一回撮ることはできない。男の子が警戒する。
 一回限り、二度と繰り返さない。それは、映画の撮り方を通り越して、男と女のふたりの関係にもなる。
 食事をしながら男が女の椅子の背後に手を伸ばす。指は女の背中に触れるか触れないか、微妙なところで躊躇している。こういうこともその日限りである。
 男が女を車で送っていく。ギアを動かした右手を女の膝にもっていく。女は、男の顔を見る。手を見ないで、顔を見て、あれこれ思っている。これも一度限り。次に同じことが起きたとしても、その時女は男の顔を、最初の時のように何分(実際は1分くらい?)も見つめたりはしない。
 このときスクリーンには女の顔しか写さないが、男はきっと女の方を見つめていない。手も見つめていない。ただ前を見て運転している。ただし、女に見つめられていることは感じている。
 こういうことも一回限りである。男と女の関係においては。
 そうなのだ、これは「即興」映画なのだ。脚本があるけれど、その場限りの動きが大切にされている。ストーリーよりも、役者の肉体そのものがそこにある。肉体でストーリーをたどりながら、肉体がストーリーから解放されている。
 ただ一回、セックスシーンの、アヌーク・エーメだけは「演技」である。やっとセックスまでたどりつきながら、その最中に死んだ男を思い出してしまう。その、思い出す瞬間、女が眼を開く。思い出してしまって、眼を開く。瞼に浮かんだ思い出を、いま、見えるものでかき消すかのように。
 そしてこのシーンだけが、一度ではなく、何度も繰り返される。アヌーク・エーメは何度も何度も眼を開く。
 おもしろいなあ。



 この映画は1966年に作られたということも、評価するときの要素になるかもしれない。自在なカメラワーク、焦点の移動など、その後の映画で採用されたいろいろな手法がつまっている。あ、こんなふうにすればだれでも映画が撮れる――と思わせる手法である。
 で、当時は、華麗なカメラワーク、映像の魔術師という風に評価されたと思うが、なんだか、いま見ると美しくない。オリベイラ監督のような、がっしりと動かない映像の方が剛直で美しいと、私には思える。まあ、これは、また時代がかわればかわってしまうことかもしれない。

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ナボコフ『賜物』(31)

2010-12-18 10:09:31 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(31)

 文学のなかに文学がある--小説のなかに詩があり、その詩についての批評があり……というような入れ子細工はナボコフの「好み」だと思うが、そういう「作品の構造」だけではなく、諸説の細部においても、もう一度ナボコフは「入れ子」をつくる。

彼女は柔らかな胸に腕を君で立っていたので、その姿を見るとたちまちぼくの中に、その題材をめぐる文学的連想のすべてが展開した--からりと晴れた埃っぽい夕べ、街道沿いの居酒屋で、退屈した女が注意深いまなざしを何かに向けている。
                                 (69ページ)

 ここからストーリーが展開するわけではない。ただ主人公が「文学的連想」をした、ということが書かれているだけなのだが、この「文学」への「逸脱」が不思議におもしろい。
 なぜか、そこに「短編小説」を感じるからである。女を主人公とした短編小説が、そのことばのなかにひそんでいる。何も書かれていないのに、短編小説を感じさせる。

 他方、次の、変な逸脱もある。

 ヤーシャは日記をつけていて、その中で自分とルドルフとオーリャの相互関係を「円に内接した三角形」と的確に定義していた。円というのは、正常で清らかな、彼の表現によれば「ユークリッド的な」友情のことで、それが三人を結び合わせていたので、それだけだったら彼の絆は何の心配もなく幸せなまま、解消されこともなかっただろう。しかしその円に内接する三角形の方は(略)--こんなことから短篇だの、中篇だの、一冊の本だのをつくりだすことはとうていできない、とぼくは思ってしまうのだ。
                               (69-70ページ)

 ナボコフは、ここで主人公に「短篇」「中篇」ということばを語らせている。非文学的(?)な円と三角形の比喩--文学的連想から遠いものは、短篇、中篇には向かない、といわせている。
 あるいは。
 それは逆説的には、文学的連想から遠いものは「長篇」になる、ということを意味しないだろうか。短篇、中篇は、「文学的連想」のことばとともに動く。「文学的連想」から動くことばは自然に短篇、中篇を作り上げてしまう。
 ここには、ナボコフの「自戒」がこめられているかもしれない。





ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社

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伊藤比呂美「新訳『般若心経』」

2010-12-17 23:59:59 | 詩集
伊藤比呂美「新訳『般若心経』」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 伊藤比呂美「新訳『般若心経』」は、私は、活字で読む前に朗読を聞いた。朗読を聞いたときと、活字で読んだときでは違うものが「見える」。

自由自在に 世界を 観ながら 人々とともに
歩んでいこう 道をもとめていこうとする かんのんが
深い ちえに よって ものを みつめる 修行の なかで
ある 考えに たどりついた。
わたしが いる。 もろもろの ものが ある。
それを 感じ
それを みとめ
それについて 考え
そして みきわめることで
わたしたちは わたしたちなので ある。
しかし それは みな
「ない」のだと
はっきり わかって
一切の 苦しみや わざわいから
抜け出ることが できた。

ききなさい しゃーりぷとら。

「ある」は「ない」に ことならない。
「ない」は「ある」に ことならない。

 私が朗読を聞いたとき、伊藤は「この詩はまだ未完成」と語っていた。未完成だけれど、ぜひ朗読したい、--そういう大切な詩なのだ。
 私は伊藤の朗読を聞くのはそのときが最初だった。その後も、聞いたことはなく、伊藤の声を聞いたのは一度きりということになる。その、はじめて朗読を聞いて感じたのは、伊藤の声が透明であるということ、そして一色であるということだった。そのとき雑談する機会があった。
 「美空ひばりみたいな声かと思ったら違っていたのでびっくりした」
 「美空ひばりみたいに、どすのきいた声?」
 「いや、そうじゃなくて、美空ひばりみたいに七色の声」
 というようなやりとりをした。
 そのことを思い出した。
 なぜ、こんなことを書くかというと、「新訳『般若心経』」を読んで、あ、「一色の声だ」と再び思ったからである。伊藤と雑談したとき、そこまでは考えていなかったのだが、この詩を読んで、伊藤の声はほんとうに「一色」だと思った。
 どういうことか、というと……。

深い ちえに よって ものを みつめる 修行の なかで

 この行の、分かち書きされたそれぞれのことば「深い」「ちえ」「よって」「ものを」「みつめる」「修行の」「なかで」が、伊藤にとって「等価」であるということだ。「深い」と「ちえ」を比較して、「ちえ」の方に価値があるとは伊藤は考えない。
 ここに書かれていることの「本質」は「ちえ」にある。「深い」は「ちえ」を修飾する形容詞である。「ちえ」ということばは「深い」ということばよりも重要である--という具合に、伊藤は考えない。
 それは「よって」についても、「なかで」についても同じである。
 ことばは、それぞれ、「等価」である。
 その、ことばの「等価性」(こんなことばがあるかな?)をはっきりさせるために、伊藤は分かち書きをし、ことばを「ひとつ」「ひとつ」独立した感じで表記しているのだ。
 そしてこのときの「ひとつ」「ひとつ」ということ、それにどんな価値的差異もつけくわえないということが「一色の声」につながる。
 ことばの対等性、等価性を具体化するには、「七色の声」ではだめなのだ。あくまで「一色」の声でなければならないのだ。

 「一色の声」というのは、実は、とんでもない問題を引き起こす。誰にでも大切なことば、その人だけのことばがあるものだ。そういうことばを私は「キーワード」と呼ぶのだが、「声」を「一色」にするということは、「キーワード」をなくすことでもある。どのことばも対等なら、あることばに重点を置くことはできない。「キーワード」で何かを語る、個性を語ることは、「あやまち」を犯すことになる。

 そう認識して、それでもなおかつ、このことが言いたい、と思ったとき、どうすればいいのか。伊藤の声は、たいへんな問題とぶつかっている。

 伊藤がこの問題を解決するために(?)とった方法がカギかっこの導入である。このカギかっこは、活字で読むときは見える。(存在する。)しかし、朗読のときは、消える。存在しない。声にあっては存在しないのだけれど、その声を発する伊藤の「肉体」のなかには、ある印として残る。伊藤の「肉体」のなかに、印を残しただけで、そのカギかっこは誰にも気づかれずに消えてゆく。
 それでいいのか。
 それでいい、と伊藤は考えるのだ。

「ある」は「ない」に ことならない。
「ない」は「ある」に ことならない。

 これは伊藤の書いているカギかっこの問題ではないが、カギかっこの答えでもある。カギかっこがあるはカギかっこがないに異ならない。カギかっこがないはカギかっこがあるに異ならない。「ある」も「ない」も、そのときそのときの「こと」なのだ。
 「ことならない」は「異ならない」という「意味」だけれど、その「異ならない」は、「こと ならない」「こと なる には ならない」ということかもしれない。
 あ、なんだか、面倒くさいことを書きはじめてしまったが……。
 「異なる」のなかには「こと」がある。ある「こと」と別の「こと」、そこに区別があるとき、つまり「ひとつ」と「ひとつ」が別々のものであると認識できるとき「ことなる」ということになる。それは「ひとつ」が「ひとつ」の「こと」に「なる」、また別の「ひとつ」が「ひとつ」の「こと」に「なる」ということがあってはじめて成立する。
 そのときの「なる」という動き。それは、しかし、まったく「異ならない」なにかなのだ。運動、エネルギーは、同じように働いている。
 もし何かがあるとすれば、「なる」という運動だけなのである。
 
 伊藤の言いたいことが「ある」。その「ある」何か、「ある」「こと」が、「深い」ということばに「なる」、「ちえに」ということばに「なる」、「よって」ということばに「なる」。「なる」ことによって「ある」のだけれど、それは「ある」と同時に「ない」。「ない」というのは「深い」や「ちえ(に)」や「よって」が、それ自体として存在するわけではないからだ。ほんとうに「ある」のは「ことば」ではないからだ。
 ことばは「いま」「ここ」に仮にあらわれている「こと」にすぎない。

 なんだかややこしい。書けば書くほどわけがわからなくなる「こと」を、伊藤は面倒くさいことに「一色の声」で語ろうとしている。
 適当な例とはいえないだろうけれど、たとえば伊藤が「フランス現代思想」の「用語」をつかって、彼女の声を「複数」にすれば、伊藤はもっとわかりやすく「思想」を語ることができるかもしれない。
 けれども、伊藤は、その方法を選ばない。
 あくまで、伊藤の透明な「一色」の「声」で語ろうとしている。そのために、とりあえず、分かち書きとカギかっこを導入したのだ。

 でも、これはつらい決断だねえ。

 私は、いま、もう一度、伊藤の朗読を聞いてみたいと思っている。この詩を最初に聞いたときには、伊藤が「一色の声」であることを想像していなかった。「七色の声」を想像していたので「一色」に聞こえただけなのかもしれない、といまは感じている。もしかすると、私が「一色」としか聞き取れなかったものが、実は、もっと多彩な色だったかもしれない。多彩過ぎて、それが「一色」に見えたということかもしれない。
 また、たえと「一色」であったとしても、その「一色」は、最初から最後まで連続した「ひとつ」の「いろ」ではなく、常に、いま、ここにあらわれては消えていく「運動としての声」だったと気がつくかもしれない。

 私は朗読(詩)というものに賛成ではないが、伊藤の詩だけは朗読でなければならないのだと、いまは思う。
 書きことばは伊藤にとっては「肉体」ではない。伊藤のことばはあくまで「肉体」からあらわれて消えていく、その瞬間瞬間の「声」なのだ。




読み解き「般若心経」
伊藤 比呂美
朝日新聞出版

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誰も書かなかった西脇順三郎(161 )

2010-12-17 10:54:15 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(161 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 「二月」。

こん夜は節分である
だんなの豆まきの日であつた
だが論文をかかなければならない
なにも書くことがない
冬は梅の中にふるえている
なさけない女のような日だ
ああ灰色のペルシャ猫の
なくなつた言葉を祭る日だ

 この書き出しのリズムがとても気持ちがいい。イメージの展開も楽しい。あることを書いて、そにれ関係するのか、関係しないのか、関係するといえば関係するし、関係ないといえば関係ない、そういうイメージを展開する遊びのような気持ちが楽しい。そして、気持ちが楽しいと書いたとたんに、「気持ちが楽しい」というのは変なことばだと思いながら、私は、これは何かに似ているなあ、と感じる。
 あ、連歌だ。

こん夜は節分である
だんなの豆まきの日であつた

 これは、発句。あいさつだね。書いたのは、豆まきに招かれた客である。「だんなが豆まきをするというので、およばれにやってきました。お招きしてくださり、ありがとうございました」。
 この2行に対して、主人が答える。

だが論文をかかなければならない
なにも書くことがない

 あ、そうか、豆まきの日だったか。だが、論文を書かなければならない。豆まきをしている暇はない。なにも書くことがないから、書くことをつくりださなければならない。
 これは季節を分ける「節分」を、まあ、むりやりの「記述」のようなものと解釈して、何かを書くことは、何かを分節することだ、などとしゃれているかもしれない。

 節分であることと、だんなが豆まきをすることと、論文をかかなけれはならないということのあいだには何の関係もないが、それを「つなげる」者の意識のなかには「つながり」がある。そして、それを「つなげて」読むものの意識のなかにも「つながり」が生まれてくる。
 詩は、そういう「むりやり」の意識、「つながり」遊びの意識のなかにあるのかもしれない。
 この冒頭の4行は、連歌にしては突然過ぎる展開かもしれないけれど、「現代詩」なのだからこれくらいの飛躍はあっていいだろう。

冬は梅の中にふるえている
なさけない女のような日だ

 この2行は連歌では「反則」かもしれない。最初の2行、いや、それ以前にもどってしまうからね。しかし、やはり「現代詩」なのだから、連歌そのものでなくてもいい。ただ、前に書いたことと、「つながり」ながら「はなれる」。その接続と分離を繰り返して、ことばをどこかへ動かしていけばいいのだ。
 あ、そんな動かし方があったのか、そんな取り合わせがあったのか、と思い、それを楽しめばいいのだ。
 前の4行が「男(だんな)」の世界だったので、ここでは主役を「女」へと動かしているのだ。

 一方、連歌は、前へ前へと進むが、西脇のことばは、そういう方向には頓着せず、過去の(前の)ことばの世界を引っかき回すようなところがあると思う。「節分」なのに、「冬」へもどる。「節分」のなかにある「春」ではなく、西脇は「冬」をひっぱりだしてきて、それが「ふるえている」と書く。
 このとき、梅が冬のなかでふるえているなら、それは節分の印象に非常にぴったりした感じがする。あるいは「春は」梅の中にふるえている、硬い梅のつぼみをえがいていることになるかもしれないが、西脇は「冬は」梅の中にふるえていると書く。
 一瞬、えっ、何? と感じる。その、「わからなさ」がおもしろい。
 「連歌」自体、ある「世界」に別の「世界」をぶつけて遊ぶものだが、そういう衝突の瞬間はいったい何が起きたかわからない。一瞬の空白があって、そのあと衝突によって「新しい世界」が動きはじめる。
 新しい世界が動きはじめるためには、空白--驚きが必要なのだ。

 この「空白」--意識の空白を利用して、西脇のことばは加速する。

ああ灰色のペルシャ猫の
なくなつた言葉を祭る日だ

 「節分」はどこかへ完全に消えてしまった。けれど、どこかで「論文をかかなければならない」「なにも書くことがない」を引きずっている。かきまわしている。「なくなつた言葉」ということばが。
 いや「節分」は消えていない。「祭る日」ということばのなかに生きている、ということもできる。
 --なんだって言える。これが、たぶん一番楽しいことばの楽しみ方なのだと思う。
 私流に言いなおせば「誤読」を楽しむ、ということだが。


西脇順三郎詩画集「〓」 (1972年)
西脇 順三郎
詩学社


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粕谷栄市『遠い 川』(18)

2010-12-16 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(18)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「夢の墓」は、タイトルそのものがすでに二重の「意味」を持っている。夢で(眠りのなかで)見た墓、理想の(夢の)墓。そして二重でありながら、ひとつの「意味」であるとも言うことができる。夢で見た夢が夢の墓である。眠りの中で見た墓が理想の墓である。どっちだろう。

 寒い霧の暁、ひとりの男が、石の墓を抱き起こしてい
るのを見た。何故か、私は、その墓地にいて、鉄の柵を
隔てて、そのすがたを見ることになった。どこからか、
僅かに光が洩れていて、一瞬、その彼が見えたのだ。

 「何故か、」ということばが、この描写は夢であると告げているかもしれない。眠りのなかで見た「無意識」の世界。無意識だから、その理由を、意識として書くことができない。「何故か、」とわからないものとして書くしかないのだろう。
 この「わからない」は、少しことばが動いたあと、次のことばに変わる。

 重い石の墓を、彼は抱き起こしていた。その前のこと
も、その後のことも、私は、知らない。

 私はびっくりしてしまった。あらゆるものに「持続」がある。時間の前後がある。それは私たちが意識的に理解していることなのか、それとも無意識的に納得していることなのかよくわからないが、あることがらには「前後」というものがあり、その「前後」には「接続」があり、一定の「持続」があると思っている。粕谷もそう思っているからこそ、あえて、「その前のことも、その後のことも、私は、知らない。」と書いているのだが、そこに私はびっくりしてしまった。
 あ、そうなのだ。あらゆるものに「持続」があるけれど、そういう「持続」とは無関係に私たちは何かを見ることができる。あるものを、そのあるものの「世界」から切り離して、「世界」とは無関係なものとして見ることができる。
 そのとき、その「あるもの」はどうなるのだろうか。

 長く、病気をしていると、人間は、さまざまな夢を見
る。特に、衰弱しているときは、そうである。高熱が続
き、私は、半ば、死にかけていたのだ。
 そんなとき、私は、何ものかに抱き起こされて、その
夢を見たのだった。それは、深く心にのこった。
 寒い霧の暁、あるいは、私が、その男で、石の墓を抱
き起こしていたのかも知れない。いや、私自身が、石の
墓で、彼に抱き起こされていたのかも知れない。どちら
にしても、私には、一向に、おかしくなかった。

 ある「存在」に「前後」がないとき、因果関係というか、時間が存在しないとき、ひとは、その「存在」とどのようにでも結びつくことができる。「私」は「私」であることもできるが、「彼」でもいい。「墓」でもいい。

どちらにしても、私には、一向に、おかしくなかった。

 では、こういうとき、「真実」というのはどのようなものになるのだろうか。「真実」というものはなくなってしまわないか。
 なくならない。

 私は、半ば、死にかけていた。そのとき、私は、それ
を見たのだ。そこには、一切が、そうでなければならな
い、深い根拠のようなものがあった。

 「深い根拠」は、このことばのあとに書かれるが、その「根拠」に触れる前に、この段落でどうしても触れておきたいことばがある。「一切」。これは、「その前のことも、その後のことも、私は、知らない。」と同様に、私をびっくりさせた。
 存在が「前後」を失い、なんだか、わけのわからないものになる。「世界」とは無関係なものになる。そのとき、「存在」は、いくつある? この作品ではたまたま「ひとりの男」「石の墓」が「存在」としてくっきり見えるものだが、よくよく見れば「鉄の柵」というものもある。「霧」があり、「光」もある。
 そして、それ以上に、強く(なぜか、強く、と書いてしまういたいのだが)存在するのもがある。それは「もの」ではなく、石の墓を「抱く」(抱き起こす)という行為である。
 「一切」には、行動も含まれているはずなのだ。そして、行動というのは「もの」と違って、必ず時間の前後を持っている。肉体が動くとき、そこには「時間」がいっしょに動いている。けれども、粕谷は、その前後がわからない。わからないまま、しかし、そこには「石の墓」を「抱き起こす」という「時間」がある。また、それを「見る」という「時間」もある。そして、矛盾したことを書いてしまうが、粕谷が「一切」と書くとき、その「時間」は「前後」を失っている。
 失っていなければならない。--「根拠」という限りにおいては。

 世界から切り離された世界。一瞬。そこに、いったいどんな根拠があるのか。しかし、そこには根拠はない。粕谷は「どうでもよいことだ。」と書いている。

 一人の人間の記憶は、彼だけのものである。彼は、さ
まざまな記憶を持ったまま、死んでゆく。この私の夢の
できごとの記憶も、そうなるだろう。
 その男が、何ものだったか、どうして、私は、そんな
夢を見たのか。いろいろな詮索ができる。だが、どうで
もよいことだ。
 寒い霧の暁、彼は、蒼白な面持ちで、石の墓を抱き起
こしていた。私にとって、意味のあるのは、いまも、妖
しいばかりに鮮明な、そのすがただけだからである。

 「どうでもよいこと」。だが、この「どうでもよいこ」こそ、あらゆる根拠である。意味があるのは、粕谷が書いているように、ある瞬間に、ある情景が「鮮明な、そのすがた」であることなのだ。
 私たちは、何もかもから切り離され、ただ鮮明にある何かと自分をつなげて、「いま」「ここ」「わたし」というものを存在させる。生起させる。それが、「いま」「ここ」に「生きている」ということなのだ。
 この「いのち」の生起の記録として、詩があるのだ。
 粕谷のこの詩集には「死」が頻繁に出てくるが、同時に「いのち」の生起としての事件も頻発する。「死んでゆく」のは、同時に、なにごとかを生起させつづける、なにごとかを産みつづけることである、死ぬこともまた産むことなのだ、と粕谷は知っているのだ。死は存在しながら、存在しないのだ。そこには「妖しいばかりに鮮明な、粕谷のことばだけがある。」と粕谷のことばを借りながら、私は、そう言いなおしたい。そして、また、言い直したい。
 粕谷の記憶、粕谷のことばは粕谷だけのものである。だが、それを読んだとき、それは粕谷のことばでありながら、粕谷のことばではない。粕谷がどう考えていたかはどうでもいいことだ。粕谷の考えていたことは、どうとでも詮索できる。だが、どうでもいいことだ。私ととって意味があるのは、粕谷が印象的なことばを書いた。私の知らないことばを書いた。私はそれを読んでしまった。そして、そのことばからなにごとかを考えてしまった。何を考えたか思い起こすとき、ただ、そこに粕谷のことばが鮮明によみがえってくる、そこに新しく生きはじめるということだけだ、と。


遠い川
粕谷 栄市
思潮社

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ナボコフ『賜物』(30)

2010-12-16 10:52:50 | ナボコフ・賜物

アレクサンドル・ヤーコヴレヴィチは部屋の隅で明るく電灯に照らされた自分の机に向かって、ときおり咳払いをしながら、仕事をしていた。彼はドイツの出版社に頼まれて、ロシア語の専門用語辞典を編纂していた。小皿の上で、サクランボの砂糖煮(ヴァレーニュ)の跡が灰と混じり合っている。
                                 (62ページ)

 ふいに登場してくる「小皿の上で、サクランボの砂糖煮(ヴァレーニュ)の跡が灰と混じり合っている。」という文章に驚く。「サクランボの砂糖煮」についての説明は何もない。「灰」についても何の説明もない。何もないのだけれど、私には「わかる」。もちろん、この「わかる」は「誤読」かもしれないが、「わかる」のである。
 辞書の編纂をしながら、サクランボの砂糖煮を食べたのだ。その小皿が机の上に残っている。そして、その小皿を灰皿にして、アレクサンドル・ヤーコヴレヴィチは煙草を吸ったのだ。煙草の灰は、サクランボの砂糖煮の汁(?)の跡の形でこびりついている。
 何の説明もないだけに、その「存在」が、独立して、そこにある。「世界」と切り離されて、それでいて「世界」の中心のようにして、そこにある。
 こういうところに、私は「詩」を感じる。そして、そういう瞬間がとても好きだ。

 引用した文章は主人公が参加している詩のサークルで出会った女性について書いている部分に出てくる。彼女は、死んだ息子と主人公が似ていると感じ、主人公にあれこれと話しかけてくる。それが、まあ、うるさいなあ、という感じで描写される。人間関係が、うるさい。つまり、「気持ち」がうるさい。
 そのうるささを吹っ飛ばすようにして、突然割り込んできた「もの」。しかも、その「もの」には不思議な「過去」というか「時間」というか「歴史」がある。手触りがある。誰でも、食器が汚れる瞬間を知っている。小皿でなければ、たとえばコーヒーカップが、あるいは飲料水のボトルが、空き缶が「灰皿」になって汚れることを知っている。そこには単に「もの」の汚れだけではなく、それを汚してしまう「ひと」の「暮らし」がある。「暮らし」が「もの」として、そこに生きている。

ロシア文学講義
ウラジーミル ナボコフ
阪急コミュニケーションズ
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