詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三角みず紀「寝室にて。」

2011-12-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
三角みず紀「寝室にて。」(「現代詩手帖」2011年12月号)


 三角みず紀「寝室にて。」(初出「生命の回廊」2、10年11月)には、わからないところがある。わからないところだらけである。

あたらしくなりました
そう
宣告された

おまえの
てのひらがすきだ
おまえの
異様におおきな
その、てのひらが
すきだ

あたらしくなりました
そう、宣告された
あたらしくなりました。
余計に
もう何百年もゆるやかにながれているようだ

おまえの
てのひらが
異様におおきくなくたって
わたしはおまえが
すきだ

二月末に
はじめて起床する
はじめて目をひらく
はじめて、
みた夢をわすれて

隣で
寝息をたてる
おまえだけは
いつもなつかしい
寝息をたてている

 ふつう、ひとはことばを繰り返す。言ったこと(書いたこと)が不十分だと感じ、言いおおす。反復。反復といっても、そっくりそのままではないから、ずれる。そして、そのずれのなかに、あ、そうか、ほんとうはこういうことが言いたかったのかということがあらわれてくる。言う方(書く方)もまた、そうなのだと思う。ことばを発することで、何かを発見する。まだことばになっていない何かを発見する。そのために、書く。
 私は、そういうことを考えながら読むのだが……。
 この「寝室にて。」の場合、よくわからないのだ。
 2連目「おまえ」が出てくる。「おまえ」がいるということは「わたし」もいるだろう、と思う。「わたしは」おまえのてのひらがすきだ、と言っている。そのてのひらは「異様におおきな」てのひらである。
 これが4連目にいくと「わたし」が明記される。これは、2連目の「おまえの/てのひらがすきだ」だけでは、「わたし」という「主語」があいまいだから、言いなおしているのである。2連目では「おまえ」が「主語」であった。「すきだ」ということばがあるから「わたし」という主語があるという見方もあるだろうが、ことばになっていないものは、存在はしない。無意識には存在しても、意識においては存在していないから主語ではない。2連目では、あくまで「おまえ」が主語であり、「おまえのてのひら」が主語である。「主役」と言い換えた方が、たぶん、私の言っていることがわかりやすいかもしれない。
 ところが4連目では「主役(主語)」は「おまえ」ではなく「わたし」になっている。三角は、ここで「主役」が「わたし」であることを告げている。「わたし」がおまえがすきなのだ。てのひらではなく、おまえがすきである。だからこそ、「てのひらが/異様におおきくなくたって」ということばが書かれる。2連目の「異様におおきな/その、てのひら」がここでは平然と否定されている。
 ね。わからないでしょ? おまえのてのひらは「異様におおきい」「異様におおきくない」。どっち?
 どっちであるかを超越して、「わたし」はおまえがすき。
 それから5連目。
 「主語」(主役)は「わたし」? それとも「おまえ」?
 「はじめて起床する」「はじめて目をひらく」の主語は「おまえ」であっても、文章として成り立つ。でも、「はじめて、みた夢をわすれて」は主語を「わたし」にした方がとおりがいいかもしれない。「おまえ」が「みた夢をわすれ」たかどうかは、聞かないとわからない。「わたし」が一方的に判断できない。(断定できない)。でも、もし、それを聞いて知っていたのだとしたら「おまえ」にかわって「わたし」が「おまえ」を語ることができる。
 最終連では、また、「おまえ」と「わたし」の「主語」(主役)の関係がわかりにくくなる。「寝息をたてている」の「主語」は「おまえ」である。そして、その「主語」は、ここでは「主役」である。「わたし」は隣で、「おまえ」を見ている。脇役である。
 でも、最終連で「わたし」が脇役になるのなら、どうして4連目で「てのひらが/異様におおきくなくたって」という2連目とは違うことを書いてまで「わたし」が「主役」になるひつようがあったのだろうか。最終的に「おまえ」が「主役」なら、ずーっと「わたし」は脇役のままことばを動かすことができたのではないのか。「わたし」が脇役で、「おまえ(そして、おまえのてのひら)」が主役のままの方が、ことばの「距離感」が一定していてわかりやすいのではないだろうか。
 でも、三角は、そうしていない。そういう基本的なことばの運動の形をあえて破って書いている。
 だから、わかりにくい。
 そして、矛盾した言い方になるが、わかりにくいからこそ、わかることもある。
 三角の書いている「おまえ」と「わたし」は「一体」なのだ。形式的に「おまえ」「わたし」という「主語」をとっているが、その区別はない。「わたし」にとって、「おまえ」は「おまえ」以上である。「わたし」である。
 最終連。

隣で
寝息をたてる
おまえだけは
いつもなつかしい
寝息をたてている

 「いつもなつかしい」という1行が、とてもおもしろい。おまえは「いつもなつかしい寝息をたてている」ではない。「いつもなつかしい」は独立している。独立することで、そこに「わたし」という「主語」を呼び出している。
 なつかしく感じているのは「わたし」である。
 「おまえ」が「なつかしい」のではなく、「わたし」が「なつかしい」。さらに言えば、「わたし」は「おまえ」を「なつかしい」。「なつかしい」ということばで「わたし」と「おまえ」が交錯する。交錯して、「なつかしい」はどっちについていいかわからない。「なつかしい」ということばが、その「ことばの肉体」がどううごいていいかわからなくて、ここでは「中立(?)」の位置にいる。
 この「切断」と「接続」が、とてもおもしろい。
 この「切断」と「接続」の、あいまいな関係が、てのひらが「異様におおきい」「異様におおきくない」という矛盾を「わたし」と「おまえ」のように結びつける。大きさは関係ない。ただ「おまえのてのひら」でありさえすれば、それは「わたしのてのひら」なのだ。「わたしのもの」なのだ。
 で、こういう矛盾のなかで、「あたらしくなりました」と「何百年」が結びつく。3連目の「余計に」もまた「いつもなつかしい」と同じように、不思議な「接続」と「切断」を生きていることばである。

 何を書いているのか、その具体的なことがらはわからない。けれど、ことばが「生きている」ということはわかる詩である。



オウバアキル
三角 みづ紀
思潮社
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伊藤比呂美「雲」

2011-12-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤比呂美「雲」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 「現代詩手帖」の12月号は年鑑。読み落としてきた詩がたくさんある。その感想を少しずつ書いてみる。
 伊藤比呂美「雲」(初出、「読売新聞」10年11月20日)は、飛行機に乗っているときに見た光景を書いている。(あ、あまりに簡単すぎる要約かもしれない。)

土地のうねりは風がつくる。
同じ方向に吹かれてうねる。
道路がひとつの線に見える。
灌木の群れ。雲が近づいて来る。
いや来ない。動いているのは私。
私が近づく。雲を横切る。

 書き出しの6行である。その6行目の「私が近づく。」は、「私が(あるいは私の乗った飛行機が)雲に近づく。」である。そして「私の乗った飛行機が(あるいは私が)雲を横切る。」である。
 --ということを、私は最初気がつかなかった。
 その前の行に「(飛行機に乗って)動いているのは私。」とある。私は、どうも、そのことばを読み落としたらしい。
 そして、

 雲が、私となって、私に近づいて来る。雲が、私となって、私を横切っていく。

 という「意味」で読んでしまった。
 ここから、「私」消える。「雲」が「主役」となる。「雲」だけではなく、伊藤が見たものが「主役」となる。

雲の大群。
森。森。森。森。森。
雲の大群。
岩。土。うねり。線。
赤い土波。赤い山波。とても赤い。
盛りあがる。それも赤い。
崩れ落ちる。それも赤い。

 ここに書かれていることば(対象)は、「私」の乗った飛行機が動くことで接近し、新たに見えてきたものなのだが、私には、風景ではなく、伊藤自身が変身しながら大陸を、その大地を疾走しているように感じられる。
 「土波」というのは造語だろう。その影響を受けて「山波」になる。ふつうは「山並(山脈)」だろうけれど、「波」。「波乗り」の「波」。あくまで「からだ」に密着する何か。そして、その動き(波は動く)を自分の「からだ」で感じる何か。
 「からだ」で感じるとき、対象と「からだ」の関係があいまいになる。どこまでが「対象」でどこからが「からだ」かわからなくなるが--これを、私は「一体感」と呼ぶ。
 そのとき「波」が近づいて来るのではない。「私」が「波」そのものになって「私」をのみこむ。土の波。山の波。波だから、盛り上がり、崩れ落ちる。それは波といっしょに「私」そのものが盛り上がり、崩れ落ちることだ。「見ている」のではない。伊藤は、土の、山の「波」になっている。その「赤い」色そのものになっている。
 このリズム、この音がとても気持ちがいい。
 伊藤はさらに「変身」しつづける。

雲の群れ。
雲があかあか。
陽は沈みかけ。
山から川が大きな川に。
流れ込む。線がつたう。
太い線。力強い線。
縦横の耕地。縦横の線。
掻きとられた大地。
弧を描く崖。伸びる川。
抉りとられた大地。

 「山から川が大きな川に」という1行の、強い変化がすばらしい。「変身」は、強くなることなのだ。大きくなることなのだ。
 短いことば。そのリズム。
 どこからどこまで飛んだのか、この詩からだけではわからないが、広大な大陸を横断している感じがする。そして、伊藤が「大陸」そのものになっている、その「なる」の感じがほんとうに強烈だ。
 で、そのあと。

沈みきって砂色。みわたすかぎり。
灯が点る。線の交差する辺(ほとり)に。
火が点る。山裾に。線の上に。
町の灯がぼんやり集まる。
あちこちに。山が近づく。
小型機が通る。点滅する。
徐々に降下のため。
機内の灯を落とすのアナウンス。
傾く。近づく。傾く。
眼下、いちめんにきらきらと町の灯。

 「機内の灯を落とすのアナウンス」で、初めて「飛行機」に引き戻される。--というか、私は、この行に出会うまで、実は伊藤が飛行機に乗っているということを知らなかった。大陸を裸で歩いている、大陸を裸で踏みしめて、「からだ」で大陸と向き合い、「一体」になっているとばかり思っていて、あ、飛行機に乗っていたのか、「私が近づく。」は「私が(飛行機に乗って)雲に近づく。」だったのかと驚いたのだ。
 ぎゃっ、と叫んでしまったのだ。
 はじめて、この作品を読んだ瞬間に。
 えっ、私の読んでいたのは「誤読」?

 そして、この感想を書きはじめたのである。
 なぜ、こんな単純な(?)詩を「誤読」したのだろう。

 先に書いたが、ことばのリズム。短さがもつ「強さ」が、たぶん「誤読」の引き金である。
 目--視力というのは、「私」がいて「対象」があり、そこに「距離」がないと見えない。目(視覚)というのは「距離」のなかで成立する感覚である。
 この詩で動いている伊藤のことばは、「対象」との「距離」がない。「対象」が「からだ」そのものになっている。伊藤が裸で大地を歩いていると私が錯覚したのは「裸」の方が大地と密着するからである。余分なものがない。「距離」がない。
 だから、私は伊藤がまさか飛行機に乗っているとは、終わりの数行に出会うまで気がつかなかった。

 へえーっ、そうなのか。そうなんだ。
 何がそうなんだか--それは、ことばにならないのだけれど、そうなんだ、と思ってしまう。

 そして、伊藤が飛行機に乗って、これから「町」に降り立つとわかっても、私はまたちがったことを感じてしまう。「誤読」してしまう。
 伊藤は「町」に「なる」のだ、と。
 伊藤が、これまで雲になり、森になり、大陸になり、川になったように、これから「町」に「なる」。「暮らし」に「なる」。そして、女に「なる」。
 そうか、そうなんだ。
 そうやって、伊藤は「自分(私)」に「なる」のだ。「帰る」というのは「私になる」ことなのだ、と思った。

 「誤読」だったと理解し、読み返してみても、私の「誤読」はかわらなかった。つまり、飛行機に乗って、空から大陸を見ている--と読んでしまうと、ぜんぜんおもしろくない。大陸を裸で歩いていると読むのが「誤読」だとしたら、飛行機に乗って、そこから見える風景と伊藤は「一体」になっていた。見える風景は伊藤の「からだ」そのものだった--と読み直すだけである。
 いとうのことばの強い響き。そのリズムは、対象と伊藤の「からだ」の一体感から生まれている、と私は思う。この大陸は伊藤の「からだ」なのである。「町」は伊藤の「からだ」なのである。






とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起 (講談社文庫)
伊藤 比呂美
講談社
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スティーヴン・スピルバーグ監督「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」(★★★)

2011-12-07 10:31:47 | 映画
監督 スティーヴン・スピルバーグ、出演 ジェイミー・ベル、アンディ・サーキス、ダニエル・クレイグ

 この映画の一番おもしろいシーンは、砂漠が突然大海原にかわるところである。アンディ・サーキス船長がアルコールが切れ、禁断症状のなかで見るあざやかな記憶(おじいさんの体験、父だったかな?)なのだが、砂漠のうねりが、そのまま巨大な波のうねりになり、その向こう側から帆船があらわれる。「未知との遭遇」で巨大宇宙船が山を超えながら宙返りをするシーンみたいに、うわーっと声をもらしてしまう。
 次におもしろいのは、そのアンディ・サーキス船長が宿敵の海賊の末裔ダニエル・クレイグとクレーンで対決するシーン。これは大航海時代に船長と海賊が帆船で闘ったときの再現。クレーンは巨大なマスト。船のいのちであるマストをぶつけ合って相手の船を破壊するように、クレーンをぶつけ合って闘う。そうか、帆船なんていまは滅多にないから、帆船の闘いは再現できないのだ。
 で、こうやって書いてみて思うのだが、あれっ、主役は? 一番おもしろいシーンでタンタンが活躍していないではないか。「ユニコーン号の秘密」なので、タンタンは脇役にまわったということかな? 狂言回しにまわったということかな?
 うーん。
 ちょっと、違うなあ。何か、映画の王道を外していない?

 タンタンの登場するシーンでおもしろいのはふたつある。ひとつは海賊をバイクで追跡するシーン。途中でバイクが壊れ、空中に舞い上がる。洗濯物(?)を干すロープか電線(?)をバイクの破片を利用して滑車のように滑っていく。もうひとつは、海賊の鷹(?)に盗まれた手紙を奪い合うシーン。タンタンが鷹の脚にぶらさがる。
 このふたつは、アニメならではの嘘があってとてもいい。特に鷹のシーン。ロープのシーンは、まあ、実写でもありうる映像だが、鷹の脚にぶらさがるというのは実写では絶対にむり。タンタンがいくら軽くても人間に脚をつかまれたまま鷹は飛べない。アニメになると、人間は「重量」をもたなくなる。その利点を生かしている。
 でも、この重量のないキャラクターというのは、同時に別の問題も持っている。どんな危険が迫っても、その危険が生身の危険という感じがしない。どうせ、紙に描かれたもの、という感じがしてしまう。
 たとえばプロペラ機で逃げるシーン。途中、タンタンが落ちそうになる。頭が(髪が)プロペラにまきこまれそうになる。とっても危ないのに、ぜんぜんはらはらしない。実写の人間の顔ならきっとはらはらするのに……。
 (船長と海賊がクレーンで闘うシーンも、重量感はないのだけれどね。)

 こうやって書いてみてあらためて思うのだが、この映画はアニメの利点と欠点を併せ持っている。欠点を克服しきれていない。
 それでもなんとかおもしろいのは、映像のスピードによる。いろいろなアクションがあるが、どのアクションも実写よりワンテンポ速い。人間の行動では再現不可能なスピードでキャラクターが動く。
 このスピードは、もし、この映画にスローモーションのシーンがあれば、もっと引き立っただろう。たとえば「マトリックス」でキアヌ・リーブスが弾丸をよけるときのイナバウアーのようなシーンが。この映画では「スロー」はフランス人の2人組の刑事が担っているのだが、それは「頭」ではわかっても、視覚ではどうもちぐはぐである。うまく拮抗しない。興奮につながらない。意識して見なかったが、たぶん、刑事のアクションも実写よりは速いのかもしれない。
 3D映画ではスローなシーンはむずかしいのかもしれないが、スローな映像があると、この映画は、もっと生々しくなる。あ、スピルバーグは生々しい感覚は嫌い? そうかもしれないね。

 書きそびれたが、本編前の、タンタンの活躍を描いたシルエットのアニメがとてもよかった。「ピンクパンサー」のアニメのようなものだが、軽快でスマートでうれしくなる。




ミュンヘン [DVD]
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パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
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新井啓子「さえずり」「ブルームーン」

2011-12-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「さえずり」「ブルームーン」(「続左岸」34、2011年11月14日発行)

 新井啓子「さえずり」「ブルームーン」は、人間のものではない「時間」と向き合っている。向き合うことで、自分のものではない「時間」と交わり、自分の中に変化をおこそうとしている--自分を見つめなおそうとしている。
 「さえずり」のなかほど。

うっそうとした木の間には
コノハズクの歌が響いている
地が震え
水が暴れ
むごい時間が流れても
いつも声は蘇ってきた

次の時も
その次の時も
行ったものがまた帰ってくる

 「時が流れ」「声は蘇る」。「声」にも「時間」はある。いや、「声」の「時間」の方が短いのだが、それは宇宙の時間より「強い」。宇宙の時間は「流れる」。けれどいきものの「時間」はよみがえる。この「よみがえり」を新井は「帰ってくる」と言いなおしている。「いのち」の引き継ぎではなく「いのち」が「帰ってくる」。復活。そこに、「強さ」のほんとうの秘密がある。
 「ブルームーン」は「宇宙」の「時間」を象徴する「月」との対話である。

月には何度会っただろう
一度目は満ちた月
そこへの道はまっすぐで いまにも手が届きそう
おいでおいで ここまでおいで

月に手紙を書いてみた
こんばんは こんばんは
私の名前は蒼い薔薇(ブルームーン)
月よ 影を連れてきて
銀箔の雲の下で 小さな光の話をしましょう

月からの返事が届く
影に光はありません 丸いは丸い 月は月

 月からの返事は、まあ、ちょっとつれないのだが、これは生きている「時間」、つまり「思想」の出発点が違うからである。宇宙にとっての「いま」は、いきものの「いま」とは「時間」の「間」の広さが違う。--考えてみればあたりまえのことなのだけれど、このあたりまえのことを新井は静かに、説得力を「こめて」書いている。
 対話というのは、何かを「こめて」することである。それは、たぶん「ことば」の「意味」以上に大切なものであると思う。
 (ちょっと飛躍してしまうのだが、きのう読んだ高岡力の「ハミング」の夫婦げんか--そこにも「ことば」の「意味」ではなく、別なものが「こめられて」いた。そのことばにならない何かが、「意味」をこえて、人間をつなぐ。)

 何度かの手紙のやりとりのあとの、ほとんど最後の部分。

月から蒼い返事が届く
お待ち下さい もう少し 光が重なる時がきます
昨日は今日に 明日は昨日に 三十三年でひとまわり
魚群が空から降ってきて 道を蒼く光らせます
月の光は蘇り 夜琴の音色を響かせます
あなたの花弁に届くよう 夜風に旅をさせましょう

月よ 花のシアワセは光と露に濡れること
影とゐること ゐないこと
ひと月に二度やってくる満月は ブルームーン
畑の真上に薄皮をまとって とろり
はみ出しそうに浮かんでいる

 「三十三年でひとまわり」と「ひと月に二度やってくる満月」の算数は、ちょっとうるさい感じがするが、これは私が算数が苦手だからかもしれない。ということは、置いておいて……。
 「月の光は蘇り」と新井は、ここで「さえずり」では鳥の声の「時間」をあらわすのにつかったことばをつかっている。「月の光」と「さえずり」は、このとき新井にとっては同じ「いのち」になる。
 その「いのち」を感じて、次の「月よ……」という蒼い薔薇のことばが動く。「いのち」と触れあうから「シアワセ」ということばも自然に動く。
 ここでいちばんおもしろいのは、

影とゐること ゐないこと

 と矛盾したことを1行で言っていることだ。「ゐる」「ゐない」は新井にとっては「同じ」なのだ。そして、それが「同じ」であるということは、そのとき蒼い薔薇は蒼い薔薇の「時間」だけを生きてはいないからだ。
 「さえずり」の詩で「流れる」と書かれていた「時間」を生きている。しかし、同時にその「流れる」は「とどまる」なのだ。--宇宙といきものの「時間」は相対的である。どちらかを固定すれば他方が流れて見える。その両方が流れていても、流れながら固定するということがあるのだ。(天動説、を思い浮かべればいいのかもしれない。)
 まあ、こういうことは、真剣に考えるとめんどうくさいから、私は省略する。
 詩なのだから、はっきりしなくていい。あいまいに「わかった」と思えばそれでいいと思う。
 で。(で、というのも、いいかげんな、私の「得意」とする飛躍なのだが……。)
 月と蒼い薔薇との「矛盾した統合」があったあと、満月は、

畑の真上に薄皮をまとって とろり
はみ出しそうに浮かんでいる

 ここが色っぽい。月であることを忘れてしまいそうになる。はだけた女の人の胸元を見ているような気持ちになる。「はみ出す」は、そして、着物から「はみ出す」ではなく、乳房そのものから乳房がはみ出す--乳房を突き破って、乳房がほんものになる、という印象である。
 この瞬間に「いのち」を感じるのは、私がやっぱりスケベな男だから?

ささめく声が遠ざかり 淡い香りも鎮まって
いのちと いのちが響きあい 一つの花が開きます
蒼い光の影のなか 荒れた地面に根をはって
小さく 小さく 開きます

 最後の「小さく」は「逆説」である。「小さく×小さく」は「マイナス×マイナス」の数学のように、「プラス」に変わる。
 (新井の詩は、ときどき「算数・数学」的にことばが動いている、と、ふと思った。--「日記」なので、見境なしに思いついたことをメモしておく。)









遡上
新井 啓子
思潮社
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デイヴィッド・リーン監督「ドクトル・ジバゴ」(★★★★)

2011-12-06 23:01:00 | 午前十時の映画祭


監督 デイヴィッド・リーン 出演 オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティ、ジェラルディン・チャップリン、ロッド・スタイガー、アレック・ギネス

 この映画には1か所、どうしてもわからないシーンがある。
 オマー・シャリフとジュリー・クリスティがモスクワから遠く離れた街で再会する。そしてベンチに座って話をする。そのとき、スクリーンの左側に水たまりというより、小さな池がある。これは、何? いや、池でいいのだけれど、なぜスクリーンに映っている? 映す必要がある? ただの(?)地面ではだめ?
 これが、わからない。ここに池があるという「美意識」がわからない。
 デイヴィッド・リーンの映画は映像が美しい。この映画では、タイトルバックに白樺の林の絵がつかわれているが、その絵も美しい。ロシアの広大な風景が美しい。カナダで撮ったようだけれど、雪の山が美しいし、雪が美しい。空気が美しい。
 雪原の果てしなさと、そこにある空気の透明感(人間を拒絶した純粋さ)は、それを砂に置き換えると、そのまま「アラビアのロレンス」になる。広い空間の美しさ、そこに存在する空気の美しさがデイヴィッド・リーンの映像の特徴である。
 小さなもの--たとえば列車の小窓からオマー・シャリフが眺める月、雲に隠れて、またあらわれる月が美しい。(これは「インドへの道」で、水にうつった月を掬おうとするするシーンにも通じる。)
 こんな美しい「世界」のなかで、なぜ、人間のしていることは、こんなにも矛盾して、苦しいのか。デイヴィッド・リーンの映画を見ると、いつもそう思うのだが……。
 あの、池--あれは美しくない。広大でもない。とても違和感がある。なぜ、あのシーンに池が必要なのか。何かの象徴なのか。

 それにしても、ジュリー・クリスティは美人だなあ。不思議な不透明さがいいなあ。ロッド・スタイガーが、その不透明さを見抜いて、ぐいと自分にひきよせてしまうところ、それをジュリー・クリスティが拒絶できないところ--これが、この映画を支えている。デイヴィッド・リーンの映画には、何かしら美しさと不純の誘惑が同居している部分があって、それが映像を強くしていると思う。
 ジュリー・クリスティとロッド・スタイガーの「高潔ではない強さ」が、鏡の朱泥のように、この映画を輝かせている。



ドクトル・ジバゴ アニバーサリーエディション [DVD]
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ワーナー・ホーム・ビデオ
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高岡力『ド』

2011-12-05 23:59:59 | 詩集
高岡力『ド』(土曜美術出版販売、2011年11月10日発行)

 高岡力『ド』には、わからないところがたくさんある。たとえば、表題作になっている「ド」。公園のトイレで拾った鉄パイプをふりまわす。音が出る。この音は「ド?」ということを中心にしてことばが動く。その終わりの方。

ビラが貼ってある 大日本愛国党って何? あまいんだな 塗りがベラベラ捲くれちゃって「ペ」は「ミ」?「ラ」は「ソ」? 「ミソ」「ミソ」と大日本愛国党が捲くれてるとおもうと可笑しくて振ってみる

 あれ? 「ペラペラ」って、「ペ」の方が低い? 私は音痴だし、私の育ったところは標準語とはアクセントが逆になるところなんだけれど……。私の耳には「高低高低」、高岡の書いていることばで言えば「ソミソミ」になる。
 こういうことはどうでもいいこと(意味には無関係なこと)なのかもしれないけれど、私の肉体はなんだかねじれた世界に入り込んだようで、気持ちが悪い。
 ついでにどうでもいいことを書いておくと、詩集の表紙に五線譜が書いてある。シャープが1個ついている。そして、C音が書かれている。--これって、ド? Cは確かにハ調ではドかもしれないけれど、シャープか一個ついたらドではないのでは? 
 何か、高岡の感じている「音」は私とは完全に違うなあ、と思う。肉体で感じる部分も、知識(?)で感じる部分も。

 「ドッポン」も、不思議な音が主役だ。海岸に死体が浮いている。「お巡り」がそれを竿で引き寄せる--のではなく、引き寄せては、突き放すように沈めている。その部分の数行。

すっかり白眼だ 仕事熱心ではないようだ
せっかく引き寄せた漂着物を竿の先で 海へ戻す
豚のような塊はいったん沈み 腹部を矢先にドッポンと浮き上がってくる
何が楽しいのだろう 光るものを使いよ言うな肉に引っかけると
また ゆっくりたぐり寄せている

 「ドッポン」というのは、ものが水の中から浮き上がる音? 水の中に何かを落とすと「ドッポン」と音がするのでは?
 でもね、浮き上がってくるとき、静かに浮き上がるのではなく、一気に浮き上がり、そのスピードが速すぎて(?)、水面を突き破ってしまうときは、「ドッポン」かどうかはっきり思い出せないけれど、確かに水を破る音がするなあ。
 ドッポン、か。
 なかなかいい耳だなあ、と思う。

 そうすると、ビラがペラペラも「ミソミソ」というのは、あり得るのかも。何かを突き破って、そのために音がいつもの音とは違う感じで響くのかもしれない。
 そして、よくよく考えてみると、ふつうに聞いていると思っている音というのは、ほんとうは聞いていないね。「習慣」として、「流通言語」として聞いていると思い込んでいるだけで、自分の肉体を研ぎすましていない。感覚を働かせてはいない。単に、表現されたことばを流用しているだけだね。
 高岡は「流通言語」の向こう側へ、「意味」ではなく、「音」の力で入っていこうとしているのかもしれない。
 そんなことを思いながら読んでいると、「ハミング」に出会う。これは、とってもおもしろかった。

洗い立ては 吸ったんだろう太陽を
シミ一つなく 白くて
気持ちいいわ
そんな敷布を 被して
転がした 梱包をしようと おもう
宛先はどこにしよう
白いビニール
の紐で 縛り そうだ
実家だな 返品という事で そうね
不良品ですものね 私
と 観念している妻は 歌を唱ってる
自作だが まだ詞が ない 題名は決まってるの
なんだよ おしえない
さよならの歌だな 段ボールを取り出し
抱え入れる 動くなよ ガムテープが何処にもない
ねえ 君 何処へやった
と 聴いてみたが ハミング してる
あれほど 動くな・・・よ
と 云ったのに
戻 ると
シーツ姿で 料理を してる
手だけ出しちゃった と 蒼いものを刻んでる
いいよ 弁当買ってきたから そう
手を引っ込め 箱の中へ帰って くれた
製造元には電話しとくよ
そう
印鑑容易しといてくれって
そう
そういえば君の父上は 去年の夏に死んだっけ
そう
そういえば 俺も参列した よな
おいおい君がなくもん だから
つられて俺もないたよ な
そう
空気穴を あけとくよ
そう
第二の人生が ある のだから
そう
たくさん あけといてください ね
と 妻は 云うと また 
ハミングを
始めた

自作だが まだ詞が ない
明るい歌だ 鳥も鳴いている

 男と女、夫婦がけんかして、ああ言えばこう言う状態を書いているのだと思う。妻をシーで梱包し、実家に送り返すというところまでけんかが進んでいるのだから、おだやかではないが、そういうことは、まあ半分以上は、あれこれ説明するのがめんどうくさくてついつい先走ってしまうだけのことだから、どうでもいいのだが、その、ああ言えばばこう言う、だけではなく、高岡の書いている夫婦げんかには、はぐらかしが入り込む。これが「ハミング」。ことばにしないで「音」にしてしまう。そこが、なんとも不思議で楽しい。あ、きちんと「肉体」をとおってことばが動いているというのがわかる。「意味」や「思想」ではなく、暮らしの「知恵」がここにある。
 「ハミング」じゃ、何もわからない、言っている「意味」がわからない--かもしれないけれど、夫婦げんかに「意味」などない。そんなものに「意味」を探しているようでは、すでに夫婦ではない。「意味」を探しているようでは、夫婦げんかという「知恵比べ」はできない。--あ、これ、いいことばだなあ、と自分で書いておく。夫婦げんかというのは、一種の「知恵比べ」だな。「知恵」は「暮らし」にどれだけ密着しているか、「暮らし」をどう乗り切るかという「知恵」なんだけれど……。

なんだよ おしえない

 という1行が象徴的だが、ほら、けんかの途中で「質問」なんかするなよ。した方が負けに決まってるんだから。「知恵比べ」なんだから。
 そして、その「知恵比べ」は、なんというか夫婦の「区切り」がない。夫がこう主張し、妻がこう主張しという「意見」の対立がない。そんな「頭」で区別するようなことがらは、夫婦には「意味」がない。「なんだよ おしえない」という「呼吸」が「意味」をのみこんでいる。「呼吸」に「知恵」がいっぱいつまっている。
 で、

シーツ姿で 料理を してる
手だけ出しちゃった と 蒼いものを刻んでる
いいよ 弁当買ってきたから そう

 この「いいよ 弁当買ってきたから そう」の接続と断絶が--いやあ、悲しくておかしいねえ。意地の張り合い、のばかばかしさ。犬も食わないとはよくいったものだなあ、と思う。
 後半の、妻の父の葬儀の思い出と「いま」がふいに重なるところもおもしろいなあ。
 最後まで読むと、ハミングとは「言ったって、どうせわかりはしない。だから勝手にわからない音だけ言ってしまう」というような感じかなあとおぼろげにわかるのだけれど--ね、こんなことを書くとつまらなくなるでしょ? 「意味」にしてしまうと、つまらないでしょ?
 そういうことばの袋小路に入る手前で高岡はことばを動かしているんだなあ。






高岡 力
土曜美術社出版販売
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谷川俊太郎「おのれのヘドロ」

2011-12-05 18:42:44 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「おのれのヘドロ」(「朝日新聞」2011年12月05日夕刊)

 谷川俊太郎は、「流通言語」を詩にかえてしまうことができる。だれでもが知っていることば、だれでもがつかう比喩を、谷川独自の色にかえることができる。しかも、「かえた」ということを強く意識させない。まるで、それは私(谷川)が考えたことではなく、あなた(読者)が感じていることでしょ、とでもいうような静かさでことばを動かす。
 「おのれのヘドロ」はタイトルそのものが「流通言語」である。「ヘドロ」という「比喩」も説明が必要ないくらい「流通」している。つまり、読まなくても、書いてあることがわかる。
 --と、言いたくなるのだが……。

こころの浅瀬で
もがいていてもしようがない
こころの深みに潜らなければ
おのれのヘドロは見えてこない

偽善
迎合
無知
貪欲(どんよく)

自分は違うと思っていても
気づかぬうちに堆積(たいせき)している
捨てたつもりで溜(た)まるもの
いつまでたっても減らぬもの

 最後の1行目にたどり着くまでは、「だれもが言っていること」と思って読んでいた。けれど、最後の1行に「あっ」と思った。
 「ヘドロ」は溜まる。汚れが溜まって「ヘドロ」になる。
 谷川は、そういう「流通している常識」のあとに、「いつまでたっても減らぬ」をつけくわえている。「減らない」。
 私は、谷川が書くまで気がつかなかった。そうか、「ヘドロ」は溜まるのではなく、減らないのか……。減らないから「ヘドロ」になるのか。
 これは小さな発見か、それとも大きな発見か--区別はむずかしいが、どういうことでも「私」という「個人」にとっては「大小」はない。発見に「小さい」「大きい」はない。けれど、谷川は、そういうことも読者に意識させないように、ほんとうに静かにことばを動かしている。
 「流通言語」を装っているが、「流通言語」ではないのだ。


二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社
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坂多瑩子「建物」

2011-12-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「建物」(「ぶらんこのり」12、2011年12月01日発行)

 坂多瑩子「建物」は、一か所、とても好きな部分がある。どんな詩でも、一か所、あ、ここがいいと思ったとき、私はその詩が好きになる。

国道沿いの初めての道だったが
「つぼさか病院」
その古めかしい書体の看板に
なかを覗いてみたら
それは中ががらんどうで
白い車が数台 駐車していて
コンクリート打ちされた床は
靴音がやけにひびくが
入口に病院とあったから
もっと陰気くさいかのか思ったら
あんがいのんびりしている
ここらあたり
ベッドが並んでいたのかもしれない
いや診察室かも
医者の手が
ひやりと胸にあたった
なんだか急に胸が熱くなってくる
熱でもあるのかな
ぞくっとする
少しさわがしくなってきて
みそ汁の匂いがしてきた
そうか

つまり朝なのだ

 私が強くひかれたのは「医者の手が/ひやりと胸にあたった」の「ひやり」である。病院で医師の診察を受ける。触診。胸に医師の手が触れる。そのときの「ひやり」。この触覚が、突然登場するところに、坂多の「過去」がふいに噴出してくる。
 この「過去」は、まあ、私の「誤読」である。つまり、私の勝手な捏造であるのだが、そこに坂多の「過去」を感じてしまうのである。坂多は、書いていないのに……。
 どんな「過去」か。
 それはそれ以前の行が暗示する「過去」である。
 私は無意識のうちに、書き出しへもどって読み直している。
 坂田は「つぼさか病院」を訪ねている。それはほんとうの「つぼさか病院」(の建物)なのか、あるいは「記憶」なのか。建物を訪ねながら、「記憶」を訪ねているのだと思う。そこには「いま」と「過去」が二重に存在している。その病院は、たぶん、かつて坂多が通ったことのある病院なのだ。
 「いま」その病院は病院ではなく、単なる「建物」である。あれた建物である。中はがらんどう。車が駐車している。「コンクリート打ちされた床」と坂多は書いているが、コンクリートが打ちっぱなしの状態、むき出しになってしまっている。一種の「廃墟」のような状態になっている、ということだろう。
 そして、それはたぶん坂多がそのとき通っていた彼女の肉体の状態なのだろう。肉体のなかに得体のしれない「がらんどう」がある。「病巣」がある。胸が、つまり肺が「がらんどう」というと言い過ぎになるだろうけれど、病んでいるのだ。
 だからこそ、医師は「手」で「触診」する。その「手」の感触を、坂多は「がらんどう」の建物を見て、その中を歩いて、ふいに感じた。
 「建物」の「いま」と、坂多の「肉体」の「過去」が重なる。重なって「ひとつ」になる。

 --これは、一種の「夢」である。「幻」である。
 たぶん、明け方に見た坂多の夢をていねいに書いているものなのだ。
 胸に触れる医師(たぶん男性の医師)の手--その手の「ひんやり」に逆にからだが火照る。自分のからだの熱を感じ取り、さらに火照る。--からだが火照った記憶がふいによみがえってくる。
 この「感触」(この触覚の記憶)は、「ほんもの」なのだ。
 そして、それが「ほんもの」であるから、「夢」を突き破っていく。--というのは、論理的な言い方ではないのだが……。
 その「触覚」の記憶が、あまりにも「ほんもの」すぎるので、「夢」は「夢」のまま、もちこたえられない。リアルすぎる夢を見た瞬間、からだが反応して、夢を破って、目が覚めてしまう。

 坂多は、夜、「つぼさか病院」へ通っていた夢をみる。その夢のなかで、医師の手の「ひやり」とした感触を思い出す。それはリアルすぎて、坂田の夢--眠りを突き破る。からだが熱くなるとき、どこかから「熱い」現実が近づいてくる。
 夢が夢のまま、ずーっと眠りの中にいることを許さないのだ。
 からだが火照る、熱をもつ、熱い--からみそ汁の「熱い」朝へ動いていってしまうのは、なんだかロマンチックではないが(肌の触れ合いのロマンはないが)、あ、そうなんだなあ、と思う。理由はわからないが、納得してしまう。
 でも、まあ、この部分は、詩を終わらせるためにつけくわえられたものだろう。こういう「種明かし」は、なければなくてもまったくかまわない。
 というか、「熱くなった」がら、ことばは冒頭の1行へ逆戻りしていった方がおもしろいかもしれない。「陰気くさい」「あんがいのんびり」という「過去」へもどっていって、不謹慎な言い方になるが、病気を楽しむと、とってもおもしろくなる。
 医師の手を「ひやり」と感じるときの、こころの動きがもっとほかの肉体をくぐって、肉体が「いま」に鮮やかにもどってくるようにも思える。
 そういうところへ行こうか行くまいか、迷って、こういう詩になったのかもしれない。それはそれで、不思議に「正直」が見えるようでおもしろくもある。

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福間健二「彼女のストライキ」

2011-12-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
福間健二「彼女のストライキ」(「現代詩手帖」2011年11月号)

 なんとなく苦手な詩人というものがいる。ある部分には共感するが、ある部分は共感できない。そして、その共感も、共感できないも、はっきりことばにして語れるわけではない。
 たとえば福間健二である。
 「彼女のストライキ」を読んでみる。私はスケベだから、どんなことばもセックスに結びつけて読んでしまう。この詩には、たとえば、

彼女の侵入できない廊下で動きはじめる。
                 いい気持ち


音楽が止む。
     摩擦によって。さ、ただではすまないよ。

 というような行がある。「いい気持ち」「摩擦」。かけ離れたところにあるのだけれど、そのことばが呼びあって、私にはセックスしているシーンが見えてくる。近くには「白いスカート、赤いベルト」ということばも散らばっているしね。
 で、このセックスが、どうも私にはピンとこないのである。簡単に言うと、欲情しない。
 うーん、なぜなんだろう。

 最初から読み直してみる。

どうして、この階段。自由も権利もなかった。
と気づかされる湿度の国の、畑と川、校庭と線路を横切り、
汗みずくになって、使えなくなった建物の外の、
人ひとりしか通れない
階段の上。
    最初のできごと、最初の行為のあとの
曇り空の感受性がよみがえる。これでおしまい、さようなら。

 「湿度の国」というのはモンスーン気候の日本ということかな? 「校庭と線路を横切り」というのだから、授業をさぼってか、放課後か知らないけれど、学校から離れてどこかの建物でセックス(最初のできごと、最初の行為)をして、そのあと空を見たら曇っていた。そのときの思い(感受性)が、いまよみがえる--ということ?
 まあ、詩なのだから、かってにそう思っておくことにする。
 で、この1連目で言うと、私が「色気」を感じたのは1行目だけなのだ。
 「階段」から「自由も権利もない」ということばへの飛躍。自由や権利を語るのに階段がつかわれる。このときの福間の肉体のなかにある切断と接続は信じてみたいなあ、と感じたのだ。この信じてみたいなあ、というのは、私にとってはセックス。交わることで自分がどう変わるのか、何を知るのか、見当がつかないけれど、それをしてみたい、そういう感じ。
 けれど、それが2行目で、あ、やーめた、と思ってしまう。あ、私はセックスには興味がありません。出会わなかったことにしてください、と言いたくなってしまう。
 「湿度の国の」の「湿度」にぞっとする。その日、そのときの「空気」の感じを、福間は「湿度」と言うようだが、この「湿度」と「自由/権利」ということばの距離というか、飛躍が、あるいは切断と接続が--どうにも気持ちが悪い。
 「自由/権利」も「湿度」も、どちらかというと「頭」のことばである。そういう意味では「共通項」がありそうなのだが--私にとっては完全に違う。
 「自由/権利」は、そのことばを私自身がどれだけはっきり理解しているかは別問題として、「肉体」のなかに入ってしまっている。何かに対して無性に腹が立った場合、私の「自由」、私の「権利」ということばを、よく考えもせずに口走ってしまう。そのことばは「肉体」の内部から噴出してくる。けれど、福間がここで書いている「湿度」は、そういう「肉体」の内部から噴出してこない。逆に、「肉体」の外から肌に密着してくる「もわーっ」である。
 「肉体の内側」と「肉体の外側」が、変な具合に出会ってしまう。まあ、福間の詩が好きなひとは、この出会いによって「肉体」がより立体化される感じがするのかもしれないけれど、私は、一歩ひいてしまう。思わず、引き下がって、身構えて、福間のことばを見てしまう。
 その結果、「畑と川、校庭と線路」という、ありふれた「情景」さえ、情景にはならない。色も形も、距離も実感できない「空虚」な何かをあらわしているように感じられる。福間が「空虚」を書いているというのなら、それはそれでいいのかもしれないけれど、何か納得できないものが残る。
 「階段」と「自由/権利」のことばのつながりに欲情してしまった私がいけないのかもしれないけれど。--まあ、こんなことは、セックスする寸前に「やっぱり、やめよう」と言うときの「痴話喧嘩(?)」、あるいは単なる「愚痴」のようなものかもしれないけれど。

    最初のできごと、最初の行為のあとの
曇り空の感受性がよみがえる。これでおしまい、さようなら。

 は、「曇り空の感受性」が、ちょっと魅力的である。「肉体」の外(曇り空)と「肉体」の内部(感受性)が「一体」になった感じがして、いいなあ、と思うが、それにつづく「これでおしまい、さようなら。」が、やっぱり、ぎょっとする。
 そんな簡単なの? セックスって。

彼女がたとえものすごくまちがっていたとしても、
その唇が動き、息をして肩が動くと、未来の光がさした。
解釈も、つぐないの言葉も、
秩序ある配置もいらない
少年の夏。死んだ詩人
          という装置を操作して
気楽な声をあげているみなさん、ほんとうにさようなら。

 「彼女がたとえものすごくまちがっていたとしても、」とは考えはするけれど、「自分が」たとえものすごくまちがっていたとしても、はせ考えない「少年」なのかもしれないなあ。「詩人」なのかもしれないなあ。
 そのとき、唇の動き、肩の動きを見た目が見る「未来の光」は、いったい、だれの「未来」なのだろうか。
 何か、「彼女(あとから出てくる、さっちゃん?)」と、福間が、ほんとうに出会っている感じがしないのである。福間だけがいる。福間の「ことば」のなかに、福間にとって都合がいい「彼女」がいる。その「彼女」は、福間をけっきょく突き動かさない--福間はけっして「彼女」によってかわらない、という感じがする。
 福間は、いや、「私は変わった」というかもしれない。まあ、だれでも「変わる」のだろうけれど、私がいう「変わる」は、「彼女」によって福間が変われば、同時に「彼女」自身もその瞬間から変わっていくので、どっちが変わったというのがわからなくなる関係なのだけれど、福間のことばにはその「どちらが変わったかわからない」けれど「変わった」という感じがしない。
 私にとって、福間がとっつきにくい詩人なのは、そういうことかなあ。



青い家
福間 健二
思潮社
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ヴィクター・フレミング監督「風と共に去りぬ」(★)

2011-12-03 19:30:45 | 午前十時の映画祭
監督 ヴィクター・フレミング 出演 ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、オリヴィア・デ・ハヴィランド

 「午前10時の映画祭」という催しがある。かつての名画をスクリーンで年間50本上映するものである。私は先週、福岡天神東宝で見たのだが、52席しかない小さな劇場での公開である。で、とてもつまらない。大スクリーンで見ないとおもしろくない。燃え盛るアトランタをヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブルが馬車で駆け抜けるシーンはいまの映像からするとずいぶんおとなしいのだが、それでも大画面で赤い色と黒いシルエットをみれば興奮するはず。小さい画面ではおもしろくない。
 だいたいヴィヴィアン・リーのわがまま放題の女性像は、大画面でこそ生きてくる。大きな画面で観客を飲み込んでこそ輝く。小さい画面では等身大くらいの印象で、こんなわがまま女、いったい誰が相手にするのだ、とあきれかえるだけである。
 クラーク・ゲーブルの色男ぶりも、台なし。すけべなオヤジにしか見えない。それが子煩悩を演じると笑い話である。この映画では披露していないが、クラーク・ゲーブルの軽いウィンクは大画面で見てこそ、あ、いま、自分に向ってウィンクしたと錯覚できるのである。あれを真似して女をだましてみたいと思うのである。小さい画面では、私の方がウィンクはうまくやれるな、と思ってしまう。「一体化」できない。
 一方、オリヴィア・デ・ハヴィランドは小さい画面の方が映えた。演じている役柄がテレビの主人公――つまり、日常の連続のなかにいる。毒がない。安心感がある。
 でも、映画は毒がないとおもしろくない。映画はどうせ嘘。日常とつながらなくたって平気。日常を振り切るために、「スター」になりに映画館へ行くのだから。
 この映画は、記憶の中では★★★★の映画だが、今回の上映で一気に★ひとつになった。小さな画面ではおもしろくない映画の典型である。



 この天神東宝の上映について、「天神東宝命」「マイケル」「ニック」という人物が、「天神東宝支配人の深謀遠慮」があらわれたものと絶賛していた。「名作はスクリーンの大きさや客席の多さではないのだ、そんなものは関係ない」「2番劇場はまるで映画会社の試写室のようではありませんか。夢に見た映画評論家の気分に浸れるのです。素晴らしいですねえ」というのが理由である。
 「映画評論家」なんて夢見たことがないなあ。私は試写室なんかで映画をみておもしいろいのだろうか。私は見たことがないのでわからない。お金を払って、見知らぬ客と並んでみるからおもしろい。つまらない映画にはつまらない、金返せ、と怒鳴り散らす方が好きだ。
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西岡寿美子「畑で祖父(じい)やんと」

2011-12-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「畑で祖父(じい)やんと」(「二人」294 、2011年12月05日発行)

 西岡寿美子「畑で祖父(じい)やんと」は畑仕事をしているとき、「祖父やん」がふいにあの世からやってくる詩である。と、書いてしまったら、うーん、あとをどうつづけていいのかわからなくなるのだが、その祖父やんがやってくる直前の部分、そしてそれがそのまま祖父やんにつながっていく部分が、あ、いいなあ。思わず声が出る。

こうして
畑で年を数えるようになって何年になるか
爪元は逆剥け
背も腰も痛んで這い這いだが
幼い目が見覚えていた農の手順再現に
どれだけ骨を折ってきたことか

それを静かに見守ってくれたのは
父方の繁之助祖父やんで
予告もなく
柿の木の下へひょっ、と現れるのには驚くが

 「幼い目が見覚えていた農の手順再現に/どれだけ骨を折ってきたことか」の「見覚えていた」が強い。
 私は百姓の子どもだったので「わかる」のかもしれないが、仕事というのは「見覚える」ものなのである。人が働くのを見る。それを「からだ」全体で真似る。見ながら、自分の「からだ」の動きと、「手本」をただ見比べて「覚える」。
 そうか、あれは「見・覚える」だったのか。
 もちろん父や母は、いくらか教えてはくれるのだが、それはやはり教えてもらうというよりは、見て、「からだ」で覚える。
 しかし、不思議なものだなあ。「見・覚える」といっても、そのとき自分自身の姿を鏡か何かに映してみて、「手本」と違うということを発見するのではない。「見て」、それを真似るのけれど、どうも何かが違うと感じる。このとき「手本」を「見る」のは「目」だが、自分の「からだ」の動きを見るのは「目」ではない。「目」では自分の「からだ」の動きは見えない。
 何が見えるか。たとえば、鍬で耕した畑の土、その掘り起こし具合が見える。そして、そこから逆算するように(?)、自分の「からだ」が見える。「からだ」は直接見えるのではなく、耕された畑の土の状態から、想像力をとおして見える。もちろん、これは方便であって、そのとき「想像力」というものなど、子どもは(子どもだった私は)考えはしない。
 で、そういう肉体労働を繰り返していると、なんといえばいいのだろうか、畑を耕したときの土の状態から、あ、父に似てきたなあ、私のからだの動きはいくらか父の領域に似てきたなあ、とこれは手本を見るわけでも、私のからだを見るわけでもないのに、感じるのである。わかるのである。
 これが「見覚える」。「見て・(からだで)覚える」かな。そして、そのとき「からだ」は--「からだ」は、とことわるのは「目」ではなく、という意味である。「からだ」全体が「目」になって、耕した畑の土も、そこにいない父をも「見る」。
 何かを「見覚え」たなら、そこから先は「目」ではなく、「からだ」が見るのである。
 で、「からだ」がそういう状態になったとき、西岡は、ふいに「祖父やん」を見る。もちろん、それは「目」で見るのではない。「からだ」で見るのである。「肉体」で「見る」のである。そして、「覚えている」ことを思い出すのである。
 たとえば、西岡が苦労して畑仕事を、なんとか「覚えている」かたちですすめているとき、それを見守ってくれているひとがいることに。その祖父やんは、きっと西岡の父が仕事を「見覚える」ときの手本になったひとだろう。祖父-父-西岡と結ぶ時間が、その瞬間、一気に凝縮する。結晶する。「からだ」そのものになる。「見覚える」とは、そういう変化を引き起こすものである。
 そうして、その瞬間、時間が結晶するということは。
 ちょっといいかげんな言い方になってしまうが、時間を超越するということなのだ。時間が、時間の幅(?)というか、長さ(?)を失って、大きさがなくなる。過去も未来もなくなってしまう。
 「この世」「あの世」の区別がなくなる。

そうか
あの時からあちらの世界は始まるのか
温顔で
清げな痩せ身の人であったが
この頃では顎の下に白い山羊髭まで蓄え
何やら神さびて
祖父やんは
仙人さんというものになったんやね

 「そうか」というのは、まあ、いいかげんな言い方だが、「そうか」なのだ。「そうか」としか言えない。「からだ」が勝手に納得してしまう。
 「あちらの世界」なんて、「目」では見えない。でも「からだ」でなら見える。そして、そのとき「あちらの世界」が見えるのは、「からだ」が「仕事」を「見覚えている」からなのである。
 --この言い方は、きっと、伝わらないなあ。何を書いているか、わからない、と言われてしまいそうだなあ。
 でも、そういう具合にしか、私には言えない。書けない。
 「からだ」が「見覚える」。そしてしっかり「見覚える」と、それから先は「からだ」が見るのである。「からだ」のなかに、世界が始まるのである。
 そうして、つぎのようなことが起きる。

 お前(まん)は鈍いが筋は悪うはない
 うん
 大根、高菜の肥料やりも丁度(ぼっちり)じゃ

声ではない声がわたしに聞こえる

 「見る」が「目」ではなく、「からだ」で「見る」であったように、「聞く」も「耳」ではなく「からだ」で「聞く」。からだで聞いている声は、ほかのひとには聞こえない。それはいわゆる「声」ではないのだ。西岡の「からだ」だけが聞くことができる「声」である。「声」は西岡の「からだ」のなかに響いているのだ。






北地-わが養いの乳
西岡 寿美子
西岡寿美子
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八柳李花ー谷内修三往復詩(7)

2011-12-02 01:38:08 | 
歌が逆さまに落ちてゆく  谷内修三



 歌が逆さまに落ちてゆく街角で、きのう私はほんとうの分岐点を見つけたと思い、そのことばの角を曲がってみたが、新しいものはなにもなかった。アスファルトの色が変わるところに立てば、十一月の冷気がしみついた枯葉の比喩も、日記の罫線のような薄い雨の比喩も、どんな意味かわかってしまった。

 前を歩く男のことばのふりをして歩きはじめてみるが(追い抜かないように)、痛みを抱えてうずくまっているはずのことばは、私が近づくと幾つものに分かれ、地下鉄の階段を互いに追いかけるように駆け降りてゆくか、交差し、ぶつかりあって違う音になり、方角をあいまいに散乱させてしまうのだった。

 こんなところで見つけられるものは、気を紛らわすためにメモ帳のことばを消した瞬間に感じる漠然とした余白だけである。あるいは繰り返したどる、いつものことばの道順そのものである。結局私は、同じ論理を二度と踏まないために、強引に分岐点を作っただけに過ぎない。

 歌が逆さまに落ちてゆく街角で、
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久石ソナ「数センチメートル」

2011-12-01 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
久石ソナ「数センチメートル」(「現代詩手帖」2011年11月号)

 久石ソナ「数センチメートル」は「新人作品欄」に載っている作品である。選んでいるのは平田俊子。書き出しがユニークでとてもおもしろい。

人工衛星ははやいいきものでしたが、つねに浮いていて、地球のことをよく考えていました。

 平田は選評で「人工衛星を「はやいいきもの」ととらえたのが新鮮でした」と語っている。私もその書き出しに驚いた。「比喩」とはわかっていても、びっくりする。そうか、「いきもの」なのか。
 そこから、どんな世界が見えてくるか。
 というようなことを、考えるひまは、実は私の場合、なかった。「いきもの」以上に、次の「つねに浮いていて」に、
 うーん。
 うなってしまった。
 「つねに浮いていて」は「はやいいきもの」の「はやい」と同じく、人工衛星の客観的描写である。「いきもの」という「比喩」で客観から大きく飛躍したのに、その飛躍をさらに上回るスピードで客観へもどってきてしまう。
 うーん。
 客観→主観(比喩--とは主観だね)→客観。
 この変化がとてもはやい。はやすぎる。で、途中の「比喩」が主観ではなく、「客観」と勘違いしてしまう。いや、「いきもの」が比喩であり、それは嘘であるとわかっているのだが、前後の客観があまりにも明白すぎるので、その明白な客観に主観がまぎれこみ、区別がつかなくなる。
 で、「地球のことをよく考えていました。」--これは客観、主観? むずかしいなあ。人工衛星が「考える」というのは「比喩(嘘)」である、はずなのだが、何のために人工衛星があるかといえば、それは地球を観測し、地球にとって(私たち人間にとって)有効な情報を提供するためにある--そういう情報を提供する(収集する)ために人間がつくりだしたものであるのだから、人工衛星には「主観(人間の考え、感じ方)」が反映している。
 そうすると……。
 論理的に書こうとすると面倒くさいのだが、なんというのだろうか、人工衛星という「客観」には、人間の「主観」がこめられていて(反映していて)、それを人工衛星が自らの「主観」として「生きる」--人工衛星と人間が「主観」のなかで「一体化」する。
 これがおもしろい。
 そうか、「主観」が「一体化」するとき、「いきる」ということばが動くのか。
 「いきる」とは、だれかの「主観」と「一体」になって、「いま/ここ」に存在することである、という「思想(哲学)」が、ユニークな「童話」みたいな感じでしっかり語られている。この話法はおもしろいなあ。

人工衛星はみずから地球にかかわるお仕事をしていて、それは生まれたときから望んでいたお仕事でしたから、外が暗くても、働いているのでした。(略)人工衛星はよわいいきものです。だからこそ、つねに完璧でなければならないのです。

 で、平田が新鮮と指摘している「地球のことをよく考えていました」という見方も、「主観」の「一体化」として読むことができる。そのあと、平田が「最初は「はやいいきもの」だったのがあとで、「よわいいきもの」となり、「だからこそ、つねに完璧でなければならない」というように人工衛星のイメージが少しずつずれていく」ところがおもしろいという指摘もその通りだと思う。
 私が補足することでもないのだろうけれど、補足すると。
 繰り返される「つねに」。これが、おもしろい。「つねに浮いていて」「つねに完璧でなければならない」。こういうとき、「つねに」は「客観」の代名詞である。「普遍」であること、というのは「客観」の重要な要素である。
 そして、この「つねに」は、「すべて」「ずっと」「くりかえす」「いつも」「みんな」という「普遍」につながることばにも言い換えられていきる。

人工衛星の住む町は重力のない町だから、朝も昼も、時間のすべてを手放してしまって、ずっと夜に似た空が繰り返されるのでありした。人工衛星は地球のことを愛しています。友だちと地球について語り合い、それが原因で喧嘩することもあるけど、みんないつも笑顔です。

 そうして人工衛星と人間の「客観」と「主観」が「一体」であると書いたあと、久石は、宇宙から地上におりて「人間」を書いている。
 そうすると、「つねに」が不思議な具合に「変質」する。

ぼくたちは相手に会話を合わせ、提供することをつねとする。

 人工衛星では「つねに」が「客観」であった。でも人間の生活では「つねに」は存在しない。「つね」は人間がつくりだしてゆく。人間が自分の意思で「繰り返す」ことで、あることがら(主観にすぎないことがら)を「つね」であるように「する」のである。
 「つね」に「する」と、「つね」に「なる」。
 「つねに」は「客観」ではなく、「主観」。どこまで行っても「主観」。「客観」にはならない--というのが人間の暮らしのようである。

景色がつねにいけないからぼくたちは、管の小さい酸素ボンベをかついているのだ。家に帰り、食事を済ませ、妻とセックスをしてようやくぼくたちは、いきものなのだと実感する。
 
 人間が「いきもの」であるというのは「客観」的事実のようだが--でも、そうではない、と久石は言うのだ。それは「主観」を「つね」に動かし、その動きが「つね」であるとき、はじめて「いきもの」になる。
 「主観」と「主観」を「合わせ」る。(会話を合わせるように)
 それも「つねに」になるように、繰り返す。「つね」と「する」、「つね」に「した」ことだけが「つね」になる。

 ほーっ。

 セックスは、このとき、なんといえばいいのか、とても悲しいというか、切実である。よろこびというより、何かいきるための、苦悩。久石の書いていることばでいえば「実感」のための「方法」である。
 「主観」を「実感」する。
 「主観」を「実感」する。それが「いきる」というのは--これはこれは、重たい哲学だなあ。




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ジョン・キャメロン・ミッチェル監督「ラビット・ホール」(★★★)

2011-12-01 19:40:31 | 映画
監督 ジョン・キャメロン・ミッチェル 出演 ニコール・キッドマン、アーロン・エッカート、ダイアン・ウィースト

 ニコール・キッドマン主演の「ドッグヴィル」(★★★★)は映像の情報量を「舞台」的にそぎ落としたおもしろい映画だった。
今度の「ラビット・ホール」は映像情報量が多くてというか、ことばの情報量が少なくてちょっと困る。たとえば、ニコール・キッドマン、アーロン・エッカートの住んでいる家。これだけの家に住むにはどういう経済状況が必要なのか――そういう変なところが気になってしまう。すごく裕福そうなんだけれど、理由が全然説明されない。まあ、説明はなくてもいいのかもしれないけれど。あふれかえる「裕福な家庭」の情報のなかで、ニコール・キッドマン、アーロン・エッカートが「ことば」抜きで苦悩するのだけれど、その「こころの声」は2人がどんなに頑張っても背景の「裕福家庭」にのみこまれて、非常に薄まってしまう。これでは、映画にならない。どんなに顔のアップがあっても、妙に「薄い」のである。
ニコール・キッドマンが加害者の少年と密会するシーンは、とても象徴的だ。何もない公園で会い、「パラレルワールド」(ラビット・ホール)の話をするのだが、それまでのシーンが「ことば」のない「顔」でみせる映画だったので、ここも同じ路線でストーリーを展開するしかないのだが、そうすると「情報量」が少なすぎて、どこを見ていいか分からなくなる。少ないことば、その少なさを補う顔(表情)。うーん、無理だなあ。
こういうシーンは、舞台で「しゃべりまくる」方が、「過去」が噴出してきておもしろいだろう。だって、「パラレルワールド」を「ことば」で説明するんだから。(漫画も出てくるけどね。)その「ことば」を引き継いで、ニコール・キッドマンの「ことば」が「過去」から「未来」へ動いて行かないと、何をやっているか分からない。顔(表情)で「過去」を「未来」へ動かしていくのは、とても難しいと思うなあ。
繊細な演技ではなく、激動の演技。その「激動」が、完全に欠けている。――つらい「過去」を乗り越え、「未来」へ歩み出すというのは、激動だよなあ・・・。

で、最後がね。映画じゃないでしょ? 芝居でしょ? パーティー(食事会?)でどんな話をするか、どうふるまうか、「ことば」でストーリーを動かしている。時間を動かしている。顔(表情)は一歩引いている。
妙に、ちぐはぐなのである。映像の情報量と、ことばの情報の関係が、しっくりいっていない。「芝居」にして、「激動」を見せた方が、悲しみが静かに浮かぶと思う。




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