三角みず紀「寝室にて。」(「現代詩手帖」2011年12月号)
三角みず紀「寝室にて。」(初出「生命の回廊」2、10年11月)には、わからないところがある。わからないところだらけである。
ふつう、ひとはことばを繰り返す。言ったこと(書いたこと)が不十分だと感じ、言いおおす。反復。反復といっても、そっくりそのままではないから、ずれる。そして、そのずれのなかに、あ、そうか、ほんとうはこういうことが言いたかったのかということがあらわれてくる。言う方(書く方)もまた、そうなのだと思う。ことばを発することで、何かを発見する。まだことばになっていない何かを発見する。そのために、書く。
私は、そういうことを考えながら読むのだが……。
この「寝室にて。」の場合、よくわからないのだ。
2連目「おまえ」が出てくる。「おまえ」がいるということは「わたし」もいるだろう、と思う。「わたしは」おまえのてのひらがすきだ、と言っている。そのてのひらは「異様におおきな」てのひらである。
これが4連目にいくと「わたし」が明記される。これは、2連目の「おまえの/てのひらがすきだ」だけでは、「わたし」という「主語」があいまいだから、言いなおしているのである。2連目では「おまえ」が「主語」であった。「すきだ」ということばがあるから「わたし」という主語があるという見方もあるだろうが、ことばになっていないものは、存在はしない。無意識には存在しても、意識においては存在していないから主語ではない。2連目では、あくまで「おまえ」が主語であり、「おまえのてのひら」が主語である。「主役」と言い換えた方が、たぶん、私の言っていることがわかりやすいかもしれない。
ところが4連目では「主役(主語)」は「おまえ」ではなく「わたし」になっている。三角は、ここで「主役」が「わたし」であることを告げている。「わたし」がおまえがすきなのだ。てのひらではなく、おまえがすきである。だからこそ、「てのひらが/異様におおきくなくたって」ということばが書かれる。2連目の「異様におおきな/その、てのひら」がここでは平然と否定されている。
ね。わからないでしょ? おまえのてのひらは「異様におおきい」「異様におおきくない」。どっち?
どっちであるかを超越して、「わたし」はおまえがすき。
それから5連目。
「主語」(主役)は「わたし」? それとも「おまえ」?
「はじめて起床する」「はじめて目をひらく」の主語は「おまえ」であっても、文章として成り立つ。でも、「はじめて、みた夢をわすれて」は主語を「わたし」にした方がとおりがいいかもしれない。「おまえ」が「みた夢をわすれ」たかどうかは、聞かないとわからない。「わたし」が一方的に判断できない。(断定できない)。でも、もし、それを聞いて知っていたのだとしたら「おまえ」にかわって「わたし」が「おまえ」を語ることができる。
最終連では、また、「おまえ」と「わたし」の「主語」(主役)の関係がわかりにくくなる。「寝息をたてている」の「主語」は「おまえ」である。そして、その「主語」は、ここでは「主役」である。「わたし」は隣で、「おまえ」を見ている。脇役である。
でも、最終連で「わたし」が脇役になるのなら、どうして4連目で「てのひらが/異様におおきくなくたって」という2連目とは違うことを書いてまで「わたし」が「主役」になるひつようがあったのだろうか。最終的に「おまえ」が「主役」なら、ずーっと「わたし」は脇役のままことばを動かすことができたのではないのか。「わたし」が脇役で、「おまえ(そして、おまえのてのひら)」が主役のままの方が、ことばの「距離感」が一定していてわかりやすいのではないだろうか。
でも、三角は、そうしていない。そういう基本的なことばの運動の形をあえて破って書いている。
だから、わかりにくい。
そして、矛盾した言い方になるが、わかりにくいからこそ、わかることもある。
三角の書いている「おまえ」と「わたし」は「一体」なのだ。形式的に「おまえ」「わたし」という「主語」をとっているが、その区別はない。「わたし」にとって、「おまえ」は「おまえ」以上である。「わたし」である。
最終連。
「いつもなつかしい」という1行が、とてもおもしろい。おまえは「いつもなつかしい寝息をたてている」ではない。「いつもなつかしい」は独立している。独立することで、そこに「わたし」という「主語」を呼び出している。
なつかしく感じているのは「わたし」である。
「おまえ」が「なつかしい」のではなく、「わたし」が「なつかしい」。さらに言えば、「わたし」は「おまえ」を「なつかしい」。「なつかしい」ということばで「わたし」と「おまえ」が交錯する。交錯して、「なつかしい」はどっちについていいかわからない。「なつかしい」ということばが、その「ことばの肉体」がどううごいていいかわからなくて、ここでは「中立(?)」の位置にいる。
この「切断」と「接続」が、とてもおもしろい。
この「切断」と「接続」の、あいまいな関係が、てのひらが「異様におおきい」「異様におおきくない」という矛盾を「わたし」と「おまえ」のように結びつける。大きさは関係ない。ただ「おまえのてのひら」でありさえすれば、それは「わたしのてのひら」なのだ。「わたしのもの」なのだ。
で、こういう矛盾のなかで、「あたらしくなりました」と「何百年」が結びつく。3連目の「余計に」もまた「いつもなつかしい」と同じように、不思議な「接続」と「切断」を生きていることばである。
何を書いているのか、その具体的なことがらはわからない。けれど、ことばが「生きている」ということはわかる詩である。
三角みず紀「寝室にて。」(初出「生命の回廊」2、10年11月)には、わからないところがある。わからないところだらけである。
あたらしくなりました
そう
宣告された
おまえの
てのひらがすきだ
おまえの
異様におおきな
その、てのひらが
すきだ
あたらしくなりました
そう、宣告された
あたらしくなりました。
余計に
もう何百年もゆるやかにながれているようだ
おまえの
てのひらが
異様におおきくなくたって
わたしはおまえが
すきだ
二月末に
はじめて起床する
はじめて目をひらく
はじめて、
みた夢をわすれて
隣で
寝息をたてる
おまえだけは
いつもなつかしい
寝息をたてている
ふつう、ひとはことばを繰り返す。言ったこと(書いたこと)が不十分だと感じ、言いおおす。反復。反復といっても、そっくりそのままではないから、ずれる。そして、そのずれのなかに、あ、そうか、ほんとうはこういうことが言いたかったのかということがあらわれてくる。言う方(書く方)もまた、そうなのだと思う。ことばを発することで、何かを発見する。まだことばになっていない何かを発見する。そのために、書く。
私は、そういうことを考えながら読むのだが……。
この「寝室にて。」の場合、よくわからないのだ。
2連目「おまえ」が出てくる。「おまえ」がいるということは「わたし」もいるだろう、と思う。「わたしは」おまえのてのひらがすきだ、と言っている。そのてのひらは「異様におおきな」てのひらである。
これが4連目にいくと「わたし」が明記される。これは、2連目の「おまえの/てのひらがすきだ」だけでは、「わたし」という「主語」があいまいだから、言いなおしているのである。2連目では「おまえ」が「主語」であった。「すきだ」ということばがあるから「わたし」という主語があるという見方もあるだろうが、ことばになっていないものは、存在はしない。無意識には存在しても、意識においては存在していないから主語ではない。2連目では、あくまで「おまえ」が主語であり、「おまえのてのひら」が主語である。「主役」と言い換えた方が、たぶん、私の言っていることがわかりやすいかもしれない。
ところが4連目では「主役(主語)」は「おまえ」ではなく「わたし」になっている。三角は、ここで「主役」が「わたし」であることを告げている。「わたし」がおまえがすきなのだ。てのひらではなく、おまえがすきである。だからこそ、「てのひらが/異様におおきくなくたって」ということばが書かれる。2連目の「異様におおきな/その、てのひら」がここでは平然と否定されている。
ね。わからないでしょ? おまえのてのひらは「異様におおきい」「異様におおきくない」。どっち?
どっちであるかを超越して、「わたし」はおまえがすき。
それから5連目。
「主語」(主役)は「わたし」? それとも「おまえ」?
「はじめて起床する」「はじめて目をひらく」の主語は「おまえ」であっても、文章として成り立つ。でも、「はじめて、みた夢をわすれて」は主語を「わたし」にした方がとおりがいいかもしれない。「おまえ」が「みた夢をわすれ」たかどうかは、聞かないとわからない。「わたし」が一方的に判断できない。(断定できない)。でも、もし、それを聞いて知っていたのだとしたら「おまえ」にかわって「わたし」が「おまえ」を語ることができる。
最終連では、また、「おまえ」と「わたし」の「主語」(主役)の関係がわかりにくくなる。「寝息をたてている」の「主語」は「おまえ」である。そして、その「主語」は、ここでは「主役」である。「わたし」は隣で、「おまえ」を見ている。脇役である。
でも、最終連で「わたし」が脇役になるのなら、どうして4連目で「てのひらが/異様におおきくなくたって」という2連目とは違うことを書いてまで「わたし」が「主役」になるひつようがあったのだろうか。最終的に「おまえ」が「主役」なら、ずーっと「わたし」は脇役のままことばを動かすことができたのではないのか。「わたし」が脇役で、「おまえ(そして、おまえのてのひら)」が主役のままの方が、ことばの「距離感」が一定していてわかりやすいのではないだろうか。
でも、三角は、そうしていない。そういう基本的なことばの運動の形をあえて破って書いている。
だから、わかりにくい。
そして、矛盾した言い方になるが、わかりにくいからこそ、わかることもある。
三角の書いている「おまえ」と「わたし」は「一体」なのだ。形式的に「おまえ」「わたし」という「主語」をとっているが、その区別はない。「わたし」にとって、「おまえ」は「おまえ」以上である。「わたし」である。
最終連。
隣で
寝息をたてる
おまえだけは
いつもなつかしい
寝息をたてている
「いつもなつかしい」という1行が、とてもおもしろい。おまえは「いつもなつかしい寝息をたてている」ではない。「いつもなつかしい」は独立している。独立することで、そこに「わたし」という「主語」を呼び出している。
なつかしく感じているのは「わたし」である。
「おまえ」が「なつかしい」のではなく、「わたし」が「なつかしい」。さらに言えば、「わたし」は「おまえ」を「なつかしい」。「なつかしい」ということばで「わたし」と「おまえ」が交錯する。交錯して、「なつかしい」はどっちについていいかわからない。「なつかしい」ということばが、その「ことばの肉体」がどううごいていいかわからなくて、ここでは「中立(?)」の位置にいる。
この「切断」と「接続」が、とてもおもしろい。
この「切断」と「接続」の、あいまいな関係が、てのひらが「異様におおきい」「異様におおきくない」という矛盾を「わたし」と「おまえ」のように結びつける。大きさは関係ない。ただ「おまえのてのひら」でありさえすれば、それは「わたしのてのひら」なのだ。「わたしのもの」なのだ。
で、こういう矛盾のなかで、「あたらしくなりました」と「何百年」が結びつく。3連目の「余計に」もまた「いつもなつかしい」と同じように、不思議な「接続」と「切断」を生きていることばである。
何を書いているのか、その具体的なことがらはわからない。けれど、ことばが「生きている」ということはわかる詩である。
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