詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「烏瓜」

2011-12-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)

粕谷栄市「烏瓜」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 粕谷栄市「烏瓜」(初出「読売新聞」08月20日)は、なんともいえず不思議な詩である。からだの芯がすーっと透明になっていくのを感じる。
 秋の山で烏瓜を見つけ、飾るためにそれを家へもって帰る。

 壁に懸けたそれを、枕から頭を起こして見て、女は、
悦んだ。からだの具合が悪くて、しばらく、彼女は、寝
たきりだった。どこにも行けなかったのだ。枕元に、薬
と粥を運ぶつらい日々だったが、烏瓜は、それでも、貧
しい暮らしを、少しは華やかにした。
 それは、思ったより長持ちして、いつまでも色褪せな
かった。けれども、ある日、私が、仕事から帰ると、女
は、死んでいた。

 ここで、私はからだの芯が透明になるのを感じたのだ。
 変だねえ。
 なぜ、こんなところ(?)で、不思議な透明さを感じたのだろう。何か突然透明としかいいようのないものに触れ、その強さ(?)のために、私の肉体がその透明さに染まってしまったという感じ。

 それは、思ったより長持ちして、いつまでも色褪せな
かった。けれども、ある日、私が、仕事から帰ると、女
は、死んでいた。

 「けれども、」ということばが結びつけているものが、結びつきながら、とんでもなく飛躍していて、その飛躍の「距離」に透明さを感じたのだ。
 烏瓜は長持ちしている。色褪せない。けれども、女は死んでいた。それも、「ある日」。--そこには、つなぐべきものがない。激しい断絶だけがある。どれだけ隔たった距離があるのかわからない。そのわからないものが「けれども、」というひとことで結びついている。
 私はいったい何を見ているのだろうか。

 詩は、つづいていく。

 何ともいいようのない思いだった。こんなにたやすく
人間の今生の別れはくるのだ。つい半月ほど前、せがま
れて、私は、痩せた彼女のからだを抱いていたのに。私
は、もう、そこにいられなかった。彼女を葬り、その家
を離れた。再び、戻ったことはない。
 それから、永い年月が過ぎている。今となっては、一
切が、遠い夢のようだ。だが、その夢のどこかに、あの
烏瓜がある。

 烏瓜が色褪せずにある。けれども、女は死んだ。--その突然の結びつき、和す美突きながらの断絶と、過ぎ去った「永い年月」が重なる。生きているいのちの、その「年月」は、不思議な切断と連続でできている。それは意識したとき、つながり、その意識が別の何かを切断するという感じがする。
 そして、その切断と接続の瞬間の、意識のショートが「夢」なのかもしれない。

 逆に言うべきか。

 夢とは、いのちのある切断と接続の瞬間にあらわれる。それは、「距離」があってない広がりのなかで起きる。
 女が死んだ--というのは悲しむべきことである。その悲しみに耐えられないからこそ、「私は」「その家を離れた。」けれども(この「けれども」は正しいつかい方だと私は思う)、家に飾ったあの烏瓜だけは、いまでも覚えている。--というのは、正確ではない、か……。ある烏瓜は、「遠い夢のどこかに」、ある。
 女はいない。でも、烏瓜は、ある。遠い夢のなかで。

 ここから、詩は、もう一度不思議な「距離」を渡る。

 そこだけが明るい湖の舟の上で、彼女が、それを私に
指で教えている。松の木に絡んで、灯のように、烏瓜が
連なっている。
 それは、私の願いである。もし、天国があるとしたら、
死んで、私の行くところは、彼女のいるその舟の上なの
である。 

 「遠い夢」と「烏瓜」の存在が、入れ替わっている。
 「遠い夢」のなかにある烏瓜があざやかに意識されていたのに、いまは、烏瓜ととともにある「遠い夢(の湖の(さらに、そこに浮かぶ舟←この半括弧の使い方、いいでしょ?と少し脱線する」が意識されている。
 それは、入れ替わることで「ひとつ」になる。
 と、書いて、気がつくのだ。あるいは、「誤読」するのだ。

 それは、思ったより長持ちして、いつまでも色褪せな
かった。けれども、ある日、私が、仕事から帰ると、女
は、死んでいた。

 ここでは、ほんとうは「私」と「彼女」が入れ替わっているのではないのか。死んだのは、「彼女」ではなく、「私」なのではないのか。そして、それ以後に書かれていることば(それ以前も、その可能性はある)は、「私」のことばではなく「彼女」のことばなのではないのか。いや、そう「彼女」に夢見てもらいたいという「私」の「夢」かもしれない。
 区別がつかない。
 何もかもが「ひとつ」である。
 「遠い日(烏瓜を見つけた日)」も「彼女が死んだ日」も「私」も「彼女」も「ひとつ」であり、その「結晶」が「烏瓜」なのだ。
 詩は複数の存在の「結晶」である。
 --あ、これは、詩は思いがけないものの出会い(結合)であるという「定義」にに何か似ている。
 粕谷の場合、出会いは「異化」ではなく「同化(結晶)」ということなのか。


続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社
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平出隆「蕾滴(抄)」(2)

2011-12-19 23:59:59 | 詩集
平出隆「蕾滴(抄)」(2)(「現代詩手帖」2011年12月号)

 きのう書いたことの繰り返しになるのかもしれないけれど。

物の名よ、器につく塵のように。

呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。

 は、なぜ、次のようなスタイルではないのか。

物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。

幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。

 「頭」で論理的(?)に考えれば、2連、対の形式の方が「意味」として把握しやすいはずである。--というか、対になっていることが、論理形式として見えてくる。
 論理というのは不思議なもので、そこにほんとうの論理がなくても、形式が繰り返されると、その形式がひとつの論理のように動いてしまう。形式があるからには、形式自体を支える論理があり、それが「ことば」の意味を超えて自己主張し、読者は(私だけかもしれないが)騙されてしまう。つまり、そこから何かを読みとれるはずだと思い込んでしまう。
 論理はほとんどが思い込みであり、その思い込みを、あれやこれやと強引にことばにしてみせるだけのものである。文学とか哲学とか芸術の場合は。物理学になると、ものの存在、運動が論理を「実証」するが、芸術の場合(芸術の論理の場合)、その「実証」というのはむずかしい。何によって「実証」されるといえるのか、よくわからない。
 人間の行動によって、ということになるかもしれない。芸術が人間の行動を律していくとき、人間の暮らしをととのえていくとき、幻術の論理は「実証」されるといえるかもしれない。
 でもねえ、空論だねえ。
 そんなこと、わからないよなあ。
 書きながら、私の考えはずいぶんといいかげんなのもだと、ときどきいやになる。

 平出の今回の詩の場合、この不思議な「形式破り」のスタイルは、何を実証しているだろうか。そこから人間のどんな行動が見えてくるのか。その行動、その肉体は、私にどんなふうに影響してくるか。どんな印象を与えるか--そのことを書けばいいのかもしれない。私の肉体の体験を語るためにことばを動かせばいいのかもしれない。

 私は、今回の平出の詩を読んだ瞬間につまずいたのである。私の肉体が、変な具合に宙ぶらりんになったのである。

物の名よ、器につく塵のように。

 この1行には動詞がない。「物の名よ、」というのは、私には呼びかけに聞こえる。そのことばを読むとき、私の肉体のなかには、何か呼びかけるときの声の出し方というものが動く。「よ」ということばひとつが、そういう感覚を呼び覚ます。
 けれど、「器につく塵のように。」ということばが、その感覚をすぐに否定する。
 「物の名よ、」が「物の名」に対する呼びかけならば、そのあとに「……せよ(しなさい)」というような「命令形」が来る。私の「文の意識」(ことばの肉体)は、そういう動きを予測しながら身構える。準備する。ところが、ことばは、そういう具合に動かない。ここで、私の肉体は、つまずく。私のことばの肉体もつまずく。
 「逸脱」を感じるのである。
 宙ぶらりんの場にほうりだされたように感じるのである。
 そして、その宙ぶらりんの「ひと呼吸」(1行の空白)ののち、平出のことばは、

呼ぶとは

 と動く。この「呼ぶとは」とは「物の名よ、」ということばを「肉体」ではなく「頭」で反復(あるいは反省?)したものである。
 「物の名よ、」と呼びかけたのに、その呼びかけを完了せずに、いま自分の肉体のしたこと(ことばのにくたいのしたこと)を、頭が反芻し、いったい何をしたのかと省みている。
 呼ぶとは、いったいどういうことか--自問している。
 「肉体」は停止し、「頭」が動きはじめる。
 「頭の論理」がぐいっというか、ぐにゅっというか、変な力で割り込んでくる。

呼ぶとはそれを、

 ここには多くのことばが省略されている。平出の「頭」だけが知っていることばが省略されている。平出の頭にとってわかりきったことばが省略されている。
 その省略されたことばを私の勝手で補ってみれば、

 何かを呼ぶとは、その呼んだ対称である何かを、

 ということになる。そして、その場合「何か」と私が仮に呼んだものは、1行目のことばをたよりに言い換えれば、

 物の名を呼ぶとは、その呼んだ対称である物を、

 ということになる。
 ここで平出のことばは、「呼ぶ」という「動詞」の哲学を考えるふりをしながら(?)、「呼ばれた・物」という「名詞」にずれていく。
 この「ずれの呼吸」が、「呼ぶとはそれを、」ということばのリズム、呼吸になる。
 私は、

 何かを呼ぶとは、その呼んだ対称である何かを、

 と平出のことばを書き換えてみたが、そのとき私は「何かを」ということばだけではなく、「呼ぶとは」のあとに読点「、」を補った。つまり、呼吸を補った。
 平出の、

呼ぶとはそれを、

 には、私の「呼吸」がない。
 私の肉体(同時に私のことばの肉体)が「呼吸」するところで、平出は「呼吸」していない。ひとつづきの息のなかで、私の感じている「切断」を渡り切り、「切断」を否定し、「接続」(連続)に変えてしまう。
 ここで、私の肉体は完全につまずく。肉体の違いを感じる。平出の肉体(ことばの運動)についていくには、私の肉体は鍛え直さないとむりがうまれる。--つまり、このままでは、ついていけない。(フェルプスのクロールについけいけないようなものである。)
 平出の「息」(呼吸、肺活量)は強く、大きい。

呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。

 という1行は、「呼ぶとは」と「それを」を一息につなげてしまう力で、直前の1行あきをさかのぼり、器の「塵」にたどりつき、「器に/つく(ついている)」「塵」を吹き立てる。
 肉体が、その呼吸の強さが、ことばのにくたいに反映して、一気に世界を攪拌する。
 「物の名」がテーマなのか、「呼ぶ」がテーマなのか、「塵」がテーマなのか、わからなくなる。
 テーマはそれぞれの個別の存在(あるいは行為)ではなく、連続した集合体なのである。結合なのである。
 平出の肉体は、私がそれぞれに分離して考えるものを「ひとつ」に結合し、その結合体をそのまま動かす。
 平出の肉体(ことばの肉体)には、私のもっていない強い「接着力」がある。瞬間接着剤のように、触れた瞬間にものとものを結びつけてしまう力がある。
 呼吸--呼吸のリズムの中に、それがある。
 その「接着力」の強さが、次の、「幻よ、」ではじまる1行を、一気に引き寄せてしまう。
 「頭」の論理、「頭」で考えることばの運動では、

物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。

幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。

 と対になって整理した方が便利なことばが、肉体の力でねじまげられ、

物の名よ、器につく塵のように。

呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。

 となっている。
 --というのは、しかし、正確(?)な言い方ではないだろう。正確な把握の仕方ではないだろう。
 あとから呼吸にあわせてことばを調整したのではなく、ことばが肉体からでてくるとき、自然に、そこにそういうリズムと、論理の不思議な飛躍が紛れ込んだのである。
 肉体の「正直」がことばを屈折させるのだ。
 そして、この屈折が、平出のことばの輝きである。
 それは--肉体を例にいえば、たとえば役者が無理なポーズで動く。そのとき役者の肉体の無理な力が働いている部分で、肉体が輝くのに似ている。はりつめた筋肉にライトがあたり、そのライトが強く反射する、というのに似ている。
 平出のことばを借りていえば、肉体の無理の上で、「光が折れ曲」がるのである。
 これは、逆の言い方をすれば、平出の肉体、ことばの肉体は、光さえも屈折させ、光を輝かせる、ということになる。

 すごい力業だなあ。


雷滴
平出隆
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平出隆「蕾滴(抄)」

2011-12-18 23:59:59 | 詩集
平出隆「蕾滴(抄)」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 平出隆「蕾滴(抄)」(初出『蕾滴』07月)は強靱な文体が美しい。そして、その強靱さは、繊細をつらぬく強靱さである。どこまでも繊細であること。繊細であることを通り越して透明になろうとすることばの運動である。

物の名よ、器につく塵のように。

呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。

 「物の名よ」と呼びかけられている。そのときの「物」とはなんだろうか。抽象的すぎてわからない。この抽象的すぎることがらを、ことばで微かに汚して、それを自分でぬぐいさってみせるのが平出の語法かもしれない。
 --というようなことを書きはじめているのは、もうすでに平出のことばの運動にのみこまれているということなのかもしれない。
 わざと、思っていないことを書いてみたい。思っていないことを書くと、思いがけず、あ、そうかもしれないと思うものである。

物の名よ、器につく塵のように。

 この1行は何のことかわからない。わからないけれど、まあ、平出は「物の名」(名詞?)を器についた塵ようのなものと考えているらしい、と私は想像してみる。
 で、その1行を平出は、

呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。

 と言いなおす。「物の名」を呼ぶ。「呼ぶ」という動詞の中に、書き出しの「物の名」が呼び込まれる。呼ぶとは声を出すことである。声をだすということは、肉体の中に吸い込んだ「息」を肉体の中から出すことである。そのとき、のど(声帯)を通り、口をとおって息が出てくる。吐き出される。この息の動きを「吹く」ということもできる。
 そのとき、平出は最初に書いた「器についた塵」を呼び寄せる。息を「吹く」とうっすらとついた塵が吹き飛ぶ。吹き立つ。
 物の名を呼ぶ--そうするとその声といっしょに出る息のために、器についた塵が吹かれて飛び立つように、何かが飛び立つ。
 それは、何か--まあ、わからないね。ただ、あ、そんな細かいところを平出は見つめ、その見えたものにあわせてことばを動かしているということがわかる。

 おもしろいのは、次だな。
 ほんとうは、この詩は、

物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。

幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。

という形式にすると、1連目と2連目の対応がわかりやすくなる。そのわかりやすいことを書いてしまうと(ようするに、私がわかったと「誤読」したことを書いてしまうと、という意味だが)……。

 1連目で、物の名を呼ぶということは、声を出すこと、息を出すことで、物の表面(器と書かれているのだが)の塵を、吹いて飛び散らせるようなものである。飛び立たせるようなものである。表層の何かが、宙にきらめく。
 これは、まあ、幻かもしれない。
 で、2連目。--その幻を、言いなおしてみる。
 幻とは、大地についた露のようなものかもしれない。そして、それが「吹き立つ」の「立つ」の影響からゆがめられて、大地に立つ「露」になると、それは「霜柱」になるかもしれない。--というのは、あとに出てくることばを先回りして書いてしまうことになるが……。
 もどろう。
 呼ぶ(声に出す)ということは、物の表面から何かを吹き飛ばすようなもの。
 そして、見るとは、その物の表面(ここでは、ものは「大地」になる)を光のてあしで、踏みしだくこと。まるで、霜柱を踏みしだくように。
 このとき、平出は「てあし」ということばをつかっているが、「てあし」よりも「光」になってしまっている。「肉体」をあらわすことばをつかっているが、何か「肉体」を超越したものになっている。
 「光」そのものに「同化」している。
 この「光との同化」(光そのものになってしまうこと)があるから--まあ、透明という感じがするのだろうなあ。

 でも、なぜ、

物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。

幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。

 という対の形式ではなく、

物の名よ、器につく塵のように。

呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。

 なのか。
 なぜ、「幻よ」の前に段落がないのか。1行あきがないのか。
 簡単にいってしまえば、平出は「対」を拒否していることになる。
 世の中には「対」は存在しない。
 それは向き合うのではなく、連続してつながっている。
 「物」と「意識」、「物」と「ことば」は、「物」があり「ことば」があるという関係ではないのだ。
 対称ではない。
 つながっていて、区別がつかない。
 というか--ことばと物は互いを貫きあう。互いをくぐりぬけるようにして交渉する。その接続と、くぐりぬけの交渉が

呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。幻よ、大地に露のつくように。

 の中にあるのだ。「幻よ、」の前の改行のないところ、1行あきのないところに、動いているのだ。

 なんだか同じことばかりを書いているなあ。めんどうくさいなあ。と、書きながら思う。
 そして、この私の感じるめんどうくささというのは、説明がむずかしいが(いや簡単すぎるかもしれない)、平出のことばが強靱であるという証拠なのである。
 私がどれだけ書いてみても、平出の書いている「繊細」なことばの運動の領域を説明しきれない。説明しようとすればするほどずれてしまう。遠くなる。
 平出の書こうとしている繊細な感覚--それも肉体の感覚というよりも、ことばそのものへの感覚、五感ではなく「語感」、といっても辞書に書かれているような「ことばの与える感じ」「ことばに対する感覚」とは少し違って、ことばがことばを生きている感覚(肉体が肉体自身で生きている感覚に似たもの)にはたどり着けない。

 あ、ここに、こんなふうに「ことば」が「ことば」として存在してしまっている。そういう感じかなあ。そのことばは、もうそこで完結していて、ほかのどこへも行きようがない。
 詩として、そこに存在するしかない。

 こういう作品については、感想は書いてみてもしようがない--という感想を書くしかない。
 だから、ね、何も書いていることにはならない。
 虚無。
 虚無的な、あまりに虚無的な、虚無。
 究極のことばの到達点?


雷滴 その拾遺 (via wwalnuts叢書01)
平出 隆
via wwalnuts
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岡井隆「満員電車のなかのレクイエム」

2011-12-17 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「満員電車のなかのレクイエム」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 岡井隆「満員電車のなかのレクイエム」(初出「ユリイカ」11年07月号)を読みながら、ことばの回復のさせ方というものを考えた。

  あの三月一一日帰宅できなくて或る所へ泊つた。
もう一度あの日の午後を たとへば だ「インドラの網」に置いてみるなら
  そこへは次々に老若の男女が入つて来た。
人々はみな奇妙な笑みをうかべてはわたしを見つめ やがて眠った
  そのころ遠くて近い海岸で大勢の人が死んだのだつた。
向かうから来るものなのだ向から来て天上へ連れ去つて行く

  霊もまたわたしの感覚には届かなかつたらしい。
かずかぎりなき霊が喚(よ)ばつてゐたことに気づかず枕など直してた

 スタイル(形式)がかわっている。2字下げの行が交互に出てくる。2字下げの行は短く、突き上がっている行は長い。とても読みづらい。行のはじまりのでこぼこ感にじゃまされて、ことばがすんなり入って来ない。
 東日本大震災のことを書いている。そのこと、岡井が体験したことを書いているのだが、これはいったいどういうことなんだろうなあ、としばらくぼんやりしていた。
 ふと、頭が下がっている行だけ読み、ひと呼吸置いて頭が突き上がっている行を読んでみた。すると、

 あ、
 行が突き上がっているのは短歌である。

 頭が下がっているのは、現実の情景である。

  あの三月一一日帰宅できなくて或る所へ泊つた。
  そこへは次々に老若の男女が入つて来た。
  そのころ遠くて近い海岸で大勢の人が死んだのだつた。
  霊もまたわたしの感覚には届かなかつたらしい。

 三月一一日、岡井は帰宅できなくてあるところに泊まった。そこにはやはり帰宅できないひとたちがやってきた。
 そして、その後(帰宅したあと?)、岡井は大震災の津波で大勢の人が死んだことを知った。
 もしかして、あのとき、あの泊まったところで出会った大勢のひとは、岡井のように交通機関がなくて帰宅できなかった人なのではなく、帰ろうとしても帰れない死者たちではなかったのか。その霊ではなかったのか。
 そして、そう感じたことがら、事実というよりは、精神でとらえ直した三月十一日が、頭が突き上がった行である。その行は、短歌である。


もう一度あの日の午後を たとへば だ「インドラの網」に置いてみるなら
人々はみな奇妙な笑みをうかべてはわたしを見つめ やがて眠った
向かうから来るものなのだ向から来て天上へ連れ去つて行く
かずかぎりなき霊が喚(よ)ばつてゐたことに気づかず枕など直してた

 正確に5・7・5・7・7のリズムがそこにあるとはいえないかもしれない。けれど、音の基本が5・7・5・7・7で構成されている。そのリズムのなかで、現実と精神を交錯させている。
 ことばを鍛え直している。
 ことばが無意識に動いていくのを、無意識に制御している。

 なぜ、岡井が泊まったところへ来たひとびと、そのなかに帰ろうにも帰れない津波の被害者の霊がいると気がつかなかったか。
 この疑問が岡井を苦しめる。
 その苦しみのなかで、やってこなかった霊と交感する。
 そのときことばは、「歌」になる。
 「歌」と書いてしまうとなんだか、軽い感じがするのだが、肉体のなかにあることばの肉体のリズムと交感し、岡井自身の肉体を超える。

  賢治が病んで会つた魔だつたのだ。
丁(ちょう)、丁、丁といふあの気合だな ゲニイめが海のなかから来たんだと思ふ
  あれから三箇月たつた宵の電車の中。
会へなかつた「雁の童子」に今度こそ銀色に透(す)いて会ふかもしれず
  満員電車にたまたま一人の老人としてわたしは居た。
それ向きの本はあちこちに置いてありタッピング父子もゐる筈
  奇妙な宵ではなかつたがどこか歪んでもゐた。
ひるすぎに渡つた橋が夕ぐれにもう一度ほのと見えて渡つて
  今朝も、あの「天人」が見えてゐた。
生まれては直ぐ死ぬ朝のとりとめもない雲たちの墓場 曇天
  そして、満員電車のレクイエムだ。
ヴィクトリアのレクイエムきいて来たばかり。さはがしき霊よ天に鎮まれ

 宮沢賢治のことば。さらに音楽が岡井を、「岡井のいま/ここ」から引き剥がす。引き剥がされて、そして再び岡井はもどってくる。そのとき、大震災の被災者の霊と交感する。その交感の仕方--そこに、岡井独自の精神以外のものがまじる。そのことに、私は、震えるような何かを感じる。
 何か大きなものに対し、自分一人では立ち向かえない。
 そのことを岡井は知っている。
 だから賢治のことばを頼りにする。レクイエムの調べを頼りにする。そして、岡井が肉体化してきた短歌のリズムを頼りにする。頼りにすることで、だれかとつながる。
 被災しなかった者こそが、だれかを頼りにしないことには、「いま/ここ」を生き抜いていけない。
 その静かなかなしみを感じた。その静かな正直を感じた。





注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社
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ブラッド・バード監督「ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル」(★★★)

2011-12-17 16:16:08 | 映画
監督 ブラッド・バード 出演 トム・クルーズ、ジェレミー・レナー、 ポーラ・パットン、サイモン・ペッグ、ジョシュ・ホロウェイ
 
 トム・クルーズがドバイの超高層ビル、ブルジュ・ハリファをよじ登るシーンが映画公開前から評判になった。スタントマンでなく、トム・クルーズ自身が肉体をつかって演技している。
 で、この役者が自分の肉体で勝負している、というのがこの映画の一番の特徴。CGをはじめとする映像と違って、肉体そのものが動くので、動きのスピードに限界がある。簡単にいうと、遅い。CGを見慣れたひとには、動きのもったり感が「へたくそ」に見えるかもしれないなあ。刺激が甘い。(だから、この映画はきっとヒットしない。)砂嵐のシーンで、ゴーグルを取り出して目を守るなんて、あまりにも人間的(?)で笑ってしまうし、まあ、砂嵐にそなえて誰もがゴーグルをもっていても怪しまれないなんていう伏線(?)もスムーズなんだけれど。
 しかし、その「もったり」が私にはおもしろかった。やっぱり映画は役者の特権的肉体を見てこそ感情移入できるからね。だから、ほら、あの「マトリックス」でも、基本的に「特撮」なのだけれど、キアヌ・リーブスがイアンバウアーみたいに体をそらして弾丸をよけるシーン、スローだからおもしろい。自分にもできそう、と思えるからね。(この、自分にもできそう、が感情移入、ということ。)映画を見終わったあと、真似したでしょ?
 それで。
 その、肉体的特権。トム・クルーズが鍛え上げた肉体になっているのはいいのだけれど、まわりがみんなトム・クルーズサイズ――というのが、とてもおかしい。ジェレミー・レナーも、ほとんど同じ体形。長身だとつりあわないからね。顔も、長い顔(長方形)ではなく、丸顔っぽく、かつ童顔。観客の目が、チームの他のメンバーに「浮気」しないように工夫している。
 最後の車工場(?)のアクションも巧妙だ。相手は確か長身では? 目立たないように立っている時は位置が上下に離れている。比較しにくい。近くの時は倒れている。比較しにくい。いやあ、うまいもんですねえ。
 


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パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
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山田亮太「私の町」、山本勝夫「喪失」

2011-12-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
山田亮太「私の町」、山本勝夫「喪失」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 山田亮太「私の町」(初出「文学界」06月号)もまた、大震災をテーマに書かれたものである。

四千の筏を穏やかに揺らす波と赤い鳥居と出漁する船と
収穫まで三年間ロープに吊るされるカキと
放流されるアサリと鮭をつかみどるこどもたちと舞う虎と
鯨が押し寄せて境をなした山と
飲み水や食料を求め入港したオランダの船と島と
千二百年前の姿をとどめた古墳群と製鉄炉跡と
枯れ木に生える椎茸と

 詩は、「……と」という形でずーっとつづいて行く。途中を省略する。その「と」を繋ぎ止めるものは、最後に明らかになる。

二十五センチメートル移動した地面と埋められた手紙と
ペンと折り紙の花と夢と
午後三時二十五分に止まった時計の針と駅前のイチョウと
学校新聞に書かれた「海よ光れ」の文字と
最後のマッコウクジラの骨格標本について
ここに書いておく
岩手県山田町
訪れたことのないこの町のすべてを
私は知りたい

 山田が書きつらねていることばは「岩手県山田町」に関係している。山田が書いていることばの「対象」は「岩手県山田町」にある。あるいは、「あった」の方が正しいのかもしれない。
 この詩で不思議なのは、タイトルが「私の町」なのに、その「岩手県山田町」を山田が「訪れたことのないこの町」と書いていることである。「訪れたことのない町」なら、当然、住んだこともないだろう。それがどうして「私の町」なのか。
 ふたつのことが考えられる。
 ひとつは、そこに住んでいた(住んでいる)けれど、そのすべてを知っているわけではない。知らないところがある。また知らないことがある。町のすべてを訪れたわけではない。町のすべてを知っているわけではない。だから「訪れたことのない町」というしかない。そして、実際に住んでいるにもかかわらず「訪れたことのないこの町」というとき、そこには、まだ「訪れたことのない場所」、そしてまだ「知らないことがら」についての、深い愛情がある。知らなかったすべてを知りたい--という欲望のなかに、強い愛が感じられる。
 「この町」の「この」が、山田の思いの強さをあらわしている。ほんとうに「訪れたことのない町」なら、そして山田が「岩手県山田町」にいないのなら、その場合「この」ではなく、「その」町というのが一般的である。「この」という限り、山田は「岩手県山田町」に生きている。
 もうひとつの可能性。それは山田の名前と関係がある。「山田亮太」の「山田」。同じ名前を、被災地に見つけた。山田町については何も知らない。「訪れたことがない」のだから。それでも、「知っている」ことがある。その「知っている」は、たぶん、報道で知ったことである。「山田町」は港町。漁師の町。カキを養殖している。古墳群がある。そして、小学校には「タイムカプセル」(子どもたちが思い出をつめたカプセル)があり、それは地震によって地面が移動したために地下から出てきた。また学校新聞には「海よ光れ」ということばがあった。そういうことを知っている。
 知ることで、山田は「山田町」に近づいていく。
 あ、たしかにそうなのだ。3月11日を境に、私たちは多くの被災地のことを知り、多くの被災者を知り、そのことばに触れながら、被災地に近づいていった。私の場合、その近づき方は漠然としていた。東北に何人か知人がいて、その知人たちのことを考えた。無事であるという知らせでほっとした。そういう近づき方をした。それは、ほんとうに少ない近づき方だが、どこまで「広く」近づけるのか、見当もつかなかった。
 山田は、私のような近づき方をしていない。自分の名前と同じ町の名前--そこに近づいていこうとしている。そして近づいてみると、知らないことばかりである。あたりまえだが、知らないことしかない。そして、その知らないことを知るたびに、そこに人が生きはじめる。そのひとに対して何ができるというわけではない。でも、近づきたい。近づいて、そばにいたい。だから、聞いたこと(読んだこと、見たこと)を「ことば」にする。その山田の「ことば」が正確にとらえているのは、山田が実際に肉体で触れた「カキ」や「学校」であり、「山田町」のカキ、学校とは完全に一致するわけではない。けれど、山田は自分の肉体で知っているカキや学校をとおして、近づいていく。
 「ことば」の力を借りて、近づいて行く。
 そうすると、「山田町」が「その町」ではなく、山田にとって「この町」になる。「この町」になっても、しかし、まだまだ知らないことだらけである。だから、もっともっと「私は知りたい」。「知る」ということ、「知っていることをことばにする」ということをとおして、「山田町の町民」に「なる」のだ。

 大震災後、私は私のことばをどんなふうに動かしていいかわからなかった。いまもわかっているわけではない。わからないまま、いままでと同じように動かしている。変なことだけれど、ことばは、何かがあったあとも、何もなかったかのように動いてしまう力をもっている。その力をたよりに私はことばを動かしている。(もちろん、意識できない何かが、ことばに反映しているということはあると思うけれど、私は、特に何かを意識してことばに盛り込んではない。)
 そうして、この山田の詩を読むと、あ、そうか、こんなふうにして「ことば」で接近していく方法があるのかと気づいた。気づかされた。
 ことばをとおして「なる」という接近の仕方を教えられた。
 被災者の発する「ありがとう」ということばにびっくりしたが、この山田の静かなことばの動かし方にもこころが震えた。



 山本勝夫「喪失」(初出「花粉」19、06月)は、大震災後の「言葉」そのものを主題にしている。

初めに言葉があったという どこにあったのか そのとき
すべては砕かれ 流されて 言葉さえも太古のもとの形に戻っていった
文字も砕かれ 形を失い 声を失ってきらめきながら
怒濤とともに 午後の眩暈を裂き 驕慢な胸をえぐって去っていった

 だが、ことばは去っていくだけではない。

夜明け前 沖へ流されていった言葉たちが ばらばらにきらめいて戻ってくる
わたしは浅い眠りのなかで 戻ってくる言葉を貝殻のように拾い集めて
濡れたまぶたに並べ 地異の残骸の間に綴り込むように揃えていく

その夜 並べられた言葉の向こうに横たわっていた死者たちが 月光を浴びて
渚の砂に立ちあがり耳をすます きこえてくるのは
沖の海草とともに戻ってきた むなしくなった昨日の声たちだ

 ことばは戻ってくる。声ももどってくる。そして、そのことば(声)の向こうには「死者たち」が「横たわっている」。ことばを取り戻すこと、声を聞くことは、死者たちに寄り添うことなのだ。ともに生きることなのだ。そのために、山本はことばを書く。
 私たちは、ことばでしか、だれかに接近することはできない。ことばなしでは、だれかといっしょにいることはできない。

 山田と山本の詩は、ことばがしなければならない仕事を静かに告げている。



ジャイアントフィールド
山田 亮太
思潮社
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八柳李花ー谷内修三往復詩(11)

2011-12-16 00:34:22 | 
たましいの色 谷内修三

雲脂てふことばが旧かなで歩いてゐる
あっちの方が許せないくらい優雅である
頭垢ということばが激しく嫉妬している
告発状を書いて通報したいくらいである

あっちの方が許せないくらい優雅である
ことばは意味ではなく見かけである
告発状を書いて通報したいくらいである
ふけということばは笑いだしたくなったが我慢している

ことばは意味ではなく見かけである
フケということばにしきりに同意を求めている
ふけということばは笑いだしたくなったが我慢している
人間的なあまりに人間的なたましいの色

フケということばにしきりに同意を求めている
雲脂てふことばが旧かなで歩いてゐる
人間的なあまりに人間的なたましいの色
頭垢ということばが激しく嫉妬している
                     (2011年12月16日)
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渋谷卓男「地上」

2011-12-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
渋谷卓男「地上」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 「現代詩手帖」12月号には3月の東日本大震災のことを書いた詩がたくさん掲載されている。断り書きはないのだが、そう感じさせる詩が多い。渋谷卓男「地上」(初出「冊」43、2011年06月)も、その1篇である。

その眼は
国が廃墟に変わるのを見た人の眼だ
地平を埋める瓦礫の上に立ち
くりかえされる復興と破壊とを
すべて見届ける人の眼だ

その眼は
故郷に無数の死骸を埋めた人の眼だ
一人の喜びと一人の悲しみとを
誰もが忘れたあとも
みな記憶しつづける人の眼だ

 泣け
 なぜと問うな
 足もとの土に手を置き
 赤子となって涙を流せ

その人は一輪の花を捧げ持つ
未だ咲かぬ
咲くべきときを待ち
永遠にふくらみつづける一輪のつぼみ
その花だけを灯りのように掲げ
目を上げた人がいま
ひとけの絶えた地上を歩きはじめる
名は知らない けれど
少し前を行くうしろすがたを
私たちは生まれる前から知っている

 たくさん書かれている東日本大震災の詩のなかで、私には、この詩がとても不思議な感じで印象に残った。
 大震災のことを書こうとしている、書いていることがわかる。大震災を目撃した人の眼について書いているのもわかる。そして、--わかると書いたのにこういうことを書くのは無責任な感じがするのだが、何がわかったんだろう、という静かな疑問がわいてくるのである。私に、いったい、何がわかっているのだろうか。
 何かをわかったといっても、それは私の思い込みである。私は、その人にはなれないから、ほんとうは何もわからない。
 何もわからないから、私の書く感想は、勘違いそのものである。そして勘違いであるということを承知で、それでも書いておきたいことがある。
 3連目の「なぜと問うな」。
 これは「なぜ、私たちがこの災害にあわなければならないのか、それを問うな」ということだろうと思うが、思いながら、私はほかのことを考えたのである。違うことを感じたのである。

 泣け
 なぜと問うな

 この部分をそのままに、「泣け」という命令(?)に疑問をもたずに、つまり「なぜ泣かなければならないのか」と問いかけるのではなく、何もせず、ただ泣きなさい、と言っているように感じたのだ。
 それも、

 足もとの土に手を置き
 赤子となって涙を流せ

 と、具体的に「姿勢」まで指定して「泣け」と言っている。「足もとに手を置き」とはよつんばいになって、ということだろう。二本の足で直立する「おとな」ではなく、よつんばいの、つまり無力な「赤子」になって、無力なまま「泣け」と言っているように感じたのだ。
 がんばろう、ではなく、「泣け」と命じている。泣くことが大切なのだと言っている。悲しいとき、いや、悲しいというよりも、どうしていいかわからないとき、ただ泣きなさい。赤ん坊は、自分が何をしていいかわからない。何をしていいかわからないけれど、何かしてほしくて、泣く。泣けば、母親が気づき、何かしてくる。そういうことを求めるように、ただ泣けと言っていると感じたのだ。

 大震災のあと、多くの人が泣いただろう。泣く時間もなく、亡くなったひとは、その死後、きっと泣いているに違いない。けれど、その泣き声は、意外と聞こえてこない。
 泣くことをこらえているように感じられる。泣くかわりに、たとえば「ありがとう」ということばを言っている。「手をさしのべてくれて、ありがとう」と。
 そこでは悲しみが解き放たれていない。
 そのままでは、きっと苦しくなるに違いないと思う。
 だから、泣きなさい。

 渋谷が書いている「その人」は(そして、その眼は)、きっと多くの泣いている姿を見たのだと思う。「復興」のためにがんばるひとの姿も見ただろうけれど、そういう目に見える姿だけではなく、隠れるようにして泣いたひとの、その泣く姿を見たのだと思う。それは一瞬、ほんの短い姿かもしれないし、ひとりひとりが孤立して、無力のなかで泣いている姿かもしれない。
 泣かなければ、泣きやむことができない。泣いても泣いても、泣きやむことはできないのだけれど、それでも泣かなければならない。そういうことを知っているひとではないだろうか、と思う。
 泣いたときにだけ見えるものもあるのだ。

名は知らない けれど
少し前を行くうしろすがたを
私たちは生まれる前から知っている

 この3行を、たとえば復興の希望を掲げて歩く人--ではなく、私は「泣きながら歩いている人」と読みたいのである。
 復興の希望を掲げて歩く人(この詩では一輪の花を灯りのようにかかげて歩く人と書かれているけれど……)の後ろ姿を見るとき、私たちは、ほんとうその後ろ姿ではなく、その人のかかげている「希望の灯」を見ている。
 でも、そうではなく「後ろ姿」そのものを、私たちは見て歩かなければならないのかもしれない。
 言い換えると。
 泣きながら歩いているひとの後ろ姿。その涙は、かかげられた希望の火とは違って後ろからは見えない。想像するしかない。けれど、そのときの想像というのは「空想」ではない。私たちは「肉体」を見るとき、そのひとの「肉体」の内部で起きている「苦痛」を知ることができる。
 路傍で倒れて、うめいている人を見ると、あ、この人は腹が痛いのだと思う。
 同じように、泣いて歩いているひとの後ろ姿を見ると、あ、あの人は泣きながら歩いていると知ることができる。自分のなかにある「肉体の記憶」、泣きながら歩いたときの肩の位置とか、歩幅とか、手の動きとかが、肉体の中でよみがえり、まったく知らないひとの(名前も知らないひとの)肉体と重なって、その肉体を感じるのだ。肉体のなかにある何かを感じるのだ。
 そういうものを、私たちは、ほんとうは共有しなくてはいけないのではないだろうか。「がんばれ」とはげます前に、まず、大震災で苦しんでいるひとの、ことばにならない「肉体」のなかにあるもの、それを共有しなくてはならない。
 だから、というのは変な言い方なのだが。
 「泣いてください。ただ泣いてください」と私はまずいいたい気持ちになるのだ。

 私は渋谷がどこに住んでいるか、どういうひとなのかはまったく知らないのだが、渋谷は被災者の一人で、同じ被災者に「泣こうよ」と呼びかけているような感じがするのである。静かに、「いっしょに泣こうよ」と誘っているように感じられるのである。




現代詩手帖 2011年 12月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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江代充「トポスの夢」

2011-12-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「トポスの夢」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 江代充の詩は、私にはわかりにくい。「トポスの夢」(初出「文藝春秋」11年02月号)は父の愛人のことを書いているのだろうか。

父が以前なじみの人をそこに住まわせていたが
いまはあまり表立たず
ただ古いままであるという離れの空部屋が
家の裏手の一部に据え置かれている
わきの通路の塀ぎわに倒されたまま
不規則に積みかさなった木材の高みから
枝のあるとなりの家の木々が手ずからわたしに口伝えをする
祭りの行われる場所へあの人が向かっていて
左右に石垣の支えのある
静かな道のなかに来ているということを

 ある1行が、どのことばと接続しているのかわからない。そして、わからないことによって、その1行がすくっと立っている。たとえば2行目の「いまはあまり表立たず」。これは何の述語? あるいは何の修飾節?
 「なじみの人」が「いまはあまり表立たず」なのか。
 「いまはあまり表立たず」は「離れ空き部屋」を修飾しているのか。
 もし「離れの空部屋」を修飾しているのだとしたら、その直前の「ただ古いままであるという」は何? 「いまはあまり表立たず」といっしょになって、「離れの空部屋」を修飾している? そのとき「古いままであるという」の「という」は何? 伝聞? だれからの?
 そして、「離れの空部屋が」の「が」は「離れの空部屋」が「主語」であることを告げているが、では、その「述語」は? 次の行の「据え置かれている」なのか。変だねえ。「離れの空部屋」は「据え置かれる」もの? 部屋って「据え置く」もの? 椅子なら「据え置く」ことができる。でも「部屋」は? きっと、これは「空部屋」は「空部屋」のまま、据え置かれている、放置されている、ほったらかしにされている、ということなのだろう。
 という具合に、なんとか「意味」(論理)を追っていると。

 あれ? 私は「いまはあまり表立たず」という2行目を問題にしていたのではなかったっけ……。

 そうなんだなあ、知らない内に、意識がどこかへずれていく。それも形をなくしてというのではなく、固いまま(?)というか、固まったまま、何かをくぐりぬけて、別なところへ流動してしまっているのに気がつく。
 そして、その流動にのっかって流れるままに、

いまはあまり表立たず……据え置かれている

 という「論理的(?)」な構文ができあがり、そうか、「離れの空部屋」はもう誰にも注目されることもなく(ほら、父の愛人がそこにいるよ、とささやかれることもなく)、空部屋のまま放置されている。誰もつかわない状態がつづいている、という「意味」になる。

 だけなら、いいのだが。

 いま解決(?)したばかりの「据え置かれている」は、次の行の「わきの通路の塀際に倒されたまま」「据え置かれる」という具合にも読むことができる。えっ、空部屋が、「倒されたまま」「据え置かれる」? 
 変だねえ。
 変です。
 「据え置かれる」は、さらに次の行の「不規則に積みかさなった木材」に連結してしまう。「木材」が「据え置かれる」--ね、文章になるでしょ? 「意味」になるでしょ? そのとき「不規則に積みかさなったまま」は「木材」を修飾することばになる。
 この「不規則のまま積みかさなった」ということばの働きは、その前にみた「ただ古いままであるという」ということばに似ている。「ただ古いままであるという」は「いまはあまり目立たず」ということばをいったん切断し、独立させる。そうして、独立-孤立させておいて、その切断する力によって、次の「据え置かれている」へとジャンプして接続する。
 何かを飛び越し、何かが流動する。障害物(?)を飛び越して、遠くにあるものが一気に結びつく。--けれど、その飛び越しは「方便」としての表現であって、印象としては飛び越しではなく流動である。

 あ、何か、書いていることが、おかしいね。

 簡単に(?)言い直すと、江代のことばは、脈絡がねじれている。切断と接続が、「学校教科書」の文章のようにすっきりしていない。そして、そのことばは「意味」を無視して、あ、この響き、いいじゃないか、この1行美しいじゃないか、というような印象だけを浮かび上がらせる。

いまはあまり表立たず

 いいでしょ? どこかにつかいたいでしょ? 何に、どういう具合につかうかめどがあるわけではないけれど、このことばをさりげなくつかうとおもしろいだろうなあ、と思う。ちょっと盗作したくなる。そして、この1行は盗作したって、だれにもわからない。特に特徴があるわけではない。その1行自体に「意味」があるわけではないのだから。
 で、そんなふうにして書いてみると。
 そういうふうに特に目立たないことばを1行として独立させ、さらに、その1行をまわりのことばに次々に触れさせながら流動させ、気がついたら別のことばと接続しているという具合に動かすのが江代のことばの運動なのだと気づく。

 気づくのだけれど。
 で、これは何?

 「木材」から「枝」を通り越して「木々」が結びついたあと、

祭りの行われる場所へあの人が向かっていて
左右に石垣の支えのある
静かな道のなかに来ているということを

 あの人(父の愛人)が「向かっていて」、「来ている」。どこかへ向かっている? それともどこかから「来ている」。どっち? 「向かう」と「来る」は方角が反対で、そんなことばが結びついたら「矛盾」でしょ?
 「矛盾」か……。しかし、これが「矛盾」ではないのだなあ。
 「視点」を固定すると「向かう」と「来る」は矛盾する。しかし、父の愛人が「向かう」「来る」という運動をすることを先回りして、「わたし(江代)」が先回りしていたら? 向かう先へ先について、そこで出迎えると「来る」になる。
 江代のことばの「視点」は複数ある。複合する視点がことばを統一している。
 これは、絵で言うと「キュビズム」になるのかな? キュビズムから発達した、たとえばピカソの「泣く女」のような感じになるのかな? ひとつの「存在」が複数の視点からとらえおなされ「平面」に統一された絵。右から見た目と正面から見た目がひとつの顔のなかに統一された絵。時間も複数の時間がある。1分前、5分前の表情がひとつに組み合わされた絵。--それと同じことを、江代は、ことばでやっているのだ。
 だから、わからない。1行1行、あるいはそれぞれの部分部分は納得できるが、それが同じ詩のなかのどのことばと結合しているのか、よくわからない。どのことばとも結合しながら、結合する瞬間に、形をかえる。意味をかえる。「主語」「述語」の関係が一定しない。時間も一定しない。でも、それを無理に「ひとつ」の関係に限定せず、動いているのだ、と思うと--つまり、自分を(読者の視線を)流動させると、そこにひとつの「場」が浮かび上がってくる。「トポス」が浮かび上がってくる。



隅角 ものかくひと
江代 充
思潮社
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白井知子『地に宿る』(3)

2011-12-13 23:59:59 | 詩集
白井知子『地に宿る』(3)(思潮社、2011年11月30日発行)

 白井のことばは、ときどき「散文」のような印象がある。「意味」を論理的にしっかり伝えようとする力があるからだと思う。たとえば「窓辺には誰もいなかったと」という作品。空爆された集落。誤爆された集落というべきか。多数の死者が出た。そのことに対して空爆した方は「窓辺にはだれもいなかった」と主張する。つまり、ひとがいるとは思わなかった(認識しなかった)ので、空爆したのだ、市民を殺戮する意図はなかった、と主張する。そのことに対する抗議の詩である。「意味」の強い詩である。「意味」の強さが「散文」的な印象を生み出す。特に、いま、私がしたような、詩の「要約」をすると、どうしても「意味」が一人歩きをして、詩から離れていってしまう。
 しかし、これは私の「要約」が間違っているのだ。白井は、私が書いたような「要約」とは違うことを書いているのだ。これは、白井の詩を読めばすぐにわかることだが、それをことばで説明するのはむずかしい。どう書いていいかわからない。--だから、それをことばにしてみたい。
 というのが、きょうの私の課題……。私が私に課した、私だけの問題なのだが。

窓辺の椅子にもたれ
ひと針 ひと針 たんねんに
記憶のほつれ目をかがっている人がいる

  窓辺には誰もいなかった 影さえ動いていなかった
  圧する声は たやすく 言いはる--

 書き出しである。静かなことばが動いている。窓辺にいる人を描写している。「記憶のほつれ目」は「比喩」である。ここから、これは詩である、ということができる。詩とは、いつもとは違ったことばで、何かを書くこと--という定義にあてはまる。「椅子に座って」ではなく「もたれ」、衣類の破れ目を「縫う」ではなく「かがる」。そういうことばの選択に、詩への指向が感じられる。「意味」だけではなく、響きやニュアンスに対する配慮が感じられる。だから、詩である、ということができる。
 けれど。
 「もたれる」とか「かがる」とかのことばの選択は、ある程度詩を書き慣れた人なら無意識にやってしまうことである。そこには「詩の肉体(文体)」が反映している。ことばの選択史(?)のようなものが働いている。白井の「肉体」というよりも、「日本語の詩」の「肉体」が動いている。
 つまり、そのことばを動かしているのは白井であっても、白井ではない、ということになる。ここから白井の特徴を抽出することは、ちょっとむずかしい。
 ね、書き出すと、なんだか白井の詩の否定になってしまいそう。少なくとも、白井はこんなにおもしろい詩人--という具合に、ことばが進んでくれそうにもない。変なところに迷い込んでしまう。
 でも、白井のことばは、詩である。
 そこへ行くために、私は何を書かなければならないのか--私は、よくわからないまま、私の課題にことばへと動かす。
 (私は書きはじめるとき、いつも、「答え」がわからない。私のことばがどこへ動いていくのか、わからない。わからないまま、動くところまで動かしていく。--だから、きょうはほんとうに白井否定論を書いてしまうかもしれない。)

砂漠地帯からぬけでた街
ナツメヤシがしげり
よりそうように民家がかたまっている集落
崩れそうなアパート群
あいたままの窓
住民の人生設計にはいつも砂塵が薄っすらとかかり
明日 家族そろって 食卓をかこめるかしら
料理は粗末であっても
いまは 家族でする食事こそご馳走だと
みずから言いきかせる夫人

 うーん。ことばがまるで「新聞用語」。特に前半が、まるで安直な新聞記者のルポである。「民家」「集落」「住民」。まるで自分(白井)とは無関係な感じがする。「人生設計」ということばも無機質だなあ。「かがる」のような、「暮らしの肉体」を通り抜けたことばではない--と言いたくなるのだが。
 ところが、「明日 家族そろって 食卓をかこめるかしら」から何かがかわる。この「明日 家族そろって 食卓をかこめるかしら」はいったいどこからでてきたことば? 白井のことばではない。前半の「集落」の描写が白井のことば(あるいは新聞のことば)であるのに対し、これは、そこに住んでいる「婦人」のことば。他人のことばである。
 そして、この他人のことばは、よく読むと、とっても不思議。最初の3行と比較すると、不思議さがわかる。最初の3行は句読点がないけれど、句読点を補って書くと「窓辺の椅子にもたれ、ひと針ひと針たんねんに記憶のほつれ目をかがっている人がいる。」となる。主語は「人」。その人は「記憶のほつれ目をかがっている」。ほかにも分析の方法はあるだろうけれど、私がいま書いたように、主語-述語の関係を、簡単に「要約」できる。
 ところが「明日 家族そろっててんてん」以下は、きちんと散文の文章にしようとするとむずかしい。「婦人(主語)」が「みずからに言い聞かせる(述語)」というのが「要約」になるだろうけれど、その「言い聞かせる」ことがら、その「内容」が、むずかしい。むずかしいとは、いうものの「いまは戦争中であり、こういうときは家族がきちんとそろってする食事こそが何よりのご馳走である」ということは、簡単にわかる。また、それは何を食べるかよりも、家族全員が安全に生きていると確かめあうことの方が重要だから、そういうことばで表現されるのだということも簡単にわかる。婦人の願いは、家族そろって食卓をかこむこと--というのも簡単にわかる。
 全部、簡単にわかるのだけれど、そのわかったことは、そのまま「文章」にならない。ときどき、ことばが飛躍している。飛躍と感じないような飛躍だけれど、ともかく、最初の3行のように、そのまま「文章(散文)」にはならない。
 ここが、ポイントなのだと思う。このことを、私は指摘したいのだ。書きたいのだ。ここに白井の詩の「秘密」、詩の「力」があるのだと書きたいのだ。
 「文章(学校教科書の主語-述語の明確な文章)」を破って、噴出することば。そこに、詩がある。

住民の人生設計にはいつも砂塵が薄っすらとかかり
明日 家族そろって 食卓をかこめるかしら

 この2行の、接続と切断は、複雑である。「かかり」とことばは中途半端のまま、突然、「明日 家族そろって 食卓をかこめるかしら」と他人のことばによって切断される。そして、それが「婦人」の思いへとつながる。
 そして、この「切断」は「婦人」にだけ「接続」するのではない。文章としては、つまり「主語-述語」でくくられた文章のなかでことばを整理しようとすると、「明日 家族そろって 食卓をかこめるかしら」と婦人は思ったという具合に「接続」していくしかないのだが、私が詩を読みながら感じるのは、「婦人」の「思い」への「接続」を超えている。
 それは、次の部分でさらに強くなる。

日はとっぷりと暮れ
国境の村里を夜風がわたる
少女が習ったばかりの大文字で手紙を書いている
煤けたランプの灯り
鉛筆をなめなめ
遠くにいる神様のところへ
とても大事なことを知らせようとしていた
未来とたわむれる装飾音のように
文字が散らばり
少女は磁石と同じくらい
自分の鉛筆が誇らしかった
できたての短い文章を口ずさみ
窓の手すりの方へ

 「婦人」のことば、ことばといっしょに動く「思い」は、手紙を書く「少女」とつながる。そして、それは「神様」へとつながる。この「つながり」を白井は「論理的」に説明しない。かわりに「鉛筆をなめなめ」というような、人間が遠い昔にしてきたこと、「肉体でおぼえていること」へとつないで、それを「説明」にかえてしまう。
 私は、ここで「論理」を超えて、「意味」を超えて、突然「少女の肉体」とつながり、それから「できたての短い文章を口ずさみ」という「肉体」へと変わっていく。白井の「肉体」が「少女の肉体」とつながっているのを感じる。白井の「肉体」と私の「肉体」がつながるのも感じる。
 「意味」ではなく、「肉体」とつながる。

明日 家族そろって 食卓をかこめるかしら

 さっきの、この1行も「意味」ではなく、「肉体」としてつながる。そう思いながら食事をつくる--その動き、肉体の動きそのものとして、つながる。
 そしてそれは、「ひとりの婦人」「ひとりの少女」の「肉体」ではないのだ。
 「暮らし」のなかで「つながり」つづける「肉体」なのだ。
 それを感じる。

窓ではどこでも
仕事をしながら つい話しこんだり
記憶のほつれ目に 悲哀や微笑みの布をあてがってみたり
今日の重さを測りかね
明日へむけて祈りがなされている

  耳をすませたい 他者の声を遮ってはいけない
  窓辺には誰もいなかった 爆撃のつもりはなかったなどと いつわっては
   ならない--

 「暮らし」、「いのちのつながり」を切断する爆撃。その切断するものを切断し、もう一度「いのちのつながり」を「つなげる」。
 ここにあるものを書くのではなく、三十八億年前からつづいている「もの」を、三十八億年前からつづいている「こと」を、「つなげる」。「いま」を切断し、「三十八億年」と「接続」する。
 「切断」することが「接続」することであり、「接続」することが「切断」することである。この矛盾は、「学校教科書散文」にはおさまりきれない。詩になって、そこに独立して存在するしかない。
 独立して存在すること--それが連帯なのだ。
 という具合に、「要約」してはいけないんだろうなあ。
 私の「要約」ではなく、白井の詩を読んでください。


秘の陸にて
白井 知子
思潮社
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久石ソナ「数センチメートル」再読

2011-12-12 23:59:59 | 現代詩講座
 きょうは久石ソナ「数センチメートル」を読んでみます。「現代詩手帖」2011年11月号の「新人作品欄」に載っている作品です。選者は平田俊子と渡辺玄英で、平田の方が入選に選んでいます。
 まず読んでみましょうか。
 長い作品なので、半分ずつ。

(朗読)

質問 どんなことを感じましたか? 何を感じましたか?
「前半と後半で主語・主体がかわっている」
「人工衛星を皮肉っている」
「おもしろい。想像力がかわっていておもしろい」
「管で生きる人間--という近未来を描いている。数センチメートルというタイトルの意味がわからない」
「わからないことばはない」

 そうですね。私の第一印象はおもしろい、でした。意味がわからないけれどおもしろい。特に前半、人工衛星の部分がおもしろいですね。

質問 このおもしろいを、ほかの言い方で言うと何になりますか?
「舞台が反転する劇を見ている感じ。ここには作者は登場していなくて、作者が舞台を見ているという感じ」
「物語でもない。エッセイでもない。その様式がおもしろい」
「人工衛星について書いているのがおもしろい。未来のことを書いているかな」
「この人工衛星は、人工知能を持っている感じがする。それがおもしろい」

 あ、たくさん「おもしろい」理由が出てきて、ちょっとびっくりします。私は、最初はそんなにたくさん感想が出てこない。
 この作品を選んでいる平田は冒頭の「人工衛星ははやいきいきものでした」を引用して、人工衛星を「はやいいきもの」ととらえたのが新鮮と言っています。
 私が最初に感じたのも、平田の書いているように、新鮮という感じです。
 新鮮、とは、新しい、鮮やかということですね。

 どうして、新しく、鮮やかなのかな?
 平田の言っていることの繰り返しになるけれど、ふつうは人工衛星を「いきもの」とは言わない。久石は人の言わないことを言っているから新鮮で、鮮やか。「人工衛星」は「比喩」ということになるのかもしれないけれど。

質問 では、ふつうは人工衛星をなんと言うのだろう。「いきもの」ではないとしたら、何?
「軌道に乗って、静止している」
「いきものというのは変ですね」
「いきものといっているのもおもしろいけれど、過去形がおもしろい」

 ちょっと、私の質問がわるかったかな?
 「人工衛星」をなんというか、なかなかすぐには思いつかないですね。
 機械。構造物。--「いきもの」ということばにひっぱられて、自分のことばが出てこない。ふつうのことばが出てこない。ふつうは、ひとは人工衛星をなんと呼び変えているのか、ちょっとわからない。
 わかりにくいから、いま出てきたような、返事が返ってきたのだと思うのだけれど--このこと、すぐに「ふつうの言い方」が出てこないということは、詩にとってはとっても大切なことです。
 おもしろい詩、いい詩を読んだとき、これいいなあ、と誰でも思うと思います。
 で、それを、それでは自分のことばで言いなおすとどうなる?
 そう考えたとき、うまくことばが出てこない。そこに書かれていることばにひっぱられて、自分のことばを忘れてしまう。
 西脇順三郎の詩に、宝石箱を覆したような朝という表現があるけれど、そういう表現、そういうことばに触れると、朝の光、朝の印象をほかのことばで言い換えることが一瞬できなくなる。
 詩は、そういう「強いことば」なのだと思います。
 この詩では「いきもの」がそれにあたります。誰もが知っている。だから、疑問におもわない。強いことばだとも思わないかもしれないけれど、強い。
 この詩では「人工衛星」は「いきもの」であるという。その「いきもの」ということばが、簡単だけれど、とても強い。「比喩」なのだけれど、その比喩の意味がわからないくらいに強い。比喩の意味を考える余裕がないくらいに強烈である。

質問 この「いきもの」から、では、何を想像しますか? 「いきもの」を別のことばで言うと、何になりますか? みなさんにとって、「いきもの」とはなんですか?
「自分で呼吸して生きている。まあ、ロボットなんかも生きているかな」
「動物かな。人間によってつくられたものではないもの」
「私も自分で呼吸し、自分で生きているのがいきものだとおもう」

 久石は、どう考えていたんだろう。
 詩を読みながら、そこに書かれていることばたよりに、少しずつ見ていきますね。

人工衛星ははやいいきものでしたが、つねに浮いていて、地球のことをよく考えていました。

 この書き出しから「いきもの」に関係することばを取り上げるとするなら、何がありますか?
「はやい」--動きがはやいものは「生きている」。
「浮いている」--これは、ちょっと、わからないですね。浮いているものが「いきもの」かどうかはわからない。けれど宙に浮いている、飛んでいる、と考えると「鳥」が思い浮かぶ。「鳥」は「いきもの」になりますね。
 それから「考える」--いきものは考える。まあ、そうだと思います。

質問 で、この「考える」と「いきもの」を結びつけると、何か思い浮かべませんか?
「人間は考える葦である」

 そうですね。パスカルだったかな? フランスの哲学者が言っている。
 考えるいきものは人間ですね。
 久石は人工衛星は「考える」と書いている。で、人工衛星が考えるのか、と思うと、人工衛星がなんとなく、人間のように思えてきませんか?

「人工衛星のなかに人がいるのでは? 人工衛星のなかに人がいるということが省かれた状態で書かれているのでは?」

 あ、それはすごい発想だなあ。
 びっくりしました。それで、考える。うーん、私は思いつきませんでした。
 いまの考え方、ゆっくり考えないといけないのかもしれないけれど、どう考えればいいのか、私はちょっと混乱しています。
 で、それは置いておいて(ごめんなさい)、先をつづけて読んでみますね。私の読み方を少し説明させてください。

人工衛星はみずから地球に関わるお仕事をしていて、それは生まれたときから望んでいたお仕事でしたから、外が暗くても働いているのでした。

 この部分を読んで、私はますます人間っぽいなあと感じました。さっきの○○さんの感想につづけていうと、人工衛星のなかにひとがいるということがますますはっきりしてきた、ということになるかもしれなせん。
 なぜ、人間っぽいのか。
 「働く」ということばが人間を思い出させる。それから「外が暗くても、働いている」というのは熱心なお父さんという感じがしますね。仕事熱心なお母さんもいると思うけれど、私は男なので、ついついお父さんを思い浮かべる。自分に引きつける。ことばを理解するとき、人はだれでも自分に引きつけて考える。これは、自然なことだとは思うけれど。私が女性なら、お母さんを思い浮かべるかもしれないけれど。
 ところで。
 私はこの講座で、詩人は大事なことは何度もことばを変えて繰り返すというようなことを言いました。ここでは「いきもの」であることが、別のことばで言いなおされていることになります。
 「いきもの」は名詞。それを「考える」「働く」という動詞で言いなおしている。
 考える、働く--それが「いきもの」である。
 「いきもの」を動詞にすると「生きる」になる。そして、生きるということは、考えること、働くこと。--そういうふうに言えると思います。
 そうすると、それは、とても人間に似ている。人間と共通項がある。
 そのために、人工衛星が「親しい」ものに見えてきますね。

地球からたまに支給されるあたたかい薬を飲んで(そのたびにゴミも増えるから、息がしづらい)、人工衛星はいきています。人工衛星はよわいいきものです。だからこそ、つねに完璧でなければならない。そうやって、生活する。人工衛星だから。

 「人工衛星」を「人間」、あるいはお父さん(お母さんでもいいのだけれど)、ということばに置き換えて読むと、なんだか親近感がわいている。
 からだは弱い。だからときどき薬を飲む。

「ビタミン剤なんかも飲みますね」

 そうですね。ほんとうの薬ではなく、栄養ドリンクなんかも飲む。この栄養ドリンクというのは、ある意味では「ごみ」みたいなものですね。そんなものは飲まないで生活できれば、きっと、もっといい。どんなものでも異物は肝臓に負担がかかりますから、毒(ごみ)と言えるかもしれない。
 でも、しようがなしに、栄養ドリンクをのんでつらい仕事を乗り切る。
 完璧でなければならない、だから栄養ドリンクをのんでがんばる。
 なにか、けなげでしょ? がんばるお父さんっぽいでしょ?

 詩のつづきです。

人工衛星の住む町は重力のない町だから、朝も昼も、時間のすべてを手放してしまって、ずっと夜が繰り返されるのでありました。


「これは宇宙のことかな? 宇宙は暗いから夜」

 そうですね。私も、そう思います。宇宙は暗い。だから夜。夜がずっと繰り返される。 さらにつづきを読みますね。

人工衛星は地球のことを愛しています。友だちと地球について語り合い、それが原因で喧嘩もするけれど、みんないつも笑顔です。このとおり、地球以外のお仕事が増えないように、みんないつも笑顔です。

 これも、人間を想像させますね。人間は、地球のこと--自分が生まれた場所、家庭かな? 家庭を考える。そうして暮らしについて友だちと語り合う。また喧嘩もする。けれども、友だちだから、なんとなく笑顔でいる。
 読めば読むほど、人間に見えてきますね。

「私はブラッドベリの『万華鏡』という小説を思い出しました。影響を受けているんじゃないかな? その小説のなかでは人工衛星の1個に一人が乗っている。交信しながら動いている。でも、だんだん人工衛星が離れていってしまって、ひとりになる。一人乗りの人工衛星。それが自分」
「私はハヤブサのことを思いました。ハヤブサが行方不明になった。そのとき地上の科学者たちは、ハヤブサが帰ってきてくれと祈った。人間を心配するみたいに、祈った。ほら、この詩にも『祈りをささげて』ということばがある。」

 あ、先に言われちゃった。
 さらに、つづき。「祈り」の部分です。

人工衛星は太陽と月に出会うたびに、祈りをささげて、あらゆることがらに感謝します。信仰は心から生まれてくるものだと、人工衛星は知っています。太陽がおもむろに姿をあらわす。

 「感謝」や「祈り」や「信仰」ということばが、やっぱり「人間」を想像させますね。久石は「人工衛星」と書いているけれど、なんとなく「人工衛星」は「人間」の「比喩」なのかもしれないなあ、と思ってしまう。

「人間同士の関係が描かれているのかな。人間っぽいですね」

 そうですね。読めば読むほど、人工衛星なのに、人間に近づいてくる。
 そして、そんなことを考える、感じていたら、突然、ことばが「人工衛星」から離れてしまう。「地球」というか、地上のことが語られはじめる。それが2連目。
 2連目に入る前に、もう一度、2連目だけを読んでみましょうか。

(朗読)

 書き出しです。

ぼくたちはATMでお金を下ろす。

 この1行だけで質問をするのは、ちょっと意地悪なのだけれど、質問します。私は何度もひとは大事なことを繰り返して言いなおす--と言っています。で、ここでも久石は大事なことを言いなおしている、と仮定して読んでみます。仮定して、読んでみてください。
 で、意地悪な質問です。

質問 「ぼくたちはATMでお金を下ろす。」が、「人工衛星ははやいいきものでしたが、つねに浮いていて、地球のことを考えていました。」の言い直しだとしたら、どういうことばを補うと、より「言い直し」であることがわかると思いますか?
「地球からの薬がお金ということかな」
 うーん、私の質問が意地悪すぎるのかな? 1行だけというか、ひとつの文章だけで考えてみてくください。
「いきもの」

 それ、です。「いきもの」。「いきもの」ということばを2連目の書き出しに補うとどうなりますか?

ぼくたちはATMでお金を下ろす「いきもの」です。

 こんなふうになりませんか?
 最初に印象的だった「いきもの」ということばを補うと、「人工衛星」と「ぼくたち」の違いがわかるというか、1連目と2連目の重なり具合がよく見えてきます。重ならない部分も見えてくると思います。
 「いきものです」ということばを補いながら読んでみますね。

満員電車の吊り革は汚いから、なるべくだれも掴んでいなさそうな部分を探り、新聞の文字を順々に掘り起こす「いきものです」。一通り耕して、ぼくたちは相手に会話をあわせ、提供することをつねとする「いきものです」。

 なんとなく、「ぼくたち」を「人工衛星」にすると、そのまま1連目に引き返していく感じがするでしょ? 1連目に書いてあっことが繰り返されている感じがしてくるでしょ?
 「ぼくたち」を「人工衛星」にして、それから「いきものです」を補って、いままでの部分を繰り返してみましょうか? 

「人工衛星」はATMでお金を下ろす「いきもの」です。満員電車の吊り革は汚いから、なるべくだれも掴んでいなさそうな部分を探り、新聞の文字を順々に掘り起こす「いきものです」。一通り耕して、「人工衛星」は相手に会話をあわせ、提供することをつねとする「いきものです」。

 ね、そっくりでしょ? 1連目は、働くとか考えるとか、ちょっと抽象的なことば、一般的なことばで書かれているのでわかりにくいけれど、働くとか考えるとかの動詞をもっと具体的にすると2連目にぐいっと近づく。
 あとも、ちょっと「いきものです」を補って読んでみますね。

感心なんて無粋だから。ぼくたちは与えられた仕事をこなしつつ、相手がみていないところで息をする「いきものです」。吐く。たばこをくわえる「いきものです」。ふかす「いきものです」。

 あとは省略します。
 で、詩のつづき。

夜になっても満員電車。窓に映る自分の顔を見て、不満を抱き、口を開けて寝ているサラリーマンを見る。なにくわぬ顔で電車に降りた瞬間、生ぬるい風がぼくたちの癇癪を芽生えさせた。

 この部分は、1連目の、暗くても働いて、薬・栄養ドリンクをのんでがんばる人工衛星お父さんの姿に重なりませんか? ただ、ぴったり重なるのではなく、ずれながら重なっている。つらくてもがんばる。だらしないかっこうをさらして、がんばりきれていないのだけれど、それが人間の生き方ですね。暮らしですね。「常に完璧でなければならない。」と思っているけれど、まあ、完璧ではない。だらしなく口をあけて居眠りしながら「そうやって生活する」。「そうやって生活する」は1連目のことばです。
 1連目には「重力のない町」が書かれていたけれど、ここでは「重力のある町」が書かれ、「この町に重力がなかったら」と夢見られている。
 「重力」は、まあ、なにかの「比喩」なのかもしれませんね。
 自分ひとりが生きるのではなく、みんなで生きなければならない。家族全員が生きなければならない。重い責任。肩に重くのしかかってくる荷物のようなもの。その重さ、この重さも抽象的なことばだけれど、それをさらに「重力」という抽象的なことばで言っているのかもしれません。
 1連目に書いたことを、裏返して言いなおしていることになると思います。
 1連目で「常に完璧でなければならない」と書かれていたことは、2連目では裏返して、だらしなく口をあけて夜の電車で居眠りするお父さんという具合ですね。

もしも、この町に重力がなかったらぼくたちは、もっとまともな景色が見られたのだと思う。景色がつねにいけないからぼくたちは、管の小さい酸素ボンベをかついでいるのだ。

 ここは、さっき言った「肩の重荷」のことを言いなおしているのだと思います。そういう「重荷」がなかったら、もっとまともな景色が見られたかもしれない。
 この「景色」は、私は、だらしなく口をあけて居眠りしているお父さんなどの姿のことだと思って読みました。
 そのつづき。

家に帰り、食事を済ませ、妻とセックスをしてようやくぼくたちは、いきものなのだと実感する。

 ここの部分、とてもおもしろいですね。
 2連目を読むとき「いきものです」を補って読んできたけれど、ここでは「いきもの」が突然、久石によって書かれている。
 
質問 どうして「いきもの」ということばを、久石はつかったんだろう。想像してみてください。どうしてですか?
「現実感がない。自分自身が何もしない。その自分が突然でてきて、説明している感じ」「人間の本能が、ここで書かれている。人工衛星から人間にもどる。そして本能をいきるということを書きたいのかもしれない」
「重力がある。宇宙だと無重力だけれど、地球には重力がある」

 なんだかむずかしい答えばっかり返ってきました。
 うーん。
 私は、すごく単純に考えました。
 私は、ここで「いきもの」ということばを省略すると、文章にならないから、「いきもの」ということばをつかって文章にした、とだけ考えました。「いきもの」にかわることばがない。それがあれば「いきもの」のかわりにつかうのだろうけれど、みつからない。だから「いきもの」ということばをつかった。
 2連目を読むとき、「いきもの」ということばを補って読んできました。
 そして、それを補っても、文章の「意味」が通じた。あるいは、よりわかりやすくなった。そういう読み方をしました。
 そのとき、私は、久石が2連目の書き出しでは、書かなくてもわかる「いきもの」を省略したのだと思いました。だから、補ったのです。
 もちろん書かなくてもいいと思うのは、久石の個人的な事情ですね。
 これは私の考え方ですが、人間は、だれでも自分がよくわかっていることを省略してしまう。無意識の内に、自分で補って言っている。無意識に補ってしまっているので、書こうという気持ちが起きない。
 でも、そういうことばは、あるとき、どうしてもそれをつかわないと文章として成り立たないときがある。それで、そのことばをつかう。
 こういうことばを私は「キーワード」と呼んでいます。絶対に必要なことば、ですね。特別な「意味」をもったことばです。
 そして、ちょっと話が前後するのだけれど、「いきもの」がキーワードだとわかると、さっき「いきもの」ということばを補いながら読んだことは、実は、間違いではなかったということがわかります。
 久石にとって、「いきもの」ということばは、「思想」なのです。特別な「意味」を持っているのです。
 詩の書き出しの「人工衛星ははやいいきものでしたが、」の「いきもの」のつかい方が、ふうつの「いきもの」、私たちが「いきもの」ということばであらわすものと違っていますね。そこに独特の久石の思い、彼独自の「思想」があるのです。
 「いきもの」ということばが「思想」というのは、わかりにくいかもしれませんね。
 でも、わかりにくいのが「思想」です。
 「いきもの」ということばが、ありきたりというか、だれでもが知っているからこそ、わかりにくいのかもなれない。久石が「いきもの」ということばにどういう「意味」をこめているか考えるより前に、自分の知っている「いきもの」ということばをあてはめて考えてしまいますからね。

 そのひとがほんとうに大切に考えつづけたことというのは、そのひとは独自のものだから、どうしたってわかりにくいのです。そして、それは、わからなくたっていいのです。何を言いたいか正確にはわからない。これはきっと久石にもわからない。だれにでもわかることばで書こうとすると書けない--それが「思想」です。
 「いきもの」と「思想」については、あとでまた考えます。
 最後を読みます。

それでも必要なのは睡眠とお金。熟れる。いつの間にか来ている朝を飲み込み、ぼくたちはATMで金を下ろす。電車がホームに参ります。

 これなんでしょうねえ。人間は「いきもの」です。それも「睡眠とお金」が必要な「いきもの」です。「いつの間にか来ている朝を飲み込み、ぼくたちはATMで金を下ろすいきものです。」と、ただ繰り返しているのだと思います。
 特に何かが書かれているわけではなく、詩を終わるために書いているのだと思います。
(休憩--の前に、こんな話もしました。「キーワード」についてです。)
 谷川俊太郎の「女に」という詩集を読んだときのことです。ことばは簡単で、一篇一篇は短い。人間が生まれ、だれかに出会い、愛を育てる--そういうことがテーマとして書かれている。
「だれにでも書けるのでは、という印象がする詩集ですね」
 そうですね。
 で、その詩集に、一回だけ「少しずつ」ということばが出てくる。それを読んだとき、私は、あ、谷川はこの詩集では「少しずつ」とういことばがキーワードなのだと思いました。一回しかつかわれていないけれど、それはほんとうはつかいたくなかった一回。つかわないと、どうしても文章の意味が通らないからつかった。けれど、よく読んでみると、その「少しずつ」はあらゆる行間に書かれている。ある行と別の行の間に「少しずつ」を補うと、谷川の書いていることがとってもよくわかる。人間は、生まれてきて、誰かに出会い、愛を育てる。それは「少しずつ」の積み重ね。「少しずつ」が積みかさなって、大きな愛になる。「少しずつ」が愛にとっては大切なんですよ、という思想がそこにこめられていると私は感じました。

休憩が終わって……)

 さて、「いきもの」と「思想」の関係だけれど……。
 ここからは現代詩というよりも、哲学の講座になるかもしれない。「思想」について考えるので、ちょっとめんどうくさいかもしれないけれど、つきあってくださいね。

質問 この詩のなかで、「いきもの」以外に、なにか自分のことばのつかい方と違うなあ、あれ、これはどういう「意味」だろうと思ったところはありませんか?
「熟れる、がわからない。私はこういうとき、熟れるとは言わない。リセットのことかなあ、と思った。熟れて、リセットして、朝が来る」
「景色がつねにいけないから、という行が変。景色のつかいかたが私とは違う」
「人工衛星が人工衛星ではないみたい」

 あ、「熟れる」は私も変だと思ったけれど、これは「わからない」。つまずく、という感じとは、私の場合、少し違う。
 ことばの「意味」はわかるのだけれど、えっ、こういうとき、こういうことばをつかうのか、というのとは少し違います。
 私の体験を話します。
 私は「つねに」ということばにつまずきました。
 1行目。人工衛星は「つねに」浮いていて、
 10行目。「つねに」完璧でなければならない。
 これは、まあ、ふつうに読めるのだけれど、--でも、なくてもいいでしょ?
 空に浮いていない「人工衛星」なんて、ないですよね。そうすると、ここの「つねに」は余分ですね。もしここにことばが必要なら、上空高く浮いていて、とか、宇宙に浮いていてという具合に、場所をさすことばを書くと思います。でも久石は場所を書かずに「つねに」という「時間」をあらわすことばをつかっている。
 人工衛星が「つねに」完璧をめざすというのも、あたりまえですね。故障したら人工衛星の役目を果たさない。
 どっちも、なくてもいい「つねに」ですね。
 でも、久石は「つねに」と書きたい。書いてしまう。書かないと、何か書き洩らした感じがする。もっともこれは、ほとんど無意識のことだと思うけれど。無意識だから、私は「思想」と呼ぶのだけれど。
 で、この「つねに」が 2連目へいくと。
 5行目。会話を合わせ、提供することを「つね」とする。これは、いつもそうするということだと思うけれど、ちょっと気取っていますね。私は日常会話では、……をつねとする、とは言わない。
 現代詩講座で話しているとき、ミネラルウォーターを飲むことを「つねとする」とは言わない。「いつも」ミネラルウォーターを飲む、といいます。
 それから、終わりから8行目。風景が「つねに」いけないから。これも変ですね。もしいうなら、風景が「いつ」見てもいけないから(気持ちよくないから?)、という感じかなあ。
 「いきもの」も「つね」も、私たちがよく知っていることばなので、「意味」がわかったつもりになる。でも、久石がどういう「意味」でそれをつかっているのか、ということを考えはじめると、なにか違う。
 「ずれ」を感じる。
 こういうことばに、私は、そのひとの「思想」--そのひと独自に考えていることが含まれていると思います。河邉由紀恵の「桃の湯」の「ざらっ」とか「ねっとり」とかもそうですね。わかるつもりだけれど、自分が感じたことがほんとうに河邉の感じていること、そのことばにこめた意味であるかどうかははっきりしない。
 しかし、はっきりしないからといって、別に困りはしないんですね。
 あ、そうか、ここで河邉は「ざらっ」とか「ねっとり」とかつかうんだと思うだけで十分ですね。
 この久石の詩でも、そうか、久石は人工衛星を「いきもの」とみているのか。「つね」ということばを、私とはちょっと違う感じでつかうのか、と感じるだけでいい。何も困らない。
 困らないのだけれど、この自分とは違うんだなあということを、もう少し追い詰めていくと、もう少し、その人に近づいて行ける気がする。このひとは人工衛星を「いきもの」と呼ぶ変な人--で終わらせずに、もう少し幅を広げて、ふーん、そういうひとはそれじゃあ、ほかにどんなことを考えているんだろう。そう思ってみる。

 では。

質問 この詩のなかで「つねに」に通じることば、同じようなことばはほかにありませんか?
「いつも」
「ずっと」
「いきて」
「かわらず」

 「いつも」。そうですね。私も、さっき私ならこういうとき「つねに」ではなつ「いつも」ということばをつかうといったけれど、久石も「いつも」をつかっていますね。
 でも、もうひとつ、がんばって探してみてください。

 「繰り返す」は、どうですか?

 「繰り返す」から「つねに」になるんですね。人工衛星は「繰り返し」浮いている。
 ちょっと変だけれど、まあ、そういうことですね。繰り返し繰り返し、同じ場所へとまわってやってくる。それが人工衛星。
 また、「いつも」ということばもありますね。みんな「いつも」笑顔です。
 「つね」には、「いつも」ですね。「いつも」「繰り返す」--そうすると、それが「つねに」になる。
 さらに「ずっと」ということばもある。「ずっと夜に似た空が繰り返される」。「ずっと」「繰り返す」は「いつも」「繰り返す」「つねに」「繰り返す」。

 で、ここからちょっと飛躍したことを言いますが、「いきもの」というのは、久石の考え方では、「いつも、ずっと、つねに」何かを「繰り返す」ものなんですね。考える、働く、愛する、語り合う、仕事に行く、仕事で疲れる、仕事から帰る、食事をする、セックスする――どの行為も、繰り返す。そうして、その繰り返しのなか、「つね」になった行為から、「そのひと」が浮かび上がる。
 久石は、何かをいつも、ずっと、繰り返し、その繰り返していることを「つねに」にする。それが「人間」である、と言っているのだと思います。そう思ってけいるのが(そういう思想をもっているのが)久石ということになると思います。

 話は少し脱線するのだけれど。
 この講座のテーマは、詩は気障な嘘つき。で、このテーマにそって、今回の詩を読み直してみると。
 まず「人工衛星はいきものである」というのは、嘘ですね。正しい表現ではない。そして、その嘘をつきつづけていると、どうなるか。その嘘から「人間」が見えてきて、最後には、久石の思想まで見えてきてしまった。これは、私たちの「誤読・誤解」かもしれないけれど、そこに「ほんとうの久石」を見てしまった。
 嘘はつきつづけることができなくて、どうしてもほんとうのことを書いてしまう。ほんとうの書かずにはいられない。その「ほんとう」のことが出てくるまで、ことばを動かすと、それが詩になる、と私は思っています。

 で。
 最後に、ちょっと復習。(何種類かの色の筆記具をつかっ書き込みのあるコピーを配布。私が詩を読むときにつかったもの。ただし、会場で配布するために色分けしたので、ふつうは単に鉛筆あれこれ書き込むだけ。--ネットでは、色分けマーキングのテキストは省略)
 人は誰でも、大事なことは繰り返す。繰り返して言い直す、と何度も言いましたが、その視点から、この詩を読みなおしてみます。
 1連目と2連目は対になっています。1連目は宇宙というか、人工衛星を主役にしてことばが動いている。2連目は地球、地上の人間の側でことばが動いています。
 で、ここからは、選者の渡辺玄英批判になるので、軽く触れるだけにしますが。
 渡辺は、この作品について「前半の人工衛星はいいんですが、後半のATMではじまる部分にうまく結びついていない」と言っている。これは、渡辺が1連目と2連目の対応に気がつかなかった、読み落としているのです。
 2連目の最初に「いきもの」を補って読む読み方は、さっきやったので省略します。
 対の部分だけ指摘します。色分けし、書き込みのあるところを見てください。
 人工衛星は「外が暗くても、働いている」。勤勉ですね。それに対し人間は、「相手の見ていないところで息をする」。手抜き、ずぼら、ですね。
 また、人工衛星はつねに完璧を目指す。一方人間は「不満を抱き、口を開けて寝ているサラリーマン」という具合に、だらしないですね。
 さらに、人工衛星は「太陽と月に出会うたびに、祈りをささげ、感謝する」。人間は「まともの風景が見られない」(口を開けて寝ているサラリーマンと出会う)ので、癇癪を起しそうになる。不満たらたら、ですね。
 詩の枠構造としても、人工衛星の部分の最終行は「太陽がおもむろに姿を現す。」朝ですね。人間の方も「朝を飲み込み、」と朝が出てくる。最後の「電車がホームに参ります」は朝の通勤電車ですね。
 久石は、すごく丁寧に、対を作り上げています。これを読み落とすと、この詩は分からない。

 こんどこそ、ほんとうに、最後に。
 タイトルの「数センチメートル」。これはなんでしょうか。最初にタイトルがわからないという話が出たのだけれど、なんだと感じますか?

 どう思いました?
「重力のあるところと、ないところの差」
「働きかたのちょっとした違い。ずれ」
「重なるけれど、ずれている」

 私も、差とか、ずれを思い浮かべました。距離、でもいいかなぁ。
 人工衛星は宇宙に浮かんでいる。人間は地上に暮らしている。実際にその距離を測ると、とても離れていますね。何キロ離れているのか、正確に言えなくてごめんなさい。でも、その「動き」というか、それが活動していること、やっていることを比較すると、そんなに違いや差はないんじゃないかな?
 人工衛星も人間も働いている。考えている。
 その差を測る単位がないのだけれど、センチメートルで測ると「数センチメートル」くらいかな? 久石は、そう考えたんだろうなあ、と私は勝手に読みました。

 このあと、突然、座談(雑談)。
「でも、このちょっとした違いがたいへんなんだよね」
「夫婦喧嘩なんか、みんなそれだもんね」
「他人のことだったら、少しの違いはほっておけるのだけれど、いっしょに暮らしていると、ちょっとした違いに頭に来て、こじれてしまう」
「他人からみたらほんとうに小さなことないんだけれど、いったん喧嘩すると、ずれが数センチメートルではなくなってしまう。どんうど広がって、とりかえしがつかない」
 人工衛星ではじまる詩が、突然夫婦喧嘩になってしまったのだけれど、これはとってもおもしろい。受講生みんなが、久石の書いていることばを、そこにある「詩」として読んだだけではなく、自分の「肉体」のなかに取り込んで、実際に動かしてみた--ということになる。
 人工衛星で書きはじめた詩が、夫婦喧嘩の「解説(?)」につかわれるなんて、久石は想像もしなかったと思うけれど、(私も想像もしなかったけれど)、詩にしろ、ほかの文学にしろ、それをどう読むか(どう利用するか)は、作者ではなく、読者の権利。
 そういうところへまで、この「現代詩講座」は動いてきてしまった。
 なんだか、感激してしまった。
 「正解」ではなく、そこにあることばを、自分はどうつかうか、どう読むか。それを一人一人が勝手に言える。これは、とても楽しい。




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現代詩手帖 2011年 11月号 [雑誌]
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白井知子『地に宿る』(2)

2011-12-11 23:59:59 | 詩集
白井知子『地に宿る』(2)(思潮社、2011年11月30日発行)

 白井のことばの強さ。それは感情ではなく「もの」を書くからである。論理ではなく「もの」を書く。書くことで白井は「もの」になる。人間が「もの」になる、とは、「ことば」になるということでもある。自律することば。
 --これは、きのう、詩集の余白に書いたメモである。
 つづきを書こうとしてみたが、きのう考えたことときょう考えることは、どうも一致してくれない。
 で、違うことを書く。

 白井のことばの強さ。それは感情ではなく「もの」を書くからである。この「もの」というのは、白井でありながら白井をこえる「いのち」のことである。それは「ひとり」の「いのち」ではない。「ひとつ」の「いのち」でもない。私が生きる「いのち」は一回限りのものだが、白井のことばが生きる「いのち」は一回限りではない。「ひとり」や「ひとつ」のものを超えている。その、私にはつかみきれない「いのち」のことばが、「もの」として感じられるということである。
 どの詩を取り上げてもいいのだけれど、きのう巻頭の詩を読んだので、きょうは最後の詩を取り上げてみる。

耳もとをくすぐる鳥獣の声
祖母フミの夜話のならいだ
ありったけの声色で
古い支那の珍獣動物園の話からはじまるのだった

--麒麟や天馬 龍がいるのだよ
  本物を見たいものだ ほれぼれするだろうねえ
  角は鹿 頭は駱駝 目は鬼 項は蛇
  腹は蜃 鱗は魚 爪は鷹
  掌は虎 耳は牛に似ている
  変幻自在の聖獣さま

うっとり繰りかえしては
わたしの心臓をとんとん叩く

--おまえのお腹の真ん中で冬眠している獣たち
  もう起きたかい まだ眠ったままかい
  よくお聞き おまえの躰は
  おまえだけのものじゃない
  春がぞっくり寒いのは
  目を覚ました獣が
  美味しそうなおまえの臓腑をひきちぎっていくからなのさ
  一匹の口は ぎっしり眠るもっと小さな
  獣たちの口につながっている
  ぬくまりにきた獣を粗末にしてはならない
  ようやくたどり着いたものばかり

 「ぞっくり寒い」「ぬくまりにきた」は、きのう読んだ「九歳の鎖骨」の、

--ぞっくりと寒くなっちまってね
  傷口が攣れる おまえのどこでもいいから被せておくれ

 を思い出させる。それは、たしかにつながっている。
 そして、「美味しそうなおまえの臓腑をひきちぎっていくからなのさ」は、

軍鶏の腐りだした贓物が透けてくる

 と響きあっている。
 これは、祖母の語る「龍」、あるいは「獣たち」を、祖母は単に「ことば」として語るのではなく、祖母自身の「肉体」として語るということに他ならない。語ることで祖母は「獣たち」の「肉体」になる。つまり老女の「肉体」を超えて、超越的な「肉体」を生きる。それが傷ついて死にかけた「軍鶏」であろうと、老女ではないということで超越的であり、特権的である。
 この「超越」、あるいは「特権」が「もの」である。存在の「力」である。そこを通ることで、人間は人間になるのだ。その「超越」「特権」を通り抜けないと「いのち」は存在しないのである。

 「おまえの躰は/おまえだけのものじゃない」。それは、目覚めてくる獣たちが内臓を食べるためにある--というのは、獣たちに内臓を食べられることで、白井の「肉」は「獣たち」の「肉体」になるということである。
 白井の内臓を食べる「獣たち」は「獣たち」であって、「獣たち」ではない。それは「白井」そのものであり、また「祖母」でもある。
 すべての口(食べるという行為)は、あらゆる「いのち」につながっている。
 このことを、祖母は「学校教科書」のように「正しく」は語らない。矛盾と、恐怖と、その恐怖の愉悦として語る。
 「美味しそうなおまえの臓腑をひきちぎっていくからなのさ」。この1行のなかの、「美味しそうな」ということばの矛盾。美味しくなければ、白井は食べられることはない。美味しいから食べられる。それは白井にとっては死を意味するから「正しい」ことではない。けれど、そこに不思議な愉悦がある。「美味しい」という愉悦が、白井の死、あるいは恐怖を超えて、すばらしいものとして輝く。
 この輝きも、また、「もの」である。

 そして、この「もの」は、実は「もの」ではない。「ことば」だ。「ことば」だけがとらえうる「形」である。ことばの運動が「形」をそこに出現させる。--あ、これは正しい書き方ではないなあ。
 「形」といっても、それは、見えないというか、とどまっていないからだ。動いているからだ。常に変化し、変化することで、「ひとつ」であるからだ。

 何のことかわからない?
 きっと、この文章を読んでいるひとには、何のことかわからない。
 それは、私自身が、よくわからないということでもある。
 書きたいことがある。--けれど、それは「ことば」になってくれない。ことばにしてしまうと、どうも違ったものになってしまう。

 白井は、詩のことばをとおして、白井以外の何かとつながる。たとえば祖母とつながる。祖母の語る「ことば」とつながる。そうして、白井ではなくなってしまう。白井でなく、では何になるかといえば、祖母の語る「獣たち」になる。「獣たち」になって、白井の内臓を引きちぎって「美味しい」と味わうときに、「獣たち」でありながら「祖母」にもなる。「美味しい」と教えてくれたのは「獣たち」ではなく、「祖母」なのだから。

 「もの」と私が書いてきたものは、この矛盾した「接続と断絶」の運動かもしれない。この運動は、「土地」も超越するし、「時間」も超越する。
 「神話」になる、と言い換えることができるかもしれない。
 「神話」は「いのち」が「いのち」になるために見る夢である。そこをくぐることで「いのち」と「ことば」は人間になる。
 白井は、そうして、いろいろな土地の「人間」と出会い、ことばと出会い、そのなかで「白井」という枠を脱ぎ捨て、「神話のいのち」にもどっていく。
 ここには「往復」がある。「往復」するたびに、何かが強くなる。往復が、ことばと「肉体」を鍛え、白井を白井以上の「いのち」にする。「往復」することで、白井は「いのち」に「なる」。
 --こんなことは、抽象的にことばを重ねてみても、しようがない。
 詩に戻る。
 ポーランド国境近くのソルブ人の、昔話、即興話を白井は聞き取っている。

--冬がおわりをつげるころ
  鳥が巣をつくって卵をうむだろう
  三十八億歳の星屑ってとこかい
  鳥に餌をやらないと おまえたちのお腹を啄ばみにくる
  食べ物をやりさえすれば
  <鳥の結婚式>に招いてくれる

 「九歳の鎖骨」の「三十八億年」は「三十八億歳」になっている。おなじことだ。「鳥に餌をやらないと おまえたちのお腹を啄ばみにくる」--これも、すでに見てきたことである。
 知らないひとに出会い、知らないことばを聞くたびに、同じことが繰り返される。
 ひとは、もしかすると自分の知らないことは繰り返すことができないのかもしれない。自分が知っていること、三十八億年間繰り返してきたことを、いまは、人間の形をして(白井の形をして)思い出し、それを再び覚えるだけなのかもしれない。
 「肉体」で覚え、覚えたことを「ことば」にする。またいつか、そのことばを繰り返し、「肉体」にもどるために。

 白井のことばを読んでいると、なんだか酔ってしまったように、同じことばを繰り返してしまう。--とても強い詩集なのだ。この詩集は。






あやうい微笑
白井 知子
思潮社
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白井知子『地に宿る』

2011-12-10 23:59:59 | 詩集
白井知子『地に宿る』(思潮社、2011年11月30日発行)

 白井知子『地に宿る』の詩は、どの作品も1行1行のことばが強い。
 「九歳の鎖骨」は祖母の思い出と、祖母が夢にやってきたときのことを書いているのだが、あれこれの説明を省略して「事実」だけを書いている。「説明」というのは「事実」ではなく、「頭」でつくりあげる関係なのかもしれない。

九歳の冬
春のような陽気にさそわれ
脚のわるい祖母といっしょに内緒で多摩川べりまで行った
鉄橋のたもとで電車を何台も見おくった
祖母の目が潤んでいた
とうとう誰にも言えなかった
夏も終わるころ 祖母は亡くなり
わたしのもとへやってきた
--ぞっくりと寒くなっちまってね
  傷口が攣れる おまえのどこでもいいから被せておくれ
祖母は軍鶏の目で睨めつけてくる
きしむ鶏小屋の隅
しゃがんでいるわたしを動けなくする
--さあ 羽繕いをしておくれな
--だって 白髪抜いたら 頭つるつるになっちゃうよ
嘴でいきなり鎖骨のあたりを突つく
軍鶏の腐りだした贓物が透けてくる
蹴爪があっても まだ人間の老いた脚だ

 祖母は軍鶏に似ていたのかもしれない。目もそうだが、全体の印象--あちこち闘いの傷跡があって、羽がそろっていない。それで、寒さが身に沁みる。でも、寒くても、身繕いしないと、いっそう寒々しい。「寒いから、おまえのからだを被せるようにして、わたしを温めてくれ」ということと、「外見がぼろぼろだと寒々しいから、みっともなくないように身繕い(?)してくれ」というのは、人間ではなく軍鶏の場合、とっても矛盾している。「白髪抜いたら 頭がつるつるになっちゃうよ」。
 なんだか、矛盾しているからこそ、そこに祖母がしっかりと見えてくる。軍鶏と祖母のあいだを往復しながら、祖母は祖母になる。
 それにしても……。(こういう日本語でいいのかな?)

軍鶏の腐りだした贓物が透けてくる

 この1行はすごい。
 人間のからだでも、死が近づくと、そしてその死が内臓の病気が原因であるときは、皮膚がだんだん透明になってゆき、内臓の病巣が見えるような錯覚に陥るときがある。軍鶏の場合は、「透ける」というより傷口から覗いて見えるということかもしれない。だから、これは正確な(?)ことばの運動ではないのかもしれないけれど、「間違い」を超えた「真実」が強い光を発している。その強い眩しさに、目がくらみ、真っ暗の目で見る何かのように、網膜に張りついて離れない。
 九歳なのに、祖母の死と、そのときの気持ちを白井は知ってしまったのだ。いや、知るというより、肉体でつかみとってしまったと言うべきか。
 肉体でつかみとったこと、肉体で覚えたことは忘れることができない。それは、いつでもよみがえってくる。祖母と軍鶏はいつもいっしょになって白井の肉体のなかによみがってくる。

かわいがっていた軍鶏の胴体や頭を少しずつもらって継ぎはいで
三十八億年かけてきた道を
脚をひきずりながら還っていく
日暮れていく庭
小屋の網目ごと
黄色い風のなかへ閉じこめられてしまう

 祖母は、祖母の人生を生きているだけなのではない。白井は祖母と軍鶏を「比喩」として結びつけているのではない。軍鶏は「比喩」ではなく、「事実」なのだ。三十八億年かけて、軍鶏は軍鶏になり、祖母は祖母になった。それは三十八億年前は「ひとつ」の「いのち」だった。祖母と軍鶏が「ひとつのいのち」なら、その血をひいている白井は、祖母であり、同時に軍鶏である。
 だから祖母を思い出すとき、白井は軍鶏になり、網目のある小屋にとじこめられる。

 この祖母に、そしてこの軍鶏に、白井は、記憶のなかだけで出会うわけではない。
 詩は、つづいてゆく。

半世紀ちかくたち
わたしはアジアや東欧で
祖母とおぼしき老女に出あうことになった
考えてみれば 五十年など三十八億年に比べれば一瞬

インド亜大陸
コルカタから二百キロ北にあるサンティニケタン
褐色の肌をした原住民
少数民族サンタル人の村は
牛糞が家や塀に塗りつけられていて
どこか懐かしい
翠のサリー 千年二千年も過去のような風景の祠にもたれ
はるか彼方を見つめる老婆になりすまし
ちらり ちらり こちらを盗み見ているのがわかった
あのポーズは祖母の癖だ

 三十八億年かけて「ひとつのいのち」は祖母と軍鶏なった。それが「事実」なら、その「ひとつのいのち」は日本ではなくたとえばアジアや東欧でもまた別の「老女」になっている--というのは、当然のことがらである。祖母が死んでから五十年たったとしても、その五十年という時間の長さのなかでは何も起きない。たとえ起きていても38億分の50である。そんな「小さな」ものは見えない。見えないから、「ない」のと同じである。
 日本とサンティニケタンはどれくらい離れているか私は知らないが、祖母と軍鶏とのあいだにある「ひろがり」に比べたら、ぐんと小さいはずである。だから、そこに祖母がいたって何の不思議もない。
 三十八億年かけて、祖母は日本では白井の祖母になり、ここではだれかの祖母になっている。そのだれかの祖母は、「ひとつのいのち」まで遡って、さらに「いま」にもどってきていえば、白井の祖母でもある。祖母に似た「親類」である。「あのポーズは祖母の癖だ」と白井は書いているが、ほんとうは、「あのポーズは祖母だ」である。

中央アジアへ移って
ウズベキスタンのソグディアナの地 サマルカンド
強風と寒さのため ナンを売る女性たちが
せっせと足踏みをしていた
その年初めての雪の降りしきるバザール
なかの一人が振りかえりざま
九歳の鎖骨に疼いた
目許から 祖母の温かなかなしみ
すでに彫りつける余地もないほど皺くちゃになった小さな顔が
崩れないように
花柄のスカーフにくるまれていた
言いなりの値で残りのナン三枚も買わされた

目をつぶれば
ハンガリー プタペスト東駅
派手な笑い声を散らかしほうだい
女性ばかりで移動しているロマにちがいない一群がいた
そこにも瘤のような蹴爪が生えかけていた老女がいたっけ



秘の陸にて
白井 知子
思潮社
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清水哲男「ブルウス」

2011-12-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
清水哲男「ブルウス」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 清水哲男「ブルウス」(初出「びーぐる」10、11年01月)読みながら、あ、清水哲男はほんとうに巧い詩人だなあとあらためて思った。

夜が来る
河川敷の野球場を眺めながら
俺はバナナを食っている
わずかな水をくねらせて
高架電車が過剰な灯りを撒いて過ぎる

夜が来る
一度も喚声の上がったことのない球場に
俺の生活と同じ歳月だけは過ぎていった
罠のようだった雑草はみな枯れ果てて
バナナの皮だけが生き生きとしている

夜が来る
バナナのような女の脚が生活の音を立てて
視界をよぎる
なんてことは二度と起こらないだろう
わずかな水に俺の影が影を曳いている

夜が来る
風が俺の生活を外野のあたりに吹き散らし
バナナのようににちゃにちゃした記憶を
よみがえらせる
生活の泡が俺のコートの裾にまとわりつく

夜が来た
ようやく土手から立ち上がるとき
しかしそんな生活の歴史はバナナとともに
ちっぽけなくだらねえ神の手に落ちてしまう。

 「一度も喚声の上がったことのない球場」や「風が俺の生活を外野のあたりに吹き散らし」といった泣かせことば(さび)が抒情をくすぐり、めざめさせる。「生活」ということばをしっかり折り込み、「過ぎる」「枯れ果てる」「二度と起こらない」という「時間」を過去へ押しやりながら、意識を過去へ向けさせる(過去を意識のなかによみがえらせる)手法のことではない。
 それは、たしかに巧い。しかし、それは定石だ。
 驚くのは「バナナ」である。その不思議な効果である。
 ためしに「バナナ」をとりのぞいてみるとわかる。(当然、前後は多少は変化するが。)たとえば1、2連目。

夜が来る
河川敷の野球場を眺めている
わずかな水をくねらせて
高架電車が過剰な灯りを撒いて過ぎる

夜が来る
一度も喚声の上がったことのない球場に
俺の生活と同じ歳月だけは過ぎていった
罠のようだった雑草はみな枯れ果てる

 俺(清水)が見つめている風景は変化しない。そして、「バナナ」がないと、その風景は「純粋すぎる」。つくりものになる。ほんとうにその情景を見なくても書ける風景になる。
 ところが、ここに清水は「俺はバナナを食っている」という1行をもぐりこませる。その瞬間、頭で書ける風景が、頭では書けなくなる。
 バナナがかけ離れすぎている。
 これがレモンなら、頭でも書ける。レモンは抒情詩にたくさん書かれてきた。たくさん書かれていないかもしれないけれど、ありそうな気がする。梶井基次郎の「檸檬」や高村光太郎の詩でレモンは透明な精神(感性)の象徴になってしまった。だから、だれでも美しい何事かを書こうとすると、そこにレモンを持ってくる。レモンは抒情詩の「流通比喩」なのである。
 だから、清水は、そのレモンを遠ざける。そして、バナナを持ってくる。

 バナナ。バナナかあ。抒情的じゃないねえ。どうしてかわからないけれど、私は、そう思う。「バナナのようににちゃにちゃした」という表現が詩のなかに出てくるが、「にちゃにちゃした」ものは抒情じゃないね。
 昔は(私が子どもの頃は、という意味だが)、バナナは高級品だった。いまは、まったく違う。だれでもが、いつでも食べられる。それで抒情的ではなくなったのか。しかし、レモンだって、いまはだれもが食べるからなあ。色だって、レモンもバナナも黄色いのに、なぜだろう。
 まあ、簡単に言えば、だれもバナナをつかって抒情詩を書いて来なかったということにつきると思うのだけれど……。
 つまり、抒情というのは、だれかが書いたことを踏まえて書くものなのだということにつきるのだが……。(言い換えると、「古今」「新古今」の技法が抒情だね。)

 あ、書こうとしていることが、少しずつずれていく。

 清水が巧いのは、抒情の「定型」を崩しながら抒情を書くというところにある。
 過ぎ去る青春(過去)を悲しみでいろどりながらみつめる。ことばにする。その「定型」を守りながら(守ることで読者を安心させながら)、そこに「違和」を持ち込む。そうすることで「定型」が「定型」であることを忘れさせる。
 かつては「くだらねえ」というような乱暴な口語が「定型」を破るノイズとしてつかわれた。
 清水は、そのノイズをさらに「暮らし」の方へぐいと引き寄せる。バナナ、によって。バナナは、いまはもうだれの「暮らし」にもある。バナナを知らない「暮らし」があるとしたら、それは超高級の暮らしである。
 よくわからないけれど、たとえば天皇一家がバナナの皮を剥きながらバナナにくらいつくとか、エリザベス女王が皇太子や孫に、「ほら」といってバナナを渡して「はい、おやつ」というような「暮らし」は私には想像できない。
 バナナは、ものすごく庶民的なのだ。ありきたりすぎるくらい庶民的なのだ。「暮らし」そのものなのだ。「肉体」になりきってしまっている。
 この「肉体」としての「暮らし」のあらわし方(持ってきて、動かす方法)が、清水のいちばんいいところだと私は思う。巧いところだと思う。

 清水は、バナナの庶民の暮らしの力(肉体になっている力)で、抒情を、ごしごし洗っている。
 「ブルウス」は、ある意味では、いつもの清水節(清水的抒情)なのだが、バナナによって、とっても新鮮になっている。野球場も外野も電車も水も忘れてしまっても、きっと、あ、あのバナナを食いながら何かを見る詩、バナナの詩だね、と思い出す--そういう詩である。
 清水は、バナナを書いた最初の詩人として詩の歴史に記録されるだろうと思う。






夕陽に赤い帆―清水哲男詩集
清水 哲男
思潮社
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八柳李花ー谷内修三往復詩(9)

2011-12-09 00:48:29 | 
くちびるの動きを模写しようと   谷内修三


男が射精するとき思い出すのは腋毛の古くさい倦怠である
シーツに残る汗の不機嫌なにおいが見る前の夢にまでしみ込んできて
内耳の階段を落ちていく掠れた声のかけらを集める
遅れるようにあふれてくるのはおまえのなまぬるい口臭という郷愁

シーツに残る汗の不機嫌なにおいが見る前の夢にまでしみ込んできて
部屋の隅ではコップのなかで水が蛇のように腹を白く輝かせて反転する
遅れるようにあふれてくるのはおまえのなまぬるい口臭という郷愁
くちびるの動きを模写しようと指はさまよい あてどなく

部屋の隅ではコップのなかで水が蛇のように腹を白く輝かせて反転する
いまここにないものを数え直す伏せ字の花よりも
くちびるの動きを模写しようと指はさまよい あてどなく
最後のことばを確かめるように肛門の形をなめてみる舌は

いまここにないものを数え直す伏せ字の花よりも
男が射精するとき思い出すのはふと腋毛の古くさい倦怠である
最後のことばを確かめるように肛門の形をなめてみる舌は
内耳の階段を落ちていく掠れた声のかけらを集める


                          (2011年12月09日)
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