詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェルメール「地理学者」とオランダ・フランドル絵画展

2011-07-26 09:01:17 | その他(音楽、小説etc)
フェルメール「地理学者」とオランダ・フランドル絵画展(豊田市美術館、2011年07月20日)

 フェルメール「地理学者」を見ながら、私はふと「手紙を書く女と召使い」を思い出した。京都で見た3点の内の1点。きのう感想を書かなかった作品である。空間処理の感覚が似通っている。そして、大きく異なっている。

 似通っている点。
 人物の配置は「地理学者」が左側、「手紙を書く女と召使い」は右側と違っているのだが、どちらも左側に窓があり、そこから陽の光が室内に入ってきている。この左側の窓の「白」の処理の仕方が似ている。窓を画面の最左端まで描くのではなく、最左端は暗いカーテンで隠す。そのことによって光の明るさが強調されると同時に、室内の透視図(?)の遠近感の歪みが消える。(一点透視図で窓を画面の端まで描いてしまうと、一点透視の、焦点へ向かう斜線が強調されて、端の方がどうも不安定になる--と感じるのは私だけかな?)そうして、室内の奥行きがとても自然になる。視線は、自然にカーテンが占める領域を省略して、光があふれる部分だけを見てしまう。絵が、大きいにもかかわらず、小さく落ち着いたものになる。こうした構図の技法はフェルメールに限らないのだろうけれど、この処理のときのカーテンの占める「位置」(割合?)がとてもいい。
 もう一点。
 窓があり、光が左斜め上から差してきて、その中心に人物がいて、机がある。そのまわりの空間--人物の大きさに比べて空間が広すぎる。その広すぎる空間のあいまいさのなかに、ぽつんと「もの」が置かれる。「地理学者」の場合は、まるまった地図らしきもの。「手紙を書く女と召使い」は羽ペンらしきもの。その「もの」の存在によって、床の漠然としたひろがりがきゅっと収縮し、広さを感じさせなくなる。

 異なっている点。
 「地理学者」がおもしろいのは、余分な(?)空間を消してしまうカーテンを垂直に垂らさないところである。斜めによぎっている。
 そして、この斜めに空間を消してしまうカーテンと呼応するように、手前の机の上の布の領域が、右下へなだれるように斜めになっている。「手紙を書く女と召使い」はカーテンがほぼ垂直に垂れているので、画面はその分だけ左側が狭くなった四角形になるが、「地理学者」の場合は四角形を斜めに倒した(傾けた)具合になる。光が左上から斜めに差し込む形をそのまま四角形に切り取った形になる。四角い画面のなかに、光の輝きの領域が斜めに傾いた四角形として嵌め込まれている感じである。
 これは、見ようによってはとても不安定である。その不安定さを机の上に置いた左手の垂直の線でがっしり支え安定させている。一方、その線が強調されないように、コンパスを持つ手は肘から軽くまがり、宙に浮き、軽やかさを出している。この、ひとの形が描き出すリズムと、斜めに倒れた光の四角形の感じが、この絵をおもしろくさせている。
 斜めに倒れた光の四角形は、背後にある箪笥(?)の影の斜めの四角形の存在によって、静かな透明感にかわり、それが「地理学者」の「学者」の雰囲気に似ている。--これも、なかなかおもしろい。

 一昨年、東京のフェルメール展で2点同時に見ているはずだが、一緒に見たときは気がつかなかったことが、別々の会場で見ることで見えてくる、というのは不思議な感じがする。たぶん、1点1点が充実しているので、まとめて見ると印象が競合して、まとまりがつかなくなるのだろう。
 フェルメール三十数点、まとめて見るのが私の夢だったが、そうではなくて、こうやって1点1点追いかけながら、かつて見たものを思い出し、そこにない絵と「肉体」のなかで出会わせながら見るのもおもしろいかもしれないと思った。
 1点だけなのでどうしようか迷っていたのだが、豊田市美術館まで行ってよかったと思った。
                             (08月28日まで開催)



フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版)
朽木 ゆり子
集英社
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鴛海裕「二月と四月のあいだ」

2011-07-25 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
鴛海裕「二月と四月のあいだ」(「投壜通信」01、2011年07月10日発行)

 鴛海裕「二月と四月のあいだ」も「東日本大地震特集」のなかに置かれていなかったら違った具合に読んだかもしれない。

二月二十四日、仙台では
スノードロップが咲き始めた

地に根を張るものたちは
大きな揺れをどう受け止めたのだろう

東京の春は寒かったので
四月になってようやく
タンポポやスミレが咲いた

祖母に手を引かれた小さな女の子が
-この花は、チボシっていうんだよね
咲いていたのは、オオイヌノフグリ

四月二十七日、仙台でも
ムスカリの群生の脇に
地星が咲いていた

 ここに書かれているのは大地と花のことなのだが、私は、なぜか海と海で生きる人たちのことを思った。海は津波となって、海で生きる人たちの家や船を奪いさった。海で生きる人たちは、大地に寝起きし、そこで食べ物を食べ、海から暮らしの糧を得るということになる。何人ものいのちが奪われた。それでも、やはり海が好き--その気持ちが、なぜか、「チボシ」の花のように思えるのだ。「チボシ」にかぎらず、大地に咲く花のように思えてしまうのだ。

 鴛海は、植物、つまり「地に根を張るものたちは/大きな揺れをどう受け止めたのだろう」と問うている。この問いは「植物」だけの「思い」を問うているのだろうか。つまり、大地がゆれ、たとえばスノードロップはどう感じたか。タンポポやスミレはどう感じたか。チボシはどう思ったか。怖い、逃げたい、と思ったか。
 どうなのだろう。
 はげしくゆれる大地を感じ、自分のそばに根を張る仲間の草の不安や悲鳴を感じただろうか。
 私はなぜが、植物は、他の植物の悲鳴を聞いたのではなく、大地そのものの悲鳴を聞いたのではないのか、と思ったのだ。
 どこから、この揺れは来ているのか。遠い大地の、どこが破壊されたのか。その破壊の悲鳴を聞いて、大地こそ不安にならなかったか。
 その不安を聞いて、花は、こわがらなくていいよ、大地はまだ生きているよ。君たちの生きている証拠を地中からつかみ取って、地上に運び、美しい花にして見せるよ。いつもの春のように--花たちは、そう言っているような気がしてならないのである。

 海で暮らしている人たち、大震災のあと、津波の被害のあとも、海から離れることのできない人たちは、やはり「大丈夫だよ、海は生きているよ、その海と一緒に生きるよ、どこへも行かないよ」と海に呼びかけているような気がする。
 自分ひとりが生きるのではない。誰かといっしょに生きたい。そう思うとき、花は大地と生きたいのだ。海で暮らす人は海で生きたいのだ。そんなことを私は思ったのである。
 小さな女の子は「チボシが咲いた」という。それは「オオイヌノフグリ」。そしてそれは「地星」。違うことば(文字)が、違いながら、つながっている。そんな具合に、大地と花がつながって生きている。海と海で暮らす人は、つながって生きている。--あ、私のことばは、どこかで飛躍しているのだが、そんなことを思うのだ。
 それは小さな女の子と鴛海の関係かもしれない。女の子のことば、そのことばとともに夢見ようとしているもの、それはどこかでつながっている。
 草花が大地の夢を地上に運んで花として開いて見せることで生きるように、鴛海は女の子の「チボシ」という音を「地星」(地上に咲いた星)という文字にすることで、地上を星空(宇宙)につなげる。
 このつながりのなかに、私は、

好き、

 ということばを感じるのだ。「声」を感じるのだ。誰ものかみんな、自分の暮らしてきた「場所」が好き。その「場所」が奥にもっている何かが好き。それぞれの花は大地がもっている「星」を地上に運ぶ。それは、その大地が好きだから。
 生まれ育ったところが好き、ふるさとが好き。
 そういう「声」を私は聞いてしまうのだ。



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フェルメールからのラブレター展

2011-07-25 10:39:42 | その他(音楽、小説etc)
フェルメールからのラブレター展(京都市美術館、2011年07月20日)

 今回公開されている「手紙を読む青衣の女」は修復されたものだと言う。アムステルダムで見たとき、頬(顔)から首にかけての汚れ(?)のようなものは何だろうと思った。それは修復によってどうなったのだろうと気になって見に行った。その汚れはそのままだった。あれはいったい何なのだろう。いつついた汚れなのだろうか。
 わからないものはわからないままにして……。
 「青衣の女」というから「青」が中心の絵である。中央に光のなかで変化する「青衣」がある。左右に椅子があり、その椅子の背もたれ、座面が青い革(?)で覆われている。その椅子の青が暗い藍に近く、女の窓に向いた軽い青と美しく響いている。
 椅子の青にも諧調があって、右の椅子の背もたれの折れ曲がって陰になった部分などとても強い感じがする。深い感じがする。あ、ここも青だったのか、と今回気がついた。
 左手前の、何だろう、ベッドカバーだろうか、ソファーのカバーだろうか、そこにもほとんど黒に近い藍があって中心の青の変化をしっかりと支えている。
 しかし、私が驚いたのは、実は「青」ではない。
 背後の壁の白の変化にびっくりしてしまった。とても明るい。特に窓際が静かで透明な白に生まれ変わっている感じがした。そして、その白が、青と同様、一様ではなく光のとどく距離によって変化している。その白の変化がとても美しい。
 その白に促されて、私は、次のようなことを考えた。
 手紙を読む女のこころ、光(希望)へ向かって動いていくこころのような感じがする。女は立ち止まって手紙を読んでいるのだが、読み進むにつれて、もっとはっきり読みたい、と光のなかへ一歩足を動かす感じがする。動きを誘う白である。
 青がじっとそこにある青、滞って(?)藍にまで沈んでいくのに対し、白は、その青を誘っている。光のなかへ誘っている。それが服にも手紙をもつ手にも、女の額にも、手紙そのものにも輝いている。
 光の方向へ、左側へという動きには、壁に吊るされた地図、その地図をまっすぐに垂らすための錘(?)の存在が大きく影響しているかもしれない。先頭に丸い玉がついた鉄の棒のようなものだが、この強い水平線が、絵を動かしている。
 女の手紙を読む視線(目と手紙を結ぶ斜め左下への斜線)、それと平行するように額(頭部)と地図をまっすぐにするための鉄の棒の先頭の玉を結ぶ見えない斜線があり、ちょうどその斜線と直角に交わるように窓から光が降り注いでいるような感じがする。その二つの斜線が交叉するあたりが、絵の一番濃密な部分であり、その濃密さを安定させる形で空間が広がっている。女の右背後の壁の白、その静かな陰--あ、これも美しいなあ、と思った。

 フェルメールは他に2点。「手紙を書く女と召使い」「手紙を書く女」。
 フェルメール以外では、ヘラルト・テル・ボルフの「眠る兵士とワインを飲む女」がおもしろかった。絵というよりも、その時代の風俗が伝わってきて、楽しかった。展覧会の主眼も、「時代を伝える絵画」という点にあるようだった。
                         (10月16日まで、京都市美術館)

フェルメールの世界―17世紀オランダ風俗画家の軌跡 (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会
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池井昌樹「無事湖」

2011-07-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「無事湖」(「投壜通信」01、2011年07月10日発行)

 池井昌樹「無事湖」は「投壜通信」の「東日本大地震特集1」という「場」に書かれていなければ「東日本大震災」と関係があるとは思わないかもしれない。

どこかのえきのどのホーム
無事湖(むじこ)というなのみずうみがあり
うみとはいえど なばかりの
それはちいさなみずうみがあり
えきちょうさんのしゃれかしら
それともみんなのゆめかしら
ゆきかうものらのざわめきをよそに
無事湖ばかりはしずもりかえり
こけむしたそのみなそこに
つがいのきんぎょもすんでおり
ぽこりとあぶくをふかしたり
いつもなかよくまどろんでおり
あんなところで
よくとくもなく
そっとぼくらも
いきていたいね
ぽこりぽこりとささやきかわし
ふたりならんでみとれていたが
みとれるまにもときはゆき
ときははやてのようにゆき
どこかのえきのどのホーム
おもいだせないそのどこか
無事湖はいまもこけむしながら
しずもりかえっているかしら
すぎゆくときのはやてをよそに
ぽこりとあぶくふかしたり
あんなことろでふたりきり
いまもゆめみているからし

 東日本大震災で奪われた「くらし」。それは、どんなものだったのだろうか。思い出すことは難しい。思い出そうにも、目の前の変わり果てた「ふるさと」の姿が、思い出をかき乱すだろう。
 それでも、その困難を超えて、池井はことばを動かしてみる。「くらし」のなかの「無事湖」という名前のにたくされた「みんなのゆめ」を思ってみる。

こけむしたそのみなそこに
つがいのきんぎょもすんでおり
ぽこりとあぶくをふかしたり
いつもなかよくまどろんでおり
あんなところで
よくとくもなく
そっとぼくらも
いきていたいね

 のんびり、おだやかな情景が浮かぶ。
 だけではない。
 「いきていたいね」という1行で、私は、つまずく。立ち止まってしまう。
 「ぽこりあぶくをふかし」「いつもなかよくまどろんで」いるという、のんびり(?)した風景が一瞬、冷たい空気で洗われるような、強い驚きがある。
 「くらしていたね」「すごしていたいね」の方が、私には「「ぽこりあぶくをふかし」「いつもなかよくまどろんで」ということばにはぴったりくるように思う。もっといけいらしいことばを考えれば「ぼんやりしていたい」かもしれない。
 けれど、池井は、そうは書かない。
 「いきていたいね」とことばが動くと、一瞬、のんびりした風景、穏やかな風景が消えてしまう。これは、私だけの印象だろうか。

いきていたいね

 これは、切実な叫びなのだ。「無事湖」という「しゃれ」か「ゆめ」かわからないようなことば、名前--その奥にあるものをぼんやりと考えてしまうが、それはほんとうは切実な「生きる」願いなのだ。
 「無事(むじ)」は「無事(ぶじ)」でもある。
 「無事湖」は「無事故」にしてしまうと、逆に「事故」を連想し、すこしいやな気持ちになる。だから、「故」を「湖」に変えることで、ちょっとことばをずらして、「事故」がやってこれないようにする。そんなことばの動かし方のなかにも、人間の「ゆめ」と「いのり」がある。
 そして、その「ゆめ」「いのり」のさらに奥にあるのは「生きていたい」というたったひとつの思いなのだ。

 「生きていたい」「生きていて」--そういう切ない思いを破壊してしまった東日本大震災。
 そのあと、池井は、「生きていたい」という「声」をしっかりと聞き取り、それをことばにして動かしている。

どこかのえきのどのホーム
おもいだせないそのどこか

 「おもいだせない」。思い出せないけれど、思い出せないと感じるのは、その「思い」そのものははっきりしているからだ。その、けっして消えない「思い」そのものとして「いきていたいね」という「声」がある。
 この「声」は、いつもの池井の「ぼんやりしていたい」(放心していたい)といっしょのもののはずなのに、池井は、いま池井の「声」を書かずに、誰かの「声」を書いている。誰かの「声」とつながろうとしている。
 その「誰か」はいつも池井が思い描いているような、親しいひとを超えたひとである。だから「ぼんやりしていたい」ではなく「いきていたいね」になるのだ。




母家
池井 昌樹
思潮社


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渡邉那智子「薔薇の刺青」

2011-07-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
渡邉那智子「薔薇の刺青」(「投壜通信」01、2011年07月10日発行)

 放射能(放射線)は見える。
 渡邉那智子「薔薇の刺青」は、そのことを「肉体」をとおして「証言」する。放射能は肉体に触れると、見える形になる。どんなふうに見えるかを、渡邉は書く。そうすることで「放射能」を存在させる「科学」を告発する。

 私の右腕には大きな薔薇の刺青があった。生まれたとき看護婦さんが間違えて熱湯をかけてしまったと聞いていた。桃色と白の斑模様。ときどき地図のような筋目からじくじくと血膿が流れ出る。痛痒さに掻いてしまうので、硬く盛り上がった花弁がポロポロと剥げ落ちる。夏は包帯を巻いて通学した。長じてそれが放射線によるケロイドだと知らされた。赤ん坊の私の腕にあった赤い痣。内地で治しておこうと両親は満州に渡る前に生後三ヶ月の私を東京の国際病院へ連れて行った。一回の照射でこうなってしまったと打ち明けたとき、母は肩を落とした。「小さい頃貴女は遊ぶ代わりに枕を抱いて部屋の中をゴロゴロしていた」とも。二十四歳のとき、薬品にかぶれて病院に行った。七分袖の夏服から覗くひきつれに医師は不審を抱いた。「このままだと癌になってしまうよ」お腹の肉を移植した。「ドラスティックに取りましょう。放射線ですから」薔薇は消えて大判となった。深くえぐられた腕は肉をついでも力が入らない。七十二年間不自由のまま生きてきた。原子力に託した夢の縮図。繰り返される無知ゆえの過信。この体験を話すことが私の祈りだ。

 渡邉は「祈り」と書いている。
 渡邉はこれまでも何度も何度も「告発」してきただろう。けれど、その告発は相手に届かない。渡邉に治療した医師にも届かないし、そういう「技術」を開発した人にも届かない。「技術」の基盤を支える「科学」そのものにも届かない。
 「科学」というのは、ある運動については、とてもうまく説明ができる。合理的に考えることができる。そして、その対象の運動内においては「成果」を収めることができるものなのだろう。
 けれど、その運動が他の存在にどんな影響を与えるかということはよくわからない。「科学的な治療」というのは一種の「仮定」である。だからこそ、「治験」というものがあるのかもしれないが、その「治験」にしろ、すべての状況に適応するとはかぎらないだろう。
 渡邉は、そういうことを彼女自身の「肉体」で経験してきている。
 加害者は、渡邉の「告発」を「例外」と判断するかもしれない。
 しかし、医療(科学)にとって「例外」であっても、それは個人にとっては「例外」ではない。個人にとっては、どんなことであれ、「それだけ」なのである。「個別」であることが「すべて」なのである。渡邉の肉体に起きたことがらを「例外」として受け入れることは絶対にできない。
 渡邉は、渡邉の個人的経験をひとりでも多くの人に知ってもらい、それを聞いた人たちが「放射能(放射線)」の影響について、考えてもらいたいのだ。
 もし放射能(放射線)が自分の肉体に降り注いだとき、その肉体はどんなふうにそれに耐えるのか。どんな影響を受けながら生きていくのか。
 いま、渡邉は、放射能(放射線)について何も考えて来なかった人々に対して、この「肉体」を見ることで考えてほしいと、「祈る」。



 少し論理が飛躍するかもしれない。渡邉の詩の感想から離れてしまうことになるかもしれないが……。
 私は、この渡邉の詩を読みながら、また、季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出したのだ。

出来事は遅れてあらわれる

 渡邉の放射能(放射線)による「肉体」の変化。それは、渡邉にとっては「遅れてあらわれ」てきたものではない。彼女にとって、「遅れてあらわれる」とは無縁のものだけれど、私から見ると、やはり「遅れてあらわれた」もののひとつに見える。
 もし、東日本大震災が起きなくて、そして福島第一原発の事故が起きなければ、渡邉のこの詩は、こんなふうには書かれなかったに違いない。違うことばで書かれたに違いない。「祈り」ではなくもっと違う「告発」の形をとっていたと思う。
 「祈り」の気持ちは、昔から渡邉の肉体のなかに、こころのなかに、あったのはまちがいがない。しかし、それをあらわす「機会」、それがあらわれる「機会」がなかった。--というより、私たちは、もし渡邉がそういう詩を何度も何度も書いてきていたとしても(そして読んでいたとしても)、渡邉には申し訳ないが、それは渡邉の「個別」の問題としてしか理解できなかったと思う。
 いま、私たちは、ようやく渡邉の「声」を理解できるところにたっている。渡邉の「祈り」に共感できるところにいる。
 「出来事」ではなく、私たちが「おくれて/渡邉の前に/あらわれた」ということなのだ。福島第一原発の事故があって、私たちははじめて真剣に渡邉の「祈り」を聞くことができるようになった。
 「出来事」--「いま/ここ」で何が起きているか、何が起きたのか--それがわかるのは、いつでも「遅れて」からなのだ。それが起きているときは、何もわからない。それが起きてしまって、あ、そういえば、こういうことがあった。放射能(放射線)による被害がこういう形でもあったということを、私たちは「過去」から学ぶのである。
 「過去」だけが、「いま」を突き破って、「未来」へ進むことができる。「未来」へ進んでいく「過去」のことを「出来事」と呼ぶことができるのだ。

 渡邉の体験した「放射線治療」の結果--その過去。その過去が語る放射能(放射線)の影響力が、「いま」の私たちを突き破って「未来」へと突き進む。渡邉の肉体の体験は、渡邉にとっては「過去」であるけれど、私たちにとっては「未来」なのだ。
 「未来」だからこそ、「祈る」のである。

 渡邉が大震災によってどういう被害を受けたのかわからないまま書くのだが(あまり大きな被害を受けなかったと仮定して書いているのだが……)、大震災の被害を直接受けなかった人にも、たしかに「出来事は遅れてあらわれる」。その遅れてあらわれた出来事を、いま、起きている出来事と重ね合わせる--そういうことばの運動が、「詩の礫」の現場とは違った場所で、確実に動きはじめている。



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青山みゆき「ホウレン草」

2011-07-22 23:59:59 | 詩集
青山みゆき「ホウレン草」(「投壜通信」01、2011年07月10日発行)

 「投壜通信」01号は「東日本大地震特集1」を組んでいる。「1」というのだから、今後2、3があるのかもしれない。
 和合亮一の「詩の礫」、さらにはいろいろな詩人が書いた詩からどんなふうにことばは変わってきているか。

 青山みゆき「ホウレン草」が一番印象に残った。

根っこが少し白かった
背がやけに高かった
茎ががっしりしていた
葉っぱの先まで青々としていた

ホウシャノウ、
口にするとガンになる、
ひとびとは皆
大声で言いふらした

農家の者たちは
ホウレンソウをむしって捨てた
それから暗い家にかくれてうめいた

畑は空っぽになった

 これは放射能がホウレンソウから検出された問題をテーマにしている。放射能が残留したホウレンソウを食べると健康に影響する。どれくらいの放射能がどれくらい影響するのか、まだ完全に実証されているわけではないが、風評も影響し、結局は売れない。それで農家の人たちは丹精こめて育てたホウレンソウを廃棄するしかなかったという「事実」を書いている。農家の人たちの悲しみと怒りを書いている。
 そう理解した上で、私はあえて「誤読」するのだが……。

ホウシャノウ、
口にするとガンになる、

 ここに書かれている「口にする」は「食べる」である。だが、私にはどうしても「ことばにする」という意味の「口にする」というふうに読めてしまうのである。
 放射能で汚染された野菜(食物)を食べるというのではなく、食べなくても、「ホウシャノウ」とことばにするだけで、人はガンになる。
 そして、そういう「うわさ(?)」を口にする(ことばにする)人たちは、思っているのである。
 放射能などということばを知らなければよかった。放射能というものの存在を知らなければよかった。そんな不気味なものに「名前」をつける必要のない暮らしなら、つまり、そんなことばが流通しない暮らしなら、どんなによかっただろう--人はそう思って泣いているのである。
 放射能は自然界にもあるのだが、いま、問題になっているのは、「人工的」に作り出された存在。科学の力によって生み出され、名前をつけられた「放射能」である。科学の力によって生み出されなければ、それは「名前」をつけられることもなく、ホウレンソウを汚染することもなかったのだ。
 名前をつける--名前をつけることで、ある存在を、はっきりと存在させてしまう。そこから始まる新しい「悲劇」。
 そういうことを私は思ったのである。

 それにしても、何と不思議なことだろう。
 「放射能」と書くと、こんな「誤解」は起きないのだが、青山が書いているようにカタカナで「ホウシャノウ」と書くと、「ホウシャノウ」は「ホウレンソウ」と非常に似てくる。
 「ホウレンソウ」を口にする(食べる)ことは「ホウシャノウ」を口にする(食べる)と同じことである--この不思議な一致(?)が、何と言えばいいのか、見えないはずの「放射能」を見えるように感じさせる。
 「放射能」は、あえていえば「ことば」によってそこに存在しているだけだったのが、いまや、「ことば」だけではなく、(科学的な概念ではなく)、「もの」として存在するようになっている。
 そんなことも感じさせる。

 「ホウシャノウ」は、

根っこが少し白かった
背がやけに高かった
茎ががっしりしていた
葉っぱの先まで青々としていた

 あ、目の前の「ホウレンソウ」そのものとして、そこに存在している。「ホウレンソウ」と「ホウシャノウ」は同じではないのだけれど、いま、同じものになっている。「ホウシャノウ」は見えないけれど「ホウレンソウ」は見える。
 同じようなことが、「牛肉」にも起きている。放射能で汚染された藁を食べた牛。その牛肉は、もう「牛肉」ではなく「ホウシャノウ」である。
 「ホウシャノウ」は見えるものになった--これが、東北大震災後、福島大一原発以後の、一番大きな変化である。
 和合亮一が「詩の礫」を書いていたとき、それは見えなかった。でも、青山が「ホウレン草」を書くときには、見えるものになっていたのだ。




西風
青山 みゆき
思潮社



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大橋政人「水の中」、高階杞一「とびこえて」

2011-07-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「水の中」、高階杞一「とびこえて」(「ガーネット」64、2011年07月01日発行)

 きのうは若い(たぶん)女の裸を見たので(書いてなかったけれど、見えてしまった)、きょうは正反対の裸。大橋政人「水の中」。

泳ぎ疲れて
プールサイドで休んでいると
バタフライで荒れた
水も静まり
夕日が
水面を
ヌラヌラ流れてくることもある

ここは
昼間から
人間がハダカを晒す場所
向こうの暮らすも
本日のレッスンが終わって
クールダウンの水中歩行
夕日の中を
胸から上だけの
中高年のむさ苦しい男が七、八人
こっちに向かって
いっせいに歩きだす

横一列の
海坊主
音楽も
証明も消えた水の中を
ぬうっ、ぬうっと歩いてくる
誰もしゃべらず
誰も笑わず
(本日、水の中に
 忘れられたままのひとはいないだろうか)
中には
首から上だけで
漂ってくる者もいる

 夕日が「ヌラヌラ」から始まり、「むさ苦しい」「ぬうっ、ぬうっ」と、どうも男のハダカは美しいとは言えないねえ。で、美しくないからだと思うのだが、想像力が具体的にならないというか、「抽象」に向かってしまう。「肉眼」「肉耳」「肉喉」から離れてしまう。

(本日、水の中に
 忘れられたままのひとはいないだろうか)

 この想像は、完全に、「頭」でする想像である。もし、ほんとうに誰かが水の中に沈んだままだったら、手や足や、水着で隠した性器に「目」があるわけではないのだけれど、水中にある「死」(死体)を感じ取って、大騒ぎする。手や足が、ふいにありえないものに触れて、その瞬間に「声」になる。制御できない「肉喉」「肉舌」が「ことば以前のことば」を振り絞る。
 ここには、ハダカということばがはっきり書かれているけれど、ほんとうは「肉体」が書かれていないことになる。「頭」が書かれているのである。
 最後、「首から上だけで/漂ってくる者もいる」が象徴的である「首から上」とは「頭」だね。
 主役(?)を「水の中」の「肉体」にしてことばを動かすと違ったものが見えてくるだろうと思った。



 大橋は「君恋し」の歌詞の「唇あせねど」についていろいろ書いているが、どうもよくわからない。なぜ、「あせねど」がおかしい? ことばというのは、その部分だけを取り出してもよくわからないことがある。
 大橋は問題にしていないが、

宵闇せまれば 悩みは涯なし
みだるる心に うつるは誰が影
君恋し 唇あせねど
涙はあふれて 今宵も更け行く

 二行目の「みだるる心に うつるは誰が影」に視点を置き、そこからことばを見直せば大橋の誤解は簡単にとけるはずである。(と、思う)。
 「みだるる心に うつるは誰が影」は、その影が「誰」とほんとうに問いかけているわけではない。答えはわかってしまっている。「君」なのである。「君」以外にない。だからこそ、「君恋し」なのである。こころはどんなに乱れても「君」しか見えない。「君」ゆえに、こころは乱れるのである。最初から、この歌詞のことばは「逆説」を「文体」としているのである。
 「みだるる心に うつるは君の影」以外にありえないなら、「唇あせねど」は「私のこころのなかの君」の描写である。私のこころのなかでは、君の唇はけっしてあせない。いつまでもいつまでも魅力的である。だからこそ、恋しいのである。

 この「私のこころのなかの君、その唇」を大橋は「思い」と単純化しているが、「唇」は「思い」ではない。「肉体」である。
 歌の主人公(歌っている人)は「肉体」で「君」とつながっている。「思い(頭?)」でつながっているのではない。
 「肉体」(私のことばで言いなおすと「肉・肉体」とでもいうべきものだが)は「君」とつながっているのに、「君」はここにいない。だから、その「肉体」を追い求めて、涙が「肉・肉体」からあふれるのである。
 ここに歌われている「思い」は「こころ」ではなく「肉体」なのである。 



 高階杞一「とびこえて」。こういう詩は、私は苦手である。気持ちが悪いのである。

長く降りつづいた雨がやみ
水たまりに
今朝は
青空が映っています

両側に田んぼが広がる道を
こどもたちが
はしゃぎながら
歩いています

約束はみんな
雨で
流れてしまったけれど
ひさしぶり晴れたうれしさに

こどもたちは歩いていきます
水たまりを
いくつも いくつも
とびこえて

 「こどもの肉体」が私には見えないのである。想像はできるけれど、「肉体」で感じることができない。「はしゃぎながら」と書いてあるけれど、どんなふうに? 「うれしさに」と書いてあるけれど、どんな具合にうれしい? 水たまりをいくつもいくつも飛び越えるくらいに……。うーん、行儀がよすぎてわからない。うれしかったら、水たまりをばしゃばしゃしない? 「雨に唄えば」では主人公が大雨なのに水たまりでバシャバシャダンスを踊っていた。水たまりって、バシャバシャ壊して遊ぶから楽しい。汚れるからうれしい。
 私は、ここに書かれている「肉体」にはついてゆけない。「肉体」を感じることができない。だから、気持ち悪いと感じる。

十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!)
大橋 政人
大日本図書

雲の映る道―高階杞一詩集
高階 杞一
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神尾和寿「過去形」(2)、「まっぱだか」

2011-07-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
神尾和寿「過去形」(2)、「まっぱだか」(「ガーネット」64、2011年07月01日発行)

 神尾和寿「過去形」。きのう、「時間」にこだわってしまって書き漏らしたことがある。

帰りの満員電車のなかで
痴漢行為に走ったのも
思い出か
軽快にふるまった中指と人指し指の先端を見つめる
君の
声が出ない
すかさず
ながい睫毛
その次の次の 花火

 1行だけ、ふいに長くなっている「軽快にふるまった中指と人指し指の先端を見つめる」の、具体的に「肉体」がいいなあ。中指と人指し指。ではなく、「先端」。
 で、その指の「先端」を「見つめる」とき、ほんとうは指先しか見えないはずなのに、なぜだろう。「君の」「ながい睫毛」が見える。記憶のなかの目に。さらに「その次の次の 花火」が見える。記憶の目のなかに。
 いや、これは「目」じゃないね。
 「軽快にふるまった」という「過去形」。「過去」とはきっと「肉体」のなかにしまいこまれて「時間」である。いま、肉体(指)は軽快にふるまっていはない。でも、肉体はその「軽快」も「ふるまい」も覚えている。そして、そのときの「目」も肉体のなかにある。「君の」「ながい睫毛」「その次の次の 花火」を見たのは「肉眼」なのである。「肉体」のなかにある「目」、外からは見えない「肉体の内部」になってしまった目。
 そして、その肉体の内部になってしまった目は、肉体の内部でほかの肉体と深く結びついている。

君の
声が出ない

 これは神尾の「肉体の内部の耳」が覚えていることである。「いま」の耳ではない。「過去」の耳。君は声を殺している。そのときの、「無音」。耳は音を聞くと同時に、音のない音をも聞いてしまう。
 そして、その耳は実は耳ではない。「声がでない」。声を出すのは喉、口、舌である。
 さらにその喉、口、舌は、神尾のものではない。「君の」ものである。
 それなのに、神尾は理解してしまう。「君」が声を殺していることを。
 神尾の肉体は、中指と人指し指で「君」とつながっているのではない。それは、単に触れているだけのこと。神尾の肉体は、「肉眼」と「肉耳」、そして「肉喉(肉口、肉舌))」で「君」とつながっている。
 だからこそ、「君」の体のなかで起きること、「その次の次の 花火」がわかるのだ。神尾自身の「肉体」としてわかるのだ。
 この「肉体感覚」がおもしろい。

 「まっぱだか」も神尾の「肉体」が他人の「肉体」とつながってしまう瞬間を描いている。

「ひんむいてまっぱだかにしてやるぞ」
と 人相の悪いおとこが
誘拐してきたOLさんに対して
凄んだ
人間をバナナなどの果実に見立てた上での
表現である
しかし それから先の意図は分からない
OLさんは
唇を ぐっと噛みしめて
さっきから震えている
スクリーンのなかの 名場面である
お金を払って
ぼくは 今ここに坐って
見ている

 この詩は、「時間」ではなく「場」というものをテーマにしている。スクリーンがあって、「ここ」がある。それは確実に離れている。つながってはいない。それなのに「肉体」はつながってしまう。この不思議。唇を噛む「OLさん」(ほんとうは女優)と神尾の肉体の接点というのはどこにもない。それなのに、OLの肉体のなかに起きていること(女優の肉体のなかに起きていること)を、神尾の肉体は感じてしまう。OL(女優)の「肉眼」が見ているもの、OL(女優)の喉のなかで固まっている声を感じてしまう。そのOLの肉体というのは「架空」のもの、「虚構」なのに。
 なぜ?
 私たちが「肉体」を生きているからだ。
 神尾はまさか誘拐されて、「まっぱだかにしてやるぞ」と脅されたことはないだろう。(そんなことを経験した人間はほとんどいない)。そこにある「肉体」は神尾の知らないことを「体験」している。けれど、その「体験」がわかってしまう。それは「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」というものは、いくつもの「過去」を抱え込み、融合しているからだ。何か怖いことを感じた瞬間の「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」の記憶が、まだ経験していない恐怖と結びつき、肉体のなかを動く。
 「肉体」は経験していないことさえ、経験している以上に感じとってしまう。
 だからこそ、女優(役者)という職業も成り立つのだろう。自分の「肉体」のなかにあるいくつもの「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」を動かして、「誘拐されたOL」になることができるのだ。
 肉体のなかにある「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」の動き--これを「存在感」というのかもしれない。
 「時間」も「場」も広がりをもつ。「場」を「空間」と書き換えてみると、「時間」と「空間」はそれぞれ「間(あいだ)」をもっていることがわかる。その「間」はいつでも伸縮自在である。伸び縮みする。--というか、突然、重なってしまう。区別がつかなくなる。
 その区別をつかなくしてしまうのが「肉体」である。
 区別がつかない、混沌、というものを「頭」は拒否するけれど、どうもその「頭」が拒否している「区別のつかないもの」のなかにこそ「思想」があると私は感じる。「思想」とは「ひと」と「ひと」をつなぐもののことである。そこには「肉体」が重要な役割を果たしている。
 「肉体」こそが「思想」である。



 少し余計なことを書きすぎたようだ。詩に戻る。

人間をバナナなどの果実に見立てた上での
表現である

 これは「ひんむいてまっぱだかにしてやるぞ」という男のことばを解説(?)したものだが、えっ、そうなの? 私はびっくりして笑いだしてしまった。「ひんむいてやる」ということばを聞いたとき、神尾はバナナや何かの果物を想像するの? 私はバナナなんか想像したことがない。私は、破られるシャツや何かも想像したことがない。私はよっぽどスケベなのか、「ひんむく」の先を想像してしまうのである。ぷるんとはみだす乳房。それを隠そうとする女の手つき。「ひんむく」ではなく「ひんむかれる」。そして「ひんむかれて」あらわになる「肉体」を想像してしまう。
 だからね、

しかし それから先の意図は分からない

 嘘。嘘つきだなあ。
 「ひんむかれて」あらわになるのが「肉体」そのものなら、それから先に起きることはいつだってたったひとつしかない。意図というか、目的というか、狙いは、もう語る必要はない。
 「意図」なんていう気取ったことばをつかうから「分からない」ということばがぶら下がってくるんだよ。
 だから、まあ、この神尾の「嘘」は、いっしゅのお遊び。軽いユーモアだね。私は大笑いしてしまったけれどね。
 「ガーネット」は、高階杞一の「意図」なのかどうかわからないけれど、こういう「軽い笑い」「軽いことば」のおもしろさがふわーっと出てくる作品が多い。




詩集 モンローな夜
神尾 和寿
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神尾和寿「過去形」

2011-07-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
神尾和寿「過去形」(「ガーネット」64、2011年07月01日発行)

 きのう、金勝熙「ヘソのための恋歌Ⅰ」に触れて、「過去完了」などということばにであったせいだけではないと思うのだが……。
 「過去」が出てくる詩が、ふと印象に残った。

ものごとが起こる瞬間に
そのことを同時に語るのは 無理だろう
夏の河原に
仲良しの みんなが仕事のあとに集まって
花火を見上げる
弾けると
もう
思い出か
帰りの満員電車のなかで
痴漢行為に走ったのも
思い出か
軽快にふるまった中指と人指し指の先端を見つめる
君の
声が出ない
すかさず
ながい睫毛
その次の次の 花火

 きのう読んだ「過去完了ではなく、現在進行形」ということばを思い出してしまうのだ。「過去」というのは、ない。ことばは「声」にしてみると一番よくわかるが、いま、ここにあるだけである。「過去」のことを語るにしても「声」の存在は「いま」そのもの。「いま」のなかに「過去」を呼び出すのが、ことばなのである。
 と、書いて、……。

ものごとが起こる瞬間に
そのことを同時に語るのは 無理だろう

 これに似たことばを、季村敏夫は『日々の、すみか』に書いていた。阪神大震災のときの詩である。「出来事は遅れてあらわれる」。出来事(事件)とはことばで反芻されて、出来事として見えてくる。真実の姿が見えてくる。
 何かが起きたとき、それをすぐにことばにすることはできない。語ることはできない。そうすると、「いま」のなかに「過去」を呼び出すのがことばの仕事というよりも、「過去」をおいかけて、「過去」を動かし、「過去」を「いま」にするのが、ことばの仕事なのかもしれない。
 まあ、どっちでもいい。
 どっちでもいい--というのは、私特有のずぼらな考え方なのかもしれないが、どっちでもいいとしかいいようがない。
 なぜなら(と、ちょっと気取って書いてみる)、「いま」、ある「過去」を思い出すとき、「いま」と「過去」とのあいだにある「時間」がどれくらいの距離(?)なのか、わからない。「ぴったり」重なったとき、「過去」は「リアル」になるし、「いま」のテーマが深刻になる。
 具体的に言うと。
 たとえば、いま読んでいる神尾の詩に書かれている「過去」、あるいは「思い出」は「いつ」のことだろう。仮に、「いま」を7月19日と仮定してみる。(実際に詩が書かれたのは、きょうより前だから、この仮定はあくまで仮定である。)夏の河原は、いつの河原?  7月18日? それとも去年? あるいは5年前? わからない。神尾は分かっているかもしれないが、それは無理矢理「時計」を引っ張り出すから分かるだけであって、そのわかったはあまり意味がない。あれから何年たったというのが、詩のテーマではない。何年たっていようが、リアルに思い出せるということが重要だからである。
 「いま」と「過去」が重なって動くから、詩になるのだ。

 それにしても、ここで書かれている「時間」はおもしろい。
 「いま」と「過去」のことに関して言えば、花火が打ち上がり、それが消えると、もうそれだけで「花火を見た」という「思い出」になってしまう。「思い出」として語ることができる。「過去」が生まれてしまう。

ものごとを語った瞬間
できごとがことばと同時に起こり いまが過去になる

 そして、「過去」になったはずなのに、ことばのなかでは、その「過去」が「いま」として動いてしまう。「いま」しか存在しない。「過去」なのに「いま」、そこにあるようにして、神尾を苦しめる。あるいは、甘い気持ちにさせる。「いま」と「過去」の区別がつかないように、感情の区別もつかなくなる。
 そして、すごいことが起きる。

君の
声が出ない
すかさず
ながい睫毛
その次の次の 花火

 あ、これは、「過去」ではない。これから起きることだ。「未来」である。「その次の次の」ということばが「未来」をあらわしている。「過去」なら、「その前の前の」である。
 まだ起きていないことを、ことばは「起こしてしまう」のである。

ものごとを語った瞬間
できごとがことばと同時に起こり いまが未来になる(未来に進んで行く)

 睫毛の先で、小さな水の雫の花火が開き、どんなふうに散ったのか--それは「過去」のことだから書くことができるけれど、あえて神尾は書かずに、単に「過去形」と呼ぶことで、逆にこれから起きる「未来」として指し示す。
 過去未来形(?)とでも言えばいいのかもしれない。
 ことばのなかで、ことばの「いま」のなかで、「過去」と「未来」はぴったりと重ね合わさり、結晶のように純粋になる。




七福神通り―歴史上の人物
神尾 和寿
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金勝熙「ヘソのための恋歌Ⅰ」

2011-07-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
金勝熙「ヘソのための恋歌Ⅰ」(韓成禮訳)(「something 」13、2011年06月30日発行)
 金勝熙「ヘソのための恋歌Ⅰ」は、田島安江や伊与部恭子と違って「見えるもの」にこだわる。「見えるもの」があるということは、その「内部」(背後、奥、歴史……いろいろな言いかたかできると思うけれど)に「見えないもの」があるということだ。「見える」のはあくまで「表面」。「内部」はふつうの視力では見えない。「内部」を見るためには、ことばを動かさないといけない。

あなた、あなたが誰でも、あなたのおヘソを見せてくれるなら、私はあなたを愛します、いやにもつれたちっぽけな丸が、くねくねと曲がったあなたのかなしいおヘソも、私のヘソとまったく同じ恥ずかしい罪と愚かなる欲望がくねくね、ぐるぐる挟まっているはずです、あなた、闇の胎の中から訳もわからず飛び出し、一定の住家も無く罪を犯して死んでゆくあなた、あなた、

 「もつれたちっぽけな丸が、くねくねと曲がったあなたのかなしいおヘソ」は目で見えるヘソの形である。形であるけれど、それを「くねくねと曲がった」と描写した途端に、それは「表面」を描写するだけではなく、「内部」へつながる通路となる。「くねくね曲がった」ということばが「精神・こころ」のありかたの描写と自然に重なる。「精神・こころ」が「くねくねと曲がる」ことを私たちは知っているからである。だから、「かなしいおヘソ」ということばに出会っても、違和感はない。ヘソそのものが「かなしい」わけではない。ヘソに「つながる」なにか、ヘソと「つながっている」精神・こころが悲しいのである。
 ヘソは人間の誕生の徴である。ヘソで胎児は母親と「つながっている」。胎児が胎児になるためには、性行為が必要である。それは、ときには「恥ずかしい罪」「愚かな欲望」の結果であることもある。そういうものは「かなしい」。
 金はヘソを描写すること、見えるものをことばで追うことで、その見えるものの背後にある見えない「時間」「感情」にたどりつくのである。「見えなかったもの」を「見える」かたちに引っ張りだす(高める?)ことばの運動--それが詩である。

 金の詩がおもしろいのは、その「見えないもの」にたどりついたあと、そこで満足するのではなく、そこから飛躍することだ。
 金がそれまで書いてきた「見えないもの」とは「存在するけれど見えないもの」であった。「歴史/過去」というものであった。そこから、金は飛躍する。

私たちはヘソの上で平等だ
それは誕生日の傷あと
孤児たちの名札、
燐鉱を塗った白骨の橙色の唇が
がさがさと一番先にむしって食べる
従順な肉体の穂、
私たちはヘソの上であまりにも平等だ

 「平等」。それは「歴史/過去」にもあるし、「現在」にもある概念である。けれど、それはふつうはヘソの「背後」にあるわけではない。ヘソとは密着しない形で存在する概念である。ヘソ(肉体)と「平等」はかけ離れている。
 このかけ離れたものを、ことばで結びつけるとき--「平等」は「肉体」になる。
 「私」にとって、なくてはならないもの。それを欠いてしまっては「肉体」が成立しないものになる。
 1連目のことばの運動が、隠れているもの「見えないもの」を、「見えるもの」を描くことで、見える次元にまで引っ張りだしてくる運動だとすれば、2連目のことばの運動は、見えるようになったものの力を借りて、「まだ見えないもの」を存在させる運動である。「まだ存在しないもの」を存在させる運動である。
 ことばは、語ってしまえば、その語ったものを存在させてしまうのだ。田島の「クジラ」、伊与部の「死体」も存在しないものであるけれど、語れば「存在」になるか田島や伊与部が、いわば「自分のなかの、言いきれないなにか」を「クジラ」「死体」ということば呼んだのに対し、金は自分が欲するもの、必要とするものをことばにし、それを実現しようとするのだ。
 韓国のことばは「思想」が強いが、それは「まだ実現していない理想」をことばの力で生み出そうとする姿勢の強さでもある。
 金は「思想」を「肉体」にするために、「思想」を語ることばに「肉体」を強烈に結びつけるのである。

燐鉱を塗った白骨の橙色の唇が
がさがさと一番先にむしって食べる
従順な肉体の穂、

 この3行は、私にはなじみのない世界だが、韓国の人たちには、「思想」と「肉体」を強烈に結びつける、切り離せないものにするもの、忘れることのできない「歴史」かもしれない。
 「思想」と「肉体」を結びつけたあと、金は、いわば「歴史としての肉体」にさかのぼり、「平等」という「思想」を、未来-過去のなかに置き、「永遠」にまで高めるのである。
 この「時間感覚」は3連目で語りなおされている。

あなた、あなたが誰であれ、あなたのヘソを捨てさえしなかったなら、私はあなたを熱烈に赦します。春になり乾いた木の枝に若芽が芽生えるのを眺めたり、バタバタ--鳥たちが飛びあがるのを見る度に、私は湿疹のようにヘソが痒くなるのを感じます、今やヘソは過去完了ではなく、現在進行形で私の生の中に芽生え、お母さん--ああ、お母さん--と呼んでみれば、海辺を泣きながら歩いて行く一人の女性が浮かび上がります、彼女の悲しみ、彼女の愛、彼女の絶望に従って、私のヘソはまた止めどなく始原の胎の中に濡れて入り、母--慈悲と呪いの秘密口座である母--私の母よ……。

 「過去完了ではなく、現在進行形」--永遠とは、「現在進行形」なのだ。だから、どこにあるか、その「場」を特定できない。ことばが触れる瞬間、結晶化して、また消えるものなのである。
 見えるもの(ヘソ)から見えないもの(肉体の奥の精神・こころ・欲望)へ、そして見えないもの(精神)からまだ存在しないもの(思想・理想)へ、さらにまだ存在しないもの・実現していないもの(思想・理想)の原点を歴史(過去の時間)と結びつけて語るとき、「私」の思想・「私」の歴史は、「私」を超えて「国民」の思想・歴史になる。「国民」のなかに「永遠」が浮かび上がる。--それを、もういちど「母」をとおして「自分のもの」として抱きしめる。「過去完了ではなく、現在進行形」として。

時間の瞳孔―朴柱澤詩集 (韓国現代詩人シリーズ)
朴 柱澤
思潮社



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伊与部恭子「家」

2011-07-17 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
伊与部恭子「家」(「something 」13、2011年06月30日発行)

 何かわからないものがある。そのわからないものと詩人はどう向き合うか。きのう読んだ田島安江は「クジラ」(空飛ぶクジラ)ということばで「何か」を呼んでいた。そのとき、ちょっと不思議なことが起きていた。「クジラ」は詩のテーマになってもよさそうなのに、テーマは「クジラ」ではなく、「わたし」と「あの人」の関係だった。いや、田島は「クジラ」を書いたのかもしれないが、私は「クジラ」よりも、「わたし」と「あの人」の関係、さらには「あの人」をめぐる「わたし」の感情の方に関心が動いてしまい、「クジラ」を忘れてしまった。
 これは、いいこと? 悪いこと? 言い換えると、私の読み方でよかったのか、悪かったのか。まあ、私は「誤読」をするのが一種の生きがいだから「間違い」だと指摘されても、感想を訂正する気持ちはないのだけれど……。

 伊与部恭子「家」にも、わけのわからないものが出てくる。

建築中の新居に死体がある と家人が言った
警察に連絡すると対処すると言われたがすぐにではないらしい。現場へ下見に行っても死体は見たくないので屋根の辺りにばかり目を泳がせていたが 黒っぽい布を纏った柔らかそうな塊が視界の端をかすめたので やはり在るらしい。
それを内に収めたまま壁が張られ 戸が填め込まれて新居は完成した。
幸いそれがあるのは裏手の土間で 普段は入ることもない。
しかし気になって友人に相談すると「うちにもあるよ」と事も無げに言った。何処の家にも一つや二つあるものだそうだ。

日々の忙しさにまぎれ 最近では死体と一緒に暮らしていることなどすっかり忘れているが 時折家人が炬燵で蜜柑を剥きながら「あれ 最近幸せそうな顔をしている」などと言うことがある。

 ここに書かれている「死体」は「ほんとう」(ほんもの)ではない。田島の「クジラ」と同様「比喩」(あるいは象徴)である。「比喩」というのは「いま/ここにあるもの」を、「いま/ここにないもの」を引用することで強烈に印象づけることばの運動である。--もし「比喩」をそう定義していいなら、「死体」(あるいは「クジラ」)は「比喩」なのだろうか。
 違うなあ。
 伊与部も田島も、「いま/ここにあるもの」を「死体」「クジラ」と呼ぶことで、より印象の強いものにしようとしているとは言えない。むしろ「いま/ここにないもの」を、むりやり「ことば」を借りてきて、そこに出現させようとしている。
 何のために?
 わからない。
 どこから? どこから、その「ことば」(つまり「死体」「クジラ」)をもってきた? わからないけれど、「ことば」の記憶だ。伊与部は「死体」ということばを知っている。「存在」も知っている。田島は「クジラ」を知っている。ことばを知っているということは、「存在」を知っているということであり、また、その「存在」が人に与える印象もなんとなく知っている。「存在」が伊与部、田島に与える印象を知っている。--同じことを何度も書いてしまうが、「死体」「クジラ」ということばをつかうとき、伊与部、田島はなんらかの印象を持っている。「こころ」のなかか、「頭」のなかかはわからないが、なんらかの印象(思い)が「死体」「クジラ」と一緒にあるはずだ。
 その「印象」がそれではどういうものか--というのは書いている詩人にも、たぶんわからない。だから、書くこと、「死体」と書き、「クジラ」と書くことで、「こころ(あるいは頭)」のなかにあるものが動きだし、はっきりしてくるのを待っているのである。自分ではわからないから、ことばが動きだして、ことば自身で「答え」を見つけるのを待っているのかもしれない。

 でも。

 「答え」なんて、やっぱり、出てこないのではないのか。
 たとえば伊与部が「死体」とは何か、そのことばであらわしたい何かとは何かは、この詩を読んでも私にはわからない。
 「死体」が何であるかわからないのだけれど。
 変なものを見つけて「警察に連絡する」というこころの動きはわかる。「対処する」といういいかげんな反応に対する気持ちもわかる。現場へ行ったけれど「死体」は見たくないので、目をそらすという気持ちはわかる。そして、それが「ほんもの」であるかどうかはっきりしないけれど、そこに見慣れないものがあれば、あそこに死体があるのだなと思う気持ちもわかる。そういうことを思い込むきっかけになったのが「黒っぽい布を纏ったもの」(つまり隠されたもの)、「柔らかそうな塊」(まだ死んで間もなくて、温かいかも、なんて想像たかも)だったということは、とてもよくわかる。
 おもしろいでしょ?
 わからないことが書いてあるはずなのに、そのひとつひとつはわかる。
 田島の「クジラ」も「クジラ」が何かわからなかったけれど、「わたし」と「あの人」のやりとり、あれこれはわかる。
 わからないことが書いてあると、わかることを探して読んでしまう。
 待望の家が完成した。かれど、ある部屋はめったにつかわない--そういうことがある。そういうことがあるのは、わかる。
 「死体」かどうかわからないけれど、どこの家庭にも「そういうこと」はある、どこの家庭にもあるというような話もよく聞く。体験する。
 さらには「家人」が「あれ」ということばで、何かを語ることもよくある。
 伊与部の詩には「わかる」ことばかりが書かれている。「死体」がわからないので、「わかる」ことが逆に鮮明になる。
 どこの家庭(家)にもある、ありふれたあれこれ。--それを浮かび上がらせるために、「死体」はわざと書かれているのだ。


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田島安江「クジラが来たので」

2011-07-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
田島安江「クジラが来たので」(「something 」13、2011年06月30日発行)

 田島安江「クジラが来たので」は「ぼんやりした」ことを書いている。書く--というのは、ぼんやりしたことをはっきりさせるためにことばを動かすことだが、はっきりさせないままの状態でことばを動かしている。はっきりさせないでも、ことばは動いていくことができるのである。

明け方早く窓を開けると
目の前を大きなものがよぎった
まだ外はうすぼんやりしていたので
大きなものが何なのか
わからずにぼうっとしていた

もう一度それがよぎったとき
夜が明けかけていたので
すぐにわかった
それは大きな空飛ぶクジラだった
ほんとうにクジラだったから
わたしはもう一度
あとを追うように空の彼方を見た
クジラは小さい点になっていて
ああ、朝はいいなあとぼんやりした頭で考える

 「うすぼんやり」「ぼうっとして」「ぼんやり」ということばが無造作に位置を占めている。「明け方早く」と「夜が明けかけていた」の違いがどこにあるか、私にはよくわからない。田島は、ほんとうに「ぼんやり」しているのかもしれない。「もう一度」も二度も繰り返されている。何も考えていないのかもしれない。
 いや、そうではない。
 繰り返される「もう一度」をはさんで、「わからず」が「わかった」に変わる。「大きなもの」が「クジラ」に変わる。でも、「空飛ぶクジラ」と「わかった」というけれど、そういうものは存在しないから、一般的な常識から判断すると、田島は「わかった」つもりになっているだけで、相変わらず「わからない」ままかもしれない。
 --という批判をはね返すようにして。

ほんとうにクジラだったから

 と、田島は突然「ほんとう」を持ち出してくる。
 うーん。
 「ほんとうに……だったから」というのは、まるで子どもの「嘘」なのだが、(子どもは嘘をついたとき、「ほんとうに……だったから」と言うものである)、「ぼんやり」を「ほんとう」に近づけるために、ことばを動かす。
 そして、

わたしはもう一度

 とふたたび「もう一度」が出てくる。
 この「もう一度」は少し変である。
 最初の「もう一度」は「目の前を大きなものがよぎった」「もう一度それがよぎった」であり、「主語」は「大きなもの」であり、「もう一度」は「よぎった」である。
 二度目の「もう一度」は次の行の「あとを追うように空の彼方を見た」であるが、その前に「わたし」が「空の彼方を見た」ということばは書かれていない。
 二度目の「もう一度」はどうしたって「はじめて」なのである。「はじめて」なのに「もう一度」なのか、それとも、最初の「空の彼方を見た」は省略されているのか。

 ちょっと「寄り道」をしすぎたかもしれない。
 このあと、3連目で、田島のことばは違った方向へ動く。そこが実はおもしろい。2連目に書いた「ほんとう」と「もう一度」が影響している。

夕べ触れたはずのあの人の背中
向こうを向いたまま
顔も見えない
見えないので
わたしはゆったりと落ち着いた気分になる
あの人はいつでも夜更けにやってくる
やあと言って
眠りの途中でもかまわずに
わたしはあらまあと言って
そのまま眠りに落ちる
あの人の背中がぼやける
ああ、あの人だと思う
それからぐっすり眠る

 1、2連目では「ぼんやり」した「大きなもの」が「クジラ」だとわかった。「クジラ」だと「見える」ようになった。それを「ほんとう」にするために「もう一度」何かがおこなわれた。
 3連目では「あの人」の顔」は「見えない」。「見えない」から「ゆったり落ち着いた気分になる」。「ぼんやり」とか「ぼうっ」とは違った気分である。
 これは、「ほんとう」? それとも「ぼんやり」した頭の中でのできごと?

「夕べ」触れたあの人の背中
あの人はいつでも「夜更け」にやってくる

 あれっ、時間が変じゃない? 「夕べ」触れているなら、「夜更け」にやってくるのではなく、きのうは「夕べ」にやってきて、「夜更け」には来なかったことにならない?
 ここ(3連目)は、そういうふうに詮索しはじめると、とても変なことになってしまう。田島の「記憶」が乱れていることになる。
 この「乱れ」をととのえ、「嘘」を「ほんとう」に変えるにはどうすればいいのか。省略されている「もう一度」を何度も行間に埋め込んでゆけばいいのである。
 「夕べ触れた……」は田島の記憶である。思い出している。思い出すというのは、「もう一度」過去を、いまへ、呼び出すことである。過去という時間をいまへ呼び出し、それを「ほんとう(現在)」にする。こういうとき「夕べ」は「きのうの夕べ」であり、また何日か前の「夕べ」でもある。「きのうの夕べ」も「何日か前の夕べ」も「いま」思い出すとき、その時間が「いま」になるのとき、「いま」「きのう」「何日か前」の「時間の距離」がなくなる。
 そして、それは「いつでも」の「夕べ」になる。
 「夜更けにやってくる」も「きのう」なのか「おとつい」なのか、どうでもいい。「いつでも」なのだ。
 「もう一度」思い出す。そのとき、「時間」は「いつでも」になる。「いつでも」が「ほんとう」の時間であり、小さな区別は「あの人の背中がぼやける」ように「ぼやけてしまう」。「ぼんやりしてしまう」。「ぼうっとなってしまう」。
 「ああ、あの人だと思う」の「思う」。
 「もう一度思う」。そうすると、思ったことが「いつでも」「ほんとう」になる。そうして「ぐっすり」という安心感がやってくる。

 このあと「もう一度」は詩のなかで二度書かれる。
 書かれるのは二度だけれど、書かれなかった「もう一度」は何回もあっただろう。そうして「ほんとう」はかわっていく。
 繰り返し、反芻して、反芻することで「ほんとう」は変わってゆくものなのである。そうであるなら、その「かわった・ほんとう」は、さらに「もう一度」を繰り返せば、さらに変わって「ほんとう・の・ほんとう」になるかもしれない。

窓をあけると空が赤く染まっていて
いつもとはすべてがちがっていた

 と、詩は終わるのだが、それは「悲しみ」なのか、それとも「もう一度」を「もう一度」呼び戻すための祈りなのか。
 読者が好きなように読めるように、田島は「結論」を書かず「ぼんやり」したままのことばをほうりだしている。
 これも「余韻」と呼ぶべきものなのかもしれない。
 


トカゲの人―詩集
田島 安江
書肆侃侃房



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馬場晴世「断崖」

2011-07-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
馬場晴世「断崖」(「something 」13、2011年06月30日発行)

 馬場晴世「断崖」はさっぱりしている。「現代詩」のことばは「暴走」しやすいのだが、馬場はそういうことばの運動には関心がないのかもしれない。

アイルランドの西の果て
モハーで
大西洋につき出た
切り立つ断崖を見た
十六キロにわたり
高さが二百メートルもある
柵がないので時には
羊やひとが落ちるという

大地が終わる処
西風が強く崖は海と戦っている
海は白い歯を立てて
岩にかみついている

落ちたら間違いなく死ぬ

その恐さをひとは見にくる
きっぱりと死に直面したいとき
怖さを内包して切り立つ一行を欲するとき
死を飛び越す一羽の海鳥になりたいとき

 馬場がなぜモハーへ来たのか、切り立つ断崖を見たいと思ったのか。その「こころ」を馬場は説明はしない。まるで他人のことのように、

落ちたら間違いなく死ぬ

その恐さをひとは見にくる
きっぱりと死に直面したいとき

 と書いている。
 ほんとうに死と直面したいと思って、その場所に来たのか、あるいはその場所に来たためにそう思ったのか--そういう「ややこしい」ことは書かないのだ。
 自然は人間に対して非情なものだが、馬場は、その非情な自然(風景)に向き合い、そこから反転するようにして自分のこころを「非情」で洗い流す。余分なものを切って捨てる。
 そうして、馬場自身が、一個の「自然」になる。
 「死を飛び越す一羽の海鳥にな」る。
 馬場は「なりたいとき」と書いているが、書くことで馬場は「海鳥」に「なる」。なってしまっているのである。
 そう気がついたとき、2連目が美しく見えて来る。最初に読んだときは、平凡な、そっけない描写、詩からは遠いありきたりのことばに見えたが、それはわざとそんなふうにことばを切り詰めているのだ。
 「死を飛び越す一羽の海鳥にな」る--それだけを浮かび上がらせる、きっぱりしたこころが各行のことばを鋭角に彫琢しているのである。
 このことばの響きは、しかし、なんとも不思議である。日本語で書かれているのだが、日本語の音がしない。湿ったモンスーンの膨らみがない。「漢文」の緊張と緩和、遠心・求心という動きとも違う。
 日本語の響きというのは「てにをは」の構文によって、精緻に、繊細に動くのだが、馬場のことばは「てにをは」を必要としていない。ただ「もの」をあるがままに並べると、その「もの」と 拮抗するために、こころが「鉱物」のように結晶化していく--そういう響き、音楽がある。




詩集 ひまわり畑にわけ入って
馬場 晴世
土曜美術社出版販売



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岬多可子『静かに、毀れている庭』

2011-07-14 23:59:59 | 詩集
岬多可子『静かに、毀れている庭』(書肆山田、2011年07月10日発行)

 岬多可子『静かに、毀れている庭』は、ときどきことばが乱れる。その乱れに「肉体」を感じる。たとえば「苺を煮る」。

赤い苺を甘く
煮ているのであるが
そんなことき
底のほうからどんどんと
滲み出てきて 崩れていく。

(略)

じくじくと 苺は赤い血を吐くが
忸怩たる とはこういうことか。
うつくつと 琺瑯の鍋は音をたてるが
鬱屈した とはこいういことか。

 苺が煮に崩れて、「じくじく」と赤い色をこぼすことと「忸怩」とは無関係である。苺の煮崩れる様子と人間の思いとは無関係である。無関係であるうえに「じくじく」というのは現実の音でもない。それは人間がかってに押し付けた「音」にすぎない。
 そういう「無関係」を岬は、強引にわたってしまう。「頭」では絶対にわたらない部分を「肉体」でわたってしまう。
 「じくじく」というのは「音」だけれど、「音」だけではない。何かが崩れる。そして、はみだす。隠しておきたいものかもしれない。ほんとうは知ってもらいたいものかもしれない。はっきりとことばにはできないもの、絡み合っている何かである。そういうものが「肉体」のなかで、「じくじく」という「音」を手がかり(?)に、かってに「忸怩」という「概念」と結びつく。
 苺は恥じ入ってなどいない。けれど、岬は、恥じ入っているときの「肉体」は、何かを体から滲み出させ、体が崩れていくような感じがするのだ。「肉体」が煮崩れる苺になっていると感じるのだ。
 この、概念ではなく、「肉体」でことばの中へ入っていく感じがおもしろい。
 この「肉体」でつかみとる「概念」は「流通言語」とはならない。詩にとどまりながら、さまざまな「思い」を受け入れて、崩れ、乱れることで、たしかなものになっていくのである。
 「うつくつ」と「鬱屈」も同じだ。
 そんなことを思いながら、冒頭に戻ると、ふと何かが意識をよぎる。

赤い苺を甘く
煮ているのであるが

 この「甘い」は砂糖を放り込んで、「甘く」している。ジャムにしている、くらいの意味だろうけれど、「概念」を「頭」から引きずり出し、「意味」をいったんはぎ取り、「肉体」のなかへいれてしまう。そして、もう一度、外へ出すという「作業」(岬の、思想のつくり方)のことなのかなあ、とも思うのだ。
 固く、味気ない「概念」を、「肉体」になじみやすい「甘い」ものに加工する。自分の「肉体」にふさわしいものにしてしまう--そういうことかもしれないなあ、と思うのだ。
 「概念」がある瞬間、「概念」ではなく、あいまいな「肉体」になっていく。「肉体」のなかで、「甘く」なって、すみずみにゆきわたり、形のないものになる。

オリーブ色の天使の姿を刺繍している
半身あらわれたところで糸が足りなくなる

たくさんの天使を死なせてきた気がするので
死んではいけない ということを
言おうとして 言えない

 糸が足りなくて刺繍の天使が完成しないのは、天使を死なせることではない。死なせることではないけれど、そのままでは死んでしまう--生まれてこないのだから、死んでしまうということになりはしないか。
 この死ぬと生まれる、生まれないと死ぬのあいだを、岬の「肉体」は意識できないままわたってしまう。そのとき考えたことを言いたいけれど、「言おうとして 言えない」、ことばにならない。
 刺繍を刺すという「肉体」の動きが中断されたまま、その中断の中で、ことばにならないものが育っていく。
 「死んではいけない ということを/言おうとして 言えない」というのは、「甘い」論理であるが、それが「甘い」からこそ、思想なのだ。

<蔓>が<夢>と見えて
伸びていった先端が
支えを求めてさまよっているのは
不穏で不安で

 と始まる「あてどなく」は、ことばが「漢字」に頼っている分、「観念的」だ。「不穏」「不安」も漢字に頼っていて、おもしろくない。「ふあんでふおんで」とひらがなにするとずいぶん違った感じになるが、蔓、夢が漢字から始まったので、ことばが「視力」のなかで堅苦しくなっている。
 だが、その2連目。

でも
あるべきありかた
触れるか触れないか
痛痒のように
近づいては遠ざかる

 「痛痒のように」が、「肉体」をしっかり引き寄せている。「ことば」が「漢字」を手がかりに、近づいては遠ざかる。「つうようのように」とひらがなで書いてしまえば、「つうよう」がなんのことかさっぱりわからなくなる。
 そうか、視力も「肉体」なのか、と思った。教えられた。

 「箱の虫」にもはっとさせられる行がある。

女子生徒たちに観察させるための
幼虫五十体を持ち運ぶ
週を越すために
膝に抱え 電車に乗り 持ち帰る

さわさわと 暗い箱のなかで
葉を噛み砕いて
ぽとぽとと 身体の末端から
糞を落としている

くるしいだろう
かさなりあったまま よじれたり しているのを
蓋で抑えこみ
骨を抱くほどの姿勢で 座席に沈む

 「かいこ」か何かだろうか。まあ、虫はいいのだが、その虫の入ったはこを「骨を抱くほどの姿勢で」で抱え、椅子にすわるとき、岬の「肉体」は「比喩」ではなく、たしかに誰かの骨壺を抱いているのである。そうして、その骨壺の骨に対して「くるしいだろう」と想像している。死んでしまった人間、焼かれて骨になった人間は何も感じないかもしれない。しかし、人間か感じないからといって骨が何も感じないとはいえないだろう。「かさなったり よじれたり(よじれるような圧力をかけられたりして、むりやり骨壺におしこめられて」、「くるしいだろう」と想像する。
 「頭」ではなく、箱を抱くという「肉体」の形をとおして、岬は、「かいこ」ではなく遠い死者に触れる。「肉体」の形のなかへ、死者は「近づいては遠ざかる」。
 それぞれの詩を越えて、詩集の中の別の一行が他の作品の別の一行となって動きはじめる。そういうことが起きるのは、岬のことばが「肉体」をすみかとしているからである。「ことば」の区切り方が「甘い」。その「甘さ」を利用して、どこへでも動くのだ。「乱れる」ふりをして、ほんとうのことを言ってしまうのである。






桜病院周辺
岬 多可子
書肆山田



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富山直子「コーヒーとエマ君」、吉本裕「折り鶴」

2011-07-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
富山直子「コーヒーとエマ君」、吉本裕「折り鶴」(「たまたま」21、2011年05月20日発行)

 富山直子「コーヒーとエマ君」は、かるい童話のような作品である。

エマ君はコーヒー通である
シンゴスターリビングというカフェの
お庭にいる黒い犬です
お客さんが出入りする度に鼻をきかせています
「あー今日はグァテマラ・リンダ」
「昨日はスマトラ・マンデリンだったなあ」
と呟いて、お昼寝をします

夢の中でエマ君は、自分専用のミルで
豆を挽いています
すると突然雨が降ってきました
コーヒー豆の雨です
エマ君はこれでもかというくらい豆を
ひきます
でも後から後から止むことなく降ってきます
そしてエマ君は、コーヒー豆に埋もれて
しまいました

風がぴゅうとふくと、エマ君は庭の小屋の中で
目を覚ましました
「明日は何のコーヒーだろう」
そう呟きました

 2連目がリズムがいい。「すると突然雨が降ってきました/コーヒー豆の雨です」という2行を、たとえば「すると突然コーヒー豆の雨が降ってきました」という1行と比べてみるとわかる。「意味」はかわらないが、2行の方が動きがある。雨が降ってきた。よく見るとコーヒーの豆だった。だから、一生懸命に豆を挽く。一瞬一瞬が自然に動く。
 この自然なリズムが、3連目の「風がびゅうとふくと」の「びゅう」という音をおもしろくさせている。「びゅう」という一瞬が見えるのである。



 吉本裕「折り鶴」を読んでいて、ふと、その中の1文字を書き換えてみたくなった。

鶴が 風で庭に落ちていた
千羽鶴のために小さくたたまれた一羽
汚れているのに 白さが目を鬱
子どもが折ったのか 角が甘い

たとえば僕らが
逃れられずに朽ちてゆくとしても
必ずどこかで祈ってくれている人がいる
懐かしい写真や手紙を見返すように
ときどきそのことを思い出せれば
ちゃんと最後まで立っていられるだろう

一つの夢が終わり 一つの夢が始まる
どの夢の中にも
喜び 悲しみ 不安や快楽がある
変わるのはまわりの景色だけで
心のある場所はいつも変わらない

いつでも普通に生きる
時々鶴を折る

 「子どもが折ったのか 角が甘い」という1行に、吉本のたしかな視力を感じる。ただ目で現実を見るのではなく、手も動かしている。しっかりと手で鶴を折ったことがあるから、そのときの肉体が「角が甘い」ということばを引き出すのである。
 この詩は、折り鶴を見ながら、折り鶴を折ったことを思い出し、それから、これから折り鶴を折るひと(吉本を含む)のことを思っている「一人称」の詩である。それはそれできちんとまとまっているのだが、私は、ふとこれを「二人称」にしてみたくなったのである。1文字書き換えることで。
 私が書き換えたいと思ったのは2連目の「必ずどこかで祈ってくれている人がいる」。「祈る」を「折る」に変えたい。

必ずどこかで折てくれている人がいる

 そうすると、2連目は、庭に落ちている鶴の独白になる。折り鶴--紙で折られた鶴は、いつか風雨にさらされて朽ちてゆく。けれども、また「必ず折り鶴を折ってくれる人がいる」。そのこを心の支えにして、立っていることができる。倒れて朽ちていくにしても、翼を広げた形で立っていることができる。
 その独白を聞いて、吉本が人間の生き方を見つめなおす--そういう風に読んでみるとどうなるだろう。
 「心のある場所」というのは、「鶴を折る」という、その「行為」の中、ということにはならないだろうか。鶴を折るとき、しずかに祈る。祈り、願いをこめて鶴を折る。祈ること、願うことと、鶴を折るということが重なる。重なることで「心」がたしかなものになる。
 そんなふうに、この詩を読みたい。
 「祈ってくれ人」を「折ってくれる人」にすると、詩のなかから「祈る」ということばは消えてしまうのだけれど、読者が読者の力で「祈る」ということばを見つけ出してくれると思う。
 書かれていないことばを読者が探し出したとき、作者と読者の交流が始まると思う。



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