詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島数子「梨のメロディー」

2012-04-15 08:32:21 | 詩(雑誌・同人誌)
小島数子「梨のメロディー」(「庭園2012」2012年04月22日発行)

 あることば、あるリズムが好きだなあ、と感じる。そして、その理由はわからない。そういことが、しばしばある。
 小島数子「梨のメロディー」の書き出し。

沈丁花の匂いは
別れた恋人を懐かしむ人の顔に似ている
まだ寒いのに箱の中から出てきた雛人形が
風邪でもひかなければいいと思う
燕が軒下に巣を作ろうとしてやってきたので
断ったが
なかなか忘れられないその食い下がり方は
作られた巣のようだ

 ここに書かれていることばは、すべて「意味」はわかる。知らないことばは何一つない。しかし、沈丁花、雛人形、燕と動いていくことばの「必然性」はわからない。何の関係があって、そんなふうに繋がるのか。
 たとえば、きのう読んだ糸井茂莉の詩ならば、ことば、語源、その変化というものが遠いところで呼びあっている、それが「肉体」を刺激しているということが何となく感じられる。
 しかし、小島のこの作品のことばの動きはわからない。
 強いて言えば、季節の流れに沿っているということかもしれないけれど。

 でも、それは、どうでもいいのだ--と書いてしまうと小島に申し訳ない感じもするけれど、私は「意味」よりも、ここに書かれていることばのリズムに酔ってしまった。気持ちがいいのである。
 特に印象的なのが、

断ったが

 この短い1行である。
 なぜ、この1行だけ、動詞しかないのだろう。
 書き出しの「沈丁花の匂いは」という行も短いけれど、「断ったが」に比べると、それでも「沈丁花」と「匂い」というふたつの要素がある。「断ったが」は、何にも頼らず(?)ただそこに存在している。不思議な感じがする。
 そして、その短いことばは、何といえばいいのだろうか、「風邪でもひかなければいいと思う」や「なかなか忘れられないその食い下がり方は」という行の、口語的な「長さ」を「くすぐる」感じがする。刺激する感じがする。
 「断ったが」が短いために、その前後にある口語の、ひきずるような長さを、意識できない角度から照らしだすような感じがする。
 このリズムの変化がとても楽しいのである。

廃線路を静かに走るのは
草の車輪の電車だろう
土砂降りの雨は
地面に甘えているのかもしれない

 つづけて読み進むと、沈丁花からはじまる駆け足の季節のスケッチ、その時間の流れが、この詩の「意味」かもしれないと思う。
 しかし、やはり、その「意味」よりも、不思議なリズムのなかで動いている口語の「あいまいさ」のようなものが、私にとっては重要である。何か「肉体」を感じさせる。そこに「肉体」があるという印象を呼び起こす。
 それは私の知らない「肉体」である。だから、私にはその「肉体」の魅力を語ることはできない。できないのだけれど、語りたい--そういう「欲望」を誘う「肉体」なのである。
 別な言い方をしてみる。

 「だろう」「かもしれない」という「推量」の口語。それが「草の車輪」や「地面に甘えている」という非日常的なことば(詩、だね)を、口語のまま動かしている。
 そこには不思議な説得力がある。
 そうなんだ、土砂降りの雨は地面に甘えているんだ、と思ってしまう。地面を叩いている--攻撃しているのではなく、甘えている。じゃれている。自分を大地にまかせている。そういういままで知らなかった「肉体」の動きがここにある。
 「肉体」を連想させることばの響きがある。
 ここに、私は「音楽」を感じる。
 詩のタイトルに「メロディー」とある。まあ、四季の時間の流れにのって動く沈丁花、雛人形、燕、草、土砂降りが「意味のメロディー」なのかもしれないけれど、うーん、私はむしろ「風邪でもひかなければいいと思う」というような、どこかで聞いたことのあるような音のつらなりに「メロディーの肉体」があり、それは「断ったが」という、短く、無意味(?)なことば--無意味というのは、その1行だけでは「繋がり」を欠いているということなのだが--の刺激(リズム)によって、音楽になっていると思うのである。「肉体のリズム」が「肉体のメロディー」を呼び起こしているように感じるのである。「肉体のリズム」と「肉体のメロディー」が「肉体」で結びついて(繋がって)音楽になっている--と感じるのである。
 
 私がいま書いていることは、まあ、単なる印象批評(?)である。何の根拠ももたない印象にすぎない。私の「肉体」のなかだけで起きていることであって、私の書いていることが、これを読んでいる誰かに伝わるとも思えないのだが--しようがないのである。この詩については、こういうことしか書けないし、こういうあいまいなことをこそ書きたいと私はいま思っている。
 「断ったが」と同じような効果をもつ行は2連目にも出てくる。

凍てついたようにある
見たり聞いたりするのが悲しい偏りは
向けない背中で包んでしまえばいいのだが
そうともいかない
ときとして差す
憐れな傘は
雨に耐えればいいだけではない

 何が書いてあるのか、その「意味」を私は追いたくない。「意味」を追うよりも、書いても書いてもたどりつけない「そうもいかない」という1行の「音」が照らしだすもの--それが、ここにあると書きたい。(変な文章だねえ。)
 「そうともいかない」という口語、その次にあらわれる「ときとして」という文語--文語の響きを私は「ときとして」に感じている--その相互の刺激が、「見たり聞いたりするのが悲しい偏りは」という、わけのわからない(私には理解できないという意味である)行を振り返らせる。ちょっと引き返して、その行を私は読んでしまう。読み直してしまう。
 それは、あれっ、いま聴いた音楽、それはどういうメロディーだったっけ(ドレミでたどりなおすと、どうなるんだろう)という疑問に通じるものだけれど--そんなふうに行を行き来するというのも、不思議と楽しい。


詩集 等身境
小島 数子
思潮社
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糸井茂莉「(白の系譜)、余白に」

2012-04-14 10:13:12 | 詩(雑誌・同人誌)
糸井茂莉「(白の系譜)、余白に」(「庭園2012」2012年04月22日発行)

 糸井茂莉「(白の系譜)、余白に」は、たぶん外国のどこかの修道院で出合った詩を思い出そうとするひとが「主人公」である。それが、しかし、思い出せない。「生憎メモをとらずに極東のこの国に戻ってしま」ったので、なんとかその詩を教えてもらいえないだろうか--というのが、この作品の書き出しである。その詩について、

暗い、けれど白一色のあの日に、南生まれの詩人の詩行は場違いな熱気を帯びて冷えた身体に滲みこんできました。

 と、書くこの部分。「身体に滲みこんできました」は、いわば「常套句」なのだが、その「身体」ということばに、私は魅力を感じた。
 というのは、実は、あとから気がついたことでというか、二つ目の断章に読み進んだとき、「身体」ということばがふいによみがえってきたのである。

 「身体」とは何か。なぜ、そのことばが、ふいに思い出されたのか。

泉が、ちがう二つの土地を繋げている、ということになるのだろうか。V……の泉と、名のなかに泉が読みとれるF……修道院と。

 この「F……修道院」と書き出しの部分の修道院(貴院、としか書かれていないのだけれど)は同じものだろうか。違うものだろうか。違うものかも知れないが、私は「同じもの」と感じてしまう。
 なぜか。
 「院」ということばが私の「肉体(糸井は身体というのだが……)」に残っていて、それが「F……修道院」とつながってしまうのだ。
 それは、「泉が、ちがう二つの土地を繋げている」ということばに誘われるようにして、そう思ったのだが、この「ちがう二つ」のものを「繋げている」というときの、その繋ぐ力が「肉体/身体」というものだと思った。
 そもそも、「肉体」というもの自体が、それぞれ別々である。別々であるけれど、「繋がる」。それはセックスという意味ではないが、やはりセックスなのだろうなあ。離れて繋がりながら、その繋がりをとおして、私が私の「肉体」から出ていく。エクスタシー。そういうことが、ことばをとおして「肉体」そのものに起きる。
 「泉が」を「水脈が」と読み替えてみようか。ひとつの水脈の一方に「V……の泉」がある。そしてそこから離れたところに「F……修道院」がある。それを繋いでいる「水脈」は「水」そのものというよりも「泉」ということば、文字--ことばが「大地」を潜り抜けて離れた土地を結びつける。
 そのとき、私がいまここで書いている「肉体/身体」というのは何になるだろうか。
 「水」「水がくぐりぬける大地」それとも「ことば(文字)」?
 こんなことは考えると、ちょっとめんどうくさい。たぶん、はっきりとは区別できない「繋がり」の総体だろうと思う。
 「肉体」とは何かそういうもの、はっきりと「これ」と特定できない「繋がり」の総体のようなものなのだと思う。だからこそ、肉体が触れあわず、ことばに触れるだけで、そのことがセックスにもなる。ことばが「肉体/身体」に「滲みこんできて」、私を私ではなくしてしまう、ということが起きる。
 糸井は、いつでも離れたもの(別個のもの、たとえば国ごとに少しずつ違っていくひとの名前、語源的には同じだけれどちがう名前)のなかにある「繋がり」に意識を向けているが、その「繋がり」は、抽象的というか、あいまいなものだけれど、つまり「違い/ずれ」が何によって起き、どうしてそうなのか特定しようとすると非常に面倒なものだけれど、そういう面倒なものを「肉体/身体」はまるごと自分のなかに取り込み、「ひとつ」と感じてしまう。ヘレンとエレーヌは「ひとつ(同じ)」と理解してしまう。これは、たとえば、その名前を「頭」のなかにだけ置いておくのではなく、声に出す、目で読む(文字を書く)という「肉体/身体」の動きをとおすと、いっそう強くなる。繋がりが強くなる。そして、その繋がりを「肉体」/身体」は記憶する。覚えてしまう。そして、その「繋がり」の感覚、「繋げる」という感覚が、あるとき、別のもののなかでふいによみがえる。そうして、ことばのセックスがはじまる。声が、喉が、耳が、目が、触れ合い、「いま/ここ」にないものが出現する。その出現した「世界」のなかへ、私が入っていく--ということは、私が私から離脱すること、エクスタシーであり、セックスの局地である。それをことばで言いなおすと、次のようになる。糸井は、「泉」と「修道院」の「繋がり」を次のように言いなおす。

あの日、雪のなかで黒い山の奥から流れる水の音がして、この水を拠りどころに石の棲処と神のための祈りの場をこしらえた昔の人々の息づかいが絶えまなく湧きあがり、流れる水の音と重なって聴こえた気がしたが、深い雪のなかをすでに歩いていく人の、黒だろうか、白だろうか、毛織の分厚い衣服のシルエットが森のほうに消えて、雪のなかに隠れた深い水までの、誰かの足跡が途絶えてしまった。

 「黒だろうか、白だろうか」という表現が象徴的だが、そこでは正反対のものまでもが「ひとつ」なのである。「繋がり」のなかでは、「同じ」なのである。「雪のなかに隠れた深い水」ならば、そこに「水」があるかどうかわからないはずなのだが、それが「わかってしまう」のが「肉体/身体」なのである。目には見えない。けれど「肉体/身体」が「覚えている」。
 「肉体/身体」が「覚えている」ものは、いつでも、どこでも「つかえる」。つまり、自在に動き回り、「身体/肉体」をどこへでもつれていく。どこへでも「繋げてしまう」。
 で、最初に戻ると。
 修道院で読んだ詩、その行--それは、突然「主人公(糸井と考えてみようか)」の「身体」に滲みこんできた。こういう唐突な衝撃は、「頭」ではなく、直接「身体」と「身体」を繋げてしまう。糸井は、そのとき「ことば」を通り越して、その詩人の「身体」と重なってしまった。セックスをしてしまった。そこでは「ことば」はいらない。「身体」が勝手に反応しているのである。
 そうして、セックスが終わったあと、身体のなかには火照りのような余韻があるけれど、あ、あのことば--あれは一体なんだったのか、うーん、それが思い出せない。そういう状態なのだと思う。だから、あの詩のことばにあこがれる。もう一度、そのことばと身体をまみえさせてみたい。そういう欲望に突き動かされている。

 離れている。けれど、繋がってもいる。その間に「身体/肉体」が放り出されている。そして、その繋がりを探している。きちんと(?)つながれば、それは「本文」になる。あいまいに組み込まれているから、それは「余白」に書かれたことばになる。
 離れながら、繋がるということが、そこからはじまっている。

アルチーヌ
糸井 茂莉
思潮社
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山口賀代子「黄泉がえり」

2012-04-13 10:19:06 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「黄泉がえり」(「庭園2012」2012年04月22日発行)

 私はとてもわがままな読者である。簡単に言うと、詩人が書いていることがら(内容、意味)を私は無視して読んでしまう。自分の好きなように「誤読」する。私は「読みたい」というよりも、そこにあることばに出合うことで「肉体」を感じたいのである。ことばを「肉体」として感じる、その瞬間が好きで、そのために読む。
 どういうふうにかというと、たとえば山口賀代子「黄泉がえり」。私は、その2、3連目がとても好きである。

視線のさきにあるいているひとの背がみえる
速足であるているつもりなのに 距離がちぢまらない
京都の夏の鴨川べりには等間隔の法則というのがあって
それぞれの恋人たちの座る位置がはかったように等間隔になることをいうのだが
まえをあるくひととの距離もはかったようにちぢまらない

わたしにはまえをあるくひとの背がよくみえる
そのひとがだれなのかしっている
しっているが声をかけてはならないひとの背に
おいつこうとしてあるきつづけた

 「鴨川の等間隔の法則」の部分は、一種、冗漫な気がする。散文的な説明にすぎない気がする。--気がするのだが、これがなぜか、この詩を支えているという感じがするのである。そこに山口の「肉体」を感じるのである。その「肉体」の感じというのは、あ、山口はその「等間隔の法則」を見たのだ、見た記憶があるのだという信頼感である。
 この「等間隔の法則」を見た記憶は、そのまま山口の「肉体」になっている。それが、まあ、何といえばいいのだろう、ここで書かなくてはいいのに、ここに出てきてしまっている。そこがおもしろい。そこに不思議な「肉体」を感じる。

 うまく言えない。書けない。別な言い方をしてみる。
 この詩は引用はしないが、全体としては「架空」のことを書いている。「架空」というと「誤読」になるが、まあ、実際にはないことがらをことばで動かしている。その実際にはないことがらを動かすときに、どうしても「本当」が必要になる。どんな嘘でも、嘘をつきつづけると、どこかで「本当」が出てきてしまう。その人が実際に体験したことが紛れ込んでしまう。私たちは、たぶん、ことばを「体験/肉体」と切り離しては動かせないのだと思う。
 で、山口の場合、歩いても歩いても、前を歩くある人に追いつけないということを書くときに、その追いつけなさ--距離を埋めることができない感覚を、ことばでなんとか明確にしようとすると、ふいに「鴨川の等間隔」が出てくる。鴨川と、いま山口が書いている「架空の場」は無関係なのに、そこに山口の肉体が覚えていることがでてきてしまう。
 「肉体が覚えたこと」というのは、忘れることができないのである。そして、それは、あるときむりやり「応用力(?)」となって噴出する。説明できないものを説明するとき(これは矛盾した言い方だが)、そのひとが「覚えている」ことがことばとなって動くしかないのである。「肉体」が動くしかないのである。
 脱線しながら補足すると、たとえば外国で何かをいわなけれはならない。そういうとき、外国語がわからないと、どうするか。日本語で身振り手振りを繰り返す。「肉体」を動かして、通じない「日本語」をわかってもらうしかない。「肉体」は何かを覚えていて、その覚えていることしか、つかえない。

 で、そういうことをしたあと、ことばは何かしら肉体に汚染(?)されたような感じになる。ことばに「肉体」がまじってきてしまう。
 どういうことかというと……。

わたしにはまえをあるくひとの背がよくみえる
そのひとがだれなのかしっている
しっているが声をかけてはならないひとの背に
おいつこうとしてあるきつづけた

 この「まえをあるくひと」が、「恋人」に汚染(?)されてくるのである。実際に恋人であったというのではない。そうではないけれど、なんらかの形で「意識」にあったひととして見えてくる。「知っている」は「知っている」ではなく、「覚えている」なのである。
 言い換えると。
 たとえば、私は「宮沢りえ」を「知っている」。実際に映画やテレビでも見たし、今年は舞台でも見て、あ、りえちゃんの追っかけをやろうかな、とふいにミーハーの気分にもなったのだが、それはあくまで「知っている」。私の肉体は宮沢りえを「覚えていない」。実際に、目と目があって、ことばではなく、肉体が何かを受け止めたという感じではない。「覚える」というのは、一方的なことではなく、相手もなんらかの印象をはっきりと肉体に刻み込むということである。その「肉体」と「肉体」の、ことばを超えた刻印が双方にないときは、たとえセックスをしても「肉体」が「覚えている」とは言えない。
 逆にセックスをしなくても、肉体のなかでことばにならないものが動き、それを互いに感じあい、それが刻印されたら「覚えている」になる。
 それは好感だけではなく、反感も同じである。「しっているが声をかけてはならないひと」というのは、好感か、反感か、私にはわからないが、それは山口の「肉体」にしっかり刻み込まれている。だから「肉体」が反応して、「おいつこうとあるく」という動きになる。
 その肉体を支えているのが「鴨川の等間隔の法則」なのだ。「法則」というと抽象的だが、それは山口の「肉体」が「覚えている」距離のあり方なのだ。

 この山口の肉体が「覚えていること」が、もっと違った形のことばとして動きだすと、山口の詩はもっともっとおもしろくなるのではないかと思う。「架空」の世界ではなく、象徴の世界ではなく、「いま/ここ」で、その肉体が動きはじめると、もっとおもしろいはず--と、私は山口が書きたいこととは関係なく、考えるのである。
 肉体が覚えていること、それをつかいながら「いま/ここ」と切り結ぶ--そういうことが、ほんとうはできるのではないのか、と思うのである。




詩集 海市
山口 賀代子
砂子屋書房
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相沢正一郎「手」

2012-04-12 12:20:23 | 詩(雑誌・同人誌)
相沢正一郎「手」(「ひょうたん」46、2012年03月10日発行)

 相沢正一郎「手」は感情を書かずに肉体の動作を書く。そうすると、肉体が感情になる。そういうことを知っている詩人の詩である。

<わたしは掘る--夜中に地面に爪を喰い込ませて、締めた土の匂いをかぎながら、まいにち少しずつ私自身の中に根をのばすように……>と、日記に書いて、テーブルにボールペンをおく。……わたしは、すっかり葉を落とした裸の木。
 明るい蛍光灯の下、懐かしむように手を見つめる。……わたしは、瞬く蛍光灯を取り換えた、蕗の皮を剥いた、手紙を書いた、風呂の湯加減を見た、魚の重さを測った、骨を拾った、もうひとつの手のほうに、この手をひらいてさしのべた。

 肉体の動きは、動きであることをとおして、どんなものとも「一体化」する。運動としての「比喩」といえるかもしれない。
 <わたしは掘る>ははじまることばは、「わたし」を人間だと思わせる。しかし、そのことばが「掘る→土→根」と動いていくとき、「わたし」は自然に「木」になる。木は、たしかに土を掘るようにして生きているのだとわかる。
 こうなると、相沢が書いているものが「わたし」という人間なのか、それとも「木」なのか、わからなくなる。木がわたしの比喩なのか。わたしが木の比喩なのか。こういう混乱、混同のなかに、詩があるのだと思う。
 ひとは(読者)は混乱したい。混乱するということは、何かを別の何かと取り違えるということである。そのとき、それまでの何かに縛られていたものがほどかれるのだ。自由になるのだ。自由は、混乱(混同)のなかににしかない。そこから、いままでなかったものが生まれてくる。何かが生まれるためには、混乱し、勘違いして、その勘違いを「可能性」として信じる必要があるのだと思う。
 相沢の「手(わたし)」は木になったあと、ほかの仕事をする。そこでは木の場合のように比喩は描かれないのだけれど、いったん比喩を体験した手は、無意識的に比喩をひきずる--比喩を体験する。手は手でありながら、蛍光灯になり、蕗の皮になり、手紙になり、風呂の湯になり、魚になる。
 そういう幾つもの時間を潜り抜けてきたものを、もう一度「手」にもどすために、相沢は「この手」をさしのべる。そのとき、たださしのべるのではなく「ひらいて」さしのべる。この「ひらいて」が相沢なのだろう。相沢の肉体であり、思想なのだろうと思った。
 「ひらいて」は「開いて」。それは「受け入れる」ということだろうと思った。
 たとえば土を掘る。地面に爪を喰い込ませて--という動作は、土に働きかけながら、土のありようを受け入れるということである。土とは何かを知ることでもある。だからこそ、土から「湿った(土の)匂い」が生まれてくる。土を掘る手に受け入れなれながら、土は湿った土になり、そして匂いを発する土になる。受け入れるということは、「他者」の変化を促すことなのである。そうして、さらにその「匂いを嗅ぐ」とき、その土の匂いは「わたし」の肉体の内部に取り込まれる。開いて受け入れる--それは、わたしがわたしではなくなる、わたしが生まれ変わるということでもある。


テーブルの上のひつじ雲テーブルの上のミルクティーという名の犬
相沢 正一郎
書肆山田
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草野早苗『キルギスの帽子』

2012-04-11 10:16:50 | 詩集
草野早苗『キルギスの帽子』(思潮社、2012年03月31日発行)

 草野早苗『キルギスの帽子』を読みながら孤独を感じた。その孤独は、ことばから何もはみださないところから生まれてくる印象である。--と、書いてはみたものの、抽象的すぎて、なんのことかわからないだろうなあ……。いや、私自身がよく分からないのだけれど。
 たとえば「島の教会」。

島の海面は星の形に広がり
あらゆる方向から吹く風に
木々や植物は動いて揺れて
くしゃくしゃの巻き毛のように
絡み合っている

 たぶん詩人は海が見渡せる高みにいる。丘の上かもしれない。「島の教会」というタイトルから想像するに、そこには教会が立っているのかもしれない。そこからは海だけではなく、木々や植物が見える。風が吹いている。その風を何にも遮られることなく、木々や植物のように、あるいは詩人が木々や植物になって、風を感じることができる。そして、揺れる。いや、それだけではない。そのとき詩人は風に揺れる木々や植物であるだけではなく、風そのものでもある。あるいは、星の形の広がりの海であり、同時にあらゆる方向である。つまり、どの方向にも開かれている。
 草野の「孤独」は、たぶん「あらゆる方向」ということばに象徴されている。どこか一方に向いているのではない。何かの「目的」に向かって動いているために、他のものを拒絶して生まれる孤独ではない。何もかも捨ててしまって、解放(開放?)されてしまった孤独なのである。
 「孤独」というと、何かしら、こころの「核」のようなものを思い浮かべるとわかりやすいが--つまり、何もと接点をもたない「孤独」を考えるとわかりやすいが、草野の場合、「孤独」はそういうものとは違うのだ。--草野のことばから感じる孤独はそういうものとは違う。何か、核のない、開放(解放?)されてしまった「広がり」が孤独である。
 「星の形に広がり」の「広がり」、そして「あらゆる方向」の「あらゆる」が孤独なのである。それは「空間」的な問題に限定されない。「あらゆる/方向」に開放(解放?)されているのではなく、あらゆる「存在」に対して開放(解放?)されている。海にも、風にも、木々にも、植物にも--すべての「存在」と一瞬のうちに融合して、詩人が詩人の枠を超えてしまう。そういう感じの「孤独」である。
 ことばにするたびに、そのことばは詩人ではなく、そこにある「存在」になってしまう。詩人という「核」が「存在」に一瞬のうちに入れ替わってしまう--そういう運動としての(?)孤独。そういうものを感じる。

海を渡る前から考えていた
失ったものと得たものと
得たものと失ったもの

 「失ったものと得たものと/得たものと失ったもの」。ここに書かれているのは、やはり一瞬の入れ替わりである。それは入れ替わることで「ひとつ」になる。失ったものと得たものという「ふたつ」があるのではなく、それは失わないことには得られなかったもの、つまり「ひとつ」なのだ。それは「もの」ではなく、そういう体験をとおしてできあがる「私」という存在なのである。「私」があらゆる体験に対して開かれる。そうして、その体験のなかでそれまでの「私」を失い、新しい「私」になる。あるいは、新しい私になることでそれまでの私を失う。その繰り返し。瞬間瞬間に生まれ変わる。一期一会。そういう孤独が、草野の詩を貫いている。

入江の向こう側
岬を少し入ったところに建つ教会
潮が満ちてきているので
波に浮いているように見える

丘の中腹の修道院の庭から見下ろせば
それはまるで小さな野の花のように
ただそこに在る

 草野の思想(肉体)は、「ただそこに在る」という「存在論」に立っている。そこに「在る」だけ。何もとつながらない。何ともつながらないことによって、あらゆるものとつながる。その断絶と開放と、開放と融合--この運動を可能にする「孤独」として、「ただ在る」。だれにも頼らず、「ただ在る」。

秋の陽が岬の向こうに落ちるまで
私は見つめていた
入江の向こうの野の花のような教会を
生まれる前から知っていた
かつて私が死んだり生まれたりした場所を

私の魂はようやく気づく
失ったものも得たものも
なにもありはしないのだと
そんなことより
もっとあの海の向こうに行ってみよう
遠くまで

 「かつて私が死んだり生まれたりした場所」。「……たり……たり」というのは繰り返しである。繰り返すことで、前者と後者の運動は「ひとつ」になる。同じことになる。「死ぬ」と「生まれる」は反対のことがら、いわば矛盾した運動だけれど、繰り返しによって、その繰り返し自体が「ひとつの運動」となる。そして、その運動の中にすべてのものが融合する。その運動の中にあらゆるものが、出たり入ったりする。つまり、その運動のなかで「失ったり得たり」、「得たり失ったり」が繰り返される。
 そういう運動として、私という存在は、「ただ在る」。
 草野の書いているのは、「存在論」であり、「運動論」である。そこでは「孤独」であることは、「孤独」ではない、ということでもある。「孤独」であることで、はじめてあらゆる存在と融合し、「宇宙(いのち)」になる。その宇宙は、実は「肉体(ことば)」のなかにある。

 草野のことばが「孤独」に見える(感じられる)のは、いま、こういうことばを書く詩人が少ないからかもしれない。
 こういう詩を書くひとが少ないので、この詩を「位置づける」ことが難しい。詩に、「位置」というものなどいらないのは承知しているが、「位置」が見あたらないというのは、詩としては「損」かもしれない。
 とてもいい詩なのに、孤立してしまう。孤独が草野の特徴だとしても、これはなんだか残念な感じがする。書くひとが少ないなら、せめて、多くのひとに読んでもらいたい--そう願わずにはいられない。

キルギスの帽子
草野 早苗
思潮社
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佐々木英明「若いおんなと老人」

2012-04-10 10:03:51 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木英明「若いおんなと老人」(「ココア共和国」9、2012年03月01日発行)

 佐々木英明「若いおんなと老人」を読みながら、ぼんやりと寺山修司を思い出した。秋亜綺羅の発行する「ココア共和国」には、寺山修司の「気分」がいつも満ちている。たぶん、それが秋亜綺羅の「好み」なのだと思う。で、何が寺山修司の「気分」かというと、「論理性」である。ことばに論理がある。しかも、その論理性はとても静かである。ていねいである。むりがない。

きみを汽車に乗せたい
電車ではなく汽車に
ということはあれだ
ずっと時を遡るってことだ

 「きみを汽車に乗せたい」は「時を遡る」(過去へ行く)ということだが、一気にそんなふうには言わない。「電車ではなく汽車に」と「汽車」を繰り返し、その「意味」も一気には言ってしまわない。「ということはあれだ」はワンクッションある。「あれ」とは何か。前の行には出てこない。出てこないのだけれど、この「ということはあれだ」という口語の口調とリズムには、なつかしいものがあり、つまり、こういう口調・リズムがことばとして通じるのは、聞き手と話し手の間に共通の「過去」があるからだをということを感じさせておいて、「ずっと時を遡るってことだ」とつないでゆく。
 このとき、ここには書かれていないけれど、二人は「過去(時を遡ったある時)」に、いっしょに「汽車」を体験していることがわかる。いっしょに汽車を体験していなければ、それが「時を遡る」ということがわからない。ふたりはいっしょに汽車に乗り、どこかへ行った。行かなかったとしても、行こうと約束した--そういう「過去」が見えてくる。そして、その「過去」には、ふたりの「感情」がある。「過去」とは「感情」であり、「感情」が時間といっしょに動くとき、そこに「記憶」の「意味」が生まれてくる。それが佐々木にとって「論理」ということになるかもしれない。
 知性にとっての「意味」ではなく、「感情」にとっての「意味/論理」。これを、たぶん「抒情」という。この抒情の定義が、寺山修司の「気分」なのだと思う。
 で、その「論理」に、「頭」ではなく違うものが入ってくるというのは、「ということはあれだ」という行に象徴的に凝縮している。そこに「論理」の飛躍があるのだけれど、そしてその飛躍を可能にしているのは、「体験」、つまり実際に肉体があって、ことばがあって、会話してきたという時間の蓄積があるということ。
 夫婦の会話で「あれ、とって」「ああ、あれね」とか「あれ、とって」「あれって、何」「なんで、あれがわからない」なんていう会話があったりする。そのとき「あれ」はなんとなく共有されている。それと同じように、「とういことはあれだ」というとき、少なくとも話し手の方には「あれ」が聞き手との間に、無意識的に共有されているということだね。
 つまり、そこには「過去」がある。
 これは言い換えると、ことばが「芝居」のことばであるということだ。芝居は、登場人物がそれぞれ「過去」を「いま/ここ(舞台)」に持ち込んでいる。(小説と、そこが違う--小説は、あとでなんとでも説明できるが、舞台は役者がでてきてたら、そこに「過去」がないとは時間が動かない。)
 そして、その「過去」が何度も何度も「肉体」として噴出し、いまを、未来へ動かしていく。
 佐々木の詩は、実際、そんなふうにして、「ということはあれだ」を繰り返しながら、突き進んで行く。

きみを海辺に降ろしたい
山ではなく海辺に
とういことはあれだ
ぼくらはさびしい恋人同士ってことだ
潮騒を聴き
口笛に口をとがらせる
きみの時間だけもどし
ぼくは砂浜の植物たちの名を口ごもる
その奇妙な音のつながりが
きみには
少し先の未来に思われる
ということはあれだ
きみはぼくを振り向けないってことだ
愛のことばが
きみをいっそうさびしくする
一駅ごとにまとわりつく翳を
振り払いもせず
きみは帰ってくる
すすけた電車で
ということはつまり
植物誌をたったいま閉じたばかりの
ぼくのもとへということだ

 「ということはあれだ」が最後に「ということはつまり」に変化する。「あれ」という間接性がきえ「つまり」という直接に変わる。そのとき「過去」は「現在」になる。そして、そういうことが可能なのは、そこにあることばが「肉体」をもっている、「肉体」とともにあるということなのだ。
 だから、この詩は、ひとりで「雑誌」で読むよりも、舞台に乗せて、役者にしゃべらせた方がもっとくっきりする。「口笛に口をとがらせる」というような具体的な肉体の表現がなまなましくなる。リアルになる。なんといっても、そこには話者の肉体と向き合っている聞き手(他人)の肉体があるからね。

 (私の感想の、この最後の部分--ちょっと性急すぎるね。説明不足だとはわかっているけれど、省略。--長く書いていると、目の具合が悪くなるので、また機会があったらつづきを書く。いまは書く時間を20分-30分に限定している。)



季刊 ココア共和国vol.9
秋亜綺羅,佐々木英明,佐野カオリ,十六夜KOKO,恋藤葵
あきは書館
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小林稔「榛の繁みで(二)」ほか

2012-04-09 10:19:26 | 詩(雑誌・同人誌)
小林稔「榛の繁みで(二)」ほか(「ヒースメロス」20、2012年03月25日発行)

 小林稔「榛の繁みで(二)」の「四、使者」はフラ・アンジェリコの「受胎告知」との出合いを描いている。

ぼくはなぜか一瞬自分の存在を消され空洞になったように感じた。心が、といおうか魂が身体をを抜け出て遠い高みに導かれるようで、(非現実の空間が存在するならば! )恐怖と陶酔の入り混じった気持ちにさせられた。

 ここに小林のことばの運動が凝縮している。「心(魂)」と「身体」を小林は明確にわけて考えている。「二元論」である。そして、その「二元論」をフラ・アンイジェリカの絵が代表するような、いわば「西洋」の「芸術(文化)」によって完結させようとする姿勢である。「理想」が「西洋文化」にあり、それを目指している--そういうことを意識して小林自身に課している。
 「二元論」を小林は「二重」ということばでとらえている。
 そこに、ちょっとおもしろいことばの運動がある。一種の乱丁というか、ちぐはぐなところがあって、私はそこに非常に興味をもってしまった。
 小林の哲学は西洋に起源を置く「二元論」であると思うのだが、そこに何か、小林の「予想」を裏切るものがあるように思えるのだ。小林自身が制御していないものがあるといえばいいかもしれない。

現実と夢の世界の(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )二重性を生きる時間はそれほど長くはつづかなかったし、事物がよそよそしい表情をなげかけることの方が多かったが、すでに変貌しつつある自分を省察するのは愉快であった。

 「二元論」にもとづいて整理すると。
 一方に「身体」と「魂」がある。他方に「現実」と「夢」がある。また「自分」と「変貌しつつある自分」がある。「身体/現実/自分」が一方にあり、他方に「魂/夢/変貌しつつある自分」がある。それを、小林はことばの運動として統一しようとしている。
 そう理解した上で、私は、一瞬、えっ、と思う。
 唐突に挿入されている

(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )

 さて、ここに書かれている「そこ」って、どこ?
 「現実」、あるいは「夢」?
 文法的には、「夢の世界」が「そこ」になるだろうと思う。もし、「現実の世界」が「そこ」なら、

現実と(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )夢の世界の二重性を生きる時間

 という具合になるだろうから。
 でも、そうすると、何か変だねえ。「魂/夢(理想あるいは西洋芸術)」に「悪の怪しさが潜んでいて」、それが「遠い高みに導く」? 「善」が「遠い高みに導く」のじゃないの?

 まあ、「西洋」の哲学のなかには、バッカス思想もあるから、それを「悪の怪しさ」といってもいいのかもしれないけれど、それは「受胎告知」とうまくつながらないねえ。
 何か、変だねえ。

 あるいは、(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )ということば、その「そこ」は「現実」か「夢」かではなく、「現実と夢の世界の」という助詞を含んだことばのあとにあるのだから、「現実と夢」という「二元論」そのもの--つまり、「二元論」を支える運動ということなのかもしれない。
 そうであるなら、それは「一元論」になる。「悪の怪しさ」という「ひとつ」があるときは「現実」になり、あるときは「夢」という姿をとる。あるときは「身体」という姿をとり、あるときは「魂」という姿をとる。しかし、その「姿」は論理を語るための「便宜上のもの」であって、ほんとうに存在するのは「悪の怪しさ」の運動(エネルギー)だけである、という「一元論」になる。
 けれど、小林は、はっきりと「二重性」ということばをつかっている。それは「二重性を生きる」という、微妙な表現といっしょに動くのだけれど、「二重」ということばをともかくつかって整理している。
 何か、ことばが、うまく動いていかない。予想外のものに小林はぶつかっているように、私には思える。

 あるいは、これは「日本語」を生きているということと関係してくるかもしれない。

現実と夢の世界の(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )

 この文の中にある「助詞・の」の力。

現実と夢の世界(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )の
現実(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )と夢の世界の

 こういう文なら、(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )の「そこ」が「現実」をさすのか、「夢」をさすのかがはっきりする。
 けれど、日本語を使い慣れていると(日本語が身体にしみついていると)、

夢の世界(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )の
現実(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )と

 という文はつくりにくい。助詞は「名詞」のあとにすぐくっついてしまう。「名詞+助詞」が日本語のことばを動かしている。助詞の粘着力が文を支配している。日本語が身体に密着すればするほど、この「助詞」の粘着力は強くなる(と、私は感じている)。
 さて、ここから、どうやって「二元論」を論理的に組み立てるか。
 傍観者みたいな言い方になるが、実は、私はそのことに非常に興味がある。私はそういうことを試みたいとは思わないのだけれど、こんなふうに「二元論」を生きる小林にとって、「日本語(助詞)」の肉体はどう影響してくるのだろうか--そのことに、非常に興味がある。
 (私は小林のようにやはり「西洋」に触れていろいろ考えはじめたのだと思うけれど、「二元論」にはなじめない。プラトン、ソクラテスも私にとっては「一元論」である。この世界に存在するのは「身体」だけ。「ことば」も身体のひとつである。だから、ソクラテスは毒人参で死ななければならなかった。「身体」と「ことば」が別のものなら、「ことば」が毒人参をあおって死んでいけばいいのだが、そういうことができなかった。ソクラテスは毒人参によって、「身体」と「ことば」を統合し「一元論」を完成させた、と私は考えている。)

 あ、詩の感想からずいぶん逸脱してしまった。
 つづけようがないので、この感想は、ここまで。



 原葵「秋には、第十七号河岸で」には、トカゲと猫と「私」が登場する。「第十七号河岸」には運河を流れてきたものが住みついているらしい。許されないことをしたものが、流れ着いて暮らしているという感じ、まあ、人生の「吹き溜まり」のようなところ。小林の作品にでてきたことばを借りれば「悪の怪しさ」がうごめく町ということになるかもしれない。そこでは、互いに慰め合いながら、同時に他人(?)の罪を暴くというか、思い出させることで自分の気持ちを発散させている。
 だからといって、どうなるものではないのだが。
 その一瞬一瞬の「矛盾」のようなもの、一筋縄ではいかないあれやこれやがおもしろい。ちょっと、どこを引用していいか悩むのだが……。猫がトカゲのしっぽをかみ切る。その傷の手当てのために、トカゲの葵地をなめてやる。すると、

 すると、とかげが、嗄れ声、
 「どうだ、おれの血は、甘いか、苦いか」と私に囁く。「もし甘いなら、あんたの罪は軽くなってきたんだ。もし、苦いなら、あんたはまだ忘れることができないで、苦しんでいるってことだぜ」
 「ふん、生意気なことをいうんじゃないよ。私だって、この街に来て、もう百年以上苦しんできたんだ。もう許されてもいいころさ」
 そううそぶいて、なおもちゅうちゅうと、とかげの血をすする私。ああ、とかげの血の味は、甘いのか、苦しいのか--。頭がくらくらして、体じゅうが熱くなってくる。ああ、何もかも忘れてしまいたい。わすれることなんて、できるのか。まだ、ぼんやり覚えている。昔も、やはりこうやって男の血を舐めたことがあったっけ。

 忘れたいことは、覚えていたいことなのである。あるいは覚えていなければならないことなのである。この矛盾の「一元論」に苦しまないために(?)、私たちは、「「どうだ、おれの血は、甘いか、苦いか」と私に囁く。「もし甘いなら、あんたの罪は軽くなってきたんだ。もし、苦いなら、あんたはまだ忘れることができないで、苦しんでいるってことだぜ」/「ふん、生意気なことをいうんじゃないよ。」というような、口語を生きるのかもしれない。口語を動かしているのは、「頭の論理」ではなく、「身体の論理(身体のきしみ)」である、とふと、考えた。
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ミシェル・アザナヴィシウス監督「アーティスト」

2012-04-08 22:48:06 | 映画
監督 ミシェル・アザナヴィシウス 出演 ジャン・デュジャルダン、ベレニス・ベジョ、ジョン・グッドマン、アギー(犬)

 好きなシーンがいくつもある。そのうちの三つだけ書く。映画の展開順で言うと、まず、ジャン・デュジャルダンがトーキーの夢にうなされるシーン。ここはトーキーになっている。ただし、ひとの声はない。コップをテーブルに置く音からはじまる。サイレント映画とはいえ、現実生活では音があるのだから、夢のなかで音がでてきてもなんの不思議もないのだけれど、えっ、音があると気がつくというのがおもしろい--ではなく、まあ、それもおもしろいのだけれど、それよりも、あ、これはジャク・タチじゃないか、と私はうれしくなるのだ。ジャック・タチは映画の中に不思議なノイズを音楽として持ち込んだ。ファスナーをあける音、ボールペンをノックする音--ふつうは強調しない音をくっきりと浮かび上がらせ、ほら、こんなところに音楽があると教えてくれた。その感じ、そのリズムが、とてもうれしい。ジャック・タチはたしかにサイレント映画を進化させたひとりなのだ。天才監督のひとりなのだ。そういうことを、さらりもこの映画にもぐりこませている。うれしいねえ。
 二つ目は、ジャン・デュジャルダンが大事に大事に守り通したのが、映画のNGのラッシュだったこと。そこには、ジャン・デュジャルダンとベレニス・ベジョの「共演」が残っている。ダンスしながら笑いだしてしまって、何度も何度も取り直したシーンである。これは、「ニューシネマパラダイス」のラストの「キスシーンのラッシュ(検閲でカットされたシーンをミシェル・ピコリが大事に保存しつなぎあわせたもの)」と同じように、とても美しい。いのちが充実している。人間がいちばん輝いているシーンが、そこにある。「映画」なのだけれど「映画」を超えている。幸せが、生きている喜びが、そのままあふれている。いいなあ。このシーン--何度も何度も観てみたい。このシーンを見るためにだけでも、もう一度見ようかな、と思うくらいである。
 三つ目は、最後のダンスシーン。あ、あ、あ、そうなのだ。トーキー映画は、ミュージカルといっしょに成長したのだ。台詞がトーキーのいのちであるというのは事実だけれど、人間の「声」は「声」だけではない。(変な言い方だね。)人間の「肉体」、その動き(ダンス)もまた「声」であり、「音楽」なのだ。肉体が動き、音を出す(タップダンスの靴の音)からではなく、いや、それももちろんそうなのだけれど、それだけではなく音を出さない手の動き、服がつくりだす動き(肉体に遅れてまわるスカートのカーブを思い浮かべてもらいたい)もまた「音楽」そのものなのだ。--あ、これって、ほら、サイレントの時代からあったものだねえ。「肉体」には「音」があり、それは耳に聞こえなくても、体全体で聞くことができる。
 で、おまけに四つ目の好きなシーンをつけくわえてしまうのだけれど。
 衝立というか、布の仕切りの下から、ベレニス・ベジョが踊っている足が見える。そのダンスにあわせてジャン・デュジャルダンが踊って見せる。ステップを挑発する。このやりとり、タップダンスなのだけれど靴の音はない。それなのに、音が聞こえる。耳ではなく「肉体」の内部が反応して感じてしまう。タップの足音だけではなく、そういうダンスの挑発ごっこをするときの、二人の「こころの声」までもが聞こえてしまう。
 そうなんだねえ。「こころの声」には台詞はいらない。--あ、これは、この映画のテーマだねえ。最近は映像と音が忙しすぎて、「こころの声」を肉体そのもので感じさせる映画が少なくなっているから、これは、とてもとても新鮮な驚きだ。映画への愛がぎっしりつまった、とても楽しい楽しい作品だ。



ジャック・タチの世界 DVD-BOX
クリエーター情報なし
角川書店
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佐藤春子『ケヤキと並んで』

2012-04-07 11:56:06 | 詩集
佐藤春子『ケヤキと並んで』(あざみ書房、2012年04月10日発行)

 佐藤春子のことばは、伊藤恵理美のことばと比較すると、ことば自体の動きがゆったりしている。伊藤のことばには、「海を/連れてくる」(ほたて)、「おかえり の ことばを乗せて」(スリッパ)のように、動詞を「比喩」としてつかう動きがある。それがことばの速度となって響いてくる。そして、その比喩としての動詞が、一種の「知性」(知的)な感じで響いてくる。佐藤のことばには、そういう響きはない。これは、どちらがいいとか、どちらが優れているという問題ではなくて、生き方の問題である。佐藤は対象の内部にはいり、そこから対象を生きるというようなことばの動かし方をしないで、あくまでも外から対象を眺めている。外から対象に寄り添っている。その「外から」という距離感が、ことばをゆったりとした動きに感じさせるのだと思う。
 「カラス」という作品。

台所で
午後のお茶を飲んでいると
屋根の上で音がした

 トタ  トタ
  トタトタトタ
   トタ  トタ
       ト タ

カラスの歩く音だ
様子をさぐる足音だ

二階の窓を開けてみる
まだ 一羽のようだ
吊るしてある
柿を食べに来たのかも知れない

一番先に吊るした柿を
食べてみると
渋が抜けていた

 カラスが柿の変化に気がついた。そして、佐藤はカラスにそのことを教えられた。そういうことを、佐藤は「教えられた」ということばをつかわずに、ことばを動かす。あるいは、カラスは柿の渋が抜けたのを、人間とは違った能力で見抜くということを、「人間とは違った能力で見抜く」というような表現をつかわずに、ことばを動かす。
 人間化しない、「比喩」にしない。ただ、そこにカラスを存在させる。そして、そのカラスによりそう。そして、逆に(?)、カラスと人間の違いこそを強調する。カラスならではの存在の仕方をことばとして、そこに存在させる。

 トタ  トタ
  トタトタトタ
   トタ  トタ
       ト タ

 この足音。いいなあ。カラスの歩く動きが見える。「トタ」のくりかえし、そのリズムの乱れ(?)、乱れの中にあるいのち。
 人間とは違う。違うから、そこにカラスが生きているということが楽しい。

 でも、人間のことばというのは不思議なもので、どんな対象を描こうと、それが「人間」に見えてしまう。カラスが吊るし柿を食べにくるのは、こどもが吊るし柿を盗み取りにくるのと同じように感じられ、あ、かわいいもんだなあと思ったりする。
 佐藤は対象の内部にはいりこみ、内部から対象を生きるのではなく、外側から対象に人間を重ねるのかもしれない。
 「比喩」の動きが、伊藤が「内部」からなのに対し、佐藤は「外部」から、ということになる。
 でも、この「内部」「外部」というのは、「方便」であって、厳密な定義ではないんだけれどね。

 「杉山さんと藤川さんの関係」という詩は、このタイトルと詩の内容の重ね合わせ方が微妙である。ある家に杉の大木がある。そばに藤の木がある。

山の桜も終わり
田植も終わる
ウグイスの鳴く声が聞こえる
藤は
杉の木全体に花を咲かせる

道行く人は
杉の木に藤が咲いた
と 見にくる

藤はまるで
この杉の木に嫁いだように
今を盛りと
抱き合うように
花を咲かせている

 「藤はまるで/この杉の木に嫁いだように」--この行がこのままなら、それは藤という対象の内部から藤の動きを「比喩」にしたものといえる。佐藤は、しかし、それをそんなふうに比喩化しない。比喩として書いておきながら譬喩化しないというのは、変だけれど……。タイトルに戻って見ると、佐藤のことばの独自性が見えてくる。
 杉と藤の関係を、「杉山さんと藤川さんの関係」と言っている。人間の関係を並列させている。並べることで、両方を一緒に照らしだしている。
 佐藤のことばの運動に「外側」からという印象がついてまわるのは、この「並列」という感覚が働いているからだと思う。
 人間も、自然も、同じ。同じように「並んで」生きている。「並列」が佐藤の肉体であり、佐藤の思想なのだと思う。
 で、もう一度「カラス」にもどる。
 そうすると、ほら、カラスも人間と同じように甘くなった柿が食べたいという同じ欲望で人間と「並んでいる」。ともに生きている。その「並列」を、佐藤はいいものだなあ、と受け止めていることがわかる。もちろんカラスに食べられたら、憎たらしいカラスと思うんだけれど、そういう感情をもつことが「並列」、一緒に生きるということ、一緒にいきる楽しさだね。

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伊藤恵理美『願いの玉』

2012-04-06 10:07:09 | 詩集
伊藤恵理美『願いの玉』(あざみ書房、2012年04月10日発行)

 伊藤恵理美は南原充士のように「絶対言語」というようなことを言わない。だれもがふつうにつかっていることばを書いている。『願いの玉』には、だれもが体験すること、したことがとても自然なことばで書かれている。たとえば「スリッパ」。

玄関で帰りを待つ
スリッパ

すぐ 履けるように そろえて ある

スリッパは
二艘の 小舟

おかえり の 言葉を乗せて
静かに 玄関に 浮かんでいる

 さっと読んで、ああ、美しいなあ、と思う。「小舟」という比喩が美しい。最終連の2行が美しい。その美しさは、私たちがしばしばみかける「日常」をことばにしたものなので、なんというのだろう--新しい感じからは遠い。「現代詩」という印象からは遠い。こういう詩は、損をしている。損をしているという言い方は変だけれど--あまり注目されない。つまり、どうしてこの詩が美しいのか、この美しさを生み出している伊藤の思想はどこにあるのか、というようなことはあまり書かれないと思う。
 まあ、書きにくい--ということもあるのだが。
 いや、私のことだけを書いた方がいいのかもしれない。--この詩は美しい。そして、この詩集におさめられている詩は美しい。「ふるさとの水」は「母」を「水」ということばに置き換えたものだが、いいなあ、と思う。でも、その「いいなあ」や「美しい」をべつのことばで言いなおそうとするととたんに難しくなる。別にほかのことばで言いなおさなくてもいいのかもしれないけれど、伊藤の詩のことばが他の詩人のことばとどこがちがうのかを言い表わそうとすると、どう言っていいのかわからなくなる。
 ほかの詩人のことばとは違う。同じように日常を日常のことばで書いているほかの詩人たちとは違うものがある。それは何か。私が感じている何か--それを言い表わすことばが、すぐには思い浮かばない。--つまり、南原は「絶対言語」を目指して書いているというような感じでは言い表わすことはできない。(南原のことばが「絶対言語」かどうかは、判断留保。南原が「絶対言語」と書いているので、それを流用しただけ。)

 どうすれば伊藤の詩の魅力を、この「日記」を読んでいるひとに知ってもらえるだろうか。だれかといっしょに伊藤の詩の美しさを分かち合えるだろうか。私の喜びをいっしょに喜ぶことができるだろうか。
 不思議なじれったさ--伊藤のことばの美しさの核心に触れたいのに触れられないというようなじれったさを感じながら読み進んでいく。そして、「おみやげ」「ほたて」に出合う。「おみやげ」で、あ、この詩のなかに何か手がかりがありそう、と感じ、「ほたて」で、あ、これだ、と気がついた。
 その「ほたて」。

おかあさん ほたてを焼くと
潮のかおりがするね

とられた時
淋しくならないように
海を
連れてくるからだよ

 「連れてくる」。ここに、伊藤の「思想」がある。「肉体」がある。そう思った。
 「いま/ここ」にあるもの、たとえば「ほたて」はホタテ単独として存在しているのではない。何かがいっしょにある。「連れ」がある。「連れ」が常に寄り添っている。そこには存在と存在以外のものが結ぶ関係がある。それを伊藤は、やさしいことばですくい上げる。育て上げる。
 「おみやげ」を読んでみる。

葉っぱと葉っぱの間に
湧き水のような水を大切にしまって
キャベツは
やってきた

見せたかったんでしょ!
育ててもらった 澄んだ水も一緒に

 「連れ(連れてきた)」ということばは、ここにはない。けれど、同じ意味のことばがある。「大切にしまって」「やってきた」。「連れて」は「しまって」という形で書かれている。だれにでもわかる形ではなく、つまりだれかの手を引くようにではなく、自分のなかにつつみこむように、赤ん坊を大事にかかえこむように、しまって(隠して)やってくる。
 「連れてくる」ということは「隠して」、だれにも見つからないように大事にもってくるということなのだ。この「しまって」(隠して)ということろが、伊藤の美しさなのだ。肉体なのだ。他人にみせびらかすのではない。みたいひとがみてくれればいい。みてくれなくたっていい。みてくれなければ、それが消えてしまうものではない。だれがみてくれなくても、それは伊藤の肉体なのなかに(こころのなかに、とふつうは言うかもしれない)、しっかりと存在する。
 「スリッパ」に戻ってみる。

おかえり の 言葉を乗せて

 これは「おかえり の 言葉をしまって(隠して)」と同じである。そして、その「隠して」いるのは、実は、スリッパではなく、伊藤の肉体(こころ)である。伊藤の肉体が、「おかえり」のことばつれて(ことばといっしょに)、スリッパを美しくそろえたのだ。何かを、それひとつではなく、それに寄り添わせるとき、それは美しくなる。
 伊藤は、そういうことを、ことばだけではなく「肉体」で実践している。実践があって、それがことばになる。ことばの「思想」は伊藤の「肉体」のなかに隠されている。これ見よがしではない。だから、静かで、とても美しい。
 「影」という詩は、りんごの絵を描く詩である。「へたくそな絵でも/影をつけると ちょっと よく見える」という行ではじまり、そこには実際に小さなりんごの絵の変化が書かれている。まずりんごの輪郭があり、次にりんごそのものに影が描かれ、次に机(と仮定しておく)にりんごの影が描かれる。そうすると、立体的な、絵になる。りんごがよりりんごらしく見える。(ここでは再現できないので、詩集で読んでください。)そのあと、伊藤はつづけている。

ぶきような心でも
やさしい という影と
思いやり という影をつける
本当の 心 になる

 これは直接的なことばなので、説明しすぎという感じがするけれど--でも、これが伊藤のやっていることなのだ。「影をつける」は「影を連れてくる」(影を寄り添わせる)ということなのだ。

 最後に「ふるさとの水」。私のことばは不要だ。全行を引用しておく。

前略
おかあさんへ

今日は
水の声を聞きに来ました
こころが乾いてきたので

水の味を覚えに来ました
恋しくなって

水の香りを思い出しに来ました
こぼれあふれる中にいた頃のこと

水を感じに来ました
魚のように
のんびりゆったり揺れていた
まぁるい水の中

いつか いつか
私も水になります
誰かの中に 満ちていける
水に

そう 手紙を残してきましたが
本当のことを言うと
ひとつ 間違ったふりをしました
感じを

水 という字
母 と書きたかったのです

 
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南原充士『ゴシップ・フェンス』

2012-04-05 10:18:35 | 詩集
南原充士『ゴシップ・フェンス』(洪水企画、2012年04月01日発行)

 南原充士『ゴシップ・フェンス』の「帯」に「ゴシップ・フェンスに凭れて様々に語られた言葉やがて自立し絶対言語へと変容する」と書いてある。うーん。どういうこと? まあ、わからないのが詩なのだから、これはこれでいいのかもしれない。こういう「わからなさ」のなかで、何かをわかったと感じるのが詩を感じることなのだろう。
 で。
 この「帯」に書かれていることば(南原のことばではないのだろうけれど)から私がわかることといえば、--南原の詩が「絶対言語」を目指しているということ、その「絶対言語」というのは「変容」したもの、つまり最初の言語とは違ったものということ。あるいは、「自立」したものが「絶対言語」と呼ばれているらしいということである。
 ここで私はちょっと(かなり)疑問を感じてしまうのである。
 「やがて自立して」「変容する」。この表現のなかにある「運動」、そして運動の到達点としての「絶対言語」、その前提となる「絶対言語以前の言語」の関係のなかにある「矛盾」。
 「絶対言語以前の言語」が「自立して」「変容して」「絶対言語」になる。そのときの「言語」は表層的にはどんなふうに違う? たとえば文字の大きさが大きくなるとか、明朝がゴシックになるとか、黒い印刷が赤い印刷になるとか……。そういう区別はないよね。そうすると、同じことばが同じまま、その「内容(意味)」が変わるということ? で、そういうことって、ほんとうに「絶対言語」にしかありえないこと? これが、なんともわからない。
 「愛してる」ということばが「いやみ」になったり、感激して涙を誘うものになったりする。そのとき、どっちが「絶対言語」? 「愛してる」ということばは、その時その時の状況に縛りつけられていて、それで「意味(内容)」が左右される。つまり「自立していない」から「絶対言語」とは言えない?
 でも、状況と乖離した言語というのは、何? 言語は、どうしても「状況」を引き寄せてしまわない?

 ……どうでもいいことを書いたけれど、まあ、私はこの「帯」に書いてあるようなことが考えられない。
 「誤読」に「誤読」を積み重ねて、私がふと思ったことを書けば。
 そこに書かれてある「状況」とは無関係に、あることばが好きになる。かっこいいと思う。そのときのことばが「絶対言語」ということになるのかな?
 筆者(話者)が何を言おうとしたのかを無視して、そのことばを自分勝手に読者が受け止め、「かっこいい」「このことば盗んじゃえ」と思ったとき、それが「絶対言語」なのかな?
 そうだとすると、たとえば

ピエールは シャンパンのコルク栓をしずかに開けようとしていた
針金をはずして そろそろとコルクを押し上げる
一瞬ボトルが滑って傾き コルク栓は あやうくジャンの顔をかすめ
あふれ出た液がカトリーヌのドレスの胸のところにかかった
                    (「マスカレード」)

たかしというのが彼の戸籍上の名前である
二十歳で同棲したえりと一年で別れた
いやむしろ行方不明になった
どこにいたのかわからないまま
二年後にひょいと戻ってきた
だが そのとき えりは ゆりだった   (「多重人格論」)

 これは、「絶対言語」とはほど遠い感じがする。「物語」の「時間」を押し進めるために動いているにすぎない。簡単に言うと、退屈なことばである。そこには「状況」しかない。
 どのことばも、私は好きではない。かっこいいとは思わない。つかってみたいとは思わない。
 私がおもしろいと感じたのは、何か特別な仕掛けでことばが動く詩ではなく、逆に、どこへも動きようのないことばである。「うどんそばラーメンスパゲティ」という作品は小麦やソバを栽培している男が、小麦やソバが食べ物にかわることを想像することを書いている。その、食べ物にかわってからの部分。

冷しきつねうどんにかけた垂れの味
薬味のしょうが味
毎週きまって訪れるうどん屋には
常連の客がいる
うどんをすする顔は下向きになり
うどんはつるつると飲み込まれ

 あ、この部分はいいなあ、と思う。真似してみたい。こんなふうに具体的にことばを動かすことで、そこにまだ会ったこともない人間を、いつも見ている人間を見るよう書いてみたいなあと思う。書かれてみたいなあとも思う。「うどんをすする顔は下向きになり」というていねいな描写、書かなくていい描写の美しさ。この美しいていねいさがあるから「うどんはつるつると飲み込まれ」というありきたりのことばの連続が、リアリティそのものになる。

最後に一口二口 汁を吸うと
客の顔は合点してすこし上向きになり
勘定を払う手つきも軽くなる

 そうか「合点」というのは、こういうときにつかうのか。このつかい方は絶対に真似したい。知らん顔して盗み取りたい、と思う。(どこかで、私が「合点」ということばをつかっていたら、「谷内が盗んだ、盗作した」と非難してくださいね。非難されても、つかいたい。そんなふうに非難されることで、南原の詩のおもしろさが伝わっていくなら、とってもいいことだと思う。)

 でも。
 こう書きながら、あ、この私の感想というか、いいなあと思う部分と、南原がこの詩集で目指したものは違うんだろうなあという思いが入り乱れる。
 私は、この詩集の感想を書くのに向いていないなあ、と思う。

 「絶対言語」ではないけれど、それに類似したタイトルの「絶対芸術」という作品。

なにもない空間からしぶきが上がる
水か 血か 泥か

平面に精密な鳥瞰図が描かれ
それが次第にふくらみはじめる

だれもいないこの場所で
染み入ることをあきらめた油絵の具

ふっと息を吐き出すと こらえきれずに
ラッパが鳴り 秒針が動き始める

 うーん、南原が独りよがりで「絶対」とセックスしているようにしか思えない。「芸術」の全体、その「絵」が見えないので、その絵を超えて噴出する音楽(ラッパの音)が聞こえない。動きだす「時間」が見えない。
 ここから、いったい何がはじまり、何がかわっていく?
 うどんをすすって合点した客の描写の方が、客の幸福感が伝わるけれどなあ。


笑顔の法則
南原 充士
思潮社
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スティーブン・スピルバーグ監督「戦火の馬」(★★★)

2012-04-04 09:45:17 | 映画
監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 茶色の馬、黒い馬

 主役の茶色い馬(サラブレット)の目がとても美しい。その美しさは「聡明」ということと関係があるかもしれない。いま起きていることを理解する、いまいっしょにいるひとの考えていること、感じていることを理解する--その理解する能力が高い。
 まあ、映画なんだから、そう描いているだけなのかもしれないけれど。でも、あ、聡明でしっかりしていなあ、この聡明さが肉体のすみずみにまでいきとどいて、あの美しい姿になるのだ、と感じさせてくれる。
 この主役の馬と、ライバル(?)の黒い馬との友情が、またとてもいい。互いの能力(速く走れる)を認め合って親密になっていく。黒い馬の方は走ることしか知らない。そのともに向かって、「働く(働かされる)」ことを理解させる。「大丈夫だよ、こうするんだよ」と教え、常に見守っている。人間との関係よりも、この黒い馬との関係が、主役の馬の「いのち」を支えている。ライバルのために生きる。ライバルを支えて生きる。
 だから。
 そのライバルが倒れて死んでしまう。そのあと、主役の馬は「戦場」から脱走しようとする。ここで生きる必然性はない。助けるべき友はいない。自分の「いのち」を生きる。それからの主役の馬の動きがすばらしい。それこそ「戦火」のなかを走るのだが、生きたい、という意志が全身にみなぎり、筋肉のすべてを輝かせる。有刺鉄線にぶつかっても「痛い」ともいわない。痛みにひるまない。風を切るように走る。決して死なない--そういう輝きのなかで動いている。
 このシーンは、とても美しい。この戦場を、自由に--つまり、だれに命じられるからでもなくという意味だが、ひとりで走りつづけるシーンは、もう一度見にゆきたいくらいである。
 でも、戦場を走りつづける、草原のように走るということはやはりむりで、最後には有刺鉄線にがんじがらめになって倒れるのだが、その瞬間でさえ、いったん自由を知ったかぎりは死なないという非常に強い輝きのようなものがスクリーンからあふれてくる。自由だけが死なない--もし、映画にメッセージがあるとすれば、そういうことかもしれない。
 そのあとは、スピルバーグらしいひとと馬との関係にストーリーはまとまっていくのだが、このエピソードのなかにも主役の馬の聡明さがきらきらと輝いている。
 馬は最初の飼い主である少年と病院で出合う。馬も少年も傷ついている。少年は馬を助けたいと願う。そのとき馬は、やはり少年が傷ついていることを少年のいままでとはちがった態度で知るのだろう、とても優しい目で少年を見る。
 その瞬間。
 馬が、いま、ここを生き抜けば、少年もきっと生き続ける--いっしょに生きて行くことができる、そう信じている感じなのだ。そして、少年のために生きようと決意している感じなのだ。
 この馬の気持ちは、ライバルの黒い馬に対する愛情や別れの哀しみのようにはっきりとは見えにくい(明確に特徴化されてはいない)のだが、「私はここにいるよ」とじっと少年を見つめるその目の深い静かさが、とてもいい。おだやかなやすらぎがそこにある。それがとてもいい。



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宿久理花子「亡霊」

2012-04-03 12:05:19 | 詩集
宿久理花子「亡霊」(「現代詩手帖」2012年04月号)

 宿久理花子「亡霊」のことばに私は何度もつまずいた。

誰もかえらない部屋のエアコンの
風により揺れる洗濯物の

 書き出しの2行なのだが「風により揺れる」の「により」が、私のいまの感覚とあわない。「より」ということばを、宿久は日常的につかうのだろうか。
 「風のために揺れる」「風に揺れる」--私は、そのどちらかになる。
 こんなことは、まあ、どうでもいいことなのかもしれないけれど、私は気になる。そういうことを気にしながら読むと……。

誰もかえらない部屋のエアコンの
風により揺れる洗濯物の
比喩を亡霊のように としたら
きみは待ち人の押すインターホンを空耳して
扉を開けたら
誰もいないかえらない部屋にひとり
としたくなくてきみはわざわざ待ち人の面影の逐一を

 ことばの不自然さがとても気になる。「の」による接続の「揺れ」が気になる。「待ち人」ということばが気になる。「空耳して」ということばのつかい方が気になる。
 「比喩を亡霊のように としたら」「誰もいないかえらない部屋にひとり/としたくなくて」の「としたら」「としたくなくて」が気になる。
 「したら」「したくなくて」
 あ、そうなのか。
 宿久にとって詩とは、対象とことばの関係は、その対象をどうことばに「したい」か、ということなのだ。対象をどうことばに「する」か、なのだ。
 それはエアコンの風により揺れる洗濯物を「亡霊」という「比喩」に「する」か「しない」かによって、次のことばがかわってくるということでもある。洗濯物を洗濯物ということばのままにしておいたら、次の行の「空耳して」ということばは出てこない。「亡霊」というほんとうは存在しないようなものが登場したから、ほんとうは存在しないものを聞く「空耳」ということばが登場する。
 そしてここでも「空耳/して」なのである。「空耳」ということばはあるが、「空耳する」という動詞はない。(あるかもしれないか、私は知らない。つかわない。)
 この「空耳して」では、対象が「音」であるよりも、「きみ」の「意識」である。「きみ」の内部の問題である。そういうものも「する」「しない」「したい」「したくない」である。
 さらえにいえば、「したら」の「ら」に含まれる「仮定」である。
 宿久にとって「世界」とは、「いま/ここ」にあることがらではなくて、それをどう意識「する」か「しない」か、という「仮定」の先にある。
 「仮定」はあくまでことばで動いていく。
 この「仮定」を動かすための工夫として、宿久は「わざと」口語を避けるのである。それも、大きく、ではなく、「少し」避ける。
 「誰もかえらない部屋のエアコンの/風により揺れる洗濯物の/比喩を亡霊の」の「の」の繰り返し。繰り返すことで、先行することばをひきずりながら、「接続」を延長しながら、ずれて行っているのか、ずれることがまっすぐなのかわからないような感じで世界をひとつに「する」感覚。その感覚には、たしかに「により」ということばが似合っていると思う。

 「したら」「したくなくて」に、もどる。ことばで「仮定」して、ことばで「世界」をとらえなおす--その「ことばの世界」が宿久にとって詩である。それは詩のつづきを読むとはっきりする。

誰もかえらない部屋のエアコンの
風により揺れる洗濯物の
比喩を亡霊のように としたら
きみは待ち人の押すインターホンを空耳して
扉を開けたら
誰もいないかえらない部屋にひとり
としたくなくてきみはわざわざ待ち人の面影の逐一を
思いつかなしい目をしかなしいと書きポストへ投函
R指定をひとりで観てるみたいと書いた
濡れそぼったひまわりをみたいと書いた
ひとりで

 「……と書いた」。繰り返される「書いた」。書くことが、宿久にとって「ことばの仕事」なのだ。「ことばを存在させること」なのだ。書かなければ、ことばはことばではない。
 「書く」ことが「ことば」を存在させることだからこそ、そのことばは「口語」を避ける形で動く。
 「風により」についてはもう書いたが、この1連目の後半に出てくる「思いつ」の「つ」--これは、「書く」ことによってのみ動くことばである。少なくとも私には「話す」「聞く」ということばではない。
 私は最初「思いつかなしい」を「思い/なつかしい」と読んでしまった。「思いつ」が「思い/つつ」だとは気がつかなかった。それくらい、私にとっては、「遠い」ことばである。その「遠い」ことばを通りながら、宿久はことばを動かしている。「仮定」し、仮定することで「意識」の動きこそが詩なのだと主張しているように思える。

 そして、この宿久のことばには、また別の要素も混じり合っている。1連目は最終行の「ひとりで」が象徴的だが、そこには「ひとり」しかひとが登場しない。「待ち人」は「亡霊」のように意識の運動でしかない。
 けれど、他人は他人。自分ではどうしようもない「もの」がある。他人のことばは他人が動かしている。そこに、宿久と違う部分がある。ことばを追うと、他人を発見してしまう。それが2連目で、不思議ななまなましさで書かれている。

待ち人の服はみんなぼろで
きみは洗剤を二杯も三杯もいれるから
なんでお金がないかってったらそういうことよ
前会ったときお洗濯が愉快というかそんなんじゃなくて怨念である気がすると
ふやけた指の腹を一生懸命のばしてたきみの
幼年期は洗濯機のことをせんたっきと言っていた

 「幼年期は洗濯機のことをせんたっきと言っていた」という行の「言っていた」というこだわり。(私はいまでも「せんたっき」という人間である。ワープロは「せんたくき」しか受け付けてくれないし、書くときは自然に「せんたくき」と入力するが、口語では「せんたっき」である。)そこから「時間」が見えてくる。
 「仮定」がまだそこに存在しない「時間」をことばで動かすことだが、どういうことばを聞いたか、どういうことばをとおして他人を認識したかは「過去」に属することがらである。「過去」をひきつれて、他人が「いま/ここ」にあらわれ、そうし「時間」を動かしていく。「仮定」ではなく、「過去」が「いま」を動かしていく。
 この「過去」と「仮定」のせめぎ合いが、とてもおもしろい。生々しい。特に、次の部分。

母親は
どの服の所有者も言いあてた
たんすに色あせた桃色のブラジャーがしまってあった
のをひとりになって気がつきドラマチックの気分の
きみの握りしめる手紙の切手代が足りないから
送り返されてくると思い込みたいのでしょう わかります

 「きみ」というのは、ほんとうは「きみ」ではなく、「意識化されたわたし」、つまり宿久と思って私は読んでいるのだが、「きみ」をそうやって「過去」をもった人間として「仮定」へ動かしていく部分が、とても生々しい。言い換えると、そこに「肉体」を感じる。とても惹きつけられる。「意識」なんてとても面倒くさくて、意識の手触りは「により」とか「思いつ」とか「の」のずるずるとした接続という、なじみにくいことばのなかにしかないが、この部分では「意識」であることを忘れてしまうなあ。
 「色あせた桃色のブラジャー」に、スケベな私が反応しているだけなのかもしれないけれど。まあ、そういう具体的な「もの」がことばになる、そういうものもことばに「する」というのはいいなあ。もっとそういうものをことばにしてほしいなあ、とも思う。
 あ、脱線したかなあ。
 で、この部分、「幼年期は洗濯機のことをせんたっきと言っていた」に驚いたのと同じくらいに、

きみの握りしめる手紙の切手代が足りないから
送り返されてくると思い込みたいのでしょう わかります

 に私は飛び上がってしまった。「郵便会社」になってからはどうか知らないが、私の若い時代(大学生以前)のころ、郵便は切手代が足りないと「料金不足」の印をおされて戻ってきたが、その後、そんなことは労力の無駄であるというので若干の料金不足は「料金不足」という印をおしたまま相手へ届けられるということに変わったと思う。私は何度か「料金不足」という手紙を受け取ったことがある。(足りない料金は払いにいかなかったか、問題はなかった。)
 いまはまた「決まり」がかわって料金不足は戻ってくるのかなあ。
 このひと、いったい何歳?
 どんな「過去」を生きている?
 「仮定」で動かしていく「時間」と、その前提になる「過去の時間」の関係--そこにある「肉体」がふいにわからなくなる。
 不思議。不思議。不思議。



現代詩手帖 2012年 04月号 [雑誌]
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金子鉄夫「虹色バブバブぅ」

2012-04-02 10:42:41 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「虹色バブバブぅ」(「現代詩手帖」2012年04月号)

 詩はことばである。--というのとき、私にとって、詩とは「音」である。「音楽」である。「意味」ではなく、そこにある「音」の印象が気持ちがいいと、「あ、詩だ」と感じる。感じたあと、まあ、適当な解説(?)をでっちあげて、「この詩がいい」と知ったかぶって書く。感想は、あるいは批評は遅れてやってくる。
 で、書いていることが矛盾しているのはわかっているのだが……。
 この「音」にとって重要なのは、実は「音」ではない。「音」よりもイメージの飛躍、その飛躍のスピード(距離感)が大切である。

 抽象的に書いてもしようがないので、金子鉄夫「虹色バブバブぅ」について書くと、ここに書かれている「音楽」は私には「快感」につながらない。

はろーって、はろー
あたまからビラビラにひろがっちゃったからって
否否、泣いているばぁいじゃないよ
ワタシは虹色のバブバブぅ
続いてゆく続いてゆく贅肉のアバンチュール
誰がわるいってわけじゃない(知ってるわ、くそっ
だから、あえてというべきか
しゃべくりまくる、そのうえの陽のみちで
反脳的にろりんろりんしてうたっちゃうわ、ワタシ

 私が唯一快感を覚えるのは「反脳的にろりんろりん」だけである。このことばとならセックスできる。つまり、あちこちさわりまくって、そこから何が出てくるか肉体で受け止めてみたいと欲望してしまう。
 「ろりんろりん」のなかに「りろん」が隠れていて、それが「反脳」と定義されるとき、そこにいままでなかった「距離(飛躍)」が生まれる。論理と脳を否定して、ただ音が動く。その先にあるのは何なのか、見当がつかない。つまり、エクスタシーがそこにある--だから、追いかけてみたいという欲望に誘われる。
 でも、ほかの部分が、どうも私をそそのかしてくれない。
 「ひろがっちゃったからって」「ばぁいじゃないよ」という口語と「あえてというべきか」という文語(で、いいかな?)の交錯がつくりだす音楽が、「反脳的にろりんろりん」という音楽と、金子のなかでは密接な関係にあるのかもしれないけれど、私の肉体にはそれがなじまない。
 口語はおしゃべりだから「早口」に見えても、とても遅い。「文語」は一種の書きことばだから、手作業がともない、その分遅くなる--ように見えるけれど、実は逆。旧かなで書かれた文章(文語)を読むとわかりやすいが、活用がすっきりしていて(つまりとても経済的に整理されていて)、とても早く読める。
 目は耳よりも情報処理能力が高い。まあ、自分勝手なスピードでことばを読むことができるということだろう。耳は、聞こえてくる音を順番に拾い上げないと、ことばをつかみとったことにならないからね。
 で、「口語」を活字(文字)をとおして読むと、なんだかモタモタしてしまう。ことばのなかにある(あるかもしれない)飛躍が肉体にふれてこない。

あたまからビラビラにひろがっちゃったからって

 ここでの「ひろがり」はいったいどれくらいの広がりなのか--それが肉体に迫ってこない。「広がり」というよりも、「ほつれ(ほころび)」くらいにしか感じられない。「ひろがり」などといわなくてもいいものをわざと「ひろがり」ということばで拡げて見せたような感じがする。「ちゃったからって」というモタモタことばが、あるべき広がりを見えなくさせてしまう。
 次の行の「否否」は何と読ませるのだろうか。「いな、いな」か。私は知ったかぶりをして「ノン、ノン」とフランス語のルビをつけて読んでみたのだが(「ン」ということばをいれると、音が弾むから--というだけで、そうしたのだけれど)、そうでもしないと、音につまずいてしまう。「いないな、ないている」なんて「いなないている」になってしまえばそれはそれでおもしろいのだけれど「否否、泣いている」では「誤読」のしようがない。
 (きのう、私は江夏名枝の「あまいつみ」を「あまいみつ」と読み間違え、書き間違えたのだけれど、そういう「誤読」も起きようがない。)
 何か欠けている--と思ってしまう。

 でも、これは「欠けている」ではなく、何かが過剰なのだ。その「過剰」が、金子のこの作品のことばを重くしている。スピードを押し殺している。
 それは何かなあ……。

しゃべくりまくる、そのうえの陽のみちで

 「そのうえ」の「その」が何を指しているのか、私にはわからない。わからないけれど(わからないからこそ?)、この「その」が金子のことばをモタモタさせている原因だと思う。
 「その」は指示代名詞(だよね)。それに先行することばがある。そのことばを「その」は代弁している。そのときの、論理の粘着力--これが、きっと金子のことばを重くしている。
 金子は「バブバブぅ」という鈴木志郎康がつかった「プアプア」のようなことばをつかっているが、論理の粘着力が顔をのぞかせてしまうので、ことばからことばへの飛躍が小さくなってしまうのだ。遠いもの、相いれないものの結合が難しくなるのだ。「バブバブぅ」という発明した(?)音が、ことばを切断する力として働かないのだと思う。

 逆のことをやってみると音がかわるのかもしれない。広田修は論理的・散文的・哲学的なことばを粘着力で強引に凝縮していた。そして、それがほんとうに凝縮したとき、その凝縮はビッグバンのように爆発し、一瞬のうちに拡大・拡散するという世界の運動(ことばの運動)を押し進めていた。金子は、ほんとうは、広田のようにきても「論理的」なのかもしれない。論理的に、金子の肉体がもっている粘着力をていねいに動かしていった方が、ことばと音がかわるのかもしれない--そんなことを思った。
 「反脳的ろりんろりん」ということばのなかには、「論理」の粘着力が凝縮することで逆に爆発してしまうおもしろさがあると思う。「反・脳」ということばは、そういうことばがほんとうにあるのかどうかわからないけれど、とてもおもしろい。おもしろいと感じるのは、「反・脳」ということばの「意味」を「論理的」に、つまり「脳」を頼りに考えてしまうという運動が肉体のなかにおきるからだ。そして、その「脳に頼った論理」が「ろりんろりん」という音で壊され、ナンセンスに変わるからだ。
 ナンセンスこそが論理的、論理的であることこそがナンセンス--という運動が、金子のことばのなかから生まれてくるとおもしろいのでは、と私は勝手に期待してしまう。
 まあ、私が思っていることは、金子がやりたいこととは違うかもしれないけれど。きっと違うのだろうけれど。


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江夏名枝「あわいつみ」、大江麻衣「大入道の首」

2012-04-01 09:31:07 | 詩(雑誌・同人誌)
江夏名枝「あわいつみ」、大江麻衣「大入道の首」(「現代詩手帖」2012年04月号)

 江夏名枝「あわいつみ」。江夏のことばは不思議な「正確さ」を持っている。どこかしら歪んでいる(曲がっている?)のだが、その彎曲の仕方がまっすぐに見える。奇妙な言い方しかできないが、巨大な円の円周、という感じ。巨大な円周を、目の前だけを見て歩いているとき、きっと「直線」しか見えない。「直線」なのに歩き終わると出発点に戻っているという印象。歩きとおして、私は「直線」を歩いたのか、あるいは「曲線」をあるいたのか、わからなくなる。

 小鳥たちは細い夜をくわえてまた戻ってくる
 昨夜、それはいつでもない夜のことであるから、かなたから詠まれ
圧搾された月は夜を詠む

 「戻ってくる」のなかにある円環。あるいは「かなたから詠まれ圧搾された月は夜を詠む」のなかにある「詠む」から「読む」への円環。「直線」なのに「閉じる」。これは、巨大な円を想定しないことには成立しない世界である。
 そして、そう気がついたとき。
 あ、歩いたのは「線」の上ではなく(ことばの上ではなく)、何かのまわりだったのだということに気がつく。
 「直線(曲線)」が取り囲んでいる対象。
 それに触れたのだと気がつく。
 そのとき、「直線」と「曲線」は、ある何かとの「距離」として「同じもの」になる。「直線」であるか、「曲線」であるかは問題ではなく、「距離」が問題になる。「ことば」と「対象」の「距離」。
 この「距離」が、江夏の場合、とても「正確」である。

 では、その「正確」とは何か。
 この定義は難しいなあ。矛盾しているかもしれないが、そのとき「距離」は「距離」ではないのである。

 袂を傍らに感じているに、また遠くにある。

 「傍ら」と「遠く」が同居する。「矛盾」が同居する。このとき「正確」が強くなる。世界はきっと「矛盾」から成り立っている。その「矛盾」を、静かに「円環」のなかに閉じ込める、囲い込む、あるいは「円環」のなかで育てるということかもしれないが、ことばが「矛盾」したものに同時にふれるとき、「正確」が生まれる。
 別な言い方をしたほうがいいのかもしれない。
 「円周(巨大な彎曲する直線)」の輪郭と、その「円周」に囲まれたものが、巨大であると同時に「一点」に凝縮するのである。「中心」から「円周」までの「距離」は、あると同時にない。「遠心」と「求心」が、「遠心」「求心」という運動のなかで「ひとつ」になる。

 江夏のことばは「運動」なのだ。「運動」のリズムに乱れがないから、その描き出したものが「正確」になる--というふうにとらえなおした方がいいのかもしれない。

 ことばを読むとき、私たちはついつい「内容(意味)」に引っ張られるけれど、そこにあるのはほんとうは「運動」であり、「内容」は「運動」のなかに溶け込んでいる。
 「内容(意味)」が正確なのではなく、「運動」のリズム、あるいは力(エネルギー)が一定であることが「正確」を生み出すのだ。

 あなたの眼のなかに、ちぎれた蝶がまっている、求心力のある傷、
原色に発光し、あなたのなかに降る、いつでもない夜へ、不慮の身を
屈めて琥珀の屑へ、わたしたちは脊椎を残す

 おびただしく打たれた読点「、」はことばを切断しているのか、あるいは新しい接続のための呼吸をととのえているのか。どちらとも受け取ることができる。それは切断しながら接続するという点では、やはり「遠心・求心」の凝縮したものである。
 「遠心・求心」という矛盾した運動をことばの内部に抱えて動くので、江夏のことばは直線を目指しても、どうしても巨大な曲線(巨大な円)になってしまうということなのだろう。



 大江麻衣「大入道の首」の「ことばの肉体」は、私には荒川洋治の「肉体」に似ているように感じられる。

昔は諏訪が中心で、市役所あたりに色があった
今は歩いているうちに景色が消えていく道である
JR付近は色が無い
ひとつの町が、少しずつかたまりになって、離れて消えていった

 江夏のことばが、何かしら「前へ」進むのに対して(直線を描きながら円周へ進むのに対して)、大江のことばは、「いま/ここ」で、「時間(過去)」へ沈み込む。沈み込みながら、「いま」を浮かび上がらせる。
 たとえば、「いま/ここ」が「池」のようなものだとする。そこにことばという「重い石」を落とす。そうすると「石」は沈む。そして、その沈む運動のなかで、石をのみこんだ水が、その石の「体積(あるいは重さかもしれない)」の分だけ、水を浮かび上がらせる。まわりに押し広げるようにして、石のあった場所を埋めようとしてのぼってくる--そいうう感じがする。
 そして、そのときの浮かび上がらせる「石のかわりの水」に相当することばが、たとえば「色」とか「うちに」とか「景色」とか--なんとなく荒川っぽい。まあ、これは私の単なる印象だけれど。
 でも、リズムと、静かな「暮らし」のにおい、その呼吸が、まあ、私は好きだなあ。

「四日市々」
と書いている若い人をもう見ない
「四日市々」と書いた時代
四日市とおなじなのだから、市は々…
と大手を振って歩いていた
津なんて遠いと、偉そうに

やがて、市の価値を感じましょうと
「四日市市」(負けた…)
ありがたみを感じる時期になっている
図書館までの道を舐めるように歩きなさいと市が強要する
それまで、四日市、のあとに繋がる単語は
市ではなく
ぜんそく だった

 好きなんだけれど。
 「「四日市々」/と書いている若い人をもう見ない」って、大江はほんとうに「四日市々」と書いている若い人を見たことがあるの?
 荒川洋治の年代(私もそれに近い)は、なんとか「四日市々」という表記の方法があるのを見てきた年代だと思う。しかし、それはそういう表記があるというのを見てきただけで、実際に「若い人」が書いているのを私は見たことがない。(私より30歳以上上のひとが、ときどき書いているのを見たことがある。)
 「時間」へ沈み込むのはとても重要なことだと思うけれど、その「時間」が大江自身の「肉体」を越えるのは、どうかな? 大江自身の時間以前の「歴史」にまでもぐりこんでしまうのはどうかな?
 おもしろいのだけれど、疑問も感じる。



海は近い
江夏 名枝
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